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2015年10月26日 (月) | Edit |
一時期の繁忙期を過ぎたのでやっと積ん読をぼちぼち処理できるようになっていますが、何冊か読んだところでちょっと頭を抱えてしまったところです。というのも、拙ブログでは「増税忌避」という言葉を使っていますが、よりストレートに「租税抵抗」という言葉を使った本がありまして、すわ増税の必要性を指摘している拙ブログと同じ内容!?と思って拝読したところ、…うーむ、これは誰に向けて書いているのかよくわからないというのが正直な感想です。まあ、拙ブログではマルクス経済学の影響が大きい左派的な財政学には懐疑的な立場をとっているため、その直系の先生によって書かれた本書の記述に馴染めないというだけなのかもしれませんし、実際、本書で取り上げられている特に海外のエビデンスやデータは客観的な内容のものが多いと思います。特に、経済学を信奉する割に財政学とか公共経済学の議論をガン無視される方々は、特にこの部分などを熟読玩味されるのがよろしいかと思います。

 仮に国家が租税徴収の根拠として「公共性」を提示できない場合にいかなる事態が生じるのか。これが租税抵抗である。シュンペーターと同様、租税国家の生成について目を向けた社会学者のノルベルト・エリアスは、「公のこと」や「国家」という表現が、領主と王に対する抵抗の言葉でさえあったと指摘した(エリアス1978:317)。租税国家が成立して公共圏が形成されてから、国家権力の行為が不正に満ちていると感じられるのであれば、人民もまた同じように「公」の概念を持ち出すことで、国家に立ち向かい、抵抗するようになったのである。
 租税がかくも人民の抵抗を引き起こすのは、これがその本質として「強制性」を有しているからである。租税とは、「反対給付の請求を伴わぬ強制公課」のことであり、強制性とは無償制ないし一般報酬性を特徴としている(シュメルダース1967[1965]:414)。この点は、自発性と有償性ないし個別報償性とを特徴とする保険料や自己負担などの受益者負担といった財源調整手段とは明らかに異なる点である。自分の意思による支払いではないということ、自分に利益が帰着しないかもしれないということ、租税のこの特徴が国家嫌悪や租税抵抗を引き起こす原因となる
p.39

『租税抵抗の財政学―― 信頼と合意に基づく社会へ ――』佐藤 滋,古市 将人
※ 以下、強調は引用者による。

拙ブログでも、震災復興の財源問題について「社会保険料は拠出の義務に対して受給の権利が対応し、原則として国会の審議を経ずに個別の支給額が決まるため、もっとも「色」が濃い財源」と書いておりましたが、経済学ではない財政学ではきちんとその点は区別されて議論されているわけです。まあ、財源に色をつけるために行う「予算編成」という作業に携わっている役人にとってその困難さは自明であっても、特に経済学方面の方からすると、どんな財源でも予算は自由自在に組めると思われているようでして、本書の続きの部分も参考になりますね。

 実は、債務国家というのは、国家が公共的であろうとする努力をせず、租税抵抗を安易な形で回避しようとするところに生じるものである。リカードの等価原理は、租税と公債とが経済的に見て等価であることを説くが、施政者側の判断といても購買力を移転する側としても、この区別は実のところ極めて重要である。財政心理学という独自の領域を切り開き、租税抵抗問題を正面から取上げたシュメルダースは、「心理的にみると、租税と国債は対立物であって、火と水のようなものである」という(同:545-546)。
 それというのも、租税のもつ強制的性格によって、その不公正な賦課・割当が「あらゆる規模の租税抵抗を挑発する」が、一方、国家の保証が付随した資本証券たる国債は、人々の遊戯本能や名誉欲などを刺激し、自ら購買力を国家に移転するような積極的な反応を喚起することができるからである。「租税か公債か」を決定する基準は、「経済の領域よりも、むしろ政治的・心理的な領域に存在する」(同)。

