2018年03月11日 (日) | Edit |
震災から7年、つまり84か月が経過しました。拙ブログでもすっかり震災関連のエントリが激減しているところですが、昨年に引き続き、秋篠宮さまのお言葉に感銘を受けたところです。

秋篠宮さま 震災追悼式でおことば(NHKオンライン 3月11日 16時48分)

秋篠宮さまは、東日本大震災から7年となる11日、東京都内で開かれた犠牲者の追悼式に紀子さまとともに出席し、被災地や被災者に末永く寄り添うことが大切だとする気持ちをあらわされました。

東日本大震災の追悼式には、おととしまで毎年、天皇皇后両陛下が出席されていましたが、ことしは去年に続いて秋篠宮ご夫妻が出席されました。

(略)

秋篠宮さまのお言葉 全文

 2011年3月11日、東北地方を中心に東日本を襲った未曾有の地震とそれに伴う津波により、2万人を超える死者及び行方不明者が生じました。震災発生後、刻々と伝えられる現地の状況と押し寄せてくる津波の映像は、7年を経た今でも決して脳裏から離れるものではありません。ここに一同と共に、震災によって亡くなった人々とその遺族に対し、深く哀悼の意を表します。

 大震災からの7年間、被災地において、人々は幾多の困難を乗り越え、手を携えて、復興に向けての努力を弛みなく続けてきました。こうした努力を支援するため、国や全国の自治体、そして国内外の多くの人々が、様々な形で力を尽くしてきました。

 その結果、住宅の再建や高台移転、産業の回復、生活環境の整備、防災施設の整備など多くの進展が見られました。また、原発事故により避難を余儀なくされた地域においても、帰還して生活を再開できる地域が少しずつ広がってきております。多くの悲しみや困難の中にあった子どもたちも、未来に向けてたくましく成長しています

※ 以下、強調は引用者による。

というのも、震災から7年となる日の前日にNHKで放送された番組を見て、改めて子どもたちが「死」を受け入れることの辛さを考えたからです。

「死にたい。将来は夢も希望もない」「わたしは無感情人間だった。悲しいと言えなかった…」
津波で家族を失った子どもたちが、震災から7年経った今になって悲鳴を上げている。あの日、釜石で被災した当時3歳の女の子。津波から逃げる際に飲み込まれる家屋や遺体を目撃、さらに家族3人を亡くした。壮絶な体験をひとり抱えてきた震災後のある日、耐えきれず感情が爆発。体調不良を訴え不登校になった。10歳になった今になって、誰にも言えなかった体験やつらい気持ちをポツリポツリと語り始めている。被災地で、津波で家族を亡くした子どもは1800人近く。心身の不調を訴える子どもは後を絶たず、宮城県では不登校率が全国最悪レベルだ。こうした子どもたちは心の専門病院やNPOに駆け込んでいる。治療やケアを受け、親にも打ち明けられなかったトラウマ体験や気持ちを言葉で表現することで震災を受け止めようともがいているのだ。番組では支援の現場に密着、語り始めた「言葉」から最大の被災弱者とされる子どもたちが抱えてきた葛藤を見つめる。

「誰にも言えなかった  ~震災の心の傷 母と子の対話~」2018年3月10日(土) 午後9時00分~9時49分

もちろん、秋篠宮さまのお言葉のように「未来に向けてたくましく成長して」いる子どももいます。しかし、それはもしかすると表向きの表情で、その心の中には身の回りの人々が一気に姿を消したことの悲しみを抱えているのも事実でしょう。その悲しみは決して消えるものではなく、抱えながら生きていくしかありません。

番組の中では、沿岸部から内陸に引っ越したものの最近学校に行けなくなった子どもの様子と、その母親の様子が映し出されていました。子どもが気丈に振る舞っていたのは家族の死を受け入れられない自分を認めたくないから、母親が家族の死を受け入れられないのは、そうして気丈に振る舞う子どもに自分の気持ちを素直に表せられなかったから、というお互いに思いやる気持ちの中で、不安な気持ちばかりが募っていったのでしょう。その二人が、家族への思いを人形で共有したときから、お互いに前向きに生きていく気持ちが芽生えたところで番組は締めくくられていました。

