2018年04月21日 (土) | Edit |
今年はずっとパワハラを取り上げてきたところですが、ここ数日は財務省事務次官によるセクハラが話題となっているようでして、パワーだろうがセクシャルだろうがハラスメントが認められるこんな世の中じゃPOISONと言いたくなる気持ちもわかりますね、ただまあ、拙ブログではいつも繰り返している通り、パワー・ハラスメントは、パワー(指揮命令権)とハラスメントを峻別する必要があると考えていますが、その一方、セクハラはパワー(指揮命令権)そのものを問題とするより、その性差をことさらに利用して心身にダメージを与えることを問題視しているといえましょう。と考えてみると、パワハラとセクハラは似て非なるものであると整理しておく必要がありそうです。

いやもちろん、雇用契約なり請負契約なり派遣契約なり、およそ労務の提供を授受する関係においてあらゆるハラスメントを認める必要はないというのが原則であろうと考えます。その上で、そのハラスメントの根拠がパワー(指揮命令権)であるのか、あるいは態様が性差をことさらに利用したものなのかという分類の仕方によって、その対応が変わるという理解が素直ではないかと。

その前提に立つと、パワハラについてはこれまでパワハラクソ野郎について書いてきたとおり、

つまり、OJTが試行錯誤をさせてその取組の中で職務遂行能力を向上させるものであることを目的とするものであることから、当然の帰結として、部下はかなりの割合で「錯誤」することになります。それに対して上司は、試行錯誤の「錯誤」の部分について助言・指導を行う必要があり、その際に、人格を否定して人権を侵害するような暴言を吐いたり、ときには暴力を振るったりしてその「錯誤」を攻め立てることがハラスメントになるわけです。

(略)

つまり、大規模な組織において「論理的」なるものは、実は誰にとっても都合よく読める程度には玉虫色のものにせざるを得ないわけでして、その玉虫色の決着を有利に形成する際には、「あるときは徹底的に論理的に、あるときは表向き論理的に」という使い分けが有効ということになります。

そしてこの状況で最も事を有利に進めることができるのが、まさに論理的と非論理的を使い分けてパワハラを駆使するクラッシャー上司であり、だからこそクラッシャー上司は高評価されて出世もするのですが、その結果として、一見論理的に見えてもその実上司が自分の思い込みで判断した結果にすぎないということが頻発し、その組織における「論理的」なるものが内実を失っていくのではないかと思います。というか、大企業病とか役人病というものの大半はこれで説明可能ではないかとも思うところでして、この国の意思決定をまともな方向へ進めたいと思う方々は、まずパワハラを駆使するクラッシャー上司という社会的害悪を何とかしないといけないのではないでしょうかね。

パワハラを駆使するクラッシャー上司(2017年08月06日 (日))

というように組織の意志決定を歪める社会的害悪であって、それを認めるような組織風土や企業文化を排除できない組織は早晩行き詰まるだろうと考えておりますが、セクハラについても、場合によってパワハラと同じような社会的害悪となりうるということが今回の件で明らかになったことではないかと思います。

ただし、パワハラとセクハラでやや様相が異なるのは、パワハラでは、パワハラする側が自らの地位や気分を害すると思う相手に対して一方的な罵倒や人格否定を行い、パワハラの対象者には一切の利益がないのに対し、セクハラは、する側とされる側双方にそれなりの対価がある場合に発生しやすいという点です。

前々回エントリでも取り上げた厭債害債さんのところで重要な指摘がされている通り、

しかし前のエントリーにも書いたように、本来は自社の女性社員を守るためにこれまで何らの行動をとらず、むしろネタどりなどのためにあえてセクハラを受けやすい女性社員を、わざわざ夜の席で一対一になることを許容してきたそのメディアのほうも大いに糾弾されるべきであり、仮にその行為を(本人が嫌がっているのに)営業のためにやらせていたとしたら、そちらの方も全く同罪なのです。福田次官が辞任するとしたら、そのテレビ局の担当部長や役員クラスが処分されるべき事案だと思います。むしろそのプロット自体が女性の犠牲のもとにビジネスを遂行するという陰湿なプランに裏打ちされているため、非常に嫌悪感を感じる部分です。

ただ、女性担当者は、さっきも言ったように仕事にまじめであったり功績をあげたいという強い気持ちで、そういうリスクを犯したり、あるいはもっと踏み込んだ行動に出かねない。保険会社での枕営業というのも昔から言われていることです。そういう事実があるということを踏まえて、単なるきれいごとで本件を扱ってほしくないなぁというのは正直なところです。

「マドンナ作戦(2018/04/19 02:09)」(厭債害債(或は余は如何にして投機を愛したか))

セクハラの被害を受けたご本人の自発的な行動なのか、あるいは会社の指示であったのかはともかく、セクハラの対価として「ネタ取り」が企図されていたことは否定できないでしょう。もちろん、女性に対してならネタを提供してもいいと考える(特に重要な情報を持つ地位にある)男性がいればそのこと自体が糾弾されるべきですが、そのこと自体を糾弾するでもなくむしろ利用して「ネタ取り」しようとした側にも非があると言わざるをえません。

もしかすると、今回の件が財務省の高官によるセクハラ行為を告発するための仕掛けであり、セクハラ被害の現場を押さえるために敢えて「わざわざ夜の席で一対一になることを許容してきた」というのであれば、それはそれで効果はあったといえるかもしれません。しかし、どうやら被害を受けたご本人の所属する組織では「ネタ取り」を優先してその被害を取り合わなかったようですし、そもそも現時点ではセクハラをしたとされる側が全面否定しているので、その「ネタ取り」の目的や成果が明らかにされない限り、逆に財務省の高官を陥れるためのトラップだとする主張にも理由を与える結果となっています。

