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2008年10月08日 (水) | Edit |
ふたたびHALTANさんからTBいただきました(こちらのTBがとんでなかったようで失礼しました)が、意外な方向に方向に話が進んでいるようでちょっとびっくり・・

たぶん、今のPHP系の財界人・文化人・国会議員も本音ではマチバの人間など無報酬で使える「奴隷」程度にしか思っていないでしょう。松下幸之助が自分の会社と個人としての幸之助に掛かる税金が「高い」ことに憤慨して無税国家を実現するために松下政経塾を作ったとされる伝説が象徴的ですよね。いや、「奴隷」は賃金は支払われなくても一応は寝食の面倒を見なくてはなりませんから、最近のお金や時間の持ち出しが前提のNPO・ボランティアマンセー論は「奴隷」よりひどいかもしれませんね。

(略)

「外国人労働者拡充の流れはラテン市民権の創設まで視野に入っているのだろうか」さあ・・・サヨクの「人権」「多文化共生」好きの人たちはひょっとすると一国多制度に近いことまで考えているのかも・・・そんなことをすると国内に治外法権を抱え込むことになるのでとんでもないことになる。「学者」なんか信用するとエラい目に遭う。
■[床屋政談]田舎大学の「学者」たちの限界(涙)(2008-10-08)」(HALTANの日記


このコメント
を書いたときはそこまで考えてませんでしたが、そう言われてみるとつながっているような気もしないではないです。ただ、自分で持ち出しておきながらなんですが、「奴隷」という言葉の刺激がちょっと強すぎるので、「ああそうかも」以上の感想は保留させていただければと思います(考えがまとまったら何か書くかもしれません)。



一応補足させていただくと、そのコメントで言いたかったことというのはむしろ、

そういう社会の変化に対応して近代以降発展した経済学とかの学問領域が見向きもされず、古代とか江戸時代に回帰したがる風潮も危惧されますね。

という部分で、現代のように法治国家として社会的インフラが整備されていて、基本的人権を保障する社会保障制度もそれなりに機能している現代において、昔のような制度に単純に回帰するという選択肢はありえませんよね。制度というのはどれも時代と密接に関わり合っているんであって、いくら「昔のほうがこういう点では良かったから、その点に限って見直すべきだ」なんていったって、それを実効あるものにするためには、当時の付随する制度や時代背景まで復活させなければならなくなります。

というか、学問というのは、そういう時代背景を踏まえていかにその当時の現状をよりよいものにしていくかを考える営みであったはずなのに、逆にありもしないノスタルジーを美化するものに退行している学問領域(学派?)もあるというのが頭の痛いところ。たとえば江戸時代を引き合いに出して地方分権とかいう人(※1)はホントにそれでいいんですか? ということです。

ぴったりくる具体的な例が今すぐに思いつきませんが、たとえばちょっと前に盛り上がった蟹工船ブームについていえばこういう指摘があります(毎度のhamachan先生経由です)。

面妖なこともあるものだ。一時期、プロレタリア作家、小林多喜二の代表作、『蟹工船』が、20代の、いわゆるワーキングプアの若者を中心に読まれていたという。

 ソビエト領であるカムチャッカの海に侵入して蟹を取り、加工して缶詰にするボロ船を舞台に、人間的な権利も尊厳も根こそぎ奪われ、命を落とすほどの過酷な労働を強いられる乗組員の姿が描かれる。その姿が、低賃金で働かされいつ解雇されるか分からない、自分たちの姿と重なる、というのだ。何を寝ぼけたことを言っているのだろう。

 この作品の発表は1929年。今から約80年前のことだが、過酷な労働状況という点は認めるにしても、当時と今とでは決定的な違いがある。労働者の保護立法が戦前と戦後では竹槍と鉄砲ほどの差があった。当時は労働基準法も最低賃金法もなかった。組合の合法化を目指した労働組合法制定の試みは関係者の粘り強い努力にもかかわらず、1931年に頓挫。非合法下の共産党に入党した多喜二が拷問死させられたのがその2年後だった。

 過去の、それもフィクションに現実を投影する暇があったら、いざとなれば、自分たちの身を守る最大の武器となる労働法規をしっかり学んでみたらどうだろう、とでも言いたくなる

無法な使用者には法で立ち向かえ~『人が壊れてゆく職場』笹山尚人著(評:荻野進介)(2008年8月28日 木曜日)
※ 強調は引用者による。


ここで指摘されるような「当時と今とでは決定的な違いがある。労働者の保護立法が戦前と戦後では竹槍と鉄砲ほどの差があった」ということ一つ取ってみても、ワープアとか搾取とか叫んでいる人が思うよりはおそらく、現代の日本という国家制度の整備は格段に進んでいるわけです。完璧ではないかもしれませんが、それはとりもなおさず戦中・戦後を通じての労働組合運動の成果だったりするのに、その歴史を踏まえるわけでもなく「連帯だ!」とか「改革だ!」というのは、先人に対する敬意の欠片もないように思うのです(※2)。

人間が作る制度である以上、その隙間にはまり込む不幸な方を根絶することはほぼ不可能なわけで、不幸にも実際そうなった方に対しては個別に対応するしかありません。それはスキルと人材と財源というリソースを要するものなのに、そういう対応の拡充を声高に叫ぶ人ほど、そのリソースを提供する組織を大事にする発想が消えてしまうというのも不思議なものです。その隙間だけを取り上げて、あたかも今まで築き上げてきた制度の全体がおかしいという論理の飛躍にはついていけないんですよね。




※1 特定の人を想定しているわけではありませんが、こういう主張もたまに見かけますよね。
※2 ほかに思いつく動機としては「思想」とか「イデオロギー」ぐらいしかありませんけど。もしそれが「無知」なら、おふざけが過ぎるというもの。
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