2016年01月30日 (土) | Edit |
拙ブログでは、「その財源によって雇用や生活保障を得る人の話」として財源論を取り上げているところでして、毎度長ったらしいエントリが続いておりますが、一定の方々にはその趣旨を理解していただいていることを大変ありがたく思っております。ところが、そうした方々が拙ブログとは正反対のことを書いていると見受けられるブログを支持されているのを拝見すると、どういう基準で拙ブログのエントリをご理解いただいているのか少々不安になります。

たとえばこちらのブログは一貫して消費増税とそれを主導した(とされる)財務省を「緊縮財政をするような無能な集団だ」とdisっていらっしゃるのですが、一方で一部のリフレ派と呼ばれる方々を批判されているためか、その「りふれは」な方々に批判的な方々に支持されているようです。

 教科書の経済学は、緊縮レジームを崇める司祭でしかない。人は利益を最大化すべく行動するから、収益率に従うはずであり、設備投資にリスクがあるにしても、期待値で決まるとする。しかし、人生は限られ、リスクの時間的分散には制約があるため、実際には、大損を避けようと、期待値がプラスでも、あえて機会利益を捨てる行動を取る。こうした本質への洞察が「人は死せるがゆえに不合理」とする本コラムの核心である。(参照:2013/11/3)
(略)
 再分配によって人的資本への投資を増やし、少子化を解決することは、収益期間を無限にして、大きな経済的メリットをもたらす。すなわち、不合理を正す再分配は、コストを賄えるのである。具体策で示そう。本コラムでは、『雪白の翼』で、年金制度を利用することにより、負担増なしに、0~2歳児に月額8万円という大規模な給付ができることを示した。こうしたマジックが可能なのは、乳幼児への給付で、女性が仕事を辞めなくて済むようになり、出生率が向上して、大きな経済効果が生まれるからである。アトキンソンがどんな国でも再分配の中心となるべきだとする児童手当は、日本では容易に拡張できる。

「21世紀の緊縮レジームを超えて」(経済を良くするって、どうすれば 2016年01月02日)
※ 以下、強調は引用者による。


確かに一見すると、「教科書的な経済学」(主流派経済学と同義のようですが)を批判し、社会保障の拡充によって少子化を解消し、経済成長に結びつけるべきという議論を展開している…ように見受けられるのですが、いかんせん、政府に対する徹底的な不信感がその論説の裏側にべったりと張り付いているため、その問題に対して示される処方箋がことごとく政府批判のためにするものなんですね。

上記エントリで引用されているそれぞれのエントリを拝見してみると、

 まずは、損害保険と宝くじである。どちらも、期待値の観点では、払った分より、見返りが随分と少ない「マイナスの商品」である。そうでなければ、胴元も保険業も成り立たない。従って、現在の経済学が想定するような合理的な人は買わないはずで、短期的にはともかく、長期的には衰退し、不合理が解消されなければおかしいことになる。
(略)
 つまり、人生が永遠の者にとっては、宝くじも損害保険も無意味なのだ。逆に言えば、人生が限られていることが期待値に従わない行動に意味を持たせている。好みの問題ではない。多くの人は、若い時に冒険を好み、老いてからは保守的になるが、これは、好みが変わるのではなく、持ち時間が減るためだ。持ち時間がある場合に限り、リスクを分散させられ、期待値に頼れるようになるのである。

「経済思想が変わるとき 5」(経済を良くするって、どうすれば 2013年11月03日)

ふむふむ、宝くじも損害保険も「払った分より、見返りが随分と少ない「マイナスの商品」」で、そうでなければ成り立たないというのはその通りですね。保険というのはいわゆる互助制度として発展してきたものですので、基本的に保険料は安心料として「掛け捨て」するものであって、その点が貯金と大きく異なるというのは、別に経済学の理論をこねくり回す必要がないというのもご指摘のとおりだと思います。

 必要なのは年金数理だ。若者が働き始め、年収300万円をもらうとすると、年間の年金保険料は48万円ほどになる。6年経って結婚する頃には、若い夫婦の累計額は6×2倍の576万円になる。社会保険というのは、払った分は返ってくるのが大原則である。そこが反対給付と無関係に取られる税とは異なる。つまり、この576万円は、請求権という形ではあるが、貯金のようなものだ

