2009年07月13日 (月) | Edit |
都議選では民主党が第一党になったとかで大騒ぎですが、KYながらまたぞろ「官僚たちの夏」がドラマ化されていたので見た感想など。

といいつつ、すでに今週からは見てませんが、第一話を見た限りでは、官僚が変な方向に美化されてしまっているように思いました。まあ、いつの世も官僚叩きが喝采を浴びる一方で、官僚(というか政府)が自国の産業を保護して外貨を獲得するという重商主義もウケがいいということなんでしょうけども。

もちろんあくまで小説であって、ドラマのプロットを額面どおり受け取ってはいけないわけですが、こういうドラマはある程度の信憑性がないと成り立たないところが厄介です。特に、主人公の風越のモデルとなった佐橋滋(Wikipedia:佐橋滋)氏は、(池田○夫氏のところで議論があったみたいですが)国民車構想とも関係ないはずですし(Wikipedia:日本の「国民車構想」 )、むしろ愛弟子ともいわれ、一村一品運動の生みの親でもある平松守彦氏(Wikipedia:平松守彦)をはじめとして、日本に霞ヶ関不信を植え付けた勢力の中心人物ではなかったかと思います。

というのも、だいぶ昔に読んだ佐橋氏の自伝では、ほかならぬ佐橋氏自身が官僚不信をばらまいていたわけで、脱藩官僚の原型はここにあったというべきかもしれません。
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(1994/07)
佐橋 滋

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う~む、画像がないということは絶版ですな。

佐橋氏の経歴で個人的に気になったのは、名古屋の地方商工局と本省の労組の委員長に相次いで就任したというところです。

 全商工労組はもちろん当時すでに存在した全官公に加入しており、全般的問題については統一歩調をとった。全商工は全官公の中でも理性的な組合でとおっていた。今でも覚えているが、全官公がはじめて闘争宣言を発した時の宣言文はわれわれの手で書いたのである。闘争委員会に、僕は、赤沢副委員長を帯同して出席していた。
 闘争宣言の原文は、僕らにきわめて不満足で、格調といい、迫力といい、訂正すべき点が多々あったので、任せられて会議場の隣の別室で修文した。その後いろいろの労組が発する闘争宣言の定まり文句になっている。「よってもって生ずるいっさいの責任は政府にあることをここに宣言する」という末文の名文句は、われわれが考え出したものである。
佐橋『同』p.90
※ 以下強調は引用者による。


1947年の2・1ゼネスト(Wikipedia:二・一ゼネスト)の直前に委員長を辞めたようですので1946年当時のことだろうと思いますが、官公労が発した「いっさいの責任は政府にある」という言葉が一般の民間労組にも波及していったというのは、別に自慢することでもなんでもなく、日本の労組がはじめから敵を見誤っていたということの証左にしかならないと思われます。この佐橋氏の自伝全体を通じて、民間の労働条件に対する当事者意識がほとんど感じられないんですが、これが「ミスター通産省」たる所以なのでしょうか。

佐橋氏の労働観が端的に現れているこの部分でも、

 現在の労働組合と使用者側の問題は根本には相互の不信感が問題をむずかしくしている。話合いとか、交渉とかいうものはなんによらず相互の信頼感が基礎になければできるものではない(いまどきの経営者に昔流の搾取本位の人はいないと思うが)。経営者も労組恐怖病を脱却して従業員のために全力を尽くすべきである。しかし労組執行部も独走暴走は厳に戒めて、地についた交渉をしなければならないと思う。一升のますから三升の水を汲みとることはできない。終身雇用を前提とした考え方の強い日本の労働市場においては、労働の需給はかなり非弾力的であり、一方企業は激烈な生存競争を続けている事実を忘れてはならない。組合も英知を持って交渉にのぞむべきであろう。
佐橋『同』p.92


と書いていますが、この自伝が書かれたのが1960年代後半なので、アベグレンが終身コミットメントと指摘した日本の雇用慣行が「終身雇用」と誤訳されたのとちょうど同じ時期になります。誤訳を鵜呑みにする程度の認識だったということでしょう。

