2017年08月20日 (日) | Edit |
これはちょっと持ち越しになっていたエントリですが、海老原さんが春先に立て続けに出された著書を拝読してなかなかまとめきれておりませんでした。というのも、先に発行されたキャリア論がちょっと消化不良なイメージだったところ、次いで発行された経済論の微妙な人選にも困惑してしまったからです。

まず、最初のキャリア論についての『クランボルツに学ぶ夢のあきらめ方』ですが、書名に「クランボルツ」という聞きなれない単語が出てきて、これが何らかのジャーゴンなのかと思って読み始めると、冒頭の「はじめに」の中で「クランボルツの計画的偶発性理論(planned happenstance theory)」として紹介されいていますが、クランボルツがそもそもどういう学者なのかは本書では一切触れられず、「キャリア論について少しでも勉強した人ならまず必ず目にする、いわば基礎中の基礎(引用注:「バイブル」とルビがあります)と言える理論です」とそれを前提に話が進められていきます。さらに読み進めると、たけし、さんま、タモリに松本人志を加えたお笑いビッグ4の言葉とバスケットの神様と呼ばれるマイケル・ジョーダンの経歴が紹介されていて、私のようにキャリア論に通じていない読者にはちょっと面食らう展開ではないかと思います(まあ私がモノを知らないだけというのはその通りです)。

とはいえ、本書の論旨は明快で、いつもの海老原本の通り「読むと腑に落ちる」内容となっています。いつもの海老原論が全開になるのが§5でして、ここで2R2Wなどのマネジメント理論に基づくキャリア論が展開されていて、「そうかこれをいうためにクランボルツの計画的偶発性理論を下地にして有名人のキャリアを論じていたのか」と腑に落ちたというところです。つまり、『マネジメントの基礎理論』ではいわゆる上司としてのマネージャーがいかにマネジメントするかという観点からの指南書だとすると、本書はマネジメントの対象となるいわゆる部下がいかにキャリア形成するかという観点からの指南書といえるかもしれません。特にクランボルツが示した5条件(wikipedia:計画的偶発性理論を参照)を仕事をする中でどのように保つかについての的確な解説は、日本型雇用慣行について深い考察を続けてきた海老原さんだからこそ書けるのだろうと思います。

ではどこが消化不良かというと、ちょっと決めつけではないかと思ってしまう点が多いと感じたからです。本書そのものがページ数が少なく、主要なメッセージが見開きページに大きなフォントで記されているなど、メッセージ性を強く打ち出すような流れで書かれていて、それは本書のメッセージを伝えるのに重要な役割を果たしているとは思うのですが、その分検証が端折られてしまっているのが決めつけが多いと感じる理由ではないかと思います。直接響くようにするためにはある程度の勢いや決めつけも必要だろうとは思いますが、特に一部の若手芸人への評価はかなり厳し目ですので、ファンの方はその点をご留意されるのがよろしいかと。

本書をそのように位置付けたときに、いわゆる部下の立場にある者がキャリア形成を考えるモチベーションを与えることが本書の趣旨であり、その点は多くの若い世代(キャリア形成を考える中高年ももちろんですし、私なんぞは読みながら反省することしきりでしたが)に読まれるべきと思いますが、ちょっと気になる決めつけについて1点だけ指摘させていただくなら、本書の(中間的な)結論は、

 さて、「同じ土俵に立てたなら成功確率は2〜3割」という経験則をもとに、人材業界の人たちは、相談者にこんなアドバイスをしています。
 たとえば、今あなたが就いている仕事で、「そこその成功」できる確率は2〜3割、つまりだいぶ手の届くところまで来ています。なのになぜ、あなたは今、悩んでいるのか。その理由は、クランボルツの5条件のどこかが機能不全となっている場合が多い。だから、その点検をしましょう、と。

(略)

 あなたが、しっかりと仕事をやり切ったにもかかわらず、結果が出ないのであれば、次の仕事を見つけるべきでしょう。
 そして、次の仕事でも採用試験をくぐりぬけ、スタートラインに立てたのなら、やはり「そこそこの成功」を収める可能性は2〜3割あります。それは決して低いものではありません。とすると、人間はクランボルツの5条件を保って目の前の仕事を一生懸命頑張れば、そう遠くない時点で必ず「そこそこの成功」を手に入れることができる。
p.84


引用元: タイトル クランボルツに学ぶ夢のあきらめ方
著者 海老原嗣生 
ISBN 978-4-06-138614-3
発売日 2017年04月25日
定価 920円(税別)


というものでして、ここで示されている考え方は、特に転職を考える際の1つの目安としてその通りだとは思います。ただし「必ず「そこそこの成功」を手にすることができる」はちょっとそこまで言えるかなという印象です。厚労省が毎年公表している「転職者実態調査の概況」の最新版は27年のものですが、その中にはこういうデータがあります。

