2017年05月31日 (水) | Edit |
いろいろと書いておこうと思うネタがあるものの手がつけられず、気が付けば5月も終わってしまいますので、hamachan先生のこちらのエントリが最近考えていたことに関連していましたので反応しておきたいと思います。

・・・こうした日本的雇用慣行の存在は、日本の労働市場でルーティンタスクが他国よりも多く残されている理由の一つになっていると考えられる。というのも、技術革新によって正規雇用者のルーティンタスクが代替されうる状況にあったとしても、ルーティンタスクに従事する正規雇用者を解雇すると、解雇費用が生じるとともに、それまでに人的投資した費用が埋没化するため、企業にとって新しい技術で正規雇用者を代替することは必ずしも合理的ではないからである。

前章で述べたように、IT資本との代替可能性は、タスクの遂行能力だけでなく、新しい技術の価格が労働者の賃金を下回るかによって決まる。ただし、日本的雇用慣行によって既に企業特殊的人的投資を受けた労働者のタスクを新しい技術で代替する場合には、解雇費用や人的投資の埋没費用といった雇用の調整費用(あるいはスイッチングコスト)が生じるため、新しい技術の価格低下はもっと必要になる。このために日本ではルーティンタスクのITによる代替が必ずしも本格的に起こらなかったと考えることができよう。つまり、日本的雇用慣行のある企業では長期的な人材育成を行っているため、IT技術革新の影響が雇用には生じにくかった可能性が指摘できる。

さらに、日本的雇用慣行の下では正規雇用者がジェネラリストとして働くことが多く、一人の正規雇用者が多様なルーティンタスクとノンルーティンタスクを様々な組み合わせで遂行していると考えられる。日本の正規雇用者の仕事は、欧米と違って明確なジョブディスクリプション(職務記述書)が雇用契約で示されていないことが一般的であり、正規雇用者は様々なタスクを柔軟にこなすことが求められる。濱口(2013)などではこうした仕事の進め方を「メンバーシップ型」と整理し、遂行するタスクが予め決められている欧米の「ジョブ型」と
区別している。

ジョブ型の雇用システムの下では、タスクと労働者の対応が明確なため、技術革新によってルーティンタスクがITで代替できるようになると、そのルーティンタスクを担当している労働者を解雇してITを導入することが容易にできる。これに対して、日本の正規雇用のようなメンバーシップ型の雇用システムの下では、タスクと正規雇用者の紐付けが曖昧なため、雇用者をITにそのまま置き換えることが難しい。つまり、タスクと労働者との対応が複雑になっていることも、日本的雇用慣行のある企業でIT技術の代替が進みにくかった要因になっていた可能性がある。



情報技術革新と雇用の問題は今まで何回も議論がブームになったことがありますが、とりわけ1980年代のME(マイクロエレクトロニクス)が話題になった頃の議論の主流は、日本型雇用慣行はジョブを明確にしないがゆえに、それゆえにこそ、欧米と違って労働者が技術革新に抵抗せず、すいすいとロボットも導入できるんだ、日本型最強!というようなものでした。

日本型雇用システムの中身についての説明はその時と全く何も変わっていないのに、技術革新への適合性のプラスマイナスの符合が、符合の向きだけが、きれいに正反対になってしまっている点が、30年前頃の「日本型雇用こそ技術革新に適合的な未来型雇用だ」という議論も覚えている年齢の人間からすると、何とも言えず感慨深いものがあります。

「メンバーシップ型とルーティンタスク(2017年5月29日 (月))」(hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳))


hamachan先生が指摘されているように、ある分野で収益が見込まれなくなっても隣接分野や応用分野で新規事業を立ち上げ、そこに最先端の技術を投入できるような既存の人材を「人事異動」によってシフトしていくというのが日本型雇用慣行の強みであったわけでして、それを可能にしていたのが、メンバーシップ型の日本型雇用慣行における職能資格給制度でした。その職能資格給制度においては、職務遂行能力の向上を根拠として個々の労働者が昇進し、その過程において使用者側は将来の幹部候補を選出するという労使双方にとって都合のいいキャリアパスが肝といえます。

