2009年09月19日 (土) | Edit |
最近は古典と呼ばれるものを手に取ることが多くて、この本も今ではいろいろ味噌がついているようですが、日本人論(というより日本語論?)を考えるときには参考になると思います。著者の土居氏がこの7月に逝去されていたのは読了してから知ったんですが、これも何かの縁かもしれません。

「甘え」の構造 (1971年)「甘え」の構造 (1971年)
(1971)
土居 健郎

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手元にあるのが昭和63年発行(第2刷)の古本なのでamazonで表示される装丁と違いますね。

といっても、個人的には「甘え」の構造そのものはあまり関心はなくて、この本で描かれる1950年代末から1970年代にかけての日本社会の変貌ぶりを追ってみると、今の日本の政治状況に通底するものがあるように思います。

まずは、自由という概念が他人との連帯と独立ではない点について、

 というのは、現代の西洋人は、自由が空虚なスローガンにすぎなかったのではないかという反省に漸く悩みはじめているからである。資本主義社会機構が必然的に人間を疎外することを説いたマルクスの鋭い分析も、キリスト教が奴隷道徳であると宣言したニーチェも、また無意識による精神生活の支配を説いたフロイドの精神分析も、すべてこの点について現代西洋人の目を覚まさせるものであった。かくして彼らの自由についての信仰は今や無残に破られてしまった。もっともサルトルのごとく、すべての上部構造が崩壊しつつある現代社会において、人間の自由だけは唯一絶対のものとして、それにしがみつこうとする者がいないわけではない。しかしこのような自由は一体どこに人間を導くのであろうか。それは結局、個人的欲望の充足でなければ、参加による他人との連帯だけではないか。しかしこうなると、西洋人の自由についての観念も究極のところ日本人のそれとあまり変わりないものとなる。

土居『同』p.107
※ 以下強調は引用者による。


と指摘します。あくまで個人的な印象ですが、「政治主導」とか「チホーブンケン」とかというスローガンを聞いていると、1990年代以降の景気低迷と並行して進められた政治改革なるものの中で、この「自由」というとらえどころのない概念が微妙に変化しているように感じます。明治以降西洋文化を取り込んできた日本人が、戦後の民主主義と葛藤する過程を通じて、この部分で土居氏が指摘したような西洋人の悩みを回り回って追体験しているのかもしれません。

そして、第五章で当時の社会現象を「甘え」の構造の中で考察していくわけですが、1970年前後の学生運動について、

 私は桃太郎の童話について考えれば考えるほど、現代の戦闘的青年が桃太郎に似ているように思われてならない。彼らにとって両親は桃太郎におけるじいさんばあさんのごときものである。彼らは両親から保護と愛情は受けていても、大人になることについてはなんら指導を受けていない。だいたい両親がどういう点で彼らとちがう大人であるのかもわからない。そこで彼らにもまた自分のエネルギーをぶつけるために鬼征伐が必要になる。この場合一昔前のように外敵が存在したならば、それが格好の対象となったであろう。そしてこの外敵をやっつけるということで、少なくとも親子は一致することができたであろう。しかし今日の世界は仮想敵国の存在すら容易に許そうとしない。これは日本にとってばかりでなく、米国にとっても、その他の先進国にとっても然りである。かくして鬼は外敵ではなく、自国内の勢力者たちとなった。青年はこの鬼を征伐せんとして、若き情熱をたぎらせているのである。

土居『同』pp.177-178


と指摘します。今となっては使い古されたロジックではありますが、いやしかし、猪瀬直樹氏やら丹羽宇一郎氏やらの全共闘経験者が「カイカク!」と叫ぶ姿が健在であって、鳩山内閣にもその勢力が入閣しているいうことは、事態は全然古びていないということですな。土居氏も引き続いてこう指摘します。

 以上現代青年が桃太郎のごとく鬼征伐に従事せねばならぬ心理的必然性について説いてきたが、ただ彼らは一点についてだけ桃太郎と異なっている。桃太郎なら鬼征伐をして親にも喜ばれ、それこそめでたしめでたしで話は終わったのであるが、現代青年の場合はそうはいかない。もっとも大人たちの間には、自分たちのやろうとしてやれなかったことを青年がやってくれるといって、ひそかに声援を送るものもいる。しかし事態はそんなロマンチックな夢を許すほど容易ではない。というのは鬼征伐に懸命になっている青年が自らも鬼に変わる危険が現に存するからである
 だいたい青年が自らの力を過信するに至れば、彼らが攻撃している勢力者たちともはや区別がつかなくなるではないか。彼らが真に必要とするものは、それによって自らの限界を知ることができる力試しである。しかし今日の社会で誰がその機会を青年に与えられるのであろうか。誰が彼らにとって父親となり、権威と秩序の意味を新たに説くことができるのであろうか。見渡したところ、大学教授にも、政治家にも、思想家にも、宗教家にもいない。この点で現代はまさに絶望的である。事実は一にぎりの青年たちだけがアナキーなのではなく、時代全体の精神がアナキーなのである。であるとすると現代の青年はいつ果てるともわからぬ力試しに、まだ当分は明け暮れせねばならぬのではなかろうか

