2015年08月23日 (日) | Edit |
前々回エントリからさらに関連しますが、海老原さんのニッチモ発行の『HRmics vol.22』をご恵投いただきました。いつもありがとうございます。と言う前に、実は『HRmics vol.21』もご恵投いただきながら取り上げ損ねておりまして、大変失礼いたしました。合わせて御礼申し上げます。

で、その特集なのですが、vol.21はいわゆるG型・L型大学に絡めた大学教育、vol.22は会社入社後の研修がそれぞれテーマとなっておりまして、言わずもがなですが一筋縄ではいかない議論が展開されています。G型・L型大学の話は最近hamachan先生のブログでも断続的に取り上げられていまして、この問題のややこしさに改めて頭が痛くなりますね。たとえば、vol.21の大学教育の特集での海老原さんの「むすび」では、

 まず、G型は(研究人ではなく産業人材育成については)その対象がかなり少ない。(略)とすると、上位大学といえども、その中の選抜組だけを対象にすることで初めてG型は実現できる。これは難しい改変が必要だが、あえてその難題に立ち向かってほしい、とは思う。
 一方、L型に対しては、エールではなく、批判が主となる。
(略)
 とどのつまり、普通のホワイトカラー、サービス、事務職に訓練の重要性が見いだせないのだ。
 L型職業訓練大学が不要だとすると、多くの一般大学はどう変わるべきか。
 答は、今の形のままで、ほんの少々襟を正すことだと思っている。
(略)
 あとは、企業が望む「忍耐、継続、論理構成、話す、聞く」の力を培うこと。でも、コロンブスの卵というか、これこそ、本来のアカデミズムの本道だろう。何よりも、アカデミズムこそ、こうした全人格形成に資するのだから。だとすると、今の学部編成のままで、講義やゼミの運営をよりハードにすればそれで十分。何もGL編成などを考える必要はない。

「むすび G型L型大学論争の前に 本誌編集長 海老原嗣生(HRmics vol.21)」p.28

とおっしゃていて、このご指摘そのものは肌感覚としてよく理解できるものの、それはつまり海老原さんが提唱されている「途中まで日本肯定型」によって入口での日本型雇用慣行のメリットは残すという、日本型雇用慣行の功罪を踏まえたギリギリの折衷案なのだろうと思います。入口での日本型雇用慣行が残っているなら、今の大学(特に人文系学部)を変える必要はないということになります。

しかし、今の大学を卒業した「白地の石板」に職務を書き込まなければならない企業側は、いっぱしの業務を任せられるように研修で人材育成しなければならず、そこでは全人格的な人材育成が行われることになることになるわけでして、本誌でも「ブレークスルー」型として、管理者養成のため駅前で一人で歌を歌うことを課すような「地獄を再現して人格を変容する」研修が紹介されています。これを一企業が新入社員にやらせたらあっという間に「ブラック企業」という評判が広がってしまいそうな案件ではありますが、幹部候補生はかくも全人格的なコミットメントが求められるわけでして、外部の研修機関が行う管理者養成の集合研修だから許容されているともいえます。それが「見返りのある滅私奉公」の一つの側面でもあるのでしょう。

理想的に言えば、これを外部の研修機関ではなく組織内で行うための最も効果的なやり方が、アイゼンハワーが師であるコナーから受けた徒弟制ともいえる育成方法となるはずですが、現在の業務上の効率性のみを追求した組織運営の中では、そのための時間も上司のリソースも極限まで削られてしまっています。もちろん本誌では、ブレークスルーの前段として、視点の転換、アセスメントとチームビルディング、視野の拡大、組織の風通しをよくするという研修の5つの要素が事例を交えて紹介されていて、その多くは組織内で行われるものではあるのですが、そもそもそれを適切に行うことができる従業員が組織内で育成されていないという大問題が横たわっています。つまり、徒弟制によって部下にスキルやノウハウを伝授できるような経験を持つ上司そのものが、極端に効率化された組織運営のために不在となって久しく、だからこそ現場に人材育成を任せるのではなく、人事担当が研修を戦略的に企画しなければならなくなっているのではないかと思います。

