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2009年10月10日 (土) | Edit |
政権交代後の混乱ぶりをおもしろく見るために、政権交代の流れに乗って各賞を受賞した飯尾先生の『日本の統治機構』を読んでみました。
日本の統治構造―官僚内閣制から議院内閣制へ (中公新書)日本の統治構造―官僚内閣制から議院内閣制へ (中公新書)
(2007/07)
飯尾 潤

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いやまあ、精神衛生上政治学者のいうことは話半分で聞くことにしているわけですが、「はじめに」に出てきたこの一節で興味が一気に失せてしまいましたな・・・

 本書は、日本における議院内閣制の分析を通し、国会、内閣、首相、政治家、官僚制、政党、選挙制度、制作過程などについて、歴史という縦軸、国際比較という横軸から照射し、日本という国の統治機構の過去・現在を、構造的に解き明かす試みである。
 その際、あるべき政策については、とりあえず脇に置く。そのうえで、望ましい政策を実現するためには、どのような政府構造を採るべきかを考える。いわば、政府の能力を問題にするのである。そして、現代日本政治の実態に即して、その統治機構を解説したうえで、政治の有効性を向上させる方策を提示する。
飯尾『同』p.ii
※ 以下、強調は引用者による。


えええ!? 「あるべき政策」をとりあえず脇に置いておきながら「望ましい政策」なんてものが議論できるんでしょうか? 相変わらず政治学ってのは何をやりたいのかよく分からないガクモンですな。

ただまあ、飯尾本で指摘されている「第1章 官僚内閣制」、「第2章 省庁代表制」、「第3章 政府・与党二元体制」というのは、政治学とか行政学の分野ではこれまでにも研究の蓄積があるものですので、特に目新しいものではないだけに本書の分析もおおむね的確なものだと思います。ところが、その次に出てくる「第4章 政権交代なき政党政治」辺りから話の行方が怪しくなります。

たとえば、

 そこで、議院内閣制では、ある程度安定した議会内多数派が存在することが重要になる。しかも、有権者の選択を重視すれば、多数派が選挙によってつくり出されることが好ましい。選挙によって生まれた多数派が内閣を支えるならば、その内閣あるいは首相は有権者によって選ばれたという民主的正当性を備えるからである。その安定した多数派をつくり出すために、政党が必要なのである。
 しかし、どのように政党が相互に関係しているかを示す政党制(政党システム)からみると、望ましい政党制は、議院内閣制を選択さえすれば実現するというものではない。歴史的に見れば、多くの国で議院内閣制に相応しい政党制は実現しなかったからである。
飯尾『同』p.109


という国際的にみられる事実があるのであれば、政党に過度の期待を持つことは禁物だろうと思うわけですが、

 多くの政治家は「御用聞き政治家」になり、大きな方向性を打ち出すといったことに関心を持たない。有権者からの生の要望を、生のまま「政府」に伝え、自らの影響力を駆使し、それを実現するのが主要な仕事になるのである。
 たしかにこれも、一つの「利益媒介」の姿であるが、民意の集約が抜け落ちる。すなわち、さまざまな利益を統合し、その利害得失を精査し、全体として統一性のある政策を打ち出す機能である
 個別の要求と政策の間には距離がある。税金が安いのに、いろいろなサービスを提供しくれる政府は理想だが、現実的ではない。すべての要求を受け入れることはできないため、要求を制限しながら、受け入れた要求を一般的なものに変換する必要がある。そして政党こそが、こうした機能を果たさなければならないのである。
飯尾『同』p.136


などと、「民意の集約」とか「利害得失を精査」するとかという作業を一緒くたに論じてしまっています。そりゃ、政党が掲げる公約が有権者の投票行動の基礎になることは概念上そのとおりではありますが、だからといって「全体として統一性のある政策」なんてものを有権者一人一人が判断できるという想定は現実的ではありませんね。有権者といったところで、普段は自分の仕事や家庭で手一杯の方々が何年かに一回週末にでも公約とかを見て判断される方が圧倒的大多数なわけで、「多くの政治家が「御用聞き政治家」になる」というのはその当然の帰結でもあります。そしてそれは、確かに日本の特殊的事情もあるとはいえ、「多くの国で議院内閣制に相応しい政党制は実現しなかった」という他国でも普遍的にみられる事実なわけですよね。