 さて、こんな給付をして、年金財政は大丈夫なのか? むろん、何の問題もない。乳幼児給付を行う分だけ、老後の年金給付は減るので、年金財政上は、差し引きゼロの中立になるからだ。年金制度は十分な積立金を持っているので、当面の資金繰りにも困らない。
(略)
 こうして見ると、むしろ、現状の方が、いかにも、おかしいことが分かる。出産か仕事かを迫られ、お金さえあれば、子供の預け先を確保できるのに、自分たちが「貯めて」きたお金でも自由に使うことができない。年金制度にしてみても、子供を産んで働いてもらう方が財政的にプラスなのに、その手立てを許していないのである。
「日本よ、雪白の翼を再び」(経済を良くするって、どうすれば 2010年11月16日)

うーむ、先ほどのエントリの3年前のエントリでは堂々と「請求権という形ではあるが、貯金のようなもの」とおっしゃっていますね。ついでに、このエントリの当時は「財政収支のアンバランスを是正するために、消費税が必要なことは、改めて言うまでもない。問題は、どうやって、上げるかである」とのことでして、この3年間で保険の理解を深めつつ消費増税を批判するに至った理由はよくわかりませんが、とはいえつい最近のエントリで両者を並べて引用しているということは、基本的な認識に大きな変化はなさそうにも思えるところでして、こちらのブログ主さんにとって保険は貯金なのかそうではないのかは、なかなか理解しにくい状況ではあります。

いやもちろん、こちらのブログ主さんのご主張には賛同できるものもあるのですが、どうにも制度の理解というか現状認識が偏っているように見受けられる点が散見されるため、まっとうなご主張も眉唾ものに思われるのです。

 世の中は現金なもので、それまでは、「子供の病気ですぐ休む」などと嫌味を言っていたのに、年金保険料の負担がほとんどないとなったら、「母子家庭のおかあさん大歓迎」である。実際、彼女たちは生活がかかっており、必死に働くから、押しなべて成績は良かった。その場を与えれば、すぐに分かることで、お役所の怠慢で放置され続けた社会保険の「壁」さえなければ、本来の持てる力が解放されるのである。
(略)
 そんな中、「全員正社員」を宣言する企業が現れた。人事担当者は不況時の人員調整を思って反対したが、社長は言い放った。「そん時は、全員が短時間労働で我慢すりゃ、ええやないか。苦楽を共にする、そんな経営がしたかったんや」 創業者でなければ、なかなか言えないセリフだったが、ものごとの本質を衝いていた。社会保険の壁なしに、労働時間が調整できるなら、雇用期間を限定する必要性は薄い。

 こうして、日本から非正規への差別が消えていった。掛け声だけの「同一労働、同一待遇」が、まさか、母子家庭への特例から実現するとは、思いもよらぬ展開だった。差別が消えれば、継続雇用の下で、誰でも育児や介護の休業を取れるようにもなる。柔軟な働き方で生産性が向上し、成長は高まり、財政まで改善した。若年層の待遇が向上すると、結婚も増え、出生率は1.8を望むところまで伸びた。日本の未来を危ぶむ者は、もういない。夢の実現は、案外、手に届くものだったのである。

「非正規の解放、経済の覚醒」(経済を良くするって、どうすれば 2015年11月15日)

個々の御提言はそれなりに筋が通っていると思いますが、こうして物語風にするとご冗談でしょうとしかいえない「フィクション」に仕上がってしまうところに頭を抱えます。厚生年金の適用拡大による年金財政の安定とか正規と非正規の「壁」の解消については諸手を挙げて賛同するのですが、年収による雇用調整というのは労働者側の都合でも生じているので、「年金保険料の負担がほとんどないとなったら、「母子家庭のおかあさん大歓迎」」なんてことはあり得ない想定ですね。もちろん使用者側で非正規を選択するのは、社会保険料負担もさることながら「人事担当者は不況時の人員調整を思って反対」するのであって、要すれば先行きが不透明な経営状況の中で、固定費となる正規労働者の人件費を抑制しなければならないからです。そして正規労働者の人件費が固定費となるのは、日本型雇用慣行によって職務を限定しないで雇用する代わりに正規労働者の雇用を保障しているからであって、「不況時の人員調整」は使用者側にだけ都合がいいから認めなられないという裁判所の判断を元に固定費として計上せざるを得ないわけです。「同一労働、同一待遇」というのも、労働法ウォッチャーには「同一価値労働」でもなく「同一賃金」でもなく「均等待遇」でもなく「均衡処遇」でもなくなかなか奇妙な言葉ではありますが、いずれにせよ日本型雇用慣行でそれが実現されないのも同じように職務が限定されないからであって、社会保険料一つでそれが劇的に変わるとは到底思われません。でもって「柔軟な働き方で生産性が向上」だそうで、母子家庭の母親がつく職業は製造業というより対人サービスが多くなるのではないかと思われるところ、安い賃金で使い倒す労働力が供給されるということですねわかります。まあ「フィクション」なら何でも許されるのでしょう。

