2018年04月10日 (火) | Edit |
激しく周回遅れですが、

さて、本書をいただいたのは昨日3月20日でしたが、その日は夕刻、慶應義塾長を務められた清家篤先生退任記念懇親会が慶応義塾大学であり、用務を終えて駆け付けたところ、会場には玄田さんの髭面も待ち構えていて、早速本書のお礼を申し上げたところ、

「hamachanあれ読んだ?あれhamachanのことだよ」

と言われ、一瞬何のことだかわかりませんでした。

JIL雑誌今月号の巻頭言を玄田さんが書いておられて、

http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2018/02-03/pdf/001.pdf

そこに出てくる「ある労働法学者」というのは、実は私のことなんだそうです、ええっ?


この号、本ブログでもちゃんと紹介しているんですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/201823-1680.html
論文の紹介に気が行っていて、そこまで気が回っていなかったようです。

・・・ある労働法学者は官僚時代,国会待機で時間を持て余した時,過去の審議会の議事録を読み返 し,政策決定プロセスの勘どころを学んできたという。氏は後に国際機関に出向,各国の法律や制度の理解を深める機会も得た。ゆえに今どんな新たな労働問題が出てきても,自身に定まった歴史軸と国際軸に位置づけることで,説得力のある議論を常に展開できるのだ。

説得力のある議論を常に展開しているかどうかは人様が評価することですが、まあ過去の歴史を読み込んでおいて損になることはないと思います。

周回遅れで後出しジャンケンを承知でいいますと、2月に玄田先生のこちらの巻頭言を拝読して「これはhamachan先生に違いない」と思っておりました(ちょうどやりとりさせていただいていた海老原さんにもその旨メールしたりしました)ので、このタネ明かしでやはりそうかとすっきりしたところです。hamachan先生が学んできた政策決定プロセスの勘どころの要諦は、『労働法政策』の「Ⅰ 労働法政策序説」の「第1章 労働の文明史」に記述されているものかと存じますが、そこで示されている「自身に定まった歴史軸と国際軸」こそが、「過去の歴史を読み込んでおいて損になることはない」という経験を裏打ちしているのだろうと思います。

さて、そうしたhamachan先生を引き合いに出すのも恐縮なのですが、玄田先生の賛辞の中でちょっと引っかかったのが「説得力のある議論を常に展開できる」という言葉です。いやもちろん私自身「説得力がある」という言葉を使うときは、その言説に十分な根拠があって、それが歴史的経緯や国際的な経路依存性に基づく各種制度への理解に裏打ちされているという趣旨で使っているつもりでして、その点からhamachan先生を評して「説得力のある議論を常に展開できる」と指摘されることには全く異論ありません。

しかしその一方で、特にディベートにおいて用いられる「説得力のある議論」という言葉には十分に注意しなければならないとも感じています。ということを考えていたときにふと書評を目にしたこちらの本を読んでみて、私の問題意識がかなり整理されました。

「歴史」をディベートの対象とするのはどのような知的な営為なのか。矢野善郎(日本ディベート協会元会長)によれば、ディベートとは、抗議には「①公に関わる・公共の(私的でない)問題について、②対立する複数の立場をまじえながら、③(例えば公開された場面などで)中立の第三者に対しても説得的であることを目的としておこなわれる議論」であり、かつコミュニケーションの様式だという。そのメリットは、「物事を相対化してみる経験」で、藤岡(引用注:信勝)のいずれの著作でもおおむねこのように捉えられている。
 この問いを検討する前に、なぜ対話や討論ではなく「ディベート」という形式にこだわったのか、考えておきたい。論点をやや先取りすることになるが、その理由は「ディベート」というコミュニケーションの様式にある。ディベートは複数の論点から話し合う対話や討論と違い、二項対立図式のコミュニケーションである。それが好まれる理由は、一方に歴史学の通説を設定し、他方に特殊な少数意見を扱うことによって、あたかもマイナーな説を二大通説の一つのように地位を底上げすることができ、同じレベルで議論することができるからだ。すなわち、ディベート論題は設定の時点で、すでに「俗説」「傍流」を格上げするイデオロギーを発揮していることになる。

(略)

 しかし、これまでに述べたように二項対立の形式をもつディベートは平等な議論を対置するのではない。さらに、本来「事実命題」とは「いまは朝である」の真偽を問うものであり、議論の対象ではないため、カテゴリー・ミステイクである。この点について教育者である今野日出晴が次のように批判している。

