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2016年12月31日 (土) | Edit |
ケインズの「一般理論」はその晦渋な書きぶりでいろいろな読み方をされているところでして、ケインズの名を冠した学派はオールド・ケインジアンや新古典派統合を経たニュー・ケインジアンから、マルクス経済学と接近したポスト・ケインジアン等々諸説が乱立していますが、その中にはケインズのつまみ食いで「ケインズ」を名乗る場合も多いように思います。クルーグマンは特にその場その場で議論を使い分けるので「つまみ食い」の印象が強いのですが、望月夜さんのコメントで教えていただいた講演録はまさにその典型のようです。

この講演でやりたいことを簡潔に言えば,まずケインズの読み方について――というか,ぼくが好むケインズの読み方について――お話することです.
(略)
『一般理論』でカギとなるメッセージとすべくケインズが意図していたことは,いったいなんでしょうか? ぼくの答えはこうです――「そいつは伝記作家や思想史家の仕事ですな」.べつに,「どうでもいい」とまでは言いませんが,なによりも重要なことではないでしょう.古いネタにこんなのがあります.美術館の来訪者が,ジョージ・ワシントンの肖像画をじっくり鑑賞して,守衛に「ほんとにこんな外見だったの?」と尋ねます.守衛が答えて,「いまの外見はそこにあるとおりだよ」.ケインズについても,ぼくの感覚はこれとだいたい同じです.大事なのはケインズからなにを引き出すかであって,彼が「ほんとうに」言わんとしたことではありません
(略)
ともかく自分の見解を言えば,ぼくは基本的に第1巻さんです.そこに第13章と第14章の中身もかなり加えます.その話はこのあとすぐしましょう.第12章はすばらしい読み物ですし,「市場は賢明で合理的だ」と仮定してかかる経済学者にありがちな傾向を調べるのにすごくべんりではあります.でも,ぼくがいつも経済学に求めているのは「直観ポンプ」です――つまり,言葉あそびや偏見にはまらず経済状況を考える方法,いくらか深い洞察をもたらしてくれそうな方法を求めているんです.

「クルーグマン「ケインズ氏と現代人」(2013年12月5日)Paul Krugman, “Mr Keynes and the moderns,” VoxEU, June 21, 2011.」(経済学101)
※ 以下、強調は引用者による。

長いので引用は省きましたが、引用部より前の部分で「まさしくケインズが75年前に格闘していたのと同じ問題がかかわっています」といいながら、そのケインズが言わんとしたことはどうでもよくて自分の好きな読み方を披瀝するというのは、場合によっては歴史修正主義との誹りを免れないでしょうけれども、天下のノーベル記念スウェーデン銀行賞受賞者にはそうした批判はされないんですね。

でまあ、ケインズの理解についてはケインズの言わんとしたことをきちんと理解した上で、その洞察に学ぶことが重要ではないかと考えているところでして、

 新ケインズ派のモデルは今回の危機であらわれた事実にかなりよく一致しているように思える。たとえば、銀行が融資を行った相手には、返済がまったくできない借り手が入っていたといった事実である。そのモデルの欠陥は、ローンの借り手や保険の買い手など、誰かが完全な情報をもっていると想定していたことだ。ところが今回の危機では、不確実性という問題があり、導く側も導かれる側も将来を理解できていなかったことが明らかになった。
(略)
ドナルド・ラムズフェルドの忘れがたい言葉を使うなら、「未知の未知」こそが躓きになるのである。誰かひとりが完全な情報をもっていれば、経済全体が危機に陥ることはない。だが、完全な知識をもっているのは神だけであり、神が株式市場で投資を行うことはない。
pp.82-83

なにがケインズを復活させたのか?―ポスト市場原理主義の経済学―
ロバート・スキデルスキー 著/山岡洋一 訳
定価(本体2,000円 +税)
四六判 上製 320 ページ
978-4-532-35402-2
2010年1月発売

信用創造はその過程において「信用」が不可欠となるはずでして、まあ国家というのは栄枯衰勢あるものでして、その信用がどの程度なのかはそう簡単な判断ではないと思うのですが、完全情報とは言わないまでも国家の信用がどの程度かというのは明示的にはわかりにくいものではないかと思うところです。

ケインズの理解でいえば、権丈先生はケインズの思想に至るまでの社会的・歴史的背景を吟味しながら議論されているので、その点を「信用」して参考にさせていただいているところでして、ケインズが投資と消費の関係をどのように考えていたのかについての権丈先生のご指摘を引用させていただきます。

We established in chapter 8 that employment can only increase pari passu investment unless there is a change in the propensity to consume.
(間宮訳「第8章でわれわれは、消費性向に変化がないとしたら、雇用の増加はただ投資の増加にともなってのみ起こりうることを確認した」)

