2009年08月30日 (日) | Edit |
さて、政権交代祭のグランドフィナーレを迎えたところですが、まあ個人的には政権交代そのものはどうでもよくて、チホーコームインの身としては民意至上主義政権が進めるチホーブンケンがどうなるのかという辺りに興味があります。といっても、これまでにもチホーブンケン教のカルト具合についてはさんざん書いてきましたので、ここは古典として法実証主義を採用した「純粋法学」で有名なケルゼン(Wikipedia:ハンス・ケルゼン)による地方分権論を確認してみます。
デモクラシーの本質と価値 (岩波文庫)デモクラシーの本質と価値 (岩波文庫)
(1966/01)
ハンス ケルゼン

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一応補足しておくと、法実証主義(Wikipedia:法実証主義)というのは、あらゆる規範の上位に正しい内容を持つ自然法が存在するとする自然法論と対立する概念で、そういった形而上的だったり道徳的な規範ではなく、実定法の中にのみ規範を求める立場と説明されます。また、チェコのプラハ出身であるケルゼンの大陸法的法実証主義は、ベンサムらのコモンローを法源とする英米法型法実証主義よりもさらに経験的・科学的な実践的批判を重視する立場なので、「純粋法学」と呼ばれていました(この辺はうろ覚えなので間違いがあればご指摘ください)。

というわけで本書は、本来は法学者であるケルゼンがデモクラシーについて1929年に書いた論文で、論敵でありナチスの独裁体制に法理論的な根拠を与えたカール・シュミット(Wikipedia:カール・シュミット)に対する論駁でもあります。その後ケルゼンは1933年にナチスに追われて国外に逃亡するわけですが、それだけに独裁政治に対して議会制民主主義が自由を確保するためのものであることが強調されていて、独裁制にも似た単純な民意至上主義に凝り固まった方々にも是非ご一読いただきたいと思います。

訳文が古くて読みにくいので小分けにしながら引用していきますが、ケルゼンによる地方分権論は「第七章 行政」において展開されていて、まずは執行(行政)のデモクラシーについて一発かましてくれます。

 執行のデモクラシーは立法のデモクラシーの帰結にすぎない、そして意思形成の民主主義的形式が執行の過程をより広く把握すればするほど、民主主義思想に一層よく貢献するであろうということは、最初一見してそのようにみえるかもしれないが、その実は決してそうではない。立法のデモクラシーが前提とせられてても、執行の適法性が民主主義的形式によって最もよく保証せられるということは、決して確定した事実ではない。

ケルゼン『同』pp.99-100
※ 以下太字強調は原文、赤太字下線強調は引用者による。


→意訳「官僚政治の打破によって行政が民主主義的になるというわけではないんだよ。」
官僚支配やら官僚内閣制やらという批判が実態のない観念的なものだと釘を刺してくれました。

もちろん、最高執行機関が議会によって民主的に選挙せられる中に、そしてこの機関の議会に対する責任の中に、この機関の適法な活動に対して、すなわち国民の意思が遂行せられることに対して、たとい唯一可能な保障ではなくても、ある一定の保障が存するということは認められねばなるまい。しかし、すでに議会的責任が問題となる限りは、多分に独裁的な内閣制度の方が、すなわち単一機関による執行の方が、特殊に民主的な合議機関よりもより一層よく適しているということが判明する。この合議機関は各個人の責任感を減退せしめるのみならず、責任の主張をも弱めるものである。

ケルゼン『同』p.100


→意訳「ただ国民の意思を遂行するという目的だけなら独裁政治の方がマシということになるけど、もちろんそんなことはないわけで、議会制民主主義とは自らが決めた法規範にのみ従うという意味での合法性を保証するものなのだから、執行の段階でも国民の意志に従えばいいということではないよね。」
民意至上主義と独裁政治とは紙一重なんですね。

そして、合法の原理とデモクラシーの原理との不一致は、より大きい市町村の組織に際して社会技術的に拒絶することのできない地方分権に対する欲求、すなわち社会団体の空間的区分に対する要望が主張せられるのに比例して、ますます先鋭化する。

