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2019年01月06日 (日) | Edit |
松の内ということで、これも去年の積み残しなのですが、震災後にこんなエントリを上げておりました。

あまりこの件を取り上げるのは気が進まないのですが、

東海テレビ不適切テロップ、3日間で抗議1万件(※リンク切れ)

東海テレビ放送(名古屋市)が4日に放送した情報番組「ぴーかんテレビ」で、岩手県産米のプレゼント当選者について不適切なテロップを誤って流した問題で、同社に6日夜までに寄せられた抗議の電話やメールが1万件を超えた。

 同社によると、6日は電話が午後6時までで約260件、メールが同9時までで約1600通に上った。放送日からの3日間では、電話約1300件、メール約9000通に達した。多くが岩手県など東北地方からで、抗議や関係者の厳正な処分を求める内容がほとんどという。

 同社は5日夕の特別番組で、問題の経緯を公表し、謝罪したが、愛知、岐阜、三重県の放送エリアだけだったため、6日夜、特別番組の概要と、岩手県庁などを役員が訪問して謝罪したことを同社のホームページに掲載した。
(2011年8月6日23時33分 読売新聞)
※ 以下、強調は引用者による。


で、「同社のホームページ」に「事実関係のご報告」というのが掲載されています。

1)なぜ常識を欠いた不謹慎なテロップが放送現場に存在したのか?

  • 問題のテロップは・・・
     [1]CG制作を担当する50代の男性スタッフにより作成された。
     [2]CG制作担当者が、実際に当選者の名前を記入する前の仮のものとして「ふざけた気持ち」で作成してしまったものだった。
     [3]CG制作担当者に渡す発注書には、不謹慎な文言は記載されていなかった。
  • 8月3日(水)(=放送前日)にテロップ画面をタイムキーパー(以下TK)が確認、その場で訂正を依頼した。しかし、CG制作担当者はそれを訂正の依頼と認識せず、そのまま放置した。
  • 8月4日(木)(=放送当日)朝、TKが問題のテロップを再度確認し、改めて訂正を依頼したが、CG制作担当者はこの時点でも「訂正の依頼と認識せず」放置した。
  • 「訂正」を巡るスタッフ間の理解の食い違い、テロップをチェックすることになっているディレクターに、問題のテロップの存在が伝わらなかったことで、チェック機能が働かなかったという管理体制の甘さにより、常識を欠いた不謹慎なテロップが、放送の最終段階まで残ることになってしまった。


「【お詫び】「ぴーかんテレビ」内での不適切な表現の放送について」(東海テレビ放送株式会社)(※リンク切れ)


(略)
こうした反応が広がっているのは、福島県を「フクシマ」などと記述して放射性物質の危険性を必要以上に煽りまくったマスコミや、それに乗じて自説を展開しようとする評論家や一部の学者連中が、被災地を「穢れ」たものとして認識する国民感情を醸成したからではないでしょうか。東海テレビのスタッフも、そういう認識が広がる中で生活していたからこそ「怪しいお米 セシウムさん」などと常軌を逸した言葉を思いついてしまうのでしょうし、CG製作担当者が「それを訂正の依頼と認識」しなかったような指示しか出さなかったタイムキーパーも同じ認識だったのだろうと邪推します。

東海テレビや保存会の方が謝るのは分からないではないんですが、彼らもそうした「圧力」や「利害関係」の中で活動しているわけですから、ここで問題になるのはその「圧力」や「利害関係」の中身なのだろうと思います。危機を煽って冷静な判断を奪っている何者かが、マスコミやネット界隈には数多く徘徊しているように思います。東海テレビのスタッフや保存の会に苦情を寄せる市民がそういう行動をとってしまうような認識を広めた方々にこそ、被災地の方々に謝っていただきたいのですけれどもね。

「謝る人が違う(2011年08月08日 (月))」
※ 引用した地の文の強調は引用時。

放送の地域が違うのでこの後の顛末はフォローできていませんでしたが、その番組は打ちきりとなり、さらにそのキャスターを追ったドキュメンタリーも作成されていたとのことです。

