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2008年10月06日 (月) | Edit |
HALTANさんにTBいただきましたが、前回のエントリで「地方」といったのは、たとえば宮崎県のたけし軍団知事とかの「改革派」首長とか、それにオール与党で乗っかっている地方議員とか、そういう「民の声」を疑うことも知らない地方公務員とかを想定していました。ただ、学者がその尻馬に乗っているというのは機会費用を考えたときにあまりにお粗末なんで、HALTANさんが引用しておっしゃることにはおおむね賛同いたします。

いつも書いてますが、「分権」だの地域主義・市民主義を唱えて「俺様は地方の味方!」を気取っている方が、本当の意味でその地元に暮らす「市民」だったことなど一度もない。御自分は大学(人によっては「国立大学法人」!から)(そんなに高くもないかもしれないが)最低限の生活の糧(給料)をもらい、機会さえあれば上位の大学や中央の大学への栄転を夢み、大半はせいぜい県庁所在地にしか住んでおらず(首都圏に住んでおられる方も大多数)、「市民」運動を組織するといったスタンドプレーや名誉職だけは大好き・・・そんな類型しか浮かんできません。「明らかにカネや出世が目当てだな」という先生はともかく、たまに御人好しで学生の面倒見も良く本気で「市民」とか啓蒙とか信じておられるらしい方までいるのが何とも・・・。
■[床屋政談]Baatarismさんたちに含むところがあるわけじゃないのだけれど・・・。(2008-09-29)」(HALTANの日記

まあこれは地域によっても違うんでしょうけど、俺がいろいろな機会で接したことのある地方大学の教員でいえば、「御人好しで学生の面倒見も良く本気で「市民」とか啓蒙とか信じておられるらしい方」がむしろ大多数という印象です。

要は、地方大の教員は、官僚とか地方公務員の仕事を表面的にしか理解していないんですよね。東京にいて霞ヶ関の審議会とかコンサルとかとやりとりのある学者と、地方にいて文献で官僚の仕事を「想像」するしかない学者では、かなりの情報量の差が生じます。難関大学出身で霞ヶ関に同級生がいっぱいいるという学者の割合も、東京の有名大学にいる学者のほうが高い(※1)わけで、その意味での「東京と地方の格差」は厳然たるものがあります。それでいて、東京で地道に実証的な研究を続けて実績を上げている学者というのは、自分が現場を知らないことに謙虚な方が多くて、地方の学者より在京の学者のほうが話が通じると思うことは珍しくありません。

俺も地方公務員の仕事なんかしている関係で、ある程度霞ヶ関の時間感覚とか仕事の密度とか感じることができますが、地方大で入院してそのまま地方大に就職した学者だったりすると、霞ヶ関のことも地方自治体の仕事もほとんど理解せずに教条的なことを主張するから手に負えません。そういう学者ほど「地元密着」とか言って机上の空論を振り回すわけで、ある意味で改革派首長と通じるものがあります。

というか、社会全般について想像力がついていっていないいわゆる「世間知らず」な学者ってのはどこにでもいるわけで、地方にいながら霞ヶ関はおろか地方自治体の仕事すら理解していない学者はそれ以上にごろごろいるというのは当然と言えば当然です。逆に、東京在住で実績のある学者は霞ヶ関と接する機会が多かったりするので、制度や霞ヶ関の仕事についての理解はそんじょそこらの地方公務員よりは遙かに上をいっていることも多々あります。そういう議論についていけない学者が地方でわあわあ騒いでいるパターンも往々にしてあるわけで、そう考えると、前回のエントリで引用させていただいた学者さんも、霞ヶ関を一方的に悪者にしている時点でその亜種である可能性は否定できません。

「地方分権で地域主権型の自治を実現するべきだ!」とかいう方々には、霞ヶ関とか東京の学者のほうがいろんな意味で物事を理解しているという実態がむしろ自然な姿だということすら、なかなか理解されないんでしょうねえ。


※1 HALTANさんが例示された学者も官僚がいっぱいいる大学出身ですけど、そういう同級生との関係は断絶してそうです。憶測ですが。
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コメント
この記事へのコメント
マシナリさん重ね重ねありがとうございます。
幸か不幸か自分は霞ヶ関と係わる事が出来たので、田舎に戻ってきても、「地方分権すれば良くなる!!」や「霞ヶ関かをぶっ潰せ!!」も当初は何の冗談かと思って聞き流していたんです。
自分たちで何でも出来ると思った地方と厄介払いが出来ると思っている都市、それぞれ「今よりも豊かになれる」の錯覚が招いていることなんだろうね。

危機と克服―ローマ人の物語VIII  第七章 皇帝ドミティアヌス

 街道や橋の建設は国家の仕事だが、その修理修復は、これらのインフラが通っている地方の役割とされていた。それを私財を投じて成し遂げたと自讃した碑文は、数多く発見されている。
 考えてみれば、ローマ帝国全体が、共同体が考えて行うことと個人が考え行うことの双方で運営されていたように思う。国家としては未発達であるのかもしれないが、これで意外とよく機能していたのだから面白い。

 「地方自治をすれば良くなる」の原点を、ローマ帝国の非官僚体制と地方自治(共同体)に求めている。現在の地方自治体の仕事に相当する大部分を、個人の寄付や喜捨に依存していたことを理想化しているのはわかる。(○○街道とか○○会堂とか)

 それを現代版で、CSRやボランティア活動、NPO活動で十分できる、かっての大帝国でさえ非官僚体制だから国家を維持運営するのに、中央官庁は不要である「霞ヶ関を潰せ!!」なのか。

 これが賢明であるとは自分はとても思えない。
 「欧米か!」を笑いながら欧米化を希求する左右の滑稽さは何なのだろう。
2008/10/07(火) 22:40:06 | URL | gruza03 #u1iHJXbc[ 編集]
> gruza03さん

厄介払いができると思っている都市は、あながち間違っているわけではないかもしれません。「地方分権」と「地方切り捨て」はキレイに両立するんですよね。

歴史には疎いのでローマ時代のことはよくわからないんですが、共同体の運営と個人が私財を投じる行為がうまくマッチしたのは、「他人を養う」奴隷制を前提とした市民社会だったからではないかと思います。

奴隷を使えばある程度のことができる市民なら私財を投じても割に合うでしょうけど、今の平等な社会でそれが可能とは思えません。その意味で、市民社会ではフリーライドができなかったのかも知れません。

そういう社会の変化に対応して近代以降発展した経済学とかの学問領域が見向きもされず、古代とか江戸時代に回帰したがる風潮も危惧されますね。
2008/10/08(水) 07:38:19 | URL | マシナリ #-[ 編集]
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承前:2008-10-06■[床屋政談]「地方分権」「EM菌」に見る「善意」と「熱意」に満ちた「腹黒い」「学者」さんたちの「内実」id:HALTAN:20081006:p2 要は、地方大の教員は、官僚とか地方公務員の仕事を表面的にしか理解していないんですよね。東京にいて霞ヶ関の審議会とか
2008/10/08(水) 12:13:14 | HALTANの日記
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