その後、炭労ストに当たっては、最初で最後となる労働関係調整法第35条の2に基づく緊急調整を要請します。

 僕の石炭に関係した時期は、それでもまだ朝鮮動乱のおかげもあり、石炭業界も最後の息をついているころで、今ほどみじめな時期ではなかった。むしろ最もいい時期であった。
 僕の最初の大仕事は、二十七年末に起きた炭労の大ストである。炭労が賃上げを要求して、スト態勢をしいた時である。僕は経営者に頼まれたわけでもなく、むしろ炭労のサイドに立って判断したうえの結論にもとづいて彼らと話し合ったのである。われわれの調査によれば、その時は異常貯炭を有していて、むしろ減産により市況を維持しなければならない事態であった。
(略)
 僕は、政府が最後のテを出すより事態は救いがたいと判断した。それは労働関係調整法による緊急調整である。この法律ができて、おそらく現在までその例を見ない最初にして最後である伝家の宝刀を抜くことにした。スト中止命令である。八十日間、政府は労使双方に対してストの中止を命令した。かくして六十七日目に史上空前といわれたストは外的圧力によって中止させれらた。ストとロックアウトの対立で労使双方とも疲れきっていた。外部からのきっかけだけがこの際の救いであった。この八十日の冷却期間後は再びストにつながらないという判断だった。
佐橋『同』pp.150-151


念のため、この時代背景を確認しておくと、1952年(昭和27年)というのは戦後の朝鮮特需(Wikipedia:朝鮮特需)にかげりが見えてきた時期だったので、「今ほどみじめな時期ではなかった。むしろ最もいい時期」ということになります。1956年(昭和31年)の経済白書での「もはや戦後ではない」という切羽詰まった宣言(Wikipedia:経済白書)へと続く景気の悪化が始まっていたわけですね。そして、自伝を読む限り佐橋氏ご本人はそういった自覚はないようなんですが、これが石炭エネルギーの時代の終焉ともなるわけです。

正直なところ、佐橋氏の自伝を読んでいると、この自覚のないフロンティア意識のようなものがあちらこちらで鼻につくわけで、典型的なのが役人人事に対するステロタイプなこの批判です。

 トコロテン主義の廃止、適材適所主義とはいってもなかなかむずかしい。人はそれなりにうぬぼれもあれば自信もある。うぬぼれとかさけのない人間はないとはよくいったものである。
 役所というところは会社と違って、ほんとうの意味の能力主義の作用しないことである。役人はよく無難にとか、大過なくということばを使う。無難とはなにか、大過なくとかいうことはいったいなんだ。それはなにもしないということだ。人の批判を受けたり、責任を取らされるようなことをしないということだ。人はたいていの場合、積極性は批判の対象にし、攻撃の的にする。しかしなにもしないのは批評の対象にならない。無難とか大過なくということは、この人情の機微を巧みに利用したものである。積極的に点数はとらないが、逆にマイナス点はかせがないということである。
 役人にはこのことがきわめて大事で、これが保身の術になっている。こうしてトコロテン方式が成立するのである。こういうことが許されてきたのにはそれだけの理由がある。つまり会社と違って役所はつぶれないからだ
佐橋『同』p.169


岡本全勝氏にも脈々と受け継がれる「役所はつぶれないからガラパゴスだ」という論理は、あまりに一面的に過ぎますね。成果主義は労働強化とか短期のインセンティブ強化で組織運営に支障を生じさせるということは古い研究でも明らかになっているわけで、あたかも自分がはじめてそのことを指摘したかのような言いぐさというのは「『新しいアイディアだ』と言うのは、『私は無知だ』と言うようなもの」にしか思われません。

ところがそれに拍手喝采を送る方もいるわけで、

 「どうしてもこの筋を通さなければならないと思えば、新聞にでも公表して国民に判断してもらう」という民意を背景にした抵抗の原理を、佐橋は課長のころからもっていたというが、現在の官僚たちにそれを望むのはムリなのか?
(略)
 私事になるが、拙著『日本官僚白書』(講談社文庫)の「あとがき」に、私は「私の頭の中には、政治のエゴに屈しなかった官僚の一つの理想像として、常に佐橋さんの姿があった」と書いた。
佐橋『同』解説(佐高信)pp.329-330


政治主導とかいっていたのはどこのどなたでしたっけ? というよりただの民意至上主義だったというだけなんでしょうけどね。
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