2018年08月21日 (火) | Edit |
デスマーチの後遺症もありながらお盆は静養に努めましてすっかり更新が滞っておりましたが、『HRmics vol.30』をご恵投いただきました。いつもありがとうございます。
http://www.nitchmo.biz/hrmics_30/_SWF_Window.html
記念すべき30号でさらに10周年とのことで、裏表紙で告知されている「恩返しDay」も錚々たるメンバーで、海老原さんや荻野さんをはじめスタッフの皆さんが築き上げた人脈の広さと深さに感じ入ります。

という本号の特集は「戦略的人材育成なんて、要らない!」ということですが、拙ブログでは「日本型雇用における管理者養成機能の衰退」というエントリで、

ところが、以前は課ごとに分かれた大部屋の中で、課長から課長補佐、係長、主任などの序列の中に新卒を受け入れ、徐々に管理者としての能力開発と選別を行っていた日本型雇用慣行が、「年功序列で責任の所在が曖昧でスピードに欠ける」との批判にさらされてフラット化しました。その結果、即戦力としていきなり見よう見まねで仕事をこなさざるを得なくなったのが、ちょうど我々のような団塊ジュニア世代ではないかと思います。私自身も痛感するところなのですが、既にアラフォーからアラフィフが見えている団塊ジュニアの世代は、小池和男先生がおっしゃるところの「長期化するトーナメント方式」でつい最近まで部下もいないような平社員として現場に出ていて、残り10数年という段階でいきなり管理職としての役割を求められるようになっています。

もちろん、それまでに管理能力を身につけられる職員もいますが、あまりに現場が長くなってしまうとそのやり方が身についてしまって、自分なら簡単にできる仕事を十分にできない部下に対して高圧的に接してしまってパワハラしてしまう管理職や、目先の目標にばかりとらわれて長期的な次世代の育成まで配慮できない管理職も多くいます。人事担当部署もこれまで強力な人員削減圧力にさらされてきたので、退職者不補充と新卒採用抑制の手法のノウハウはありますが、その少なくなった職員体制でどのように業務を効率化するかという手法は未だに取得できていないのが実態ではないかと。

日本型雇用における管理者養成機能の衰退(2016年12月13日 (火))

と指摘していたところでして、自組織における(管理職を含めて)人材育成としては、以前の日本型雇用慣行においては、大部屋で細かく階層に分かれた職場に中間管理職が多数いて、上司の仕事を見ながら覚えるという仕組みの中で、いわゆる「OJT」に頼りながらそれなりに経営層を育成していたといえると思います。しかし、組織をフラット化して上司と部下の境界があやふやになるにつれて、分厚い中間管理職が消えてキャリアの大半をプレーヤーとして過ごすことになり、マネージャーとしてのスキルを身につけることなく管理職となった上司が多くなっているのではないかと考えております。

本号では、分厚い中間管理職が消えたことによる変化のほかに、日本企業での次世代経営候補としての早期選抜者の育成における「タフアサインメント」に着目して、

 さて、ではこうした早期選抜社に対して、特別な育成プログラムは設けているのか(図表⑦)。
 これについては、5〜10年目社員に対しては2社(33.3%)しか設けておらず、逆にこうした若年層には、一律型のチャレンジ制度を設けている会社が3社(50%)と多数になる。このあたりは日本的なボトムアップ重視といえそうだ。ただし、10〜15年目社員になると、優秀層への特別なOff-JTを施す企業が6社(100%)となる。とはいえ、それは大学教授や識者などによるOff-JTにとどまり、本社主導のタフアサインメントはわずかに1社しか行っていない

(略)

 計画的ではなかったが、結果的に優秀層は難関職にアサインされ続けたという意見が3社あり、計画的配置(本社主導1、事業部主導1)と合わせると、6社中5社(88.3%)が優秀層を難関職にアサインしているということになっている。この辺りの実情をインタビューベースで聞いたところ、優秀層が配置される難関職務とは「本社管理部門」「事業部の経営企画や統括部署」「業界・経営団体」などが多数を占めた。どちらかというとそれは、外形的には「花形部署」に見えるが、たとえば「海外赴任」「新規事業の立ち上げ」「不採算事業の整理」「子会社の役員」などの本当のタフアサインメントと比べれば、修羅場度が低いはずだ
p.07
HRmics vol.30