僕は、「これなんだよなぁ。ケインズが線型の消費関数なんか定義するから、消費は所得で決まってしまい、需給ギャップを調整するのは投資しかないという妙な理屈がまかり通るようになってしまったんだよなぁ・・・」
彼「なるほど、そういうわけかぁ・・・」
と、ふたりで、投資の限界効率表なんてのは、あれは期待の話で、消費量が変われば期待としての限界効率表も動くに決まっているじゃないか、などなどと、iPad そっちので、『一般理論』の話で盛り上がる。

Consumption――to repeat the obvious――is the sole end and object of all economic activity.
(間宮訳「消費は、わかり切ったことを繰り返すなら、あらゆる経済活動の唯一の目的であり、目標である」)

この消費こそが、いま不足しているのである。
ところが、世の中の多くのひとは、ケインズが投資の話に論点を集中するために仮定した世界にとらわれてしまい、需給ギャップは投資で埋めると考えるばかりで、他の箇所ではケインズも結構論じている消費性向を高めていく政策には考えが及ばない。だから、需要不足があるんだから投資を増やさなければとばかり考える彼らと、現下の需要不足は主に消費が不足しているからと診る僕の話はかみ合わない――と言うよりも、彼らは間違い続けているように見える。

「勿凝学問 313 足りないのは、投資か消費か? 誤解の源はケインズの言葉だろうな(2010年6月8日 慶應義塾大学 商学部 教授 権丈善一)」


このようなケインズの「消費は、わかり切ったことを繰り返すなら、あらゆる経済活動の唯一の目的であり、目標である」という言葉が目に入らないような方々が世の中に増えてしまった理由を考えてみると、冒頭のクルーグマンの講演録の中にそのヒントがありますね。

ぼくが日々の仕事に使ってる経済学のブランドは――いまでも,これまでに登場してきたアプローチのなかでいちばん理に適ってると考えてるブランドは――その大部分を1948年にポール・サミュエルソンが確立したものです.1948年とは,サミュエルソンが古典的な教科書の第1版を出版した年です.このアプローチは,ミクロ経済学の立派な伝統とケインジアン・マクロ経済学を結合させています.ミクロ経済学は見えざる手のはたらきで一般に望ましい結果がもたらされる仕組みを強調します.他方,ケインジアン・マクロ経済学は,ケインズが言う「マグネトの故障」を経済がときとしてどのように発展させてしまうのかを強調します.この経済の「マグネトの故障」には政策の介入が必要となります.このサミュエルソンの総合では,おおよその完全雇用を確かなものとするのに政府をあてにしなくてはなりません.それが当然のこととなってはじめて,自由市場のおなじみの美徳は威力を発揮するのです.

これは実に理に適ったアプローチです――ただ,知的に不安定なアプローチでもあります.というのも,これには,経済に関する考え方になんらかの戦略的な不一致が必要となるからです.ミクロをやっているときには,合理的個人と急速にごたごたをととのえてしまう市場を仮定します.他方で,マクロをやっているときには,摩擦やアドホックな行動上の仮定は必要不可欠です.

それで? 有用な手引きを得ようとする際に首尾一貫しないことがあるのは,なんの悪徳でもありません.車を運転するときなら道路地図があれば事足りますが,ハイキングのときには等高線が入ったやつが必要でしょう.

「クルーグマン「ケインズ氏と現代人」(2013年12月5日)Paul Krugman, “Mr Keynes and the moderns,” VoxEU, June 21, 2011.」(経済学101)


クルーグマンはサミュエルソンの「新古典派総合」がもっとも理に適っているというわけですが、当のサミュエルソンはどうだったかというと、

さて,ここまでケインズの論を引用するサムエルソンは,さぞかしケインズの考えをしっかりと継承し,ケインズに心酔しているのかと思われるところであるが,どうもそうではないようなのである。サムエルソンのケインズ理解,ゆえに,サムエルソンの教科書『経済学』を通じて世界中に広まったケインズ理解は,間違った理解であったと攻撃する者は,ケインズから直接教えを受けた者たちをはじめ,現在に至るまで数多くいる。その一人ポール・デヴィッドソンは次のように言う。

