2005年07月25日 (月) | Edit |
二週間ぶりのご無沙汰です。
筆が進まないのには理由があるわけで、些末なことでいろいろ集中できないうちに日は過ぎにしけり。

唐突ですが、「縦割り」という言葉を聞いてどう感じるでしょうか。
「融通が利かない」とか「たらい回し」とか「無駄が多い」とかまあ、普通はあまりいいイメージでは語られることの少ないこの「縦割り」という言葉。でも、「縦割り」のどこがどう悪いのかをすっきり指摘できる人ってのは意外と少ないんじゃないでしょうか。
というのも、組織の形態や規模、運営の仕方によって実は「縦割り」の意味するところが微妙に違うので、一言で「縦割り」の問題点を指摘することが難しくなるのだと個人的には考えております。

特に「縦割り」総元締めとされている中央官庁の「縄張り争い」については、RIETIの鶴さんとかbewaadさんが指摘しているように肯定的な意見が多いんです。
「縦割り」のどこがいいのか?と不思議に思う方も多いでしょうが、対立が潜在化するより、それぞれの立場を明確にした上でお互いの主張を戦わせる方が、意志決定の透明性を確保できるというのが、その要点となるでしょう。

言われてみれば、
誰が主張したのかをはっきりさせないでいつの間にか決まっているよりは、誰が何を言ったかがわかった方が、はたから見たときも事情を把握しやすいということはある。そう考えると「縦割り」の中でも「縄張り争い」は比較的有意義だといえるのかもしれない。

でも、その主張ってそんなに信頼できるのだろうかというのが、俺の疑問なのです。優秀なキャリア官僚の方々が必ずしも正しい主張をするわけでもなく、その官僚が作った法案に対して国会議員が圧力をかけてきて、その国会議員の背後には業界団体や圧力団体がいるわけです。その対立過程を明らかにするなんてことは、実際問題可能なんだろうか?

圧力団体も悪者になりたくないし(そもそも表に出られないこともあるだろう)、国会議員だって「族議員」とあからさまに呼ばれることはいやがるし、となると、官僚がすべての悪者役を引き受けるしかなくなるわけで、それが「縦割り」とか「縄張り争い」と呼ばれる省庁の対立になるのなら、それって意志決定が透明化されていることにはならないような気がします。

むしろ、国会議員その他諸々が自分たちの思惑を面に出さないためのカモフラージュとして、「意志決定は透明にされていますよ。でも官僚が勝手に利権争いをしていて困りますね」という格好の口実を与えているような気がしてなりません。

さらにうがった見方をすれば、官僚の方だって「縦割り」を擁護することで国会議員らによる圧力を外部不経済的に悪者に仕立てることが可能になります。経済学的に言えば「政府の失敗」をさらに細分化して「国会の失敗」とすることができるわけです。

パオロ・マッツァリーノさんがいうように、そんなギスギスしたことしなくてもすんなりことを決めるという文化が江戸時代の日本にはあったんでしょうが、そんないい加減であることを忌み嫌った明治の官僚によって築き上げられ、現在まで連綿と続く霞ヶ関の常識では、自らの主張で相手を言い負かしてなんぼなんでしょう。

対立したってろくなことないんだから仲良くやればいいのになんて俺なら思うけど、プライドの高いキャリア官僚の方々は、自分の所属する省庁のために理論武装することをやめません。そんな「縄張り争い」という戦争を毎日繰り広げるのが霞ヶ関の日常なのです。

北朝鮮とかイラクにいう前に、官僚の方々が武装解除して平和な日本にしてもらいたいものです。

スポンサーサイト


コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック