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2016年03月12日 (土) | Edit |
マスコミでは今年も辛うじて全国放送で特集番組が組まれたりしていて、来年くらいからだいぶ減ることが予想されるところではありますが、その意味もあってか総括的な内容の特集が多いように見受けます。その中で昨年、玄田先生の『危機と雇用』を書評させていただいた『中央公論』の4月号で、「震災から5年 被災地が映し出す日本の歪み」という特集が組まれています。

特集の目次は、

特集 被災地が映し出す日本の歪み
●震災から五年という一つの区切りを迎えて
  人口減少を直視した復興を 増田寛也×御厨 貴
●これだけは言いたい、被災地の現実
  被災地域3県知事、34市町村長アンケート
●一人勝ちの先代、人口激減の沿岸自治体
  被災地が暗示する10年後の日本の姿 島田明夫
●復興に立ちはだかる「原形復旧」の壁 岡野貞彦
●僕らは永遠に応援団であり続けたい
  未来へ歩き始めた福島の子どもたち 小泉進次郎×林 修×南郷市兵

中央公論 2016年4月号(3月10日発売)
(リンク先は最新号の目次ですので、次号発行時に入れ替わります)

となっていて、増田×御厨対談では、しきりに反省の弁を述べる御厨先生とは対照的に増田氏が楽観的なことばかり発言されており、御厨先生に「増田さんの提案は、いつも最終的には悲観していないから、救われます。(笑)」と呆れ賞賛されていまして、なかなか面白い見物になっています。

まあそれはそれとして、特集の二つ目の記事の「被災地域3県知事、34市町村長アンケート」に様々な首長さん方の思いが綴られていて、色々な意味で考えさせられる内容になっています。質問項目は、
  1. 今だからいえる、震災前に備えておけばよかったと思ったことはありますか。
  2. 今後に向けて、国にこれだけはいいたいということはありますか。
  3. 震災前の自治体の課題は何でしたか? この5年間の復興、復旧の中で、その課題はどうなりましたか。
  4. 「日本創生会議」(座長 増田寛也氏)は、日本の人口減少が進む中、「『若者に魅力のある地域拠点都市』を中核とした『新たな集積構造』の構築が目指すべき基本方向」と提言し、「そのためには、『選択と集中』の考えを徹底し、人口急減に即して最も有効な対象に投資と施策を集中することが必要」としています。この提言について被災地からこの国をご覧になっている知事(市町村長)としてどのようにお考えになりますか。
の4点となっていて、知事や市町村長の考え方を引き出ためによく練られたアンケートになっていると思います。といいながら、冒頭の達増拓也岩手県知事の回答が実績をアピールするだけの木で鼻を括ったような回答ですが、岩手県宮古市や山田町、福島県南相馬市は質問項目に関係なく回答していたり、首長さん方の本音がにじんでいる回答になっています。特に自治体関係者の方には1の回答は参考になる(福島県いわき市の個別の事務についての指摘は担当者の苦労が忍ばれます)と思います。

ただし、アンケート自体は42市町村に送ったものの回答は34市町村となっていて、大槌町や南三陸町、相馬市など大きな被害のあった町を含む8市町村では回答できない状況があったことも伺えます。ぜひお手にとってご確認下さい。
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2016年03月12日 (土) | Edit |
日付が変わってしまいましたが、今年も年度末の慌ただしさの中で震災から5年が経過しました。1年前に「政府主催の追悼式典は来年くらいまででしょうか」と書いたところですが、今年はなんとか天皇陛下ご臨席で催行されました。5年が経過して改めて振り返ってみると、これも1年前に書いた通り「所詮は人間のやることである以上、おカネがあってもできることは物理的にも手続き的にも限られる」状況ではありましたが、被災された地域の皆さんが官民問わず地道に復興の取組を進めた結果として、新しい街が実際に動き出す段階にまでようやくこぎ着けたというところだと思います。

