2009年11月01日 (日) | Edit |
民意とマニフェストがこの世で一番大事な契約だとご認識の首相がいらっしゃるようですが、日本の民法でいえば契約内容に瑕疵とか悪意があればその契約は無効となるか又は取り消されうるわけで、理系の政治家が増えるのも考えものだなあと。

つまりは契約したらそれで終わりということではなく、契約したあともその内容について発言していくことがさらに重要だろうと思うわけで、ハーシュマン『離脱・発言・忠誠』を読んでみました。
離脱・発言・忠誠―企業・組織・国家における衰退への反応 (MINERVA人文・社会科学叢書)離脱・発言・忠誠―企業・組織・国家における衰退への反応 (MINERVA人文・社会科学叢書)
(2005/05)
A.O. ハーシュマン

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この本の白眉は、実は巻末の訳者補説でのハーシュマン半生記を通じて20世紀経済学史を概観できることにあると思うんですが、ハーシュマン自身のコンパクトな叙述の行間からも彼の問題意識を垣間見ることができます。

 通常、個々の経済主体、したがってまたその経済全体は、可能だと思われているほどうまく機能しない。こうしたことに気づいた人がこの衝撃的発見に対し起こすと思われる反応は、大きく二つに分かれる。すぐさま生じる、もっともはっきりした反応は、スラックを吸い上げ、緊張経済という理想状態を取り戻すための方法・手段を何としても探し出そうとするものである。競争圧力が足りないと思われる場合は、逆境の圧力にさらすことが選ばれるだろう
(略)
そして最後に、社会革命を唱える人たちが、この種の思想系譜に貢献してきたことを挙げておこう。満ち溢れていながら今は休眠し、あるいは抑圧され、阻害されている人々のエネルギーを呼び起こし解放するのは、革命的変革だけであるというのが、彼らのもっとも魅惑的な議論の一つであった。

ハーシュマン『同』pp.12-13
※ 以下、下線太字強調は引用者による。注記は省略しました。


現在の日本において、左右問わず「政府のムダをなくせ」、「企業は内部留保を取り崩せ」という主張がもっとも受け入れられやすいのは、こういったスラックに対する拒否反応の現れなのですね。この点において、市場原理主義と左派思想はお互いがお互いを批判しながらも分かちがたくメンタリティを共有し、1990年代以降のカイカク病を蔓延させているものと思われます。

このスラックに対するもう一つの反応として一定レベルのスラックに合理性があるとする主張を挙げつつ、ハーシュマンはスラックそのものの重要性を「衰退の過程そのものが一定の拮抗力を活性化する可能性(p.14)」にあるとして、離脱(exit)・発言(voice)・忠誠(loyalty)が果たす役割を論じていきます。

まずは、市場などを通じた競争が必ずしも「改良」につながらない理由として、

 これまでの議論は、競合するさまざまな企業が生み出す製品に満足のいかない特徴があれば、それらは、いろいろな圧力を通じ、またそれを契機に解決策が模索されることによって、取り除けるということを前提としてきた。だが、この前提に立たなくても、競争を通じた解決策は、やはり、単一の企業が唯一の生産者であるような状況における解決策よりも劣るであろう。というのも、この場合、数多くの企業が存在していることが、「隣の芝生はいつも青い」という永遠に続く錯覚、つまり、競争相手の製品を買えば欠陥製品から逃れられるという錯覚を抱かせてしまうからである。独占の場合には、消費者は逃れようのない欠陥と共存する術を学ぶであろうし、ありもしない「改良」製品を闇雲に追い求めるのとは別のところに幸せを探し求めるだろう。

ハーシュマン『同』p.28


という点が指摘されます。つまり、通常の経済学が想定する価格が上昇した場合ではなく、価格がそのままで品質が下がった場合を想定すると、価格限界的な消費者(需要曲線の均衡に近い)ではなく消費者余剰が高い消費者(需要曲線の切片に近い)から離脱することになります。この理由についてハーシュマンは、消費者余剰が高い消費者は通常その製品の品質に厳しく、他の製品の乗り換えることが比較的容易だからと説明します。となると、離脱オプションが行使されたとしても品質を厳しく評価する消費者がいなくなるため、競争によってその製品が改良されるのではなく、むしろ他の製品に乗り換えることができない価格限界的な消費者によって、品質が下がったまま需要が維持されることになるわけです。

ハーシュマンはこのような考え方を自らが開発に関わったナイジェリアの国有鉄道の衰退から着想したそうですが、ほかに代替する財がないからこそ声を上げて改良する可能性が高まるというのは、離脱を通じた需給市場の機能を信奉する新自由主義に対するアンチテーゼとなっているともいえます。

