2018年01月14日 (日) | Edit |
年明けからこの話題ばかりというのも気が引けますが、昨年度末に自治体業界でちょっと話題になったこの件も前回までのエントリの流れで見るといろいろ考えさせられます。

静岡県職員の自殺者が、2009年から2016年の過去8年間で41人に上ることが分かった。川勝平太県知事が12月18日の定例記者会見で明らかにし、朝日新聞等が報じた。

41人の内訳は、知事部局が17人、教育委員会や県警本部が合わせて24人。知事部局とは企業局とがんセンターを除く県庁内の部局の総称で、特定の部局を指すものではない。川勝知事は会見で「鬱積したものがあれば言える環境、言える職場の空気を作っていきたい」とコメントしている

「職員数100人削減」の目標は取り下げたが、人手不足は依然解消せず

自治体職員1000人あたりの年間自殺者数(2015年)は、全国の都道府県・政令指定都市の平均値が0.18なのに比べ、静岡県は0.34と約2倍だ。

過去8年間は、現在知事を務める川勝知事の就任時期と重なる。就任前の8年間(2001年から2008年)の自殺者数が12人だったことを踏まえると、就任後の仕事の進め方や方針転換が影響している可能性もある

県の担当者は会見で、「自殺の原因は本人の健康状態、仕事、家庭など様々」と語っていたが、静岡県職員労組はキャリコネニュースの取材に対し、「人員不足が大きいのでは」との見方を示した。

労組の担当者によると、2015年時点で、年間360時間以上の時間外労働をした職員は1000人を超えていたという。元々予算あたりの職員数が少なかった静岡県だが、ここから更に人員削減を進めたため、職員一人にかかる業務負荷が大きくなっていたようだ。県は昨年12月、行政改革大綱の中にあった「職員数100人削減」の目標を取り下げたが、人手不足は依然解消していないという

残業削減指導するも「声かけが行き過ぎ、かえって時間外勤務を申請しない人も増えた」

(略)
最近では電通の過労死事件を受け、管理職から部下へ、時間外労働を減らすよう指導していたというが、「声かけが行き過ぎ、かえって時間外勤務を申請しない人も増えた」と言う。組合の担当者は

「静岡県の労働環境が他と比べて劣悪ということはありませんが、人員不足は課題。長時間労働の削減方法も、現場から提案するだけでは限界があります。県には、減らす手法を考え提示するよう今後も対応していきたいです」


と話していた。

静岡県職員、過去8年で41人自殺という異常な事態 職員労組は「人員不足が大きな原因」と分析(キャリコネニュース 2017.12.20)
※ 以下、強調は引用者による。

で、これに対する具体的な方策としては、こちらの記事にちょっとだけ記載があります。

知事部局職員、8年で17人自殺 静岡、全国平均の2倍(朝日新聞 大内悟史 2017年12月20日09時16分)

 2009~16年度の8年間で、知事部局の静岡県職員の自殺者が17人いたことが分かった。川勝平太知事が18日の定例記者会見で記者団の質問に答えた。県によると、うち2人が公務災害に認定。県は職員向けの相談・通報窓口への連絡を呼びかけているほか、昨年度からストレス調査を導入するなど対策を講じている。

 県によると、職員数がおおむね6千人弱で推移する中、14年度は最多の5人、15年度は2人、昨年度は2人が亡くなった。15年度の県職員の千人当たりの自殺死亡率は0・34と、都道府県・政令指定都市職員の平均(0・18)の約2倍だった。知事部局が8年間で17人だったのに対し、教育委員会や県警本部などでも同時期に計24人が自殺した。

 今年度は11月末現在で2人が自殺したといい、18日の会見で藤原学・県職員局長は「亡くなった方の苦しい心の叫びを聞くこと、気づくことができなかった責任を感じる」と話した。

 県によると、公務災害に認定された2人は職責の重さや多忙が自殺した要因の一つとみられる。県は昨年度からストレス調査を導入し、ストレス度が高い職員に受診やカウンセリングを勧めているという

 川勝知事は「全国平均の2倍と聞いて驚いた。相談しやすい職場の空気を作っていきたい」と述べた。(大内悟史)

静岡県知事は「驚いた」とのことですから、ご自身にとってはこのくらい自殺するのが当たり前という認識だったのでしょうか。まあもしかすると、こちらの知事にとっては「俺は死ぬほど苦労して学位も取って経済学の分野で名をなしてきたのに、公務員程度の仕事で音を上げるなんてチョロいもんだな」ということかもしれませんが、そのような御仁には「日本型雇用慣行が「社会が要求するレベルの非現実的な高さ」の原因となっていることをもう少し丁寧に議論すべき」ということが理解されることはなさそうだなあと毎度ながら落胆させられます。

