2020年02月29日 (土) | Edit |
前回エントリの最後で「新型コロナウイルスをめぐる昨今の政府対応などはとても参考になります」などと書いたところですが、混乱はいや増すばかりでして、こうなると冷静な議論が難しくなってしまいますね。いやまあ、そういう状況に陥ったこと自体が政府の手際の悪さだと言えばその通りなのでしょうけれども、こういうときこそ努めて冷静に議論するという心構えも必要だろうとは思います。

ただし、なぜそんな事態に陥るような拙速(と思われるよう)な判断が行われたかというのを邪推してみますと、霞ヶ関方面から


というtweetが流れてくるのを目にするにつけ、政府官邸に巣くう経産省のお行儀の悪さが容易に想像されますね。

なお、話はそれますが、宇佐見氏のキャリア官僚についての説明はさすが中の人と思いますが、農水省に根回しなしに農商工連携とか言い出すあたりに経産省特有のお行儀の悪さが全開で、だから経産省不要論が絶えないんだろうなと思うところです。以前経産省が地方交付税の研究会を開催しているのを見てなんのこっちゃと思ったら、地方交付税の仕組みが企業活動に影響を与えるから経産省としても何かいわなければならないとか(いう趣旨が)書いてあって、つくづく総定員法の弊害を感じたものです。権丈先生のこちらもご参照あれ。
「不磨の大典”総定員法”の弊」『週刊東洋経済』2010年10月16日号

「日本型雇用慣行=グローバル競争?(2013年05月08日 (水))」

という、やることがなくてド素人の分際で専門家の分野に入り込んでドヤ顔で勝手なことを始めるいかにも経産省マインドの持ち主であるわけでして、総定員法の弊害というのはこういうことです。

 結果、行政需要が増えゆく府省の人員は余裕を失っていく一方、行政需要が減少する府省では人員が余り、仕事を求めて活発に動き始める。そうした力学が強く働いていることを感じるのは、この6月に医療ツーリズムをはじめとする医療の営利事業を提案した経済産業省『医療産業研究会報告書』を眺めたり、かつて同省、その前身の省が年金の民営化や基礎年金の租税方式化を唱えていたことを思い出す時である。

権丈善一「不磨の大典”総定員法”の弊」『週刊東洋経済』2010年10月16日号

こういう余計なことをしている省庁には、なぜ厚労省がオーバーワークになっているかなんて想像もつかないのでしょうけど、その根底には日本型のメンバーシップ的な雇用慣行も影響していそうです。

「厚労省の仕事がオーバーワークではないか」野田聖子氏(2014年5月23日20時46分 朝日新聞)

少子化・超高齢化社会になると、どうしても政策の主要な課題は社会保障に集中している。私が内閣府特命担当大臣の時に、厚生労働大臣が信じられないぐらいの想定問答集を持ってきた。予算委員会では財務相よりむしろ厚労相に質問が多かった。今も変わっていないし、むしろ増えた。厚労省の仕事がオーバーワークではないか。少しパターンを変えた方がいいのかなと言う気がする。国民の懸案事項は経済の次は社会保障、年金と続く。役所の仕事もかなり多くなっているし、議員立法も厚労省関係の福祉とか医療とか社会保障関係は多い。相当、仕事を増やしている。厚労省を批判したところでミスは減らない。(厚生労働省のミスで国会審議が滞ったことについて、記者会見で)

(略)
問題は、それなら仕事の少なくなった役所の人員を減らして、仕事がやたらに増えたところを増やせばいいではないか、というごく当たり前の理屈がなかなか通らないことでしょう。

それこそ、仕事に人をつけるジョブ型じゃなくて、人に仕事を割り当てる日本的システムの弊害が露呈しているところかもしれません。

昔のように業界振興が天下国家の至上命題だった時代の省庁人員配置をそのままに、社会労働関係の増えた政策需要に対応しようとすると、一方にオーバーワーク、一方にアンダーワークという状態が生じてしまいます。

正確に言うと、仕事が減ったからといってもおとなしくしている役所もあれば、仕事がないと不安なのか、自分のところのジョブディスクリプション(○○省設置法)なんか無視して、よその役所の課題にばかり口を挟みたがる熱心な役所もあったりしますが、でも、それが当該課題をジョブディスクリプション上で所管する役所のオーバーワークの解消に繋がるかというと、逆にますます余計な仕事を増やすだけになったりするので、なかなか大変ですね。

単なる雑感です。

「雑感(2014年5月24日 (土))」(hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳))


「メンバーシップな経産省」(2014年05月29日 (木))

