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2009年02月04日 (水) | Edit |
このエントリにはネタバレが含まれていますので、ご注意ください。
(2/5お詫び:あまりに乱文だったため、本文のほうを大幅に加筆修正しました。)

天下りと渡りを前倒しして禁止することが現下の経済危機でどんな意味があるんだろうかと考えはじめると夜も眠れませんが、まあいつものとおり、政権が手詰まり状態に至ったときに唯一自由にできるのが官僚の処遇とその組織をいじることであって、しかもそれが一般には「カイカク」ともてはやされるという現象なのだということにしておきます。それはそれで精神衛生上きわめて不健康ですが。

で、インターネットのヤホーでは実は動画を見ることができまして、とても興味深いアニメを発見してしまったんでお話しさせていただきたいんですけど、『十二国記』ってご存じですか。
※ 以下ネタバレです。



ネタが続かないのでナイツ口調はこの辺にしといて、この『十二国記』というのは、日本とつながった別世界で王となった少女が、右も左も分からない世界で様々な苦難に遭いながらも、国を治めるということを身をもって経験しながら成長していくという物語です。何年か前にNHKで放映していたこのアニメシリーズがヤフー動画で無料配信されているわけですが、実はその放映時の途中からその世界観に引き込まれて見ていました。その当時はあまり登場人物を把握していなかったものの、終盤にいくにつれてただただ考えされられた記憶があったので、お正月休みからそれなりに丁寧にストーリーを追いながらちょこちょこと見直していました。

で、ついさっき全編見終えたので感想などメモしておこうと思ったわけですが、個人的にこの手の物語はほとんど見ないので、物語自体が1990年代を中心に書かれたラノベを原作としているということも知らず、かえって先入観なしに見ることができたように思います。というわけで、世のオヤジどもが司馬遼太郎とか読んで政治を難じるように、俺もこのアニメを見て現在の政治状況を嘆いてみたくなりました。

まず、冒頭で書いたような官僚叩きと対比的なのが、物語の中盤で、王になった陽子という少女が国の現状を知るために遠甫と呼ばれる老人に教えを受ける場面があり、そこで遠甫と陽子のこのようなやりとりがあります。

遠甫:
 いいかね、ようく覚えておくんだ。人は最初に最低限の土地と家を与えられ、そして、自分の土地でより豊かになることもできる。とりあえず天災災異がなければ、一生飢えることなどはありはせん。後は自分の甲斐性次第なのだよ。
陽子:
 では、私は土地を与えて後は何を?
遠甫:
 お前さんのするべきことなどは限られておる。日照りに備えて水を蓄える。水害に備えて川を整備する。飢饉に備えて穀物を蓄える。妖魔に備えて兵を揃える。そしてそのほとんどは、官がおればできることだ
『十二国記 第二十九話 「風の万里 黎明の空」 七章』
※ 強調は引用者による。


生産手段の再分配を基礎としているところはある意味社会主義的ではありますが、その生産手段をどのように活用するかは個人の甲斐性に委ねられるという点は資本主義的ともいえそうで、それを反映してか国の役割は限定的に語られています。これは1990年代の規制緩和とか新自由主義的な時代背景がある程度影響しているのかもしれませんが、かといって夜警国家というまでの「小さな政府」というわけでもありません。

医療や介護といった個別の現物給付がどうなっているか、貨幣が流通しているようなので金融政策はどうなんだとか気になるところもありますが、一応は天災災異という総体的なリスクをプールする機能が主に王(国)に求められているようです。そして、その実施は「官がいればできる」といわれるほどに堅牢な官僚国家が形成されているという意味で、(現代的はないものの)かなり近代的な国家ではないかと思います。

しかも、この十二国記で描かれる世界において官僚組織は国を動かすためになくてはならない機構として描かれていて、優秀な学生であれば真っ先に官僚に登用されることになっているようです。もちろん『十二国記』の世界でも、官僚が腐敗して国が荒れるという場面はありますが、因果関係はむしろ逆で、国が傾くのはあくまで王が道を失うことが原因と説明されます。つまり、天意によって王が選ばれる以上、王は天意に背くことは許されないというのがその理屈となっていて、そこには「天意は決して道を外すことないので、王は天意に基づく限り人々を安寧に導く」という大前提があるわけです。この「天意」を「民意」、「王」を「政治家」と置き換えれば、まあ最近でもよく野党方面から聞く話ではありますが、「民意」なるものにその大前提があてはまるものか甚だ疑問ですね。

ところが、この十二国記の世界では道を失う王の多いこと多いこと。これ一つとっても、「天意」というのが本当に信頼に足るものなのかという疑問を持つ者がいるのも自然な成り行きで、この物語では三人の人物がそれに挑もうとして、それがこの物語のダイナミズムとなってくわけですが、うち二人は最終的に王によって滅ぼされてしまいます。