番組の中では、この「前向きに生きていく」という言葉がこの母子以外の登場人物からも繰り返し発言されていました。辛い現状をそれとして受け入れて日々生活している中で、「前向きに生きていく」という気持ちが出てくるまでには7年の月日が必要だったともいえます。その母親が言った「3月11日は気が付かないうちに過ぎてほしかったが、やっと迎える気持ちが出てきた」という言葉にその思いが表れていると思います。節目に思い出したように特集されるより、日々の生活の中でこうした思いに向き合っている方々がいるということに、これからも思いを馳せるようにしたいと思います。

(付記)
宮城県名取市で「奇跡の保育所長」と持ち上げられた当人も、その「功績」に押しつぶされてしまった自分を振り返っていらっしゃいいます。

佐竹悦子さん(66歳)。

街全体が壊滅的な被害にあった宮城県名取市閖上地区で、海のすぐそばにあった市立閖上保育所で所長を務めていた。

54人の園児を迅速に避難させ、誰一人死者を出さなかった保育所は後に「閖上の奇跡」と呼ばれる。

だが「奇跡」の後、トップはたったひとり感情を押し殺し、恐怖も悲しみも、あの日の怒りも表に出せない日々を送っていた。

彼女が明かす、孤独の日々と再出発、そして7年という時間――。

(略)

「泣けない」ことに気がつく
時期を前後して、泣けない自分にはじめて気がつく。泣こうと思っても泣けない。親族のことを思っても、閖上の子供たちのことを思ってもどうしても涙がでない。

宮城県の支援にあたっていた精神科医に打ち明けると「それはPTSDだ」と指摘された。医師は続けて、こんな言葉をかけてくれた。

「先生、あれだけ特殊な経験をしたんです。何も起きないほうがおかしいですよ」

そうか、自分の精神は限界なんだと妙に納得できた。この後、彼女は2度の「引きこもり」を経験する。

1度目は2013年だった。体調を崩してしまい、家で静養していた。ところが体調は回復したのに、外にでる気力がなくなった。

外にでること、イベントが何より好きだったはずなのに、理由をつけて、すべての依頼や誘いを断り、家の中でも寝巻きから着替えないまま1日が過ぎていく。そんな日々が半年ちょっと続いた。

市役所の仲間が用意してくれた旅行を機に少しずつ日常を取り戻すことができたが、自分の精神が危うくなっていることを痛感した。

2度目は2015年の春だった。

1度目の引きこもりから「社会復帰」し、引き受けた幼稚園の園長業務をこの年の3月まで受け持っていた。

怒涛の日々だった。

震災の経験を活かさねばならないと、防災の専門家を招き避難計画を作成した。近くを流れる川が気になって、安心できないとマニュアルを練り直した。

心は一気に疲弊した。任期が終わってから、また気が抜けたように家にいる時間が長くなっていったのだった。

佐竹さんは震災について「事実」は話せるが、「思い」をうまく言葉にできない時期を過ごしていく。

(略)

トップの行動が、彼らの心にも深い、深い傷を負わせたのではないか。

所長が涙を流さないから、職員も涙を流せなかったのではないか。3月27日の卒園式はもっと泣いてもよかったのではないか。

6年半を過ぎても、自分を責めるように問うてしまう。後悔ともし…を考えると、恐怖から涙がこぼれ落ちてくる。

あれほど泣こう、泣こうと思っても泣けなかった自分が泣いている。あの日、自分も辛く、怖かったという感情が溢れてきた。

それは、長く押し殺していた感情とようやく向き合うことができた、転機の涙なのかもしれない。

「【あの日から7年】大津波から子供を守った”奇跡の保育所長” 「美談」の裏で抱えた苦悩(2018/03/11 06:00)」(BuzzFeed News)