ちょうど少子高齢化に危機感を抱いた政府が、人口減少社会克服のために少子化対策に力を入れはじめたのと歩調を合わせるように、組織内での人材育成機能が低下しているからこそ、次世代の人材を育成するための「戦略的人事資源管理」が重要性を増しているのだと思います。しかしながらこの点については、大学が現在のままちょっと襟を正すことで「アカデミズムこそ、こうした全人格形成に資する」と評価する一方で、それだけでは組織運営に必要な人材は育成できないという現状認識とが、うまく接続されていないように思われます。vol.22での海老原さんのまとめは、

 戦略人事管理という側面から人事のできることを考えただけでこの広がりなのだ。その他にも、労働行政や雇用と社会のダイナミズムなど、人事が知っておかなければならない知識はたくさんあるだろう。
 あらためていおう。人事は深い。人事屋ではなく、人事のプロを目指そう。

「conclusion もっと本気で、戦略的人事資源管理(HRmics vol.22)」p.26

となっているところでして、個人的には海老原さんには珍しく踏み込みが足りないように感じました。いやまあ「人事は深い」からこそ安易な踏み込みを避けること自体は賢明な対応だろうと思うのですが、改めてややこしい問題だなと痛感しますね。

それとはまた別の記事ですが、hamachan先生が新連載(といっていいのか)でウェッブ夫妻の『産業民主制論』を取り上げられていて、これは待望の解説でした。日本語訳は当地のような地方の図書館には所蔵されておらず、こちらのサイトで原著が電子書籍化されているもののさすがにこの分量の英文を読む気力もなく諦めていたところでしたので、エッセンスが読めただけありがたいです。しかもhamachan先生によって、

 (略)むしろ、この間にイギリス労働社会がどれだけ変わったかということがイギリス研究の焦点でもあるのですが、にもかかわらず、極東のこの国から見れば、19世紀から20世紀を貫いて21世紀にいたるイギリスの変わらなさこそが目につくのです。
 それは、私が諸著で「メンバーシップ型」に対比して「ジョブ型」と呼んでいる欧米型雇用の原型であり、労働研究者であれば「ジョブ」(職務)が確立する以前の「トレード」(職業)の時代の雇用システムであると言うでしょう。その「トレード」の作る団体が「トレード・ユニオン」(正確に訳せば職業団体」)であり、本書はそのトレード・ユニオンの機能を詳細に分析した本なのであってみれば、日本的な(会社のメンバーであることがすべての前提となる)「社員組合」とはまったく異なるトレード・ユニオンの姿が浮き彫りになってくるのです。そういう観点から本書を紹介したものはあまり見当たらないので、ここではもっぱらその観点から見ていきたいと思います。

「原典回帰 第1回 シドニー&ベアトリス・ウェッブ著『産業民主制論』(HRmics vol.22)」p.32

というように現在の問題に即した内容となっていますので、現在の雇用・労働に関心のある方にはご高覧をお薦めします。
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2015年08月17日 (月) | Edit |
前回エントリの流れでこちらのネタも書いておこうと思いますが、拙ブログでも何度か取り上げさせていただいている出井智将さんの『派遣新時代』を拝読して、日本型雇用慣行における正規と非正規の壁についてこちらもいろいろと考えてしまいました。

本書で就活について触れているのは「第8章 派遣が日本を変える日」の中でして、

派遣が就活も変える

 先に触れた「就労弱者」とは対照的に、多くの大学生が在学中から積極的に就職活動に取り組んでいます。そんな彼らも、いまはまさか就労弱者となってしまうとは考えてもいません。
 しかし、毎年多くの人たちが残念ながら就活に失敗して、うつ病になる人や罪を犯してしまう人、自ら命を絶ってしまう人が出てきます。イスラム国に戦闘員として加わろうとして中東行きを計画した学生が、その理由について「就職活動がうまくいかなかったから」と語っていたことも、記憶に新しいところです。
 現在の日本の就職活動は、どのような仕事をしたいかと考える就職ではなく、どの会社に就職するかを中心にすえて「就社」の状態となっています。しかもチャンスは一度きりのように見えてしまいますから、社会経験の少ない大学生が就活に失敗すれば、即、自分が社会全体からドロップアウトしてしまったと思い込んでしまうのも仕方のないことでしょう。
 また、たとえ就活に成功したとしても、入社後、実際の仕事内容とのギャップで「こんなはずでは……」と悩み、早期に退職してしまう。このようなケースも後を絶ちません。原因はともかく、一旦ドロップアウトしてしまうと、先の巨大な壁を登りきれず、不本意な働き方を漂流することになってしまうのが、今の日本の雇用環境です。
pp.153-154
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派遣新時代~派遣が変わる、派遣が変える~
派遣労働の謂われなき誤解を解き、日本の雇用を未来へ開く。