(3)転職者の労働条件(賃金・労働時間)の変化
 賃金が転職によりどのように変化したかをみると、賃金が「増加した」が40.4%、「減少した」が36.1%、「変わらない」が22.1%となっている。D.I.(「賃金が増加した転職者割合」-「賃金が減少した転職者割合」)をみると、44歳以下の年齢階級ではプラス、45歳以上の年齢階級でマイナスとなっており、おおむね、年齢階級が若いほどD.I.が高くなっている。(表13)

(略)

(6)現在の勤め先における満足度
 転職者の現在の勤め先における満足度について、「満足」及び「やや満足」とする者の割合と「不満」及び「やや不満」とする者の割合の差であるD.I.(表22「満足①」-「不満足②」)をみると、「職業生活全体」で43.0ポイント、男が42.9ポイント、女が43.2ポイントとなっている。「職業生活全体」を事業所規模別にみると、事業所規模が大きいほどD.I.が高くなっている。
 満足度項目ごとにみると、全ての項目で「満足」が「不満足」を上回っているが、「仕事内容・職種」が61.2ポイントと最も高く、「賃金」が17.7ポイントと最も低くなっている。(表22)

引用元: 平成27年転職者実態調査の概況(pdf)


つまり、転職後の賃金が増加した割合と減少した割合との差では全体でプラスになるものの、満足度では「仕事内容・職種」が高く、「賃金」は最も低いという結果が出ていまして、「そこそこの成功」とは必ずしも賃金面からは捉えられないということには注意が必要ではないかと考えるところです。いやもちろん、「仕事内容・職種」の満足度が高いことをもって「そこそこの成功」ということも可能ですし、これをもっと高めてさらに賃金などの待遇面も向上させるためにクランボルツの計画的偶発性理論が重要というメッセージでもあると思いますが、読む方によってはイメージが異なる場合もあるでしょうから、この点にもご留意いただくとよろしいかと思います。

そしてなんとも評価しがたいのがこちらの著書です。本書の内容そのものは大変わかりやすく、特に利率と利回りの違いをここまで丁寧に解説した本は他にはあまりないと思いますので、仕事をするうえで経済の仕組みを理解するためには大変重宝する内容であることは間違いありません。ただ、最後の第5部で「それでもわからないことはプロに聞く」として出てくる「プロ」がおっちょこちょいな飯田先生なんですよね。。ということで、本書の評価はその解説に対する評価で左右されると思いますので、私からは保留とさせていただきます。
2017年05月22日(月)発売 / 税込価格:1,512 円
四六判/並製(184頁)
ISBN : 978-4833422314
[著]海老原嗣生
[解説]飯田泰之



とはいえ、HRmics最新号となるvol.27ではあの権丈先生を大々的にフューチャーしていらっしゃいますので、こちらについては改めてエントリを上げたいと思います。

(2017/09/18追記)
海老原さんから、厚労省の転職者実態調査の解釈についてご指摘をいただきましたので、こちらに追記いたします。実は私が引用した転職者実態調査はあくまで転職直後のデータであって、転職後の賃金の推移を見るためには賃金構造統計調査を確認する必要があるとのことです。で、実際に「平成28年賃金構造基本統計調査」から「年齢階級、勤続年数階級別所定内給与額及び年間賞与その他特別給与額http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/GL08020103.do?_toGL08020103_&tclassID=000001062211&cycleCode=0&requestSender=estat」から勤続年数ごとの年収(所定内給与額×12か月+年間賞与その他特別給与額の計で算出)を確認してみましょう。

例えば、転職者実態調査で「D.I.(「賃金が増加した転職者割合」-「賃金が減少した転職者割合」)」がマイナスとなった45歳以上のうち50代前半についていえば、「正社員・正職員の雇用期間の定め無し」で見てみると、高卒では勤続年数0年で約235万円から3~4年後には約288万円へと50万円以上、大卒・大学院卒では勤続0年で約418万円から3~4年後には約487万円へと70万円まで上昇します。さらに、50代前半で5〜9年目、つまり40代後半に転職した場合まで拡大すると、高卒で約327万円へと100万円以上、大卒・大学院卒では約564万円へと130万円以上上昇していることになります。一方で、これを「正社員・正職員計」に当てはめてもほぼ同様の傾向が見られますが、「正社員・正職員以外計」では、50代前半の大卒・大学院卒で勤続年数5〜9年目が60万円程度上昇するほかは、目立った賃金上昇は見られません。このデータからも、転職で「スタートラインに立つ」ことが最低条件であって、そのためにも特にクランボルツが示した5条件を実践していくことが重要でありlptpが示されているのでしょう。