ところが、バブル崩壊後に経営の見通しが不透明となったため、固定費を削減するために日本型雇用慣行からの転換を図っていこうとする流れが強まった結果、その機能が低下しているのではないかというのが拙ブログではここ半年ほど繰り返し述べているところでして、山本勲氏の指摘は正直なところ腑に落ちません。まあ、山本勲氏の指摘の趣旨には賛同する点もありますし、IT資本とルーティンタスクの代替という文脈とは多少ずれるかとは思いますが、特に地方自治体では、間接部門のルーティンタスクをシステム化したり外部委託している経緯がありまして、それに伴って急激に正規労働者を減らしてきた実態があるので、いまいち私にはピンとこないのでしょう。

少なくとも自治体の現場における間接部門のシステム化や外部委託は、日本型雇用慣行において、特に新卒採用者がOJTをする格好の機会であるルーティンタスクを奪ってしまう結果となっています。このため、正規労働者がこなさなければならない試行錯誤が高度化して不確実性が高まり、その試行錯誤の結果が業務の効率化や質の向上に必ずしもつながっていないのが現状ではないかと考えております。

まあそれはそれとして、入職した時点でそれなりのスキルを持った労働者が仕事をすれば、当然のようにはじめから仕事は効率的に進むでしょうけれども、日本型雇用慣行はそうした効率性ではなく、仕事を知らない新卒学生上がりが試行錯誤する中で経験を積むことに重きを置いているわけです。つまり、非効率な試行錯誤のために労働時間を費やし、その試行錯誤の経験が職務遂行能力として評価されて職能給が上がっていくというのが日本型雇用慣行である以上、試行錯誤する時間を有することこそが正規労働者としての資格を意味します。

そしてその試行錯誤の結果、運良く効率的な業務の進め方が構築されたならそれはそれでラッキーですが、場合によっては試行錯誤の結果が極めて非効率的なやり方になる可能性もあります。そしてその非効率なやり方が一度定着してしまうと、そこには制度の慣性の力が働いてしまい、次の担当者はそのやり方を改めるために新たな試行錯誤を繰り返し、さらに次の担当者がその試行錯誤を再現しつつそのやり方を身につけていく…という無限ループをこなして初めて、正規労働者として認められていくことになります。時間がいくらあっても足りないわけです。

「職務遂行能力の習得に必要な追加的労働時間(追記あり)(2017年04月16日 (日))」


いやむしろ、人材育成のためには効率化を極めるよりも試行錯誤の余地をあえて残しておく必要があるというべきかもしれません。つまり、時間をかけて試行錯誤することによって職務遂行能力を身につけるという前提に立って、時間がかかるがゆえに経験年数をもって職務遂行能力とし、その職務遂行能力を資格として労働者個々人の賃金水準を決定する職能資格給制度が日本型雇用慣行の基礎となっているわけです。しかし、そうやって育成してきた労働者が職能資格を上げて昇進しても、実はそもそも管理職たり得なくなっているというのが現状の大きな問題点だろうと考えます。

本書は就活に焦点を当てているのであまり触れられていませんが、このような採用方法の違いは、就職後に会社で人材育成するか、就職までに(公的に)職業訓練を行うかという職業能力開発の在り方と密接に対応しているため、単に会社が横並びだとか怠慢だとか批判するだけでは的外れになるだけです。という職業能力開発の観点から見ると、日本型雇用慣行は広く「正規労働者という網」をかけて、その中から幹部候補生を育て上げていくという管理者養成機能こそが特徴とも言えそうです。

ところが、以前は課ごとに分かれた大部屋の中で、課長から課長補佐、係長、主任などの序列の中に新卒を受け入れ、徐々に管理者としての能力開発と選別を行っていた日本型雇用慣行が、「年功序列で責任の所在が曖昧でスピードに欠ける」との批判にさらされてフラット化しました。その結果、即戦力としていきなり見よう見まねで仕事をこなさざるを得なくなったのが、ちょうど我々のような団塊ジュニア世代ではないかと思います。私自身も痛感するところなのですが、既にアラフォーからアラフィフが見えている団塊ジュニアの世代は、小池和男先生がおっしゃるところの「長期化するトーナメント方式」でつい最近まで部下もいないような平社員として現場に出ていて、残り10数年という段階でいきなり管理職としての役割を求められるようになっています。