実は静岡県については、拙ブログでも8年前に取り上げておりまして、

 このSDOからは、伝票関係のマニュアルやQ&Aが参照できるので、ある程度の疑問は自席のパソコン上で自分で解決できる。もちろん、それで総務事務センターへの問い合わせがゼロになるわけではないが、総務事務の人員を削減する以上、職員が「自分のことは自分でやる」という環境を用意しておくことは、集中化の前提条件となる。さらに今後、電子決裁の範囲が広がれば、集中化のメリットはもっと出てくるはずだ(今のところ、総務事務センターの関連業務で電子決裁が導入されているのは旅費のみ)。
(略)
 総務事務の改革を行えば、これまでは身近にいた総務担当者にお願いすれば済んだことでも、必然的に自分でやるしかなくなる。これを「サービスの低下」と感じる職員もいるだろう。しかし、自治体財政が厳しい中で、“全体最適”を考えるなら「自分のことは自分でやる」という方向での業務改革は避けては通れない。

【静岡県】本庁の総務事務を集中化、アウトソーシング ルーチンワーク外注で県職員の生産性向上を目指す(4)[2002/12/27]」(ITpro


前段の引用部によると、この総務事務の外注化によって削減される人員は20名弱なわけですが、その人員を企画的な業務に就かせることによって生産性を上げる*2のが狙いとのことです。一方で、後段の引用部によると、総務担当にお願いすれば済んでいたことを自分でやるという「サービスの低下」の影響はすべての県庁職員に及びます。これを「トータルで見ての効果は十分上がっていると静岡県では考えている」とする静岡県は、どのような「現場」をご覧になっているのか大変興味深いところです。

「生産性」という言葉は時間当たりとか人当たりとか多義的に用いられるので、ここで静岡県が考えている生産性の定義は推測するしかありませんが、人を減らして生産性を上げるということであれば「生産性=業務/人員」のようなイメージでしょうか。分母の「人員」を減らすことによって生産性が向上するというシナリオですね。しかし、これまで各部署に置いていた総務担当者を削減してその事務を一か所に集中するとなれば、その分「現場」の担当者に事務が降りてくるのは前回エントリで指摘したとおりですし、議会や監査に提出する事務そのものが減少したのでなければ、それはトータルで分子の「業務」を増やすことにつながります。20名弱の人員削減の効果がそれによる業務の分散化に伴う業務増を補うかどうかは慎重な判断が求められるのではないでしょうか。

それよりも、そうした「ルーチンワーク」が総務担当者に集約されていたことが、どれだけ生産性向上に貢献していたかという効果が十分に検証されていたのかが気になります。むしろ、そうした「ルーチンワーク」を担当する職員を「外にも出ないで内勤ばかりしている使えないヤツ」と評価していたからこその外注化だった面があると思われるわけで、ノウハウを知る職員がいなくなるにつれて役所が回らなくなるのも時間の問題なのでしょうね。というか、この記事自体が8年前のものですから、もうそうなっているところもあると思いますが・・・

内部労働市場とキャリア形成(2010年05月16日 (日))
※ 引用部以外の強調は引用時

というエントリが既に8年前となっているということは、16年前から人員削減で生産性向上に取り組んでいる中で、さらに8年前からは現在の川勝知事が就任して「行政改革大綱の中にあった「職員数100人削減」の目標」を掲げていたということですね。まあ私自身は静岡県から遠く離れた自治体の下っ端公務員ですから静岡県庁の内実はよくわかりませんが、とはいえこの光景は公務員なら身近でよく見る光景ではないかと思うところですね。

(2018.1.15追記)
役所というか日本社会で静岡県のような考え方が何の違和感もなく受け入れられるのは、日本型雇用慣行(日本社会の雇用システム)でほぼ説明できることだというのが、ちょうどhamachan先生のところで取り上げられていますね。

会社とは社員と呼ばれる人間の束であり、その各人間に対して、採用当時はそもそもできない仕事を習い覚えてやれるようになっていくことを大前提に社員という身分を付与することが採用であり、労働者側からすれば(間違って「就職」と呼ばれている)入社である社会において、その入社当時には全然できない仕事をできるように努力することが正社員たるものの心得第一条であり、そういう心構えを教えるのが上司や先輩であるのもあまりにも当たり前の話なわけです。

どちらのシステムにもメリットとデメリットがあるということも、繰り返し論じてきたところ。

欧米型のデメリットは、そもそも新規学卒者という、仕事ができないことが大前提である人間は「できないことはできなと言え」という社会では、「ああ、仕事ができないんなら採用できませんね」で、なかなか就職できないということに尽きます。

逆に言うと、何にも仕事ができないことがほぼ確実な若者が労働市場で「仕事ができないなんて言わずに頑張ります」でもって一番有利な立場に立てるような社会は日本以外にはまったく存在しないということでもあります。

だからそれが雇用システムの違い(hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳) 2018年1月14日 (日))