ジャンル ビジネス・経済・キャリア, 幻冬舎ルネッサンス新書
シリーズ新刊
著者 出井智将・著
ISBN9784344972377
判型新書・160ページ
出版年月日2015/6/23
価格800円+税

とてもコンパクトに日本型雇用慣行における就活の状況をまとめていらっしゃり、こちらの頭も整理されます。本書ではこの後で「派遣を経て企業に新卒採用」という仕組みが提言されていまして、以前海老原さんも提言されていた「公設民営」型派遣と同様の内容となっています。これはリンク先のエントリでも書いた通り、緊急雇用創出事業で新卒で就職できなかった若年者支援対策として各自治体で取り組まれた実績もあり、効果も課題も蓄積があるものと思いますので、その蓄積を活用すべき段階にあるのではないかと思います。

で、前回エントリでは「日本型雇用慣行が新卒有利で中途に不利といわれるのは、新卒はでその能力の有無を見込みで決定されるのに対し、中途では実績で決定されるため、前の職場で目に見える経験や実績(特に非正規就労が長くなるとその経験を実績として評価されなくなる傾向があります)がなければ採用されにくいことも一因です。まあ、能力とか実績といっても結局のところ上記のような採用担当者の主観でしか判断されないところが、日本型雇用慣行がジョブ型ではないことの証左ともいえましょう」というようなことを書いたところですが、この日本型雇用慣行のルーツを辿っていくと、正規と非正規の「巨大な壁」を作り上げて維持しているのは、実はその組織内の常用代替を認めない人間だったというどこかの巨人が進撃してしまうような話に辿り着いてしまいます。つまり、正規労働者の業務を奪ってしまうような「なんでもできる」非正規は、組織の内部の正規労働者にとっては「敵」でしかないわけですね。そのような「敵」を内部に入れないために「常用代替の防止」を死守するのがこれまでの派遣法の目的だったのですが、今回の派遣法改正によってやっと非正規にカテゴライズされる派遣労働者の保護に一歩踏み出すことになったので、これを新卒時点での就活にも活用しようというのが出井さんの御提言の趣旨となります。

この状況を生み出しているのは、とりもなおさずこれも前回エントリで書いた「どこの課のどんな人の隣の席に座っていてもうまく仕事を回すことができるヤツかどうか」という採否の判断基準でして、これを言い換えると「(常用雇用の業務を担当している)どんな課のどんな人の隣の席に座っていてもうまく仕事(常用雇用の業務)を回すことができるヤツかどうか」ということになります。つまり、その組織のメンバーシップを与える代わりに、東に辞令があればどこにでもどんな業務でも異動し、西に疲れた従業員がいれば行ってその書類の束を負い、南に死にそうとかほざいている従業員がいれば行ってやる気が足りないと言ってやり、北に業務繁忙な仕事があれば(たとえそれが常態化していても)残業も厭わない、そんな社畜に私はなりたいというメンバーに相応しい人材を求めているのが、今の採用活動の本音ということになります。逆にいえば、認知スキルや性格スキルに適性を欠くと判断された応募者にはメンバーシップを与えず、非正規としての処遇を与えるのが日本型雇用慣行での就活における選別の結末となるわけです。

しかし、これだけ売り手市場といわれる状況にあっても大企業の正規労働者として社畜に進んでなろうとする若者は後を絶ちませんが、大企業でもない地方自治体では採用数の確保に四苦八苦しているのが現状といえます。これは、地方の再分配機能の貧弱さもあって、就労に制限をかけざるを得ない家庭が多いことの裏返しでもあるわけでして、出井さんのこのご指摘には大いに共感します。