※ 以下、強調は引用者による。


と指摘されています。ヒアリング対象が大手日本企業で人事(部長以上)を担当していた6名とのことですので、大企業における「本部管理部門」や「事業部の経営企画」は、確かに扱う人員や金額の規模ではタフアサインメントといえましょう。しかし、一方で海老原さんが指摘されるように、それ以上の修羅場というのはもちろん他の職場にもあります。となると、「本部管理部門」などがタフアサインメントとなるのは、上層部からの厳しい注文にいかに応えるかという極めて組織内部的な事情によることになります。そしてそこに、パワハラを駆使するクラッシャー上司が生まれる余地があるのではないかと考えます。部下を恫喝してでも上層部の意向に沿った経営ができる者が「デキる上司」として出世していくというわけですね。

いやもちろん、海老原さんはそのような現状分析で終わらず、GEクロトンビルの牛島氏との対談で、リーダーを他分野出身の映画型とその分野出身のスポーツ型に分類して、業態に応じてそれぞれを育成するべきとの話を踏まえつつ、次世代経営候補の個性に合わせた育成を次のように推奨されます。

 リーダーの育成像など、詳細に作り込む必要はない。まず、どの企業でもあまねく必要なOS的要素を掲げる。次に、業界や企業のコアコンピタンスを乗せる。そして、大まかに時代が必要とする方向性でフェアゾーンを決める。あとは、そのフェアゾーン内で、候補者の個性に応じて育てていけばいい。結果、各人各流の個性が伸び、多様で層の厚いリーダー群が生まれる。その中で、時代に応じて、最適な人を選ぶ。だからこそ、往々にして、先代と時代で経営の方向が大きく変わる「振り子」運動が起き、経営が引き締まる。

『同』p.23


「多様で層の厚いリーダー群」こそは、かつての日本型雇用慣行が得意としていた人材育成ではないかと思います。ところが、層の厚いリーダー群を解体してフラット化したことによって、リーダーとしての役割よりもプレーヤーとしての役割が求められるようになり、層の薄いリーダー群から突如管理職が生みださなければならないという状況に陥っているのではないでしょうか。少数精鋭といえば聞こえはいいのですが、その少数というのは母数が大きいからこそ成り立つのであって、母数を小さくした上で少数精鋭に特化していくと、少数精鋭であるはずの少数者が、精鋭となるために十分なスキルを持っていない(持つことができない)という本末転倒なジレンマに陥るわけです。

いやまあそれにしても、経産省が作成したガイドブックについて、海老原さんが本特集の最後に「果たして経産省はこのガイドに沿って、事務次官育成に取り組んでいるのだろうか」と指摘されていますが、仕事が少なくなって領空侵犯ばかりしている経産省が暇を持て余して「詳細に作り込んでいる」と考えてみれば、さもありなんというところでしょうか。

なお、話はそれますが、宇佐見氏のキャリア官僚についての説明はさすが中の人と思いますが、農水省に根回しなしに農商工連携とか言い出すあたりに経産省特有のお行儀の悪さが全開で、だから経産省不要論が絶えないんだろうなと思うところです。以前経産省が地方交付税の研究会を開催しているのを見てなんのこっちゃと思ったら、地方交付税の仕組みが企業活動に影響を与えるから経産省としても何かいわなければならないとか(いう趣旨が)書いてあって、つくづく総定員法の弊害を感じたものです。権丈先生のこちらもご参照あれ。
不磨の大典”総定員法”の弊」『週刊東洋経済』2010年10月16日号

日本型雇用慣行=グローバル競争?(2013年05月08日 (水))


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2018年08月18日 (土) | Edit |
震災以後、お盆の時期には戦争と震災を結びつけて考えてしまうようになっておりまして、3年前のエントリを改めて思い起こすなどしてみたりしたところ、ちょっと違う感覚を感じました。

