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2018年05月13日 (日) | Edit |
GWも無事に乗り切りまして、年度末年度初めはいつも仕事が立て込むところ、今年は例年よりもゆっくり休めた、というよりさすがに年齢的に年がら年中働きづめでは身体が持たない状況で少し一息ついたところですが、働き方改革法案は相変わらず先行き不透明のようですね。

働き方改革関連法案 本格論戦 高プロ、与野党火花(毎日新聞2018年5月10日 東京朝刊)

 衆院厚生労働委員会は9日、立憲民主党など主な野党が審議に復帰し、働き方改革関連法案の質疑を行った。立憲、国民民主両党の対案の趣旨説明があり、高所得の一部専門職を労働時間規制から外す「高度プロフェッショナル制度(高プロ)」の創設の是非を中心に、本格的な論戦が始まった。

 野党は高プロに反対し、立憲、国民とも対案に盛り込んでいない。趣旨説明で立憲の西村智奈美氏は「サービス残業が蔓延(まんえん)している現状では、悪用される」と批判。国民の白石洋一氏は「過労死ゼロを切望する国民の要請に反する」と述べた。

 一方、加藤勝信厚労相は高い付加価値を生み出す経済を追求する必要があるとした上で、「高度専門職の方が仕事の進め方や働く時間帯を自ら決定し、その意欲や能力を有効に発揮する働き方が求められている」と高プロの必要性を訴えた。西村氏への答弁。

 また、厚労省は9日、裁量労働制の調査データに異常値が含まれていた問題で、精査結果を15日の同委理事懇談会で報告することを明らかにした。【神足俊輔】

野党が対案を示したそうですが、日本的左派の皆さんにとっては日本型雇用慣行こそが守るべきものであって、ジョブ型なんて認めるわけにはいかないという立場を堅持されているところですので、対処療法的な案しか出てこないというのはある意味予想通りではありますが、その議論のねじれ具合には相変わらず暗澹としますね。

とはいえ、政府与党の議論も十分にねじれているわけでして、立場の左右を問わず「働き方改革」でどのような働き方を目指すのかがあやふやなまま議論が進められてきたという経緯があるわけです。そのねじれ具合についてはhamachan先生がご自身の発言を改めて紹介されていますので、こちらでも引用させていただきます。

あまりにもねじれにねじれ、枝葉末節ばかりに迷い込んでしまっている現下の議論の惨状を見るにつけ、5年前に官邸の産業競争力会議に呼ばれてしゃべった時の議事録なんぞを再読していると、こういう本質の議論がいかにい雲散霧消してしまっているのかが嘆息されます。

労働時間規制の問題とは、本来どのように論じるべきであり、そしてどのように論じるべきではないかを、自分ながら手際よく見事に整理している発言だと思うので、ここらでお蔵出し。

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/bunka/koyou_hearing/dai1/gijiyousi.pdf