 しかし地方や都会の中小都市ではすでにジョブ型正社員という働き方は一般化しています。事業所が狭い地域に限定されていれば転勤はないし、通勤時間が短いので勤務時間も限定されます。私の地元である山梨県では、実質的にジョブ型正社員という働き方が大半です。
 今後日本は、高齢化と人口減による働き手不足を受け入れる柔軟な雇用環境が必要となってくるでしょう。現在主流である、全生活を会社に奉仕してしまう働き方、若者たちからは「社畜」と揶揄されていますが、こういう働き方を拒否する労働者は、どんどん増えていくでしょう。気がついたときには、メンバーシップ型の正社員はなり手がいない、そんなことにならないとも限りません。

出井『同』p.145

私も地方在住の身として、このような事態がそう遠くない未来に到来するだろうと実感しております。私も含めて壁の中の人間がジョブ型の働き方を受け入れられるかを、特に地方では本気で考えなければならないと思うのですが、地方のメンバーシップ型の正規労働者はそのような状況の変化に疎く、現状維持バイアスが強いという傾向もあって、なかなか前途は多難ですね。

2015年08月16日 (日) | Edit |
お盆中の休みに片づけてしまいたいエントリがありながら、前々回のエントリに関連して就活について書いてみます。というのも、今年から採用活動が8月1日解禁となりましたが、この熱い中スーツを着て就活に励んでいる学生の皆さんには同情申し上げるところでして、「ジセダイ」という星海社が運営するサイトの「就活こわくない会議@B&B」と題したイベント内容を見ていると、いろいろと思うところがありました。

曽和:だから聞いていいのは、「どんな人が好きですか?」じゃないですか。だから僕は選社基準って言っているんですけど、会社選びの基準とか、仕事選びの基準とか、っていう風に聞けばいいのに、志望動機という言葉が流布しすぎていて。人事に聞いても、なんで俺のこと好きなの? とか思ってないんですよ。会社選びの基準とか、仕事選びの基準とかを聞きたいのに、志望動機を聞いちゃってるっていう変な状況になってるんですよね。

中川:なんでこうなるかって言ったら、素人人事がいっぱいいすぎるからなんですよ。素人人事って何かっていうと、現場の営業とかマーケティングとかをやっている人間に「お前面接出てくれよ」みたいな話がまず来ます。とにかく多数の学生をさばかなくてはいけないので、人事部だけじゃ手が回らない。で、そいつも普段は人事なんてやらないものだから、「志望動機を聞かなきゃいけないのかなァ……?」って思っているというのがあると思うんです。

曽和:それはあると思います。僕はリクルートの時は逆に志望動機は絶対聞くなって言ってましたから、2ちゃんねるとかみん就に「リクルートぜんぜん志望動機聞かねえ」みたいにいっぱい書かれてしまって。聞いたって結局、事業説明が返ってくるだけなんですよね。「人生の節目節目で情報提供することによって、自分らしい人生を送るお手伝を」みたいな。

中川:今回の本ではそういうこと書く奴は馬鹿だ死ねって書いたんです。

曽和:そうですね(笑) そういうこと聞いてもほんと無駄だと思っていて、だからESでも無視して選社基準書いておけばいいんですよ。「私はこういう人生を送ってきて、こういう価値観です。なのでこういうのが選社基準です。それがこういう部分で当てはまると思ったから来た。」くらいの感じで十分ですし、人事もそれで納得だと思いますよ。基本的に、志望動機エントリーシート撲滅したいです。

イベントレポート 【日本中の人事に嫌われてもいい!】就活が楽になるコツを、元リクルート人事が解説(ジセダイ 2015年08月11日)
※ 以下、強調は引用者による。