実は2年目以降に賃金が大きく上昇するのは、勤続0年ではボーナスが支給されない場合が多く、2年目以降にボーナスが上乗せされるというカラクリがあるためですが、その中でも3年目以降は「上位群」が引っ張り、中下位群は固定となり、これらを踏まえて本書では「スタートラインに立てたのなら、やはり「そこそこの成功」を収める可能性は2〜3割あります」と指摘されたとのことでした。ご指摘ありがとうございました。まあ、こうした細かい検証をダラダラ書いてしまうと「研究者・研究肌の人間は読みますが、一般人は読まない」というジレンマがあるため、「私の本は、勝手に「料理」して、食べられるようにして」いらっしゃるとのことで、その意味で本書はちょっとクセのある「おいしい」内容となっていますので、未読の方はぜひご一読をオススメします。
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2017年08月17日 (木) | Edit |
以前書きかけていたエントリの大蔵ざらえなのでややタイミングを外した感はありますが、せっかくなのでアップしておきます。日銀の金融緩和がどうやら奏功していないことが明らかになってきて、リフレ派と呼ばれる一部の方々に批判的な積極財政論者の声が大きくなりつつあるようでして、その方々が次なる財源として内生的貨幣供給論を持ちだしていらっしゃるのですが、その主張される内容が「制度の根幹を否定する」といういかにもな発想から出発しているなあと思っておりました。で、先日拙ブログでもご高説を賜った望月夜さんのこの指摘を拝見してやたらと既視感がありましたので、個人的なメモ(くれぐれも誰か特定の個人を批判する趣旨ではありませんのであしからず)。

しかしむしろ、通貨というのを何かの宝物のように扱う考え方の方が、通貨理解としては本質的に誤っているのである。

このことは、『通貨は財ではなく信用から生まれた-信用貨幣と計算貨幣-』の方でも解説したが、今一度簡潔に概説しよう。

まず、この世には何かしらの貸借関係があって、それを記述する手段として、石、金属、紙、場合によっては商品が用いられ、それが単位として統一されれば通貨になる。

問題は、通貨の実態は、単位として設定された石や金属ではなく、元々あった貸借関係である。「誰かへの貸し」(その誰かの借り)を使って売買を行うわけだ。

引用元: 「信用創造Wikipediaの混乱 前編(寄稿コラム)(批判的頭脳 2017-07-06 22:49:00)
※ 以下、強調は引用者による。

私が「経済学的に正しい」というのを批判しているのは、単に「経済的合理性やそれに基づくモデルのみに重きをおいて、現実の世界を理解しようとしない」ことではありません。制度と個人の行動が相互に影響し合うという社会を記述するに当たっては、社会を維持するために必要な取り決めとして考え出した制度に対して、その社会に属する各個人が個人の考えに沿って行動することが必要となります。そのような視点から言えば、「経済学的に正しい」議論の問題は、その行動の契機となる個人を「代表的個人」のようなマスな存在に霧散させ、社会の取り決めとしての制度に対する個人の考えや行動を無視して平準化(経済学の好きな言葉では簡単化)してしまう点にあると考えております。

特に私のような実務屋からすれば、上記のような「この世には何かしらの貸借関係があって」という点にどのような制度が想定されているのか大変気になります。その貸借関係は民法に規定される典型契約としての賃貸借でしょうから、ここで想定されているであろう金融機関への預金の預入は消費寄託(民法657条)であり、金融機関からの貸出は消費貸借のうち金銭消費貸借となりますので、これに付随する民法上の規定に則って契約が締結されているはずです。

この契約は当事者間の債権債務関係を規定したものですので、当事者による債務履行がなければ契約違反となります。言い換えれば債務履行を確保し、契約違反を防止し、契約違反があった場合の救済方法を規定するのが契約書とその拠り所となる民法典ですね。債務不履行についての救済方法の1つが不動産についての抵当権などの担保を設定することですが、こうした債務履行の能力がいわゆる「信用」と言われるものの実務的な内容となります。また、例えば賃貸借契約の解約などでは、判例により「「高度な信頼関係を基礎とする継続的契約において、一方の当事者の投下資本の回収の利益を保護するため、他方の当事者からの一方的な契約の解約を『当事者間の信頼関係が破壊された』場合にのみ認める」という「信頼関係破壊の法理」が確立していて、確かに手続き上は契約書一枚で債権債務関係は成立しますが、それを実効あらしめるためには、信用を調査したり信頼関係を十分に吟味したりという手間がかかるわけです。

というような手続きばかりしている実務屋からすると、「このようには何かしらの貸借関係があって、それを記述する手段として、石、金属、紙、場合によっては商品が用いられ、それが単位として統一されれば通貨になる」というのは、随分と簡略化された前提ですなあと感嘆することしきりです。いやもちろん、賃貸借と消費寄託の契約を金銭面のみに着目して記述するということであればこういう表現も可能でしょうけれども、その簡略化ぶりからは食べ物の入りと出だけに着目した「人間は「管」である」という考え方を思い起こします。