各方面からの批判や軋轢を抱えながら、それでも目の前の事態に対応しながら一つひとつ積み重ねてきたものが形になって動き出してきたのは、震災から約4か月後に「一面が流されてしまった被災地に行くたびに「ここがどうなれば『復興』したといえるのだろうか?」と思い悩んで」いた状況を思い起こすと、まさに隔世の感があります。関係各位のご尽力に改めて敬意を表します。

そしてその先にあるのが、良くも悪くも震災前の状態に戻った後で、震災前からある課題にどうやって対応するかという古くて新しい問題です。昨年のエントリで取り上げた書籍で指摘されているように、

都市部と地方の福祉状況の違い

 東日本大震災では、都市部と地方の違いがあり、地方が震災前から抱えている課題が震災により浮き彫りになった面が数多く見られました。
 阪神淡路大震災では、被災した多くの地域が神戸や西宮のように大都市であり、人口が多い地域です。福祉制度においては、障がい者運動の成果に加えてそれぞれに独自の予算で競い合い、他の地域よりも進んだ制度を作り出す傾向がありました。
 一方、今回の被災地域の沿岸部では、年々人口の流出が進み、十分な福祉基盤が整備されていない状況があります
 主な特徴として、東北沿岸部では障害者福祉を担う事業所が大きな社会福祉法人一つというところが多くあります。地域に多様なホームヘルパーやガイドヘルパーなどの利用者、福祉サービス事業所がないことで、さまざまなニーズに対応しにくい面があります
 全体として、知的障害者、精神障害者に関わるサービスのわりには身体障害者へのサービスが不足しているように思いました。

p.120
そのとき、被災障害者は… 取り残された人々の3.11そのとき、被災障害者は… 取り残された人々の3.11
(2015/02/24)
不明

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※ 以下、強調は引用者による。

今何かと話題の保育所も含め、個人の生活を保障する公共サービスの供給体制は地方へ行くほど貧弱になります。それは一面では、農業などの個人事業主が多く、勤め人でも近接した勤務地という利点を活かして家計内の家事労働で生活を保障するサービスを補っているという実態を反映したものではありますが、その負担が家計内の家事労働では賄いきれない状況になってしまうと、その時点で生活保障機能が失われ、それに従事するため離職せざるを得なくなるという状況にあることも意味します。

都市と地方の違いとして、上記のとおり地方では障害者への福祉サービスが貧困なのは、過疎化が進む地域で、通所や訪問が可能な範囲では障害のある方の絶対数が少ないため、規模の経済が働かずにサービス受容者に対するコストが割高になるからといえます。これに対し、都市部では核家族化で家事労働の担い手がいないとか勤務地が離れていて早朝や深夜には家族が不在になるとかで家事労働が供給できない場合、それを外部化しようとしても、そのコストを租税により社会的に負担するのではなく個人に応益負担を求めるため、利用者には割高になり、提供者には十分な収入が確保できず、公的サービスが先細る一方で市場で提供されるサービスが高騰し、待機児童の問題が顕在化することになるといえるでしょう。

こうした負担と給付のバランスというのは往々にして利害が対立するところでして、その利害対立そのものを悪として認識するのが昨今の政治批判の風潮のように思います。前回エントリで取り上げた待鳥先生の『代議制民主主義』ではこう説明されています。

 だが今日、日本を含めた世界各地で代議制民主主義への疑問が突きつけられている。その大きな根拠は、結局のところ、理論的に想定されている委任と責任の連鎖関係が実際には存在していない。あるいは機能していないという認識に求められよう。
 政治家は選挙のときに曖昧で裏付けのない政策を訴えるだけで、それが実現しなかったとしても何の責任もとらないどころか、そもそも実現する気があるのかすら疑わしい。訴えている政策が特定の支持者集団や地域にのみメリットをもたらすもので、巨額の財政赤字を生み出すなど社会全体にとってはマイナスになる場合も少なくない。有権者も、社会全体にとってマイナスの政策や、中長期的には維持不可能な政策を打ち出す政治家に、安易な支持を与えてしまっている。政治家と官僚の間にも、官僚は専門能力を隠れ蓑にして実際には自らが望む政策を立案しているだけ、政治家からの具体的な指示があってもサボタージュしている、あるいは一部の政治家と結託して狭小な自己利益のみを追求している、といった不信が存在している。そして政治家は、官僚のこのような行動を黙認しており、場合によっては自らもお相伴に与っているように見える。
p.242-243