(略)
(濱口総括研究員)
 むしろここで私が申し上げたかったことは、個々の制度設計の問題というよりも、一体この制度は何を目指しているものなのかということ。本質的に言うと、ある種のホワイトカラーの働き方というものが、決して労働時間の長さに比例した成果を出すのではないということから来ているはずだと私は思っている。これはホワイトカラーエグゼンプションのときの日本経済団体連合会の出した提言もそのように書いてあるし、実は企画業務型裁量制が議論され出した1990年代初頭の議論もそこから始まっている。それにもかかわらず、厚生労働省もそうなのだが、これをワーク・ライフ・バランスができるというような言い方でやろうとしたところにボタンのかけ違いがあったのだろう。
  一旦そういう形で話がされ、これは過労死促進策だという話になってしまうと、話がことごとく食い違ってしまう。それをもう一度本来の筋道に戻して議論した方がいいのではないか。実はつい先日、規制改革会議に日本労働組合総連合会が呼ばれて、労働時間規制についての意見を開陳した模様。私は出された資料を見ただけだが、そこでは、まさに健康確保や労働時間規制の必要性についてはいろいろ書いてあるが、残業代が一番大事だなどということは書いていない。それは彼らとしても、一部のマスコミや政治家のような残業代ゼロが一番諸悪の根源だという発想に立っていないということなので、実はそこに着目すれば、もう少しまともな議論ができるのではないか。むしろそういう形で議論してほしい。
(略)
(濱口総括研究員)
 後の方がわかりやすいので、先にそちらから先にお答えするが、全くおっしゃるとおり。つまりここで私が上位から何パーセントと言ったのは、日本のメンバーシップ型の社会を前提にすれば、こういうふうにするしかないよという話。ところが、日本の法律もそうだし、どこの国の法律もエグゼンプトというときの管理監督者というのは入ったときから管理監督者。それはビジネススクールやグランゼコールを出て初めから管理職見習いとして入り、2年か3年ぐらいすれば見習いが取れて管理職として働く。初めから入口が違うわけで、それを前提として管理職という職種のエグゼンプトをやっているだけだと。ところが、日本はそうではない。
 先ほど日本には管理職という職種が存在しないと申し上げたのはそこ。日本は、管理職のエグゼンプトですら、係員島耕作が係長島耕作になって、課長島耕作になったらエグゼンプトだと言っているだけの話。この中高位というものが、昔みたいに何でもかんでもみんな管理職に放り込めばいいという1990年代から変わってきている。機能としては管理していない者をみんな昔は管理職に放り込んでいたのが、そういう無駄なことはできなくなったので、管理職を少数精鋭に絞れば、自ずから、そこらからこぼれ落ちる人が出てくる。ところが、賃金制度は依然として年功制だから、非常に高い給料をもらっている。高い給料をもらっているけれども、管理の仕事はしていないし、昔みたいに管理職に就かないので、残業代を払わなければならない。おかしいだろうと。私はまさにそこに矛盾があると思っている
 もし、本当に世の中ががらっと変われるのであれば、つまり企業の人事部がメンバーシップ型からジョブ型に全部変わるというのであれば、まさに今おっしゃったのが本来の姿、法の本来の趣旨ではある。しかし、それはすぐにできないだろうということ、かつ、昔であればみんな管理職に放り込まれていった人がそうでなくなってきていて、そこをどうするかということに対応するのであれば、こういった上位から何パーセントというのが、メンバーシップ型を維持していることを前提とした上での話になる。これは管理監督の仕事、これは企画の仕事、これは何の仕事というジョブで人事管理をするようになれば、当然それでできる。しかし、現実にはそうでないということを前提としてお話している。 ・・・


「産業競争力会議雇用・人材分科会有識者ヒアリング(2013年11月)(2018年5月13日 (日))」(hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳))
※ 以下、強調は引用者による。

リンク先のエントリで引用されている発言は全文読まれるべきですが、拙ブログでも「なぜ労働時間規制を緩和しなければならなかったかというと、日本の労働法では法定時間内の賃金の基準は特に規定がないものの、法定時間を超えた途端に時間給となってしまうため、日本型雇用慣行で正規労働者の多くが日給月給であって、特に高給な労働者に対しては、その高額な日給月給を基礎とする高額の時間外手当を支払うことの合理性も問われていた」と指摘しておりまして、上記引用部でのhamachan先生の明確なロジックでご確認いただければと思います。

でまあ、拙ブログの最近の流れからいえば、hamachan先生の発言の後段で「昔みたいに何でもかんでもみんな管理職に放り込めばいいという1990年代から変わってきている」と指摘されているような日本型雇用慣行における管理職の在り方が、その立場において日本の組織の意思決定を歪めていることも大きな問題であろうと考えております。ということで、管理職が無能であること有名にしたのが「ピーターの法則」ですが、その解説書が新装版として発行されていましたので改めて読んでみました。

ただし、本書を理解するためには、カナダ生まれで南カリフォルニア大学で教鞭を執った教育学博士であるローレンス・J・ピーターの説を、同じくカナダ生まれの小説家であるレイモンド・ハルが1969年に書き起こしたという当時の状況に留意しなければなりません。ということは当然、本書で描かれる企業組織はアメリカ型のジョブ型雇用でして、採用と昇進はその手続きにおいて同じであって、本書でいう「昇進」とは、職務記述書によって職務が明確に示され、それに対応した職業的能力を有する者が組織内外から共通の基準で「採用」されることを指します。したがって、組織内における「経験年数」によって高まることを前提とする「職務遂行能力」に基づいて、組織内で上位の職位に順繰りに「昇進」していく日本型雇用慣行とはまったく異なるということを意識しながら、次の引用部をご覧ください。

平等主義が無能を招く!?