1936年に『一般理論』を読んだ後でさえ,サムエルソンは,その分析が「好みに合わず」理解できないものであることに気づいたと述べていることである。サムエルソンはコランダーとランドレスとのインタビューの中で「最後にわたくしが納得したやり方は,ただそのことについて 〔ケインズの分析を理解することについて〕くよくよ悩まないことでした。わたくしが 自分に問いかけたのは,なぜ 自分は1933年から1937年までの上向きのルーズヴェルト景気を理解するのを可能にしてくれる理論枠組みを拒否するのか,でした。……わたくしは,ワルラスに代わるケインズの分析を有効なものにするのに十分な程度の相対価格・賃金の硬直性があると想定することに満足しました」 と言っている。言い換えれば,サムエルソンは,自分がケインズの分析を理解していなかったことを認めている。それどころか,かれは,ケインズが賃金と物価の硬直性が失業の原因であるような,伝統的な古典派の一般均衡モデルを提示していると思い込んでいたのである。
Paul Davidson(2009)/小 山庄三・渡辺良夫訳 (2011)『 ケインズ・ソリュー ション』183頁


ここで,サムエルソンの経済学で学んだ多くの人たちは,なぜ,ポール・デヴィッドソンは,サムエルソンを「ケインズが賃金と物価の硬直性が失業の原因であるような,伝統的な古典派の一般均衡モデルを提示していると思い込んでいたのである」と批判しているのかと思うかもしれない。
その理由は,ケインズは,貨幣を保蔵 (hoarding)したいという欲求がある社会,すなわち流動性選好理論が成り立つ貨幣経済 (monetary economy)を 前提に置けば,伸縮的賃金であっても硬直的賃金であっても失業は起こりうると考えていたからである。このことは,ケインズの次の言葉が端的に示している。

喩えて言えば,失業が深刻になるのは人々が月を欲するからである。欲求の対象 (貨幣)が生産しえぬものであり,その需要が容易には尽きせぬものであるとき,人々が雇用の口をみつけるのは不可能である。
Keynes(1936)/間 宮陽介訳 (2008)『 一般理論』上巻331頁

これは,将来,すなわち歴史的な時間の流れの中での「不確実性」に備えて価値保蔵手段としての貨幣に対する選好,他にも諸々の理由により貨幣を保蔵したい という欲求すなわち「金銭欲」が尽きず「物欲」に優る場合には失業が起こると言っているのである。ケインズの論の中では,失業発生の原因として硬直的賃金という条件は重要ではない。
権丈善一「社会保障—— サムエルソンと係わる経済学の系譜序説の経済学系統図と彼のケインズ理解をめぐって——」(三田商学研究 第55巻 第5号 2012年12月)


ということで、ケインズの理論は「好みに合わない」として、その提示する理論を勝手に読み替えていたわけです。サミュエルソンの『経済学』の教科書で学んだ経済学徒(クルーグマンもその一人のようですが)には、そのようなサミュエルソンの理解だけではなく、勝手に読み替えるという作法まで伝わってしまったということでしょうか。

さて、ここまでが私が望月夜さんと議論を共有できないと考える一つ目の理由です。長々と引用しましたが、消費性向を高める政策が必要とされるときに、直接的に消費を増やす政府支出の財源として、安定的に税収を確保すべきと個人的に考えています。これに対して、望月夜さん(が信奉するMMTやそれに類似する学派?)は、消費とトレードオフの関係にある貯蓄を増やすために投資としての国債を増発するべきと指摘されていらっしゃると見受けます。マクロではそういえる面もあることは否定しませんが、具体的に誰の貯蓄が増えて誰の消費が増えるのか、その調整はどのように実施するのかが不明であるためお伺いしたものの回答はなく、その過程で政府支出によって賄われる利払いを含めると迂遠で高コストな財政支出ではないかという私の指摘にも特に回答はないため、議論を共有することが難しいと判断するに至ったという次第です。

これに加えて二つ目の理由は、実はクルーグマンの講演録でちらっと言及されていることですが、「有用な手引きを得ようとする際に首尾一貫しないことがあるのは,なんの悪徳でもありません」ということです。一見すると、サミュエルソンのように勝手に読み替えることとの違いはないように思いますが、そうはいっても現実の手続きやら実務やらというのは、一貫した理論的背景があるわけではなく、その都度プレイヤー同士の交渉や力関係で決まるものでして、その当事者同士の利害関係などがわからない部外者にとっては理不尽だったり整合性がないように見えたりするのが実態であってみれば、整合性のない理論を組み合わせて現実の実務を理解することも必要になります。

まあ、順番からいえば、先人達が歴史的経緯の中で築き上げてきた交渉や取り決めが制度化され、その制度化された世の中を主に行動の面から、時に数理的な手法を用いて分析するのが経済学という学問であることからすると、経済学が制度分析に理論を提供することはあっても、理論に基づいた制度設計が功を奏するのは、その理論がそれまでに築き上げてきた交渉や取り決めに匹敵するだけの利害調整機能を持っていることが必要条件となるはずです。つまり、いかにこれまでの制度が理不尽で整合性のないものであっても、その裏に営々と積み上げられてきた交渉や取り決めを取っ払うような制度改正は関係当事者の合意を取り付けることはできず、逆に制度として不都合であっても、当事者が合意している限りは制度として機能することになります。