その裏返しとしていえば、戦争や大きな災害の体験を共有しない世代にその体験が伝わるというのは、その世代がこの世からいなくなるに連れて一般的な家庭の中では次第に行われなくなるのだろうと思います。というようなことを考えていたところ、すず黄(yellowbell)さんの直近のエントリに共感することしきり。

それよりも、と言うとこれもばちあたりですがそれよりも、戦争時代こどもだった、そして終戦いいえ敗戦時代に青年だった人間たちが胸に抱いてきた、けして口には出さない出せない強烈な挫折感と劣等感、それを知る者がいなくなるという絶望です。
久々に酌み交わしながら、ふとテレビが流す敗戦時のフィルムを見て、玉音放送に額づく人々を見て、もういいじゃないかこんなこと、と目を伏せてチャンネルを変える父親を見ながら、彼の胸中にある「こんなこと」の具体的な意味を聞くことはおそらくこの一生のうちにはないんだろうな、と空になった酒を注ぐのです。

負けたら、何が残るか。
それが忘れられた社会が語る敗戦の空虚さ
に、ちょっと想像をめぐらすおセンチなお盆中日でありました。

http://h.hatena.ne.jp/yellowbell/81820371205138799(※リンク切れ)


うちの親族には「もういいじゃないかこんなこと」というまでの挫折感はないのですが、ご多分に漏れず敗戦後の貧困を味わった劣等感は強烈に残っていると感じます。そこにはおそらく、あの敗戦を経験して60年安保闘争で盛り上がった当時の若者と、集団的自衛権をめぐって盛り上がっている現在の高齢者と同じく、その世代の共通体験があったのだろうと思います。その盛り上がりが自分のことと感じられる場合には、そこに新たな世代が加わっていくのかもしれませんが、そこには共通体験の欠如という大きな差異があります。

世代の共通体験(2015年08月16日 (日))


ここで書いたことそのものは今もってその通りだなと思うのですが、その一方で、「共通体験」がないまま「盛り上がり」だけを共有するという事態はとっくの昔に現実のものとなっていて、その共有された「盛り上がり」があちこちで歪みをもたらしてしまっているのではないかとも思います。

というのも、戦後は新しい憲法の基で新たな制度を作って新しい社会を作った、と少なくともその当事者であった戦後直後に20〜40代くらいの世代は考えていたでしょうけれども、その方々の行動は戦時中の教育や社会において培われたものであって、いくら考え方を変えて制度も変えたと言っても、行動までは容易に変わらなかっただろうと考えられるからです。戦前の日本において名実ともに頂点にあったと考えられる軍隊組織の行動様式は、現在の世の中にはしっかりと残っているわけで、例えば呉海軍工廠で導入された生活給の考え方は、戦後の労働争議での労働者側の要求で実現した電産型賃金体系を経て、職能資格給制度として現在も強く根付いているのは(労働界隈では)周知のところですね。

さらに遡れば、戦時体制の前から始まって毎年その開催の方法や時期について物議を醸す高校野球も、スポーツ医学の概念もなかったような時代に開催された方法が、ほぼそのまま伝統として引き継がれています。今となっては確かに古くさいやり方ですが、むしろ戦時体制で大会が開催できなかった当時の高校生(当時は旧制の中学生ですが)やその関係者にとっては、戦後の新しい社会において、悪しき戦時中の制約を振り払って中止前の開催方法を復活させることこそが、戦後の復興を象徴することだったのでしょう。

とはいえ、戦争という共通体験を失った現在においては、その「盛り上がり」だけが共有され、世間の耳目のもとで、心身ともに発達途上の高校生が選手生命を削るような日程で身体を酷使しながら試合をこなすことによって、自らが所属する組織への忠誠と自己犠牲を強いられ、さらにそれを応援する同級生たちも熱中症の危険性にさらされながら、その熱闘に花を添えるというイベントが、今年で100回目を迎えるまで開催されているわけです。

いやもちろん、野球というスポーツが持つエンタテインメント性があるからこそ、技術的には未熟な高校生の野球であっても人気があるのでしょうし、その中で生まれるファインプレーや超高校級のプレーを見て「感動を呼ぶ」のも心情としてはわからないではないのですが、もはや戦後の復興の象徴としての意義が薄れている中で、戦前と同じ形態で開催する必要性も同時に薄くなっているというべきではないかと思います。