冒頭に書いた通り、「雇用契約なり請負契約なり派遣契約なり、およそ労務の提供を授受する関係においてあらゆるハラスメントを認める必要はない」という原則に立ち返って、セクハラを認めるべきではないと考えますが、厭債害債さんが「マドンナ作戦」と呼ぶような行為があることもまた現実である以上、「マドンナ作戦」を仕掛ける側からすれば、それがうまくいって対価が得られれば自らの業績として活用し、対価が得られなければセクハラとして告発できることになるわけでして、「マドンナ作戦」にも規制が必要となってくるのではないでしょうか。まあ、とはいえ、人間が性差を持つ生物として生きている以上、「マドンナ作戦」を規制することは事実上不可能だとは思いますがね。
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2018年04月15日 (日) | Edit |
前回までエントリまでで3月末からの書きかけは一通り書いたところですが、ついでに常々思っていたことを書いておきますと、この国の「陰謀論」好きはすでに見境がなくなっているんではないかと。

こちらのtweetそのものには特に異論はないのですが、私が見聞きしているこの国のエンタメも陰謀論ばかりではないかと思うところです。

といいつつ、私自身は定時で帰るなんて仕事上の飲み会のときぐらいの職場におりまして、平日にドラマを見ることもなく、録画しても土日に面白そうなものをかいつまんでみる程度ですし、小説もここ数年真面目に読んでないので、まあその程度の印象論です。さらに多分に自戒を込めておりまして、というのは、「「言うこととやることが正反対であっても、発話の内容のみに着目して議論するのが論理的に正しい」という主張は、感情を持った人間同士が議論するという現実を無視した机上の空論だろう」と考えておりますので、批判すべき議論について批判する際には、その議論そのものよりも発話者の普段の行動だったり発言を重視しておりますが、ここの加減を間違えると「○○の立場だから自分の都合のいい議論をしている」という陰謀論との境を超えてしまいかねないからです。

という自戒を込めつつ、この国の政治や行政をめぐる議論はもちろんのこと、特に刑事ものとか医療ものというドラマは、一部の権力者が私腹を肥やしたり野望を抱いて陰謀を張り巡らし、それに気づいた正義の下っ端が陰謀を暴くというプロットが多くて辟易することが多いんですが気のせいでしょうか。というより、そもそも政治や行政の意思決定の現場そのものをテーマにしたドラマというのはほぼ皆無で、刑事ものや医療ものでは政治家や役人が必ず出てくるものの、大抵は主人公の邪魔をするか、政治家や役人が主人公であっても上層部に巨悪がいてそれに楯突くような位置づけが多いんですよね。

一方で、海外ドラマもそれほど多く見ているわけではないのですが、アメリカでいえば「ザ・ホワイトハウス(原題:The West Wing)」では大統領とその側近たちが主人公のドラマで、人間くさい些事(浮気や見栄)に振り回されながら国の政治が動いていく様子が描かれています。イギリスでいえば、「官僚天国!〜今日もツジツマ合わせマス〜(原題:The Thick of It)」でかなりカリカチュアライズされてはいますが、何の見識もなく大臣になった政治家をこけにしながら振り回される官僚スタッフが主人公のドラマで、たとえば大臣となって引っ越した政治家が自分の子息を地元の学校に転校させる際に、周囲から便宜を図ったと言われないよう内密にしてほしいと学校に伝えたところ、その子息が登校していることがバレてしまい、結局「内密に転校したのは何か便宜を図ったからに違いない」と野党に追及され、その辻褄合わせに官僚スタッフが奔走するエビソードなどがあります。アメリカやイギリス本国での受け止め方はよくわかりませんが、どちらも長く続いたシリーズで放送終了後も人気があるようですので、そうした人間くさい些事に振り回される政治家や役人が意思決定の現場にいるということが視聴者にも違和感なく受け入れられているといえそうです。

飜ってこの国のエンタメを見てみると、正義の義憤に駆られた主人公が、悪に染まった権力者や腐りきった組織の上層部による陰謀を暴き、その首謀者を懲らしめるというプロットしかないというのは、それが実態を反映したものなのか、そうしたプロットしか視聴者が受け入れないということなのかはわかりませんが、これもまた日本型雇用慣行との差として認識しておいてもいいのかもしれません。

2018年04月12日 (木) | Edit |
ということで、このクソ忙しい年度初めに立て続けにエントリをアップしてしまったわけですが、実は3月末くらいから一続きのエントリとして書きだしたものでして、途中でいろいろなトピックを取り入れているうちに分割せざるを得なくなった次第です。で、結局何がいいたかったかというと、日本型雇用慣行が大企業中心に浸透してから40年近くが経過(整理解雇の4要素のリーディングケースとなった東洋酸素事件の高裁判決から来年で40年ですね)し、前回エントリで取り上げたように、日本の主要な組織の意思決定がすでに修復不可能なまでに歪んでいるのではないかということでした。その一つの側面が、前回エントリで取り上げた「ディベートの達人」が潜在的パワハラクソ野郎となっていく過程ですが、具体的にそうした組織体制が組まれるのが年度ごとの人事異動なわけです。

という人事異動の時期に厭債害債さん(?)のエントリを拝見して、こうした思いを抱くのは決して自分一人ではなく、ということは日本の組織では普遍的な現象となっているのだなあという思いを強くしたところです。

頭の悪い人は普遍的に存在する。共通点は自分に自信を持ちすぎていることであり、そのことが知識不足や経験不足とミックスされるとよろしくない結果を起こす。さらにそういう人が広い意味での権力を握ると、これは最悪だ。自分の自信のなさや知識不足をその権力の行使によって補おうとするからであり、その結果組織は大混乱に陥る。
会社などでも、とっても偉い方々の好き嫌いで人事は決まることがあり、その結果として「頭の悪い人」があるラインのトップに来ることはままある。しかもあまり経験値がない世界のラインのトップとなることがある。
(略)