ことがスキルの話であれば、ここでhamachan先生が指摘されていることはまさに「当たり前の話」で済ますこともできるのですが、仕事の量とか分担が絡んでくると途端にきな臭くなります。というのも、このような思考回路しかもたない日本の労働者が仕事の分担を考えると、「これまでできないことはないと言ってやってきたんだから、どんな仕事でもどんな量でもできるはずだ」となりがちです。つまり、(正規)労働者が元々何もできない若者だったという前提がある限り、その(正規)労働者はどんな仕事でもどんな量でもこなすことができるはずだし、組織が新しい仕事に取り組むときも現存の(正規)労働者が超勤で試行錯誤しながら何とかしてくれるはずだということになり、結局(正規)労働者を増やすことなく仕事を増やすことができるという幻想が生まれることになるわけですね。仕事量が減らないのはこうした側面が大きいわけですが、さて静岡県はどのような対策を取られるのか生暖かく見守りたいところです。

(2018.1.20再追記)
こんなブコメをいただいたようで、

事情は理解した。しかし結論は「どのような対策を取られるのか生暖かく見守りたいところ」なのである。例えば「自治体の枠を超えて労働構造の変革を勝ち取ろう」などではない。人が死んでいるのにだよ。

morimori_68morimori_68のコメント2018/01/20 11:43

なるほど、本エントリだけをご覧になるとそのような感想になるのかと気づかされました。ご指摘ありがとうございます。

本エントリの冒頭にある通り、年明け以降のパワハラクソ野郎関連でアップしたエントリではありますが、拙ブログの主な関心分野である労働カテではそれなりにこれからの日本型雇用慣行が進むべき方向を考えてはおります。大雑把に言えば、日本型のなんでもできる正規労働者を前提とした慣行から、個々の労働者の制約に応じた職務限定型の労働と、自らが勤務形態(労働条件ではありません。為念)を決定する管理職型の労働を入口(新卒に限らず、全ての昇進は採用です。これも為念。)の段階で峻別する慣行へのシフト(というより、そもそも日本の労働法はこのような社会を想定しています)が必要であり、その実現のためには、労使間でそれを推進する原動力としての集団的労使関係の再構築と、個々の労働者の制約を社会的に保障する再分配政策の拡充が不可欠と考えております。とはいえ、現行の日本型雇用慣行を支える職能資格給制度により、特に企業内再分配の機能(端的に言えば生活給)が強くあまりに堅牢であるため、結論は上記の通り「生暖かく見守る」しかないのが現状だとの認識であることも事実です。われわれ公務員の雇用主(任命権者)は選挙で選ばれる政治家ですが、日本的左派の政党が公務員人件費削減を公約に掲げる現実がありますからね。
立憲民主党「公務員に労働基本権を認め人件費を削減する!!」に左右両方から非難
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2018年01月08日 (月) | Edit |
前回エントリのようなことを考えていたところでタイミングを図ったかのような訃報に接し、故人の過去の言動を振り返って見るにつけ、この見方はそうそう間違っていないだろうと確信できます。


 指揮を執るなり、星野監督はロッテと「世紀の4対1トレード」で落合博満(60)=敬称略、以下同=を獲得するなど、斬新なチーム改革を断行して独自色を強く打ち出していったのだ。

「超大物・落合でもドン引きしたのが、星野監督による鉄拳制裁でした。もちろん落合自身がやられることはありませんでしたが、第1次政権では、蹴って殴ってと半端なかった」(元ドラ番記者)

 勝負に送り出した投手がマウンドで逃げるようなピッチングをしようものなら、容赦はなかった。

「今や現役最年長投手として別格視されている、山本昌(49)でさえ若手時代には洗礼を受けていました。ひどく打ち込まれて降板すると、ベンチ裏に下がった時を見計らって無言でスーッと星野監督が近づいてきて、パンパンッと左右連打の平手を浴びせかけるというんです。今中慎二(43)なども成長過程ではよくやられていたといいます」(球界関係者)

 とはいえ、投手に手を出す頻度はまだ低かったという。むしろ打たれて“鉄拳指導”の矛先が向けられたのは、リードをしていた当時の正捕手・中村武志(47)が断トツだった。

「独自の理論で、育てるという意味合いがあったのは確かでしょう。それにしても、中村は日々標的となっていた。顔面に付着した血が固まった状態で試合前の練習に出てきたことがありました。そればかりか、顔が変形するほど殴られ、翌日には顔が膨れ上がってしまって、普通にはかぶることもままならなくなったマスクの中に、無理して顔を押し込んだこともあったほどです」(球界関係者)

