2009年04月14日 (火) | Edit |
HALTANさんのところで言及いただいておりました(大嶽先生の著書をベースにまとめておこうと思っているうちに別のエントリを先にアップしてしまうなど、亀レスになってました)。
日本型ポピュリズム―政治への期待と幻滅 (中公新書)日本型ポピュリズム―政治への期待と幻滅 (中公新書)
(2003/08)
大嶽 秀夫

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そのHALTANさんの上記エントリではご自身のブログを引用されていますが、

ついでなので以下に感想めいたことを書いておくとすれば、悪名高い『ニュースステーション』(1985~)を立ち上げたのがまさにTBS→テレビマンユニオン→オフィス・トゥー・ワンの高村裕氏だったように(2008-03-16■[床屋政談]1982年以降の日本で起こったことid:HALTAN:20080316:p2)、残念ながら、村木氏たちが模索したTVの中の「私」性が大衆的に卑俗に最悪の形でしか実現されなかったのが1980~90年代以降から現在に至る現実だったのではないでしょうか?
2008-03-16■[床屋政談]1982年以降の日本で起こったことid:HALTAN:20080316:p2

[無題]「ピカピカ、ピンク色の日本は戻らなくても」→(朝日語翻訳)もう右肩上がりは有り得ない・・・こういうことをあっさりと書かれても困るのですが・・・。(2009-04-11)」(HALTANの日記


という点については、大嶽先生はアメリカの報道番組がひな形になっているとの認識のようです。

 ところで、マロー(引用者注:1950年代のCBSのニュース番組のキャスター(アンカーマン)だそうです)の手法を一〇年後に再現した「シクスティ・ミニッツ」ではあったが、十数分という時間で一つの事件の顛末を表現するために、どうしても善玉・悪玉二元論を軸にする傾向をもった。一般に、複雑な問題を理解しやすくする最良の方法は、問題を倫理化し、道徳的な悲憤慷慨を浴びせることだからである。より正確には、傾向というより、ドラマ性を与えるためにその二元論的構図が、意図的に編集方針とされたのである。こうしたスタイルから、さらに、音楽を背景に流すなどして、(被害者に対して)感傷的な報道に偏することが一般化した。
大嶽『同上』p.234
※ 以下強調は引用者による。


洋の東西を問わず、善玉と悪玉を仕立て上げることが一番視聴者受けがいいとのことで、「ワイドショー的報道番組」については「出羽の上」の出る幕はなさそうです。というより、日本では新聞社とテレビ局が系列化してしまっていて、マスメディアが相互に牽制するという作用が働きにくい点にも大きな問題があるとのこと。

 ところが、日本では、テレビの人気を新聞が増幅する傾向をもつ。日本の新聞が、その系列下にテレビ局を置いていることも、テレビに対する新聞による批判姿勢が弱いことの一つの理由であろう。このため、特定政治家へのブームや政治的フィーバーが、オピニオン・リーダーをも巻き込んで、日本中を席巻する事態を生んでしまう。
大嶽『同上』p.236


6年前の新書で指摘されていることが、現在でもまったく風化していないというのは大いに嘆くべきことではないかと。

ただ、それよりも前々回エントリでも指摘したように、こと経済政策については大嶽先生ご自身が単純な二元論に絡め取られてしまっているように見えますし、本文のこういう記述にも「ホントに大丈夫かな」と思わずにはいられません。

 また、複雑な問題(とくに経済政策)についても理解を促す効果があったことも事実であろう。一九九六年総選挙において、橋本首相が消費税の引き上げを訴えたとき、財源がないのだから消費税の引き上げもやむを得ないと多くの有権者が納得し、増税をいっても選挙で勝てるという、それまでになかった事態を生んだのはその一例である。
大嶽『同上』p.226


経済政策を正しく理解するということと、有権者が納得して「選挙に勝てる」かどうかというのは全く別の問題ですよね。バブルが崩壊した直後であるにもかかわらず、日銀が金融を引き締め続けている中で、橋本内閣が敢行した消費税引き上げや財政再建といった超緊縮財政が1998年の経済危機を招いた一因であったことは、正しく理解されているんでしょうか? 「理解を促す効果」のように見えたものは、結局のところ「既得権益に凝り固まった政治家・官僚」を「カイカク」するためのスローガンに過ぎなかったというのが、実態ではないかと思います。

