--年--月--日 (--) | Edit |
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


2009年06月02日 (火) | Edit |
というわけで、阿久根市長選の続報があったようで、さすが「住民至上主義」を掲げる現職市長が再選を果たしたとの由(拙ブログのこちらのエントリにもアクセスが急増してますね)。で、さっそく阿久根市では「住民至上主義」による信任を得て、不当労働行為なんですけど的な感じでお送りしてますみたいな!宣言がされています。

「阿久根市長:市職労の退去を近く要求」(毎日新聞 2009年6月1日 21時46分)

 鹿児島県阿久根市の出直し市長選で再選を果たした竹原信一市長(50)は1日、初登庁後の記者会見で市職員労働組合(落正志委員長、203人)に対し、市役所敷地からの事務所退去を近く要求する意向を示した。市長は市職労について、市、議会との癒着などが人件費高騰を招いたなどとかねて批判。事務所退去は選挙公約の一つだった。

 竹原市長は会見で、「(市職労加盟の)自治労は、市民の税金を不当に使うことばかりしている背任組織」と激しく非難。撤去要求の時期について「早くしたい」と述べた。市職労の落委員長は「職員全員を追い出すということか」と話している。【馬場茂】

※ 以下強調は引用者による。


集団的労使関係を真っ向から否定するとこういうことになるんですね。

ところが、地方自治体では地公法が適用される非現業職員(いわゆる普通の役人)と地公労法が適用される現業職員(水道業などの公営企業の職員や単純労務を担当する職員など)が混在しているため、地方公共団体の「労働組合」は地公法上の「職員団体」と労組法上の「労働組合」の二つの側面を有することになり、不当労働行為の審査ではいわゆる「混合組合」と呼ばれます。そしてその「混合組合」に対しては、基本的に労組法上の保護が及びません。

というのは、地方公共団体の「混合組合」については、そもそも労組法上の不当労働行為の救済申し立てを行う申立人適格が認められないため、不当労働行為の審査では門前払いされてしまうからです。実際の命令例を見ても、「混合組合」には申立人適格が認められないとした上で、救済利益についても、事務所の貸与拒否が労組法第7条第3号で禁止される支配介入には該当しないとする例が多くなっています(「門真市/門真市教育委員会事件(中労委 平成16年(不再)第61号)」など。リンク先の判定要旨が途中までになっています)。

このように集団的労使関係を真っ向から否定することが許されてしまう公務員を見ていたら、集団的労使関係によって保護されているのは人権や思想信条なんてものではなく、まさに生々しい労働者の利益だということが分かるのではないかと。そのために、公務員の労働条件決定システムとして人事院とか人事委員会という代替機関があるわけですが、それもあってか、どうもコームインの方々にとっては外部の機関が労働者の利益配分を保護することが当たり前だという感覚になってしまっている感があります。

というのも、誘致企業が撤退や合理化を発表して、従業員に対して希望退職とか配置転換を募るということがわかると、地元自治体は撤退や合理化の撤回を求めてその企業に「要請」なんかするんですよね。しかし、本来なら企業の撤退や合理化はそれぞれの企業の労使が適正な規模や態様を判断するしかないわけで、それを外部の、しかも会社経営もしたことのないコームイン風情がとやかくいう筋合いなんてありません。特に現下のような厳しい経済情勢では、個別の企業の労使がそれぞれの実情に応じて適正な利益配分やリスク負担を決定することが求められているのであって、それこそが集団的労使関係にほかならないわけです。

ところが日本では、思想集団と化してしまった労働組合や左派政党が、そういった利益配分のための集団的労使関係の主体となることを放棄して久しい状態が続いています。そういった思想集団が利益配分やリスク負担といった生々しい議論をさけるのは当然かもしれませんが、それで労働者の利益が失われてしまうのであれば、なんのための労働組合なのか、なんのためのソーシャルなのかと問わざるを得なくなります。

端的にいえば、HR(Human Resource)ジャーナリストを自任される海老原氏の著書が指摘するこの点こそが、集団的労使関係の領域になるはずです。

 もし、配当や社内留保を極端に下げて人件費に回したら、株価は下がり、資金繰りにも困り、経営の安定性もなくなる。その結果、経営不振になったら、誰が助けてくれるのか。そのことを企業「儲けすぎ」論者に問いたい。また、株式持ち合い中心のかつての日本型に戻れ、という人には、その結果、経営の透明性が薄まり、不良資産の査定が困難となって、企業の経営状況に社会全体が疑心暗鬼になることは、果たしてよいことなのか、と問いたい。
 最後になるが、株主の目と業績不振を必要以上に恐れる企業経営者へ。07年の配当と内部留保をせめて1割程度減らすことはできなかったのか。多分、EPS方式で算定した株価は1割下がる程度で、このくらいならハゲタカからの防衛も可能だろう。その結果、約2兆5000億円の余資ができる。これは、年収250万円の非正規労働者100万人分の給料にあたる
p.98

雇用の常識「本当に見えるウソ」雇用の常識「本当に見えるウソ」
(2009/05/18)
海老原 嗣生

商品詳細を見る


法人資本主義』で株主重視を主張したのが左派陣営だったことを思い起こせば何とも皮肉な事態ですが、ここで注意しなければいけないのは、「株主の目」に対抗するステークホルダーが不在だということです。付加価値(剰余金)の配分を巡って、より大きな配当を求める株主と対抗できるだけの労働組合が利益配分を要求しなければ、経営者が自らの裁量によって配当に偏重した利益配分を行うことは当然の帰結です。いくら「配当と内部留保をせめて1割程度減らすことはできなかったのか」と部外者が言ったところで、企業経営のリスクを負う経営者が業績不振の回避と資金源としての株主を重視するインセンティブに影響はないでしょう。

まあ、それを「社会的責任」と定義して企業の評判を上げる社会的な同調圧力にしてしまう「CSR」という政策もあるわけで、その意味では政府が声を上げることに効果がないとは言い切れないかもしれません。

 さあ、どうでしょう。愛される企業、コンプライアンスといった言い回しはCSRを適切に表現しえているでしょうか。ここに書いてあることがいかにビジネスの常識にとって挑戦的であるか。だって、要すれば技能の低い者を採用せよって言っているんですよ。長期失業の若者の問題を解決するためには、この「非常識」な対応が求められたのです。明らかに企業の短期的利益と衝突します。アメリカ企業は「ベストアンドブライテスト」の人材を集め、利益を極大化し、そしてその一部を社会貢献にまわします。でも、ヨーロッパのCSRはちがうのです。社会的排除の問題を軽減するために利益を犠牲にして能力の劣る人間を雇おうという、そういう運動だったのです。CSRとはそれほど革新的な形で登場した概念なのです

「企業の公共政策」としてのCSR(2007年12月24日)」(藤井敏彦の「CSRの本質」


ならば、だからこそヨーロッパ並みの集団的労使関係の構築が重要だという結論になるように思うわけです。

※ 6/4文言修正しました。
スポンサーサイト


コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。