 こうした体で覚えさせる“闘将式育成法”は当然ながら波紋を呼んだ。時にはチームの編成にまで影響を及ぼすことも‥‥。

「90年、試合中にもかかわらず、星野監督が主砲の大豊泰昭(50)をベンチ裏でボコボコにブン殴ったんです。大豊は無抵抗のまま鼻血をダラダラと流していた。それを大物助っ人として好成績を残していたバンスロー(57)が目撃してしまったんです。彼は2年契約の1年目だったのですが、『こんなチーム、ダメだ』と退団を決意しました」(元ドラ番記者)
星野仙一 スポーツ紙が封印した「鉄拳流血事件」を一挙プレイバック!(1)鉄拳制裁にあの落合もドン引き(アサ芸プラス 2014年10月7日 09:57)

 昨年、野球界の体罰問題がクローズアップされた際、楽天番記者との日常的な「お茶会」で星野監督が口を開いたという。

『育てるという意味の中で、その中には愛情があるのだから殴るのを全部否定するのはいかがなものか』と持論をぶちまけたんです。『やられた相手が自殺なんかするまでやるのは絶対いかんけどな』と付け足してはいましたが、体罰が非難されていた時期だけに“予防線”を張っているようにも聞こえました」(スポーツ紙デスク)

 一方で、スポーツライターはこう解説する。

星野監督は母校・明治大学で師事した、故・島岡監督の熱血指導の流れで自然とやってきたのでしょう。それでも、拳を振るわれてきた選手が恨み言を漏らすようなことは少なかった。というのも、星野監督が手を上げるのは、見込みのある選手ばかりでしたからね。怒っても翌日にはその選手に『おっ、元気か?』と声をかけて、突き放さなかったから、やられたほうも愛情の裏返しだと好意的に捉えることが不文律となっていきました
星野仙一 スポーツ紙が封印した「鉄拳流血事件」を一挙プレイバック!(3)手を上げるのは見込みのある選手(アサ芸プラス 2014年10月9日 09:57)

※太字強調は原文、下線太字強調は引用者による。


わたしなんぞは「やられたほうも愛情の裏返しだと好意的に捉えることが不文律」となる組織は御免被りたいところですが、実際にその暴力の標的となった方々はこんなことをおっしゃっていますね。

星野仙一監督 鉄拳制裁の裏にあった選手への愛情(NEWS ポストセブン 2018.01.06 16:00)

「当時がそういう時代だったということもありますが、星野氏の中日監督時代といえば、“鉄拳制裁”が思い浮かびます。特に中村は何度となく鉄拳を食らっていたし、他の選手も文字通り痛い目に頻繁に遭っています。それなのに、星野監督の悪口を言う選手は聞いたことがない。それどころか、未だに慕っている選手ばかりなんです

 優勝した1988年のシーズン終盤、スクリューボールを武器にチームの救世主となった山本昌広は自著『133キロ快速球』でこう語っている。

〈星野監督は僕を怒って一人前にしてくれた。どれだけ怒っても、最後は使ってくれた(中略)野球選手にとって、これに勝るフォローは存在しないのだ〉

 1年目から起用され、1994年には本塁打王と打点王を獲得した大豊泰昭も自著『大豊』こう記している。

〈星野監督は言ったことを守る人だ。選手を叱っても必ずそのあとにチャンスをくれる〉

 高卒2年目の1990年にローテーション入りし、以降、中日のエースとして活躍した今中慎二も同じことを感じていた。自著の中でこう記している。

〈当時の若い選手が星野監督の厳しい指導についていけたのは、どんなに怒鳴られてもまた試合に出してもらえるという期待感があったから、といえます〉(『中日ドラゴンズ論』より)

 どんなに厳しくされても、愛情があったからこそ、選手はついてきた。数々の名選手を育てた闘将の死はあまりに早過ぎる。


DV被害者が暴力を受けることで自分の存在意義を確認するという話はよく聞くところですが、それは何も家庭内だけでのことではなく、複数の人数が属する組織ならばどこにでも生じうる現象と捉えるべきなのかもしれません。上記の記事の中では、引退後に「鉄拳制裁」による指導で名をはせている方はいないらしいことが一縷の望みではありますが、結局世代交代の中で社会の構成員が社会の変化に対応していくことに期待するしかなさそうです。

ただし、「鉄拳制裁」をフル活用していた故人の発言の中に、組織を変えるヒントが隠されていますね。

星野監督が「体罰問題」を語る(東スポWeb 2013年02月08日 11時00分)

 大阪・桜宮高バスケ部員自殺に端を発し、柔道日本女子代表監督の辞任騒動など、いま世間では体罰・いじめ問題が大きな論争を呼んでいる。こうした中、楽天・星野仙一監督(66)が一連の騒動以来初めて自身の考えを激白した。かつては「鉄拳制裁」がトレードマークでもあった闘将は今後、厳しい指導ができなくなるであろう状況に“事なかれ主義指導者”が増えることを危惧。いじめ問題についても「すべては幼児教育なんだ」と持論を展開した。

(略)

