2019年03月21日 (木) | Edit |
2019年は宇宙世紀0079の一年戦争を舞台にしたファーストガンダムの放映年から40年で、ガンヲタにとってのメモリアルイヤーですが、整理解雇の4要件の高裁判決が出されて40年の節目の年でもあります。

そもそもガンダムが放映された1979年というのは第二次オイルショックのまっただ中で、高度経済成長期末期から日本型雇用慣行が確立された時期でもあって、日本型雇用慣行と「春闘」方式が高インフレによるスタグフレーションの進行を抑え、1980年代の日本経済の一人勝ちを準備していた時期でした。またこの時期は、就業規則不利益変更法理とか解雇権乱用法理とか整理解雇の4要件(東洋酸素事件の東京高裁判決がちょうど1979年ですね)とかの判例法理が確立し、賃金体系では1969年の日経連「能力主義管理−その理論と実践」による職能資格給が広まっていった時期にも重なります。

「やる気のある主役」以外が大事(2012年11月22日 (木) )

「日本の正社員には厳格な解雇規制がある」とかいう一知半解の言説が途絶えることはありませんが、その誤解を招いているのがこの整理解雇の4要件説ですね。まあ、判例法理として確立したということは、すでにそうした権利関係が認められる状態にあったということなので、1979年から整理解雇が厳格化されたということではありません(東洋酸素事件のきっかけとなった解雇は1970年に行われています)が、実質的な規制として社会的に認識されたことは事実でしょう。

で、40年というと高卒で就職した労働者がそろそろ定年を迎え、大卒なら既に定年を過ぎて再雇用されたりするステージに入っているわけですが、それは日本型雇用慣行としてのメンバーシップ型雇用にお墨付きが与えられてから就職した方々でもあります。制度というのは、いったん成立するとその制度自体を維持することが目的化することは避けられないところでして、その中心的役割を果たしているのがパワハラの源泉としてのOJTだろうと考えます。

とはいえ、整理解雇の4要件説が判例法理として確立して40年間、パワハラOJTもそのまま変わっていないかというとそう単純な話ではありません。1年ほど前になりますが、北海道の自治体で(おそらく専門職として選考採用され)学芸員をされている石井淳平さんという方がnoteでその辺に対する違和感を指摘されていました。

公務員は能力を把握されているか

ところで、公務員は全員一定の能力をもつことが前提となっているようです。
建前上は「職階制」なので、職に応じた能力を持てばよいということになっていますが、現実には年齢によって職階が定まるので、ある年齢層にはある一定の能力が求められます。

こうした能力の管理方法が公務員のメンタルヘルスの問題と関係があるように思います。

全員が同じ能力を要求される辛さ

公務員はいわば、全員が100mを11秒で走り、ベンチプレスを90kg持ち上げることが要求されるラグビーチームのようなものです。
両方ともクリアできる選手はすばらしいと思いますが、個人の能力の向上は、本来組織としてコントロールできる性質のものではありません。

しかし、公務員の場合、基本的には同じ能力が求められ、異動した先の職場でも前任者と同じスペックで仕事を行うことが要求されます。

(略)

組織に人間が合わせた末に起こること

結局のところ、組織と個人の関係が、本来あるべき姿から離れていくほど、問題が増えていくのだと思います。
組織の意義は、容易には変えられない個人の能力差を集団でカバーして全方位的な危機対応をやっていこうね、というところにあるはずです。
選手が変われば戦略が変わるということが、組織の本質であるはずです。
しかし、公務職場では組織に人間があわせていく度合いが強く、「チームワーク」ということが、個人のスペックを均一にすることと同義になってしまっているように思います。
その結果、「地頭の良さ」のような単一的かつ改善困難な要素で職員の評価が定まってしまうということになります。

一種の過剰適応を要求されるところに、公務職場では仕事内容の割にメンタルの問題が多く発生する原因があるのではないかと感じています。

それほどつらい仕事とは思えないのに公務員が病んでしまう理由(石井淳平 Mar 2, 2018)

一応指摘させていただくと、地方公務員法の改正までいちいちフォローするような地方公務員もそうそういないと思いますが、地方公務員法における職階制は既に2014年改正で削除されていまして、さらにいえば、建前上は「職務給」であるのに実際の運用は「職能資格給制度」によって年功的に運用されているというのが労働法(ヲチャー)的な説明となりますね。

という意味では、「公務員の場合、基本的には同じ能力が求められ、異動した先の職場でも前任者と同じスペックで仕事を行うことが要求されます」という指摘も、(程度の違いこそあれ)公務員に限った話ではなく、職能資格給制度における職務遂行能力による格付けによる運用が行われている会社組織では、同様に見られる現象ではないかと思います。