私自身は当然、戦後の「盛り上がり」は知る由もありませんし、その「盛り上がり」が戦後の復興の象徴となって日々の生活に励まれた方がどれだけいたかもわかりませんが、新聞の発行部数やテレビの視聴率を稼げるコンテンツとなって久しい現時点において、その仕組みを変えることに多大な労力を要することは想像できます。開始当初はそれなりに意義のあったものが、その意義が薄れても形だけ残っていくとことによって、却って手をつけられなくなるということなのかもしれません。以前も伊集院光氏の24時間テレビに対する評価を取り上げたところですが、今まさにこうした事態が進行しているのでしょう。

「トンチンカンっていうか…もうね、24時間テレビは俺の中で奇祭って感じだから(笑)もう決まりだから、っていう(笑)なんのためにマラソンとかするんだってことに関しては、『そういうもんだ』っていう。こどもの日に、なんで柏餅食ってるんだ?その柏餅の葉っぱを股間につけて、アダムとイブってなんでやるんだ?って(笑)全員が全員、なんでやるって、それが端午の節句なんですってことじゃないですか」

「ハロウィンの日に、なんでかぼちゃをくり抜くの?って言われても、なんか由来はあるんでしょうけど、そんなもんって流すもんだと思うんですけどね。今年の奇祭ぶりがすごいなって思ったのは、テーマの中に、ハンディキャップはあるんだけど頑張ってます、みたいな人を凄く応援してるってテーマが絶対にあるじゃん」

それとともに、地震以降、自分はこのことで勇気づけられて頑張ってます、ってことあるじゃないですか。それと、節電っていうのがあるじゃないですか。その三拍子が奇祭っぽくなってるなって思ったのが、この三拍子が辻褄が合わなくなってるなって思うのが、まず節電っていって、深夜帯も平均17%程度とってることって喜んで良いの?って思うんですよね。だって、テーマが節電だったら、我々はチャリティーをやってますがいったん、テレビを消しましょうってことでしょ?野暮な話をするようですけど。そこが平均の数字を上がりましたよってことと、どういう風に両立するもんなの?って思うことがもう一個」

「あと、ちょうど今、パラリンピックが開催されるでしょ。ちょうどパラリンピック直前って時期に、そこは良いの?そこは行かないんだ?っていう感じ。さらには、北海道で地震があったでしょ?しかも震度5弱っていう、北海道からしたら結構大きな地震がくるんだけど、そこの情報も行かないんだ?って思うあたりが、かなり24時間テレビの奇祭ぶりっていうか、なんか分かんないけど、もはや元々のこととか関係ないっていう

「ただただ、巨大な男根を街道沿いでワッショイワッショイって運んでる状態(笑)元々は、そこの先に神社があって、田んぼのどまんなかだったから、その頃は田んぼに神様が種付けをすると豊作になるってことで男根だったんですけど、今はもうすでに街道沿いにマンションがいっぱい建ってますし、農業がほとんどないんです。だけど、男根はいきます。ただ、素材が軽くなったんですよ、みたいな。そこ?そこなの?みたいな。外国人が見て『Oh!クレイジー、クレイジー!ビッグペ○ス、ビッグペ○ス!ハッハッハ(笑)』みたいな」

「ここの部分だけクローズアップされると、反対派みたいになりますけど、それでも二億八千万って額が困った人に行き渡るってことに対して、まぁそこはそれなんじゃないの?って思って」

「伊集院光が語る「24時間テレビの奇祭っぷり」(2012.08.29 (Wed))」
※ 以下、強調は引用者による。

いやまさに、どうしてこの時期に2週間程度の日程で全都道府県の代表校が一堂に会して(硬式の)高校野球の日本一を決めなければならないのかという問題に、主催者はどのように答えるのでしょうね。もしかすると、戦時中の制約を取り払って全国の予選を勝ち抜いた高校生が甲子園という聖地に集結して優勝旗を競い合うことが、ある時期は復興の象徴だったのかもしれませんが、それは、発達途上の高校生に世間の耳目を集めさせ、自校や都道府県のプレッシャーの中で自分の身体を酷使することを強いるだけの正当性を有するものなのか、主催者はどのように説明するのでしょうね。