結局のところ、ご自分の身の回りの仕事や家庭に直結する(ように思われる)政策を主な判断基準とする有権者が圧倒的大多数であるという前提が覆らない限り、その有権者の合理的無知を最大限活用して得票することが、個々の政治家の当選やそれを通じた党勢の拡大のためにはもっとも効果的な手法となります。このことは今回の衆院選で実証されましたが、その合理的無知を活用してなされた「民意の集約」なるものが、その基礎付けとして「利害得失の精査」を要するものであり、さらにそれらをつなぐ作業として利害調整が必要となるという点について、飯尾本ではほとんど考慮されていません。

典型的には、「民意」だけに支持基盤を持つ政党が天下りを叩いて失業者を路頭に迷わせたり、公共事業の執行停止によって地方への再配分を止めてしまったりという事態が生じているわけです。ところが、飯尾先生のおっしゃる「民意の集約」が、そのような事態が生じた後にどのような利害得失が生じ、それらの補償なりセーフティネットをどのように構築するかまでを射程に入れたものなのか不明なんですね。というか、「利害得失の精査」のみならず補償などの「利害調整」が含まれていなければ、「民意の集約」なるものは単なる理想主義と何ら変わるところがないわけで、それこそ無責任の極みというべきではないかと。

つまりは、「民意の集約」には「利害得失の精査」とそれに基づく補償やセーフティネットの構築が不可欠であり、政治と行政がそれぞれの機能に従ってそれらを担うことが必要である以上、「民意の集約」なるものに基づいた政策の執行は単なる「政治主導」によっては実現され得ないということになります。言い換えるなら、そういった政策の執行に直結する実務を担うのが執行の専門知識と組織を有する省庁とかの役所であって、それはケルゼンが指摘したように政治主導では遂行できない領域なわけです。そのような執行の現場を踏まえて利害調整する役割こそが政党に求められるものであって、確かにこれまでの政権党はろくに利害調整もしない「御用聞き政治家」の集団だったと思いますが、上記のような事態を見るにつけ、では今の政権党にその機能があるかといえば甚だ疑問ですね。

飯尾本ではこの一番大事な論点があっさりとスルーされているわけですが、その理由となっているのは例によってカイカク病のようです。

 このように、部分的には特異なようにみえても、戦後の日本政治には、ほかの議院内閣制諸国に匹敵する政治的実績があり、全体としては「よくやっている」という評価を得て当然であった。日本の政治がどんなに特異であっても、そのことを批判するのは無意味である。しかし、特定の環境によってはうまく機能した仕組みが、別の環境では機能不全を起こすこともある。
 一九九〇年代以降、日本政治の機能不全が明らかになり、さまざまな改革の努力が重ねられながら、なかなか成果が上がらなかったのも、「成功したシステム」を、別のシステムへ移行させるのが難しかったからである。まず機能不全の要因について共通認識がなかなか生まれなかった。そして最盛期にみえた一九八〇年代、戦後日本の政治システムは、すでにその存在理由を失いながら、逆に全力稼働することによって傷口を広げたのである。
 問題は、特定部分の欠陥によって機能不全が起こっているのではなく、政治システムの構成自体に問題がある点にあった。いいかえれば、民主政の不足、政治家の能力不足といったことよりも、民主政の機能の仕方、政治家の活動方向などに問題があったのである。
飯尾『同』pp.176-177


ええと、「成功したシステム」が機能不全に陥ったとして、年功制賃金が成果主義賃金(的な何者か)に置き換えられ、集団的労使関係が労使関係の表舞台から追いやられ、間接金融から直接金融への転換によって株主配当に充てるために賃金原資が取り崩され、中央集権が全否定されて地方分権の名の下に地方財政が切り崩され、破綻してもいなければ破綻する恐れもない年金に対する不安が煽られてきたのが一九九〇年代以降の改革の努力の結果であるなら、成果を上げなくてよかったというべきかもしれません。

確かに傷口は広がりましたが、飯尾先生の論理によれば、それが「民意の集約」ではなかったという点において問題があるらしいですから、同じ結果が「民意の集約」によってもたらされたのであればオールオッケーとおっしゃるんでしょうかね。まあ、「あるべき政策については、とりあえず脇に置く」なんて呑気なことをいえる政治学だったら何でもいえるわけで、政治学者とは気楽な稼業ですなあ。

