2009年07月25日 (土) | Edit |
経団連だの全国知事会だのがいろいろと国政に口を出すようになって久しいわけですが、今日はその両者で意気投合していたようです。

「橋下知事「道州制必要」で一致 御手洗経団連会長と対談」(2009/07/25 11:31【共同通信】)

 大阪府の橋下徹知事と日本経団連の御手洗冨士夫会長が25日、長野県軽井沢町で対談し、道州制の導入が必要との認識で一致した。

 橋下知事は「関西州ができれば、韓国に匹敵する国内総生産(GDP)となる。圏域としてまとまりが良い」と指摘。「観光は京都と奈良で、ホテルは大阪で持つ。役割分担をすればすごく魅力がある」と述べた。

 御手洗会長は「10ぐらいの道州に分けて、財源と権限を大幅に任せ、国家経営の感覚で道州経営をすることが必要。それぞれは欧州の中堅国家と同じぐらい実力がある」と語った。

 会談後、橋下知事は記者団の取材に、「(橋下知事らでつくる)首長連合と経団連とで何かできないか、お願いしようと思っている」と述べ、道州制推進のために両者が連携して政党などに働き掛けていきたい、との意向を示した

 2人は、日本経済の成長戦略を探る経団連の夏季フォーラムに出席し、軽井沢町を訪れていた。対談は、経団連機関誌の企画として実施された。

※ 以下、強調は引用者による。



拙ブログでは地方財政について一応経済学の言葉でまとめていたりもしてますけど、道州制に限らず、目的と帰着が一致するとは限らないどころか、かえって逆効果ということも往々にしてあるというのが制度設計の難しいところです。そして、どんな制度であっても、その目的と帰着の乖離ってのはストーリーとか三段論法のような言葉による論理では推測することはできません。

結局のところ、制度の帰結を正確に推測しようとするなら、これまでのデータを基に制度の効果を説明変数として被説明変数の変化を推定するというような計量経済学的な分析が不可欠であって、つまりは数量的にしか推測できないわけです。しかし、現在の政策決定の中枢はそういった数量的な素養のない方々が大多数を占めていて、民意至上主義的な風潮も相まって、数量的な把握より「物語」とか「ビジョン」とか「夢」みたいなものが重視されているといえるでしょう。

こういった「物語」重視の風潮というのは、だいぶ前になりますがryozo18さんが紹介されていたクロスビー『数量化革命』で描かれるヨーロッパ中世の時代とダブって見えてきます。
数量化革命数量化革命
(2003/10/29)
アルフレッド・W・クロスビー

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amazonでは表紙の上半分に配置されているブリューゲルの絵画「節制」だけが表示されていますが、この本は、この「節制」に描かれているような新たな測量技術によって、人間が世界の真の姿をとらえられるようになったという変化について書かれた歴史書です。そしてその変化は、時間、空間、音楽、絵画、簿記という一見関係のなさそうな分野でそれぞれ生じたという、まさに「革命」的な事件だったわけです。

「敬うべきモデル」は非常に長きにわたって、ヨーロッパ人のコモンセンスをほぼ独占的に支配していた。なぜなら、このモデルは古典古代文明のお墨付きを得ており、さらに重要なことに、人間が実際に経験することと総じて一致していたからだ。しかも、このモデルは、宇宙を明瞭かつ完全に、そして人々の心を麻痺させない程度に畏怖させるような形で叙述するという要求を満たしていた。たとえば、天空が巨大で純粋で地球とはまったく異なっていることは一目瞭然だが、このモデルは天空が地球のまわりをまわっているという宇宙像を提示し、地球は小さいとはいえ、あらゆるものの中心に位置していると説明したのである。
クロスビー『同』pp.38-39


つまりは、一般の人にとっての「物語」というのは、納得できる説明さえ与えてくれればいいわけであって、その説明が受け入れられるかどうかは説明を聞く人のキャパに依存することになります。中世の時代の人々が認識できる範囲でしか物語が語られなかったのは、中世の測量技術や計算技能でとらえられる世界という制約を考えると仕方がなかったのかもしれませんが、宇宙から地球を測量できる現代においても、一般の人が「心を麻痺させない程度に畏怖させるような形で叙述する」ようなモデルを信奉するというのは、なかなかに絶望的ではあります。

たしかに「中央集権はもはや時代遅れだ」とか「全国一律の基準では地域の実情にあわない」とか「日本の××地方はGDPでは○○国並だ」とか「チホーブンケンすれば無駄がなくなる」という「物語」は、普通の生活をしている日常感覚ではとても納得のできるものだとは思います。ただし、その日常感覚が世界が真の姿をとらえているかという点では、人間の進化はそれほど劇的には進んでいないというべきでしょう。上記のチホーブンケンのほかでは、「よいデフレ論」とか「公的債務が800兆円を超えて日本が破綻する」とか「賦課方式では年金が破綻してしまう」というスローガンが真顔で語られてしまうのも、そういった人間の生理的な理解力の限界によるのかもしれません。

それにしても、西ヨーロッパ人たちがそういった限界を克服しようと数量化・視覚化に尽力した歴史が顧みられることもなく、「庶民の目線」といった日常感覚を謳う政治家が喝采を浴び、そのスローガンが真顔で受け入れられてしまうというのは、単純にいえば中世の「敬うべきモデル」へ回帰していることになるわけで、まことに憂慮すべき事態ではないかと。