このような取り決めによって形成されたものとして典型的なのは日本型雇用慣行でして、確かに職務無限定で単身赴任を伴う転勤が強要できて年功的な職能資格給を核とする働き方は、長時間労働を抑制することができず少子化の一因にもなっているものの、長期的に雇用を安定させつつ学校教育では習得できない職業上のスキルを身につけるための人事異動を可能にするのもまた、日本型雇用慣行なわけです。これを例えば欧米型のジョブ型雇用に一気に転換せよといっても、実際に就職している労働者の大半は就職してから年金保険料を支払いながら年金を受給するまでに40年程度の職業人生を確保しなければならないわけで、現在の就職先でそれを確保するのが合理的である以上それを前提として職業人生が設計されているのが現実です。その実態を前にすれば、結局漸進的に少しずつ働き方を変えながら労働者側と使用者側の利害関係を調整しなければなりません。

私も現在の雇用慣行には大きな問題があって持続可能的ではないと考えていますが、それを変えていくのは労働者の人生を流れる時間との根気強い付き合いの中でしか可能ではないというのが現実でしょう。同じく政府支出や税制を含む財政政策や金融政策も今のやり方に問題があるからといって、その裏に積み上げられてきた交渉や取り決めをひっくるめて制度そのものを潰してしまうやり方は、禍根を残すばかりで機能はしない可能性が高いと考えます。まあそれでもやるというならそれも一つの政治的考えではあります。結局また権丈先生の言葉を引用してしまうのですが、

「政策は、所詮、力が作るのであって正しさが作るのではない。」
http://www.keio-up.co.jp/kup/sp/kenjoh/


経済学における「正しさ」とは、各学派がそれぞれ「正しい」と信奉する何かであるに過ぎず、現実の世界では利害関係の当事者の交渉や取り決めで少しずつ築き上げた制度があるのみです。経済学の各学派がそれぞれ経済学的な「正しさ」を競い合うのは、まあそれぞれの思考実験として邁進されることは素晴らしいことかとは思いますが、拙ブログでは今後とも制度をどのように(内容のみではなくその過程を含めて)変えるべきなのか考えていきたいと思います。

(2017.1.8追記)
年を越えて引っ張るのもなんですが、このエントリのきっかけとなったお二人のコメント(http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-711.html#comment)を拝見していると、公共政策についての議論の難しさを改めて認識いたします。公共政策は繊細な議論ですので危険ではありますが、あえて模式化してみると、再分配や雇用・労働の制度に関する問題をAとして、Aの制度にまつわる問題をどのように解決すべきかという議論をしているのが拙ブログのスタンスでして、そのための財源の制度に関する問題をBとすると、本エントリで書いたような制度の裏付け(交渉と取り決めによるフロー支出はフロー財源で賄うという原則)を踏まえつつ、Bについては増税の必要性があると考えています(その理由は本エントリや上記エントリの参照先をご笑覧ください)。

というところで、Bについて異論をお持ちの方から、Cという考え方があるとか不正確とかいろいろなコメントをいただきまして、ではそのCの考え方なり私の記述の不正確さを正すなりによって、Aの問題についてどのような制度的解決が構想されるかについてお考えをお伺いしたところ、「急に「公共政策はどうあるべきか」という全く別の議論を持ってきて」とか「私は広い視野など持ち合わせておりません」という回答しかいただけないのが現実ですね。

私はBの議論に特化してその是非を論じているわけではありませんので、Aの問題が解決なり改善するのであれば、Bに関して増税にこだわるものではありません。そもそも増税が景気後退させることまで否定していませんし(中里先生がおっしゃるナローパスが重要だと考えています)、増税と現物給付との差引においていかに安定的に社会全体の消費を確保するかという経路が制度によって担保されることが重要と考えています。つまり、現状において制度による裏付けが弱いAとBの紐付けをいかに強化するかという点が私の関心なのですが、世の中にはBさえ何とかなればAは自動的に改善するとお考えの方がいらっしゃって、もしかするとそっちの方が多数派だというのが実態なのでしょう。