まあ拙ブログで再分配論をすると執拗なご批判をいただくのも、そうした議論に嫌悪感をもつ方には受け入れられないからなのだろうと思うのですが、おそらくそうした方と同じような違和感をこのブログ全体にも感じるところです。拙ブログでは再分配論とか集団的労使関係の再構築などを主張する際は、少なくとも「それで何もかもバラ色になる」という夢物語にならないように気をつけております(そう受け取られる可能性は否定できませんが)。という立場からすると、特に直上で引用したような夢物語については、ブログ主ご自身が次のエントリで「団塊の世代が好きな「一点突破、全面展開」というやつ」とおっしゃるように、団塊世代の郷愁を強烈に感じてしまいます。そうした団塊の世代的な政府への嫌悪感が、あらゆる提言を政府批判のためにするものへと矮小化させているのかもしれません。
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2016年01月11日 (月) | Edit |
前回エントリに引き続き、女性労働についてはいろいろな言説が飛び交っているところでして、本書の歴史的な事実の積み重ねを読み進めるにつけ、女性労働に対する反感というのが同じところをグルグルと回っているのだなあと思わざるを得ません。本書で例示されているところでは、

 戦後のBG、OLに連なる女事務員の第一号は、1894年の龍ケ崎町役場と三井銀行大阪支店だそうです。これは男性陣にとって驚異に感じられたようで、1928年に『サラリマン物語』(東洋経済出版部)で「サラリーマン」の呼称を世に広め一世を風靡した前田一氏は、翌1929年の『職業婦人物語』(東洋経済出版部)で、こう悲鳴を上げています。

男性の就職地獄は年とともに深刻になってゆく。……
職業婦人! さうだ! 職業婦人の進出が、不知不識の間に男性の就職分野を狭めつつある事実を、誰れが否定出来やう。嘗ては女人禁制の神域と思われてゐた職業の分野すらも、ぢりぢりと女性の侵蝕を蒙って居る

 ちなみに前田一氏は戦後日本経営者団体連盟(日経連)の専務理事を務めた人物です。
pp.42-43

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働く女子の運命
濱口桂一郎
定価:本体780円+税
発売日:2015年12月18日

※ 以下、強調は引用者による。縦書き記号(ゝ)はひらがなで表記しています。

というのがあるのですが、書影にもある上野千鶴子氏のようなフェミニストに対する批判が高じて女性の社会進出こそが悪だと声高に主張される方も散見されますね。

この生物学的「自然」に逆らった社会を実現しようとすると、様々な歪みが生じることは避けられません。

出産した女が男並みに働く意欲が乏しいのが「自然」であるなら、企業や組織の上層は男が多くなるのが「自然」です。それを男女平等イデオロギーに基づいて男女をほぼ同数にすれば(クォータ制)、適材適所に反する上、男に対する逆差別になってしまいます。
(中略)
男女の役割分担の問題が厄介なのは、体格や体力と同様、集団としては競争心や稼得労働意欲の面で男>女であっても、個々では男の上位集団に食い込める例外的な女もいることです(例:西太后、角田美代子)。その一例が自称ワーカホリックのYahoo!のCEOマリッサ・メイヤーです。
(中略)
「1億総活躍」が、過大な負荷をかけられて潰される女と、逆差別されて潰される男を量産することにならないことを祈ります。*2

「北欧モデルの「1億総活躍」への懸念( 2015-10-30 )」(Think outside the box)

こちらのサイトでは欧米の労働事情を引き合いに出して「日本(だけではありませんが)の女性の社会進出」を批判されていまして、まさに「企業や組織の上層は男が多くなるのが「自然」」なのに「嘗ては女人禁制の神域と思われてゐた職業の分野すらも、ぢりぢりと女性の侵蝕を蒙って居る」との懸念をお持ちのようです。その理屈はもっともな面がなくはないのですが、いかんせん日本と欧米の労働事情を一緒くたに論じているので、批判があらぬ方向に展開してしまっているように見受けます。

上記引用のエントリでは、「体格や体力と同様、集団としては競争心や稼得労働意欲の面で男>女であっても、個々では男の上位集団に食い込める例外的な女もいる」ことが男女の役割分担として厄介とのことですが、集団的な傾向と個々の能力・意欲に差があることは当然だろうと思うところです。むしろそのような集団的傾向と個々の差を無視してしまうと「統計的差別」につながるというのが欧米の雇用における大きな問題となっているところでして、それをことさら問題にしなければならない理由がよくわかりません。