泣けないほどの責任感を感じて外に出られないほどの辛い経験を経て、やっと泣けるようになるまでの6年半は、あの震災を経験した方々の心を変化させるために必要な時間だったのでしょう。ただしその心の変化は、あくまで震災の経験をずっと抱えたままであることも忘れてはいけないのだろうと思います。「震災から○年」という節目はそれとして大事にしながら、同じ時代に生きる者として心にとどめておかなければと思います。
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2018年03月04日 (日) | Edit |
前回エントリで書いた通り、オリンピックが終わって1週間も経つと、アスリートたちに対して「調子に乗っている」とか「かわいこぶっている」等々批判が巻き起こりつつあるようですが、その主体となるのがちょっと前までちやほやしていたマスコミであり、その視聴者であることは銘記しておくべきでしょう。わかりやすい感動は商売になりますが、それ以上にわかりやすいやっかみは商売になるんですよね。

その一方で裁量労働制をめぐる議論が盛り上がっているようでして、まあこれもわかりやすい敵失を狙った野党の思惑通りにコトが進んでいるわけですが、では裁量労働制とはどんな制度であり、その適用に必要な要件や手続きはどのように定められているのかを正しく知って批判されている方はあまり多くはないだろうと思われるところです。ということで、某世界的大企業(特に隠す必要もないだろうと思いますが)で人事労務に携わっていらっしゃったroumuyaさんがその議論のダメダメさを指摘されているので、この問題に関心のある方はまずは一読しておくべきですね。

ホワイトカラー・エグゼンプションや各制度についての考え方については過去繰り返し書いてきましたのでできれば事前にお目通し願えればと思うのですが(左上の検索窓にエグゼンプションとか裁量労働とか高プロとか入れて検索していただければ多数ひっかかると思います)、とりあえず現時点で簡単にまとめるとこんな感じでしょうか。

 ホワイトカラー・エグゼンプションは「目先の収入より、将来の仕事やキャリアのほうに関心が高い、「自分の仕事は時間の切り売りではない」というハイパフォーマーおよびその予備軍が、働き過ぎにならない範囲で、残業予算や限度基準といった事実上の労働時間の制約を気にせずに、思う存分仕事ができる制度」。

 議論において重要なポイントは以下の3点。ここを外した議論は基本的にダメ。


【1】ホワイトカラー・エグゼンプションは限られた一部の人たち(≒エリート)のもの

【2】ホワイトカラー・エグゼンプションは「残業代ドロボー対策」ではない

【3】ホワイトカラー・エグゼンプションで労働時間は短縮しない



おそらくは現在議論されているあれこれとずいぶん違うなあと感じられると思いますが、要するにその違うところがダメだという話です。でまあそんなんお前がそう思っているだけだろうというご感想もあろうかと思いますが、実は現行制度は制度としてはきちんと上記【1】【2】【3】にあてはまっているのです。迂遠な感じで面倒かもしれませんが、まずはそこの確認から入らないと次の話に進めませんので長くなりますがおつきあいください。

「■[労働政策]ホワイトカラー・エグゼンプションの議論はなぜダメなのか(1)(2018-03-01)」(吐息の日々)
※ 太字強調は原文による。


裁量労働制の議論なのになぜ「ホワイトカラー・エグゼンプションの議論」となっているかという点にも解説が必要かもしれませんが、この制度が設けられた経緯については、菅野『労働法』で確認しておきます。