会社組織であれば、最初は「威勢がいい」「はっきり物事を言う」などと肯定的な評価を下していたトップも最後は手に負えなくなって、子会社や別組織に移してしまう。で移った先で同じことを繰り返し、挙句の果てそういう評判が一般化し、引き受けてがなくなってしまう。しかし本人はそのことが理解できず、ますますバカなのは自分以外だと信じて疑わなくなる。いわゆるバカの壁が構築される。悪いことに部外者はそういう威勢の良さなどを面白がって付き合ってくれるので、それを自分への仕事上の評価だと大きな勘違いをし、ますます間違った自信を深めてしまう

「頭の悪い人(2018/03/16 21:01)」(厭債害債(或は余は如何にして投機を愛したか))
※ 以下、強調は引用者による。

国家公務員ならば地方自治体とか独立行政法人とか出向先があるので民間に近いかもしれませんが、特に地方の役人の世界は子会社や別組織といえる組織がそれほど多くなく、しかも「とっても偉い方々」が直接選挙で選ばれる組織であるため、国家公務員や民間企業よりもはるかに「とっても偉い方々の好き嫌いで人事は決まる」傾向が強くなります。

例えば、全国知事会の「知事ファイル」というページに全都道府県知事の任期等が記載されておりまして、2018年度当初現在でその任期(知事ごとに当選回数から1を引いて4年をかけた年数に、現在の任期の年数を加えた年数)の平均を取ると9.98年となります。国会方面では一強体制で長期政権だからとか、内閣人事局だから役人が忖度するとか言われていますが、地方自治体はずっと前から首長が名実ともに任命権者として首長部局の職員の人事権を握っていて、その他の任命権者の任用する職員についても、(地方公営企業で独自に採用選考を実施している場合を除いて)実質的にその職員人事を差配しています。さらにいえば、各都道府県においては「大統領」にも比肩される権限を有する方々の平均の在任年数が約10年なんですけど何か?

まあそんな次第で、マスコミで大々的に取り上げられるキャリア官僚についてはかなり関心が高そうではありますが、特に任期が長くなっている首長さんがいる役所の地元の方は、その役所の人事がどういう流れになっていて忖度の程度はどのくらいになっているのか、中の人に聞いてみると面白いかもしれませんね。

2018年04月10日 (火) | Edit |
激しく周回遅れですが、

さて、本書をいただいたのは昨日3月20日でしたが、その日は夕刻、慶應義塾長を務められた清家篤先生退任記念懇親会が慶応義塾大学であり、用務を終えて駆け付けたところ、会場には玄田さんの髭面も待ち構えていて、早速本書のお礼を申し上げたところ、

「hamachanあれ読んだ?あれhamachanのことだよ」

と言われ、一瞬何のことだかわかりませんでした。

JIL雑誌今月号の巻頭言を玄田さんが書いておられて、

http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2018/02-03/pdf/001.pdf

そこに出てくる「ある労働法学者」というのは、実は私のことなんだそうです、ええっ?


この号、本ブログでもちゃんと紹介しているんですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/201823-1680.html
論文の紹介に気が行っていて、そこまで気が回っていなかったようです。

・・・ある労働法学者は官僚時代,国会待機で時間を持て余した時,過去の審議会の議事録を読み返 し,政策決定プロセスの勘どころを学んできたという。氏は後に国際機関に出向,各国の法律や制度の理解を深める機会も得た。ゆえに今どんな新たな労働問題が出てきても,自身に定まった歴史軸と国際軸に位置づけることで,説得力のある議論を常に展開できるのだ。

説得力のある議論を常に展開しているかどうかは人様が評価することですが、まあ過去の歴史を読み込んでおいて損になることはないと思います。

周回遅れで後出しジャンケンを承知でいいますと、2月に玄田先生のこちらの巻頭言を拝読して「これはhamachan先生に違いない」と思っておりました(ちょうどやりとりさせていただいていた海老原さんにもその旨メールしたりしました)ので、このタネ明かしでやはりそうかとすっきりしたところです。hamachan先生が学んできた政策決定プロセスの勘どころの要諦は、『労働法政策』の「Ⅰ 労働法政策序説」の「第1章 労働の文明史」に記述されているものかと存じますが、そこで示されている「自身に定まった歴史軸と国際軸」こそが、「過去の歴史を読み込んでおいて損になることはない」という経験を裏打ちしているのだろうと思います。

さて、そうしたhamachan先生を引き合いに出すのも恐縮なのですが、玄田先生の賛辞の中でちょっと引っかかったのが「説得力のある議論を常に展開できる」という言葉です。いやもちろん私自身「説得力がある」という言葉を使うときは、その言説に十分な根拠があって、それが歴史的経緯や国際的な経路依存性に基づく各種制度への理解に裏打ちされているという趣旨で使っているつもりでして、その点からhamachan先生を評して「説得力のある議論を常に展開できる」と指摘されることには全く異論ありません。

しかしその一方で、特にディベートにおいて用いられる「説得力のある議論」という言葉には十分に注意しなければならないとも感じています。ということを考えていたときにふと書評を目にしたこちらの本を読んでみて、私の問題意識がかなり整理されました。