「さよならテレビ」が裏ビデオのように出回っている

「さよならテレビ」は、2018年9月2日に東海地区のみで放送された90分番組だ。東京では観られなかった番組なのに、放送直後から業界の話題となり、テレビマンたちの間ではDVDなどで裏ビデオのように出回っている。内容は「テレビの現状はどうなっているのか」というテーマで、東海テレビのディレクターが、同局の報道部を長期取材したドキュメンタリーだ。そのディレクターとは、話題となった映画「ヤクザと憲法」を監督した土方宏史氏。プロデューサーは、東海テレビのドキュメンタリー映画のほぼすべてを取り仕切る阿武野勝彦氏だ。

 取材が始まるやいなや、普段は他者にカメラを向けることを仕事にしている報道部員たちが、自分自身にカメラを向けられることにとまどいを覚え、反発する。土方ディレクターと部員たちは話し合い、「マイクは机に置かない」「デスク会は撮影許可を得る」などの取り決めをしながら、取材は続いていく。

 期間はおよそ1年半で、3人のテレビマンがメインの被写体となっている。そのうちの一人は、入社16年目のアナウンサーで、彼が夕方のニュース番組のキャスターに抜擢されるシーンから始まる。報道部長から「お前を売り出したい」と言われ、局の正面玄関の脇には、このキャスターの顔写真がデカデカと載ったポスターが掲げられる。

 だが実はこのアナウンサー、7年前に起きた同局のニュース番組における大きな不祥事にトラウマを持っていた。岩手県産のお米を「セシウムさん」と表現したテロップが流れ、あまりに不謹慎だと世間の批判を浴び、番組が打ち切りになったのだ。このテロップを流したのはもちろん彼の責任ではないのだが、たまたまその時に彼がMCをしていたために、放送中に謝罪を強いられ、ネットでは「おまえが死ねばいい」とまで叩かれた。以来、キャスターであるにも関わらず、自分の胸の内を素直にさらけ出すことにためらいを覚えている。

「業界騒然! 東海地方限定番組「さよならテレビ」は何がすごいのか?東海テレビが東海テレビを描く「問題作」ドキュメンタリー(1)(2018/11/12)」(文春オンライン)

マスコミの報道については拙ブログでは常に批判的ではあるのですが、私も仕事でマスコミの中の人たちとお話しする機会がそれなりにありまして、彼ら個々人はそれなりに現場の問題に向き合おうとしていることは存じております(もちろん中には意図的に役所を貶めようとする方もいらっしゃいますが)。しかし、組織の行動原理が日本型雇用慣行に基づいている場合、そのような個々人の思いは組織を維持するという圧力に抗することができないのが実情ですね。

ノンフィクションライターである石井氏は、本書の中でマスコミの当事者の生々しい言葉も伝えています。

「石井さん、今のテレビの報道っておかしいと思いませんか。僕、自分がいる業界にかなり失望しているんです。津波のあった直後は、会社からもどんどん惨状をつたえろと指示を受けていましたし、僕もそれをすることでここで起きている現実を日本中に知らせたいと思っていました。けど、現実にはそんなことは一切できなかったんです」
「どういうこと? 局はちゃんと現実を報道するつもりだったんでしょ」
「その姿勢は三日ぐらいしかつづかなかったんですよ。突然、会社からの指示が変わって、『視聴者は悲惨な話にはうんざりしているから、日本全体を勇気づけるような話を持ってこい。たとえば避難所でペットを飼っている老人の話だとか、子どもが生まれたという話が求められているんだ』と言われたんです。目の前で被災者が生活に困っていたり、遺体にすがって泣いていたりしているのに、それを無視して無意味に明るいニュースばかりつくらなければならなくなったんです。目の前に現実と報道の間に溝が生まれ、瞬く間に広がっていく感じでした」
(略)
だが、芸能やスポーツニュースならともかく、今回の震災のような場合でも同じ方法をとるべきなのだろうか。こういう時だからこそ、従来とは異なる方法でより被災者の現状をつたえる報道をする必要があるし、それが求められているのではないか。
彼はつぶやいた。
でも、今の会社の上司だってこのシステムの矛盾をわかっているんですよ。彼らだって若い時は今の俺と同じ立場だったから。けど、会社がそうやって動いている以上、今更変えることができないんです
石井『同』pp.143-146