『代議制民主主義「民意」と「政治家」を問い直す』待鳥聡史 著(中公新書)


自民党ガーとか財務省ガーとか声高におっしゃる方によくある論理ですね。まあ「巨額の財政赤字」というのを「増税や社会保険料の引き上げ」と言い換えても十分に通用しそうな点でも汎用性は高そうです。このような「代議制民主主義」への批判の内容を、待鳥先生は次のように説明されます。

 したがって問題は、自由主義的要素と民主主義適用その間にいかなるバランスが成り立つのが望ましいと考え、かつどのようにしてそのバランスを維持するか、というところにある。これが難問であることは改めていうまでもないだろう。今日、代議制民主主義に向けられている批判には、政治家が民意を反映した政策決定を行わないというものが目立つ。だが歴史的に見れば、有権者の多数派の意向を政治家が過剰に代弁してしまっているという「多数者の専制」に批判が向けられることもしばしばであった。また、少数の有権者が持つ既得権益が長期的には必要な政策を妨げているという批判も根強い。政治家が民意から乖離しているという批判は民主主義的要素を強めることを求め、「多数者の専制」や強すぎる既得権への懸念は自由主義的要素を強めるよう期待する
 これらの批判はいずれも、具体的な政策についての反対者の立場とも関連していることが多い。自分が有権者の多数派を構成していると思われる場合には、政治家の裁量や自律性は、不要に感じられる。逆に自分が少数派や弱者であって一部の政治家のみが同じ意見だと信じるとき、社会の多数派や強者の意のままになる政策決定には危惧を抱く。だが、個々の政策決定への反対と、代議制民主主義に対する原理的な再検討は、区別されねばならない。
待鳥『同』p.252-253

先に引用した部分での「巨額の財政赤字」でも「増税」でも通じるほど汎用性の高い批判というのは、自分が多数派だから政治家が一部の既得権益に配慮していると感じるか、自分が少数派だから強者の論理で「数の論理」に押し切られていると感じるのかによって、政策に対する批判が自由に使い分けできるということの証左でもありますね。自分が正しいと信じる政策が少数派(と信じる)なら、自由主義的要素を強調してあえて民意から乖離する必要があると唱え、自分が正しいと信じる政策が多数派(と信じる)なら、民主主義的要素を強調して選挙や世論調査の結果を振りかざせばいいわけですから、オールマイティで批判できるわけです。

でまあ、増税を批判する方々はこれらの批判をさらにミックスさせて、「増税は景気を交代させるから絶対悪だ」といいつつ、一方で「景気を回復させるために公債発行して財政支出すべき」といい、さらに他方で「女性の社会進出はこれまでの統計では不合理だからそれを支援するのはムダ」であって「ポリコレに凝り固まった政府を罵倒せよ」という批判を繰り広げていらっしゃる方も多いようです。拙ブログでは、そうした批判こそが「「経済成長で再分配拡充を」というのと同じように、「国債の中央銀行引き受けで再分配の拡充を」というのは、ワンショットの財源としては有効ですが、それが持続可能でないのであれば生活の向上はおろか社会全体の限界的消費性向の向上も見込めない(従って総需要拡大によるインフレも見込めない)ということになると懸念」しているところでして、その結果が、特に生活保障に関連する分野において、被災した地域では震災前の状態に戻るにつれて公共サービスの貧弱さが顕在化し、都市部では保育や介護などのサービスの不足などの問題が顕在化していると考えるべきではないかと思います。震災から5年が経過し、古くて新しい問題が顕在化している現在、単に「震災後」としてではなく、震災前と地続きとなっている日本全体の生活保障の問題が、政治のメインイシューとなる段階に入っているのではないでしょうか。