経産省的な意思決定が跋扈する政府〜霞ヶ関方面の現状を見ると、現在の日本型雇用のあり方がよりはっきりと見えてくるように思います。

昨年末のエントリで、

個人的にメンバーシップ型のデメリットは、上記のように「組織規範に忠実な社員」によって公的機関や主要な産業が組織されるというトートロジカルな雇用慣行が社会規範化することで、技術革新的なビジネスモデルが日の目を見ることなく、専門性に裏打ちされた政策が採用されることもない社会となっていることだと考えております・・・

ジョブ型公務員と職業資格(2019年12月05日 (木))


と指摘したことに関連しますが、日本型雇用慣行において意思決定を行うのは、職能資格給制度を核とする日本型雇用において職務遂行能力を積み重ねたベテランであって、その職務遂行能力は「組織規範に忠実な社員であること」とほぼ同義です。つまり、日本の組織における意思決定は「組織規範に忠実な社員」、具体的にはそれを評価されて偉くなった「管理職」によって「組織規範」を最優先の基準として行われるため、専門性の優先順位はそれほど高くありません。専門性に基づく意思決定が行われない(か、それほど重視されない)わけですから、専門性を有する職員はディシジョンメーカーにはなり得ず、だからこそ職務遂行能力があるとは認められず、その多くは職能資格給制度によって処遇されない非正規労働者になっていくわけです。

「博士」生かせぬ日本企業 取得者10年で16%減 世界競争、出遅れも(日本経済新聞 2019/12/8付)

世界は新たな「学歴社会」に突入している。経営の第一線やデジタル分野では高度な知識や技能の証明が求められ、修士・博士号(総合2面きょうのことば)の取得が加速する。主な国では過去10年で博士号の取得者が急増したのと対照的に、日本は1割以上減った。専門性よりも人柄を重視する雇用慣行を維持したままでは、世界の人材獲得競争に取り残されかねない
(略)
経団連は毎年、加盟各社が「選考時に重視した点」を調べている。上位を占めるのは「専門性」ではなく、「コミュニケーション能力」など人柄に関する項目ばかりだ。

入社後も専門性は評価されにくい。30歳前後の平均年収を比べると、日本の学部卒人材が418万円なのに対し、修士・博士の大学院卒は524万円。その差は1.25倍だ。米国の修士の平均年収は763万円で、学部卒の1.4倍を稼ぐ。博士では915万円と1.68倍まで開く。

高学歴者に高収入で報いるのは、世界の常識だ。社会学者の小熊英二・慶応義塾大学教授は「グローバルの人材評価基準から日本市場は隔絶されている」と指摘する。倍以上の年収で外資に転じる博士が後を絶たないのは、国内企業の待遇の悪さの裏返しだ。

「社会」に出ても稼げないため、日本では博士号を保持する研究者の75%が大学などに所属する。日本では1990年代に政府主導で博士を増やしたが、雇用が不安定なポスドク問題を生み出した。科学技術振興機構の永野博研究主幹は「企業に採用される人材を、大学側が育ててこなかった面もある」と話す。

※強調は引用者による。


「大学が企業に採用される人材を育ててこなかった」という話も紹介されていますが、「組織規範」に忠実な「コミュニケーション能力」に長けた人材育成は日本の大学の得意とするところでして、「組織規範」では評価されない専門性を持った人材が日本型雇用に浸かりきった日本企業を見限っているというべきでしょう。

おそらく普通の日本型雇用に浸かりきった方にとって、「組織規範」とは組織として責任のある行動の基準となるものと認識されていると思われます。日本型雇用慣における正規労働者は、採用されたばかりの新人のころから「社会人としての責任を果たせ」としつこく教育されることになりますが、そこで(組織規範を内部化した)上司から叩き込まれるのが「組織規範」ですね。とはいえ実際のところ、とりわけゲゼルシャフトたる会社組織における規範に従ったところで社会人としての責任が果たされるとは限らないはずですが、だからこそ「組織としての責任のある行動の基準」をフィクションとして設定する必要が生じます。そのフィクションが現実を飲み込んでしまっている様が、現在の政府〜霞ヶ関方面を見ているとよくわかります。もちろんそれは、日本型雇用にどっぷり浸かりきった我々にも切実な問題なのですが、そのような意識を持っている方があまり見当たらないところが本当の問題なのかもしれません。

(追記)
本エントリは2月29日(土)の総理会見の数時間前にアップしたものでしたが、総理会見もまさに「専門性を徹底的に排除した」内容となっていましたね。

そして、現状においては、感染の拡大のスピードを抑制することは可能である。これが、今週発表された専門家の皆さんの見解であります。そのためには、これから1、2週間が、急速な拡大に進むか、終息できるかの瀬戸際となる。こうした専門家の皆さんの意見を踏まえれば、今からの2週間程度、国内の感染拡大を防止するため、あらゆる手を尽くすべきである。そのように判断いたしました。
(略)
そして、全国すべての小学校、中学校、高等学校、特別支援学校について、来週月曜日から春休みに入るまで、臨時休業を行うよう要請いたしました。・・・それでもなお、何よりも子供たちの健康、安全を第一に、多くの子供たちや教職員が日常的に長時間集まる、そして、同じ空間を共にすることによる感染リスクに備えなければならない。どうか御理解をいただきますようにお願いいたします。