ただし、本書ではこの「統計的差別」を男女差別に応用するのは日本特殊事情によるものであるとのご指摘がありますので、そのカラクリを確認してみましょう。

 ジョブに基づく社会では、雇用も賃金もジョブとスキルに基づいて決まります。そして、かつてはスキルが高く評価されるジョブは男性に独占され、女性は低技能、無技能のジョブに押し込まれるのが通例でした。多くの場合、それは女性を組合員として受け入れようとしない労働組合自身の手によって行われました。そういう中で、労働者が男女同一賃金を主張するというのは決して女性のための運動ではなかったのです。
(略)
 これが切実なものになったのは第一次大戦により男子労働者が多数軍事動員され、一方で戦争のための軍需産業部門が急速に拡大し、労働力不足を補うために多くの女子労働力が投入されるという事態が進行したからです。ちょうど第二次大戦期の日本で女子挺身隊などの女子労務異動員が行われたのと同じです。これをダイリュージョンと呼びます。「希釈」(水割りすること)という意味です。女が男の職場に入ってくることを「水割り」と表現すること自体、当時の男たちのマッチョな意識をよく表しています。
 彼らは女なんかに俺たちの仕事ができるはずがないといっていたのに、やらせてみたら結構やれるので慌てたのです。安く調達できる女にもできる仕事だったら、同じ仕事をしている組合員の男達にも同じ引く賃金を払えば良いじゃないかとなってしまいます。
 ジョブとスキルに基づくジョブ型社会でそれを阻止するためには、男女同一労働同一賃金を主張するしかありませんでした。それは、できれば男の職場に女を入れたくないという気持ちに基づいた主張だったのです。
濱口『同』pp.144-146

まず確認しておくべきは、ジョブ型雇用である欧米では、女性のジョブそのものが低技能、無技能のジョブに押し込められていたという実態があり、それが女性の低賃金につながっていたのが、実は女性でも男性と同じジョブをこなせるとわかってしまったために、ダイリュージョンによる賃金低下を防ぐために男性の側から「男女同一賃金」が主張されたという欧米の歴史的経緯です。1960年代から70年代にかけてそれが法制化されていくのですが、そこで問題になったのはやはりジョブの区分です。

…同一労働同一賃金原則それ自体は、そういう男女間のジョブ分離に対しては何の力もありません。同じジョブには同じ賃金といっているだけなのですから、異なるジョブに異なる賃金を払うのは当たり前です。しかしそれでは低技能、低賃金ジョブに押し込められている女性を救うことはできません。
 ある意味では今日に至るまで、欧米社会における男女平等問題の悩みの種はこの性別職務分離(ジョブ・セグレゲーション)にあります。これを解決するために、欧米社会で進められてきたのが、賃金面では同一価値労働同一賃金であり、雇用面ではポジティブ・アクションです。
濱口『同』p.152

ポジティブ・アクションとかアファーマティブ・アクションと呼ばれて、具体的にはクォータ制などと呼ばれる女性を優先して処遇する政策は、洋の東西を問わず難しい問題ですが、hamachan先生によると、ここで日本独特の現象が起きます。欧米では人種などの外見的属性で雇用の可否や処遇を決定していまう「統計的差別」が、日本では「将来的な雇用可能性」で雇用の可否や処遇を決定していまう「統計的差別」に換骨奪胎されたとのこと。

 どちらも(引用注:ケネス・アローとエドマンド・フェルプス)主として人種差別を念頭に置いて理論を組み立てているのですが、労働者の能力(日本的な「能力」ではなく、端的にそのジョブを遂行する能力のことです)は外部からは見分けにくいので、その外見的な属性でもって雇用上の判断をしてしまうという現象を指しています。
(略)
 しかし、問題はむしろ価値判断以前に、ジョブ型労働社会を前提に、採用時の能力が見分けにくいことに基づくアメリカの統計的差別理論を、メンバーシップ型労働社会を前提に、将来の勤続年数が見分けにくいことに基づく特殊日本的統計的差別論に換骨奪胎してしまっている点にこそあるように思われます。アメリカでは不当なものという含意の強い統計的差別論が、日本では仕方がないとか当然だといった含意で語られがちになるのも、その議論の前提が異なっている(にもかかわらずそれがきちんと認識されていない)からなのではないでしょうか。
濱口『同』pp.171-172

