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2009年01月17日 (土) | Edit |
HALTANさんにトラバ言及いただきましたが、自分自身の考えがまとまっておりませんので、HALTANさんへの返答というより自分のメモとしてつらつら書いてみます。

釈迦に説法で恐縮なのですが、左派の先生・マスコミ人・運動家からも「内需」「中間層の復活」という話は沢山出ているのですが、ただ彼ら自身はその経路としては「大企業や国家から絞り上げれば何とでもなる」としか思っていないのですよ。これはこの湯浅とかいう人もそうだったはず。一方で定額給付金とか大規模マクロ政策とかそういうのはイヤみたいなんですね。その理由はよく分かりませんが、私見ではっきり言えば、拙ブログで書いているように彼らはオルグや運動やアジテーションの快楽を最優先にしているだけであって、真面目に弱者を救おうなどとは一度も考えたことがないためでしょう。だから「マクロ政策というオプションもありますよ」と言われても積極的に理解する気は初めからないのです。
[床屋政談]日本政府は、国家に無限の自由の容認と無限の権利要求が可能と信じている反貧困「アナーキスト」たちの脅迫に絶対に屈してはならない(笑)(2009-01-15)」(HALTANの日記


日本の現状をかなり乱暴に整理してみると、ある社会的な問題が存在して、それを公的な制度で対処しようとする場合、それを政策課題として取り上げ、制度を策定し、運用するという過程を経る必要があります。政策課題の取り上げと制度の策定は立法が、制度の運用は行政が行い、それによる損害が生じたときに責任の所在を判断して原状回復や賠償を命じるのが司法であり、日本は三権分立の体制をとっています。で、いま叫ばれているのが「市民参加」とか「現場主義」というスローガンで、この三権分立の各分野にも「プロではない素人」の意見を反映させようという取組が進展しています。

立法の分野では「国民本位」という民意至上主義を掲げる政党が支持率を上げていたり、、行政の分野では行政手続法やパブリックコメントといった手続きの整備、サービス主体のNPOや指定管理者への移管や「国から地方へ」のかけ声でチホーブンケンを進めたり、司法の分野では「裁判員制度」が導入されようとしているのは周知のとおり。

その中でも、制度を司る部門(立法と行政)に自ら参画しようとする人の「志向性」とでもいうものがある種の傾向を持つのは致し方のないところなんだろうと思います。例えば、国家百年の大計を論じたい人や、権力の中枢に近づいてあわよくばそれを自分の意のままにしようとする人や、逆に権力に絶対的な反感を持ってその中枢を破壊しようとする人は、おそらく政治家になるんでしょうし、キャリア官僚と呼ばれる国家公務員の中にも同じような傾向があるでしょう。

が、政治家が選挙によって選ばれるのに対して、キャリア官僚はあくまでメリットシステムによって任用されることから、任用されるためにはもちろん、その後の実務遂行においてもテクニカルなスキルが求められます。このため、単に権力への志向やら反感やらだけではその任務を果たすことができず、それなりの政策立案のスキルやリテラシーを身につけなければなりません。「常識的な感覚」をもった人なら、キャリア官僚になるための政策立案スキルやリテラシーを身につける過程でそれを認識するはずです。

ここで留意しなければならないのは、キャリア官僚とその他の公務員の役割の違いです。公務員はメリットシステムによって任用されるといっても、公的部門を担う組織に所属する労働者*1の職業に過ぎません。ある公的な制度が「所期の目的」に沿った結果をもたらすことがその組織の使命であるとして、その組織において、キャリア官僚であれば法のアルゴリズム開発とコーディングといった政策立案作業を行うのに対して、ノンキャリや地方などの下っ端公務員*2はそれを現場で執行するために存在します。つまり、公務員の大半は現場で粛々と法の執行を行う職業人なので、政治家が論じる国家百年の大計やキャリア官僚が担う政策立案のためのスキルやリテラシーを持つ必要は、業務上*3ほとんど必要ありません。

このような公的部門の組織特性を顧みることなく、「市民参加」だ「現場主義」だといってキャリアシステムやその人事を支えた公的部門版肩たたき(いわゆる天下り)が批判の対象となり、今まさに公務員制度改革の中でキャリアシステムの廃止が進められています。個人的には、その先にあるのは、「現場重視」と称した政策立案のスキルやリテラシーのないノンキャリ・チホーコームインによる、世間知や無軌道な感情論に支配された政策立案や制度執行が堂々とまかり通る世界であるようにしか思えません。