 春季キャンプのため沖縄・久米島で過ごす星野監督は順調な調整を進める選手たちに目を細める一方、今や社会問題となっている「体罰・いじめ」について自ら口を開くと急に顔をしかめた

 では、この問題をどう考えているのか――。「柔道界のこともよくわからんし、これはオレの考えだよ」と前置きした上で次のように続けた。

『体罰だ! いじめだ!』と言うけど、選手なんかは指導者から言われるうちが花やないか。それだけ親身になってくれているということ。このままじゃ指導者はどんどん“事なかれ主義”になっていくぞ。何かあっても『私は関係ありませ~ん』だよ。ただ、死んだら(選手が自殺を選ぶほど体罰をしたら、その指導者は)負けよ。それはアカン!」

 選手を自殺に追い込むほどの体罰は絶対に起こしてはならない。だがその半面、今回の騒動で指導する側の肩身が狭くなっていくことが予想されるため、問題が起きた場合でもそっぽを向く無責任な指導者が今後増えていくことを懸念しているという。

「鉄拳制裁」でも知られる星野監督だが、特に血気盛んだったと言われる中日時代を知る球界OBも「『おまえの顔の形、変えたろか!』と怒られるんだよ。実際にボコボコになった選手もいた。でも、それは期待されている選手だけだったし、理不尽ではなかった。その後のフォローもちゃんとあったしね」と打ち明ける。現代には“喝”の入れ方もわからない指導者が多いことに、日本一の熱血指導者は寂しい思いを巡らせているようだ。

 さらに話は、いじめ問題にも及んだ。「一番怖いのは、いじめがあったことを生徒にアンケート取って、生徒たちが『いじめを目撃した』と答えていることだよ。なんで止めないんだよ。止めたら、いじめの標的になるから? じゃあ、みんなで一緒に、大人数で止めたらええやないか

(略)

 仮にプロ野球選手になっていなかったら「教師の道を選んでいた」とも語る星野監督。これが「闘将の教育理論」だ。

おそらくこの故人は、パワハラ上司の多くがそうであるように、饒舌で社交的でありながら他者に対する共感が欠如し、きわめて(自分にとって)合理的な論理を駆使するサイコパス傾向が強い方だったのだろうと思いますが、野球の才能があったおかげで教育現場の平穏が保たれたのかもと思うと、プロ野球という職業があってよかったのかもとは思います。それはともかく、ご自身が「選手なんかは指導者から言われるうちが花やないか。それだけ親身になってくれているということ」というその口で、「止めたら、いじめの標的になるから? じゃあ、みんなで一緒に、大人数で止めたらええやないか」とおっしゃるなら、パワハラやら鉄拳制裁があれば、その場にいる大人数で止めたらいいんですよね。どうせパワハラする上司なんて一人でしょうし。

ところがことはそう簡単ではないのは、上記の記事で球界OBなる方が「それは期待されている選手だけだったし、理不尽ではなかった」とおっしゃるように、パワハラ上司の周囲には「期待しているからパワハラも鉄拳制裁も理不尽ではない」という取り巻きがいるために、パワハラやら鉄拳制裁に抗議の声をあげた方が「大人数」になるとは限らず、むしろパワハラに抗議する方が「理不尽だ」となってしまうことが往々にしてあるからですね。人格否定して罵倒するような暴言を吐いたり、身体に傷害を負わせるような暴力行為を行うことは、いかなる理由においてもそれ自体が理不尽であるはずであって、あくまで契約の範囲内で業務に従事する職場関係においてそうした行為を行う人物は、無条件に「パワハラクソ野郎」と呼ぶに相応しいクソ野郎なわけですが、それを反転させてしまう力が組織にはあるわけです。

となると、パワハラクソ野郎に対処するときに一番難しいのは、「期待しているからパワハラも鉄拳制裁も理不尽ではない」という取り巻き連中を「大人数」に取り込むことができるかということになります。そこには、パワハラクソ野郎がかなりの確率でハイパフォーマーとして評価されているために、組織としても切るに切れないという事情があって、「やられたほうも愛情の裏返しだと好意的に捉えることが不文律」となっていくわけです。パワハラクソ野郎が暴言を吐いたり鉄拳制裁するためにクソ野郎であるならば、こちらがその土俵にまんまと乗ることはあまり得策ではありませんが、時と場合によっては自分の身を守るための正当防衛類似の行為として、「大人数」で「やられたほうも愛情の裏返しだと好意的に捉えることが不文律」を放棄して「パワハラクソ野郎」と呼んであげるのも一つの手かもしれませんね。

2018年01月07日 (日) | Edit |
年始でちょっと余裕がありそうなので、最近何かと話題のこの件でアップしておきます。

貴乃花親方の理事解任を決議 相撲協会の評議員会で(1月4日 12時58分 NHK)

