2016年10月30日 (日) | Edit |
数か月前の「「経済学的に正しい」ことへの絶対的信頼感」というエントリで引用したtweet主から新たにtweetがあって、追記しましたのでお知らせします。ついでに、これも以前読んだ本からこのように様々な「経済学的な正しさ」が群雄割拠する現状についてメモしておきます。

 大半のエコノミストの喧伝に反して、経済学には新古典学派の1種類しかないわけではない。本章では少なくとも9つの学派を紹介する。
 これら学派は不倶戴天の敵どうしというわけではない。むしろ互いの境はえてして漠然としている。経済学を概念化し説明する上ではさまざまな方法があること、いずれの学派も優位性を主張したり唯一の真理を自称できないことがわかればいいのだ。


ケンブリッジ式 経済学ユーザーズガイド

ハジュン・チャン著/酒井 泰介訳
ISBN:9784492314609
旧ISBN:4492314601
サイズ:四六判 並製 472頁 C3033
発行日:2015年05月22日


※ 以下、太字下線強調は引用者による。文中の注釈は省略。


いあまあ身も蓋もない指摘ですが、「経済学的な正しさ」というのは「ある考え方に基づいたときの推論」程度に考えるのが吉といえそうです。

で、新古典主義派についてこれも身も蓋もない指摘がされています。

 新古典主義の自由放任主義的結論がさらに強化されたのは、20世紀前半に重要な理論的進歩がみられたことによる。それは社会改善を客観視できるようにする理論だった。ヴィルフレード・パレート(1948~1923年)は、すべての主観的個人を尊重し、他の人を不幸にすることなく一部の人をより幸福にできたときのみが社会改善といえると唱えた。「公益」の名のもとにいかなる個人も犠牲になるべきではないということである。これはパレート基準として知られる考えで、今日の新古典主義経済学における社会改善をめぐるあらゆる判断の基礎となるものである。残念ながら、現実の世の中では、誰かを不幸にしない変更などないに等しい。だからパレート基準現状維持、すなわち自由放任主義にしがみつくうえで格好のレシピとなった。この考えを採用することで、新古典主義学派は強く保守性を帯びた
チャン『同』p.115
※ 太字強調は原文。

 新古典主義派は現状維持に傾きすぎである。個人の選択を分析するうえで、底流となる社会構造——金や権力の配分——を所与のものとして受け入れている。そのためこの学派では、社会を根本から変革せずに行える選択だけを見ている。例えば「リベラル派」のポール・クルーグマンを含む多くの新古典主義エコノミストでさえ、貧酷の低賃金工場の職を否定すべきではない、その代わりはまったく職がないことかもしれないのだから、と主張する。そのとおりだが、それは底流となる社会経済学的構造を疑わないからだ。ひとたびそんな構造自体を変える気になれば、こうした低賃金職の代りはいくらでも考えられる。労働者の権利を強化する労働法、工場への安価な労働力の供給を減らす土地改革、熟練職を創出する産業政策などを導入すれば、労働者にとっての選択肢は低賃金職か失業かではなく、低賃金職か高賃金職かになるのだ。
 新古典主義派では交換と消費に注目するあまり、経済の大きな——そして他の多くの学派によれば最も重要な——部分を占める生産を無視してしまう。この欠点について、制度学派エコノミストのロナルド・コースは、1991年のノーベル経済学賞受賞講演で、新古典主義経済学は「森のはずれで木の実とイチゴを交換する孤独な個人たち」の分析のみに好適な理論と切り捨てている
チャン『同』p.119


私自身も「主流派経済学」と呼ばれる経済学のトレーニングを受けた経験がありますので、拙ブログでもパレート最適を基準とする政策について書いたりしているところでして、「保守」を自認するブログ主としてはなるほどというところです。パレート最適基準に縛られている限り、新古典主義経済学が「底流となる社会構造」を所与のものとして考えるのは避けられないのは、冒頭で追記をお知らせしたエントリでも書いたとおりですね。

これに対して、権丈先生が「かつて世界を東西の真っ二つに分けて、今につづく人類同士のいがみ合いの思想的基盤を与えた」と指摘されるもう一方の経済学であるマルクス経済学については、アダム・スミスらによる古典主義では固定的と考えられていた階級を、マルクス経済学では社会を変革する主体になりうるとした点を重視して、このように指摘されます。