歴史ディベートが真理確定の方法として位置づけられていないことを確認したい。藤岡氏とともに、自由主義史観研究会の呼びかけ人の一人であった安藤豊氏は、「どっちが正しいか(真理性)を争うのではない。説得性を争うのであるディベートは真理性の決定に関与しない。各人の意思決定に関与しない」と明言している。そして、「今回のディベートは歴史研究に『マジ』になった方が負け」であり、「『真実は確定されない』ということをさわやかに言える」ことが企図されている。(傍点は引用者)


pp.100-101


歴史修正主義とサブカルチャー   90年代保守言説のメディア文化
倉橋 耕平(著)
四六判  240ページ 並製
定価 1600円+税
ISBN978-4-7872-3432-2 C0336

奥付の初版発行年月 2018年02月
書店発売日 2018年02月28日
登録日 2018年02月03日


※ 以下、下線強調は原文(原文の強調は傍点)、太字下線強調は引用者による。注記は省略しています。

とはいいつつ、この本自体はかなり左派的思想に依っていると思われる記述が散見されまして、特に第5章の大手新聞に掲載された言葉の使用回数をめぐる議論については、私からすればあまり意義のある議論には思われません。なんとなれば、特に制度についての記事でマスメディアが不適当な報道をするのは日常茶飯事ですから。

端的に言えば、報道機関による不適当な報道でこうした誤解や思い込みが広がっていくのですが、我々が普段接する批判というのは、こうした誤解や誤報に基づくものがほとんどでして、結局報道機関のミスのつけは公務員に回ってくることになります。公務員というのは、そうした誤解や誤報に基づく批判を正面から受けなければならない一方で、その誤解や誤報を指摘すれば「言い訳がましい」とさらに批判を強められてしまう立場ですので、基本的には平身低頭して不快・不満な思いをさせてしまったことをお詫び申し上げるしかありません。

「絶対最強の公務員」なんているはずがない(追記あり)(2012年08月31日 (金))

そうした点はまあそれとして、本書で指摘されるディベートの問題点には思い当たる節が多々ありますね。

ディベートで特に問題と思われる点は、引用部の矢野氏による定義の中で「③(例えば公開された場面などで)中立の第三者に対しても説得的であることを目的としておこなわれる議論」という部分ではないかと思います。というのは、世の中で「中立の第三者」であることができるのは、特定の問題に関して利害関係を有しない限りにおいてのみであって、逆にいえば特定の問題で中立の第三者であっても他の問題では中立の第三者ではないのが通常となるはずです。にもかかわらず、その「中立の第三者」を所与のものとして「説得的であることを目的」としてしまえば、その自称「中立の第三者」は自己に都合のよい議論をより説得的だと考えているだけという可能性を排除できません。

というより、これだけ複雑に利害関係が絡み合って「公共」がカバーする領域が隅々まで行き渡った社会において、「①公に関わる・公共の(私的でない)問題について」適切に「中立の第三者」を想定すること自体が困難となっていると考えるべきでしょう。前回エントリで取り上げた調査報告書を例にするなら、レスリング協会が「レスリングについては,全くのズブの素人である」と自認する弁護士を第三者として選任する手続きがあってはじめて第三者委員会が成立するのであって、そうした手続きを経ないディベートがいくら自称「中立な第三者」に説得的であっても、その内実は眉に唾しなければならない代物である可能性が高いわけです。

本書では、読者参加型を掲げる雑誌が歴史修正主義を先導していった経緯が検証されていまして(雑誌「正論」が読者コーナーを拡大していって、そこから「論壇デビュー」して安倍晋三氏からスカウトされたのが稲田朋美元防衛相だというのは、リアルタイムでは知りませんでしたが有名な話なんですね)、大塚英志/上野俊哉の「サブカルおたくはなぜ保守と結びついたか」(インパクション1998)の定義を引用して「サブカルチャー」を「①ルーツや文脈を保持せず、②そのために、記事単体で消費できる「雑誌」的(ロラン・バルト)なものである」と(とりあえず)定義し、その「サブカルチャー」化した論壇における歴史修正主義の事例として、小林よしのり氏の『新・ゴー宣』を象徴的に取り上げています。