土居『同』pp.178-179


・・・当分どころか、40年経った今でも彼らは力試ししてますよ。

そういった力試しの限界を教えられる存在が父親であって、それが不在となった社会で何が起きているかというと、土居氏はこう指摘します。

 それというのも価値観について子供を教育しようとする父親が昨今は極めて稀になっているためであろう。これら父親たちも内心では疎外感に悩み、現代文明の危機を肌で感じている。したがって子供を教育するどころではないのであろうが、しかしその彼らも社会の中ではその属する体制なり組織を防衛する立場におかれている。そこで現代社会の世代間葛藤はもっぱら公の場で、体制体反体制という形で、進行することになると考えられるのである。ところでここで一つ奇妙なことは、この現代の世代間葛藤ないし断絶が、先にのべたごとく主として価値観をめぐって起きていると考えられるにも拘らず、争われている価値観の相違が必ずしも明らかではないことである。まず古い世代が古い価値観を信じているとは限らない。むしろ彼らの多くは懐疑的である。かといって新しい世代が新しい価値観を提供しているのでもない。とすると今日の世代間葛藤は、価値観をめぐって起きているということはできても、価値観自体が争点になっているということはできなくなる。では何のために新しい世代は古い世代を攻撃するのかというと、そうすることによって古い世代に本音を吐かせようとしているのだと解される一面がある。結局新しい世代は、それによって自分たちが生きていくことができる価値観が欲しいのである。そしてそれが古い世代によって提供されていないことに苛立つのである。それはたしかに一種の甘えであるということができるであろう。しかし今日の新しい世代は甘えているといったところで、世代間断絶が解決するとは思われないのであるが。

土居『同』pp.186-187


まあそういうことでしょうね。価値観が提供されないと苛立っていた全共闘世代が事態をねじれにねじれさせ、今や一国を司る立場に就く年代になって、どんな価値観を提供するつもりなのかじっくりと見せていただきましょう。

ただし、現在発言力を増している鳩山内閣内の左派グループについては、こういう点も気がかりです。

 さてこのように社会全体が甘えていれば、少なくとも主観的には皆おめでたくてハッピーでありそうなものだがどうもそうではないらしいところが妙である。というのは、現代人は一方では浮き浮きしていながら、他方では何か漠然とした罪悪感に悩んでいるようにみえるからである。この感情を最もはっきりした形であらわしているのがニュー・レフトの活動家たちであろう。彼らは人間としての連帯感に強く訴える。彼らはヴェトナムとかピアフラなど、その他国の内外を問わず、およそ人間の悲惨が強く露呈される場合に、傍観者の立場に立つことは犯罪であると主張する。しかし実際にはなかなか人間の悲惨を救うことができないので、彼らの罪悪感は一層かきたてられる。それで彼らはこれらすべての悪の根源は巨大な社会機構の圧制にあるとして、それに果敢な戦を挑む。彼らと同じような連帯感に目覚め、彼らとともに戦わない者は彼らの敵である

土居『同』p.197


「地域主権」とか「官から民へ」とかって、「地域のことに無関心なことは罪である」とか「政治にもっと民間が関わるべきだ!」とかいう信念がその根拠にありそうなんだけど、そうやって住民の方々の安寧な生活を公的活動に動員しなければならないかどうかは一概には言えないだろうと思うんですがね。少なくともすべての国民に選挙権を保障する制度がある一方で、より積極的に政治の意思決定に食い込むべきだというのであれば、それはそうやって食い込むだけの暇と時間と余裕のある一部の層に発言権を与えるだけになることも十分に想定されるわけで、民意至上主義と独裁政治が紙一重というのもそういうことなんですが。

こういった総論では文句のつけようのない正論が往々にして制度として機能しないことについては、拙ブログでも何度も指摘しているところではありますが、土居氏は宗教的な面も踏まえてこう指摘します。

 ところでこのニュー・レフトの主張は、それだけを見ればまことに人間的であり、ほとんどキリスト教的な匂いさえするような気がする。
(略)
このように見るとニュー・レフトの活動は全く歓迎すべきことのように思われるが、しかしそこに問題がないわけではない。それというのはこの場合、連帯があまりに強調されるため、この独立した価値が見失われる恐れがあるからである。すなわち個は連帯によって初めて価値あるものとなるので、個は自らの救いのためにも連帯を求めざるを得なくなる。しかしこうなると、ニュー・レフトの活動家たちを駆り立て、また彼らが彼ら以外の人々にも、しばしば喚起する罪悪感なるものがどうやら底の浅いものではないかと思われてくる。なぜなら彼らの罪悪感は連帯によって容易に消失するか、もし完全に消失しないまでも著しく緩和されて、少なくとも当人にとっては問題ではなくなるように考えられるからである。
(略)
悪は責められるべきである。しかしもしこの際、それによって自己自身の罪悪感がふっとぶようならば問題である。このような罪悪感は甘えに発するもので、それこそ甘い。それは前項の終りにのべたような道徳の基礎となる罪悪感ではない。したがってまた、そのような動機を内に秘めてなされる悪の攻撃は決して効果的なものとはなり得ず、却って悪の蔓延を助けるだけだと考えられるのである。

土居『同』pp.197-201


大多数のサイレント・マジョリティの境遇を改善することなく「少数の弱者」と彼らが認定した方々だけを救おうとするのも、政権交代を果たした方々の自らの罪悪感の解消をもたらすような「浅い政策」しかマニフェストに盛り込まれない理由の一つなのかもしれませんね。
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