佐藤・古市『同』p.40

リフレーション政策の手法として国債の日銀引受とか通貨発行益による財政ファイナンスを主張する方々は、ご自身はあくまで経済学的な議論を展開されているつもりなのでしょうけれども、一般の方にすれば政治的・倫理的な領域の問題だというのは大変示唆的な指摘だと思います。いつもの繰り返しですが、私自身はリフレーション政策をゆるやかに支持する立場ではありますが、同時に役人として再分配政策の拡充の必要性も痛感しているところでして、再分配というフロー支出は税収というフロー財源によって賄われるべきと考えております。しかし、当然ながらそうした再分配の制度化や予算編成は政治プロセスを経なければなりませんので、その実現は政治的なものに大きく左右されるということも理解しているつもりです。

そして、政治的なるものは理論的正しさやモデルの美しさで決まるものではないわけでして、権丈先生の言葉をお借りすれば「政策は、所詮、力が作るのであって、正しさが作るのではない」ということに尽きるのですが、経済学的な理論のみで議論される方々にはなかなかそうした側面が意識されることはなさそうですね。まあ、経済学者の方々は理論的な正しさとかモデルの美しさに並々ならぬこだわりをもつことが仕事という面もあるでしょうから、それはそれとしてお仕事に邁進されればよろしいのですが、それを一般の方が真に受けてしまったり、さらにはそれに気をよくしてか知りませんが自らの理論的正しさを即座に現実に適用できると考える学者もいるわけでして、それが回りまわって現実の政治的な攪乱要因となってしまうという事態が生じるに至ると、学者先生のご託宣に付き合うのも考えものです。

という理路からすると、ではそうした政治的なものの攪乱要因をいかに調整するかという点に議論が進むかと思いきや、日本的左派らしく本書の矛先は政府に向いていきます。主に第2章で1960年代から70年代の財政制度審議会の議論を引用して「保険料と税との徹底的な入れ替え」が進められたというのですが、いやまあ大蔵省主計局の戦略としてはそうかもしれませんが、本書でも指摘しているように厚生省は公的扶助や社会福祉の拡充を求めていたわけでして、政府といっても一枚岩ではありませんね。そうした省庁間の対立は官僚内閣制とか官庁代表制と呼ばれる政策決定プロセスであって、それぞれの背後の利益団体がその意向を反映させようとしのぎを削っているんですが、そうした政治的プロセスについて本書はほとんど言及がないところでして、それが「誰に向けて書いているのかよくわからない」という感想の理由です。その違和感は、この部分によく表れています。

 これまでみてきたように、日本の社会保障制度は人々の「共同の困難」に対処したものではない。それはむしろ、制度の分立状況やサービスが過小供給であることを前提に、受益者と非受益者という形で人々を分断させ、リスクを〈私〉化し、受益者負担を導くものである。受益の範囲が狭いために、反対給付を伴わない租税による財源措置では合意を得られない、という理由からだ。受益者負担の導入には、租税抵抗の回避がその根底にある。日本型負担配分の論理とは、このようなものだ。

佐藤・古市『同』p.72

…うーむ、この部分を読むと、政府の問題というより「租税抵抗」を示す国民が選別主義的な社会保障を志向しているという状況しか思い浮かばないのですが、本書は決して租税抵抗を示す国民を敵に回すことなく、その租税抵抗と選別主義的な社会保障を志向する国民を背後に利害調整に当たっている政府を批判するんですよね。プリンシパル=エージェント的な意味で政府の行動を批判するならまだわかりますが、「民意」から遊離した政策決定を称揚するのでなければ、政府の行動はきちんと「民意」を反映したものという評価が妥当ではないかと思うところです。

なお、本書では日本型フレクシキュリティに一切言及がないので、日本型雇用慣行が公的な生活保障機能の貧弱さを肩代わりしていたことや、バブル崩壊後に日本型雇用慣行の維持が難しくなって会社が肩代わりをしていた生活保障が機能不全に陥っている状況が考慮されていないようでして、この点からも、日本型雇用慣行のコロラリーである終身雇用と年功序列に手をつけられない日本的左派の限界を感じるところです。とはいえ、財政学的な観点から日本の「租税抵抗」について考える際に、海外の研究を引用した部分については、本書を読むと一通りの議論を押さえることができるのではないかと思います。
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2015年10月25日 (日) | Edit |
普段実務のことばかり考えている下っ端公務員としては、天下国家とかのたいそうな話はあまりピンとこないところがあるのですが、最近の(といっても旬は過ぎたようですが)の立憲主義をめぐる議論はさらにピンときません。まあ、個人的に政治学者の言うことは眉唾に感じるというのもあって、政治学者とか政治がかった学者の議論にはついていけないところがありますが、周回遅れでhamachan先生のご指摘には納得することしきりです。