つまり、人種差別による「統計的差別」はけしからんが、男女の勤続年数が見分けにくいことに基づく日本的な意味での「統計的差別」は当然のものであって、それから外れるような女性の扱いこそが厄介だという上記ブログの感覚は、まさに日本的なメンバーシップ型労働社会を前提としたものになります。個人的には上記ブログの引用部分の最後で「「1億総活躍」が、過大な負荷をかけられて潰される女と、逆差別されて潰される男を量産することにならないことを祈ります」と指摘されていることそのものにはある程度同意するのですが、そこに至る考え方は二重、三重にもねじれているように思われますね。

なお、引用部分の省略した部分で参考としてリンクされているエントリでの、

女は出産すると男と同じように働かなくなる傾向があるにもかかわらず、女に男と同じように働くことを求めれば、出産しなくなる女が増えることも予想されます(出産が男女分業を促す→男女分業しないためには出産しない)。男女共同参画は出生率上昇にはつながらないどころか、むしろ低下させる恐れもあるわけです。

どうしてもクォータ制を導入するのであれば、ヒエラルヒーの頂点(取締役や政治家)だけではなく、底辺にも適用するべきでしょう。たとえば「ブラック職種の40%以上は女にしなければならない」のようにです。レスキュー隊や潜水士、鳶職など危険な職種も同様です。さもなければ、論理が一貫しません。*2

差別のない「理想の社会」が実現するでしょう。

「クォータ制に関する記事のまとめ( 2014-09-08 )」(Think outside the box)

というご指摘の最後の部分は、次で引用するようにhamachan先生が本書で「マミートラックこそノーマルトラック」と指摘されていることと結果論としては同じなのですが、その思想がソーシャルではなく個人主義的なものであるため、さらにねじれた主張になっていると思われます。端的に言えば、直近エントリで引用されているガーディアン誌の記事についての評価が、

女の就業率を高めるのであれば、「男女平等」の美名のもとに男の収入を相対的に引き下げることが効果的です。経済的に頼りになる男の減少は、非婚化→少子化を通じて長期的には労働力不足を招くので、さらに「女の就業率上昇が必要」という主張を正当化します。*4
(略)
その帰結は歴史が教えてくれますが。*5

As women have poured into labour markets around the globe, state-organised capitalism's ideal of the family wage is being replaced by the newer, more modern norm – apparently sanctioned by feminism – of the two-earner family.
Never mind that the reality that underlies the new ideal is depressed wage levels, decreased job security, declining living standards, a steep rise in the number of hours worked for wages per household, exacerbation of the double shift – now often a triple or quadruple shift – and a rise in poverty, increasingly concentrated in female-headed households.

How feminism became capitalism's handmaiden - and how to reclaim it
Nancy Fraser(Monday 14 October 2013 06.30 BST The Guardian)


「安倍首相の「景気がよくなるから妻が働く気になる」(2016-01-10)」(Think outside the box)

となっていて、ちなみに女性に対する労働法規上の保護を外すというのは、これまで日本の均等法が順次辿ってきた道でして、現状である程度は男女関係なく就労させることができるようになっているのですが、上記ブログ主の方がどのような法制度を構想されているのかも興味深いところですね。まあそれはともかく、どうも「日本的リベラル」と欧米のリベラルを混同している印象がありまして、引用されているガーディアン誌の記事の結論部分では、

In all these cases, feminism's ambivalence has been resolved in favour of (neo)liberal individualism. But the other, solidaristic scenario may still be alive. The current crisis affords the chance to pick up its thread once more,

として、確かに全ての事例でフェミニズムは(ネオ)リベラル的個人主義に親和的な結果に終わっているが、社会的連帯につながるシナリオはまだ生きているので、この危機をもう一度チャンスとして解きほぐすべきと主張しているんですが、まあもちろん、「そんな戯言をほざいてるからフェミニズムはダメなんだよ」という評価もありうると思う(個人的にもそう思わないではない)ものの、その記事を引用して「だから男女平等なんてろくなもんじゃない」というご自身の主張に惹きつけるというのも、なかなかマッチョな考え方だなあと思う次第です。

2016年01月11日 (月) | Edit |
実質的に本年最初のエントリとなりますが、去年から持ち越しのネタを順次片付けるのは諦めまして、まずはhamachan先生の新著の感想です。その前にhamachan先生と金子先生が本書をめぐる立ち位置のようなものについて論争(といっていいものかよくわかりませんが)されていて、学術的な面でど素人の私が傍から拝見した限りでは、『働く女子の運命』というタイトルがややミスリードだったのではないかという感想でした。というのも、hamachan先生のこれまでの著書のタイトルには「労働」とか「雇用」という文言が必ず入っていたので、明示的に労働問題とか雇用関係とか人事労務管理とか労使関係とかいうくくりで読み進めることができたと思うのですが、「働く女子」というタイトルではちょっと焦点がぼやけてしまったように思います。