ところで、我々は「我考える、ゆえに我あり」などといい、人間存在の中心は「脳(意識)」であると思っている。しかし、生存にもっとも必要な食べ物の摂取の観点では、脳が意識するのは、せいぜい食べ物が腐っていないかを目や鼻や舌で感じるだけである。食べ物の良し悪しの判断の大半は腸に依っている。この意味でも人間は「管」であるといえる

(略)

確かに我々は「脳」のおかげで、便利な人工物に囲まれた清潔な場所で暮らすようになり寿命も延びた。しかし一方で我々の体の中心にある「管」は、環境の激変についていこうとして四苦八苦している。環境変化についていけず、ときには免疫システムがバランスをくずして、食物アレルギーを引き起こすケースが増えてきた。

生物が生きていくためには、環境と調和していくことが必須であり、人間もまた然りである。しかし、人間の「脳」は、環境に対して実に鈍感である。一方、環境に対してもっとも敏感なのは「管」の方である。今こそ「人間は「管」である」と考えるときかも知れない。 (記:五等星)

引用元: [コラム]人間は「管」である - 自然科学カフェ(2014/11/17 19:20)

「生存に必要な食べ物の摂取の観点」からこうした議論をすることは大いに理解できるものの、上記のような複雑な制度によって成り立つ社会における財政政策や金融政策を考える際に、その社会を構成する人間の行動を金銭面のみから記述することをもって「具体的実務的形態」であるぞという方がいらっしゃるのもまたこの世の習わしですね。

で、このような世の習わしを拝見して既視感を覚えたのは、ドラめもんさんの「利権陰謀論という結論を書きたくて」たまらない方へのツッコミを拝見していたからでした。

確かに金利の上げ下げを行えば事後的にはマネタリーベースやマネーサプライにも影響出てくる筈ですが、それは金利の上げ下げによって実体経済に変化が起き、その結果マネーの需給関係が変化するためであって、中央銀行が短期市場金利の上げ下げで金融政策を実施しているのであれば、マネタリーベースの増減と政策金利の上げ下げに関しては中長期的には兎も角短期的にリニアな関係がある訳ではありません。

『債券を売却した金融機関は、金利の付かないマネーを得る。金利の付かないマネーを持っていても仕方がないので、金融機関はそのお金を貸し出す。』

はい残念。貸出というのは別に日銀当座預金の増減とは関係なく増やしたり減らしたりできます。他の金融機関に貸し出せば自分の所の日銀当座預金は減りますのでもしかしたらそういう話をしているのかも知れませんね、と思って次を読みますと案の定、

『8%の金利では貸出が増えないが、金利を下げれば貸出が増える。貸し出されたお金で人々は何かを購入する。』

って貸出が増えるという話をしていますし、人々は何かを購入するとか言ってるので、どこからどう見ても銀行融資が増えるという話をしているようですが、銀行融資というのは銀行の中での両建てが増えるだけの話で、日銀当座預金とは関係なく増えるものです。

しかも頭がクラクラしてくるのですが、「金利を下げれば貸出が増える。貸し出されたお金で人々は何かを購入する。」って言ってるんですが、金利を下げることによって投資の採算ポイントが改善するから投資が促進される、とかいう話ならまだしも「人々は何かを購入する」ってお前は何を言ってるんだとしか申し上げようがない

引用元: 「本日のドラめもん 2017/06/30」

とまあ、経済学に精通している(と目される)方が日本の中央銀行の要職に就いて、「貸し出されたお金で人々は何かを購入する」と能天気におっしゃるのもまた世の習わしと受け入れるしかないのでしょう。

明日からの仕事復帰に向けて大蔵ざらえでしたが、いやまあこんなエントリでは気分が優れませんなあ。。

2017年08月17日 (木) | Edit |
お盆の時期は終戦記念日と重なることもあって、日本の意思決定に関していろ考える機会でもありますね。となれば、過去と現在を比較して戦前とどうたらという意見も多く見受けられるところですが、いつものことながら山口さんのこの指摘が本質的ではないかと。

とはいえ、今の社会と戦前の違いは明らかであり、文字通りの意味で「戦前」の状態に回帰するというのはあまり説得力のある主張ではないと思う。何かの政策や立法などについて、戦争や戦闘に巻き込まれるリスクが高まると言いたいならそのように言えばよいし、人権侵害のおそれが強まると言いたいならそのように言えばよい。戦前を持ち出すことでよけいな文脈が持ち込まれると、議論が無駄にややこしくなる。ましてや現首相をヒトラーにたとえるかのような極端な言説は冷静な議論を不可能にするという点で有害以外の何物でもない。

そうはいうものの、最近の情勢をあまり好ましいとも思っていない。この時期のことゆえつい関心が「戦争」に向かいがちなのでという要素もあるが、最近放映されたさまざまなテレビ番組を見ながら、戦争はいかんなあ、これは気をつけなきゃいかんなあ、という思いを新たにした。