もしかすると、『遺体』がその凄惨な描写にもかかわらず多くの方の心を動かしたことについて、石井氏も歯がゆい思いをしていたのかもしれません。たしかに被災地では、被災された方々自身がそれぞれのできることの中で協力し合い、非常時を乗り切ったことは事実です。それを明るい話題としてマスコミが取り上げることは、被災された方々のみならず、日本全体が新たな一歩を踏み出すために一定の効果があったことは否定しません。しかしそれと同時に、決して美談として語られないようなことが起きていたのも事実です。それらに同時に対処しなければならないのが自治体や警察、自衛隊などの公的機関でして、むしろ「決して美談で語られないこと」の方が対処に労力を要します。私が本書の内容により現実味を感じるのは、私がそうした「美談で語られないこと」に労力を割いているコームインの立場だからともいえそうです。

「生々しい現実(2013年04月28日 (日))」


石井氏に「石井さん、今のテレビの報道っておかしいと思いませんか」と問いかける現場の記者がいる一方で、上記引用部で強調した部分のような振る舞いをされている方が東海テレビにもいらっしゃるとのことです。

 実はこのドキュメンタリーの中で個人的には最大の驚きだったのが、悪役とも言える報道部長の存在だ。この人、どこかで見たことがあるな、と思っていたら、ハタと気付いた。この報道部長は、東海テレビのドキュメンタリー映画の傑作「平成ジレンマ」や「死刑弁護人」を監督した斎藤潤一氏なのだ。つまり、表で報じられるニュースに疑問を持ち、別の角度から捉えていく東海テレビ映画のお家芸とも呼べる手法を、阿武野プロデューサーとともに作った立役者だ

 そういうキャリアの持ち主が、報道部長となり(つまり会社で出世し)、「視聴率を獲れ」とか「上からやれと言われたらサラリーマンなんだから従わないといけない」とか、事実上クビの派遣社員に「卒業」などと言ってしまうような、典型的なメディア企業の管理職として生きている。斎藤部長は、いかなる思いでニュースを放送しているのか。その答えが聞ければ、この番組はさらに深度を増したと思うのだ。「さよならテレビ」は、テレビというメディアの話であると同時に、「組織と個人」という普遍的なテーマを描いていたのだから。

「業界騒然! 東海地方限定番組「さよならテレビ」は何がすごいのか?東海テレビが東海テレビを描く「問題作」ドキュメンタリー(3)(2018/11/12)」(文春オンライン)

いやまあ、「報道部長となり(つまり会社で出世し)、「視聴率を獲れ」とか「上からやれと言われたらサラリーマンなんだから従わないといけない」とか、事実上クビの派遣社員に「卒業」などと言ってしまうような、典型的なメディア企業の管理職として生き」るというのは、東海テレビという会社に特殊な現象ではなく、広く日本企業に浸透している日本型雇用慣行において職能資格を獲得するということの実態を示しているといえるのでないかと思います。

もっといえば、前述したような「私も仕事でマスコミの中の人たちとお話しする機会がそれなりにありまして、彼ら個々人はそれなりに現場の問題に向き合おうとしていることは存じております」というのは、公務員の不祥事が起きた際にコメンテーターとか良識的なついったらーの皆さんが「公務員の大部分は真面目な人なのに、一部の人の不祥事で叩かれるのでは報われないが、不祥事の張本人は徹底的に叩いてやるぞ」とかいうのと同じですね。つまり、他人の職については、一般論では擁護しさえすれば個々の事案については存分に叩いてやろうという姿勢は共通しているわけでして、私も安直な公務員批判を批判しているつもりではありますが、批判対象と同じ態度をマスコミの皆さんに対してとっているということになります。日本型雇用慣行に生きる労働者が他山の石とするのはかくも難しいということでしょう。