「安倍内閣総理大臣記者会見」(令和2年2月29日)

確かに「専門家の見解」を基に判断しているようには見えますが、ではなぜその専門家の見解を踏まえると「全国の主中学校で臨時休業」が必要となるのかについては一切説明されず、「御理解」だけをお願いするという、この国でよく見る風景が繰り広げられているといえましょう。確かに専門家の高度な説明では一般に理解されにくいとしても、総理会見は、今回の措置の趣旨を理解して現場で実践し、患者や生徒でその説明が求められる立場にある医療従事者も学校関係者も聞いているわけでして、現場の彼らの作業を説明できるくらいの内容は必要だったと思われます。この程度の説明では結局、現場の医療従事者や学校関係者が総理の説明の不足分を現場で補わなければならず、現場の説明は往々にして理解されないという負のスパイラルを生んでしまうわけですが、まあ経産省的には「所管官庁で説明しとけ」ってなもんでしょう。

牧原先生も秘書官グループの経産・警察色の強い布陣を危惧されていましたが、

 辞任した谷内国家安全保障局長の後任が、外務省から選ばれず、警察庁出身で首相との会合回数が多い北村内閣情報官が抜擢(ばってき)された結果、今井・杉田・谷内というある種の多様性とバランスのとれた構成が、今井・杉田・北村という経産・警察色の強い構成となった。今井秘書官についてしばしば言われる、首相の威を借りる乱暴な指示、無理筋な政策形成といった性格が色濃くなりそうな布陣である。

終末期に入った安倍政権を揺さぶる分断と対立 首相の親衛隊チームと一般行政官僚チームとの間で高まる緊張関係
牧原出 東京大学先端科学技術研究センター教授(政治学・行政学)(2019年12月06日)

機能の会見についての「当事者感覚のなさ」を指摘されていますね。
牧原先生の慧眼ではありますが、この布陣となった時点で想定された事態でもあるのかもしれません。
スポンサーサイト




2020年02月27日 (木) | Edit |
年明けからすっかり放置状態になっていた拙ブログですが、プライベートで大きな動きがありましてなかなか時間を作れない状況が続いておりました。というわけで、こうしているうちにも各方面で取り上げなければならない事案が発生しているものの、ここ数年考えていたことにヒントが与えられたような気がするので、忘れないうちにエントリに起こしておきます。

今年の頭には
■100分de名著シリーズのバックナンバー約100冊を読破したら人生変わった
という増田が話題になっていたようですが、私もここ1年ほどEテレの「100分de名著」を欠かさず見ているところでして、今月に取り上げられている名著はヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』です。正直なところ、チェコに関心があったわけでもなく、1989年に共産党一党支配体制が崩壊した後の初代大統領であったハヴェルという人物も初めて知った程度ですが、テキストを買って読んでみたら、先週月曜日の第3回目の放送分で大変示唆に富む言葉が示されていました。

ハヴェルは共産党一党支配体制に抗議する「反体制」ではありましたが、1970年前後のヒッピームーブメントのようないわゆる「反体制」には批判的です。

・・・1960年代後半にアメリカで盛り上がりを見せたヒッピームーヴメントの中から、西欧的な考え方とは異なる「パラレル」な世界を求めて、東洋思想へ傾倒する人も多く現れました。しかしハヴェルは、そうした動きを「ゲットーへの逃避」「孤立行為」と批判します。かれは、「並行構造」とはフィクションの中に閉じこもったり、どこかに逃げたりすることではなく、「本質的に世界に開かれ、世界が担う責任」を伴わなければならないと主張します。かれの試みた「並行構造」は、閉鎖的で結社化した組織で好きなことをする、というものではありませんでした。(略)

・・・伝統的な議会制民主主義が、我々よりも深淵な解決法をもたらしていることを示すものは現実には何もない。そればかりか、生が真に目指すものという点において、西側には我々の世界以上に多くの余地があり、危機は人間からより巧妙に隠れているため、人びとはより深い危機に直面している。

 ハヴェルは、西側の社会は、自分の生にとって本当に必要なものが非情に見えにくい社会だと考えていました。西側には消費社会があり、多様な選択肢があります。現代の私たちの生活にも、モノに溢れ、「どれを買おうかな」と迷いながら買い物をすることができます。しかし実は、巧妙な宣伝や膨大な情報に振り回され、自分で選んで買っているようにみえて、それが本当に必要なものなのか、本当に欲しいものなのかさえよくわからない、というようなことが起こってはいないでしょうか。
pp.83-84


100分de名著
ヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』 2020年2月
[講師] 阿部 賢一
定価:576円(本体524円)
発売日 2020年01月27日