もちろん、それまでに管理能力を身につけられる職員もいますが、あまりに現場が長くなってしまうとそのやり方が身についてしまって、自分なら簡単にできる仕事を十分にできない部下に対して高圧的に接してしまってパワハラしてしまう管理職や、目先の目標にばかりとらわれて長期的な次世代の育成まで配慮できない管理職も多くいます。人事担当部署もこれまで強力な人員削減圧力にさらされてきたので、退職者不補充と新卒採用抑制の手法のノウハウはありますが、その少なくなった職員体制でどのように業務を効率化するかという手法は未だに取得できていないのが実態ではないかと。

「日本型雇用における管理者養成機能の衰退(2016年12月13日 (火))」


でまあ、半径5km程度の話になりますが、上記のとおりフラット化を進めた組織で特に管理職となる人材が育成できず、その結果として相応しくない管理職が乱造されているという実態に直面したお偉方の皆さんは、「現場を管理できる職員がいなくなる」という危機感を抱いているようでして、あちらこちらから「業務をシステム化するよりも、職員自らが手を動かして業務を覚えるようにしよう」という声が上がりはじめています。つまり、業務のシステム化による効率化を進めるのではなく、その業務を管理できる人材育成のほうに重点が置かれた結果、従来のような時間をかけて試行錯誤することによって職務遂行能力を身につけるという前提がさらに強化されてしまうという皮肉な状況が生まれつつあるわけです。

ただし、これはまた一方では、システム化や外部委託によって業務を切り分けていった結果、切り分けられないコアな部分だけを正規労働者が担うこととなり、システム化や外部委託された業務がブラックボックス化しているという現状に対する危機感でもあって、それはそれで理解できなくもありません。

特に外部委託によってその業務内容を管理できる正規労働者が不在になるという現象は多くの自治体が抱える問題だろうと思いますが、それはとりもなおさず専門的・労務的業務においては、その人材育成システムが日本型雇用慣行にマッチしないという理由で外部に委託されたことの結末というべきでしょう。特に専門知識や特殊技術を要する業務では、特定の業務(その多くはルーティンタスクです)だけに従事するため管理職相当の年齢でも最前線で仕事をする場合が多く、昇進させて管理業務に従事させる余裕がないのが実態です。このため、そうした業務に従事する労働者は昇進がないゆえに職能資格制度になじまず、したがって日本型雇用慣行に当てはまらず、したがって日本型雇用慣行における正規労働者を従事させることは不適切であるという理由で、外部委託が推進されてきたわけです。

ここで混同しないように注意しないといけないのですが、本来的に「昇進」とは別の業務に従事することであって(そもそもすべての職への「昇進」は採用とイコールです)、現在と同一業務に従事しながら昇進するということはありません。スキルが上がって生産性に応じて待遇がよくなるのは「昇給」であって、同一業務に従事する、つまり同じ職にとどまる場合は「昇進」に該当しないからです。日本型雇用慣行における職能資格給制度は職と結びついているため、平社員が上位の職能資格に該当すると認められると係長などの管理職に従事することができるようにになります。直接的にはこうして係長などの管理職に従事することが「昇進」ですが、それは同時にその職に対応した職能資格を有することを意味し、その職能資格は職能資格給制度により賃金水準に紐付けされています。ところが専門的・技術的業務では、上記のとおり、
 管理職に従事させる余裕がないため、管理職のポストを置かない
→長年従事してスキルが上がるため職能資格が上がって昇給してしまう
→職能資格給制度により管理職でもないのに賃金水準が高くなる
→他の管理職から管理もしていないのに同じ給料は不公平だとの不満が出る
(公務員の場合はさらに→住民から暇な○○業のくせに高給なのは税金泥棒だ!とクレームが来る)
という経路で、日本型雇用慣行から切り離されるべきという流れが大勢となり、上記のような現状に至るわけです。

となると、その業務を管理できる正規労働者がいなくなることは当然の帰結なのですが、往年の日本型雇用慣行で育ったお偉いさん方がそれに危機感を抱き、再び業務内容を日本型雇用慣行に合わせて手作業に落とし込もうとしているというのが最近の流れといえるかもしれません。

