2008年08月05日 (火) | Edit |
これ図書館で借りて読んだんですが、版元が変わっていたようです。
及川和男『村長ありき―沢内村 深沢晟雄の生涯』新潮社 (1984/01)
俺が読んだのはこっちの本で、また図書館で借りてきたので前回エントリで曖昧に引用したところを補足しておきます。

まず、県の担当者が条例違反になると指摘したのに対して沢内村村長が反論したというのは、

晟雄(引用者注:当時の沢内村村長)は、国保運営委員会での協議の結果に立って、とりあえず六十五歳以上の老齢者に対し、十割給付(沢内病院での外来診療の無料化)を断行する意志を固めていた。そのため、村議会に対する提案も、国保特別会計の第二次厚生予算案として準備していた。
この時期、佐々木助役と清吉(引用者注:当時の沢内村役場厚生課長)は岩手県庁に出かけ、県の厚生課長に深沢村長の決断について説明した。ところが、この措置は国保法に違反する、村の条例も五割給付になっている、と指摘されたのである。
(中略)
佐々木と清吉は、県の見解を村長に伝えた。すると村長は、いすの肘を掌でたたいた。
「沢内村がこれをやらなければ住民が生活できないものを、これをやって裁判されるなら受けて立ちましょう。憲法に照らして、わたしは絶対に負けない」
深沢村長の目が光った。
「わたしはね、そんなことはまったく意に介さない。医師会が行政訴訟を起こしても引っこまない。そもそも、税金を基準以上に高くすることは違法であっても、自治体の事情によって住民のために安くすることのどこが悪いんだ。」
及川和男『村長ありき―沢内村 深沢晟雄の生涯』新潮社 (1984/01)pp171-172


というところでした。当時は標準税率を超えた地方税率を設定することが認められていなかったので「税金を基準以上に高くすることは違法」という話になるわけですが、「住民のために安くすることのどこが悪いんだ」というのは何とも強烈な論理です。

ただし、この直後に深沢村長の信念が表明されていて素直に感銘します。

「限界を超えない限りにおいては、国家といえども拘束すべきものじゃない。本来は国がやるべきことをやっていない。だから沢内がやるんだ。国は必ずあとからついてくる。いいから、村長は断固としてやると言ってると、県に言ってきなさい」
及川『同』p172


所得再分配機能は国が持つべきというのはまさにそのとおりで、この信念は本書でも何度も繰り返して述べられています。まとまっているのは、深沢村長が二期目の村政を担当して間もない夏の頃というから、おそらく昭和36年だと思いますが、岩手県国保連主催の「保健活動事業夏季大学」に招かれたときの講演の概要が記述されている部分。

「初めに申し上げたような考え方から致しまして、国で責任を持つのが本当だ。とはいっても、国が責任を持たないものを、それまで待つわけにはいかんから、市町村がその努力をすべきである。これが第二段階としての私の理論の展開でございます。それが只今保健活動の一環としてやっております、六十歳以上の方々の早期診断・早期治療の実施でございます。診断はむろん、治療もただでして上げるわけでございます。一歳未満の赤ちゃんについても無料でございます。
(中略)
最後に、私の話の結論を申し上げたいと思います。現況においては一ぺんにできませんが、即ち、国家の方に比重がかかる方向に、カネを出すという方向に、いわゆる国家管理の方向に、そのための医師の統制問題・大学制度の改造問題、こういうことをわれわれは声を大にして世論化せねばならない。そうすることで、国家としても保健問題にももうちょっとカネを出さなきゃならん、大学が封建制の牙城であるならば、これに掣肘を加えなきゃいかん、ということになりましょう。また医者が僻地には行かん、僻地に行くんだったら、カネを二倍も三倍も貰わなきゃいかん、というようなことじゃ、これでは国の政治として成り立たんから、医師の配置につての国家の権限の強化も、漸次考えて参りましょう。」
及川『同』pp183-185


権丈先生が今現在『医療政策は選挙で変える 再分配政策の政治経済学Ⅳ』(2007、慶應義塾大学出版会)で主張されていることとほぼ同じ内容(趣旨は違うかもしれませんが)を50年近く前の小さな村の村長が主張していたことは、もっと強調されるべきだと思います。その意味でいえば「日本では希有の品格と哲学を持った町である」という評価は至極まっとうなものです。

ただし、すなふきんさんsean97さんが違和感を感じられているように、

そして21世紀、今、私たちは世界有数の経済大国を成し遂げながら戸惑っている。老いも若きも将来への不安に脅え、心豊かではない。幸せではないのだ。

一体、この国で何が起きたのか? どこで道を踏み違えてしまったのだろうか?

戦後60年、私たちは経済を至上とし、効率と合理性に価値を求め過ぎたのではないか。世界一のスピードで走り、その早さの中で過去の時間を忘れ去り、優しさや弱者への思いやり、人間としての心のあり方を忘れてきたのでは無かろうか。
製作意図-製作に当たり」(いのちの作法


と、「豊かになったから幸せが感じられない」という経済成長否定の文脈で、この沢内村村長の理念を評価することはミスリーディングです。豪雪によって住民の健康が損なわれていた村への医療費などの所得再分配についての合意形成が可能であった時代を美化するのであれば、所得再分配が可能になるほどの経済成長があったからだという正しい認識が前提となっていなければなりません。今その合意形成が難しくなっているというなら、とりもなおさずその合意形成を可能にする経済成長をこそ目指さなければならないでしょう。

さらにいえば、「国がやらないから市町村がやるんだ」という切羽詰まった状況があったにもかかわらず、それを当たり前に思ってしまうのが今の地方分権が支持してしまう感覚なのかなとも思ったり。「国は最小限の機能に特化して、地方にできることは地方に」とかいうのって、そもそも地方にできないことをやらされていたところからスタートするなら、その現状を追認することにしかならないわけで、そりゃいくら市町村を大きくしたって「3倍自治」で超過した部分は自治にはなりませんよねえ。

ちなみに、本書が刊行された1980年ころの沢内村の医療費の状況は、

沢内村の受診率は、岩手県下で最高位に属するが、一件当り、一日当りの費用額は最低である。予防の思想が徹底していることと、健康度の高さを示すものだ。もはや沢内村では、乱受診などという言葉は死語になっているといっていよい。
他の市町村が医療費地獄に悩み、年々国保税を引き上げているとき、沢内村では前年比一二パーセントの減税を実施し、世の中を驚かせた。昭和五十六年のことである。沢内村の国保会計は、昭和五十四年から、毎年三乃至四千万円の黒字となっているのである。その原因は、老人の医療費の低下と、ガンなどの難病が減って高額療養費の負担が大幅に低下したためである。沢内村が国保税を減税した前年の昭和五十五年度、つまり晟雄が老人医療費の無料化に踏みきって二十年目の年、沢内村の老人一人当りの医療費は十七万六千二百三十六円であった。全国平均三十四万三千七百五十一円の、実に半分なのである。ここに明らかに「生命行政」の勝利を見てとることができる。
及川『同』p233


だそうで、詳細な経費の内訳はわかりませんが、前回エントリの「自給自足的な財政運営をしたわけではない」という部分は保留します。といっても一般的に入手できる資料がないので確認しようもないのですが…
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