引用元: 「戦争の何がこわいか(August 16, 2017)」(H-Yamaguchi.net)
※ 以下、強調は引用者による。


まあ何かになぞらえて自分の主張を補強するというのはよくある手段ですから、そのこと自体は特に問題にすべきではないのかもしれませんが、かといって自分に気にくわないことがあれば、いわゆる失政や悪政になぞらえて危機感を煽るというのはまさに山口さんがおっしゃる通り「議論が無駄にややこしくなる」だけではないかと思います。

そうはいっても、結局共通点があるといえなくもないところが何周も回って結局それかよとは思いますが、前々回エントリに頂いたはてブを拝見して補足しておきたいと思います。

hahnela03 誤解を恐れずにいえば、中小企業の業務ではそれほど厳密な論理構成は求められない/それはそれで別のハラスメントの温床になっているという面。パワー(指揮命令権)を行使する(労組組合員)との鬩ぎ合いですね。

引用元: hahnela03のコメント 2017/08/08 11:16

これはハラスメントが発生する象徴的な問題かと思うところでして、前々回エントリではまとめきれませんでしたが、要すれば、論理的な場面と非論理的な場面を使い分ける権限を持つ者が最強だということに尽きるのだろうと思います。組織で仕事をしている労働者にとって、少なくとも仕事の場面において上司こそがその権限を一元的に有するわけですから、論理的に仕事を進めるか、理不尽なパワハラで仕事を進めるかは上司のさじ加減ひとつで決まります。

前々回エントリでは、クラッシャー上司は自らの経歴を守るときに論理的に振る舞い、自らの経歴に傷がつかなければ非論理的にパワハラをすると書きましたが、それを突きつめると自らの経歴を守る必要が無いクラッシャー上司はパワハラを躊躇する理由がないということになります。ごく一般論として、中小企業の業務では大企業と比べて出世のライバルが少ないことで自らの経歴を守る場面が少なくなり、パワハラに歯止めが利かなくなる傾向があるのかもしれません(これに加えて、hahnela03さんが指摘されるような労働組合も、守るべき経歴がないと考えている場合は同様のことがいえるでしょう)。

という中小企業の事情に比べれば、大企業や役所でパワハラを防ぐことは容易だろうかと考えるとさに非ず。上記の逆のパターンを考えてみればわかりますが、これも前々回エントリで指摘した通り、不幸にも「そうして形成された「社風」とか「組織文化」が、「厳しい上司だったけどそのお陰であの厳しい状況を乗り切れた」などの武勇伝とともに何らかの業績につながっていたりすると、その「社風」とか「組織文化」を修正することは著しく難しくな」っている場合は、パワハラすることこそが「社風」とか「組織文化」に沿った行動であり、パワハラする上司がそのパワハラでもって評価されることになります。

いやもちろん、パワハラでもって評価されるというのは極端な言い方で、もう少し実態に即していえば、論理的に仕事を進めるべき場面であろうがなかろうが非論理的な言動で意思決定を行うことが常態化してしまった組織においては、どんな手を使ってでも所期の目的を果たす意思決定をできる者が評価されるということですね。その意思決定を行うためであればいくら非論理的な言動を行っても不問に付されることがわかっているからこそ、パワハラを行って部下の反論を封じることが意思決定の場面で有効な手段となり、それを使いこなす者が評価されて出世するというわけです。

と書いてみると、現在の日本の組織の問題は、いったん形成された「社風」や「組織文化」に根差している部分が大きいのではないかと思いますし、やはり戦前の日本の主要な組織で非論理的な意思決定が常態化していたことが戦争につながったという評価には一定の説得力があるようにも思います。まあ、パワー(指揮命令権)の行使をハラスメントを分離できればいいのでしょうけれども、日本型雇用慣行におけるOJTがハラスメントの源泉であるならば、ことはそう簡単ではありませんね。日本型雇用慣行が堅牢であるうちは意思決定が非論理的に行われるものと諦めるか、日本型雇用慣行の見直しを進める中で少しずつ状況が改善するのを待つしかないのかもしれません。

2017年08月16日 (水) | Edit |
震災後はお盆の時期にその時々に感じたことなどをアップしているところで、今年は東日本大震災で亡くなった方の七回忌となります。とはいえ、沿岸部から離れた内陸部に居住する私は身内に被害者がいるわけでもないのでニュースでその様子を伺うだけですが、その中にこんな記事がありました。

 東日本大震災の津波で流された写真や位牌(いはい)など「思い出の品」を持ち主に返す活動が、岐路に立たされている。国の財政支援を失ったり、問い合わせが減ったりして活動を縮小する自治体が相次いでいるのだ。そんな中、岩手県陸前高田市がこの夏、県外の東京、仙台で「出張返却会」を初めて開くことを決めた。震災から間もなく6年半。物理的な復興と違って、一人一人歩みの異なる「心の復興」の現場を歩いた。【石巻通信部/百武信幸、統合デジタル取材センター/小国綾子】