アメリカにおける労働法の歴史をひもとけば、裁判所が、契約自由という至高の原理や共謀は悪だという法原理を掲げて、労働組合などという不逞の輩のやらかすあれやこれやを一生懸命叩いてきたことが分かります。民主主義原理に基づいて、クレイトン法を作っても、ひっくり返されるし、ローズベルト大統領の下で、NIRAを作っても、違憲だとひっくり返される。ワグナー法も違憲なるところを、ローズベルト大統領がむりやり最高裁の判事に自分の側の人間を押し込んで、なんとか合憲にしてしまったわけで、民主主義に批判的な立憲主義の立場からすれば、ほとんど民主的な独裁政権でしょう。

労働法という新たな法原理が産み出される場では、そういうある種の「非立憲」がありうるということは、実は形は違えど、多くの諸国で見られることでしょう。実は日本だって、「8月革命」という「非立憲」がなければ、このようなものにはなっていないはず。

いや、特定の分野の特定の事案についてあれこれ論ずるつもりは全くないのですが、そもそも論として、法と政治全般を広い歴史的観点で眺めるならば、立憲主義を掲げていさえすれば万事がうまくいくという話でもないというのが原点のはず

立憲主義と民主主義と労働法(hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳) 2015年10月 2日 (金))
※ 以下、強調は引用者による。

もちろん私などは実務でほぼ関わりもない特定の事案を論じるほどの素養もないのですが、立憲主義に何よりも高い権威を与えようとする言説を拝見していると、民意至上主義とどこが違うのだろうなどと思ってしまいますね。いやまあ民意が間違うこともあるからこそ、代議制とか行政の継続性(公定力)とかが長い歴史の中で制度として確立してきたという現実を踏まえれば、「立憲主義」という制度についてはもっと慎重に取り扱うべきだろうと思います。

立憲主義という大きな話をしてしまうとまたピンぼけになりそうなので、もう少し目の前の問題に惹きつけていえば、震災後に吹き荒れたヘイトスピーチと陰謀論と実力行使の結びつきの強さも懸念されます。今回の騒動の中で陰謀論が唱えられたかどうかはよくわかりませんが、ネットでは「殺す」「市ね」などはもはや常套句となっているような印象ですし、国会周辺でも一部に暴力沙汰が発生したようですので、あながち無関係ではなさそうです。さらにいえば、賛成派・反対派双方に「相手が「知性」をもたないからお互いに理解不能な存在」とみなした論調が多く見受けられまして、陰謀論まではあと一歩というところかもしれません。

というようなことを考えていたところ、特に経済学方面の方々は、経済学的に正しい議論に対して疑問を抱くような経済学の素人を指して「御用一般人」呼ばわりされる方もいらっしゃるところでして、そんな方々と親交の深い山形さんがまたも意味深なエントリをアップされています。

…ぼくは、そんなはずはないと思っている。すばらしい成果はしばしば、実験したりモデルを組んだり作ったりしたら、思っていたのと正反対の結果が出てしまうことから生じる(クルーグマンのIts Baaackリフレ論文とか、卑近ながらぼくのたかがバロウズ本とか)。そのとき最初の直感や身体反応は「そんなバカな」というものだ。そういう脊髄反射的な肉体反応に委ねず、本当に何かおかしいところがないのかあれこれ考え、逃げ道を全部閉ざされて途方にくれ――そしてやっとそれまでの自分の考えの不十分さがジワジワわかってくる。それがある意味で自分の身体に取り込まれ、かつての安定状態から新しい安定状態へと遷移する。ぼくはそれが最も知的な態度であり、本当の学習だと思ってる。それをすべて否定するのは、ぼくは知的営為そのものを否定しているに等しいと思っている。そしてそういう主張をしている文が己を「知性」の側に立つと思い込んでいるのは、ぼくはこっけいだと思う。