日本相撲協会は4日、臨時の評議員会を開き理事で巡業部長を務める貴乃花親方の理事解任を全会一致で決議しました。相撲協会の理事が解任されるのは初めてで、貴乃花親方は役員待遇の委員に降格しました。

臨時の評議員会は4日午前11時前から東京 両国の国技館で始まり、元文部科学副大臣で議長を務める池坊保子氏など5人の評議員が出席しました。

相撲協会は先月28日に臨時の理事会を開き、警察に被害届を出しながら巡業部長として相撲協会に事案を報告せず、その後も調査に協力してこなかった貴乃花親方について、理事や巡業部長としての責任は重いとして、理事解任の議案を、権限を持つ評議員会に提案していました。

まあ組織というのは上に立つものが支配するものでして、それに楯突くとこうなるぞという見事なお手本ですね。当然それぞれの言い分があるでしょうし、私のような部外者がそれをどうこういえるだけの見識もありませんが、報道される経緯を見ていると、組織を構成するメンバーが組織内でどうのように振る舞えばどのような反応を引き起こすのかの貴重なサンプルといえそうです。

今回の件を概観してみてみると、相撲協会という組織においては稼ぎ頭である現場のエリート(横綱)を守ることを優先するため、その現場を統括する理事会、さらにその上の評議員会ともに、現場のエリートが引き続きその組織で業務に従事できるよう取り計らったということになりそうです。その際、現場のエリートとそれを擁護する上層部に敵対的な行動を取った幹部については、現場のエリートを支える体制を維持するため上層部から排除する必要があると、理事会・評議員会ともに判断したのでしょう。一説には、貴乃花親方が目指す「ガチンコ相撲」だと身体がもたないとか、現行の年6場所制を維持するには貴乃花親方の考えは急進的すぎるということもありそうですが、まあいろいろな批判はありながら、興業によって収益を得ている相撲協会の判断としてはさもありなんという感はあります。

今回の顛末で私が興味深く思うのは、組織の決定の「二度手間」に対する忌避感は組織が古く、大きくなるほどに強くなるのだなあということです。現行の古く大きな体制を維持するために大変な労力を要する状況になれば、体制維持だけでマンパワーを割かれてしまい、瑣末な不祥事などにかかづらっている暇などなくなっていきます。体制維持にマンパワーが割かれるというのは、現在の意思決定に関する手続きを適切に運用することももちろんですが、そこからの逸脱に対する対処も含めてその積み重ねが規範化しているわけですから、その積み重ねとの整合性を図ることにも手間が取られることになります。つまり、組織の決定の「二度手間」とは、いったん体制を形成することによる手間を第1段階として、第2段階でその体制を維持するために現在の意思決定の手続きを厳格化するコストと、その運用の中で積み重なる前例踏襲のコストがかかるということであり、その「二度手間」は組織の大きさと古さに比例して必然的に増大していくこととなるわけです。

今回の件でも、相撲協会ではこれまでの意思決定の手続きに則って粛々と決議したように見受けるところでして、貴乃花親方が考える改革案はその意思決定の手続きまでを覆すことはできなかったということでしょう(まあまだ結論が出たわけではなく、これから貴乃花親方の考え方が浸透して組織が変わっていく可能性はあると思いますが、少なくとも現時点では組織の側に意思決定の手続きを変えようという様子はなさそうです)。

とはいえ、一方では今回の件の発端となった暴行事件については、刑事事件として略式起訴されて加害者が実刑を受ける可能性が高くなっているところでして、この件に関して言えば、組織の在り方が関係していると思われる刑事事件が発生したときに、組織の意思決定の手続きと、国民の安全を守るために制定された法令上の手続きとの整合性が問われているということなのではないかと思います。実は、2017年に明らかになった企業の不祥事でもこの構図が見られるところでして、組織内では問題ないとみなされていた手続きが実は法令違反だったり、むしろ法令違反を承知の上で組織内の手続きを優先した結果が、法令に照らしてみればやっぱり不祥事だったということなのでしょう。

そして、そのような組織内の手続きを優先するような組織の在り方自体が、

と書いてみると、現在の日本の組織の問題は、いったん形成された「社風」や「組織文化」に根差している部分が大きいのではないかと思いますし、やはり戦前の日本の主要な組織で非論理的な意思決定が常態化していたことが戦争につながったという評価には一定の説得力があるようにも思います。まあ、パワー(指揮命令権)の行使からハラスメントを分離できればいいのでしょうけれども、日本型雇用慣行におけるOJTがハラスメントの源泉であるならば、ことはそう簡単ではありませんね。日本型雇用慣行が堅牢であるうちは意思決定が非論理的に行われるものと諦めるか、日本型雇用慣行の見直しを進める中で少しずつ状況が改善するのを待つしかないのかもしれません。

非論理的な言動で意思決定を行うことが常態化してしまった組織(2017年08月17日 (木))