(付記)
このエントリをアップする際に気になっていながら書き漏らしたのですが、これは上記の高校野球とは逆のパターンで厄介ですね。

 ヤノベさんが、立像を制作したのは2011年。東日本大震災と原発事故が起きた年だ。ヤノベさんは制作意図について「人々を勇気づけるような作品を作りたいと思った」とホームページにつづっている。完成した立像は、12年の福島現代美術ビエンナーレで福島空港に展示されるなどして県民を励ました。7年余前に制作した作者の気持ちに一度、思いをはせてみてもいいのではないか

 一方で、防護服姿で線量計を身に付けている立像について風評被害を心配する意見があるのも分からないわけではない。市は立像について「希望の象徴」として展示したとしている。木幡浩市長は「原子力災害の真実を心に訴える力をもって語り継ぎ、発信するのは、福島にしかできない」とコメントしている

 市は、立像を設置した理由や作品の内容について詳しく丁寧に説明する必要がある。今回の反響は、福島市の復興が進む現状や放射線に対する正しい知識を、国内外の人たちに理解してもらうチャンスと捉えて、さらなる情報発信に努めてもらいたい

「【8月18日付社説】サン・チャイルド/賛否を福島の未来への糧に(福島民友 2018年08月18日 08時28分)」

震災直後の放射性物質への恐怖を煽った方々は今もその考えを改めていないようですが、その当時に「人々を勇気づけるような作品を作りたいと思った」という作者の気持ちに思いをはせてみれば、まあ放射性物質への恐怖ということなんでしょう。それが7年経った現在でも「人々を勇気づける」のかどうかは、現在の状況に思いをはせる方が重要なのではないでしょうか。それにしても情報発信がお仕事の新聞社が市に対して「情報発信に努めてもらいたい」とおっしゃるのは、それはまあ立像を設置するに至った経緯等の行政情報であればわからないではないですが、「復興が進む現状や放射線に対する正しい知識」であるなら、それはマスコミのお仕事でもあるのではないのかと一度、思いをはせてみてもいいのではないか。

(再付記)
私自身は福島県在住ではないので「7年余前に制作した作者の気持ちに一度、思いをはせてみ」ることはできませんが、当時を思い起こした福島市在住の方が、福島市長へのメールをアップされていましたので、参考までに引用させていただきます。

2011年の秋ですから、まだ混乱は続いていましたが、福島市民は東日本女子駅伝の成功を願い、当日沿道にはたくさんの市民が応援に駆けつけました。フルーツラインでは果樹園経営者が豚汁をふるまい雰囲気を盛り上げ、お年寄りからお子さんまで、選手たちに声援をおくりました。

ところが、開催日の数日前だったと思いますが、防護服を着てガイガーカウンターを持った人たちが現れ、市内の側溝の上などの線量を測り始めたのです。福島市民は防護服を着る必要などまったくない環境にありました。そこに、突然現れた防護服姿の人たち。そして、防護服を着て線量を測っている姿を写真に撮り「こんなに高い!」とネットにアップしたのです。側溝の真上にガイガーカウンターを置けば、ある程度の数値は出ます。でも、その数値は1時間そこにいたときの数値であり、1時間いても問題は無く、まして、通り過ぎる選手に影響はありません。

しかし、その防護服姿のひとたちの中には、東日本女子駅伝を「殺人駅伝」と言って攻撃するひともいました。私は、あのときの悔しさは忘れられませんし、心の中に深い傷となって残りました。防護服とガイガーカウンターにはそういう苦しい思い出が重なるのです。まったく福島市では着る必要の無い防護服を着て現れたひとたちは、そこに普通に暮らすひとたちの尊厳を深く傷つけたと思います。その後も、間違った知識で「福島には暮らせない」と言われたりしました。そういう中で、7年かけて少しずつ心の傷を修復してきました。