実は大嶽先生は、こういった問題そのものは認識されているというのが頭の痛いところ。学者であっても畑違いではとんちんかんなことはよくありますが、こと経済政策についてはそれで済まない問題があります。大嶽先生の言葉を借りれば、ちょっと引用が長くなりますが、

 政治に対する関心を高めたことに貢献したとしても、反面で、「劇場型」政治のもつ善悪二元論を強化し、新聞がかねてからもっていたポピュリズム的政治理解を一層促進したと言わざるを得ない。「小泉・眞紀子ブーム」のような日本政治のセンセーショナリズム化と、それが伴った(橋本派、「抵抗勢力」との)善悪二元論は、報道番組のもつ成熟度(そして「民度」の成熟)に依然大きな限界があったことを示している
 そもそも、ストーリー性と事件の意義付けによってはじめて、ポピュリズムを支えるドラマが成立する。ニュースには、「なまじまとめると偏向する。それよりあるがままの断片的事実を放映するほうが偏向しない」という説がある。むろん、何の編集も加えず「あるがままの事実」をそのまま放映することは理論的にも不可能ではあるが、ワイドショー的にニュースが、それ以前のニュースがもつ(あるいは新聞のニュースがもつ)断片化という批判に応えて、より編集に力を入れたことで、「偏向」の危険を大きくしたことは否定できない事実である。おもしろいニュースにすればするほど、その危険は大きい。従来の細切れ的なニュース番組では、ポピュリズムの危険もまた少なかったと考えると、皮肉な発展であったと言わざるを得ない。こうした危険を、関係者はどこまで自覚しているかが問題であるが、その自覚は少ないように思われる。

二つの二元論
 ただ、ここで注目したいのは、八〇年代までの新聞の善悪二元論は、とくに朝日、毎日といった(クオリティ・ペーパーとしての性格、あるいは少なくともその自覚をもった)大新聞においては、戦後政治の基本的対立軸を中心に置いており、「保守・反動」=戦前型政治の復活を画策するもの、「革新」=その動きを阻止する平和勢力という対立図式をもっていたことである。それに対し、テレビでは、政治家のパーソナリティを前面に出すことによって、腐敗した悪徳政治家・官僚と清潔な「改革」政治家という二元論に代わった。九〇年代初頭に冷戦が終焉し、再軍備・安保という戦後最大の左右対立を風化させていた事態を反映したということでもあろうが、テレビのもつ属性が風化を加速したことも見逃せない。
大嶽『同上』pp.226-227


とおっしゃるように、「保守」vs「革新」が「既得権益」vs「カイカク派」に変わっただけのことというのが関の山でしょう。ただ、それを「報道番組のもつ成熟度」とか「民度」の成熟の限界としてしまう背景には、もっと市民を啓蒙すれば成熟度が増してすばらしい「民意」がもたらされるという、多少楽観的に過ぎる希望が見え隠れしているようにも思います。

もっとぶっちゃけていえば、おそらく「民意」ってのは昔からもこれからもそんなものであって、それを前提に民意から隔離した部門が制度設計するほうが人々の生活は向上する場面が多いだろうとは思いますが、逆にそれでは政治に参加しているという「満足度」が得られなくなります。現在に至る日本の政治状況をみていると、生活が苦しくても政治に参加する満足度を選ぶという一風変わった選好があるように思われてなりませんね。
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コメント
この記事へのコメント
すっかり更新が滞っている間に、HALTANさんに大々的に取りあげていただいておりました。

http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20090415/p1

> ・・・我々は日本に住んでおりますので諸外国の事情がよく分からないのですが、なぜ日本のTV番組が「アメリカの報道番組」を「ひな形」にしつつ、それを更に崩したような形のものしか放送できていないのかといえば、結局、恐らくは日本人がジャーナリズムや放送の公共性を余りちゃんと理解していないのですよ。とくにTVにおいてはジャーナリズムがかえって社会を悪くしてしまうことへの恐れというか、そういうものがたぶん余り無いのです。

まったくおっしゃるとおりですね。中の人にとってはおそらく、そういうことをまじめに考えたら仕事ができなくなってしまうので、考えないことにしてるんじゃないかと思います。

> お言葉を返すようで恐縮なのですが、今の日本人が「政治に参加する満足度を選」んでいるとは自分には思えません。「市民」の「政治参加」など「学者」や運動家たちが勝手に言っているだけだと思いますね。今の日本人は単に「生活が苦しくても『誰か』を敵や道化にして楽しむパンとサーカス」を望んでいるに過ぎないのではないでしょうか?