という経緯で変えられないのが実情だろうと思うところでして、いやまあ絶望的な結論ではあります。特に、セクハラが雇用機会均等法により明確に法令違反と規定された一方で、パワハラは未だに「必要なOJTの一環」と位置づけられているうちは、パワハラをする上司の側が「ハイパフォーマー」として評価を上げ、パワハラに対して抗議の声をあげた方が「ローパフォーマー」として評価を下げる現状は変わらないでしょうね。

2018年01月03日 (水) | Edit |
新年のご挨拶エントリをアップするまで3か月近く放っておいた拙ブログですが、この間主に仕事方面で精神的にかなり追い詰められていた上に、休日もそれなりに仕事/活動していてブログに手が回りませんでした。でまあ、小ネタのエントリでもアップできないほど疲弊した/忙しかったわけでもないのですが、去年最後のエントリとなった「ループもの」に書いた内容が実はもうそれなりに拙ブログで長年書いていることの集大成的なものになっていて、これ以降エントリを書いても同じ内容の繰り返しだなあという感覚もあって疎遠になっていた面もあります。とはいえ、拙ブログは元々ストレス解消として始めたものでもありますので、まあその程度の内容でぼちぼち続けられればいいかなというところです。

ということで、明日から仕事始めということでヘタをするとまた数か月放っておきかねないので、ホントにどうでもいい内容をダラダラ書いておきますが、今日は『君の名は。』の地上波初放送だそうでして、以下ネタバレが含まれますのでまだ見ないという方はそのつもりでご笑覧いただければと。

私自身は去年1年遅れでネット配信で観たところでして、いやまあ国内興行成績5位という前評判(というのは私が未見だからですが)に違わず美しい画と音楽とテンポのよさに引き込まれて魅入ってしまいました。とはいえ、見終わった直後は、こちらでまとめられているのとほぼ同じ違和感に苛まれてしまうわけですが。
映画「君の名は。」に違和感を感じる人たち(ネタバレあり) - Togetter

で、その違和感はいろいろありながら、一番引っかかった点をもう少し具体的に言えば、こちらでSF・文芸評論家の藤田直哉氏が指摘されているようなところがどうにも飲み込めないんですよね。

藤田 あの隕石が落ちる事故の悲劇をそもそもなくしてしまうわけですからね。潜在的に、それは、過去に戻って震災をなくしてしまいたいという幻想に近い。…
「新海誠「君の名は。」に抱く違和感 過去作の価値観を全否定している 4(2016年9月3日 10時05分)」

……しかし、それなら、東京や地方を、あんなに美しく描いてはいけない。不穏な、現実の、事故の記憶を想起させ、そして美しい「物語」と「映像」と埋め尽くして、記憶を摩り替えてしまうような効果を出してしまっては、ダメなのではないか。最後にもっと残酷な結末があれば、映像などの「美しさ」は許せる範囲になったと思うのですが…… ぼくも、会えない、救えないほうがいいと思ったんですよね。でも、まぁ、「会わないで終わるんじゃないか?」っていう可能性を示唆するシーンを何回も繰り返してた上なので、逡巡というかな、そっちの可能性に行きかけては行かない、っていう構成にしてはあったと思いますが。うーん。やっぱり、「切断」が足りない気が。

飯田 僕は「ハッピーエンドだからダメ」じゃなくて「それやっちゃったらあなたの今までの作品なんだったんすかってことになりませんか、作家として」というところが引っかかっているので、その点は藤田くんとは評価軸が違いますが、言わんとすることはわかります。

藤田 炎上狙い的な言い方をすれば、「ニュータイプの歴史修正主義」の映画(笑) 神社が出てくるし、「国家神道」のPRをするオカルトアニメじゃないの、っていう意地悪な批判もできなくはない。
 あまりに美しく、理想的に物事を描きすぎていると思うのですよ。それ自体は悪いことではないですが、現実に起きた震災という、汚れていたり不愉快だったり残酷だったり理不尽だったりする悲惨な事態を、こういうエンターテイメントの材料として扱っているわけですから、その手つきの是非は問われなければならない。…
「新海誠「君の名は。」に抱く違和感 過去作の価値観を全否定している 5(2016年9月3日 10時05分)」

 その手つきについて、三分の二までは、何か必然性を感じて胸に来るところがあった。さっきも言いましたが、新海さんが編集もやられているようだし、構造や描写などに、必然性と言うか、言うべきこと、探りたいもの、自分でも解決したい何かに接近しようとする「本気」を強く感じた。でも、結末に向かう部分は、その必然性がなくなっていたように見えた。
 それまでは、観客に対して、裏切ったり、伏線や象徴のレベルなどで丁寧に驚きを与えてくれていたのに、最後は「それは誰でも思いつくことでしょ」って驚きのないままに時間が過ぎていった。「唐突さ」や「驚き」こそが〈リアリティ〉なんですよ。想定していないこと、想像していないことが「起きる」というのが震災後のリアルだとしたら、後半はその〈リアル〉の手触りを失っていた
「新海誠「君の名は。」に抱く違和感 過去作の価値観を全否定している 6(2016年9月3日 10時05分)」