現実の制度においては、「その他の要件が変わらないのであれば、政府支出の対GDP比は現状のままであるはずでして、教育の無償化だの待機児童の解消だの医療行為に対する診療報酬の引き上げによる医療体制の拡充だのという再分配政策の支出構造は変わらない」わけでして、そのために制度の裏側にある利害関係の当事者による交渉や取り決めを踏まえつつ、どのように政府の支出構造という制度を変えていくかを考える必要があります。その際に決定的に重要になるのは、生産物はストックできないということであって、「「共同体の構成メンバーは連帯して共通の規範を守るべきであり、メンバーの中に苦境に立たされる者がいれば協力して支えなければならない」というsocialな考え方を理解できるか、「効率的な現金給付」で事足りるとする経済学的な議論の問題点を理解できるかというのが、労働政策に裏付けされた現物給付による社会保障や再分配を議論する上で、問われている」のですが、こういう議論が共有される世の中というのはこれまでも、そしてこれからしばらくも期待できそうにありません。himaginaryさんがおっしゃるように「「労働政策や所得再配分政策に関する論争が前面に出てくる」状況を目撃することは贅沢なこと」なんですねえ。
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2016年12月13日 (火) | Edit |
海老原さんの新著が出ましたので早速拝読し、ちょうどそのタイミングで『HRmics vol.25』をご恵投いただきました。毎度のことながら場末のブログにご配慮いただきありがとうございます。その新著ですが、前回エントリで取り上げた「日本死ね」という例の言葉をもじったタイトルでして、実は本エントリの振りでもありました(本書の発行日は11月20日ですのでノミネート前にはタイトルが決まっていたと思われますが)。実は以前、海老原さんは「就活に関する本はもう書かない」と書いていらっしゃったので、就活にまつわる新著を出されるというのは何か心境の変化があったのだろうかと思って読み進めると、最後の部分にその理由が書かれていました。

 諸外国というとまずはアメリカだが、この国には21年前に初取材をして以来、都合6回、いずれも1回当たり10社以上に赴くという形で、長期取材を敢行している。合計すれば、100社に迫る企業訪問になるだろう。だから、そこそこ「働く」を見てきた。
 それが、3年前くらいの自分だ。そして、そのころ「働く」について、こんなことを考えていた。
「アメリカの『働く』は、出入り自由な分、生存競争も激しい。なかなか厳しいな。それよりは日本の方が楽でいいか。でも、欧州はきっと、両者にないもっと幸せな『働く』があるのだろう……」
 当時はまだ、欧州を取材していない。だから「横」を知らずに夢を描いていたのだ。
 そうして3年前から急繕いで欧州でのヒアリングを重ねていく。フランスとドイツの中間層を中心に30人程度取材をした。その度ごとに、ノックアウトされそうになってしまった。
「フランスに生まれなければよかった」
「私たちは籠の鳥だ」
「いや、箱の中のネズミだよ」
「おでこにラベルも貼られているしさ」
「残業しない理由? 感嘆だよ。外食する金がないから。夕飯は嫌でも家で食べないと」
「こんなホテル、入っただけで緊張して、足が震える(シェラトンでの取材時に)
 伝え聞いていたワークライフ充実社会は、こんなものだったのかとショックを受けた。
pp.253-254
文春新書
お祈りメール来た、日本死ね
「日本型新卒一括採用」を考える
海老原嗣生
定価:本体820円+税
発売日:2016年11月18日
ジャンル:ノンフィクション



この部分の後に、中間層の不平不満が極右政党への支持やイギリスのEU離脱につながる状況にも類似構造があり、「続きは次著にて」という予告もありますので、そちらも気になるところですが、海老原さんのような雇用を専門とする方にとっても、欧州で「働く」ということの実態は、実際に現地で話を聞くまでは具体的にイメージすることはできなかったとのこと。3年前というと、『HRmics』のvol.17の特集「近くで見た欧米企業」vol.20の特集「学校で仕事を教え、資格で能力を表せるか」で取材された内容が本書でまとめられたという位置づけになりそうですが、本書はより網羅的に日本の新卒一括採用と欧州の職業教育制度から連なる就職事情が比較されています。

欧州でも新卒(未経験者)の採用はあるのですが、その実態はというと、

職務別×未経験の欧州事例 ①超エリートの青田買い

 それでは、欧州には、未経験者の一括受け入れという仕組みはないのか。
 欧米企業でも、トレーニー採用とエントリーレベル採用という2つの入口を設けて未経験者を受け入れてはいる。この2つについて、説明していくことにしよう。
 トレーニー採用とは、希少人材に対する青田買いシステムと考えると分かりいやすい。この手法を取り入れるのは超大手企業がメインとなり、対象の学生には、エンジニア、財務や金融職などのスペシャリスト、MBA(経営学修士)取得などの経営管理層があげられる。
(略)
この採用では、はっきり決められたポストをあてがわれるのではなく、1〜2年程度、訓練生として社内のいろいろなポジションで仕事をすることになる。そうして、仕事を覚え、また、自分の人柄や能力を周囲に知ってもらう。この期間中に空きポストが出れば、自ら応募する。そこで任用されると正式な「入社」となる。
(略)