というこれまでの流れを振り返ってみると、長期にわたる人材育成のシステムを内包していた日本型雇用慣行の万能さと堅牢さを改めて思い知るわけですが、それはまたhamachan先生の言葉を借りれば「見返りのある滅私奉公」によって長時間労働や無限定の転勤を要求する雇用形態でもあったわけです。日本型雇用慣行の正規労働者を維持することを目的として、専門的・技術的業務やそれに従事する労働者を外部化したものの、それらの業務から切り離されてコアな業務に専念できるはずの正規労働者にとっては、ルーティンタスクに従事して試行錯誤する機会を奪われただけという面もあります。結局、管理職としてのスキルに結びつくか不明な試行錯誤が増えてしまい、まともな管理職が育成されないというジレンマに陥り、再び専門的・技術的業務のルーティンタスクに正規労働者が従事するという堂々巡りが生じつつあるのではないかと感じています。

そしてその堂々巡りの背景には、「白紙の石板」たる新規学卒者を採用して正規労働者は時間をかけて試行錯誤することによって職務遂行能力を身につけるべきという日本型雇用慣行の前提から抜け出すことができない現状があるのだろうと思います。現在進行している「働き方改革」もこの陥穽から逃れることはできていないように見受けます。長時間労働を是正するというお題目のもとで物理的な時間ばかりが制限されると、試行錯誤する時間が制限されるため、そこからはみ出した業務が本来仕事とは関係ないはずの労働者個人の私生活を侵食していくことを懸念する声があがる一方、時間制限なく試行錯誤を経験しなければスキルが身につかないという懸念を持つ声もあるのが実態ですね。IT資産がこの現状を打破するきっかけとなるのかは現状ではよくわかりませんが、何かそういう大きなショックがなければ変わりそうもないというのが実際のところなのかもしれません。
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2017年05月03日 (水) | Edit |
このテーマを引っ張るつもりはなかったのですが、憲法の日に関連していつもの議論が繰り返されているようですのでメモ。

安倍首相 憲法改正し2020年施行目指す意向を表明(NHK NEWS WEB 5月3日 15時02分)

さらに安倍総理大臣は「70年前、現行憲法の下で制度化された、小中学校9年間の義務教育制度、普通教育の無償化は、戦後の発展の大きな原動力となった。70年の時を経て、高等教育についても全ての国民に真に開かれたものとしなければならない」と述べ、高等教育の無償化なども改正項目として例示しました。「教育無償化」は義務教育以外にも授業料を取らない範囲を広げていこうという考え方で、日本維新の会が去年発表した憲法改正原案に盛り込んでいます。


経済学方面からは「所得再分配の拡充」というと「可処分所得を増やせ」の一点張りで増税など愚の骨頂と徹底して批判されるところですが、「教育の無償化」はれっきとした所得再分配政策でありながら可処分所得は直接的には増えるわけではありませんね。つまり、教育という財・サービスの需要側が、現行の憲法に定める教育を受けさせる義務を果たすため、自らの支払能力に制約されることなく必要に応じて需要できるように政府がその費用を拠出するのが「教育の無償化」の目的であって、それによって需要側の可処分所得が増えたとしてもそれは間接的効果にすぎません。なんとなれば、可処分所得の増加は教育を受ける子弟のいる家庭に限られるわけでして、ある一時期を捉えれば「教育の無償化」は子弟のいない家庭から子弟のいる家庭への所得再分配であり、高齢者層から若年層や中高年齢者層への所得再分配となります。つまり、人口一定の前提でそれが貨幣的現象であるならば「教育の無償化」は景気には中立となるはずです。

となると、「教育の無償化」という所得再分配政策には経済学方面から強烈な批判があるかと思いきや、「教育の無償化」を財政政策の拡充ととらえて「だから我々は財政政策の効果を否定していないし、むしろ緊縮財政を批判してきたのだ」と賛同する意見が多いようにも見受けます(特に喧嘩を売るつもりはないので引用はしませんが)。おそらく経済学的な観点からいえば、「教育の無償化」で個人の能力を公平に高められ、それがスピルオーバーして経済成長につながるという「正の外部性」の効果と、教育従事者の雇用や所得が増加することによる総需要増加の効果が評価されているのかもしれません。いやまあ、後者については消費増税による増収によって医療介護の分野ではすでに雇用増加の効果が現れているのですが、「失業率の低下や有効求人倍率の上昇は医療介護の分野で年寄りと女が低賃金で働いているだけで、「オレの」景気がよくなったわけじゃない」と一斉に叩かれ、さらに、その効果が現れない要因となっている低賃金構造については「最低賃金1500円とか騒ぐ暇があれば働け」と言われるわけで、再分配政策に関する議論というのはいろいろと厄介ですね。