2016年03月06日 (日) | Edit |
拙ブログでは政治学は話半分で聞いているため政治学の研究成果には疎いところでして、待鳥先生の『代議制民主主義』は、代議制民主主義を自由主義的要素と民主主義的要素の組合せという枠組みから歴史的経緯や課題など多角的に論じていて、大変勉強になります。特に待鳥先生のご専門となるアメリカの政治制度についての「マディソン的自由主義」は、日本の民主主義を巡る議論では参照しなければならない論点がてんこ盛りです。

 それは、多様な政治勢力の代表者であるエリートが自由な競争を行い、勝ったり負けたりを繰り返しながら、個々の判断には時として誤りや行きすぎがあっても、全体として妥当な政策決定がなされるという「多元主義」の理念をつくり出していった。多元主義に基づく政治の理解、すなわち多元的政治観は、合衆国憲法制定以後のアメリカにおいて、民主主義を抑止する役割を共和主義に代わって担うこととなった。有徳の人物が得られなくとも、政治に関与するエリート間の競争と相互抑制を制度的に確保できれば、民主主義的要素を持つ政府であったとしても、「多数者の専制」に陥らずに政策決定を行うことができるという考え方は、その後の代議制民主主義の基本的な理念となった。

p.33

『代議制民主主義「民意」と「政治家」を問い直す』待鳥聡史 著(中公新書)


※ 以下、強調は引用者による。

念のため解説しておきますと、民主主義的要素は「多数者の専制」を招くものという問題意識があって、それを制御するためには、「多元的政治観」に基づく自由主義的要素を制度的に確保する必要があると、合衆国憲法の父と呼ばれるマディソンは考えていたわけです。

とはいっても、多様な人間の意思を政策として決定する政治制度である以上そのとらえ方自体にも多様な見方があるわけでして、20世紀には共産主義とかファシズムの挑戦を受けることになります。

 代議制民主主義に対するこれらの挑戦は、共産主義とファシズムとしてそれぞれに括られる。その主たる主導者のイデオロギー的位置の違いから、最左派と最右派という二つの極端な立場からの挑戦だと理解されることが多いが、両者には共通点もある。それは、代議制民主主義の持つ自由主義的要素をとりわけ否定したことである。共産主義もファシズムも、それを「プロレタリアート」と呼ぶか「国民(臣民)」と呼ぶかという違いはあっても、自らが社会に存在する存在的な多数派の利益を代弁していること、自由主義を謳歌してきた19世紀以来のエリート、すなわち「彼ら、彼女ら」に対抗する大衆(マス)、すなわち「われわれ」を重視していることを強調した。
 社会における潜在的多数派あるいは大衆の利益が一元的に集約できるのであれば、マディソンがかつて重視した複数の政治勢力間の競争や相互抑制という多元的政治観は必要でなく、むしろ有害であるという考え方に至っても不思議ではない。このように、社会全体の利益を強調し、それが政治的競争ではなく実質的な独裁によって追求できるという考え方を全体主義という

待鳥『同』p.57

全体主義と代議制民主主義が対立するというのはわかりやすいですが、共産主義とファシズムに全体主義という共通点があるというのは、自由主義的要素と民主主義的要素で代議制民主主義を理解する枠組みを通すと、とてもわかりやすいですね。つまり、エリートがけしからんからといって民主主義を重視し過ぎると、上記のマディソン的自由主義が民主主義的要素と結びついたのとは違い、エリートによる「正しい」政策のための自由主義を否定する方向へ進みがちであって、それを突きつめると民意至上主義としての共産主義とかファシズムになってしまうわけです。

しかし一方で、この「正しい」政策への希求というのは経済学方面の方にも常々見え隠れするところでして、「経済学的に正しいのに政府も大半の有権者もそれを理解していないから云々」という議論は、大衆(マス)が「カイカク」などと叫ぶ煽動的政治家を選んでしまう民主主義的要素を批判する一方で、大衆(マス)が理解しないような(教科書的)理論こそが正しいという思い込みによって、(マディソン的な多元的政治観ではない)自由主義によるエリート専制に根拠を与えてしまいます。つまり、教科書的な経済学の理論を振りかざす議論というのは、「自分こそが「正しい」政策を理解している」という煽動的経済学者の跋扈をも許してしまうわけでして、新自由主義とも親和的と言えそうです。