引用元: 「思い出の品」で心の復興を 東京、仙台で初の返却会(毎日新聞 会員限定有料記事 2017年8月15日)


有料記事ということですが、月5本まで読めるとのことなので本文の一部を引用しておきますと、

「写真を探しに行きたいが……」と県外避難者ら

 陸前高田で震災後に泥や潮水から回収された写真は20万~30万枚に上る。写真約7万2000枚、位牌やへその緒などの品々約2500点がまだ残ったままだ。

 実は三陸沿岸の自治体はどこも持ち主に返しきれない「思い出の品」を抱えている。写真だけでも、仙台市の約16万枚など、合計100万枚前後になりそうだ。しかし、どこも復興事業で忙しく、返却作業にまで手が回らない。役所に足を運ばないと写真を探せない自治体も多く、問い合わせが減ったことや保管場所がないことを理由に、電子データ化した上で現物を焼却処分した自治体もある。

(略)

 陸前高田市はこれまで、市内だけでなく、県内陸部の盛岡や一関などでも「出張返却会」を積極的に開いてきた。今年4月からの3カ月間だけでも223人が返却会に訪れ、923枚の写真が持ち主や家族、遺族らの手に返された。

 今なお海や泥の中から新たに写真が見つかることがある。昨年、市内で泥の中から見つかった写真アルバムは今年になって持ち主に返却された。

 今回初めて東京や仙台での開催を決めたのは、県外避難者や実家を流された県外在住者らの「写真は探したいが、高田までは行けない」という声を受けてのことだ。

 「まだ生活に余裕がなく写真探しどころではない方、つらくて写真を見られない方、今年、七回忌を終えてようやく写真をゆっくり探す気持ちになれた方などもたくさんいます」。同市から返却事業を委託されている一般社団法人「三陸アーカイブ減災センター」理事の秋山真理さんは語る。

引用元: 「思い出の品」で心の復興を 東京、仙台で初の返却会(毎日新聞 会員限定有料記事 2017年8月15日)

とのことで、七回忌を迎えてやっと遺品探しができるという方もいらっしゃいます。しかし、その遺品を預かる立場の自治体の中には、人手や経費、さらに場所の問題からデジタル化して現物を焼却処分したところもあったようです。遺品は現物だからこそその意味があると思われるところでして、当然自治体の側でもそれは痛いほど分かっている(自治体職員の多くも被災した当事者ですし)はずですが、それでもなお焼却処分せざるを得なかった事情を推察すると、被災した地域の自治体が置かれた状況の厳しさを改めて考えてしまいます。

思い出の品を返す活動を縮小する自治体が相次いでいる大きな理由は、冒頭の引用部分にある通り「国の財政支援を失った」ことにあるでしょう。役所の仕事の特徴として、先におカネがあってそれに基づいて仕事が発生するという経路があるわけですが、これを裏返すと、おカネがなくなれば仕事が無くなるということになります。おカネがあるうちは継続できた活動(役所的にいえば事業)が、その財源を失ったことによって継続できなくなるというのは、良し悪しは別として役所の仕事の実態です。そしてその財源拠出の可否は、少なくとも建前上は財政民主主義に基づいて国民が決定することになります。

東日本大震災後も日本各地で相次いでいる大規模災害は、(言葉は不適当かもしれませんが)それぞれが競合してしまい、予算とそれに付随する仕事と人手を奪い合う事態となっている面は否定できないでしょう。さらにいえば、東京オリンピックなどの大規模イベントに予算とそれに付随する仕事と人手を割いている状況で、その競合の度合いがより高くなっていきます。その中にあって思い出の品を返すという、大規模公共事業に比べればニッチな事業に予算が付けられるか否かは、この国の空気を知るために何らかのヒントになるのかもしれません。

2017年08月06日 (日) | Edit |
10年ほど前に拙ブログで取り上げた香西先生の著書についてのこちらのtweetを見てピンときましたのでメモ。


画像部分のテキストを起こしておくとこんな内容です。

…だが、議論に世の中を変える力などありはしない。もし本当に何かを変えたいのなら、議論などせずに、裏の根回しで数工作でもした方がよほど確実であろう。実際に、本物のリアリストは、皆そうしている。世の中は、結局は数の多い方が勝つのである。
 論理的思考力や議論の能力など、所詮は弱者の当てにならない護身術である。強者には、そんなものは要らない。いわゆる議論のルールなど、弱者の甘え以外の何ものでもない。他人の議論をルール違反だの詭弁だのと言って避難するのは、「後生だから、そんな手を使わんで下され」と弱者が悲鳴を上げているのだ。そして、そのような悲鳴にすぎないものを、偉そうに、勝ち誇って告げるのも、また弱者の特徴である。