2.裁量労働制
(1) 趣旨・沿革 従来の労基法は、管理監督者等の労働時間規制の適用除外労働者(41条)を除くすべての労働者について、始業・終業時刻、法定労働時間、時間外労働などの法規制下に置き、かつ労働時間の厳格な計算を要求してきた。また、いったん法定労働時間をこえる労働が行われた場合には、その労働について割増賃金の規定(37条)によって労働の長さに比例した賃金支払を要請してきた。しかしながら、近年における技術革新、サービス経済化、情報化などのなかで、労働の遂行の仕方について労働者の裁量の幅(自由度)が大きく、その労働時間を一般労働者と同様に厳格に規制することが、業務遂行の実態や能力発揮の目的から見て不適切である専門的労働者が増加した。これら労働者は、多くの場合に、労働の量よりも質ないし成果によって報酬を支払われるのに適している人々でもある。
 1987年の労基法改正(昭和62法99)は、このような社会経済の変化に応じて、従来の一律的労働時間規制を改め、一定の専門的・裁量的業務に従事する労働者について事業場の労使協定(102〜3頁)において実際の労働時間数にかかわらず一定の労働時間数だけ労働したものとみなす「裁量労働」制度を設けた。
p.376

法律学講座双書 労働法 第十版
定価: 5,724円(5,300円+税)
著者名:菅野和夫 著 出版社:弘文堂

(やや古いのですが手元にあるのが10版なもので)

ということで、一般の労働者と異なる「業務遂行の実態や能力発揮の目的から見て不適切である専門的労働者」に対する規制を実態に合わせるための制度であり、その専門的労働者向けの制度をroumuyaさんは「ホワイトカラーエグゼンプション」と表現されているわけです。そして、そのような労働者向けの裁量労働制の導入に当たっては、どこにも労働時間短縮を目的とするとは書いていませんね。いやもちろん、実際の日々の労働時間の中でやりくりしてある日は早く帰ることができるということはありうるでしょうけれども、それはあくまで個別の事情によるものであって制度の目的ではないわけです。

ではなぜ労働時間規制を緩和しなければならなかったかというと、日本の労働法では法定時間内の賃金の基準は特に規定がないものの、法定時間を超えた途端に時間給となってしまうため、日本型雇用慣行で正規労働者の多くが日給月給であって、特に高給な労働者に対しては、その高額な日給月給を基礎とする高額の時間外手当を支払うことの合理性も問われていたわけでして、再び菅野『労働法』から引用すると、

…裁判例においては、労働時間の管理を受けず高額の報酬(基本給と業績賞与等)を得て自己裁量で働く専門的労働者について、時間外労働手当は基本給の中に含まれているので別個の請求はできないとしたものがあるが(モルガン・スタンレー・ジャパン事件—東京地判平17・10・19労判905号5頁)、これは実質的には自己管理型労働者に関する時間外労働規制の適用除外を先取りした判断といえる。

菅野『労働法 第10版』p.380

という判断が示されたこともあったわけですね。まあこの事件そのものは、パワハラで懲戒解雇されたプロフェッショナル人材が、その懲戒解雇取消訴訟と合わせて所定外時間の会議分の時間外手当を払えと請求した事案ですので、hamachan先生も指摘されるように「あんまり筋のいい事件でもない」のですが、まあそうした判断も現行法で可能である事例があるにはあるといえます。

もちろんこれは特殊事例ではあるとしても、そうした判断が合理的である場合があるのに対して、現行法がそれを認めないというのであれば、それは現行法の改正によって対応することが必要であることは明白であるとは思うのですが、ではどうやって労働者の労働時間管理を実効性あるものとするべきかが問題となります。この点はroumuyaさんが指摘される通り、

【3】は今回の政府がダメだった(そして上記日経新聞もダメ)なポイントですが、ホワイトカラー・エグゼンプションが上記のような(エリートが)「思う存分働ける制度」であり、かつ(これは多かれ少なかれホワイトカラー労働全般に言えることですが)仕事のペースを自分で調整できる、「マイペースで働ける」制度である以上、常識的に考えて労働時間が短くなるわけがないわけです(もちろん個別には短くなるケースもあるだろうとは思いますが例外的でしょうし、ホワイトカラー・エグゼンプションか否かと独立の事情も多いだろうと思います)。したがって働き過ぎ防止と健康管理措置が重要になっているわけで、安衛法上の安全配慮義務とかいったものに加えて、それぞれの制度においてさまざまに追加的なものが定められていることは周知のとおりですし、重点的な監督も行われているわけです(今回問題になったデータについてもそうした監督にともなうものですね)。