職務別×未経験の欧州事例 ②不人気・低待遇求人

 もう1つの未経験者受け入れであるエントリーレベル採用は、まったく様相が異なる。
 こちらは、組織の最末端の比較的簡単な職務ポジションの空きを埋めるための採用だ。欧米でも、人員の流出が多い企業や成長著しい企業、不人気職務などでは、組織末端に欠員が大量に発生することになるので、こうしたポジションを常時公募し続けることになる。
 ここには新卒だけでなく、社会人も応募可能だが、給与待遇レベル、職務内容などからそれほど熟達者は応募しない。結果、新卒や既卒未就業者の採用割合が高くなる。そう、大量に未経験者を受け入れ、既卒者もOK、なおかつ「職務別」と、これこそ日本型就職のよき部分をのこしたまま、欧米の「あるべき姿」をドッキングさせた理想の入職スタイルといえそうだ。
(略)
 要は、「欠員が埋まらない」不人気企業・不人気職務は洋の東西を問わずこの方式で常時未経験者を受け入れるだけの話だ。とすると、これが日本の就活全体の「あるべき姿」には直結しないだろう。

海老原『同』pp.114-117


ということで、欧米にも(日本のコース別採用というより)正規と非正規の組合せに近い採用区分の違いがあり、そのうち正規労働者は1〜2年という長期のトレーニー採用で「職務無限定」に働いて、空きポストがあればやっと正規に「入社」できるという日本型就活どころではない超難関の就職事情となるようです。そして一方のエントリーレベル採用は、どちらかというと日本の非正規と同じように新卒・既卒の区分なく常時募集があり、いわゆる「欧米では雇用が流動化している」という場合はこちらが想定されているように思いますが、その待遇は「不人気企業・不人気職務」に相応しいものとなります。そのような普通の労働者からは、冒頭で引用しているように海老原さんもショックを受けるような本音が聞かれることになるのでしょう。

本書は就活に焦点を当てているのであまり触れられていませんが、このような採用方法の違いは、就職後に会社で人材育成するか、就職までに(公的に)職業訓練を行うかという職業能力開発の在り方と密接に対応しているため、単に会社が横並びだとか怠慢だとか批判するだけでは的外れになるだけです。という職業能力開発の観点から見ると、日本型雇用慣行は広く「正規労働者という網」をかけて、その中から幹部候補生を育て上げていくという管理者養成機能こそが特徴とも言えそうです。

ところが、以前は課ごとに分かれた大部屋の中で、課長から課長補佐、係長、主任などの序列の中に新卒を受け入れ、徐々に管理者としての能力開発と選別を行っていた日本型雇用慣行が、「年功序列で責任の所在が曖昧でスピードに欠ける」との批判にさらされてフラット化しました。その結果、即戦力としていきなり見よう見まねで仕事をこなさざるを得なくなったのが、ちょうど我々のような団塊ジュニア世代ではないかと思います。私自身も痛感するところなのですが、既にアラフォーからアラフィフが見えている団塊ジュニアの世代は、小池和男先生がおっしゃるところの「長期化するトーナメント方式」でつい最近まで部下もいないような平社員として現場に出ていて、残り10数年という段階でいきなり管理職としての役割を求められるようになっています。

もちろん、それまでに管理能力を身につけられる職員もいますが、あまりに現場が長くなってしまうとそのやり方が身についてしまって、自分なら簡単にできる仕事を十分にできない部下に対して高圧的に接してしまってパワハラしてしまう管理職や、目先の目標にばかりとらわれて長期的な次世代の育成まで配慮できない管理職も多くいます。人事担当部署もこれまで強力な人員削減圧力にさらされてきたので、退職者不補充と新卒採用抑制の手法のノウハウはありますが、その少なくなった職員体制でどのように業務を効率化するかという手法は未だに取得できていないのが実態ではないかと。

管理職を養成できないような日本型雇用慣行はそのメリットを大きく損なっているのですが、退職者不補充と新卒採用抑制に明け暮れてやっとそれに気が付いた現状にあって、現場も人事担当部署も現有の管理職で乗り切るしかなく、結果としてさらに管理職養成が進まないという悪循環にある自治体(民間企業も?)は多いのではないかと思います(そんな状況ではありますが、本書では埼玉県や広島県安芸高田市で役所が中心になって進めている地域人材育成の取組も紹介されていて、同業者として自分の力不足を痛感するところではあります。いやまあ、私なりに拙ブログに書いていることは仕事で実践しているつもりなのですが、なかなか目に見える形にならないのがお恥ずかしい限りです)。