香西秀信『論より詭弁 反論理的思考のすすめ』 pp,8-9

私も実務屋の端くれを自認しておりますが、実務の世界の「論理」とはまさにここで指摘されるような世界ですね。「本物のリアリスト」というとちょっとカッコよくなりますが、実はそれこそが「力にものをいわせる」上司のやり方でもあって、香西先生がこの後の部分で「いかに「発生論的虚偽」と非難されようとも、こんな場合には、邪悪な動機とともにその忠告を葬り去って、それで何ら生き方を誤ることはない。…もし人が非論理的な判断をして、それで痛くも痒くもないというのであれば、そのときは論理的思考の方が何か大きな間違いを犯しているのである」(p.22)と指摘されるように、現実とは往々にして論理的ではないといえましょう。しかし、場合によってはそれがクラッシャー上司となって組織を壊死させることもよくある話でして、それがパワハラの弊害といえます。

でまあ、パワハラを駆使するクラッシャー上司で、特に上層部まで昇進するような上司の多くはサイコパスであり高度に合理的であるのですが、だからといって常に論理的かというと必ずしもそうではありません。というより、出世するクラッシャー上司ほど論理的な場面とそうでない場面を使い分けるんですよね。松崎一葉『クラッシャー上司』でも紹介されているクラッシャー上司はこんな方だそうです。
基礎的な能力は高く、入社後から実績を上げ順調に昇進し、同期の中では最も早く管理職に登用された。しかし、仕事は確かにできるが、部下が業務上の失敗をすると、自室に呼び出し、2時間近くも「ネチネチ」と部下の失敗を遠回しに非難する。決して明らかなパワハラにならないように、初めは優しい口調で対応するが、部下が弁解をすると論理を構築して弁解の余地のないところまで心理的に追い詰める。部下が疲れ果てて「自分が全て悪かった、申し訳ありません」と平謝りするまで、非難は延々と続く。

しかし、部下に営業上の失敗があったとしても、最後は自分が直接に乗り出して、クライアントにうまく対応して商談をまとめる。本人は、気分の上がり下がりが激しく、時に、部下を引き連れて自分の好きな飲食店に連れて行き、ワインの蘊蓄を傾け大盤振る舞いをしたり、その一方で、原因もなく、何を言っても取り付く島のないほど不機嫌であったりする。そのため部下たちも、本人に対しては面と向かって本音が言えず、「しかたがない。逆らわずにいこう」と諦めていた。

引用元: 部下を潰して出世するクラッシャー上司は「人格の未成熟さ」を抱えた危険な存在 | 「会社のワガママちゃん」対処法 | ダイヤモンド・オンライン(2009.10.15)
※ 以下、強調は引用者による。
いやまあ身近にもよく似た行動をとる方がいて、特に本書37〜39ページに採録されたような決して答えが出ることがなく、上司が一方的に雪隠責めするやりとりはうちの職場では日常茶飯事でして、まあ働き方改革とか業務効率化なんてどこ吹く風ですかねえという思いを強くするところです。

とはいえ、そもそも上司はパワー(指揮命令権)を持っていますので、上司によるパワー(指揮命令権)の行使は通常の職務遂行にほかなりません。ただし、その行使の仕方がハラスメントになったときにはパワー・ハラスメントとなるわけです。そしてそのパワーの行使がハラスメントとなる源泉は、実はパワーそのものではなく、OJTにおける試行錯誤にあるのが日本的雇用慣行の特徴だろうと思います。

拙ブログでは、公務員の人事労務管理は民間のそれからはるかに遅れているという指摘をしてきているところでして、それはまあ私が総務省が所管する地方公務員法適用の地方公務員だからでして、つまり総務省の人事労務管理が稚拙であるという趣旨なのですが、国家公務員法を所管する人事院はさすがにそこまで稚拙ではなく、『平成28年度公務員白書』で日本型雇用慣行についても鋭い指摘をされています。

(3)OJTを取り巻く問題

 係員級職員や係長級職員を中心として、仕事のやりがいを高め、仕事を通じた能力開発や専門性習得を十分にフォローアップするためには、OJTの充実・強化が不可欠である。

(略)

 しかし、「OJTにおいては一般的に、部下に試行錯誤をさせて、その結果に対して上司が助言・指導を行うことから、その分、業務量が増加することは否めない」とされる。この点、「業務量の許容度」については肯定的な傾向が見られるものの、「業務量に応じた人員配置」については否定的な傾向が見られ、職員自身は何とか業務を処理できているが、これ以上の負担は許容できず、OJTを行う余力に乏しいという状況にあることが推測される。これは、平成27年度の年次報告書において指摘した国家公務員の年齢別人員構成の偏りによる若年層の能力開発不足と相談相手の不在等の問題の存在を示すものとなっている。したがって、業務量に見合った人員配置がなされない場合には、中長期的に見て、OJTによる職場における人材育成力を損なうおそれがあり、このことは、将来にわたる行政のパフォーマンスを維持する観点からも重要な問題である。