「天意」に挑んだ形になって生き残った一人というのが、苛烈な法律を作ることがエスカレートしてしまい、微罪でも死刑にされる恐怖政治によって30万人を処刑した王(健仲韃)を誅した人物(月渓)です。彼は苛烈な王から解放してくれたとして国民の支持を受けながらも、自らは玉座に着くことを長らく固辞しました。その義を貫く姿勢がまた潔いわけですが、逆に言えば彼が誅した王による苛烈な法の執行による恐怖政治こそが天意に背いていたことになります。つまり、結果的には王こそが「天意」には背いていたにもかかわらず、麒麟に選ばれた王が固執する苛烈な「規律」に対して、その「正しさ」ゆえに誰も反論できずにエスカレートしていったわけで、民意至上主義とか、コンプライアンス至上主義の行く末を見るようでした。

一方、「天意」に挑んで散っていった人物のうち一人は、陽子の物語とは違うエピソードで登場します。それが雁国の斡由という人物で、彼は州を治める官僚の息子として自らも能吏でありながら、玉座に着くことに執着して親の地位を奪った上で、延王・尚隆に対して、その玉座を与えよというのではなく、王のさらに上位に新たな位を作ってその座に自分が就くことを認めろと要求します。政権交代ですね。

当初は人心を集める能吏として描かれていた斡由は、尚隆に追い詰められていく中で次第にその本性を現して、最後には自分の保身のために堤防を決壊させるよう指示を出します。つまり自らの地位を守るために国民を犠牲にするわけで、ここに至って一気に周囲の支持を失うことになりますが、斡由自身はそのことに気がつきません。というより、気付きたくないがゆえに気付かないのです。すると物語終盤で、幽閉されている父親がその素性を明かします。

 あれ(引用者注:斡由)にはたった一つ欠けたものがある。考えてもみよ。それほどに優れた者がなぜ昇山しなかったのか。なぜ延麒に天意を諮らなかったのか。
(略)
 フフフ、違うな。もしも昇山して王でなければ赤恥をかく。その恥辱にあれは耐えられんからだ。
(略)
 己の失敗を認めることができんのだ。傑物に見えるのも当然。非はすべて他者になすりつけ、過ちはなかったことにするのだからな。いや、違うな。あれは己が完璧で一度たりとも誤ったことなどないと本気で信じておる。それか、信じたい。そういう奴だ
『十二国記 第四十三話 「東の海神 西の滄海」 三章』
※ 強調は引用者による。


王になるための正式な手続きで審判が下されることを拒み、新たな枠組みを提唱して実質的な王の地位を得ようとした斡由の行動が、自民党を割って出て、日本新党が政権交代を果たしたときには首相にならず、離合集散を繰り返す中で野党第一党の党首になり、国民生活を人質にとって政権交代を迫る小沢某氏の行動にダブって見えたのは俺だけでしょうか。または、まっとうな経済政策を否定しながら反貧困とか唱えているうちに御輿に担がれてしまって、まっとうな経済政策によって貧困を救うという道を自ら閉ざした湯浅某氏とか。

この物語は最終的に、やはり絶対的な「天意」が存在していて、王とはあくまでその天意に従うことによって国民を安寧に導くものとして描かれます。その象徴として、上記のような「天意」に挑んでいった人物たちと対照的に描かれているのがこの物語の主人公である陽子です。彼女は十二国記の世界のよそ者として苦難に遭う中で、人間不信に陥りながらも楽俊という半獣と出会うことで自分を変えることを学びます。王として即位してからは、それにふさわしい王として民を救いたいという思い一つで行動し、腐敗した官僚を一掃することに成功しました。

個人的に印象的だったのは、陽子自身が道を失った王を目の当たりにしてきたという経験から、自らも天意に背かないよう自分の心を律しようとしたことです。たとえば、教えを受けていた遠甫を太師に迎えることを打診し、そこで遠甫が実は水禺刀という陽子の心を移す剣(陽子はその鞘を失ってしまい水禺刀の映す幻影に悩まされていた)の鞘を作った人物であることが判明するというこの場面。

陽子:
 松伯? 飛仙の? 遙か昔、その水禺刀を猿で封じたという?
遠甫:
 もう一度、鞘を作らせていただくのも懐かしい。
陽子:
 いや。鞘は要りません。
遠甫:
 ほう?
陽子:
 ときに私の思うままにならず、見るのが辛いものを見せる。それは私の心なのです。心に鞘は要らない
遠甫:
 天帝に感謝を申し上げたい。善い王をと
『十二国記 第三十九話 「風の万里 黎明の空」 終章』
※ 強調は引用者による。