実際本書の中身は、あとがきによると「徹頭徹尾日本型雇用という補助線を引いて、そこから論じた」とあるのですが、hamachan先生ご自身が「書いた私の本音としてはむしろ、井上さんの指摘されるとおり、「女性労働を補助線にして日本型雇用を論じた本」になっていたのも確か」と認めていらっしゃる通り、日本型雇用慣行の問題点を女性労働の視点から解説されたものという印象です。

これについては以前、拙ブログで海老原さんの『女子のキャリア』を取り上げた際も、「制度とか慣行を考えるときに不可欠な視点は、メインで見えているものはあくまで制度の束の一部であって、それを支える周辺的な制度や慣行によって成り立っているという自明の理(その意味では、メインとか周辺という区別は便宜的なものに過ぎません)」であって「一見女性が自身のキャリアを考えることを薦めておきながら、その実私のようなアラフォー男性はもちろんのこと、高齢者や若年者に対するエールかつ重要な問題提起にもなっている」と感じたところですが、hamachan先生の新著を拝読した後に改めて認識させられるのも同様に、女性労働の問題ではなく日本型雇用慣行そのものの問題点にほかなりません。まあ「徹頭徹尾日本型雇用という補助線」を引けば、それは日本型雇用の説明になるわけでして、hamachan先生が金子先生とやりとりされた最後のエントリで

女性労働問題として議論されていたことが実は男性問題なんだよ、ということを、一番くっきりとわかりやすく訴えるためには、やはりワーク・ライフ・バランスの話にするのが一番です。女性だけ育児休業や短時間勤務やってれば良いよと思っていると「悶える職場」になっちゃうよ、という話。そこは意識的に戦略的に、そういう話の流れに繋がるような筆の運びにしています。

「ほぼ大団円?(2015年12月30日 (水))」(hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳))
※ 以下、強調は引用者による。

とおっしゃるのはつまり、「働く女子」というタイトルとの合わせ技で日本型雇用の問題点をすんなり受け入れてもらうための手法だったのでしょう。

ということでメンバーシップ型の日本型雇用の中で女性労働がどのように位置づけられ、それがどのような歪みをもたらしているかが歴史的経緯を追って丁寧に解説されているのですが、実はちょっと私の理解が及ばないところがありまして、なんとなくモヤモヤしております。というのは、男女の人事労務管理上のすみ分けとして用いられる「基幹的業務と補助的業務」という区分が、正当化されるべきかそうでないかが今ひとつ飲み込めないのです。本書ではその辺の機微を判例の記述からあぶり出しているので、兼松事件(東京地判平15.11.5)を題材に整理してみたいと思います。

 被告においては、旧兼松、江商、合併後の被告を通じ、原告らの入社当時、商社機能、商社業務の効率的遂行の必要から、会社の業務を分担する社員層として、既に、「商社本来の基幹業務を推進し、かつ将来そのように期待されている社員層」と、「定型的・事務的補助業務を担当する社員層」、運転者や保安・賄い等「特定業務を担当する社員層」とが分化しており、この違いに基づき、採用、教育研修、転勤の有無、業務執行責任の有無等の各面において異なる取り扱い、処遇をしていた。…

 これに対し原告の女性達は、営業、運輸、総務のどの部門でも責任をもった職務を分担し、到底定型的・補助的業務とは言えないと反論しています。この点については、裁判官も「両者の境目は明らかではなく、またその一部は重なり合っていた」と判断し、

 したがって、被告は、社員につき、被告主張のようにまず職種の違いがあることを前提としてではなく、男女の性による違いを前提に男女をコース別に採用し、その上でそのコースに従い、男性社員については主に処理の困難度の高い業務を担当させ、勤務地も限定しないものとし、他方、女性社員については、主に処理の困難度の低い業務に従事させ、勤務地を限定することとしたものと認めるのが相当である。

と認定しています。
 ここには、「職種」という言葉をその本来の意味で、つまりジョブ型社会と共通の具体的な仕事内容の類型という意味で理解している原告や裁判官と、実際に従事する作業はともかく、会社人生の中で期待される役割との関係でとらえる会社側との用語法のずれが露呈しています。
pp.180-183
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働く女子の運命
濱口桂一郎
定価:本体780円+税
発売日:2015年12月18日