「歴史」をディベートの対象とするのはどのような知的な営為なのか。矢野善郎(日本ディベート協会元会長)によれば、ディベートとは、抗議には「①公に関わる・公共の(私的でない)問題について、②対立する複数の立場をまじえながら、③(例えば公開された場面などで)中立の第三者に対しても説得的であることを目的としておこなわれる議論」であり、かつコミュニケーションの様式だという。そのメリットは、「物事を相対化してみる経験」で、藤岡(引用注:信勝)のいずれの著作でもおおむねこのように捉えられている。
 この問いを検討する前に、なぜ対話や討論ではなく「ディベート」という形式にこだわったのか、考えておきたい。論点をやや先取りすることになるが、その理由は「ディベート」というコミュニケーションの様式にある。ディベートは複数の論点から話し合う対話や討論と違い、二項対立図式のコミュニケーションである。それが好まれる理由は、一方に歴史学の通説を設定し、他方に特殊な少数意見を扱うことによって、あたかもマイナーな説を二大通説の一つのように地位を底上げすることができ、同じレベルで議論することができるからだ。すなわち、ディベート論題は設定の時点で、すでに「俗説」「傍流」を格上げするイデオロギーを発揮していることになる。

(略)

 しかし、これまでに述べたように二項対立の形式をもつディベートは平等な議論を対置するのではない。さらに、本来「事実命題」とは「いまは朝である」の真偽を問うものであり、議論の対象ではないため、カテゴリー・ミステイクである。この点について教育者である今野日出晴が次のように批判している。

歴史ディベートが真理確定の方法として位置づけられていないことを確認したい。藤岡氏とともに、自由主義史観研究会の呼びかけ人の一人であった安藤豊氏は、「どっちが正しいか(真理性)を争うのではない。説得性を争うのであるディベートは真理性の決定に関与しない。各人の意思決定に関与しない」と明言している。そして、「今回のディベートは歴史研究に『マジ』になった方が負け」であり、「『真実は確定されない』ということをさわやかに言える」ことが企図されている。(傍点は引用者)


pp.100-101


歴史修正主義とサブカルチャー   90年代保守言説のメディア文化
倉橋 耕平(著)
四六判  240ページ 並製
定価 1600円+税
ISBN978-4-7872-3432-2 C0336

奥付の初版発行年月 2018年02月
書店発売日 2018年02月28日
登録日 2018年02月03日


※ 以下、下線強調は原文(原文の強調は傍点)、太字下線強調は引用者による。注記は省略しています。

とはいいつつ、この本自体はかなり左派的思想に依っていると思われる記述が散見されまして、特に第5章の大手新聞に掲載された言葉の使用回数をめぐる議論については、私からすればあまり意義のある議論には思われません。なんとなれば、特に制度についての記事でマスメディアが不適当な報道をするのは日常茶飯事ですから。

端的に言えば、報道機関による不適当な報道でこうした誤解や思い込みが広がっていくのですが、我々が普段接する批判というのは、こうした誤解や誤報に基づくものがほとんどでして、結局報道機関のミスのつけは公務員に回ってくることになります。公務員というのは、そうした誤解や誤報に基づく批判を正面から受けなければならない一方で、その誤解や誤報を指摘すれば「言い訳がましい」とさらに批判を強められてしまう立場ですので、基本的には平身低頭して不快・不満な思いをさせてしまったことをお詫び申し上げるしかありません。

「絶対最強の公務員」なんているはずがない(追記あり)(2012年08月31日 (金))

そうした点はまあそれとして、本書で指摘されるディベートの問題点には思い当たる節が多々ありますね。

ディベートで特に問題と思われる点は、引用部の矢野氏による定義の中で「③(例えば公開された場面などで)中立の第三者に対しても説得的であることを目的としておこなわれる議論」という部分ではないかと思います。というのは、世の中で「中立の第三者」であることができるのは、特定の問題に関して利害関係を有しない限りにおいてのみであって、逆にいえば特定の問題で中立の第三者であっても他の問題では中立の第三者ではないのが通常となるはずです。にもかかわらず、その「中立の第三者」を所与のものとして「説得的であることを目的」としてしまえば、その自称「中立の第三者」は自己に都合のよい議論をより説得的だと考えているだけという可能性を排除できません。

というより、これだけ複雑に利害関係が絡み合って「公共」がカバーする領域が隅々まで行き渡った社会において、「①公に関わる・公共の(私的でない)問題について」適切に「中立の第三者」を想定すること自体が困難となっていると考えるべきでしょう。前回エントリで取り上げた調査報告書を例にするなら、レスリング協会が「レスリングについては,全くのズブの素人である」と自認する弁護士を第三者として選任する手続きがあってはじめて第三者委員会が成立するのであって、そうした手続きを経ないディベートがいくら自称「中立な第三者」に説得的であっても、その内実は眉に唾しなければならない代物である可能性が高いわけです。

本書では、読者参加型を掲げる雑誌が歴史修正主義を先導していった経緯が検証されていまして(雑誌「正論」が読者コーナーを拡大していって、そこから「論壇デビュー」して安倍晋三氏からスカウトされたのが稲田朋美元防衛相だというのは、リアルタイムでは知りませんでしたが有名な話なんですね)、大塚英志/上野俊哉の「サブカルおたくはなぜ保守と結びついたか」(インパクション1998)の定義を引用して「サブカルチャー」を「①ルーツや文脈を保持せず、②そのために、記事単体で消費できる「雑誌」的(ロラン・バルト)なものである」と(とりあえず)定義し、その「サブカルチャー」化した論壇における歴史修正主義の事例として、小林よしのり氏の『新・ゴー宣』を象徴的に取り上げています。

