2016年10月17日 (月) | Edit |
長谷川豊氏の暴言については、すでにいろいろなところで指摘され尽くしていますし、本人も仕事を失うなどしてそれなりに社会的制裁を受けているようですが、かといって、この行為を長谷川氏の個人的な資質に限定する論調には疑問を感じるところです。

というのも、社会保障費が増大する中での財政的な措置については散々批判的だった方々までもが、長谷川氏の煽動的な物言いに反応して「弱者切り捨てだ」とか「財源問題に還元する緊縮主義者め」などと吹き上がっているのを拝見すると、「どの口でそれを言うか」といいたくもなるわけです。

以前から気になっていたことですが、拙ブログでも「経済学的に正しい」ことの無意味さを指摘してきたところではあるものの、最近になってこの言葉をしたり顔でおっしゃる方々にも、「経済学的に正しい」ことへ盲信されている方が散見されますね。ネオリベ、リベサヨを批判するその口で、「経済学的に正しい」ことを根拠として「消費税率引き上げを支持するなんて売国奴の財務省マインドめ!」という批判を飽きもせずに繰り返していますし、拙ブログでも、消費増税引き上げが「経済学的に正しくない」として実施できないために、それを財源とする再分配政策が貧弱なままであることを指摘すると、「再分配だけに財源問題を求める緊縮脳のデフレ派め」と罵倒されるところです。いやまあ「経済学的に正しい」という言葉を使うかどうかは別として、「経済学的に正しい」かどうかで二分するような議論を拝見していると、権丈先生のこの言葉の重みを改めて感じます。

そして口にするのも憚られることなのであるが、かつて世界を東西の真っ二つに分けて、今につづく人類同士のいがみ合いの思想的基盤を与えたのも、やはり経済学だったのである。

勿凝学問20 ノーベル経済学賞と学問としての経済学、そしてノーベルが思いを込めた平和賞(2004年10月26日脱稿)(Kenjoh Seminar Home Page)


話を長谷川氏の暴言に戻せば、社会保障関連の財政的な措置のための消費税率引き上げが「経済学的に正しくない」というのならば、財政的な措置をしなくてすむように医療費を削減するための「経済学的に正しい」処方箋は、治療に高額の医療費を要するような疾病に罹患した患者には治療しないことですので、消費税率引き上げに反対する方が長谷川氏の暴言を批判するのは筋が通らなさそうです。もしかすると医療費を削減するのではなく、国債の日銀引受で無税国家で社会保障拡充で「経済学的に正しい」ということかもしれませんが、まあ結局「経済学的に正しい」ことが正義であることには変わりないということなのでしょう。

長谷川氏の件は別としても、


なるほど、政府の緊縮志向を国民が理解しているから人々は政府支出に恒久性を信じないという理屈のようですが、政府支出の動向を逐一チェックして政府支出の恒久性を検証しながら自分の行動を決定するような「代表的個人」なる御仁は、この世の中にどれだけいるのでしょうかね。もちろん、代表的個人なんて経済学の理論を構築するうえでの仮定でしかないのですが、まさか「経済学の理論の通りにならない現実の方がおかしい」とまでは言わないにしても、「経済学的に正しい」ことに疑念を挟まない方々は、「経済学の理論の通りにやれば解決できる問題を、利権に絡め取られた政治家と既得権益に固執する財務省を筆頭とする官僚が間違った政策ばかりやるからうまくいかない」とおっしゃる傾向があるように見受けます。

まあ、「利権に絡め取られた政治家」とか「既得権益に固執する財務省を筆頭とする官僚」という「仮定」が正しいかどうかは疑問なしとしませんが、もしそれが「現実」だと考えるのであれば、その「現実」を「仮定」した理論を構築する方がよっぽど「現実的な」理論になるでしょうし、そもそもその「仮定」を所与のものとすることの妥当性にも考慮が必要でしょう。

そして、ここもクルーグマンは慎重に筆を運んでいますが、一般的な経済理論では賃金格差を是正することは需要と供給を歪ませて失敗するとしながらも、実際にはそうではなかったと強調しているわけです。

これは大変重要な指摘でして、一般的な経済理論に合わせるのではなく、その経済理論の前提となる制度や慣行を変えることによって望ましい結果をもたらすことの方が、一般的な経済理論に振り回される政策談義よりはるかに社会的に有意義だろうと思うところでして、「要は、失業しても死なずにすむ社会にすればいいってことですよ。そう考えるほうが、結果的により多くの命を救えるのではありませんか」というまっつぁんの言葉には改めて深く頷くところですね。

クルーグマンの変節(2014年11月24日 (月))


「消費税率引き上げは経済学的には緊縮財政である」というのも、消費税率引き上げによる税収増を政府支出に充てないことを「仮定」した議論(増収分を政府支出に充てるか公債費の償還に充てるかはファンジビリティの問題により財政上明確に区分することは不可能ですが)でして、その「仮定」について見方を変えてみることも必要ではないかと。


「緊縮財政」という言葉は、それを用いて議論する方によってさまざまな意味を持たされていますが、マクロ経済学的には「財政支出の削減」と「増税」はどちらも「緊縮財政」であるというのが「正しい」のでしょう。では「緊縮ではない財政」とは何かを考えると、「経済学的に正しい」という議論の「仮定」の貧弱さがよくわかります。まあおそらく最大公約数として「対前年度比で政府支出の額が増えること」が「緊縮ではない財政」を指すように思いますが、次のような項目はどのように整理されるのでしょうか。
  • その「政府支出」は名目か。またその支出先の所得効果はどのように評価するか。
  • その「政府支出」には特別会計、特に支払履歴に給付権が貼り付いた社会保険も含むか。
  • その「政府支出」は補正予算を含むか。
  • その「額が増える」場合には対GDP比率の上昇も含むか。
  • その「額が増える」場合には税収が減る場合を含むか。
  • その「額が増える」場合には、税収を超過した「政府支出」を含むか。
といった辺りは、特にどマクロな議論ではあまり意識されていないようですね。

でまあ、上記で並べたうちの最後の点を「政府支出の額が増える」場合に含むとすれば、毎年30兆円を超える国債を発行して政府支出の財源を確保している日本は、他のどの国よりも「緊縮ではない財政」であるということができます。平成28年度の一般会計(当初)でいえば、たったの58兆円程度の税収でもって、73兆円の政府支出だけでなく23兆円を超える公債費を計上して、34兆円を超える新規国債を発行しているわけですから、世界一の大盤振る舞いともいっても良さそうなものです。

いやもちろん、私もOECDの統計で30か国中下から10番目(2014年)の日本が「緊縮ではない財政」というつもりはありませんが、税収に対する政府支出でいえば、他の国に比べてかなり「無理」をしていることは明らかだろうと思います。そして、不況下にあって短期的に「無理」をして財政を支えるというならまだしも、「リフレ派の隠れ蓑も取っ払った増税忌避な方々は「国債の日銀引受でオールオッケー」という誠にシンプルなディシプリンで無税国家への道をひた走って」いる様子を拝見すると、この国の増税忌避の根強さを痛感します。それはおそらく、戦前から連綿と続く(政治家や役人の総体として)の政府不信企業を通じた所得保障裏打ちされていますので、そうした意識を変えることは難しいと思いますが、その「無理」が現在の再分配政策の行き詰まりをもたらし、将来の経済成長の果実を過去の債務償還に食い尽くされることがないことを祈るばかりです。
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