--年--月--日 (--) | Edit |
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


2009年01月04日 (日) | Edit |
給料が下がり続けてる中での長めのお正月はどこに行くにも予算制約がきつくて*1、結局積ん読の消化に励んでいたわけですが、何の脈絡もなくたまたま手に取ったのがこの3冊。というか、当初は他の積ん読本を読むのがメインの予定だったのに、もう一日しか残ってない・・・

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))
(1983/01)
山本 七平

商品詳細を見る


2日で人生が変わる「箱」の法則2日で人生が変わる「箱」の法則
(2007/09/06)
アービンジャー・インスティチュート

商品詳細を見る


常識のウソ277 (文春文庫)常識のウソ277 (文春文庫)
(1998/08)
ヴァルター クレーマーゲッツ トレンクラー

商品詳細を見る


1冊目の著者の山本七平氏は毀誉褒貶の激しい方(山本七平(Wikipedia))だそうで、個人的にはイザヤ・ベンダサンの正体というイメージが強いんですが、KYとかいうときよりももっと強く日本的意志決定を規定する「空気」について、豊富な事例とともに論じられています。書かれた時期が1970年代後半なので引用されている事例がちょっと古くさいものの、それがかえって論理の普遍性を際だたせているように思われるところがすごい。

たとえば以下の部分って、今書かれた文章として読んでも何の違和感もない。

たとえば、一人の人を、「善悪という対立概念」で把握するということと、人間を善玉・悪玉に分け、ある人間には「自己のうちなる善という概念」を乗り移らせてこれを「善」と把握し、別の人間には「自己の内なる悪」という概念を乗り移らせてこれを「悪」と把握することは、一見似ているように見えるが、全く別の把握の仕方である。
(略)
前者はすなわち「善悪という対立概念」による対象把握は、自己の把握を絶対化し得ないから、対象に支配されること、すなわち空気に支配されることはない。後者は、一方への善という把握ともう一方へのその対極である悪という把握がともに絶対化されるから、両極への把握の絶対化によって逆に自己を二方向から規定され、それによって完全に支配されて、身動きができなくなるのである。言いかえれば、双方を「善悪という対立概念」で把握せずに、一方を善、一方を悪、と規定すれば、その規定によって自己が拘束され、身動きできなくなる。さらに、マスコミ等でこの規定を拡大して全員を拘束すれば、それは、支配と同じ結果になる
pp.50-52

多数決原理の基本は、人間それ自体を対立概念で把握し、各人のうちなる対立という「質」を、「数」という量にして表現するという決定方法にすぎない。日本には「多数が正しいとはいえない」などという言葉があるが、この言葉自体が、多数決原理への無知から来たものであろう。正否の明言できること、たとえば論証とか証明とかは、元来、多数決原理の対象ではなく、多数決は相対化された命題の決定にだけ使える方法だからである
p.77

だがしかし、ひとつの政治制度は現実には「絶対」ではあり得ない。またそれは一律平等無差別を保証する機構でもない。元来は仏像のごとくに臨在感的に把握できる対象ではなく、人間が運営すべき機構である。だが、だれもそれを自覚できなくなる。そのため政治への要求は宗教的にまで過大になり、その要求は結局、臨在感的把握の一方的充足を求めることになる。
pp.157-158

そして個人が自由に発言し、個人として自由に行動すれば、日本の社会は、徐々にしかし非常に冷酷にこれを完全に排除して行った。ただし、本人が転向し、定められた「父と子」の関係に入りさえすれば、その集団はすぐに彼を受け入れてくれた。治安維持法のみで処刑された者が一人もいなくても、少しも不思議ではないし、また多くの人が、転向とともに有利な就職先まで世話してもらっても不思議ではない。改宗者はいずれの宗団でも逆に高く評価されるのだから―。
pp.160-161

われわれは確かに「世界の趨勢」を追っかけて来たし、これが「趨勢だ」ですべてがすんだ時代には「自由」は「不能率」の同義語として笑殺してよかったし、その方が問題が少なかった。ただ、この方法が通用しない位置に達したとき、その「何かの力」は方向を失い、新しい臨在感的把握の対象を求めて徒に右往左往し、衝突し、狂躁状態を現出して自らの「力」を破壊的にしか作用し得なくなって当然である
p.169
山本 七平 (著)『「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))』文芸春秋 (1983/01)
※強調は引用者による。