(略)

ここまででかなりムカついている方も多いのではないかと思いますが、私が申し上げたいのは、行き過ぎた長時間労働や過労死といった問題を引き起こしているのは、要件も手続も満たしていないにもかかわらず「わが社は裁量労働です」とか言って長時間労働や不払い残業を強いるブラック経営者であり、ファーストフードの店長を管理監督者扱いして人手不足下での過重勤務の構造を放置しているブラック人事であり、残業予算を超える分はサービス残業での対応を強要するブラック上司なのであって、これらはすべてすでに違法です。悪事を働くのは人間であって制度には罪はないわけですよ。ここを踏まえない議論はなかなか建設的なものにはなりにくいのではないかと思います。

「■[労働政策]ホワイトカラー・エグゼンプションの議論はなぜダメなのか(1)(2018-03-01)」(吐息の日々)

「思う存分働ける制度」を導入するに当たって、「働き過ぎ防止と健康管理措置が重要になっているわけで、安衛法上の安全配慮義務」を追加的に盛り込んだのが今回の法案であったものの、わかりやすい「裁量労働制憎し」の声に押されてそうした健康管理措置についての議論が深まらないのは、現行法で働く労働者にとってもあまりいい影響はなさそうです。

さらにいえば、「残業代ゼロ」とかいって騒いでいる方々は、残業代さえ払えば労働時間が青天井でもよいという議論にも与することになるので、ちょっと慎重になるべきではないかとは思います。この点roumuyaさんは上記のエントリの続編で、

それと関連しますが、ホワイトカラー・エグゼンプションについて「効率化して短時間で仕事を終わらせても別の仕事を押し付けられるから早く帰れない」というようなことを鬼の首を取ったように指摘してドヤ顔になっている(いやなっているかどうかはわかりませんが。失礼しました)向きもあるらしく、これもあえて申し上げれば、ダメ。本来ホワイトカラー・エグゼンプションというのは昨日の【1】で書いたように少数のエリートのためのものであり、そういう人たちは空いた時間に新しい仕事を割り当てられることは基本的に歓迎だと思われるからです。

「■[労働政策]ホワイトカラー・エグゼンプションの議論はなぜダメなのか(2)(2018-03-02)」(吐息の日々)

と指摘されていて、「空いた時間に新しい仕事を割り当てられることは基本的に歓迎」とまではさすがに言い過ぎではないかとは思いますが、相当の給料を受け取りながら早く帰ってもいいということが制度として認められれば、それが一つのインセンティブになるとはいえるでしょう。もちろん、それは相当の給料を払うという前提に加えて、ノーワークノーペイの原則によらない給料負担を使用者側が引き受けるという取引によって成り立つ制度である以上、労働者にはそうした使用者側の引き受けた負担に見合う働きが求められるわけです。逆にいえば、裁量労働制の対象とならないような一般の労働者は、強大な人事権をもって配置転換しながら雇用を維持するという負担を使用者が引き受ける取引の代償として、どんな業務でも長時間労働によってこなすという働きが求められているわけですが、裁量労働制のように対象が限定されていないために、多くの一般の労働者に過重な負担を押し付ける原因となっていることを考えなければならないわけですね。

裁量労働制の運用が問題だからといって、専門的労働者が業務を効率化して新たなスキルを身につけようとするインセンティブそのものを否定してしまうと、上記の通り労働時間問題を健康問題ではなくゼニカネの問題に帰結させてしまい、結局一般の労働者が過重な負担を押し付けられる現状を肯定することにもつながるわけでして、今回の敵失でいきり立っている反対派の皆さんにおかれては多少自制されることが望ましいのではないかと愚考する次第です。