 読者投稿を連載のなかで取り上げる手法は、旧『ゴー宣』の初期(第18章)から採用されている、それは、一定の読者を「囲い込む」「保護する」手段だったと考えることができる。(中略)そして小林と読者の関係は、読者投稿をまとめた書籍『ゴーマニスト大パーティー』で「出会う」ことによって「熱烈なコミュニティー」となり、「大きな教団」を構成する。そのために「作者と読者の一種の共犯関係、もう少し穏健に言えば、“作者−読者共同体”が構築されていることが、〈商品〉としての『ゴー宣』にとって重要な要件」(引用注:瓜生吉則「〈マンガ〉のリミット−小林よしのり=『ゴーマニズム宣言』をめぐって」宮原/荻野編『マンガの社会学』2001からの引用)と指摘される。
 この「作者−読者共同体」は、「慰安婦」問題の際にどのように作用したのだろうか。これまでと同様に、先行研究では採られなかったメディア=言説の存在様式という視点から問い直してみる。
 まず、「慰安婦」問題の連載時でも、小林は「読者参加型でいく」と明言している。(第26章欄外小林コメント。傍点は引用者)。そして、同章の「オチ」で「さあ朝日新聞が正しいか?産経新聞が正しいか?/慰安婦がホントに“従軍”なのか?“性奴隷”なのか?(略)われわれで結論を出そう!」と宣言する(傍点は引用者)。ここからは、連載は最初から読者投稿を前提に開始されたことがうかがえる。この発言は、第24章で連載を始め、反響を受けたあとの発言であるため、おそらく読者の重要性を認識したうえでのものだろう。

倉橋『同』pp.171-172


「われわれで結論を出そう」という方々がネットで徒党を組んで発言できるようになった2000年代以降は、jura03さんの言葉をお借りすれば「ネット○○派」が隆盛を誇ることになりますが、特に一部のリフレ派と呼ばれる方など「経済学的に正しい」ことを信奉する方々に「「大きな教団」を構成する」傾向が顕著ではないかと思われるところでして、その発芽は1990年代の論壇にあったわけですね。

まあその後の経緯は拙ブログでも散々指摘しておりますので繰り返しませんが、個人的にミクロの観点でより問題だと思うのは、こうしたディベートの性質を悪用する術を身につけた「ディベートの達人」の組織内での振る舞いです。そうした方々は、大塚氏が指摘するように「ルーツや文脈を保持せず」にディベートをふっかけているだけなので、そのディベートなるものは「ルーツや文脈を保持する」側からすればヘリクツに過ぎません。であるにも関わらず、例えば意思決定権をもつ者が「ルーツや文脈を保持しない」場合や、あるいは「ディベートの達人」がそうした意志決定者の都合を忖度する場合は、それに応じて臨機応変に説得的な議論で説き伏せる術を持つ「ディベートの達人」が「ハイパフォーマー」として評価されてしまう状況が現出してしまいます。

でまあ、これって最近よく見る光景だなと思ってみると、

ここで冒頭のtweetに戻りますと、クラッシャー上司は論理的に見えても、上記のようなパワハラ的言動の使い分けを行うことが往々にしてあります。そして普段(自分の経歴に傷がつかないつくところで)論理的に振る舞うことで、パワハラ的な言動が非論理的であっても、「本人に対しては面と向かって本音が言えず、「しかたがない。逆らわずにいこう」と諦め」ざるをえないという状況が生まれます(付記:カッコ内を修正しました)。その結果、その上司の下での意思決定は非論理的なものとなっていくという悪循環が生じることとなりますが、私見ではこうした環境は伝統的な日本企業や官公庁に特徴的ではないかと思います。

パワハラを駆使するクラッシャー上司(2017年08月06日 (日))
注 引用部の論旨に誤りがありましたので、元記事とともに修正しました。


というわけで、そうしたアドホックな議論を駆使する「ディベートの達人」が潜在的パワハラクソ野郎になり、そうした「ハイパフォーマー」が組織の上層部に浸透していった組織においては、表面上は「説得的」であったとしても、「ルーツや文脈を保持する」側(通常の社会生活を行うなら誰でも保持している側となるはずですが)にとって非論理的な意思決定が常態化していくわけです。倉橋本でディベートが流行したと指摘される1990年代半ば以降に社会人として自己啓発した層は、今まさに不祥事が発生しているような政官民の組織で意志決定権を持っている層と重なるのではないかと思うところでして、ディベートの弊害が意思決定に与える影響をまざまざと見せつけられる思いがしますね。

2018年04月07日 (土) | Edit |
今年に入ってから拙ブログではパワハラクソ野郎関連エントリをアップしていたところですが、その後の動きをフォローしておきますと、大相撲方面ではとりあえず決着がついた形のようですね。

一定の区切りも予断許さず=貴乃花親方、5階級降格 時事ドットコム

 元横綱日馬富士による暴行問題が公になったのは、九州場所中だった昨年11月。弟子の貴ノ岩が被害を受けた貴乃花親方(元横綱)は、日本相撲協会との対立姿勢をかたくなに貫いてきたが、さまざまな違反、責任を問われ、3カ月足らずで「理事」から「年寄」まで5階級降格した。この大騒動の渦中にも不祥事が相次いで発生、発覚した中、同親方への新たな懲戒処分で一定の区切りはついた。

貴乃花親方、辛くも残った「徳俵」

 貴乃花親方は、弟子の十両貴公俊が春場所中の支度部屋で付け人の序二段力士に暴力を振るったことを受けて「全面降伏」。28日に開かれた臨時年寄総会では、謝罪を繰り返した。懲戒を科された29日には「真摯(しんし)に処分を受け止め、鍛錬に励む」との談話を出した。
 公益財団法人の相撲協会は2月に受ける予定だった内閣府の監査が先延ばしになったという。貴乃花親方が騒ぎを大きくしたために、角界はさまざまなところでダメージを受けている
 相撲協会は暴力問題の再発防止に向け、全力で取り組んでいくが、貴乃花親方と近い関係とされた元顧問と係争中。まだ火種が残っているともいえる。貴乃花親方は「今後は自分に与えられた職責を果たしながら、弟子の育成と大相撲の発展のためにゼロからスタートしてまいります」との姿勢を見せているものの、ある協会幹部が「また何かあるかもしれない」と声をひそめるように、予断は許さない。(2018/03/29-20:25)