一つ目の引用は「霞が関・官僚=悪」とか「公共事業=ムダ=悪」に対して「地方分権=善」とか「民間・NPO=善」という構図でしか論じられない現状を見事に描写していますし、二つ目の引用は「民意」なるものの日本的解釈のおかしさ*2、三つ目の引用は左派陣営による闇雲な社会保障要求(リンク先の最後の部分)、四つ目の引用は脱藩官僚のもてはやされ方、最後は改革バカが繁殖する理由と、それぞれについての説明として全く説得力を失っていないと思います。

山本氏の日本人論というのが実は、敬虔なクリスチャンの視点から考察されたものであるため、日本的な「空気」が醸成される理由を汎神論に求めて、これと欧米や中東の一神教と対比させているところに特徴があります。この「対比」というところがポイントで、山本氏はあくまで日本的な汎神論と対比させるのみで、どちらかがよいとか悪いという断定は最後まで避けながら、「通常性」の中で日本人が消化するという前提を否定することはしません。したがって、本書はまさに「研究」であって、具体的なノウハウや処方箋を示すものではなく、日本人が克服できない課題として提示されているのみともいえます。

これに対して、『2日で人生が変わる「箱」の法則』では、その欧米や中東における個人相互の影響の与え方がどうあるべきか具体的に説明されています。これらの本の思想的な背景については、極東ブログでのfinalventさんによる書評([書評]2日で人生が変わる「箱」の法則(アービンジャー・インスティチュート)、[書評]2日で人生が変わる「箱」の法則(アービンジャー・インスティチュート) その2、その前に[書評]自分の小さな「箱」から脱出する方法(アービンジャー・インスティチュート))が詳しいのでそちらでご覧いただくとして、山本書との対比で興味深い点としてはこの部分。

人間関係を築いたり、相手のことを知ったり、教えたり、正したりしようとして行うどんな行為も、箱の内側か外側でするわけです。そこで、昨日『共謀の図式』で学んだとおり、箱の中から行動を起こすと、反発を招くことになる。(略)ピラミッドは、たえず、問題は自分にあるかもしれないことを思い出させ、どうやって解決に手を貸せばいいのかのヒントを与えてくれる。変化の土壌は、行動戦略だけでは決してつくり出せない。平和は―家庭であろうと、職場であろうと、民族間であろうと―理にかなった外面的戦略が、平和な内面的戦略と結びついて初めてもたらされるのです。
pp.288-289

私たちに大切にしている信仰があれば、他の人たちの信仰が彼らにとってどれほど大切かがわかります。そして、私たちが必要としているものがあれば、私たち自身の経験から、他者が必要としているものにも気がつくのです。
p.294
アービンジャー・インスティチュート (著), 門田 美鈴 (翻訳) 『2日で人生が変わる「箱」の法則』 祥伝社 (2007/9/6)
※強調は引用者による。


念のため、個人的にはこの本とその前の『自分の小さな「箱」から脱出する方法』で述べられている「箱」の法則には人生観を変えられるくらいの衝撃を受けているし、多くの人は得られるものが多いと思います。ただし、この本でもユダヤ教やキリスト教、イスラム教といった一神教が同じくエルサレムを聖地としていることによって内面的戦略が意味を持つということを指摘しているに過ぎず、「空気」と「水」による通常性が意志決定を支配する日本においてどこまで通用するのかというのが率直な疑問として残ってしまいました。
いやまあ、それがこの本で述べられている「自己正当化」だと言われてしまえばそれまでですが。

で、最後の『常識のウソ277』は、「ドイツの常識」について、ドイツ人の経済・社会統計学教授と統計学教授が1996年時点での最新理論を用いてそのウソを暴くというもので、自分自身がヨーロッパの歴史や社会に疎いところもあるので、山本書で引用されている古代や中世の歴史を確認するのにちょうどよかったという瓢箪から駒的な読み方もできました。