ということで、本書の「自由主義的要素と民主主義的要素の組合せ」という代議制民主主義に関する枠組みは、現在の日本の政策論争を理解するのにも大変有用だと思うのですが、戦後日本の特に1980年代以降の政治状況についての記述にはちょっと引っかかるところがあります。

 しかし、凍結仮説が示されたのとまさに同じ頃から、現実の政党政治は変化を始めていた。資本化・経営者・ホワイトカラー(管理的職業)と労働者・農民が、代議制民主主義の枠内で異なった利害関心に基づいて競争するという構図が、凍結仮説や戦後和解体制の前提であった。ところが、戦後の先進諸国が軒並み高度成長や経済的繁栄を実現し、社会保障制度を拡充させることなどで経済的利害対立が弱まってくると、対立軸の変化が生じた。人々は経済的豊かさではなく精神的あるいは文化的な豊かさを求めるようになったのである。
待鳥『同』p.75

この部分は世界的な傾向を説明した部分ですので、日本の状況に当てはまると待鳥先生が考えているわけではないと思うのですが、こういう説明は政治学方面ではよく見られるところでして、(待鳥先生の議論そのものというより一般的な意味で)かなりミスリードな議論ではないかと思います。他の先進諸国はよくわかりませんが、少なくとも日本では経済的豊かさというのは常に最優先になっていて、だからこそ「可処分所得を死守する」という経済学的に「正しい」議論が現実の再分配を阻み続ける状況があるのではないでしょうか。

1970年代の日本は、外部労働市場でのジョブ型雇用慣行の推進を諦めて、内部労働市場によるメンバーシップ型雇用慣行を制度として確立していく時期で、景気が減速しても生活給を保証する雇用慣行から漏れ落ちないように、雇用保険を財源とした雇用調整助成金で雇用を維持する制度を導入したのが1970年代後半です。つまり、メンバーシップ型雇用による(生活給として機能する)職能資格給が確立し、生活保障は政府ではなく大企業の仕事と位置づけられるようになったわけです。これにより、政治的には産業を保護して企業が生活給を払えるようにすることに力点が置かれ、社会保障や再分配はメインイシューとはならなくなったというのが実際のところだろうと思われます。

その意味では、本書で、

 もちろん、共産党、社会党という左派(革新)政党に対して、直接的な影響はより顕著であった。これらの政党は、いずれも代議制民主主義の枠内で当面活動することにしており、勢力拡大が直ちに政治体制の変革につながるというのは誇張であった。自由主義か共産主義かという体制選択は、1960年代後半には既に現実的な争点ではなかった。だが、左派政党は究極の目標として代議制民主主義の維持を必ずしも明確にしてはおらず、実際にも議会外の政治活動を重視する傾向を持ち続けていた。冷戦の終結は、日本政治における古びた左右対立や保革対立の終わりと、左派政党の衰退につながったといえよう
待鳥『同』pp.80-81

といういかにも政治学的な説明については、昨今の安保法制を巡る国会周辺での騒動などを見るにつけてその通りだろうとは思うのですが、一方で生活面での実態としては、正社員に職能資格給を支払うメンバーシップ型雇用慣行が確立したために、左派が主張すべき社会保障や再分配が政府のメインイシューになり得ないような状況になったことも大きく影響していると思われます。そのことに無自覚な(と書くと「自分こそが「正しい」政策を理解している」という主張と同じ穴の狢になってしまいますが)左派政党が、現在にいたるまで「企業は正社員による生活給の支給を維持すべき」と主張しているのには、歴史の皮肉を感じるところです。

でまあ、こう書くと日本的左派を批判しているように思われるかもしれませんが、経済学的な議論を信奉する方々は、経済成長とか景気動向を重視する企業が職能資格給(生活給)を払えるようにして、その可処分所得を死守することに力点を置くという点においては日本的左派の皆さんと共通しているようです。そういえば、共産党を含む野党連合では消費税率引き上げへの賛否がネックになっているとのことですが、上記のような状況を踏まえると、連合するなら共産党が主張する消費税率引き下げ(廃止)の一択でしょうね。

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