※ 以下、強調は引用者による。

記憶では、当初貴乃花親方への同情的な記事もそれなりにあった気もしますが、自身の弟子が暴力事件を引き起こしたということですっかり悪役扱いのようですね。まあ弟子の指導に対して責任を取るというのはそれはそれとして必要なことだとは思います。とはいえ、相撲協会が「現場のエリートとそれを擁護する上層部に敵対的な行動を取った幹部については、現場のエリートを支える体制を維持するため上層部から排除する必要があると、理事会・評議員会ともに判断した」通りの結果となったわけでして、このことの是非は、貴乃花親方の弟子の暴力事件を含めて対応が適切であったかどうかの検証も必要だろうと思うところです。

と言っているそばからネタを提供するのが相撲協会の凄みでして、

救命処置の女性に「土俵下りて」、相撲協会が「不適切」と謝罪 CNN 2018.04.06 Fri posted at 17:12 JST

(CNN) 日本相撲協会は、京都府舞鶴市で春巡業を行った際、土俵上でのあいさつ中倒れた同市市長の応急処置にかかわった女性に対し、土俵から下りるよう促したことを謝罪した。大相撲では伝統的に女性が土俵に上がることを禁じているが、人命にかかわる状況でそうした価値観を優先させようとするのは不適切だとの批判が噴出していた。

(略)

日本相撲協会の八角理事長は談話を発表し、今回の問題について「行司が動転して呼びかけたものでしたが、人命にかかわる状況には不適切な対応でした。深くおわび申し上げます」と謝罪した。

行司の独断の行動かのような謝罪ではありますが、まあ不適切との認識はあるようですので、それはそれとして評価するべきでしょう。しかし、前回エントリで指摘したような「制度の不備は職員個人の心がけや自助努力で防ぎなさいという責任転嫁」をよしとする組織の体質はここでも健在なようでして、この国の組織行動を変えることの難しさを痛感します。

という最中、レスリング方面でもパワハラの告訴状が内閣府に提出されたとのことで、レスリング協会では第三者委員会を設置してパワハラがあったかどうかの検証を行ったそうです。拙ブログのスタンスは、以前からパワー(指揮命令権)とハラスメントは区別するべきと考えていますので、この報告書の定義はよく考えられているなと思います。

5 パワーハラスメントへの該当性の判断基準


 以上のような特色を有する協会において,オリンピックへの参加を目指す選手の強化体制を担う理事や本部長と,協会登録者たる選手及びコーチの間には,オリンピックその他の競技大会に参加する選手あるいはコーチとしての選任につき,協会の理事や強化本部長が優越的な地位を占めていることは明らかである。
 また,検討会報告書における②の「業務の適正な範囲を超えて行われること」との要素については,倫理規程第4条によって,本組織の上記特色を反映して,「フェアプレーの精神」や「公平性及び公正性」の観点に立脚して「スポーツの価値を損なう不適切な行為」か否かをもって判断基準とすることが,とりわけ「パワーハラスメント」については明示されているところである。
 こうしたことから,当委員会は,D及びDに関連する人のB・Cその他の者に対するパワーハラスメントが問題とされる行為につき,パワーハラスメントへの該当性を判断する際の基準は,「フェアプレーの精神」や「公平性及び公正性」の観点に立脚して,「スポーツの価値を損なう不適切な行為」であるか否かという基準をもって臨むべきと考える。
 そして,この判断には,パワーハラスメントが相手の尊厳や人格を傷つける許されない行為であることに鑑み,「敬意と思いやり」を考慮すべきである
pp.10-11

調査報告書 公益財団法人日本レスリング協会 第三者委員会(平成30年4月5日)


個人的には、引用した部分の最後の言葉だけあれば十分ではないかと思うところですが、この言葉につなげるためには、日本レスリング協会の既存の倫理規程と組織の特色を検証した形にすることが必要だったということでしょう。ちなみに倫理規程第4条はこうなっています。

(遵守事項)
第4条 本協会の役職員および登録者等は、フェアプレーの精神を尊重し、公平性および公平性を確保するため、スポーツの価値を損なう次の各号に定める不適切な行為を行わず、強要せず、黙認せず、許さず、その根絶に努めるものとする。
また、相互を尊重し、個人の名誉を重んじ、プライバシーに配慮しなければならない。
(1) 暴力、各種ハラスメント(セクシュアル・ハラスメント、パワーハラスメント等)、不合理な差別(人種、性別、障害の有無等)等の行為
(2) ドーピングや勝敗に関わる意図的な捜査等の不正行為
(3) 薬物使用乱用(大麻、覚醒剤など)や違法賭博等の反社会的行為
(4) 暴力団等、反社会的勢力と関わる行為

倫理規程 公益財団法人日本レスリング協会(25.4.1)

2013年の時点でここまで網羅的に遵守事項を定めているということは、それだけ社会的問題となっていた事情があるわけでして、積極的に規定していたことは評価されるべきです。そして、パワハラに関して、「フェアプレーの精神」や「公平性及び公正性」の観点に立脚して「スポーツの価値を損なう不適切な行為」か否かをもって判断基準とするということそのものが、調査報告書で指摘される「経緯と思いやり」を考慮することに他ならないはずです。

