2009年05月18日 (月) | Edit |
以前のエントリの延長になりますが、kuma_assetさんのエントリで

最近、労働問題のなかで労働経済学や労働法学が重視される風潮を批判し、労使関係論こそが中心だとする主張を見かけましたが、こうした主張もまた経済危機という渦中にあってこそ、より多くの注目を集めるものだといえます。*1

 このような「ものの見方」を一括りにして、ここでは「生きる理論」とよぶことにします。この生きる理論の問題点をあげるならば、アド・ホックなところであり、歴史の風雪に耐えきれるものとはなり得ないのではないか、という点が上げられます。*2

 経済危機のなかで、生きる理論に対する関心が高まり、既存の理論=「持続可能な理論」に対する批判が生じることは避けられないでしょうし、こうした向きに一理あることも否定し切れませんが、このような時代だからこそ、歴史の風雪に耐えられる「持続可能な理論」からの含意をもまた、くみ取っていく必要があるのではないか、と考えています。

*1:ただし、こうした主張には一理あると感じさせるものがあることも否定できません。例えば、日本の解雇規制に対する批判がありますが、こうした批判を行うのはたいがい経済学者(しかも、よく目立つのは労働経済学を専門とするひとではない)であって、実際に経営や労務の実務を行っている人々からは、解雇規制に対する強い批判はあまり聞かれません。この場合、解雇規制を批判する「ネクロ」な理論よりも、実務担当者が持つ生きた理論の方に有用性を感じてしまう、というのは、わたしだけではないでしょう

*2:比喩的に申せば、会社を動かすのはあくまで人ですが、歴史の風雪に耐えて残るのは、会社という法人=制度という「構築物」である。会社は人によっていかようにも生かされるが、その定礎となるような方針を定めているのはあくまで「構築物」なのではないか・・・


生きる理論と持続可能な理論(2009-05-14)」(ラスカルの備忘録
※ 強調は引用者による。


という記述がありましたが、おそらくその主張とはhamachan先生のこのエントリのことではないかと思われます(違っていたらスミマセン)。

ところが、労働問題は国際問題と異なり、その中心に位置すべき労使関係論が絶滅の危機に瀕している。空間的、時間的に何がどうなっているのかを知ろうというどぶ板の学問が押し入れの隅っこに押し込まれている。そして、本来理屈が必要になっておもむろに取り出すべき労働法学や労働経済学が、我こそはご主人であるぞというような顔をして、でんと居座っている。
どぶ板の学問としての労使関係論(2009年1月21日 (水))」(EU労働法政策雑記帳
※ 強調は引用者による。


これについては、冒頭で取り上げた拙ブログでも取り上げていましたが、読み返してみると集団的労使関係についての現状認識がないとかなり読みにくいエントリになっていることに気が付きました。

というわけで、まずは集団的労使関係の現状がどうなっているかについてのhamachan先生のエントリを引用させていただきます。

現代日本で集団的労使関係法の第一人者である道幸先生の言葉は重いと思いますよ。

このあといろんなトピックについて語っておられますが、最後のところ「抜本的な見直し」で云われていることが、実に重要です。こういう問題意識を持っている関係者がほとんどいないと云うことが実は最大の問題なんですが・・・。

>従業員代表制がこれから問題になると思いますけど、それに関連して労働組合が職場代表機能をどのように果たすかが重要です。非組合員も含んだ代表制をどう考えるか、非組合も含んだ組合民主主義という視点です。

>それからもう一つ重要なのは、組合以外の個人の集団志向的な行為も不当労働行為の保護対象にするか。これはアメリカ法で今大きな問題になっています。例えば苦情処理です。個人の苦情でも背景に集団的な意味がある場合が多いですから、その苦情を理由に解雇しますと、集団的行為を理由とする解雇と見なされる。組合ではありませんけど、何らかの形で保護する発想も必要になる。

60年間変わっていない法律にしがみついていればいいという時代では疾うになくなっているのです。
組合弱体化の原因としての人権的把握(2008年12月 9日 (火))」(EU労働法政策雑記帳
※ 強調は引用者による。


(このエントリにはこちらからコメントさせていただいたんですが、さらにわかりにくい独り言になっていて恐縮至極でございます。)

で、何が言いたかったかというのを改めて補足させていただくと、例えばkuma_assetさんが「会社は人によっていかようにも生かされるが、その定礎となるような方針を定めているのはあくまで「構築物」なのではないか」とおっしゃることというのは、まさに「ネクロ経済学」に批判的な奥村宏氏が指摘するような、「法人資本主義」に対する不信感と通底するように思いますが、労使関係はもっと生々しいものです。会社が法人(構築物)であることと「市場における均衡概念に基礎をおく経済学」の考え方は必ずしもシンクロしませんし、それ(5/19訂正)に「生きる論理」なるものを対置してしまっては、なぜ労使関係論が中心になるのかは見えてこないでしょう(対置しているのはネグリかもしれませんが)。

抽象的な言葉を使ってしまうと難しくなると思いますが、シンプルに言えば会社というのは、使用者の立場に立つ人と労務を提供する人が契約を結んで、その提供された労務の対価として賃金を授受する場なのであって、法人や構築物といった抽象的なものではありません。だからこそ、交渉力の地歩に違いのある使用者と労務提供者間の交渉については、団結した労務提供者に対してその交渉権が憲法で保障されています。したがって、法人とか構築物といったイメージで語られるような制度に対する規制では、そのような当事者の交渉によって規定される労働問題(労使関係論としての集団的労使関係)に対処するには自ずと限界があるはずです。

ところが、その交渉権を保障するはずの憲法第28条が人権を保障していると誤解されてしまったというのが道幸先生の指摘なわけす。個人的には、それは戦後の左派思想の盛り上がりの副産物だろうと思いますが、その結果として、特定のイデオロギーが憲法第21条第1項の結社の自由とは似て非なる団結権のもとに団結してしまいました。こうして、集団的労使関係の担い手である労働組合は利害代表ではなく思想集団となり、集団的労使関係は共産主義国の衰退と軌を一にしながら、労使関係の表舞台から追いやられていったわけです。

この点を、hamachan先生は「中心に位置すべき労使関係論が絶滅の危機に瀕している」と指摘されたのではないかと思います。法律論から言えば労働契約はあくまで私的契約ですから、私的自治(労使自治)の原則により公権力が介入するのは例外的な部分に限られます。確かに労働基準法などの強行規定を有する労働法規が多いので、労働は規制でがんじがらめになっているという印象が強いのかもしれませんが、何を隠そう集団的労使関係こそが公権力の介入を押しとどめて分権的な市場原理を労使関係にもちこむ基本原理となっているのです。

こうしてみると、集団的労使関係の担い手である労働組合が支持するはずの左派政党が、集団的労使関係を隅に追いやりながら制度による規制強化を叫ぶ姿は、労働組合が思想集団に転化して労働者の利益代表ではなくなっていることを図らずも露呈しているようにも見えます。むしろ、そのことを取り繕うために集団的労使関係には敢えて触れないという方が正確かもしれません。日本の思想的ねじれはこういうところにも現れているのですね。

kuma_assetさんのエントリからこういうことを考えてしまったのは、整理解雇の4要件について思うところがあったからなんですが、長くなったのでまたの機会にまとめてみます。
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※追記を追加しました。(05/17/09, 05/18/09)  たまたま最近、手にした本からの引用:  マルチチュードとは内在性の概念であり、多数者が個別性の総体であるということである。このことを確認し、出発点とするならば、「人民」という概念がその超越性を失ってしまった後
2009/05/18(月) 22:38:35 | ラスカルの備忘録