神学と哲学の役割は説明することだった。だが、古代の権威と中世盛期の精密な考証から得られた神学的・哲学的事実は、意図に反して人々の心に平安より混乱をもたらした
(略)
西ヨーロッパ人はきわめてゆっくりと、ためらいがちに、そしてたいていは無意識のうちに、過去から受け継いだ知識と彼らが現在体験している――しばしば商業に関連した――事実に基づいて、現実世界を新しい見方で見るようになり始めた。こうして形成された世界を「新しいモデル」と名づけよう。「新しいモデル」のきわだった特徴は、正確さと物理的現象の数量的把握、そして数学を、はるかに重視していたことである。
クロスビー『同』pp.80-82


数学的素養が政策決定者の資質として重視されない限りは、こういった数量的把握といっても表面的な「数値目標」ぐらいが関の山です。三位一体の改革で「3兆円規模の税源移譲」とかの数字が空回りしたのは記憶に新しいところ。またぞろ「10ぐらいの道州に分けて」とかいっても、何の根拠もありませんね。

まあ、このご時世では、いったんは行き着くところまでいって、そういった「物語」が現実を一貫して説明できないばかりか、時間の針を逆戻りさせるものであることを身にしみて理解するしかないんでしょう。そういった事態に至って、改めて数量化・視覚化のための理論が求められるのを待つしかないというのも改めて絶望的ではありますが。

一四世紀に幾何学的な遠近法が発展しなかった原因を、猖獗を極めた黒死病に帰す向きもあるだろう。だが、もっと強力な原因は、ジョットと彼の画派は芸術的本能だけに基づいて、手探りで進んでいたということだろう。彼らはたしかに数々の傑作を生み出した――だが、それらの作品は、空間を幾何学的に正確に描いていない。そして、幾何学的に正確に表現するためには、芸術的な天分を補足するもの、すなわち理論が必要だったのである。
クロスビー『同』pp.230-231


後世の歴史家は、こう書くのかもしれません。

二十一世紀に計量的な政策決定が発展しなかった原因を、猖獗を極めたカイカク病に帰す向きもあるだろう。だが、もっと強力な原因は、改革バカと彼の党派は政局的本能だけに基づいて、手探りで進んでいたということだろう。彼らはたしかに数々のスローガンを生み出した――だが、それらのスローガンは、経済や財政を計量的に正確に描いていない。そして、計量的に正確に表現するためには、政局的な天分を補足するもの、すなわち理論が必要だったのである。


中世より事態は悪化してるように思えるんだが・・・orz
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コメント
この記事へのコメント
すなふきんさんからトラバいただきました。

> このへん昭和戦前期やナチス台頭時のドイツとの類似点は各所で指摘されるところですが、あるいは日常個人レベルでもひとたび(経済的苦境あるいは病気など)苦境に陥ると藁にもすがりたくなる心理状態に追い込まれることは多々あることです。

いやまさにおっしゃるとおりですね。以前の拙エントリ「被害者の会http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-315.html」で、すなふきんさんからトラバいただいたのもその点でした。

その点を書き加えるなら、最後の引用部分(クロスビー『同』pp.230-231)は、

> 二十一世紀に計量的な政策決定が発展しなかった原因を、猖獗を極めたカイカク病に帰す向きもあるだろう。だが、もっと強力な原因は、改革バカと彼の党派は政局的本能だけに基づいて、手探りで長期不況をもたらした金融政策を放置したということだろう。彼らはたしかに数々のスローガンを生み出して人心を集めた――だが、それらのスローガンは、経済や財政を計量的に正確に描いていない。そして、計量的に正確に表現するためには、政局的な天分を補足するもの、すなわち理論が必要だったのである。

とでもした方が適切かもしれません。なおさら事態は悪化しているようにしか思えませんが・・・
2009/07/26(日) 22:30:25 | URL | マシナリ #-[ 編集]
表裏ともに金を持つものが政治を支配し、そのおこぼれにあずかる政治屋さんが民意をコントロールすべく格好良いスローガンでB層ターゲットに政策を語る事で、あたかも救世主のように振舞う。それにメディアは迎合している。

これを「衆愚政治」といわずして何と言うのでしょうかね。
2009/07/27(月) 12:18:53 | URL | 通行人 #JalddpaA[ 編集]
> 通行人さん

お金が絡むくらいならまだわかりやすいんですが、「政権交代」という手段が自己目的化してしまえば、誰も得にならないことですら支持を得てしまうところが、「日常感覚」なるものの怖さではないかと。
2009/07/28(火) 00:13:04 | URL | マシナリ #-[ 編集]
政権交代だってお金絡みではないかなと。

というか、誰かが大声で「衆愚政治」と断定すべき時期に来てると思う。バブルに浮かれている時期に「バブルに浮かれるな」といいにくい雰囲気があったのはわかります。戦争のときに「戦争なんてしたくない」といいにくい雰囲気があったのもわかります。まして、今の「選挙民は馬鹿ばかりだ」というのに等しい「衆愚政治」というキーワードを使いにくいのもわかります。

それでも、誰かが言うべきじゃないかと思うのです。
2009/07/28(火) 02:44:49 | URL | 通行人 #JalddpaA[ 編集]
> 通行人さん

おっしゃる趣旨は理解できるのですが、例えば拙ブログで「衆愚政治」だと断定したところで状況が変わるとは思えません。というか、それに近いことは拙ブログでは何度も書いていますし。

むしろ、新たな政治勢力がそれを主張した場合、それが新たなカイカク病の発露であるかどうかをにわかに判別できない以上、新たなリスクを負うことになりかねないようにも思います。
2009/07/28(火) 07:30:08 | URL | マシナリ #-[ 編集]
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http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-326.html つまりは、一般の人にとっての「物語」というのは、納得できる説明さえ与えてくれればいいわけであって、その説明が受け入れられるかどうかは説明を聞く人のキャパに依存することになります。中世の時代の人々が認識で
2009/07/26(日) 10:56:45 | すなふきんの雑感日記