2017年05月03日 (水) | Edit |
このテーマを引っ張るつもりはなかったのですが、憲法の日に関連していつもの議論が繰り返されているようですのでメモ。

安倍首相 憲法改正し2020年施行目指す意向を表明(NHK NEWS WEB 5月3日 15時02分)

さらに安倍総理大臣は「70年前、現行憲法の下で制度化された、小中学校9年間の義務教育制度、普通教育の無償化は、戦後の発展の大きな原動力となった。70年の時を経て、高等教育についても全ての国民に真に開かれたものとしなければならない」と述べ、高等教育の無償化なども改正項目として例示しました。「教育無償化」は義務教育以外にも授業料を取らない範囲を広げていこうという考え方で、日本維新の会が去年発表した憲法改正原案に盛り込んでいます。


経済学方面からは「所得再分配の拡充」というと「可処分所得を増やせ」の一点張りで増税など愚の骨頂と徹底して批判されるところですが、「教育の無償化」はれっきとした所得再分配政策でありながら可処分所得は直接的には増えるわけではありませんね。つまり、教育という財・サービスの需要側が、現行の憲法に定める教育を受けさせる義務を果たすため、自らの支払能力に制約されることなく必要に応じて需要できるように政府がその費用を拠出するのが「教育の無償化」の目的であって、それによって需要側の可処分所得が増えたとしてもそれは間接的効果にすぎません。なんとなれば、可処分所得の増加は教育を受ける子弟のいる家庭に限られるわけでして、ある一時期を捉えれば「教育の無償化」は子弟のいない家庭から子弟のいる家庭への所得再分配であり、高齢者層から若年層や中高年齢者層への所得再分配となります。つまり、人口一定の前提でそれが貨幣的現象であるならば「教育の無償化」は景気には中立となるはずです。

となると、「教育の無償化」という所得再分配政策には経済学方面から強烈な批判があるかと思いきや、「教育の無償化」を財政政策の拡充ととらえて「だから我々は財政政策の効果を否定していないし、むしろ緊縮財政を批判してきたのだ」と賛同する意見が多いようにも見受けます(特に喧嘩を売るつもりはないので引用はしませんが)。おそらく経済学的な観点からいえば、「教育の無償化」で個人の能力を公平に高められ、それがスピルオーバーして経済成長につながるという「正の外部性」の効果と、教育従事者の雇用や所得が増加することによる総需要増加の効果が評価されているのかもしれません。いやまあ、後者については消費増税による増収によって医療介護の分野ではすでに雇用増加の効果が現れているのですが、「失業率の低下や有効求人倍率の上昇は医療介護の分野で年寄りと女が低賃金で働いているだけで、「オレの」景気がよくなったわけじゃない」と一斉に叩かれ、さらに、その効果が現れない要因となっている低賃金構造については「最低賃金1500円とか騒ぐ暇があれば働け」と言われるわけで、再分配政策に関する議論というのはいろいろと厄介ですね。

ということで、「教育の無償化」の効果を、前者の個々人の能力向上による正の外部性に絞って考えてみようと思うのですが、そうはいっても、これもまたいろいろと厄介な問題でして、昨年のサプライズだったトランプ米大統領の発言をめぐってこんな議論を拝見しました。

 たとえば、2017年3月30日のニューヨークタイムス誌に掲載されたニコラス・クリストフ(Nicholas Kristof)の記事では、人文学を軽視するドナルド・トランプが大統領になってしまったアメリカの状況をふまえた上で、歴史上で文学や哲学などの人文学がどのような利益を社会に与えていったか、ということを論じている。

 この記事でクリストフが論じていることの一つは、文学を読む習慣が普及したことは人々を道徳的にさせた、ということだ。例えば、アメリカで奴隷解放運動を支持する人を増やしてやがては運動を成功させた要因の一つは、ハリエット・ビーチャー・ストウの小説『アンクル・トムの小屋』が広く読まれたことであった。最近の心理学実験においても、フィクション作品を読むことが人々の他者に対する共感を強くさせる、ということが示されている。

(略)

 例として、奴隷制にまず最初に反対したのは哲学者であることをゴールドスティンは挙げている。物事について考える学問である哲学は、私たちの間で常識となっていたり標準となっている慣習や規範についても考え直すのであり、「現在では奴隷(や女性や外国人や同性愛者など)を虐待したり迫害したり差別したりすることは当たり前となっているが、よくよく考えると、それは誤りかもしれない」という考えを生み出すきっかけとなり、それがやがては社会の慣習や規範を実際に変えてしまうのだ。

「人文学は何の役に立つのか?(2017年03月31日)」(道徳的動物日記)


個人的にこうした理路で文学とか哲学が「役に立つ」という議論には大変賛同するところですが、一歩引いて、トランプ米大統領が批判しているのはそういうことではなく、給与所得者として、あるいは経営者として必要なスキルを会社が教え込まなければならないような状況では、その人材育成にかかるコストや、そもそも人材育成の失敗(誤り)によるスキル不足によって経営が危うくなるという事態が生じる可能性があり、それに対する懸念を極めて過激に(不適切に)表現したものではないかと推察します。

というところで、前回のエントリの最後の部分につながるのですが、

さて、このような懸念を示されている人材育成機能といえばアカデミズムの世界がその本務を担っているはずですが、この状況下であっても「学校は就職予備校ではない」とかいう念仏を唱え続けるのか、あるいは上記のような懸念を示す方々(引用したゲンダイクオリティの記事ではほとんどが経営者層ですが)が就職予備校ではないアカデミズムの世界からの新卒を人材育成するためにどのようにその「手腕」を発揮されるのか、はたまたメンバーシップ型におけるメンバーとしての青天井の出世のための努力を正規労働者全体に求め続けるのか、各方面の対応に注目したいと思います。もちろん、労働者(その予備軍としての学生)にとってもどのような能力開発や働き方が望ましいのかを考える貴重な機会ですし、その際に職場の労労対立を包摂しながら議論を集約していく労働組合の役割は重要性を増していくものと思います。

「どのような能力開発や働き方が望ましいのか(2017年04月24日 (月)) 」

「就職予備校ではない」高等教育(アカデミズムの世界)を無償化する際、それを裏付ける理路はどのようなものになるのか、大変興味深くヲチしていきたいと思いますし、それは、その無償化された教育を受けた新卒者を受け入れる使用者側が引き続き青天井の正社員として採用し続けることが適当かという判断にも左右されることになります。さらに、そうした教育をアカデミズムに委ねるのか使用者側に委ねるのか、はたまたトレードユニオンとして労働組合が担うのかを労働者の主体的な判断として労働組合が練り上げていく努力も必要となるでしょう。日本国憲法の第26条、27条、28条はこうしてつながっているのですね。
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