 マルクスはまったくちがう考えを持っていた。彼にとって、労働者らは古典主義者が言うような無力な「烏合の衆」ではなく、社会変化に積極的に取り組むエージェントである。マルクスはそれを「資本主義の墓掘り人夫」と呼び、ますます規模と複雑さを増す工場で組織技術と規律を鍛えられているとした。
 だが、マルクスは、労働者が随意に革命を起こし、資本主義を打倒できるとは考えなかった。機が熟す必要があると考えたのだ。それには資本主義が十分に発達し、制度の技術的要件(生産力)と制度的背景(生産関係)の矛盾がつのらなければならない、と。
チャン『同』p.123

 最後に、しかし決して些事ではないことに、マルクスは資本主義の発展過程において技術革新が持つ重要性を真に理解した最初の主要エコノミストで、それを自らの理論の中心に据えていた。
チャン『同』p.125


引用した1点目については、厨先生の『不平等との闘い』ではむしろ「古典派・マルクス的想定」と「新古典派」が対比されていましたが、階級を固定的なものと見るかどうかでは古典派とマルクス経済学は共通ではあっても、その階級が社会を変革するかどうかについての見立てでは異なっていて、それが階級闘争という考えにつながっていくかどうかの分かれ目となるのでしょう。
文春新書
不平等との闘い
ルソーからピケティまで
稲葉振一郎
定価:本体800円+税
発売日:2016年05月20日
ジャンル:ノンフィクション


そして引用した2点目を発展的に引き継いだのがシュンペーターだったわけでして、現代のカイカク派が好んで使う「創造的破壊」の起源が、技術革新が可能にした階級闘争によって社会の変革を想定したマルクスにあるというのもなかなかに示唆的ですね。

という本書のこの流れからすると、新古典主義主義、マルクス経済学ときてシュンペーターが来るかと思いきや、次に「デベロップメンタリストの伝統」なるものが登場します。これは、17世紀の重商主義に典型的な「理論的ではないが実用的で折衷的な要素」を引き継いだ考え方であり、ハーシュマンに代表される開発経済学へとその系譜が続くものと位置づけられています。

 先に指摘したとおり、統制のとれた総合理論を欠くことがデベロップメンタリスト伝統の弱点である。万事を解析できるかのような理論に引き付けられるのは人情である以上、新古典主義派やマルクス主義派のようなより体系的で自信を漂わせている学派に比べて、デベロップメンタリスト伝統は大きく見くびられがちだ。
 この伝統は、政府の積極的な役割を唱える他の学派に比べて、政府の失敗をめぐる議論により脆弱である。また特に広範な政策群を推奨しがちで、ひいては行政能力を濫用しやすい。
 これらの弱みにもかかわらず、デベロップメンタリスト伝統はもっと注目されてよい。その重要な欠点すなわち折衷主義は、むしろ強みになれる。世界の複雑性を考えれば、より折衷的な理論の方がその説明に有用かもしれない。第3章で述べた自由市場政策と社会主義政策を独自に取り合わせたシンガポールでの成功は、その好例である。それ以上に、歴史上で生み出してきた実績は、これが空論ではないことを示している。
チャン『同』p.130



そのデベロップメンタリスト伝統が弱点とされる政府の失敗論についても、容赦のない指摘が繰り広げられています。

 政府の失敗論は、経済あるいは市場の論理が政治に——そして芸術や学問など暮らしのその他の領域にも——優先すべきとするものだ。昨今ではとても広く受け入れられており、ほとんど当たり前になっている論だ。だがそこには深刻な瑕疵がある。
 第一に——エコノミスト以外にとっては当たり前だが多くのエコノミストにとっては受け入れ難いことに——そもそも市場の論理を暮らしの他の面に優先させるべき理由がない。人はパンのためにのみ生きているわけではないのだ。
 さらにこの議論は、何が市場に属し何が政治の領域に属するかをきっぱりと分つ「科学的」な方法があると暗に仮定して成り立っている。例えば、政府の失敗論者は、最低賃金規則や幼稚産業に対する関税保護などを、神聖冒さざる市場の論理に「政治的」論理を押し付けるものという。だがこれらの政策を正当化する経済理論は現に存在する。それなら彼らの実態は、他の経済理論に「政治的」とレッテルを貼って貶め、自分の主張が正当なのだ、これこそ経済理論だとばかりに言いつのっているにすぎない
チャン『同』p.364