で、巻末の訳者あとがきによると、ドイツでは20万部を売り上げたベストセラーとなり、日本だけではなく、イタリア、ロシア、チェコ、ポーランド、オランダ、韓国でも翻訳が予定されているとのこと。ところがその項目を見ると、ドイツでも驚くほど日本と似通った「常識」があることがわかります。特に「経済発展は環境に悪影響を及ぼす?」、「経常収支が黒字なら経済は堅調?」、「国民総生産は国民の豊かさの指標?*3」、「国民総生産は国民の労働量の指標?」、「最低賃金制は非熟練労働者の収入を保障している?」など、経済学的にも重要なトピックが並んでいて、どこの国でも経済学的なトレーニングやリテラシーが普及しているわけではないことがわかる反面、この本がベストセラーになるドイツと、日本的な「空気」にマスコミを通じて支配されている日本との違いを痛感してしまいました。

結局のところ、山本書が指摘するように、対象の臨在感的把握による絶対化が様々な極に分散して身動きのとれない状態が日本の1970年代後半の状況であるとするなら、それから30年経った現在でもそれは克服されていないし、今年も克服されることはないんでしょう。山本書は最後にこういいます。

もしこの状態がこのまま進めば、おそらく日本は、その能力をもつ集団ともたない一般人の双方に分かれて行くであろう。
というのは、「空気」に基づく行動が、まわりまわっていつしか自分の首をしめて行き、その判断で動き回っているとどうにもならなくなることを、人は、否応なく実感せざるを得なくなってくるからである。戦争直後にこのことはいやというほど実感させられたわけだが、現代でも、公害問題が華やかだったとき、「経団連」をデモ隊で囲んで「日本の全工場を止めろ」といった発言に対して、ある経済記者が「一度やらせればいいのさ」と投げやりな態度で言った例にその実感がある。これは、臨在感的把握に基づく行為は、その自己の行為がまわりまわって未来に自分にどう響くかを判定できず、今の社会はその判定能力を失っているの意味であろう。彼の考え方を要約すれば、「ジュッと熱く感じない限り理解しない人たちだから、そんなことをすればどうなるかいかに論証したって耳は傾けない。だから一度やけどすればよい」といった一種の諦めの発言であり、これは戦争中にもある。
pp.218-219
山本 七平 (著)『「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))』文芸春秋 (1983/01)
※強調は引用者による。


諦めざるをえない情況に心が折れそうになったときは、内面的戦略としての心の平和ですよ。




*1 典型的な合成の誤謬です。
*2 いま気がつきましたが、「民意」がテーマだと拙ブログ内では適当なエントリが見つかりませんでした。
*3 山形-mojimoji論争が記憶に新しいところ。
# 数か所訂正しました。すみません。
スポンサーサイト


コメント
この記事へのコメント
すなふきんさんにトラバいただきました。今年もよろしくお願いいたします。

> 「空気の研究」が山本七平氏により著された当時は今とは逆で、世相的には(とくにインテリ層においては)左派的な傾向*1がまだ残っていた頃だったように思う。そのような世相の下で論じられた現象が、今もその本質部分を維持しながら装いを変えて現れているのがいわゆる「改革バカ」的現象なのだろうと思う。

この点については私も、
> こういう議論を信奉するのが「改革バカ」の方々ですが、右だろうが左だろうが「マイノリティ擁護のためのリベラルな衣」さえまとってしまえば誰も批判できない状況になっているのではないかと。むしろ、まともな議論ができないと自覚しているがゆえに、それを糊塗するために「リベラルの衣」に逃げ込んでいるようにすら見えますね。
http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-259.html#comment58
と感じておりますので、「カイカク!」と唱えさえすれば「絶対化の対象」とみなされ、それが左だろうと右だろうとお構いなしになってしまうのは、結局は「空気」を生み出す思考のあり方が変わっていないということなんだろうと思います。雨宮某が右翼から左翼へ華麗に転向したことがむしろ好意的に受け入れられていたりするのが、それをよく表しているかと(これも「改宗者はいずれの宗団でも逆に高く評価される」の好例ですね)。

金融なんかでは労組幹部を経験することが出世コースの条件だったりしますし、日本社会は右と左の論理をうまく使いこなしているといえないこともないのかもしれませんが、そこで「専門知」や「現実」が顧みられる余地がなさそうなところがなんとも・・
2009/01/05(月) 00:45:19 | URL | マシナリ #-[ 編集]
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-267.html 一つ目の引用は「霞が関・官僚=悪」とか「公共事業=ムダ=悪」に対して「地方分権=善」とか「民間・NPO=善」という構図でしか論じられない現状を見事に描写していますし、二つ目の引用は「民意」なるものの日本
2009/01/04(日) 10:16:15 | すなふきんの雑感日記
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。