ということで、「教育の無償化」の効果を、前者の個々人の能力向上による正の外部性に絞って考えてみようと思うのですが、そうはいっても、これもまたいろいろと厄介な問題でして、昨年のサプライズだったトランプ米大統領の発言をめぐってこんな議論を拝見しました。

 たとえば、2017年3月30日のニューヨークタイムス誌に掲載されたニコラス・クリストフ(Nicholas Kristof)の記事では、人文学を軽視するドナルド・トランプが大統領になってしまったアメリカの状況をふまえた上で、歴史上で文学や哲学などの人文学がどのような利益を社会に与えていったか、ということを論じている。

 この記事でクリストフが論じていることの一つは、文学を読む習慣が普及したことは人々を道徳的にさせた、ということだ。例えば、アメリカで奴隷解放運動を支持する人を増やしてやがては運動を成功させた要因の一つは、ハリエット・ビーチャー・ストウの小説『アンクル・トムの小屋』が広く読まれたことであった。最近の心理学実験においても、フィクション作品を読むことが人々の他者に対する共感を強くさせる、ということが示されている。

(略)

 例として、奴隷制にまず最初に反対したのは哲学者であることをゴールドスティンは挙げている。物事について考える学問である哲学は、私たちの間で常識となっていたり標準となっている慣習や規範についても考え直すのであり、「現在では奴隷(や女性や外国人や同性愛者など)を虐待したり迫害したり差別したりすることは当たり前となっているが、よくよく考えると、それは誤りかもしれない」という考えを生み出すきっかけとなり、それがやがては社会の慣習や規範を実際に変えてしまうのだ。

「人文学は何の役に立つのか?(2017年03月31日)」(道徳的動物日記)


個人的にこうした理路で文学とか哲学が「役に立つ」という議論には大変賛同するところですが、一歩引いて、トランプ米大統領が批判しているのはそういうことではなく、給与所得者として、あるいは経営者として必要なスキルを会社が教え込まなければならないような状況では、その人材育成にかかるコストや、そもそも人材育成の失敗(誤り)によるスキル不足によって経営が危うくなるという事態が生じる可能性があり、それに対する懸念を極めて過激に(不適切に)表現したものではないかと推察します。

というところで、前回のエントリの最後の部分につながるのですが、

さて、このような懸念を示されている人材育成機能といえばアカデミズムの世界がその本務を担っているはずですが、この状況下であっても「学校は就職予備校ではない」とかいう念仏を唱え続けるのか、あるいは上記のような懸念を示す方々(引用したゲンダイクオリティの記事ではほとんどが経営者層ですが)が就職予備校ではないアカデミズムの世界からの新卒を人材育成するためにどのようにその「手腕」を発揮されるのか、はたまたメンバーシップ型におけるメンバーとしての青天井の出世のための努力を正規労働者全体に求め続けるのか、各方面の対応に注目したいと思います。もちろん、労働者(その予備軍としての学生)にとってもどのような能力開発や働き方が望ましいのかを考える貴重な機会ですし、その際に職場の労労対立を包摂しながら議論を集約していく労働組合の役割は重要性を増していくものと思います。

「どのような能力開発や働き方が望ましいのか(2017年04月24日 (月)) 」

「就職予備校ではない」高等教育(アカデミズムの世界)を無償化する際、それを裏付ける理路はどのようなものになるのか、大変興味深くヲチしていきたいと思いますし、それは、その無償化された教育を受けた新卒者を受け入れる使用者側が引き続き青天井の正社員として採用し続けることが適当かという判断にも左右されることになります。さらに、そうした教育をアカデミズムに委ねるのか使用者側に委ねるのか、はたまたトレードユニオンとして労働組合が担うのかを労働者の主体的な判断として労働組合が練り上げていく努力も必要となるでしょう。日本国憲法の第26条、27条、28条はこうしてつながっているのですね。