兼松事件の判決文の全文はこちらで読めますが、
平成7(ワ)18760  損害賠償等請求 平成15年11月5日  東京地方裁判所
これによると、被告となった会社では、従来からA体系とB体系の賃金体系をそれぞれ男子社員と女子社員に(事実上)割り当てていたところ、昭和60年の均等法施行に合わせ、労働組合との協定に基づいて、職掌制度と職能資格制度からなる職掌別人事制度を導入しますが、その内容が従来からの男女別の賃金体系と変わらず、女性については職務に応じた賃金となっていないというのが原告の主張です。で、まずこの「職掌別」というのが総合職(本件では一般職)と一般職(本件では事務職)を分離するものとなっていますので、本件では総合職と一般職の違いが「職掌」ということになります。これについて裁判官の判断は、

 被告は,取引機能を中心に,多様な機能をもつ総合商社である((2)ア)。総合商社は,業者と業者との取引に介在し,両者をつなぐことによって利益を上げることを基本とする企業であるから,総合商社においては,業者と業者をつなぐ契約を成立させること,すなわち成約業務が中心的業務であるということができる。そして,成約業務においては,上記(2)エ(イ)b,(ウ)b,(エ)a,(オ)b,(カ)bのように,交渉力,語学力,商品知識等が要求されるものであるから,一般的にみて,処理の困難度の高い業務であるということができる
 被告は,営業部門においては,この成約業務を一般職社員に担当させ事務職社員については成約後の取引完了に至るまでの契約履行に関する様々な業務に従事させている((2)エ)。
(略)
 被告は,これをとらえて,一般職には基幹業務を,事務職には定型的・補助的業務を担当させていたと主張する。しかしながら,原告らが担当した業務の中においても,上記(2)エで認定した原告らの業務の例(例えば,原告Aについては,通関業務,300万円以上の商品代金の納入確認業務等,原告Bについては,支払期日の繰り延べ,倉庫会社への出庫指示等,原告Cについては,兼松食品や兼松香港との取引担当等,原告Dについては,統括室勤務における業務等,原告Eについては,契約書の作成等,原告Fについては,在庫と売掛金が合わない問題の調査等)にみられるとおり,貿易実務や経理実務についての知識・経験が必要とされるものが相当あるのであって,原告らが単なる定型的・補助的業務ばかりに従事していたとは到底いえないし,事務職が担当した成約後の履行に関する業務も,取引を円滑に完了させ,被告の信用につなげるという意味では重要な業務であるといえること,一般職が担当していた業務を事務職に担当させたことがあること((2)エ(ウ)a,b),逆に,新人とはいえ,事務職の仕事を一般職に担当させたことがあること((2)エ(イ)b)などからすれば,被告の行う業務について,被告主張のように基幹的業務と定型的・補助的業務とを明確かつ截然と区別することは困難であり,被告においては,処理の困難度の高いものから低いものまで,その程度が異なるものが様々あるという程度で,両者の差異は相対的なものというべきである。

(pdf)平成7(ワ)18760  損害賠償等請求 平成15年11月5日  東京地方裁判所pp.35-356

としていて、よくあるメンバーシップ型の日本型雇用における仕事の分担として、裁判所の判断はまあその通りだろうとは思います。しかし、この部分では一貫して「業務」という言葉を使ってそれぞれの仕事の分担を説明していて、原告・被告の主張や事実認定の部分で出てきた「職種」とか「職務」とかという言葉がそれぞれどのような関係になっているのかは判然としません。とりあえず、本件の事実認定では、「総合職(本件の一般職)=基幹的業務」「一般職(本件の事務職)=定型的・補助的業務」という関係が定義されているものの、「職種」とか「職務」は特に定義がないんですね。

まあこの事実自体が、職務もひっくるめて無限定に仕事を割り振る日本型雇用慣行の帰結だと思うのですが、では基幹的業務と補助的業務で定義された「職掌」の区別は正当化されるのだろうかというのがピンとこないのです。いやもちろん、職能資格制度が依って立つところの「能力」によって、基幹的業務と補助的業務に男女をそれぞれ割り当てることは理論的にも実証的にも正当化されるものではないですし、それは上記の裁判例でも言及されている通りだと思います。ただし、そもそも基幹的業務と補助的業務に分けることそのこと自体は、「職務」の分担としてありえるようにも思えるのです。