 読者投稿を連載のなかで取り上げる手法は、旧『ゴー宣』の初期(第18章)から採用されている、それは、一定の読者を「囲い込む」「保護する」手段だったと考えることができる。(中略)そして小林と読者の関係は、読者投稿をまとめた書籍『ゴーマニスト大パーティー』で「出会う」ことによって「熱烈なコミュニティー」となり、「大きな教団」を構成する。そのために「作者と読者の一種の共犯関係、もう少し穏健に言えば、“作者−読者共同体”が構築されていることが、〈商品〉としての『ゴー宣』にとって重要な要件」(引用注:瓜生吉則「〈マンガ〉のリミット−小林よしのり=『ゴーマニズム宣言』をめぐって」宮原/荻野編『マンガの社会学』2001からの引用)と指摘される。
 この「作者−読者共同体」は、「慰安婦」問題の際にどのように作用したのだろうか。これまでと同様に、先行研究では採られなかったメディア=言説の存在様式という視点から問い直してみる。
 まず、「慰安婦」問題の連載時でも、小林は「読者参加型でいく」と明言している。(第26章欄外小林コメント。傍点は引用者)。そして、同章の「オチ」で「さあ朝日新聞が正しいか?産経新聞が正しいか?/慰安婦がホントに“従軍”なのか?“性奴隷”なのか?(略)われわれで結論を出そう!」と宣言する(傍点は引用者)。ここからは、連載は最初から読者投稿を前提に開始されたことがうかがえる。この発言は、第24章で連載を始め、反響を受けたあとの発言であるため、おそらく読者の重要性を認識したうえでのものだろう。

倉橋『同』pp.171-172


「われわれで結論を出そう」という方々がネットで徒党を組んで発言できるようになった2000年代以降は、jura03さんの言葉をお借りすれば「ネット○○派」が隆盛を誇ることになりますが、特に一部のリフレ派と呼ばれる方など「経済学的に正しい」ことを信奉する方々に「「大きな教団」を構成する」傾向が顕著ではないかと思われるところでして、その発芽は1990年代の論壇にあったわけですね。

まあその後の経緯は拙ブログでも散々指摘しておりますので繰り返しませんが、個人的にミクロの観点でより問題だと思うのは、こうしたディベートの性質を悪用する術を身につけた「ディベートの達人」の組織内での振る舞いです。そうした方々は、大塚氏が指摘するように「ルーツや文脈を保持せず」にディベートをふっかけているだけなので、そのディベートなるものは「ルーツや文脈を保持する」側からすればヘリクツに過ぎません。であるにも関わらず、例えば意思決定権をもつ者が「ルーツや文脈を保持しない」場合や、あるいは「ディベートの達人」がそうした意志決定者の都合を忖度する場合は、それに応じて臨機応変に説得的な議論で説き伏せる術を持つ「ディベートの達人」が「ハイパフォーマー」として評価されてしまう状況が現出してしまいます。

でまあ、これって最近よく見る光景だなと思ってみると、

ここで冒頭のtweetに戻りますと、クラッシャー上司は論理的に見えても、上記のようなパワハラ的言動の使い分けを行うことが往々にしてあります。そして普段(自分の経歴に傷がつかないつくところで)論理的に振る舞うことで、パワハラ的な言動が非論理的であっても、「本人に対しては面と向かって本音が言えず、「しかたがない。逆らわずにいこう」と諦め」ざるをえないという状況が生まれます(付記:カッコ内を修正しました)。その結果、その上司の下での意思決定は非論理的なものとなっていくという悪循環が生じることとなりますが、私見ではこうした環境は伝統的な日本企業や官公庁に特徴的ではないかと思います。

パワハラを駆使するクラッシャー上司(2017年08月06日 (日))
注 引用部の論旨に誤りがありましたので、元記事とともに修正しました。


というわけで、そうしたアドホックな議論を駆使する「ディベートの達人」が潜在的パワハラクソ野郎になり、そうした「ハイパフォーマー」が組織の上層部に浸透していった組織においては、表面上は「説得的」であったとしても、「ルーツや文脈を保持する」側(通常の社会生活を行うなら誰でも保持している側となるはずですが)にとって非論理的な意思決定が常態化していくわけです。倉橋本でディベートが流行したと指摘される1990年代半ば以降に社会人として自己啓発した層は、今まさに不祥事が発生しているような政官民の組織で意志決定権を持っている層と重なるのではないかと思うところでして、ディベートの弊害が意思決定に与える影響をまざまざと見せつけられる思いがしますね。
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