管理職の役目が「上からやれと言われたらサラリーマンなんだから従わないといけない」という精神論を押し付けることであるのは、日本型雇用慣行において職能資格給制度を駆け上った管理職に特有なのか、あるいは洋の東西を問わないことなのか、いろいろと考えさせられる事案ではありますね。
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2019年01月03日 (木) | Edit |
新年早々から昨年度の積み残しで恐縮ですが、プライベートでなかなか辛い時期が続いていた(2017年からのエントリのほとんどがパワハラ関連だったのでお察しというところですが)中で、hamachan先生も取り上げられていた「荻野勝彦×倉重公太朗」対談の最後の部分に思うところが多々ありましたので、去年の振り返りを兼ねてメモしておきます。

倉重:それは面白いですね。なるほど。ありがとうございます。じゃあ最後に、大学でも教えてらっしゃるということですんで、これから世に出ていく、あるいは社会人キャリアが浅くてこれから日本型雇用を進んでいく若者に向けて、キャリア的な観点で、ぜひ思ってらっしゃることがあったらお願いしたいんですけれども。
(略)
倉重:確かに。その仕事なりの、やっぱり意味があるから、そういう仕事があるわけだし。

荻野:そこは強調しますね。個人的な経験からも、それは言えますから。

倉重:そうなんですか。それは最初に人事に就いたときですか。

荻野:どれとは言いにくいですが、長い間にはちょっと気が進まないな、という仕事も何度かありました。まあでもせっかくやるんなら楽しくやらないとつまんないよねと思って、現場に足を運んだりして勉強をしている間に、だんだん面白くなってきて。それがキャリア的に有利だったかというと、まあそうでもなかったわけですが、でもそのほうが幸せに過ごせますよね。これは学生さんとかにはよくお話しします。

倉重:でも、それは結構、キャリアの本質的な話だと思うんですよね。やっぱりキャリアって、私のように結果的にできているものなので、例えば配属になった時点で、俺はこういうキャリアを歩んでいくんだ!なんて分からないじゃないですか。

荻野:分かんないですね。

倉重:そこでちゃんと、やっぱりとことん勉強をして真正面から仕事をやった人と、なおかつ嫌な仕事だなというふうにだらだらやっていた人では、当然、キャリアのでき方に違いというものが出てくると思うんです

荻野:特に日本企業は、仕事は会社が決めるし、転職をすると賃金が下がることが多いし。これもどうしようもないことなんです。それだけ賃金が高いんだと考えなくちゃいけない

倉重:その仕事を選べない代わりの対価として。

荻野:仕事を選べない代わりに。仕事を選べないし、会社の外に出ていたらそのままでは通用しないような能力をたくさん蓄えているわけですから。

倉重:社内スキルが。

荻野:社内スキルが。でも、それに対しても給料を払われているから、転職をすると給料が下がるんだと思えばいいんです。そういった中で、自分で選択をするわけではない形で担当業務が変わることも多いですね。それにいかに柔軟に適合していくかというアダプタビリティーというものはすごく大事なんでしょう

「【荻野勝彦×倉重公太朗】「日本型雇用はどこへ行く」最終回(若者と高齢者と日本型雇用)(2018/12/30(日) 6:00)」
※ 以下、強調は引用者による。

引用部の最後で語られている「それにいかに柔軟に適合していくかというアダプタビリティーというものはすごく大事」という人材育成の考え方こそが、日本型雇用が「メンバーシップ型」である所以ですね。もちろんそれは、何の職業的レリバンスも持たない新規学卒者を一括採用して職場の中で次々に仕事をアサインしながら人材育成しなければならないという現状において、最適化された行動であることは間違いありません。しかし、そうして「最適化された行動」自体がいろいろな問題を内包していて、そのことにそのメンバー全員がわかっていながら、その問題が放置されている原因ともなっているのが実態でしょう。

繰り返しになりますが、私が「パワーの行使がハラスメントとなる源泉は、実はパワーそのものではなく、OJTにおける試行錯誤にあるのが日本的雇用慣行の特徴だろう」と考えるのも、メンバーである限りはどんな仕事でも「柔軟に適合していく」ことが求められていて、それに「柔軟に適合」できない(とみなされる)労働者が非人道的な扱いを受けてもやむを得ないという組織風土が、(多くの方が内心では疑問に思いながらでしょうけれども)受け入れられる現状があるからです。