さらにハーシュマンは、ホテリング-ダウンズの二大政党制モデルの結論とは違って、現実の政党が必ずしも得票極大化行動をとらない理由について、

 今述べた状況が現実に近いとすれば、そこからは、政治運動がより過激になっていく理由が明らかになる。政治運動が掲げる当面の政策は、特に政権についていない場合には、現在の活動的な党員によって影響される傾向が強い。そんなことをすればすべての党員・有権者の支持を失いかねないという懸念は考慮されにくい。したがって、はまっていて身動きがとれないが、だからこそ活動的な党員の反発を買う中道路線への移行は、過激な路線への移行よりも強い抵抗を受けることになるだろう。

ハーシュマン『同』p.80


とします。この「はまっていて身動きがとれないが、だからこそ活動的な党員」は、自分がいくら声を上げてもその支持する政党がほかの党員の支持を失わないよう中道路線をとるのであれば、活動的であるが故に党を割って新党を結成することになります。古くは小沢氏一派、最近では渡辺喜美氏とかの行動が当てはまりますね。彼らのような「カイカク病罹患者」は決して中道的な政策を支持することがないでしょうから、小沢一派のように、これからも所属政党が中道路線を取り始めたりすれば再び党を割る可能性が高いのかもしれません。

こうして党を割ってでもカイカクしたい方々は、しかし、

 よく知られ、また歴史的検証にもよく耐えてきた格言、すなわち「サターン(Saturn)のように、革命はそれ自身の成果をも食い尽くす」というものを取り上げてみよう。なぜこのようなことがいわれるのか、今では容易に理解できる。「革命を起こす」にあたり、革命家たちは、個人として多大な犠牲を払っている。自ら危険を負担し、自己犠牲的行為をもろともせず、一心不乱に革命に関わるからである。ところが、革命が実際に成就すると、期待された事態と現実のとの間にギャップが生じる可能性が非常に高い。新たな現実を引き起こすのに大きな犠牲を払った人は、このギャップを埋めるため、その現実を何とかもう一度変えようとする。この過程で彼らは、今や権力の座に着いた同士たちに闘いを挑む。こうして革命後も続く闘争のなか、数多くの革命家たちは、このどちらの側についていようと、失墜する。

ハーシュマン『同』p.102
※ 太字強調は原文による。


という事態に陥りがちでもあります。訳注によれば、このサターンとはギリシアのクロノスと同一視される神で、父から支配権を奪ったクロノスは、自分の子によって支配権を奪われるであろうと予言されたため、自らの子供を次々と呑み込んだという神話からの格言とのこと。現政権のように、政権交代してみたら自らの主張と違う事態に直面した場合であっても、主張ではなく現実を変えようとするのがカイカク病の症状なのでしょう。

というように、現在進行形の「契約」問題を考える上で、本書は一読も何読もされる価値はあると思います。

ちょっと話は逸れますが、訳者補説から一点だけ興味深いエピソードを引用しておくと、

 フリードマンの「実践」に関しては、宇沢弘文がいくつかのエピソードを紹介している。
 シカゴ大学にいた宇沢は、一九六五年六月のある日、いつもどおり教授たちと昼食をとろうとしていた。そこにフリードマンが現われ、遅れて食事の席について興奮しながらまくしたてたという。
(略)
フリードマンは、資本主義においては儲かるときに儲けるのがジェントルマンなのだと怒り心頭の様子だったという。シカゴ学派の重鎮であるフランク・ナイトは、この話を聞き、独占のすばらしさを歌い上げる冊子を書いたジョージ・スティグラーともども破門にした。フリードマンとスティグラーの二人については、今後自分のところで博士論文を書いたと公言することを禁ずると。シカゴ学派の創始者ナイトが自由主義をA・マーシャルの道徳哲学によって裏づけようとしていた流れを、フリードマン、スティグラーとも継承しなかったのである。

矢野「「可能性追求」と「越境」の日々」『同』p.176


という部分は、ちょうど権丈先生がアップされたばかりの「太田総理」観戦録と併せて読むと、いろいろと考えさせられるものがあります。

要するに、フリードマンは、制度を知らないままに、主にイデオロギーというか好き嫌いの感情論を展開しているだけなんだけど、そういう論の展開の仕方は決まっていて、コラムにも書いてあるように、

それはひとえに官不信という思想性の問題である。同書では「専門家の先生方や政府の管理が当たり前の環境で仕事をしていて政府事業の拡大に抵抗がない」「年金業務があまりに専門的で、運営も専門家にほぼ一任されているため、政府がきちんと監督するのはまずもって不可能。かくて社会保障制度に取り込まれる人びとは増える一方」などの記述が目立つ。


というように、制度本体の評価、政策評価とは関係のない批判をひたすら展開する

勿凝学問260 フリードマン的批判とは?――制度への理解に自信のない者とエセ研究者がよく使うお手軽な手段(2009年10月31日 注:pdfファイルです)」(権丈善一webサイト「仕事のページ」


新自由主義を批判して政権交代を果たした陣営が、前政権よりもはるかに新自由主義であるという現状もまた、「革命はそれ自身の成果をも食い尽く」しているということなのでしょうね。


ついでに、タイトルはエハラマサヒロとの確執でおなじみのニート芸人ガリガリガリクソンのネタをお借りしました。為念。
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