(略)

人はみんな、常に予想/仮説をたて、それを証明/棄却しつつ人生を送っている。太陽が地球のまわりを回っているんだろうと思ったり、今日の宴会ではたぶん肉料理が出るだろうと思ったり、あるいはこのプロジェクトは少し工法を工夫すればコストが下がって採算ラインに乗るだろうと思ったり、気になっている女の子を映画に誘えばデートしてくれるかも、とか。そしてそれに基づき各種の行動を行う。さて、そうした予想の存在は、「わからないはずのことが先駆的にわかる」ことを示すのか? そんなバカな。というのも、その多くはまちがっているからだ。わからないことはわからない。それをわかろうとして、人は実際にそれが起こるまで待ってみたり、シミュレーションをしてみたり、モデルを組んだりする。 予想とか仮説はそのためのものだ。そして、それが大半は失敗する。なんか地球のほうが動いていると思ったほうがよさそうだったり、宴会は刺身だったり、頑張ってもプロジェクトは採算性がないままだったり、デートは断られたり。でも、それにより人はその分、賢くなる。それが人間の知的な営みのほぼすべてと言っていい。

反知性主義3 Part 1: 内田編『日本の反知性主義』は編者のオレ様節が痛々しく浮いた、よじれた本。(山形浩生の「経済のトリセツ」2015-10-16)

引用部の前半で山形さんが指摘されていることは、データやエビデンスで直感的な理解とは正反対の理論やモデルが導き出されても、自分の直感とか信念に頼るのではなく考え抜くことが本来の学習だということですよね。それに対して、引用部の後半では、どんなモデルや理論も絶対ではなく、現時点で把握できるデータやエビデンスで示されるものは仮説に過ぎないということを指摘されていると思います。さて、そのようにおっしゃる山形さんはクルーグマンが「知性」の側だと信じて疑っていないようにも思われるのですが、「そういう主張をしている文が己を「知性」の側に立つと思い込んでいる」というご自身のご指摘との関係をどのように理解すればいいのでしょうか。

まあ、浅学非才なチホーコームインごときに高度な経済学の議論が理解できるわけねーだろと言われればその通りでしょうけれども、経済学的な理論以外については、クルーグマンが目の前にいるアメリカ人を強く意識した論調を張っているせいで日本にはリビジョナリスト的な視点から都合のいい理論ばかりを押しつけていると思いますので、私はクルーグマンも十分に「知性」の側から外れがちではないかと思うところでして、山形さんのクルーグマン礼賛にはいささか鼻白むところがないとはいえません。

なお、私自身はここで山形さんが取り上げられている本は未読ですが、内田氏が「自分の意見と違うヤツは「反知性主義」なバカだからだ」という理屈を振りかざしているのはさもありなんとは思いますし、それに対する山形さんの批判も的確なものだと思います。ただし山形さんのこのご指摘は、本書で「反知性主義」という言葉を自分の都合のいいように誤用している方々だけに向けたものには、どうも思えないのです。

そして政治的な問題に就いての考え方はなおさらそうだ。いま目の前にいる相手を無視して、300年先にいるかもしれない人間を想定して、いつかだれかがわかってくれる、では意味は無い。いま目の前にいるこの相手を説得し、納得させて政治プロセスを動かさないと話にならない。そのために嘘をつくのはよくない、というのは規範として存在する。が、いま、ここ、目の前にいる相手を説得する、というのは別に特におかしなことではない。
(略)
つまり内田のこの文は、多少なりとも知的な議論をすべて拒絶し、自分の感情的反応だけを絶対として、自分の批判が自分自身にもあてはまるのではという疑念を一切持たない。それは、ぼくから見れば極度に反知性主義的な態度、それも最悪の意味での反知性主義でしかない。
「同」

「自分の感情的反応だけを絶対として」という部分に山形さんの最後の一線が引かれているようにも思うのですが、山形さんご自身が「いろんな分析はかなり的確。DSGEの概要とか、ゾンビの細かいところは入り込みたくないけれど大ざっぱなところを知りたい人にも有用。勉強になるいい本だと思う」として翻訳された『ゾンビ経済学』ではこんな指摘もあります。