ところが、それから7年後、突然、防護服を着て線量計を身につけた巨大な物体が福島市に登場しました。そして、それは復興のシンボルだと言われました。私には2011年秋の防護服姿とガイガーカウンターの再来に思えました。見たくない!それが正直な感想でした。やっと修復されてきた傷がまた開きました。

やっとやっと普通にもどれたのに、いやなことを忘れて暮らせるようになったのに「思い出せーー!」と肩を揺さぶられたような衝撃でした。福島市に暮らす人たちはいろんな形で傷ついてきたと思います。どうか、その傷口をえぐるようなことはしないでください。

2018.08.18 Saturday福島市長 木幡浩様(Restart)



2018年08月06日 (月) | Edit |
医師養成校であるところの医学部の入試において、性別や受験回数によって点数を操作していた実態が明らかになったそうで、いやまあ日本の医療従事者の労働環境を考えればそれなりに合理性のある話ではありますが、「合理性があればいいじゃないの」というのは経済学徒ぐらいでしょうから、こうして問題が明らかになって批判が集まるのは改善に向けた第一歩といえるかもしれません。

東京医大、女子受験生を一律減点…合格者数抑制(読売新聞 2018年08月02日 06時00分)

 東京医科大(東京)が今年2月に行った医学部医学科の一般入試で、女子受験者の得点を一律に減点し、合格者数を抑えていたことが関係者の話でわかった。女子だけに不利な操作は、受験者側に一切の説明がないまま2011年頃から続いていた。大学の一般入試で性別を対象とした恣意しい的な操作が明らかになるのは極めて異例で、議論を呼びそうだ。

 東京地検特捜部も、文部科学省の私大支援事業を巡る汚職事件の捜査の過程で、同大によるこうした操作を把握しており、同大は現在、内部調査で事実関係の確認を進めている。

 同大医学科の今年の一般入試は、数学・理科・英語のマークシート方式(数学の一部を除く)で1次試験(計400点満点)を実施。2次に進んだ受験者が小論文(100点満点)と面接を受け、1次の得点と合算して合否が決まった。


拙ブログでは、3年ほど前のエントリですが、

医療従事者はバブルがはじける前から深刻な人手不足を超人的、というより廃人的な長時間の勤務実態で医療サービスの現物給付需要をカバーしてい」るというのは、医療機関には官民問わず強力な労働組合が存在していまして(その労働組合は「医者とコメディカルのヒエラルキー」という労働者側の労労対立の産物でもあるわけですが)、その強力な組織力によってそれなりに高い賃金水準を確保しているという実態があります。その点で長時間・重労働の勤務実態があってもそれなりにサービスの供給体制は維持されているのですが、労働組合が見向きもされなくなった時期に就業者が拡大した介護労働では、低い賃金水準で長時間・重労働の勤務に従事しなければならないのですから、供給体制が維持できなくなるのもまた宜なるかな

カネを出さずに済ませようとする日本的ソリューション(2015年12月18日 (金))

※強調は引用時。

医療と福祉の現場ではどちらも人手不足が深刻な状況となっておりますが、前者はすでにそれなりの供給体制がある中で、特定の診療科や時間帯の従事者不足が課題となっているのに対し、後者ではそもそも介護需要に見合うだけの人手を確保できず、介護施設への入所が制限される状況となっているのは周知のところでしょう。

私自身は東京医科大学の操作を擁護する気はありませんが、東京医科大学が女性の入学を入試結果の通り認めた場合、介護施設と同じように、資格はとったけど仕事を続けられないという潜在資格者が増えてしまい、需要に応じた医療サービスを提供できないという事態が生じることは想像に難くありません。介護資格に比べれば医師資格の取得にかかるリソースは高価かつ貴重であるわけで、潜在資格者を増やすのではなく潜在資格者にならなそうな者を入学させようと考えるのは合理的な判断です。