 無能のはびこり方という点では、縁故やえこひいきで役所や軍の任用が行われていた時代よりも、今日の状況のほうがひどいといえます。平等主義の現代に逆行するようなこの発言に眉をひそめる方もいらっしゃるでしょうが、まあ私の説を聞いてください。
 ここにプローヴィアという仮想国家を考えてみます。この国では、公務員試験や、雇用機会均等法、成果主義での昇進といったものは存在しません。プローヴィアは厳格な階級社会で、政府、企業、軍隊、教会など、あらゆる階層の高位に就けるのは、支配階級に属する人々に限られています。
(略)
 ピラミッドの下半分は、何らかの理由で被支配階級に属する人たちです。そのなかにとびきり聡明で有能な者がいたとしても、身分境界線を越えて昇進はできません。
 ピラミッドの上半分は、支配階級の人々によって占められます。彼らは、ピラミッドの最底辺からではなく、身分境界線のところからキャリアをスタートさせることになります。
 さて、おわかりいただけると思いますが、ピラミッドの下半分では、身分境界線があるおかげで、多くの人が無能レベルまで昇進することはありません。彼らは十分に職責を果たせる仕事に取り組みながら、その職業人生に幕を引くことになるでしょう。身分境界線より上に行けないということは、境界線の下に有能な人材を封じ込めることにほかならず、いつまでも彼らを活用できるということになります
 つまり、身分境界線があるおかげで、ピラミッドの下半分では効率のよい仕事が期待できるということです。
 身分境界線の上ではどうでしょうか? 無能レベルに達してしまう人の数は、その階層社会に存在する数に比例するので、多くの肩書きがあればあるほど、無能に陥る人間も増えます。ピラミッドの上半分は、ポストの数がそれほど多くない綴じた階層社会ですから、ここでも多くの人が無能レベルに到達しないですむことになります。
pp.102-104

[新装版]ピーターの法則
「階層社会学」が暴く会社に無能があふれる理由
ローレンス・J・ピーター 著/レイモンド・ハル 著/渡辺伸也 訳
定価:本体1,400円+税
発行年月: 2018年3月
判型/造本:46並製
頁数:248
ISBN:978-4-478-10355-5


この引用部では明確にされていませんが、この仮想国家における支配階級と被支配階級は、その内部に存在するであろう組織における管理職層と被管理職層のアナロジーと思われます。となれば、それはギルドを始祖として欧米で発展した産業民主主義によって形成されたジョブ型雇用のアナロジーであって、hamachan先生が「初めから入口が違うわけで、それを前提として管理職という職種のエグゼンプトをやっている」と指摘されるように、職として採用される「管理職」層によってマネジメントされる欧米の企業組織の描写であると考えるのが自然でしょう。

ということは、「ピーターの法則」とは、管理職としての職業的能力もスキルも身につけていない労働者が、闇雲に上位の職を目指して「昇進」という「管理職への採用」に応じて管理職に就いても、結局「無能」な管理職が生まれるという指摘にすぎないといえそうです。そして、この本が書かれた1969年という年代は、アメリカでも高度成長に陰りが見え始めて、ベトナム戦争が泥沼化し、人種差別に対する抗議運動や反戦運動が盛り上がり、組織に属さないヒッピーという生き方がもてはやされた時代であったことを考え合わせると、既存の組織に対する反感とそこでの処世術をアイロニカルにかつロジカルに指南するというのが本書の位置づけだったのかも知れません。1919年生まれのピーター博士自身は本書が刊行された当時50歳前後ですので、(その趣旨には賛同していたとしても)過度に盛り上がったり過度に厭世的に振る舞う若者に対して一歩引いた立場で、それが本書に通底するアイロニカルな記述に現れているように思います。

ところが、21世紀の日本型雇用慣行にどっぷり浸かった私が読んでも、本書の指摘にはいちいち身につまされることが多いんですよね。というのも、まさに上記引用部でピーター博士が指摘しているように「平等主義が無能を招く」のにもかかわらず、現在進行しているのは、例えばともに大卒を対象としながらキャリア(管理職)とそれ以外に区分していた国家1種と国家2種試験を廃止して「総合職」と「一般職」とし、(少なくとも建前上は)国家公務員のキャリアコースを廃止したり、「能力主義の徹底」として「人物本位の採用」がもてはやされて学歴を問わずに一律に採用するという「平等主義」的人事管理です。

その一方で、日本型雇用慣行における管理職は、その組織において「優秀」と認められた者に対して与えられる報酬であって、「白地の石板」として採用された無垢の新卒学生がスキルを身につけるインセンティブとしては機能するとしても、管理職としての実績を積むことなく管理職として登用されることがキャリアのゴールとなり、管理できない管理職が管理職層を占める結果となっているわけです。ピーター博士がアメリカでアイロニカルに記述した「ピーターの法則」が、ジョブ型ではないメンバーシップ型の日本において最もよく当てはまるというこれ以上ないアイロニカルな状況においては、冒頭で取り上げたようなねじれにねじれた政治状況が生まれるのもやむを得ないのでしょうね。
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