私自身も、入れ替わりの時間差が明らかになってからの展開を固唾を呑んで見守っていたわけですが、そこからの予定調和的な大団円へ進む過程があまりにもあまりな設定で違和感を感じざるを得ませんでした。その上で、私の本作に対する評価としては、掛け値なしに「上質なエンタテイメント」を見せてもらって感動していたりもするわけです。これはどういうことか。

結論から言えば、美しい画と音楽とテンポのよさに魅入るということに感動した自分の気持ちを壊したくないんですよね。もちろん「ハッピーエンドがダメ」ではもちろんないですし、災害を題材にしたからといって悲劇的な結末である必要もないとは思いますが、上記のような違和感に加えてあまりに辻褄が合わない(一番困るのは、タイムトラベルで複数の世界線が発生しているのに、それぞれが微妙に交わってしまっていて最後に出てくるのがどの二人なのか判然としない)ために、いくらフィクションだとしてもそのストーリーを飲み込めないのも事実です。で、せっかくこれだけの美しい映画を見たという感動をなんとか壊さないようにしようとすると、ますますその違和感に苛まれるというまあしちめんどくさい状態になったわけです。

ということで、なんでわざわざ新年最初のエントリでこの映画を取り上げたかというと、美しい画とか音楽というのはそれそのものが魅力を持っているために、それをまとってしまえば荒唐無稽なストーリーであっても感動できてしまうし、その荒唐無稽さに気が付いてもせっかく盛り上がった気持ちがもったいないから感動するというねじくれた状況が起きてしまうということを、身をもって体験したことが衝撃だったからです。以前から拙ブログをご笑覧いただいている方には薄々感づかれていそうですが、まあこれこそが「経済学的に正しい」主張が多くの人の心をつかんでしまう理由なのだなあと思ったところでして、この映画を「キレイな理屈には重々気をつけなければならない」という他山の石として、今年の抱負としたいと思います。

(付記)
ついでに、この年末年始はEテレ率が高かったところでして、大晦日の『香川照之の昆虫すごいぜ!』から深夜の『ねほりんぱほりん』を挟んで元旦の朝は『昆虫すごいぜ!』特別編と夜は『大人のピタゴラスイッチ』まで(ほぼ録画ですが)満喫いたしました。どれも好奇心を刺激するという点ではさすがEテレだなあという番組だと思いますが、中でも『大人のピタゴラスイッチ』は、ある意味で一番深い内容だったのではないかと思います。

内容についてはこちらのtweetが要を得ていますが、


ピタゴラスイッチは番組の性質上物理的な作用についての解説が中心になるとはいえ、いずれも現実の社会における制度の作用を考える際に不可欠な視点ですね。ある制度が副作用を含めてどのような効果をもたらすかを考える際には、入口と出口だけを考えるのではなく「途中を丁寧に考える」ことが重要であり、当初想定した効果などの「枠組みにとらわれない」ように副作用を含めて十分にモニタリングするのと同時並行で、制度の周知や運用に当たっては「わかりやすい想像をさせることで扱いやすくなる」ように工夫しなければなりません。そしてこれらの視点は、ある特定の利益集団や学問分野からの考察だけによっては確保できず、社会や制度に関する「想像力」を総動員する必要があるわけです。とはいえ、現実の社会のみならず、学問の世界も唯我独尊的な考え方が蔓延していることについても「想像力」を働かさなければならないのが現実でして、いやこれは深いテーマですね。

2018年01月03日 (水) | Edit |
昨年中は多くの方々にコメント、拍手、ぶくま、tweet等々いただきありがとうございました。
本年も引き続きご愛顧のほどよろしくお願いします。

というわけで初詣しておみくじ引いてみました。

【吉】 (№47759) モナー神社
願事:遅かれど思う通りになるべし
待人:待つことあれど必ず来る
失物:少し遅れるがやがて出る
旅立:道近ければ吉
商売:気を付けてなせば吉
学問:労多いが成果有り
争事:新は危なく後宜し
転居:ゆっくりして吉
病気:遅いが治る 養生せよ
縁談:今は進まなくとも後には叶う

2008年から始めたモナー神社詣でですが、昨年までの戦績が大吉→吉→吉→吉→大吉→大吉→大吉→大吉→末吉→大吉ときて、記念すべき10周年は吉ということで、通算戦績は大吉6回、吉4回、末吉1回となりました。flashの廃止が2020年末に迫る中、あと2回くらいはモナー神社詣でができそうですが、なんとか大吉5割を死守したいところ。

ということで、今年も無事これ名馬を心がけて参りたいと思います。