※ 以下、強調は引用者による。

あくまで私の問題意識に引き付けて読んでいるので指南役の阿部賢一氏の引用の趣旨とは異なると思いますが、上記引用部の前半でいう「責任」という言葉については、「地方公務員法の有権解釈として参照されている逐条解説において、「職務といい、責任といっても、実質的には同じことを指しているといってよいであろう」と断言されている地方公務員」としてはとても重要な指摘だと思います。というのも、法律において職務と責任がセット販売されている公務員にとっての「責任」とは、通常の意味の職務とは異なる「職務給の原則」により運用がされている公務員の世界にあって、「自分の職能資格を全うすること」に他なりません。

そしてその職能資格とは、以前のエントリから引用すると、

もちろん「職能資格」が同一組織内でのみ獲得されるものであるため、少なくとも採用時のスタート時点ではすべての正規労働者に等しく与えられますが、それを「長期雇用による経験」によってどこまで積み重ねられるかは正規労働者個々の適性と成果に応じて決まるわけです。しかもその「長期雇用による経験」は強大な人事権として使用者の裁量に任されているわけですから、積み重なる「職能資格」がつまるところジョブローテーションによって獲得される以上、人事異動を含むジョブローテーションによってどれだけ組織の規範を内部化するかが重要になります。平たくいえば、「デキる社員は出世コースを異動する」ということですが、これはメンバーシップ型がトートロジーによって成り立っていることを見事に示した言葉でもあります。

労働史観の私的推論(前編)(2018年11月10日 (土))

という形で、組織の規範を内部化することによって積み重ねられるものであり、したがって、公務員にとっての「責任」が自分の「職務」とイコールである限りにおいて、公務員が責任を果たすということは組織内部の規範に則って職務を遂行することになるわけです。

いやまあもちろん、職能資格給が広く普及している現状においては、特に大企業において同じような傾向が現れるわけでして、これを揶揄して「官僚化」などという方もいらっしゃいますが、日本型雇用における大組織に共通する点からすると「日本型大企業病」というほうが適切ではないかと思います。

さらに続く部分で、議会制民主主義において自ら決定することがその正統性を担保していることを前提としつつ、その決定は、実は自分が決めているともいえないのではないかと疑問が呈されています。日本型雇用において職能資格を積み上げて昇任を重ねることは、その人の努力や能力が評価された結果と思われがちですが、その実、組織規範の内部化度合いを評価されているだけということが判明したら、まあ昇任した人はあまり気分よくはないでしょう。しかし、組織の判断を自分が決めたと思わされているとしたらそれもまた気分がよろしくはないと思われるところ、どちらがいいのかは価値判断によるとしかいえないのかもしれません。

でもって、上記引用部に続く部分では、

 全体主義的体制は、実際には何よりもまず、合理主義の当然の帰結を拡大してみせる凸面鏡である。合理主義自体が深いところで持つ志向が、グロテスクに拡大された像である。  (同書)

 先ほどイロウスが「自分たちのほうがまだまし」と考えていたという話をしましたが、当時のチェコスロヴァキアのかれらの方が、選択肢が少ないだけで、「これは本当に必要なものか、今日買うべきものか」が分かっていたと思います。そして、この「自分が本当に欲するものは何か」という根源的な問いは、ポスト全体主義社会に生きる人の問題というより、技術文明におけるすべての現代人の問題に繋がっていくのではないでしょうか。
 それゆえ、ハヴェルの『力なき者たちの力』は、東欧あるいは全体主義という枠組みを超え、我々の現代社会に警鐘を鳴らす書となっているのです。
「同書」pp.86-87

という指摘がありまして、「合理主義自体が深いところで持つ志向が、グロテスクに拡大された」全体主義体制という指摘は、昨今の日本の状況を見ると深刻な問題ではないかと思うところです。日本の現場では長らく「全体最適」がマジックワードとなっていて、「それぞれが自分の担当に閉じこもってしまう部分最適ではダメだ。全体最適を目指すべきだ!」といえば、何か言った気になることができる風潮があります。おそらくそこには、専門的な見地は局所的な視点に陥りがちだから、全体を俯瞰して判断しなければならないという、それ自体は誠にもっともな理屈があるのでしょうけれども、その裏には「職能資格を積み重ねた上司の判断に従う」という日本型雇用への信頼があるものと思われます。しかしそれは、専門性を軽視し、「全体最適」なる合理主義にお墨付きを与え、「合理主義自体が深いところで持つ志向が、グロテスクに拡大された」全体主義体制に容易に通じてしまうという危険性を孕むものと思われます。

この上記のような「職務と一体となった責任」も「全体最適」なる合理主義を正統化する作用があるわけでして、新型コロナウィルスをめぐる昨今の政府対応などはとても参考になりますね。