実は、今回ご恵投いただいた『HRmics』のvol.25は「残業は、常識では減らせない。」という特集で、厚切りジェイソン氏、勝間和代氏からホリエモンとカルビーの松本社長との対談まで、豪華な人選でいろいろと議論されているのですが、管理職養成はあまり意識されていないように感じました。長時間労働を評価する管理職がいて、それで評価された部下が管理職になった時にも長時間労働を評価するという悪循環を断ち切る方策こそが、当面の現場で求められているのではないかと思うところですが、それはあくまで内部昇進で管理職を養成するという日本型雇用慣行を温存することを前提としたものであって、日本型雇用慣行のデメリットは解決しないことになります。どこから手をつけるかというのはなんとも難題ですねえ。。

2016年12月12日 (月) | Edit |
これは釣られておかなければなりますまい。

「保育園落ちた日本死ね」という言葉が、今年のユーキャン新語・流行語大賞トップ10入りした。大賞の授賞式には、民進党の山尾志桜里議員が出てきて、この「保育園落ちた日本死ね」の受賞者としてスピーチしたという。ネットを中心にして、この「保育園落ちた日本死ね」、特に「日本死ね」の表現をめぐって受賞の賛否両論が湧き上がった。「日本死ね」はヘイトスピーチであると批判する人や、他方でそれは「日本の内部」への批判だから無問題だとする人など多様だ。筆者の私見では、この「日本死ね」という表現自体に賛成しかねる。この手の過剰な表現で注目を集め、世間を扇動するのは最悪の政治的手法だと思っている

「日本に「死亡フラグ」を立てるのは民進党さん、あなたたちですよ」( 田中秀臣の超経済学 2016/12/05 11:54)


いやまあ、個々の説明ではそれなりに説得性があるものの、全体で見ると整合性がこれっぽっちもなくなるというのが一部のリフレ派(またはりふれは)と呼ばれる方々に共通して見られる特徴ではあるのですが、こうした言行不一致なご様子を拝見する度にりふれはの皆様はご健在なのだなあと感心することしきりですね。

ここ最近のエントリでは、消費税率引き上げを巡る議論を取り上げる機会が多かったのですが、その一つの理由は、経済政策を巡る議論から人格やその個人の属する組織への攻撃という卑劣な行為に発展するかどうかを注視する必要があると考えるからです。そしてやはり、危惧していた事態に発展したようです。

正直なところ、そのブログへリンクするのも腹立たしいので、恐縮ですがjura03さんのエントリを引用させていただきます。

消費税上げをすすめる財務事務次官の写真を加工して、「指名手配書」をまわしているわけです、要するに。

いま、田中先生の Twitter を見るとこんなことを書いている。
https://twitter.com/hidetomitanaka/status/381448341621456897

繰り返すが、いまの日本で最も有効なのは木下康司財務省事務次官を批判すること。それが最も効果的。個人攻撃どんどんいこう! http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20130920#p1 … 「論」とかの批判もRTしまくるぞw

https://twitter.com/hidetomitanaka/status/381449130976899074

さて木下康司個人攻撃もバリバリやって、消費税増税がどんだけいまの不況下の日本に悪いかもいつもどおりにバリバリにやるぞw


なんで財務事務次官をネット経由で「個人攻撃」したら消費税上げが避けられるのか、ちゃんと説明してほしいんですが、多分そんな理屈はないでしょう。

扇動のための不当表示としての「リフレ派」 part128 「狂気の集団」と化したリフレ派とこれに支持を与えてきた人たち(2013-09-22)」(今日の雑談


田中氏の言動によってネット上の言論活動が封じられたという事例が発生したのは、たったの3年前です。その当時、dojinさんの「本件について田中氏の言動に問題があると感じているブログやツイッターをやっている方々は、田中氏やbewaad氏の政策的立場への賛否に係らず、はっきりとその旨を表明することが、第二のbewaad氏を生まない最善の道だろう」という呼びかけに意を決して、遺憾の意を表しましたが、今回もそれに匹敵する暴挙だと考えます。改めて、田中氏の言動には遺憾の意を表します。
(略)
ちょっとググればすぐにわかることでも自分の都合の悪いことは見ないことにして、同じデータから自分に都合のいい結論を導き出すような議論があることは仕方がないでしょうし、まあ広いネットの世界にはそういうダメな議論もあるだろうぐらいであればまだいいかもしれません。しかしこの方は自ら「リフレ派」を名乗って自説に反対する方には容赦のない罵詈雑言を浴びせかけ、さらに個人攻撃を先導する方でもあるわけで、悪質と言わざるを得ません。百歩譲って、そんな方がいるのも玉石混淆のネット社会だろうと割り切ることもできるかも知れませんが、であればこそ、その悪質な言論にこれまで賛同してきた、あるいは田中氏の説そのものに賛同するわけではないとしても、「リフレ派」であることを理由に「リフレーション政策以外は何を言ってもよい」と傍観してきた方には、その作為と不作為に対する批判を正面から受け止めていただきたいものです。