権力を持つ者が「自分の心に鞘は要らない」というのは理想に過ぎないでしょうし、それが現実とはいえ、政権交代しようがしまいが「天帝に感謝したい」なんてことがいえるとは到底思えないというのは絶望的ですな。

そのほかにも、「自分が不幸だと思うと、他人と不幸を競い合ってしまう」とか「自分が不幸だと思えば、我慢すればいいと思ってしまってそこから抜け出せなくなる」という大木鈴とかの言葉も考えさせられるものがありますので、皆さんもぜひこの『三国志』をご覧ください。
相方:結局四分の一になっちゃったよ。いいかげんにしろ。
二人:どうもありがとうございました。

(あ、最後にまたナイツになってしまった。)
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コメント
この記事へのコメント
「十二国記」がでてきて、ちょっとびっくり、納得。
自分などはカイカク、チホーブンケンに「まあまあの権さん」のご登場を願っております。
地方に住む者としての「アジール」としての「霞が関」の存続は、必要なのだと思うのですが・・・。
2009/02/05(木) 13:05:27 | URL | gruza03 #DgdRcaA.[ 編集]
Re: タイトルなし
> gruza03さん
コメントありがとうございます。

> 「十二国記」がでてきて、ちょっとびっくり、納得。

慣れないネタなもので上手くまとめられなかったので、ルール違反かもしれませんが先ほど大幅に加筆修正してしまいました。作品のおもしろさを伝えるのって難しいですね。

> 自分などはカイカク、チホーブンケンに「まあまあの権さん」のご登場を願っております。
> 地方に住む者としての「アジール」としての「霞が関」の存続は、必要なのだと思うのですが・・・。

少なくとも日本の官僚は、汚職のような直接的な腐敗が他国に比べれば圧倒的に少ない(しかも一部のキャリア以外は薄給で)というだけでも賞賛に値すると思いますし、実際に90年代半ばくらいまでは「日本は政治は三流だが、優秀な官僚でもっている」という言い方がされていましたね。

90年代の政権交代以後、既得権益や官僚への批判が強まる中で、「政治主導」やら「官僚内閣制の打破」、キセーカイカク、ギョーセーカイカク、チホーブンケンというスローガンが何の抵抗もなく支持されてはいますが、その政治が三流を脱したという話は寡聞にして知らないんですよねえ。
2009/02/05(木) 21:58:29 | URL | マシナリ #-[ 編集]
>90年代の政権交代以後、既得権益や官僚への批判が強まる中で、「政治主導」やら「官僚内閣制の打破」、キセーカイカク、ギョーセーカイカク、チホーブンケンというスローガンが何の抵抗もなく支持されてはいますが、その政治が三流を脱したという話は寡聞にして知らないんですよねえ。

永続革命を唱え生贄を求め続けることで、国民に政治に参加している錯覚を持たせ続けることで、政治に対するアノミーを解消しうるというこなんでしょうか?
2009/02/06(金) 07:19:04 | URL | gruza03 #DgdRcaA.[ 編集]
> gruza03さん

> 永続革命を唱え生贄を求め続けることで、国民に政治に参加している錯覚を持たせ続けることで、政治に対するアノミーを解消しうるというこなんでしょうか?

まさに「非はすべて他者になすりつけ、過ちはなかったことにする」というとおりですね。それさえできていれば自分で対策を講じる必要も、その結果に責任を負う必要もありませんから。

まあ、一般の国民すべてが国の政策を理解して真剣に考えるなんてことはそれこそ比較優位をムダにしてしまいますから、国民が無責任であることは特に問題とすべきではないかもしれません。問題は、政治家がそれに便乗できてしまうことで、自らの責任を官僚やら役所やらに押しつけてこと足れりとしてしまっているのに、それをマスコミや国民が容認してしまうことなのではないかと。
2009/02/06(金) 21:36:31 | URL | マシナリ #-[ 編集]
すなふきんさんにトラバいただきました。
http://d.hatena.ne.jp/sunafukin99/20090206/1233874286

> 官僚がダメダメになってきている

ここ十数年におよぶ官僚バッシングが官僚のクオリティを下げているという面は否定できませんし、政治が傾いたら官僚も傾くという因果関係はありそうですね。今話題の資格任用制から政治任用制へというコームインセイドカイカクなるものは、それを制度的に組み込むことですから、より一層その傾向が助長されようとしているわけですし。

> とどのつまり、素人感覚・庶民感覚に密着した政治こそが今はまだ実現していない「一流の政治」ということになるのか。しかしそれでいいんだろうか。

フィージビリティのない「一流の政治」を追い求めているばかりで、100年に一度の不況から脱出するための経済政策が講じられず、あらぬ批判やあさっての方向を向いた対応策ばかりが渦巻くというのは、ある意味日本はまだまだ平和というべきか・・・
2009/02/06(金) 21:57:46 | URL | マシナリ #-[ 編集]
HALTANさんに言及していただきました。
http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20090206/p1

> 「まっとうな経済政策によって貧困を救うという道を自ら閉ざした」→ただ、湯浅さん本人が初めから本当に貧困者を救いたい、とかは別に思ってはいなかったんじゃないですか?