介護サービスが制限されることはそれなりに社会問題化して久しいものの、未だに家庭が担うべきという風潮も強いため、需要者側が仕事を辞めて介護をすることで需要そのものを制限することとなり、結局その待遇改善の動きはだいぶ鈍くなっています。それに対して、医療サービスの場合は往々にして人命に関わることもあるため、医療サービスが制限されることに対する社会的忌避はかなり強いのが実態となっていて、供給体制があることが前提となって需要は制限されません。つまり、医療と介護の現場では、後者ではサービスが制限されても自己責任で何とかしろという風潮のために供給体制の整備が進まず、前者ではサービスが制限されることそのものへの忌避のために供給体制を越える需要が制限されることなく、結局いずれも需要と供給のバランスが崩れてしまう状況がそのまま放置されているわけですね。

もちろん、日本型雇用慣行は医療と介護の現場にも浸透していますので、需要と供給のバランスが崩れても超過勤務で対応して人員も増やさないし、職務遂行能力が低いとみなされる非正規労働者や社歴の短い労働者の待遇は改善させないという日本的ソリューションの影響も大きいといえます。

というわけで、需要と供給のバランスを調整するための需要側の選好の変更と、人員と待遇を縛っている日本型雇用慣行の修正という両面作戦が必要となるわけですが、今回の問題に対する反応は、両者をごっちゃにするか、片側のみをあげつらって批判するだけに終始しているものが多く、あいかわらず社会保障をめぐる議論は前途多難だなあと思うところですね。

参考までに、医療従事者の需給については、厚労省でその名も「医療従事者の需給に関する検討会」が開催されておりまして、今年5月に出された第3次中間報告では、

3 将来の医師需給推計(全国レベル)について
○ 平成32年度(2020年度)以降の医学部定員の方針については、医学部受験生への配慮の観点から、平成30年5月末までに結論を得る必要がある。このため、第1次中間取りまとめにおける推計方法を基本としつつ、医師の労働時間について幅を持った仮定をおく等、推計方法について一定の見直しを行うとともに、最新のデータを用いて需給推計を行った。

○ 具体的には、まず、供給推計について、第1次中間取りまとめにおける需給推計方法を基本としつつ、以下の点について推計方法の見直し等を行った。
・ 将来の医学部定員数を、平成30年度の9,419人として仮定
女性医師、高齢医師等の仕事量について、一律の数値を乗じて積算するのではなく、就業率や勤務時間についての性年齢階級別データを踏まえ、詳細に算定

○ また、需要推計についても、基礎医学系の大学教員等臨床以外に従事する医師を含め、第1次中間取りまとめにおける需給推計方法を基本としつつ、以下の点について推計方法の見直し等を行った。
・ 供給推計と同様に、性年齢階級別の詳細なデータを用いて仕事量を算定
・ 「医師の働き方改革に関する検討会」における「中間的な論点整理」で示される時間外労働規制に関係する意見等を踏まえ、労働時間の見込み方について、週55時間に制限する場合をケース1、週60時間に制限する場合をケース2、週80時間に制限する場合をケース3として、仮に上限規制が適用されたと仮定して推計
・ 労働時間短縮に向けた取組について、AI、IoT 等の ICT を活用した効率化や、医師から他の職種へのタスクシフティング(業務の移管)等が進むことにより2040年までに7%の業務削減を見込む場合をケース1、その達成が2.5年程度前倒しされる場合をケース2、同じく達成が5年程度前倒しされる場合をケース3として仮定をおいて推計

(略)

4 平成32年度(2020年度)以降の医師養成数の方針について
○ 今後、平成34年度(2022年度)以降の医師養成数の具体的な議論を進めていくに当たっては、全国レベルのマクロの医師需給推計だけでなく、ミクロの領域における医師偏在対策や、将来の都道府県毎の医師需給、診療科ごとの医師の必要数、長時間労働を行う医師の人数・割合の変化等についても適切に勘案した上で、人口構造の変化や医療技術の進展など医師を取り巻く環境がこれまでよりも短いスパンで変化していくことも踏まえ、定期的に検討をしていく必要がある。

○ また、その際には、大学の医学部定員について、地域医療の実情に応じた医師偏在対策等の側面を踏まえた配慮が必要である。特に、医師需給を踏まえ、臨時定員増分を削減する場合でも、地域間で医師偏在がある場合には、その偏在に応じた程度まで、地域枠のニーズは残ることになる。こうした医師偏在対策の効果が維持される方策についても配慮が必要である。