そのほか細かいところではありますが、「歴史という縦軸、国際比較という横軸から照射し」といいながら、官僚の処遇とか地方分権については歴史的にも国際的にも比較する記述がほとんどないので、羊頭狗肉的な不満が残ります。というか、第2章で官僚の昇進とか意思決定について記述した部分なんかを見ると、飯尾先生は労働政策とか民間企業の人事管理なんてほとんど知らないんでしょうね。自分がおかしいと思うところだけ取り上げて「ナントカ特殊論」とか言い出すのは、「ガラパゴス症候群」とでもいいたくなりますね。
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コメント
この記事へのコメント
solidarnoscさんからブコメいただきました。
http://b.hatena.ne.jp/entry/sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-348.html

> solidarnosc 政治 なんらかのバイアスがあるためか、明後日の方向に批判。「あるべき政策については、とりあえず脇に置く。」の意味がわかってない。個別政策と政治システムの話を混同。

飯尾先生が「あるべき政策については、とりあえず脇に置く。」とアリーナを設定された趣旨は理解しているつもりです。そのことを明確にするために、該当部分だけではなくその前後を含めて引用したわけでして。

拙エントリで指摘しているのは、それに続く部分で「いわば政府の能力を問題にするのである」とおっしゃっておきながら、その能力が誤った方向に発揮されてしまうリスクへの対処について、明確に考慮されていないように見えるということです。個別政策を決定する政治システムそのものが誤った個別政策を生み出す原因となる可能性が考えられ、実際に政権交代があった細川内閣以降、急進的な地方分権やら規制緩和やらが民意の支持を得ている現状においては、その対処法についてもう少し具体的な言及があってしかるべきではないでしょうか。その点を除けば、本文にも書いたとおり、官僚内閣制、省庁代表制、政府・与党二元体制などの成り立ちから運用までコンパクトにまとめられた良書だろうと思います。

政権交代を通じて議院内閣制がより強く「民意」を反映するべきとする飯尾先生に対しては、ちょっと文脈は違いますが、権丈先生が経済学について
> 「隠れ」経済学ファンである私の思考は、相当部分、経済学に負っており、経済学の切れ味はなかなか鋭いものがあると思っている。しかしながら、この切れ味鋭い経済学を是非判断の分別ない者が手にするということは「小児が利刀を弄ぶ」のと同じことになるのである。小児が利刀を弄んで今日の惨状をもたらしたことが、今の反経済学の流れを生んでいる――少なくとも社会保障という分配、再分配の世界ではそうだろうと、私は考えている。
http://kenjoh.com/090804at+.pdf
とおっしゃるのと同様の危惧を抱いてしまうわけです。
2009/10/11(日) 00:09:01 | URL | マシナリ #-[ 編集]
HALTANさんに言及いただきました。
http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20091014/p1

> 官僚たちへのルサンチマンではないかと考えています。そこに霞ヶ関内の「リベサヨ」「ネオリベ」官僚や「反霞ヶ関」気分で票獲りしたい政治家や「分権」で独裁を狙う知事たち・・・諸々が左右から乗っかってくる構図なのかもしれない・・・

官僚たちへのルサンチマンもあるのでしょうが、個人的には我こそが国士だとアピールしたい顕示欲みたいなものをより強く感じます。というのも、もしルサンチマンであれば、ある程度批判する側にも現場が見えていたり理論があったりして、それと現実とのギャップに不満が募っているという前提がありそうですが、そこまで理路整然とした批判はあまりないのではないかと。

むしろ顕示欲が先に出てしまったために、後先考えずに自らの主張が官僚とか既存の制度より優れていることを示そうとするものの、理論や現場の確認が後付になってしまい、後から自説のおかしさに気がついても引くに引けなくなっているようにも思います。その顕示欲が最も強く表れるのが選挙であるとすれば、それによって示された民意がトンデモなものになることはむしろ当然なのかもしれません。

理屈の後付は自戒しなければいけない点でもありますが・・・
2009/10/14(水) 23:17:03 | URL | マシナリ #-[ 編集]
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