ここで指摘されているような「経済学者」の皆さんの生態は拙ブログでは何度も指摘しておりましたので、繰り返しになりますが次のエントリなどどうぞ。
おっちょこちょい(追記あり)(2016年06月25日 (土))
歴史の読み違え(2012年05月04日 (金))
マクロとミクロの溝(2009年12月10日 (木))

まあ田舎の下っ端地方公務員ごときが経済学者に楯突くなど畏れ多いとご指摘を受けることも多いのですが、本書の「おわりに」でチャン氏は心強い言葉を記しています。

 プロのエコノミスト(筆者自身も確かにその一人だ)にも反駁を試みるべきだ。経済学に限ったことではないが、真実は専門家の専売特許ではない。第一に、たいていの場合、彼ら自身が合意に達せられない。実にしばしば、彼らは視野が非常に狭く、特定の方向に捻じ曲がっている。専門家の常で、エコノミストもフランス語で言う「デフォルマシオン・プロフェッショナル」すなわち専門バカである。プロのエコノミストではなくても、基本的な経済学の知識と政治的、倫理的、そして経済学的な考えを応用して健全な判断を下せることはいくらでもある。時には、こうした人々の判断の方が、現実に根ざし、視野が広いので、プロのエコノミストに優ることさえある。経済のような重大事をプロに任せ切るわけにはいかない。
 あえて一歩踏み込んで言おう。プロのエコノミスト——そしてその他の専門家——に果敢に論争を挑むことは、民主主義の基本であるべきだ。考えてみてほしい。専門家を盲信すればいいのなら、いったい何のための民主主義か? 半可通ばかりの世の中などゴメンだと思うなら、誰もが経済学を学んで専門家に挑まなければならない。
チャン『同』pp.421-422


まあもちろん、最後の点に関しては民主主義の危うさにも十分配慮が必要だろうとは思うところですが、引用部の前半は諸手を挙げて賛同いたしますので、引き続き節度を持ちながら「プロのエコノミスト」におかしな点があれば指摘していきたいと思います。
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2016年10月26日 (水) | Edit |
香山リカ氏がいかにもなtweetをしたそうでして、震災後にこのエントリをアップした当時と何も変わっていないのだなとしみじみ感じ入るなど。

「公務員は絶対的な権力を持ち、絶対に折れない精神力を持ち、絶対に利得を確保する頭脳を持ち、絶対にそれを知られないようにする陰謀を張り巡らしている」というあり得ない虚像を描いて、「相手が絶対に倒れない」という安心感から無秩序な批判を繰り広げるのが我々の社会の「普通」であるならば、その虚像に祭り上げられた生身の人間は心身を病んでしまいます。それもまた我々の社会の「普通」なのかもしれません。

絶対最強の公務員なんているはずがない(追記あり)(2012年8月31日(金))


香山リカ氏のtweetは引用しませんが、タクラミックスさんのこのご指摘には全面的に賛同いたします。


これに対して香山リカ氏から、

あのー仕事全般ではなく「警備にあたる警察官の職務」の意味ということは前後のツイートからわかるはずですよね……。どんな仕事でもストレスはいっさいない、みたいなこと言ったかのようなミスリードはやめていただけますか?
https://twitter.com/rkayama/status/789867291701760000

というtweetがあり、さらにタクラミックスさんが指摘されている点も重要です。

承前)香山先生の見立てが正しいなら、警察官たちにいくら罵声を浴びせても、なんら効果は無いという事になります。では、あの罵声は何の効果を期待して発せられているのでしょう?警察官に何の心理的影響も与えることが出来ないなら意味がないという事になります。寧ろ逆効果かもしれない。
更に(続
https://twitter.com/takuramix/status/789896266348060672