引用元: 平成28年度公務員白書(2017年6月9日)【第2部】魅力ある公務職場の実現を目指して(PDF形式:1,936KB)

つまり、OJTが試行錯誤をさせてその取組の中で職務遂行能力を向上させるものであることを目的とするものであることから、当然の帰結として、部下はかなりの割合で「錯誤」することになります。それに対して上司は、試行錯誤の「錯誤」の部分について助言・指導を行う必要があり、その際に、人格を否定して人権を侵害するような暴言を吐いたり、ときには暴力を振るったりしてその「錯誤」を攻め立てることがハラスメントになるわけです。

ところが、中には人格否定・人権侵害的な暴言・暴力で指導する方法しか知らない上司も存在するところでして、そうした上司の指導方法そのものが、さらにその上司から過去に受けたOJTによって獲得されていることが多く、それが「社風」とか「組織文化」となると負の連鎖が続くことになります。そうして形成された「社風」とか「組織文化」が、「厳しい上司だったけどそのお陰であの厳しい状況を乗り切れた」などの武勇伝とともに何らかの業績につながっていたりすると、その「社風」とか「組織文化」を修正することは著しく難しくなります。一度そうなってしまえば、かつての平社員であった新しい上司にも制御・介入はできず、パワハラが厄介な問題となっているのはそうした事情が背景となっているといえましょう。

まあここまでは、日本型雇用慣行におけるパワハラの発生過程やその対処方法が難しい要因の説明としてよくある話だと思いますが、問題はそれにとどまりません。そのOJTによる試行錯誤を上司が指導・助言するという日本型雇用慣行にいては、そのOJTにおける上司・部下の関係そのものが企業や官庁の意思決定にも影響しています。実務屋を自認する私からすると、人格否定・人権侵害的な暴言・暴力で指導する方法しか知らない上司によって、理論やデータではなく、その場の雰囲気で物事が決まるというのは前述の通り日常茶飯事だろうと思います。上記ダイヤモンドの記事にあるような「本人に対しては面と向かって本音が言えず、「しかたがない。逆らわずにいこう」と諦めていた。」という状況ですね。

そしてさらに、そうした状況を活用してパワハラ的な言動を意識して行う上司がいるのも事実でしょう。つまり、自分の経歴に傷がつく場面ではパワハラ的言動を封じ、自分の経歴に傷がつかない場面でパワハラ的に振る舞うことによって、周囲に対して恐怖による支配を徹底しようとする場合です。なんでそういうことをしようとするかといえば、自分の経歴に傷がつかない場面でそのパワハラ的言動を示しておくことで、「あの人の逆鱗に触れたら大変なことになる」という見せしめとすることができ、結果としてパワハラ的言動の対象となっていない部下までを支配することができるからです。

ここで冒頭のtweetに戻りますと、クラッシャー上司は論理的に見えても、上記のようなパワハラ的言動の使い分けを行うことが往々にしてあります。そして普段(自分の経歴に傷がつかないところで)論理的に振る舞うことで、パワハラ的な言動が非論理的であっても、「本人に対しては面と向かって本音が言えず、「しかたがない。逆らわずにいこう」と諦め」ざるをえないという状況が生まれます。その結果、その上司の下での意思決定は非論理的なものとなっていくという悪循環が生じることとなりますが、私見ではこうした環境は伝統的な日本企業や官公庁に特徴的ではないかと思います。

誤解を恐れずにいえば、中小企業の業務ではそれほど厳密な論理構成は求められないとしても、大企業や官公庁では関係者が多方面に及ぶために厳密な論理構成による業務遂行が求められることが、その要因ではないかと思います。つまり、大規模な組織において「論理的」なるものは、実は誰にとっても都合よく読める程度には玉虫色のものにせざるを得ないわけでして、その玉虫色の決着を有利に形成する際には、「あるときは徹底的に論理的に、あるときは表向き論理的に」という使い分けが有効ということになります。

そしてこの状況で最も事を有利に進めることができるのが、まさに論理的と非論理的を使い分けてパワハラを駆使するクラッシャー上司であり、だからこそクラッシャー上司は高評価されて出世もするのですが、その結果として、一見論理的に見えてもその実上司が自分の思い込みで判断した結果にすぎないということが頻発し、その組織における「論理的」なるものが内実を失っていくのではないかと思います。というか、大企業病とか役人病というものの大半はこれで説明可能ではないかとも思うところでして、この国の意思決定をまともな方向へ進めたいと思う方々は、まずパワハラを駆使するクラッシャー上司という社会的害悪を何とかしないといけないのではないでしょうかね。