ケルゼン『同』p.100


→意訳「その合法性と民意の衝突が端的に生じるのが地方の自治行政なわけで。」
総論賛成各論反対というやつですね。チホーブンケンはそれを正当化する方便でもあります。

この方向においても、国家的意思形成の過程が自働進展する二つの段階の機能上の差異があらわれてくる。いわゆる執行の範囲に属する個々の国家行為の創造は、一般的意思形成の行為すなわちいわゆる立法よりも、非常に高い程度に地方分権が可能であり、またこれを必要とする。

ケルゼン『同』p.100


→意訳「そりゃまあ、たしかに地方であれば、「執行の範囲に属する個々の国家行為の創造」とでもいうような、地域の実情を反映した行政執行は有りうるし、必要ではあるけど・・・」

そして、地方分権によって形成せられた中級および下級官庁の急進的な民主政治化は、まさしく立法のデモクラシーを止揚する危険を意味する。国家の領域がより大きい行政区間である州に分れ、この州がさらにより小さな行政区画である県に分かれ、この区域の行政が――民主政治の理念に応じて――この地域の公民によって選挙せられた職員一同に任せられ、こうして中央政府の下に直接州代表体が、この下にさらに県代表体が存在するならば、このような自治行政団体は――その政治的構造やその多数関係が中央の立法団体のそれと異なるときはとくに――決して彼らの行為の適法性をその最高目標とみなすことなく、むしろ非常に容易に中央議会によって議決せられた法律と意識的に対立することとなろう、ということは真にありうることである。

ケルゼン『同』pp.100-101


→意訳「せっかく議会民主主義で合法性を保証したのに、地方の自治体は意識的にそれに従おうとしないでお構いなしなんだよねえ。そういう急進的な民主化は危険だよ。」
個人的に執行に裁量を認めることは有りうると思いますが、その結果として議会制民主主義の議決に反した場合どうするのかという難問が残るわけです。

全体の意思は――それが中央の立法部で発表される限りは――部分の意思によって――個々の自治行政団体で――麻痺せしめられるおそれがある。しかも多数決定による自治として変性した自由意思は、その本来は無政府的な、社会全体を個々の原資に分解しようとする傾向をなお幾分かは保持している。

ケルゼン『同』p.101


→意訳「国家としての意思決定を地方が否定するということは、結局のところ地方は無政府主義的な傾向を持つことになってしまうけど、それでいいの?」
チホーブンケンがアナーキズムと通底しているということは銘記すべきでしょうね。

このような危険を防止し、民主的に組織せられた部分である自治行政団体の違法的行為を止揚するためには、たしかに組織技術上の手段が存在する。しかしすべてのこの手段は、部分的行政区画の意思形成のデモクラシーの方向には存しないで、むしろその制限としてあらわれる。執行の適法性は――これは民主主義立法では国民意思、従ってデモクラシーそのものを意味する――中級や下級官庁では、自治行政団体によるよりも、中央政府によって指名せられ、これに対して責任を負う単独機関、すなわち国家意思形成のこの部分の独裁的組織による方が一層よく保護されることは、疑いがない。

ケルゼン『同』p.101


→意訳「そんな危険なチホーブンケンを統制して議会制民主主義による適法性を保護するためには、地方自治体による自治を制限して国の出先機関が執行する方が適しているんだけどねえ。」
これがたとえばオーツの分権化定理と矛盾しないことには注意が必要です。財政的な受益と負担の関係が住民の選好を反映すれば財政の効率性は達成できるので、その主体が地元の民主的手続を踏むことは必ずしも要求されません。ケルゼンは、全体の意思に基づく合法性を犠牲にしない点で国の機関をより信頼しているわけですね。

このことはさらに進んで、合法原理の結果として官僚政治的組織が根本的に民主的な国家の組織の中に進入せねばならないということを意味する。これはたとえばアメリカ合衆国のように民主政治の原理がすでにあらゆる党争の彼岸にたった原則となってしまっているような国家組織でも、国家の行政上の任務が、従って執行の機能が増加するのに比例して官僚政治化が増大する、という事実に対するより深い理由である。この現象の中に端的にデモクラシーの衰退とみるのは誤りであろう。何となれば、純粋に観念論的な、現実の事実に基かない観察にとってのみ、デモクラシーと官僚政治とは絶対に相容れないものと思われるにすぎない

ケルゼン『同』p.102


→意訳「もっといえば、合法性を保証する民主主義的な国家の組織は官僚政治的にならざるをえないものであって、官僚組織が増大したからといって民主主義の否定だとか大騒ぎするのは、事実を見てないってことになるね。」
さすが法実証主義の本領発揮ですね。観念的な「敬うべきモデル」をもてはやすことに終始して事実を見ていない議論は意味がないと一刀両断です。