その一方で、「柔軟に適合していく」労働者は人事や上層部の覚えもめでたく出世街道をひた走るわけですが、そこにも「パワーの行使がハラスメントの源泉となる」一因があります。上記で荻野さんが「せっかくやるんなら楽しくやらないとつまんないよね」とおっしゃるような態度は、実務上必要な仕事であればもちろん有用ですが、問題は理不尽な仕事にまでその姿勢で取り組んだ場合です(おそらく荻野さんもそうした場合があることも認識されているとは思いますが)。つまり、理不尽な仕事といえども自分自身を錯覚させて前向きにこなした労働者にとっては、その前向きな姿勢や労苦が評価されるという効用がある一方で、その他の労働者にとってはその理不尽な仕事が標準の業務として定着するという副作用がもたらされかねません。

いやもちろん、目の前の苦難を楽しむことはサヴァイヴするための重要なスキルではあります。

・・・ユダヤ人が「ショア(大虐殺)」と呼ぶあのホロコーストは、あまりにも非道だった。それゆえに、重苦しく厳粛なトーン以外でその体験が語られることはほとんどない。たしかに、ホロコーストを題材にした笑いは今もなおタブーとされている(メル ブルックスの『プロデューサーズ』のようにヒットした一部の例は除いてだが)。だからといって、ホロコーストのさなかに笑いが皆無だったわけではけっしてない。現在は心理学者としてホロコースト生存者を支援しているチコヴィッツは、こう話してくれた。「最悪の状況でも、私たちは笑っていたわ」。強制収容所のバラックでは、夜、近くで寝ている元売春婦の女性たちが交わす下品なジョークに興味津々だった。強制労働の現場では、同じ製造ラインに立つほかの女の子たちとおかしな歌や馬鹿みたいな話でクスクス笑い合った。それに、今から思えば恥ずべきことだけれど、他人の災難をこっそり心のなかで笑ったことも—。「地獄みたいな飢えに苦しんでいたけれど、それでも私たちは笑っていた」彼女は言う。「きっと、笑いはひとつの解放だったのね」
 解放、癒し、しばしの休息—多くの人が、ホロコーストのような恐ろしい苦境で生まれるユーモアをそう解釈している。「ホロコーストにおけるユーモアは、楽しむためでなく、人生を肯定するためのものだった」『地獄のなかの笑い ホロコーストにおける笑いの効用(未訳: Laughter in Hell: The Use of Humor During the Holocaust)」の著者であるスティーブ・リップマンはそう指摘する。「それは対処ツールであり、逃避であり、一歩引いて小さなことから状況をコントロールしようとする手段なのだ」と。同じことが、いわゆる「絞首台のユーモア」にも言えるだろう。絶望的な状況で自らの運命を笑うそのユーモアは、フロイトに言わせればこう解釈できる。「人間の自我は、現実がもたらす刺激に苦痛を感じるのを嫌い、苦しみを強いられることを拒む。外界からのトラウマに影響されるなどあり得ないと主張したがる。だから、そんなトラウマは自分にとっては笑える程度のちっぽけなものだと身をもって示そうとするのだ」
p.48
世界"笑いのツボ"探し
ピーター・マグロウ/ジョエル・ワーナー 著
柴田さとみ 訳
ISBN978-4-484-15112-0 C0098
2015.4発行



目の前の苦しみがどうしても回避できない場合に、それをユーモアに変えて楽しむことでサヴァイヴする可能性が高くなることはありうるでしょう。しかし、仕事においてどうしても回避できない苦難はあるでしょうけれども、それを楽しんで乗り越えるようなサヴァイヴァーばかりではないはずです。ましてその苦難が「柔軟に適合」できない(とみなされる)労働者が非人道的な扱いを受けてもやむを得ないという組織風土」に由来するものであるならば、その組織風土を受容しているメンバーがそれを楽しむというなかなかにグロテスクな光景が広がることになります。昨年頻発した企業の不祥事の多くがここ数年ではなく数十年にわたって現場で引き継がれてきたのも、こうした背景があるのではないかと思うところです。