さらにこのエントリから半年ほど経って、議会での答弁からメンタルヘルスに対する自治体幹部の考え方が取り上げられています。

役所の職員がメンタルヘルスを病んで退職するケースが増加しているとの認識のもと、町の対策について質問しています。

答弁(副町長)

正直、実際に昔、我々が入ったときには、上司がいて、同じ年代の人たちが課が違っているということで、上司との関係、縦との関係と横との関係でつながっていたわけでございますが、なかなか仕事もそれぞれパソコンが入ってくると、一人ひとりの仕事みたいなことになっておりまして、上司、部下という接点が、仕事で教えてもらうというよりも、個人的なというか、アドバイスはもらえるけれども、その仕事はあなたのこれよ、私のこれよみたいな感じにはなっているなという気はしております。(中略)

副町長さんの答弁は、職員のおかれた状況や過去の働き方との比較についてのべていますが、なかなか適切です。

業務の縦割り化が個人レベルまで進行している点を指摘していることは重要です。コンピューターの導入によってこうした状況が加速したとの認識も説得力があります。

(略)

議員さんは職員のメンタルヘルス対策について尋ねています。飲みニケーションで終わらず、組織的な対応を確認する良い質問です。

答弁(町長)

病んでいる職員がいるということで、病んでいるというのは、もう病気だということですから。私は、町の職員というものは、町民の最大のサービス産業であるこの役場が、町民に対してまともなサービスができないような職員はやめていただきたいと、こういうふうに思っております。(中略)

いきなりすごい答弁です。病気の職員は辞めてほしいと公言しています。いわゆる「ブラック企業」と言われる企業の経営者でも公式記録の残る場でここまで思い切った発言はできないでしょう。

自治体職員のメンタルヘルスと首長の本音(石井淳平 Aug 17, 2018)

ここで副町長答弁で指摘されているうち、「業務の縦割り化が個人レベルまで進行している」のは組織のフラット化による部分が大きく、そのことによってOJTが変容し、日本型雇用のあり方そのものにも影響しているのではないかと考えます。パソコンの導入というのはたまたまバブル崩壊後の組織のフラット化と同時並行で進んだものであって、組織のフラット化によって、副町長答弁にいう「仕事で教えてもらうというよりも、個人的なというか、アドバイスはもらえるけれども、その仕事はあなたのこれよ、私のこれよみたいな感じにはなっている」という状況が生じたと考えるべきでしょう。

管見では、ここに町長答弁のような勘違いが生じる余地があると考えます。つまり、1979年からの40年を、バブル崩壊後に初めて就職氷河期といわれた1997年で前半と後半に分けてみると、前半の整理解雇の4要件説によってメンバーである正社員の解雇規制が判例法理となってからの約20年は、厚い中間管理職層がそれぞれの業務についてそれぞれの部下へのOJTを担っていたわけでして、その当時に若手社員だった現在の幹部職員は、その「前半型OJT」で仕事を覚えたという経験を有します。そうした経験を有する正社員は、「正社員たるものどんな業務でもどんな状況でも正社員としての職責を果たすべきであり、そのために職場の人間関係を壊さないコミュニケーション能力が必要」という正社員像を共有することになります。そりゃまあ、ご自身がそうやって仕事をしてきたわけですから、仕事はそうやってするものだと考えるのもやむを得ないのでしょうけれども、それがずっと続くという保証はありません。

実際に、バブル崩壊後に正社員の範囲を限定するために中間管理職をプレイングマネージャーとして組織をフラット化した後半では、OJTを担っていた厚い中間管理職層が失われました。その結果、中間管理職が担っていた仕事は、関係者との調整から書類作成、チェック、発送に至るまでが個別のパッケージとなり、プレイングマネージャーを含む部員にそれぞれ割り振られることになります。そこでのOJTは、個別のパッケージを前任から後任へ受け継ぐという形になるため、スキルを身につけるというより、パッケージをこなす能力を身につけるための後半型OJTに変容していきます。

となると、中間管理職による前半型OJTを受けた層と、前任者からの受け継ぎである後半型OJTを受けた層では、正社員像とOJTで身につけるスキルの乖離が大きくなっているように思います。つまり、前半型OJTではまさに「白地の石板」(@hamachan先生)がスキルを身につけることが主眼となっていたものの、後半型OJTでは前任の人間関係におけるポジションにフィットして、その業務パッケージをそつなくこなすことが主眼となり、それが「公務職場では組織に人間があわせていく度合いが強く、「チームワーク」ということが、個人のスペックを均一にすることと同義になってしまっている」という状況を生み出しているといえましょう。