このイベントでは、「登壇者は『内定童貞』の著者でありライター/ネットニュース編集者/PRプランナーの中川淳一郎(@unkotaberuno)さん、『就活後ろ倒しの衝撃』の著者で株式会社人材研究所の代表取締役社長 曽和利光さん、『内定童貞』担当編集で『ジセダイ』編集長 今井雄紀(@seikaisha_imai)の3名」とのことで、上記引用部分はそのうち中川氏と曽和氏の対談部分でして、ある意味でhamachan先生がおっしゃるところの「就職活動ではなく就社活動」という就活の実態と呼応した内容となっていると思います。曽和氏がおっしゃる「選社基準」というのはおそらく、「あたたにこの会社のメンバーとなって滅私奉公してでも業績向上に貢献する意思があるか」を問うものであって、「あなたにこの会社で生かせる職業的スキルがあって業績向上に貢献できるか」を問うものではありません。そこにあるのは、「うちの会社にうまくなじんでスキルを上げることができるか」というその会社にとっての将来的な価値を推し量ろうとする意思です。

というと、「どちらも結局、会社の業績を向上させることができるかを問うものではないか」という疑問を持たれるかもしれませんが、会社のメンバーとしてうまくなじむことが求められる点が大きく違います。「うまくなじむ」というのをもう少し言い方を変えてみると、採用担当者が最重要視するのは「どこの課のどんな人の隣の席に座っていてもうまく仕事を回すことができるヤツかどうか」ということです。となると、採否を決定する基準は自ずと現在いる従業員ということになります。つまり、「現在いる従業員に比べて」うまくなじめそうにない人をふるい落とすのが面接の重要な役割となるわけです。

私自身学生時代は地方大学に在学しながら東京で民間企業を中心に就活しておりまして、経費や時間だけでなく、その会社にいるであろう高偏差値の大学出身者の面接員からどう見られているのだろうという不安を強く感じていました。今振り返ってみれば、今の職場に当てはめてみてそれはあながち的外れではなかったと思います。社風にも業務内容にもよるのであくまで役所で仕事をしている中で感じることですが、役所が担う行政の仕事は「法律による行政の原理」によって執行されるものである以上、現行法律を正しく解釈して運用する能力が必須となります。という状況では、法律用語とか民法総則を理解できないような職員には仕事を任せられません。もちろん、地方公務員レベルでは必ずしも法学部卒である必要はありませんし、実際に多くの法学部以外の学部の卒業生が普通の地方公務員として仕事をしていますし、そもそも高卒の職員もかなりの割合でいますが、少なくとも仕事に必要な範囲内では現行法律を解釈・運用して仕事をしているわけです。

そのような仕事の現場に配属された新採用職員には、現行法律を解釈・運用する能力が求められるのは上記のとおりですが、当然大学を卒業したばかりではそんな実務的な法律の解釈・運用ができるわけではありません。そこで、そのような能力を身につけるために、必要な知識やスキルを周囲の職員や仕事の関係者から吸収するための能力が求められます。このため、大雑把に言えば、この法律の解釈・運用の能力と吸収する能力という2つの能力を「どこの課のどんな人の隣の席に座っていてもうまく仕事を回すことができるヤツかどうか」という基準で判断するわけです。その基準に照らし合わせたとき、その2つの能力が高いというシグナリングを持つ大学卒(見込み)かどうかは大きな判断要因となるでしょうし、応募する側がそれを覆す自信がなければ「この職場は自分に向いていない」とさっさと切り替えた方がご自身のためかもしれません。

この2つの能力の重要性を、前々回エントリで引用した『史上最大の決断』から省略した部分を含めて再引用すると、

(略)真面目に仕事に取り組む、他人とうまくやる、前向きに物事に取り組む、さぼらない…これらが具体的な性格スキルである。これは認知スキルと違って教室では教えられない。手本となる師から個別の指導や助言を受け、師の人格に感化されながら、少しずつ学びとるしかない。性格スキルは能力であり、遺伝的特性ではない。家族や社会的環境によって形成されるものだ。フランスの社会学者ピエール・プルデューの習慣(ハビトゥス)や日本の「守・破・離」の型などもそうしたプロセスだろう。だから、きちんとした方法によって、育て伸ばすことができる。性格スキルの育成はダイナミックなプロセスなのだ。
 いくら頭がよくてペーパーテストでいつも満点が取れても、性格スキルに欠ける人は評価されないし、大きな仕事を任せられない。アイゼンハワーはコナーとの徒弟関係を通じて、知識だけではなく、こうしたスキルも大いに学んでいたと考えられる。
 徒弟制で培われたその高い性格スキルと幅広い教養が、置かれた場所で精一杯努力する無限追求の職人道とあいまって、凡人を非凡人に変えた。