そして、その組織風土の中で「柔軟に適合していく」と評価される労働者が、その組織の中で重要なポストを占めるようになっていくわけですが、人事評価の基準となる職能資格給制度においては、実はキャリアの途中まではそれほど明確な処遇の違いはありません。というより、「柔軟に適合していく」労働者には微妙な昇進の違いやいわゆる花形といわれる部署への異動によって徐々に組織風土になじむキャリアを積ませていき、40歳を過ぎた頃からその差を踏まえて役職に登用するなどにより明確にコースを分けていくことになります。

まあそもそも上記で引用した荻野さんのアドバイスは、倉重氏が「これから世に出ていく、あるいは社会人キャリアが浅くてこれから日本型雇用を進んでいく若者に向けて」と振っているように、あくまで将来の幹部候補たる正規労働者として採用され、当面は微妙な差しか付かないような概ね30代前半以下の方に向けてのものです。つまり、40歳を過ぎて「柔軟に適合」できなくなった労働者、もっといえば出世街道からはずれて「柔軟に適合」する必要がなくなった労働者にとっては、このアドバイスはあまり参考にならないということになります。えーどうしようという私のような中高年労働者の皆さんにも、荻野さんは最後にアドバイスされています。

荻野:・・・逆に、しょうがねえなと思って諦めたっていいんですよ。いまの日本の正社員なら、それで失うのは将来のキャリアだけ。それにどれだけ価値があると思うかですね。それは案外、あまり意識されていない、日本の人事管理のいい面かもしれないんですよ。

倉重:ということですよ。結局、その会社での出世争いが全てじゃなくて、自分が納得する人生を送れるかですから。

荻野:まあそうなんでしょうね。日本の正社員は全員社長候補かもしれないけれど、実際に全員が社長になるわけじゃない。海老原嗣生さんの本によれば、ある企業に入社すれば、まあ2割か3割は部長クラスになれるそうですが、まあ、どこかでは天井を打つんです。そのときにどうするかですよね。そこから、仕事も大事だけれど、もっと家庭を大事にしようとか、地域とつながってみようとか、仕事以外のことに目を向け始めても、たぶん遅くはないと思うんです。

倉重:だから、そういうやっぱり仕事の外のつながりとか関係性というものは。

荻野:それはとても大事だと思います。

「【荻野勝彦×倉重公太朗】「日本型雇用はどこへ行く」最終回(若者と高齢者と日本型雇用)(2018/12/30(日) 6:00)」

もしかするとそれこそが海老原さんが「「ある年代までは日本型、そうして習熟を積んだあとは欧米型」という接ぎ木型」として提唱された働き方につながるのかもしれませんが、それを荻野さんは「日本の人事管理のいい面かもしれない」と指摘されるわけです。つまり、わざわざ法制化などの対応をしなくても、現行の日本型雇用管理の枠の中で可能との見立てではないかと見受けるのですが、「出世争い」から降りるという選択肢がどのように実現されるのか、それに対して職能資格給制度はどのように変容するのか、考えるネタはいろいろありそうですね。

2019年01月03日 (木) | Edit |
昨年中は多くの方々にコメント、拍手、ぶくま、tweet等々いただきありがとうございました。
本年も引き続きご愛顧のほどよろしくお願いします。

というわけで初詣しておみくじ引いてみました。

【吉】 (No.65402) モナー神社
願事 : 遅かれど思う通りになるべし
待人 : 思う日までに来るべし
失物 : 高き処にあり
旅立 : さわりなし
商売 : 物の価下がる買うは悪し
学問 : 困難 勉学せよ
争事 : 勝てど難有り
転居 : 急がず行えばよし
病気 : 少々悪し 信心せよ
縁談 : 人に頼めば早く調う ひそかにして宜し

昨年までの戦績が大吉→吉→吉→吉→大吉→大吉→大吉→大吉→末吉→大吉→吉でしたので、2年連続の吉で通算戦績は大吉6回、吉5回、末吉1回となりました。flash廃止の2020年末までですのでモナー神社詣でもあと1回を残すのみとなりまして、大吉5割超えは来年に持ち越しのようです。

ということで、今年も無事これ名馬を心がけて参りたいと思います。

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