 グリーンスパンの後継者ベン・バーナンキは1975年にハーヴァードを首席で卒業し、1979年にMITで博士号を取得した。したがって、長い戦後の好況期が崩壊した後にキャリアが始まった経済学者世代の筆頭格となる。そのキャリアはまた、グリーンスパン時代とも重なっていた。だから経済安定性の新時代というアイデアを広めるのに、いちばん貢献した人々の一人だったのも無理はない。
 バーナンキはまた、この新時代を指すのに「大中庸時代」という呼び名を広めた。この用語を初めて使ったのは、ハーヴァード大学のジェームズ・ストックと、プリンストン大学のマーク・ワトソンだった。バーナンキはそれを、2004年の大評判演説の題名として使った。
p.24
9784480864178.jpg
『ゾンビ経済学 ─死に損ないの5つの経済思想』ジョン・クイギン 著 , 山形 浩生 翻訳

ストック・ワトソンといえば計量経済学の教科書でも有名ですが、彼らが作った「大中庸時代」という言葉を広めたのはバーナンキであって、「これって一部のリフレ派と呼ばれる方々が居丈高に「世界の経済学の常識」とかいっていることそのものではないかと思うのですが、本書の訳者が山形浩生さんだというのが興味深いですね」と1年前と同じ感想を抱いてしまいました。山形さんの反知性主義シリーズはまだ続くようですので、どのような結論になるのか楽しみですね。

2015年10月07日 (水) | Edit |
前回前々回と、半年前に発行された震災関連本から目の前の課題と大きな問題の間の隙間についてメモ書きしたところですが、今回はちょっとさかのぼって、一年半前に発行された震災関連本からちょっと気になった記述をメモ書きです。

今回取り上げるのは、『震災裁判傍聴記』という阿蘇山大噴火的なタイトルですが、著者は弁護士を目指して司法試験に7回失敗したというジャーナリストでして、ネット版の「現代ビジネス」での記事が基になっています。なんといういか全体的に著者の主観が入りすぎていて素直に読めないところがありますが、冒頭で取り上げられている拙ブログでも取り上げた石巻での偽医者事件については、その著者の主観がうまく事件の背景を説明した形になっているようです。

 男は日本財団にも医師を名乗り、百万円のボランティア助成金を騙し取っていた。最初は電話で10万円の申請をしたが、日本財団の職員から「10万円で足りますか?」と尋ねられ、その場で勢いあまって100万円に増額申請したという。
 ただ、2011年6月に入った段階、震災発生から3か月以上過ぎてからの虚偽申請であり、初めから助成金が目当てで被災地へ入ったとは考えにくい。もし、助成金を騙し取るのが目的なら、100万円を受け取った後、さっさと福井へ帰っているはずだ。しかし、男は依然として石巻に居座り続け、石巻で100万円を使い切った。その供述によれば、「100万円のうち、45万円は炊き出しのガス代や移動のガソリン代、25万円はキャンピングカーの修理代、25万円は彼女に渡し、そのほかはパチンコやスナック、競艇で使った」のだそうだ。
 この男には、結婚詐欺などの前科がある。本件も「金銭目当ての犯行」と考えるのが自然なのだが、どうやら事情はそう単純ではない
(中略)
 男が患者に処方し、キャンピングカーに貯蔵していた種々の医薬品については、宮城県警の科捜研により、「いずれも本物。有効成分も十分に含まれている」と鑑定された。
 また、被災者らに具体的に実行・指示した医療行為については、宮城県医師会の回答によると「一般的な医師のやり方とは異なるが、不適切とまでは言えない」とのことだ。
 この男の「お医者さんごっこ」は、どうやら遊び半分の動機でもなさそうだ。決して付け焼き刃的ではない医療知識を身につけ、自分のエゴで被災者の身体を粗末にするために実行されたものではない。むしろ治癒を目指す彼なりの「職業倫理」があったようである。
 とはいえ、どこの馬の骨とも知れないニセ医者から、偉そうに治療方針を指示してほしいとは誰も思わない。お年寄りや傷病患者に対する手厚いケアを欲する被災地を、さらなる不安に陥れた罪は重い。
 そんな罪深きニセ医者に向けて、担当の弁護人が優しげに質問を投げかける。