言い方の問題のような気もしますが、「生活が苦しくても『誰か』を敵や道化にして楽しむパンとサーカスを望んでいる」か、それを「自分だけはまじめに考えて政治参加しているぞ」という自負が先走っているかというのは、端から見る限りは見分けがつかないのではないかと。まあ、ご本人がどちらの意識を持っていようが「生活が苦しくても『誰か』を敵や道化にして楽しむパンとサーカスを望んでいる」ようにしか見えないので、同じことなんですけどね。

私が仕事で接するのが具体的に行動に起こしている方々なので、そういう方々は後者の場合が多いというのが、HALTANさんとの見解が違ってくる原因かもしれません。
2009/04/19(日) 18:54:25 | URL | マシナリ #-[ 編集]
kechackさんにはてブでコメントいただいていたようです。

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-295.html

> kechack 、「保守」vs「革新」が「既得権益」vs「カイカク派」に変わっただけのことというのが関の山。→テレビは改革派VS守旧派の二元論でもネットは相変わらず保守VSサヨクの二元論ですが?

そうですね。ネットではいろいろな対立軸が成り立ちうると思いますので、「保守vsサヨク」という対立軸の方が先鋭化しやすいように思います。ただ、一般的なアジェンダとして広がりやすいのは「既得権益vsカイカク派」の対立軸なので、テレビを中心としたマスメディアではそっちが取りあげやすいということではないかと。
2009/04/19(日) 19:13:06 | URL | マシナリ #-[ 編集]
すなふきんさんにトラバいただきました。

http://d.hatena.ne.jp/sunafukin99/20090420/1240183466

> 国民は自らの利益の最大化に利するような判断の方向性を示せばよく、具体論は専門家である政治家や官僚にゆだねる。本来それが原則論であったように思うが、今はそのへんが混乱しているのではないか。

実は、すなふきんさんの一連のエントリにもトラバしようかと思っていたんですが、この点をちょっとまとめきれなかったので見送っておりました。自分でも「民意から隔離した部門が制度設計するほうが人々の生活は向上する場面が多いだろう」と書いてはいますが、ではどうやって隔離するかというのはとんでもなく難問なんですよね。

「方向性」とはどこまでのものを指すのか、どこからが「具体論」なのか、「方向性」と「具体論」の整合性はどうやって判断するのか等々・・・

代議制と官僚制はその問いに対する一つの解答ではあると思いますが、それが「既得権益」として徹底的に否定されてしまい、さらにその「既得権益」をカイカクするとしてチホーブンケンとか民間感覚とかがもてはやされているというところでしょうか。

特に専門家でない方々にとっては、既存の制度を精緻化するよりもいったん制度を潰してしまったほうがカタルシスも大きいでしょうしね。
2009/04/20(月) 23:01:49 | URL | マシナリ #-[ 編集]
手短に。

>・生活が良くなれば独裁でいい。プロフェッショナルの統治に愚民は文句言うな。

前半は、それに近いことは書いていますが独裁を認めるようなことは書いてませんし、後半のようなことは一切書いていません。もちろん、考えてもいません。

> ・既得権益を一切批判するな。不公平に甘んじろ。

書いてもいませんし、考えてもいません。

>・増税に文句言うな。

ほかのエントリでは増税の必要性を指摘していますが、本エントリではむしろ逆のことを書いています。その点は後に修正しております。
http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-461.html

>・官僚と政治家を批判するな。

書いてもいませんし、考えてもいません。
2012/01/12(木) 02:32:20 | URL | マシナリ #-[ 編集]
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2009/04/20(月) 08:27:34 | すなふきんの雑感日記