そのような観点からしても、この調査報告書の最後の部分は、すべての組織関係者に熟読玩味していただきたと思うところです。

6 最後に


 当委員会の委員は,いずれも,これまでの人生において,レスリングという競技とは何の縁もゆかりもない生活を送ってきた。レスリングについては,全くのズブの素人である。しかし,当委員会における活動を通じ,レスリングに関わる競技者,コーチ,監督など多くのレスリング関係者からのヒアリングを重ねるうちに,次のような思いを抱くに至った。すなわち,レスリングは対人競技であり,しかも柔道や相撲などと異なり,競技相手との対戦において,柔道着や廻しのような相手を掴まえるもの(手段)がない。強いて言えば,レスリングにおいて互いに掴み合っているのは,互いの魂であり,まさに人格と人格がぶつかり合っているのである。そうした場においては,互いに,相手に対し,「敬意と思いやり」を抱いてこそ初めて競技が成立するのだと思う。そうしたレスリング競技における崇高さ,潔さが見る人に感動を与えるのである。そして,そうであるからこそ,第3で引用した倫理規程は,レスリング競技に関わる人々に向けて,あえて,「フェアプレーの精神」や「公平性及び公正性」という概念を引き,こうした魂を掴み合い,人格と人格をぶつけ合うレスリングという「スポーツの価値を損なう」ことのないように戒めているのである。そうであるとすると,この倫理規程の下で,レスリング競技に関わる人々が常に心すべきは,相手に対する「敬意と思いやり」であることは論を俟たない
 そこで,振り返って本件をみると,いろいろな人が自分の思惑の下に行動し,互いに軋轢を生じさせている。どれ一つをとって見ても,小さい,せせこましいというのが正直な感想である。一人ひとりがレスリング競技の原点に立ち戻り,「敬意と思いやり」の心を取り戻してもらいたい。競技において勝つことが重要であることはいうまでもない。しかし,昨今,余りに勝つことにのみ眼を奪われ,勝つことのその先にあるものが見失われているように思う
 協会がレスリング競技の原点に回帰し,メダルの数によって国民からの賞賛を得るだけでなく,これまで以上に,レスリング競技そのものへの感動と感激を伝えることによって,国民からの信頼を獲ち得ることを切に望む次第である。
pp.36-37

調査報告書 公益財団法人日本レスリング協会 第三者委員会(平成30年4月5日)

いやまあ、調査報告書はレスリング競技に敬意を表してレスリングに特化した書き方になっていますし、個別の事実認定は細かすぎていまいちピンとこないところはありますが、個々で指摘されているように、私自身の狭い見識でも、パワハラ案件というのは小さくて、せせこましい話が多いんですよね。上司に限らず、同僚でも何でも、「お前の顔つきが気にくわない」とか「そんな態度で許されると思うのか」とか「俺はそんなことくらいすぐできたぞ」という気持ちが発端となって、細かいことに口を出すようになり、そのイライラが募って怒鳴りつけることは、組織で仕事をしている方には思い当たる節があるだろうと思います。組織の偉い方々は、「生産性を上げろ」とか「残業を減らせ」とか怒鳴りつける前に、「勝つことそのその先にあるもの」が何なのかぜひこの調査報告書を読んで考えていただきたいものですね。

(追記)
タイトルが中途半端な引用となってしまいまして、意味が変わってしまいましたので、修正しました。
調査報告書では「勝つことのその先にあるものが見失われている」と指摘しており、「小さい,せせこましい」問題が生じるのは、その「勝つことのその先」にあることが意識されていないからですね。「小さくて、せせこましい話の先にあるもの」ではなく、さらにその先にあるものが重要ということで、タイトルを「小さくて、せせこましい話の先の先にあるもの」と変更しました。

2018年04月07日 (土) | Edit |
相変わらず更新が滞りがちのまま新年度を迎えたところですが、例年通り役所というのは年度末と年度初めに仕事が集中するもので、3月中旬から5月のGW明けまでは連日の超勤と休日出勤に追われる日々が続くことになります。まあ役所といっても、いわゆる事業をもっている部署にその傾向が顕著でして、そういった仕事が比較的少ない部署や霞ヶ関のようなところはいつも通り年中忙しいわけですが。

という日々を送っている中で国会では公文書の管理が問題になっているようでして、ことの是非でいえばもちろん由々しき事態だろうと思います。とはいえ、個々の事案についての評価は別として、公文書というのは例えば課とか係という組織単位で作成して管理するものであるところ、人件費削減の声に押されたそうした組織に公文書管理の担当者を割り当てる余裕は当然ありません。さらにいえば経費削減のため天井が低く空調も後付けのような古式ゆかしい建物で仕事をしている者としては、意思決定資料であるところの公文書を定期的に破棄しなければ建物に入ることすらできなくなるような状況で、ではあるべき公文書管理とは一体何だろうなと思わないでもありません。

というよりむしろ、現場の感覚からいえば、公文書管理は余計な仕事とみなされていて、そのための人件費や施設建設の費用は「行政のムダ」として削減されてきたのではないかというのが正直な思いですね。その点は牧原先生がこちらの記事で指摘される通りだろうと思います。

だが、公文書を研究してきた行政研究者としては、こうした状況に強い違和感がある。忘れることができないのは、政府の研究会の一員としてフランスの公文書館へのヒアリングに行ったときのことである。「科学的な文書管理が重要だという主張だけでは、各省を説得することはできない。各省が説得されるとすれば、そうした文書管理こそ各省にとって利益になるという言い方だ」というプラグマティックな発言であった。

つまり、公文書における記録保存の正当性だけでなく、その利益を各省の側に了解されてこそ、公文書管理制度が成り立つというのである。しばしば、欧米では公文書は文化遺産とされているといった主張が日本でなされているが、それはあくまでも行政の現場の執務と折り合いがつくからこそ成立するものなのである。

「牧原 出:東京大学教授 「廃棄した」は通用しない 森友公文書改ざん問題 全面保存を前提とせよ(03/31号, 2018)」(週刊東洋経済Plus)