という私自身は後半に属しているわけでして、前半を過ごしたであろう上の世代と、同年代以下の世代とを見比べてみると、同年代以下の世代のスキルのバラツキの大きさを感じることがあります。まあ私の周囲の話なのでサンプルサイズも小さしですし、安易な世代論に落とし込むことは避けるべきとは思いますが、フラット化した組織でOJTを受ける層が組織の大半を占め、さらに若年者層が先細っていくと、業務に必要なスキルを身につけられないメンバーによって組織が運営されていくことも想定されます。まあ一部では既にそうなっているようですし、あと10年もすれば全体的な傾向となるでしょうけれども、職能資格給制度によって堅牢さを維持している日本型雇用慣行は、意外な形でその内部から変容を迫られるかもしれませんね。
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2019年03月18日 (月) | Edit |
年度末のデスマーチですっかり更新が滞ってしまいましたが、先週で震災から8年が経過しました。年に数度のデスマーチに見舞われてほとんど被災された地域に足を運ぶことがなくなってしまっておりますが、昨年末に行った際は、その地域のあまりの変化具合に以前どうなっていたかを思い出すのに時間がかかるほどでした。現在の被災された地域はかろうじて幹線道路や河川が元の位置にあるだけで、土地そのものが形状も高さも形が変わってしまっていて、復興というより本当に新しく街を作り直したんだなと感じます。たとえば市街地の再開発というのは私も何度か見た記憶があるものの、これだけの変化は初めて見る光景で、正直なところ戸惑うくらいです。

ただし、街が新しくなってそこに元いた方々が住むかというと、話はそう単純ではないわけでして、3年前にも指摘しておりますが「良くも悪くも震災前の状態に戻った後で、震災前からある課題にどうやって対応するかという古くて新しい問題」が厳然と立ちはだかることになります。

その現実に向き合っている若者の姿を追った番組を拝見したのですが、

今年1月、岩手県・三陸沿岸の山田町でタイムカプセルが掘り起こされた。8年前、東日本大震災の直後に埋められたものだ。当時、大沢小学校を卒業したばかりの6年生29人全員が「二十歳の自分へ」と題して手紙を書き、カプセルに入れた。今年二十歳となり成人式を迎えた彼らは、今の自分に宛てた手紙と再会した。
被災によって、彼らは多感な10代を厳しい環境の中で生きてきた。復興に向けて頑張ると誓い潜水士となって防潮堤など復興工事に携わる人。故郷を離れたものの、今も震災の記憶にさいなまれる人。身近な人の死に向き合えずにいる人。
あれから8年。二十歳という人生の選択の時を迎えた彼らは、震災直後の自身からのメッセージをどう受け止め、どのように次の一歩を踏み出すのか?二十歳の若者たちの旅立ちの時に密着する。

「NHKスペシャル “震災タイムカプセル”拝啓 二十歳の自分へ」
2019年3月11日(月)午後8時00分~8時43分

タイムカプセルを掘り起こそうと同級生に声をかけたのは、地元を離れて東京に進学し、そのまま東京で就職することを決めた方でした。番組の最後はその彼が取り上げられていましたが、同じ被災された地域出身でありながら、自分の家族に被害がなかったことに後ろめたさを感じて、自分が被災した地域出身であることをあえて表に出さず、東京で就職することにしたとのことです。しかし、同級生と会って震災に向き合う気持ちになり、被災した地域出身者としての決意を卒論に記したところまでが描かれていました。

いやまあ、少子高齢化が進んで人口減少に拍車がかかるというのは、まさに当地のような地方にとっては「古くて新しい問題」なわけですが、かといって若者が地元に縛り付けられるというのは、それもまた「古くて新しい問題」でもあります。その問題解決の打開策として若者に期待が寄せられるのはやむを得ないとしても、そうした二律背反な期待が寄せられるとあっては、若者も苦悩が深まるばかりでしょう。

新しく作り直された街で、その街に住む若者がどういう社会を作っていくのか、そうして苦悩する若者に対して、かつての若者であって現在の社会のディシジョンメイカーの中核を担っている大人たちがどう向き合うのかを考えると、実際の行動として実現する段階に進んでいると実感します。当時の小学生が成人するだけの時間が経過しているわけですからそりゃまあそうなのですが、その段階に進んでいるという実感と、それが行動に結びついていないという実感が併存するのもまた、それだけの時間が経過したことの表れなのかもしれません。