承前)専門家である香山リカ先生のこの見立ては、
「警察官に何の心理的影響も無いなら、いくら罵声を浴びせても誰も傷つけない筈だ」
というお墨付きとなる可能性があり、活動を過激化する口実にされると思われます。
お見立てが間違っていた場合、その罵声は少なからず人を傷つける事になる…(続
https://twitter.com/takuramix/status/789898082703978496

承前)お見立て通りであったとしても、前述したとおり、その警察官に向けられる罵声には効果が無く、寧ろ、そうした罵声を浴びせ続け過激化する人々の姿が世間に印象づけられるばかりとなります。その場合、反対運動にとってはマイナスとなる可能性がある…
どっちにしろ、益は無いように思われます。
https://twitter.com/takuramix/status/789900148537110528

承前)以上、香山リカ先生の論理をトレースするよう努めて考察してみましたが、先生の論理だと、罵声は無駄という結論にしか至らないと思われます。効果が無いという前提により罵声が正当化される…不毛としか言いようがありません。
私は罵声に攻撃効果はあると考えます。それ故に問題視しています。
https://twitter.com/takuramix/status/789904070840422400


このように素直に考えれば矛盾するような理屈が堂々と繰り広げられるのは、最初に「反権力」という目的があるからと思われます。その目的を至上命題と認識してしまうと、「反権力」に沿わないようなものは、それがご自身の専門的見地のものであってもねじ曲げても構わないというほどに、それを信奉する方にとっては「正義」となるわけです。

というところで、最近こちらのtogetterが話題になっていたようですが、
「いじめられる側にも原因がある」に対するはるかぜちゃんの指摘が相変わらず鋭かった件
当事者からの一方的な申立てであることを割り引いたとしても、このtweetなどは「我々の社会の「普通」」の一面を的確に指摘していると思います。


権力関係に全てを還元しなければ気が済まないような「反権力」の方々にすれば、ご自身がその「権力」を思う存分批判する前提として「権力」の側の人間が完璧な絶対最強でなければ困るわけです。でなければ、ご自身が繰り広げる「批判」が、「権力」の側で仕事をしている人間の人格や人権を否定するような「罵詈雑言」でしかないことがバレてしまいますからね。
(補足)
読み返してみるとここで引用したtweetがやや唐突な印象でしたので補足しておきますが、このtweetで指摘されるように「完璧な人間などいないからいくらでもいじめる原因をあげつらいながらいじめることができる」ということと、「相手が完璧だという前提を置くことで、相手の人格や人権を否定してもいじめのような卑劣な行為ではないと言い張る」ということは、一見正反対に見えて表裏の関係にあるのだろうと考えます。いずれの場合も、「いじめ」「反権力」という目的が先にあって、その行為を目的でもって正当化しているわけですから。

まあそういう「権力」の側で仕事に従事する人間の人格や人権を否定することが「反権力」にとっては重要な戦術ですから、その活動にプライオリティを置く方からすれば、「権力」の側の人間が人格や人権を否定されて逆上することこそが必要な反応であって、だからこそそうした罵詈雑言が戦術として意味を持つわけです。結局は罵詈雑言がそれとして機能しているわけですが、そのことを批判されて、「権力」の側の人間は仕事である以上どんな罵詈雑言にも脅迫にも恫喝にも「心理的影響は皆無」であり、それで心が折れるような警察官は異動させれば無問題だとおっしゃる方が精神科医を標榜されてることに、改めてこの社会の現実を突きつけられる思いです。

なお一応念のため、「公務員の暴言」については以前のエントリの再追記に私の考えをまとめておりますので、ご参照いただければ。

結局、公務員であるか否かにかかわらず、「内心の自由」をはじめとした基本的人権は尊重されるべきものであって、どちらか一方が相手の発言を「暴言」といったからといって、具体的な損害やその発言との関連性、発言そのものの妥当性などを吟味しないまま、即座にその「暴言」を処罰できるということではないはずです。もしそれを本気で主張するのであれば、その方は、不特定多数に向けて行われた公務員についての「暴言」を公務員が「暴言」だといいさえすれば、それを即座に処罰することに賛同しなければならなくなります。憲法では当然そんなことは許されていませんし、私自身も許すべきではないと考えております。私が本エントリで「発言の内容の是非はともかく」としてその内容に言及していないのは、こうした水掛け論を避けるためです。