——石巻に来る前から医者を名乗っていたんですか?
「はい。名乗ったことはあります」
——特別に知識があったわけではないでしょう。
医療の勉強には興味があって、福井でもずっとやってました。本とかインターネットを読んで。でも、医者になれるはずがないと思ってましたし、お金を取って医療行為をしたこともありません」

pp.34-36
9784594070045.jpg
震災裁判傍聴記~3.11で罪を犯したバカヤローたち~
長嶺超輝 著
発売日2014/03/04
ISBN 9784594070045 扶桑社新書

※ 以下、強調は引用者による。

まあ確かに事情は単純ではなさそうですが、日本財団から足りるかと尋ねられて「勢いで」100万円と言ったり、結婚詐欺の前科があったりと、被告人の「嘘をつくことに対するハードルの低さ」が気にかかります。ところが、そうして医師を詐称して行っていた医療行為にストレスを感じて、出身地である北海道へ逃げていきます。法廷で弁護人からその心境について聞かれると、

——自分を偽って、医師として活動してきたことが重荷になってきたと?
「(涙声で肩を震わせながら)……実際に被災地に滞在していて、被災地の現実ってこうなんだなと。震災から何か月も経って、テレビで、いろんなボランティアが『私はこういう活動をしてきました』と語っていたり、自衛隊の活躍などが報じられていますが、私のやってきたことは、そんなきれいなこと、決して美談ではなく、石巻の街で出会った人々に対して、人間として責務を果たしてきた。それだけです。給料をもらいながら活動している人とは違います……」
——どういうことですか?
「あまりオフィシャルに言っちゃいけないかもしれませんが、もし今回の震災で医師が早い段階で被災地に入っていれば、もっと救えた命があったのは確かです。医療を受けられないから亡くなった方もたくさんいました。もどかしかったです。『茶番だな』と、正直思いましたね。困っている人はたくさんいたんです

 今、目の前で話しているのは、詐欺師として裁かれている被告人である。その供述の中には、ニセ医者としての自己の犯行を正当化する目的も混じっているはずであり、まるまる信用するわけにはいかない。ただ、自己弁護を超えたところに、震災ボランティア活動の現実が時おり見え隠れしているように思えた

長嶺『同』pp.41-42

うーむ、こういうところに著者の主観を強く感じてしまうのですが、ここで被告人が述べているのはあくまで自己弁護としか思えませんので、それを「自己弁護を超えたところに、震災ボランティア活動の現実が時おり見え隠れしている」とまで言えるかは疑問です。ただし、「震災ボランティア活動」をしていた方々の中にこうした感覚があったのは私も感じるところでして、「困っている方を助けたい」という思いが純粋な動機となって行動しているうちはまだしも、「困っている方を助ける自分」というものを意識するようになると、「役所とか医者とか偉そうに、所詮古い公共なんぞに任せていてもろくなことしないから、俺の方がもっと役に立つ」という思いが昂じてしまい、場合によっては本件のように「多少法に触れても人助けをしているんだから許される」と感覚が麻痺してしまうこともあるのでしょう。

1年半前は、当地で大きな問題となったNPOの横領事件が刑事事件になった時期でしたので、ちょうどその時期に発行された本書にはその事件についての記述はないのですが、このニセ医師事件と同様に震災後に起きていたことの一面を物語る事件ではあると思います。