そして、その制度に「所期の目的」を与えるのが立法なわけで、そこに参加するためには建前上選挙に受かって代議士となる必要があるとはいえ、いまは「市民参加」「現場主義」で何のリテラシーもない「素人」でも容易に参加することができます。参加が容易になったこと自体は責められるものではありませんが、だからといって当然に「素人」やチホーコームインの意見が、政策立案のプロである官僚やその理論を提供する専門家の見解よりも重視されるということにはなりませんね。ただし現状は、すなふきさんがおっしゃる「倫理的というか宗教的とも言うべきある種の信念」をもった「素人」や、自分の地域のことしか考えないチホーコームイン(首長を含む)のいうことのほうが歓迎されやすい風潮になっていて、このままでは取り返しのつかないことになるように思います。

これも釈迦に説法ですが、日本の左派・「進歩的」ジャーナリズムにとって日銀は庶民の敵であるバブルやインフレをぶっ潰す正義の味方ではないですか。なんたって平成の鬼平がいたところなんだから! ・・・その結果、巡り巡って今や新聞社もTV局も出版社も赤字になってしまいましたが、「昔はそれが受けていた」「今でも平均的な日本人の大半はインフレが嫌いなので、それに逆らうのは怖い」以上、今さら意見は変えないんでしょうね。もっとも流れが変われば変わったでスタンピードで何が起こるかもよく分かりませんが。やはりジャーナリズムにはこのまま不況で衰えてもらうのが日本の将来のためにもいちばんいいのかもしれません(嘲笑) 運動圏の場合は不景気になればなるほど労働者・失業者が集まってきて労働運動高揚の夢よもう一度というわけで、景気の好転は自陣営のオルグのためにはかえって逆効果なんですよねえ。
[床屋政談]日本政府は、国家に無限の自由の容認と無限の権利要求が可能と信じている反貧困「アナーキスト」たちの脅迫に絶対に屈してはならない(笑)(2009-01-15)」(HALTANの日記


活動することが目的となっている方々にとってはそのような状況のほうが活動しやすいでしょうし、彼らが自らの立場を守るためにはその状況をできるだけ維持することが必要なんでしょうが、そういった方々に主導された無軌道な政策立案や制度運用については、立法府や行政府は毅然とした態度で批判するべきでしょう。

まあ、マスコミや市民を敵に回してそれをできる人が今のご時世にいるんでしょうかという話になるわけですが。




*1 公務員の任用は任用する機関による行政処分なので、使用者と労働契約を締結する労働者ではありませんが。
*2 もちろん自分もそうですよ。
*3 ここでこうやって吠えたりするのは自由ですが仕事では使う機会がありませんし。
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コメント
この記事へのコメント
HALTANさんに言及いただきました。(考えをまとめる前の我ながらとっちらかった雑文にもかかわらず的確に文意を汲んでいただいて恐縮です)

> 同一通貨圏内で各自治体が「分権」して「自治」を行なう積極的な理由が本当にあるのか、どうか? 例えば保護政策の是非のように、他地域や国家全体の利害と相反してしまう場合はどうするのか?(自治体間の「連携」だの「補完」だので本当に何とかなるのか?) その政策のマイナス面の後始末も含めて中央で一括して決めた方が合理的な場合が実は大半だと思うんですよ。

この点は全面的に首肯いたします。連邦制ではない単一国家における地方分権とは、強力な中央政府があって初めて成り立つものだというパラドクシカルな現実を認めることがスタートではないかと。拙ブログでは何度も引用していますhttp://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-108.htmlが、中井(2007)『地方財政学』からポービッツの言葉を孫引きすると、

「自治と集権とは一方が強力であることが他方が強力であることの条件であり、集権と分権とは、互いに関連する『動態的問題』となるのである」(中井(2007),pp.84-85)

というのが正しい認識だろうと思います。

ナショナルミニマムを国が保障してくれるからこそ地方はシビルミニマムに専念できるわけで、前者が再分配政策、後者が資源配分を意味するものと考えれば、何から何まで地方(特に基礎自治体といわれる市町村)にやらせればオールオッケーという脳天気な地方分権教には辟易しますね。
2009/01/19(月) 23:53:10 | URL | マシナリ #-[ 編集]
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