これも追記に書いたことの繰り返しですが、くろ (@kuroseventeen)さんがおっしゃるような「官僚に対する暴言がダメなのと同じように官僚も暴言言っちゃダメ」という理屈では、お互いが攻撃し合うだけになってしまうおそれがあります。結局は、いくらネット上であっても、最低限の品格を保ちながら言葉を使うべきという通常のマナーが必要ということに尽きるのではないでしょうか。「民間だったら公務員に何を言っても許される」という一方で「公務員がこんなこと言ったら処罰しろ」というダブルスタンダードな理屈は、回り回ってお互いの首を絞めるだけになるのではないかと考える次第です。

「暴言」が許されないのは誰?(再々追記あり)(2013年06月15日 (土))



2016年10月17日 (月) | Edit |
長谷川豊氏の暴言については、すでにいろいろなところで指摘され尽くしていますし、本人も仕事を失うなどしてそれなりに社会的制裁を受けているようですが、かといって、この行為を長谷川氏の個人的な資質に限定する論調には疑問を感じるところです。

というのも、社会保障費が増大する中での財政的な措置については散々批判的だった方々までもが、長谷川氏の煽動的な物言いに反応して「弱者切り捨てだ」とか「財源問題に還元する緊縮主義者め」などと吹き上がっているのを拝見すると、「どの口でそれを言うか」といいたくもなるわけです。

以前から気になっていたことですが、拙ブログでも「経済学的に正しい」ことの無意味さを指摘してきたところではあるものの、最近になってこの言葉をしたり顔でおっしゃる方々にも、「経済学的に正しい」ことへ盲信されている方が散見されますね。ネオリベ、リベサヨを批判するその口で、「経済学的に正しい」ことを根拠として「消費税率引き上げを支持するなんて売国奴の財務省マインドめ!」という批判を飽きもせずに繰り返していますし、拙ブログでも、消費増税引き上げが「経済学的に正しくない」として実施できないために、それを財源とする再分配政策が貧弱なままであることを指摘すると、「再分配だけに財源問題を求める緊縮脳のデフレ派め」と罵倒されるところです。いやまあ「経済学的に正しい」という言葉を使うかどうかは別として、「経済学的に正しい」かどうかで二分するような議論を拝見していると、権丈先生のこの言葉の重みを改めて感じます。

そして口にするのも憚られることなのであるが、かつて世界を東西の真っ二つに分けて、今につづく人類同士のいがみ合いの思想的基盤を与えたのも、やはり経済学だったのである。

勿凝学問20 ノーベル経済学賞と学問としての経済学、そしてノーベルが思いを込めた平和賞(2004年10月26日脱稿)(Kenjoh Seminar Home Page)


話を長谷川氏の暴言に戻せば、社会保障関連の財政的な措置のための消費税率引き上げが「経済学的に正しくない」というのならば、財政的な措置をしなくてすむように医療費を削減するための「経済学的に正しい」処方箋は、治療に高額の医療費を要するような疾病に罹患した患者には治療しないことですので、消費税率引き上げに反対する方が長谷川氏の暴言を批判するのは筋が通らなさそうです。もしかすると医療費を削減するのではなく、国債の日銀引受で無税国家で社会保障拡充で「経済学的に正しい」ということかもしれませんが、まあ結局「経済学的に正しい」ことが正義であることには変わりないということなのでしょう。

長谷川氏の件は別としても、


なるほど、政府の緊縮志向を国民が理解しているから人々は政府支出に恒久性を信じないという理屈のようですが、政府支出の動向を逐一チェックして政府支出の恒久性を検証しながら自分の行動を決定するような「代表的個人」なる御仁は、この世の中にどれだけいるのでしょうかね。もちろん、代表的個人なんて経済学の理論を構築するうえでの仮定でしかないのですが、まさか「経済学の理論の通りにならない現実の方がおかしい」とまでは言わないにしても、「経済学的に正しい」ことに疑念を挟まない方々は、「経済学の理論の通りにやれば解決できる問題を、利権に絡め取られた政治家と既得権益に固執する財務省を筆頭とする官僚が間違った政策ばかりやるからうまくいかない」とおっしゃる傾向があるように見受けます。