有料記事のため冒頭しか見られないんですが、公文書管理が適切に管理されてシステム化されていれば、当然その公文書を日常的に使用する行政の現場でこそ、必要な情報が必要なときに取り出すことができるというメリットがあるわけですから、公文書管理に反発する役人は多くはないでしょう。まあ誰がその担当になるかでは評価が分かれるかもしれませんが。


牧原先生が指摘されるフランスの担当者の発言を日本の役人が言おうものなら、「身内のお手盛りでラクをしようとしやがって」とか「公文書管理なんて普通の業務なんだからヒトもカネもかけずにやれ」という声がマスコミを中心に巻き起こるんでしょうねえ。

このような人員体制やシステムを度外視した職員任せの業務改善については、12年ほど前に岐阜県の不正資金問題に関連して書いたことともつながっていますね。

しかし、2は制度上の運用の問題なので少なくとも制度上の改正は可能だろうが、1を根絶することは制度上も実務上もそう簡単ではない。1の内訳については12ページ以降の「費消内容」にまとめてあるが、「(2)職員の費消」は問題外として、「(1)業務に関連した費消(通常の予算では支出しにくいもの)」は、その標題のとおり通常の手続きでは支出しにくいか、緊急を要するのに支出に時間がかかりすぎるパターンがいくつか列挙されている。たとえば、(1)の10、11、12、18といった施設の細かい修繕費や、紙が足りなくなったり会議で使う封筒が足りなくなったりしたときの補充、さらには研究機関で必要になる研究資材や参考文献のような、事前に予測できない経費を予算化することに根元的な困難さがあるのである。組織別にみたときこの傾向がはっきりするが、学校や農業試験研究所のような小規模な組織において、所管の施設を持ちつつ研究したり会議を開催するとなるとどうしても不確定要素が大きくなるにもかかわらず、予算規模は組織に比例して小さくなるので、十分なバッファを確保することができない。その予算上のバッファの代替機能を裏金に負わせることになるのである。

ところが、この報告書での「第9 再発防止に向けての提言」ではそういった制度面に踏み込んだ記述が一切ない。かろうじて「4 内部チェック機能の強化・充実」という項があるが、あくまで平成13年9月の「会計事務改革に関する基本的な方針」を前提とした審査・確認体制の強化、検査体制の強化といった会計事務のチェック機能と監査業務の充実という程度にとどまる。つまりここでいっているのは、制度の不備は職員個人の心がけや自助努力で防ぎなさいという責任転嫁である。すなわち、再び裏金問題が発生したときに組織としての責任が回避できるのである。困ったもんだな。

裏金問題とはいうものの(2006年09月09日 (土))


まあ拙ブログでは同じようなことばかり繰り返しているところですので、ネタには事欠かないところでして、こんなのもありますね。

前回エントリで取り上げたようなトランプ氏に対する支持は、「素人崇拝」が高じて、素人の意見を素人として発言する候補者に支持が集まったという面もあると思いますが、アメリカにはそれでも政策決定とその執行が円滑に進むような制度を作り上げてきたという自負があるのかもしれません。

翻って日本の政策決定過程を見ると、「猖獗を極めたカイカク病」を支えたのもまた「経済学的な正しさ」であって、そこにはチェックアンドバランスなどが機能する余地はないように思われます。「財政的な措置をしなくてすむように医療費を削減するための「経済学的に正しい」処方箋は、治療に高額の医療費を要するような疾病に罹患した患者には治療しないこと」というのは、こちらの本で指摘されている研究結果ですが、本書冒頭の青木昌彦先生の推薦文に続くこの序文がアツいんですよね。

 3つ目の提言は、日本の政策の形成・執行の各過程で評価を行うチェックアンドバランス機構を強化しなければ、改革は一度限りの打ち上げ花火で終わってしまうということです。日本での通説とは逆に、筆者の目には「米国の医療制度改革は非常に『慎重』であるのに対し、日本の改革は非常に『大胆』」と映ります。米国を含めた多くの先進諸国は、「政策は誤る可能性が高い」ことを前提に、制度改革には、「大失敗」を未然に予防するため幾重にもチェックアンドバランス機構を組み込んでいます。それに比べ、日本では欧米におけるようなチェックアンドバランス機構がきわめて貧弱です。(中略)このような政策上の失敗にブレーキを踏めるインフラを整備しない限り、3章で紹介する政策提言・評価のための経済学理論・実証分析手法も、日本では単なる絵に描いた餅に過ぎません。言い換えれば、政策の方向性・進捗状況すら判断できないままブレーキ・安全装置を外せば、とりあえず速度だけは上がることに嬉々とする類の大胆な改革が繰り返されるおそれがあります。

pp.006-008

「改革」のための医療経済学
ニューヨーク州ロチェスター大学助教授 兪炳匡 著
定価 : 2,052円(本体1,900円+税)
発行 : 2006年08月
在庫 : 在庫なし(申込不可)
サイズ : 四六判 264頁
ISBN-10 : 4-8404-1759-8
ISBN-13 : 978-4-8404-1759-4
商品コード : T560090



認知的不協和の行き着く先(2016年11月15日 (火))

役人の政策形成能力に対する疑念が深まっているのには、今回問題となっているような公文書管理の問題ももちろんあるとは思いますが、そもそもこの国の政策形成過程は、「政策の方向性・進捗状況すら判断できないままブレーキ・安全装置を外せば、とりあえず速度だけは上がることに嬉々とする類の大胆な改革が繰り返される」状況にあるわけでして、その背景には上記のような「制度の不備は職員個人の心がけや自助努力で防ぎなさいという責任転嫁」をよしとする組織の体質があると思われます。まあこれは、役人に限らず日本型雇用慣行で意思決定を行う日本の組織に特徴的なことなのかもしれませんが。