(追記)
roumuyaさんが完結編(?)をアップされていまして、大いに同意いたします。

前回、前々回のエントリには多数の反応があり(ありがとうございます)、中でも多かったのが「監督強化や厳罰化が必要」とのご意見でした。これについては、このブログを以前から読んでいただいている方はご存知のとおり、私もほぼ同意見であって監督強化については繰り返し訴えているところです(たとえばhttp://d.hatena.ne.jp/roumuya/20141130#p1http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20140430#p1http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20111129#p1http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20110822#p1http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20160401#p1あたり。他にもあると思います)。厳罰化についても悪質事案は送検すべきとは繰り返し主張しています。罰則の強化には慎重さが必要だとは思いますが、(どこかで紹介したと思うのですが)送検されて罰金を払ったほうが得だとかいう実態があるとしたらそれは罰則強化が必要でしょう。裁量労働制にしても、前も書いたように、例の「調査的監督」を見ても、現場は裁量労働の届出がされた事業所に対してはそれなりに頑張って監督しているわけですが、届出をしないブラック企業の監督までは手が回っていないというのが実情のように思われます(某大手不動産会社の過労死案件がニュースになっていましたが、このケースでも裁量労働の違法適用に対して特別監督が行われていることには注目してほしいと思います。かとくは頑張っているのです)。たしかに、裁量労働制がなくなればブラック経営者がそれをダシに使うことはできなくなるでしょうから、その限りにおいては制度にも罪はあるのかもしれません。しかし、裁量労働制がなくなればブラック経営者やブラック人事やブラック上司がすべてホワイトになるとは思えないわけですから、その撲滅には監督や罰則の強化が最重要であろうことは論を待たないものと思います。

「■[労働政策]ホワイトカラー・エグゼンプションの議論はなぜダメなのか(3)(2018-03-05)」(吐息の日々)

法規の世界で「実効性確保」といえば罰則とその監視体制を指すことが多いところでして、現場で実践すべき労働時間管理としての健康管理措置について、違反があれば適切にそれを摘発する態勢が必要となるわけでして、まさにroumuyaさんが「その撲滅には監督や罰則の強化が最重要であろうことは論を待たない」と指摘される通りです。

そして、roumuyaさんのこの一言には首が痛くなるほど首肯するところです。

もうひとつ、議論が始まった当時には関連法案すべての撤回を求めるという主張も見受けられ、「過労死」「命」を訴求しているのに労働時間上限規制まで撤回しろというのはどういうことなのだろうと思いましたが、さすがに現時点では裁量と高プロだけを撤回しろという話でまとまっているようです。上記連合事務局長談話もそういうスタンスですね。一方で、今回の上限規制を「過労死ライン容認法案」と呼んで撤回を求めているという人もいるらしく、まあ気持ちはわからないではないですが労使の努力をなめてるなとも思う。長年にわたってなかなか実現してこなかったものが、労使の大いなる譲歩によってようやくここまでこぎつけたわけですよ。しかもその背景には、個別労使が営々として限度基準に収まる時間外協定を締結し普及させてきた努力があるわけです。それに対してご自身の狭量な価値観で悪しざまに述べるというのは、まあどういう独善かなと思うわけですが、それが「信念」というものなのだ、ということなのかもしれませんが…。

「■[労働政策]ホワイトカラー・エグゼンプションの議論はなぜダメなのか(3)(2018-03-05)」(吐息の日々)
※ 下線強調は引用者による。

いやもちろん、法案に反対する意志をお持ちの方がその心情を吐露する際にどんな表現を用いようともその表現は尊重されるべきかもしれませんが、法案に反対(だけなのか反権力という信条なのかよくわかりませんが)できればその他諸々の関係者の努力の積み重ねや法案の改正そのものまで否定してもかまわないという言説に対しては、「労使の努力をなめている」と私も思うところです。まあ、この国の労組を支持母体とする政党が三者構成の労政審による答申を否定することはここ数年で何度も目にしている立場からは、それもある意味自業自得だろうとも思うわけですが。