○ 平成34年度(2022年度)以降の医師養成数については、以上に示した医師の働き方改革や労働実態、医師偏在対策や医師偏在の状況等を勘案し、定期的に医師需給推計を行ったうえで、将来的な医学部定員の減員に向けて、医師養成数の方針等について見直していくべきである。

「医療従事者の需給に関する検討会 医師需給分科会 第3次中間取りまとめ(平成30年5月31日 医療従事者の需給に関する検討会 医師需給分科会)」※pdfファイル

本報告では医師の養成数を供給推計、医療行為に要する勤務時間を需要推計と呼んでいますが、供給推計において女性医師と高齢医師等の仕事量は1人分とカウントしないで計算していますし、需要推計では外来や入院患者数は一定として、他の医療従事者(看護師や技師等)へのタスクシフティングによる労働時間短縮を見込んで推計しているわけです。

いやもちろん、これは推計であって、実際に女性や高齢の医師の仕事量を時間帯に応じて分担する(タスクシェアリング)とか、電子カルテの入力といった事務作業をタスクシフティングするため医師事務作業補助者を増員するとか、一部の医療行為ができる特定行為看護師を増やして医師の負担を軽減するとかいう取組は、個々の現場に頼らざるを得ないので、それが実現できるかどうかは、その現場の取組をどのように財源的裏付けによって進めるかということに帰着します。

さらにいえば、看護師は女性が多くても何とかなっているから医師も女性が増えて問題ないとかおっしゃる方もいらっしゃいますが、看護師の人数が増えれば負担が減るだろうということで、2006年の診療報酬改定で患者と看護師の割合を最高で7対1まで増員すると病院の収入が増えるという仕組みにした経緯があります。ところがそれで何が起こったかというと、7対1体制とするために各病院が看護師を囲い込んで看護師不足が加速されてしまいました。国は囲い込んだ病院が看護師を減らすよう誘導するため、7対1として算定する基準として看護必要度や重症度を厳格化したり、時間管理を厳格化したりしましたが、収入を確保したい病院側は、7対1を満たすギリギリの人員に抑えて、その中で重症な患者を一定数入院させ、厳密に時間管理するという対応を取ります。その結果、7対1体制の病棟では恒常的に仕事に対して人員が少なくなり、特に重症度の患者が多い病棟では夜勤の負担が増大する状況となっています(この7対1は看護必要度や重症度が高い病棟ですので、大病院では急性期病床が過剰に増えてしまい、回復期病床が不足しているため、病床機能を急性期から回復期へシフトするというのが地域医療構想の肝でもあります)。

ということで、看護師については10年以上前から増員は進められていますが、それは診療報酬による誘導であったため、実態に合わない病床を増やしてしまっています。ただし、夜勤の負担が増えた一方で、夜勤の負担を軽減するための取組として、看護協会では夜勤専従者(日勤しないで夜勤のみ勤務する)の導入も挙げています。
夜勤専従者の「過重負担」を防ぎましょう※pdfファイル
看護協会によると、夜勤専従者は月144時間までの勤務となりますので、8時間の夜勤なら月18日、16時間勤務なら月9日の勤務となり、夜間保育などを活用すると自由な時間が増えるというメリットもあるとされます(実際に「自由」かどうかは別として)。

とはいえ、子育てで短時間勤務する場合は、朝と夕方に1〜2時間程度勤務しない方が多いわけでして、大病院に夕方行ってみると外来が閑散としていることが多いんですが、これは病棟で短時間勤務するのは難しいために外来に短時間勤務者が集中していることの結果だったりします。増員して頭数が多くなっても、育児や介護による短時間勤務者の割合によっては手薄になる時間帯があって、特に夜勤ではそれが深刻な問題となっているわけです。医療従事者の労働環境改善を議論するなら、これくらいの事実は抑えていただきたいところですね。

(付記)タイポが複数ありましたので、一部加筆修正しました。ご指摘いただいた方ありがとうございました。