まあ、「利権に絡め取られた政治家」とか「既得権益に固執する財務省を筆頭とする官僚」という「仮定」が正しいかどうかは疑問なしとしませんが、もしそれが「現実」だと考えるのであれば、その「現実」を「仮定」した理論を構築する方がよっぽど「現実的な」理論になるでしょうし、そもそもその「仮定」を所与のものとすることの妥当性にも考慮が必要でしょう。

そして、ここもクルーグマンは慎重に筆を運んでいますが、一般的な経済理論では賃金格差を是正することは需要と供給を歪ませて失敗するとしながらも、実際にはそうではなかったと強調しているわけです。

これは大変重要な指摘でして、一般的な経済理論に合わせるのではなく、その経済理論の前提となる制度や慣行を変えることによって望ましい結果をもたらすことの方が、一般的な経済理論に振り回される政策談義よりはるかに社会的に有意義だろうと思うところでして、「要は、失業しても死なずにすむ社会にすればいいってことですよ。そう考えるほうが、結果的により多くの命を救えるのではありませんか」というまっつぁんの言葉には改めて深く頷くところですね。

クルーグマンの変節(2014年11月24日 (月))


「消費税率引き上げは経済学的には緊縮財政である」というのも、消費税率引き上げによる税収増を政府支出に充てないことを「仮定」した議論(増収分を政府支出に充てるか公債費の償還に充てるかはファンジビリティの問題により財政上明確に区分することは不可能ですが)でして、その「仮定」について見方を変えてみることも必要ではないかと。


「緊縮財政」という言葉は、それを用いて議論する方によってさまざまな意味を持たされていますが、マクロ経済学的には「財政支出の削減」と「増税」はどちらも「緊縮財政」であるというのが「正しい」のでしょう。では「緊縮ではない財政」とは何かを考えると、「経済学的に正しい」という議論の「仮定」の貧弱さがよくわかります。まあおそらく最大公約数として「対前年度比で政府支出の額が増えること」が「緊縮ではない財政」を指すように思いますが、次のような項目はどのように整理されるのでしょうか。
  • その「政府支出」は名目か。またその支出先の所得効果はどのように評価するか。
  • その「政府支出」には特別会計、特に支払履歴に給付権が貼り付いた社会保険も含むか。
  • その「政府支出」は補正予算を含むか。
  • その「額が増える」場合には対GDP比率の上昇も含むか。
  • その「額が増える」場合には税収が減る場合を含むか。
  • その「額が増える」場合には、税収を超過した「政府支出」を含むか。
といった辺りは、特にどマクロな議論ではあまり意識されていないようですね。

でまあ、上記で並べたうちの最後の点を「政府支出の額が増える」場合に含むとすれば、毎年30兆円を超える国債を発行して政府支出の財源を確保している日本は、他のどの国よりも「緊縮ではない財政」であるということができます。平成28年度の一般会計(当初)でいえば、たったの58兆円程度の税収でもって、73兆円の政府支出だけでなく23兆円を超える公債費を計上して、34兆円を超える新規国債を発行しているわけですから、世界一の大盤振る舞いともいっても良さそうなものです。

いやもちろん、私もOECDの統計で30か国中下から10番目(2014年)の日本が「緊縮ではない財政」というつもりはありませんが、税収に対する政府支出でいえば、他の国に比べてかなり「無理」をしていることは明らかだろうと思います。そして、不況下にあって短期的に「無理」をして財政を支えるというならまだしも、「リフレ派の隠れ蓑も取っ払った増税忌避な方々は「国債の日銀引受でオールオッケー」という誠にシンプルなディシプリンで無税国家への道をひた走って」いる様子を拝見すると、この国の増税忌避の根強さを痛感します。それはおそらく、戦前から連綿と続く(政治家や役人の総体として)の政府不信企業を通じた所得保障裏打ちされていますので、そうした意識を変えることは難しいと思いますが、その「無理」が現在の再分配政策の行き詰まりをもたらし、将来の経済成長の果実を過去の債務償還に食い尽くされることがないことを祈るばかりです。