確かに「自ら閉ざした」という書き方は正確ではないかもしれませんね。「自らの行動の適否を顧みることなく行動した結果、閉ざすべくして閉ざした」というのが実態なんでしょうけど、かといって湯浅氏ご自身はそのことを顧みるでもないようなので、「貧困を救うのに俺のやり方で間違いがあるはずはない」という意識なのかなと。

厄介なのは湯浅氏の活動がすべて間違いとも言い切れないところで、国民の認識やそれに基づく政府の行動を「自分の信じるように変えた」という面では、戦略的に高く評価できてしまいます。だからこそ、その「湯浅氏の信じるところ」の中身が厳しく問われなければならないのですが、そこを問うことがはばかられる風潮になってしまっているというのがなんとも・・・
2009/02/06(金) 22:24:15 | URL | マシナリ #-[ 編集]
すみません、コメントに対するコメントなのですが、日本が汚職がすくないというのはTransparancy InternationalのCPインデックスを見る限りはそれほど悪くない順位ですけれども、これだけ公共性というものがあまり確立していない社会でなぜ汚職が低めに出ているのかは注意が必要ですよね。ただ単に告発されるリスクが低くて、隠密に持たれ合いが可能で汚職が表面にでてないだけかもしれませんし。
2009/02/07(土) 01:48:18 | URL | usop #6urEx/7U[ 編集]
> usopさん
コメントありがとうございます。

> これだけ公共性というものがあまり確立していない社会でなぜ汚職が低めに出ているのかは注意が必要ですよね。ただ単に告発されるリスクが低くて、隠密に持たれ合いが可能で汚職が表面にでてないだけかもしれませんし。

Transparency Internationalにおけるランキングの内容もパブリッシュされたものだけではよくわかりませんので、usopさんがおっしゃる「公共性が確立していない」という点についていえば、談合を想定していると理解してよろしいでしょうか。

経済学の説明によれば、談合は結託によって短期的利益を得ようとする入札業者の行動なわけで、逆に言えば彼らを長期的な利益に誘導するインセンティブがなければ談合は必然的に生じるとされます。入札業者の短期的な利益を削ぐ罰則規定などの法規制は有効な手段ですが、それを役人が適切に運用できるかどうかは難しい問題です。

というのも、入札業者には短期的な利益を追い求めなければならない事情があって、役人もその事情を察した結果としての談合については、贈収賄というような直接的な汚職とはちょっと違うんじゃないかと。

ただまあ、短期的な利益を削ぐだけではなく長期的な利益をコミットメントすることも政府の重要な役割であって、現下の経済情勢では特に、そのためのマクロ経済政策の役割は談合つぶしよりも重要ではないかと思うのですが。
2009/02/07(土) 10:25:55 | URL | マシナリ #-[ 編集]
HALTANさんに再び言及いただきました。(レスが遅れてしまいました)
http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20090207/p2

> ・・・御存知の通り、自分自身はあの辺の人に対してはもっと単純に考えています。ああいう人には元々が本気で貧困者を救う気など初めからなかった、それだけのことなのでは? あの人たちは運動の快楽に取り憑かれてそこから抜け出せなくなっているだけなのですよ。

その辺は実際のところよくわかりませんし、私には彼らの内輪の論理を理解できないので、これ以上の推測は難しそうですね。おっしゃるとおり、特に

> もっともあの辺の人は「貧困者が市場原理主義の下で戦争に利用されている!」といった超絶論理で反貧困運動と反戦運動を接着してしまうので、本人的には何の矛盾もないんだとは思いますけど。

こういう超絶論理は陰謀論とかのステップを乗り越えていかないと理解不能ですし。

> 1980年代まではマスとしての国民大多数の「実感」とは無関係にどこかに「痛み」が出てきたら直ぐに景気対策をやっていたことを考えると、1991年前後のバブル崩壊を経て「政治改革」と「市民」の時代で現在まで延々と「失われた××年」、明らかに政治の質は劣化してしまったのでしょう

これで拙エントリの冒頭のコメントに戻ってしまいました。堂々巡りですね・・・
2009/02/09(月) 19:01:03 | URL | マシナリ #-[ 編集]
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http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-276.html コメント欄より 少なくとも日本の官僚は、汚職のような直接的な腐敗が他国に比べれば圧倒的に少ない(しかも一部のキャリア以外は薄給で)というだけでも賞賛に値すると思いますし、実際に90年代半ばくらいまでは「日
2009/02/06(金) 07:51:30 | すなふきんの雑感日記
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