官僚政治化は、むしろある前提の下においてはデモクラシーの保持を意味する。何となれば、民主主義の原理こそは、国家がたえず新しく生れ出る一過程の最上層のみを主として把握することができるが、それ自らを、すなわち一般的意思形成の範囲に対するその効力を問題にしないで、同一過程のさらに一層深い層に進入することはできないからである。

ケルゼン『同』p.102


→意訳「いくら民主主義で決めるといっても、それは法律を作るとかの全体的な意思形成の範囲でしか効力を持たないので、それを執行する行政の層までは立ち入ることはできないよ。」

この後ケルゼンは、国が任じる機関の独裁的要素*1と地方自治体の民主的要素を結合した組織によって、最上階での民主的国家意思形成を確保しつつ、行政裁判制度によって地方の民主的要素を統制しなければならないとします。これがのちにドイツを中心に取り入れられる抽象的違憲審査制(Wikipedia:違憲審査制)へとつながっていくわけですが、憲法裁判所をもたない付随的違憲審査制である日本においてはケルゼンの提言が実現することはないでしょうから、その意味でも地方分権が無政府的になることは避けられないということになります。日本における地方分権が慎重であるべき理由はここにもあるわけですね。

それにしても、ここで描かれる民主主義像が全く色あせていないことに驚愕します。それもようやく福祉国家が確立しつつある時期の20世紀初頭において、所得再分配政策に当てはまる議論が行われていた*2わけで、これはやはりケルゼンの慧眼というべきでしょうか。というより、1世紀を経て同じ議論を蒸し返してばかりいるこの国の現状をこそ嘆くべきかもしれません。

これらの議論を踏まえて、裁判と行政に対する政党の活動範囲についてケルゼンはこう指摘します。

 デモクラシーの原理が――その自己保存の利益において――主として立法手続と最高執行機関の任命とに制限せられねばならないとすれば、従って執行――裁判と行政――とよばれるあの国家意思形成の段階の前で止まらねばならないならば、これと同時に、政党の活動範囲が到達してよい境界線も引かれる。概念上必然的にあらゆる執行がその下に立つところの合法の原理は――裁判所や行政官庁の法律執行の上に及ぼすあらゆる政党政治の影響を排除する。これはデモクラシーの内部――いなすべての国家内部――の国家的機能の「政治化排斥」に対する要求のみがもちうる合法的意義である。この制限内においてのみ、デモクラシーは一般に意味深長となる。立法の政治化排斥はその自己止揚となるであろう。何となれば、法律の内容を定めるためには、唯一集群の独裁か、または多数の集群利益の間の妥結かのほかに途がないからである。ただ法律の決定によってある一定の政治的価値が現行法上有効と認められ、ある一定の――一方的ではあっても――政治的方向が合意的に定められるから、法律の執行に当たっては、相対立する政治的利益の間に闘争はもはや起こりえない。従って法律の執行の上に及ぼす政党政治の影響を排除するという、この制限せられた意味における政治化排斥への正当な要求は、政党の最も広範な承認と、その憲法上の錨止めと完全に結合することができるものである。いなまさにこれによって、政党の違法な活動に対して限界が引かれうるのである。政党の勢力範囲は立法部にあって、執行部にはない

ケルゼン『同』pp.104-105


新しい政権がどんな政策を実行に移すのか現段階ではわかりませんが、執行の側にいる人間としては、政権政党がこの限界を理解することに一縷の望みを託すしかないのでしょうね。
あ、そういえば、マニフェスト選挙の暁には小難しい理論とか法律論を振りかざす役人は無用の長物になるんでしたか・・・




*1 もちろんこれは国の機関が議会制民主主義政府によって設置される範囲内でのことであって、「独裁的」というのはその地域に限っては民主主義とならないという意味です。大阪府知事が「地方支分部局は民意を反映しない」とか批判してる部分ですね。
*2 逆に言えば、ケルゼンのこの議論と同時期に厚生経済学(Wikipedia:厚生経済学)で議論されていたピグー(Wikipedia:アーサー・セシル・ピグー)らの外部性の議論とかパレート最適な資源配分についてはあまり意識されてないようですが。
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