遺憾(2013年09月24日 (火))


こんなのもありましたね。

利害関係者の発言に対する忌避感と公務員に対する敵意では、拙ブログにコメントいただいている方に勝るとも劣らない勢いtweetの数々に圧倒されます。

拙ブログでは、そうした所属する組織や職業、さらに人格を標的とした批判は慎んでいるつもりでして、3年ほど前にも「求めるべきは政策至上主義」などというエントリの中で、「その主張の個々の論点については是々非々で判断するべきであって、人格やその行為などで判断するのはフェアではない」と書いているところですので、こうした批判をしてしまわないよう改めて自戒しなければと思う次第です。

そうした思いを持つ者としては、6年前の「とある方」のこの言葉には激しく同意いたします。


さらに再三念のためにいうが、ある学説の主張とその主張者の人格や帰属先とを関連づけるような批判は批判ですらないのはここで何度も強調しておきたい。

■[経済] フランク・ナイトは本当にミルトン・フリードマンを破門したのか?(2006-11-22)」(Economics Lovers Live Z


実をいえば、拙ブログでも「ナイトのフリードマン・スティグラー破門事件」は何度か取り上げていたところですので、これからは慎重に取り扱うことにしたいと思います。

なお、「上記の二つの引用のコメント主は同じじゃないか」というツッコミは、「人格と帰属先とを関連づけるような批判」ではないのでアリだと思います。

批判ですらない批判(2012年08月28日 (火))


「知的」で「誠実」であろうとすれば「りふれは」ではありえないというのは今に始まったことではないので今更取り上げるのも飽き飽きするところですが、10年以上にわたって整合性の欠如のブレなさっぷりを拝見できるのはもはや伝統芸と敬意を表さざるを得ませんね!!!!!(棒)

なるほど、これになぞらえて言えば、

「知的」な「りふれは」は存在しうるが「誠実」ではあり得ない。

「誠実」な「りふれは」は存在しうるが「知的」ではあり得ない。

「知的」で「誠実」な者は存在しうるが「りふれは」ではあり得ない。

ということでしょうか。

「知的」で「誠実」な「りふれは」(hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳) 2011年3月 6日 (日))



(追記)
hamachan先生に過去を思い出させてしまい恐縮です。
「知的」で「誠実」な「りふれは」再掲(2016年12月13日 (火))
本エントリは「エンターテインメント」カテに入れて面白がる程度にしたいと思っていたところですが、私もあまり思い出したくない思いもあるものの、りふれはの極めつけがありますので追記しておきたいと思います。

そして、この状況下でそのコールドリーディングの材料として巻き込まれる思いは、この方々には想像がつくのでしょうか。想像がつかないからこういうことを堂々と書いてしまうのでしょうが。。。

だからこそ私たちは「このままでは震災恐慌がくるぞ!」と、声を大にして訴えます。そのことで、結局恐慌が起こらなかったとしても、私たちはそれが誤った警告だとは思いません。なぜなら、私たちが警告を発しなければ、本当にまた日本は、大きな人災である、経済2次、3次被害を受けることになりかねないからです。

多くのマスコミがこの問題を一切報じない中、不幸にも、政府・日銀自体もこの危機に気づいていないかのような反応で、ほぼ平時と変わらない凡庸な政策を選択しつつあります。だとしたら私たちは、自分の身は自分で守らなければいけません。政府と日銀に、声を大にして正しい復興策を要求し続けなければいけません。

■日本に明るい未来が訪れることを願って 
震災でお亡くなりになられた方々に思いを馳せながら、「震災恐慌がくる!」――。
そう叫びながらも、日本に恐慌がこないことを、そのために、正しい経済復興策がとられることを、そして、日本中が負った震災による心の傷が癒えることを心から願って。
私たちは先人の知恵を借りながら、「震災恐慌がくる!」――そう、声を大にして叫びます。

                                            上武大学ビジネス情報学部 田中秀臣
                                    デフレ脱却国民会議事務局長・経済評論家 上念司

                         ――『震災恐慌! 経済無策で恐慌が来る!』(宝島社)「まえがき」より
このあと日本経済に何が起きるのか?誰も語らない、震災恐慌の怖さ 田中秀臣、上念司(2011/5/19 23:1)」(SYNODOS JOURNAL


誰のための復興?(2011年05月22日 (日))



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