本件判断の定義に従えば、基幹的業務と補助的業務は「処理の困難度の高低」によって区分されるので、処理の困難な業務を遂行できる「能力」をもつ労働者がそれぞれその業務を分担するというのは、それなりに筋が通っています。となると、その「能力」をどのように判定するかが問題になるわけでして、これに対して日本の労使がひねり出した解決策が、経験年数を「能力による資格」として明確化した職能資格制度だったともいえるでしょう。この職能資格制度が会社に対する正社員の凝集性をもたらし、その正社員が献身的に「業務」を推進したことによって日本の経済成長がもたらされた面は否定できないでしょうし、その記憶が残っているうちは、職能資格制度はこれからも日本型雇用慣行の制度的中核としてこれからも堅持されるものと思われます。

しかし、その理論的根拠となった小池先生の知的熟練論の綻びとともに、職能資格制度の弊害として正規・非正規の二極化や女性の社会進出の低調さが認識されている現状では、回りまわって結局、「職掌別」の人事労務管理は社会制度として持続的ではないといわざるを得ません。まあもちろんジレンマはここにあるわけでして、日本型雇用慣行の中核としてこれからも堅持されるであろう職能資格制度が、社会全体の制度としてみれば持続可能ではないわけですから、あちらを立てればこちらが立たなくなります。特に非正規労働者の貧困化などが深刻な状況にある現状では、(職能資格制度によって維持される)メンバーシップ型の日本型雇用に早急に手をつけるべきでであるにも関わらず、個々の会社の賃金制度には社会として介入する余地が少ないため、有効な手段がありません。これをいつものフレーズでいえば、個々の会社の人事労務管理に端を発する社会的問題に社会が介入できないのは、集団的労使関係が機能しないためソーシャルな機能を持たない日本の特殊事情もあるのでしょう。

ということで、(職掌別人事制度の中核となる職能資格制度によって維持される)メンバーシップ型の日本型雇用の今後を考える上で、補助線として女性労働問題の歴史的経緯を追いながら、その問題点をよりビビッドに理解するための教材として、本書が広く読まれることを期待するところです。

(2016.1.11追記)
hamachan先生に早速捕捉されまして、自分で読み返してみてやや言葉足らずだった点があると思いましたので補足です。
本文で「基幹的業務と補助的業務は「処理の困難度の高低」によって区分されるので、処理の困難な業務を遂行できる「能力」をもつ労働者がそれぞれその業務を分担するというのは、それなりに筋が通っています」などと書きましたが、有り体にいえばそれこそが上司と部下の関係ですね。組織としての意思決定を司る上司がいれば、その人が処理の困難度の高い業務を担い、それに付随する補助的業務を部下が担うというのはおそらく洋の東西を問わず普遍的にみられる組織形態だろうと思います(いわゆるbureaucracyです)し、その点では「正当化され」うるといえるかと。

日本型雇用がややこしいのは、この「上司と部下」の関係がそのまま管理者と被管理者たる平社員とほぼ重なってしまうため、基幹的業務と補助的業務の分担が性別によって固定化されてしまうと、それがそのまま処遇を固定化してしまう点にあるということではないかと思います。この問題を解決するためにジョブ型の働き方が必要だと思うのですが、私がピンときていないのは、「ジョブごとに別れていながら処理の困難度に応じて上司と部下が分担して業務に当たる」というのが具体的にどのような働き方になるのか、日本型の働き方しか経験がないため想像できないということなのだろうと思います。

2016年01月03日 (日) | Edit |
昨年中は多くの方々にコメント、拍手、ぶくま、tweet等々いただきありがとうございました。
本年も引き続きご愛顧のほどよろしくお願いします。

というわけで初詣しておみくじ引いてみました。

【末吉】 (No.34014) モナー神社
願事 : 焦るべからず 人に任すべし
待人 : 過ぎぬ程過ぎて来るべし
失物 : 出るとも遅い
旅立 : 止める方がよい
商売 : 物の価下がる買うは悪し
学問 : 怠ると危うし
争事 : 初めは負ける
転居 : ゆっくりして吉
病気 : 危き様なるも必ず全快す
縁談 : 気短にしては調う所も破れる

9年目のモナー神社詣ででしたが、昨年までの戦績が大吉→吉→吉→吉→大吉→大吉→大吉→大吉と、吉と大吉以外のくじはないかと思いきや、ここに来て末吉です本当にありがとうございました。実は近所の神社で引いたおみくじも末吉でしたので、身の程をわきまえて凶(があるかどうかは分かりませんが)が出なかっただけよしとしましょう。

まあおみくじと実生活とはほとんどかけ離れた状況ではありますが、今年も無事これ名馬を心がけて参りたいと思います。