 この裁判を傍聴しながら、昔、心理学の本で読んだ「メサイア・コンプレックス」という概念を思い出した。
 メサイアとは救世主のことである。本当は自分自身が救われたいのに、やたらと他人を救済しようと試みる。そうして、他人を救う能力がある自分を特別な存在であると思い込むことで、自分自身を支えようとする心理が、メサイア・コンプレックスなのだという。その心理の持ち主は無意識のうちに、自分よりも立場が弱い対象を求め、何らかの働きかけをしようとする。たとえ、それがありがた迷惑であろうとも。
(中略)
 東日本大震災が発生し、人々の日常生活がこっぱみじんに破壊された被災地の凄惨な実情を知り、「自分に何かできることはないだろうか」と、日本中、世界中のそこかしこで、静かにメサイア・コンプレックスが燃え上がったに違いない。
 この男は、結婚詐欺師という汚れた過去を拭い去るため、震災直後から被災地に入り、とにかく懸命に身体を動かした。身銭も切った。
 しかし、彼のボランティア活動は、厳密な意味で無償ではなかった。炊き出しを振舞って「ありがとう」と感謝されるだけでは足りない。被災地において、人々から特別に尊敬を集める存在でありたい、という欲望の充足と引き替えだったのである。石巻に集結した、大勢いる有象無象のボランティア志願者の一人として矮小化されることが、この男にとっては耐えられなかった。
 前科・服役歴がある男が、被災地で特別な存在であろうと目指すとき、そのあまりにも大きな高低差を埋め合わせるためには、医師という格調高い肩書きが最もふさわしいとでも考えたのだろう。(略)彼にとって、被災地・石巻は、失われた自尊心を取り戻すため、即席の救世主を演じる大舞台だったのだ

長嶺『同』pp.47-48

著者の主観が強すぎる本書ですが、この部分については、震災後に被災された地域で何度も目にした光景の説明として深く頷いて読んだところです。震災という非常事態で「他の誰にも負けない力を発揮して誰かを救い、そのことによって救世主として崇め奉られたい」と思うのは、普段は何も特別なことをしていない普通の人だからこそなのでしょう。そして、自分がそういう行動をとるための理屈が「給料をもらいながら活動している人とは違います」という思いにすり替わっていくと、その行動に歯止めが利かなくなってしまうわけですね。

この被告人が行った医療行為は、本書によると寝たきりの方の床ずれに塗り薬を渡して処方を指導したという程度のようですが、少なくとも刑事訴訟上はそれらを構成要件として医師法違反、詐欺罪、無因公文書偽造/行使罪で懲役3年の実刑が言い渡されています。つまり、この被告人が被災された地域で行ったことは犯罪であると司法が判断したわけで、法治国家であるこの国の住民にはそのような事態に陥らないようする義務がある中では、そうならないよう本人自らが、それが難しいなら周囲の関係者がきちんと歯止めをかける必要があったはずです。ただし、周囲の方にとっては、目の前の患者が(少なくとも対処療法的には)救われるのであれば、本物の医師であろうとニセ医師であろうと構わないという事情があった可能性もありますので、結局は被告人本人が自ら歯止めをかけるべきところ、「嘘をつくことへのハードルの低さ」が仇になったといえそうです。

「給料をもらいながら」震災後の被災地支援業務などに携わってきた者としては、このような犯罪を未然に防ぐためにも、こうした方々が「給料をもらいながら活動している人とは違います」と思わないで済むようにすることが求められていると思うのですが、その具体的な中身が「そらをじゆうにとびたいな」というものであれば「できねえよ」としか答えられないのが現実でして、なかなか世の中は思いどおりにならないものです。

でまあ、この話を敷衍していくと、バブル崩壊後の景気低迷を「給料をもらいながら」仕事をしている政府とか日銀の失策によるものと決めつけて、「本とかインターネットを読んで」経済政策を論じる方々は私の見る範囲ではけっこうな数でいらっしゃいますね。その方々はまさに「困っている人を救いたい」という動機から、そうした議論を繰り広げているものと思いますが、そのまっとうな義憤の少なくない部分はメサイア・コンプレックスによって引き起こされたもののようにも思います。私を含めて、この被告人の「『茶番だな』と、正直思いましたね。困っている人はたくさんいたんです」という言葉に思い当たる方は少なくないと思うところでして、それが「風評被害」とか「歯止めのない個人攻撃」とか「目的のためには手段を選ばないという態度」とか、あるいは「お手軽に批判対象を公共の敵に仕立て上げようとする、せこいトリック」につながっていないか、常に歯止めをかけ続けるために自問し続けなければいけないということなのでしょう。

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