野中、荻野『史上最大の決断』p.378

というように、認知スキルと性格スキルの両方を兼ね備えた職員を育成することが組織の要諦であって、新卒の場合はそれを取得できる見込みがあるか、中途の場合はその能力を相応に有しているかを基準に採否を決めることになるわけです。日本型雇用慣行が新卒有利で中途に不利といわれるのは、新卒はでその能力の有無を見込みで決定されるのに対し、中途では実績で決定されるため、前の職場で目に見える経験や実績(特に非正規就労が長くなるとその経験を実績として評価されなくなる傾向があります)がなければ採用されにくいことも一因です。まあ、能力とか実績といっても結局のところ上記のような採用担当者の主観でしか判断されないところが、日本型雇用慣行がジョブ型ではないことの証左ともいえましょう。

…さて、ここまで読んで「なるほど」と思っていただいた方には申し訳ありませんが、ここでどんでん返ししますと、「どこの課のどんな人の隣の席に座っていてもうまく仕事を回すことができるヤツかどうか」というのは、あくまで結果論にすぎません。私が上記でいろいろ理屈をこねたのはそれはそれで間違っていない(と思う)のですが、中川氏が上記の引用部分でおっしゃる「素人人事」で採否の判断をするためにそうせざるを得ないというのが実態だろうと思います。中川氏が在籍していた博報堂という一流企業ですらそうですから、地方自治体程度の組織では人事を専門で担当している職員数は限られていて、面接員には新採用職員の配属先として想定される部署の人員を動員して面接するのが通例と思われます。その職員は普段の業務では人事を専門で担当してるわけではないので、それぞれの職場の状況から「うちの課のどんな人の隣の席に座っていてもうまく仕事を回すことができるヤツかどうか」を基準に採否を判断するしかないわけです。

ということで、結論としては、海老原さんが『面接の10分前、1日前、1週間前にやるべきこと』でおっしゃっていた「「日常のちょっとしたよいこと」は面接官の心を動かす、ということ。それは、相手も人間であり、「一緒に働きたい」と思う人を採用するからです。日常のちょっとしたよいことを、具体的に鮮明に語れるようにしておきましょう」ということに尽きるのですが、ここまで書いてみても結局、これから面接に臨もうという方にはほとんど「聞き飽きた」ということしか書いていないわけでして、結局必勝法とか裏ワザなんてものはないと考えていただければありがたいと思います。

2015年08月16日 (日) | Edit |
震災が起きてから2011年を含めて5回目のお盆になりましたが、マスコミでは戦後70年の節目ということで例年に増して戦争関連の報道や特集が多いようです。かく言う私も先日まで追い込まれていた担当業務のため、被災された地域の現状が全く分からない状況となっております。一応その担当業務は復興に関連する部分もありますが、以前と違ってそれがメインではなくなってきているという点に時間の経過を改めて感じるところです。

ということで、相変わらず私自身はごく普通の無宗教な日本人ですので、お墓参りをして親戚と会って近況報告などして過ごしたわけですが、そのときは震災のときのそれぞれの家族の思い出話(その場には直接被害を受けた親族がいませんでした)が話題になりました。親戚の中には戦争を実体験として知っているおじさんなどもいて、テレビの戦争関連番組を見ながら当時の思い出を話していたりもするわけで、戦争や大きな災害というのは、その世代の共通体験としてこうやって語り継がれていくのだろうと思ったところです。

その裏返しとしていえば、戦争や大きな災害の体験を共有しない世代にその体験が伝わるというのは、その世代がこの世からいなくなるに連れて一般的な家庭の中では次第に行われなくなるのだろうと思います。というようなことを考えていたところ、すず黄(yellowbell)さんの直近のエントリに共感することしきり。

それよりも、と言うとこれもばちあたりですがそれよりも、戦争時代こどもだった、そして終戦いいえ敗戦時代に青年だった人間たちが胸に抱いてきた、けして口には出さない出せない強烈な挫折感と劣等感、それを知る者がいなくなるという絶望です。
久々に酌み交わしながら、ふとテレビが流す敗戦時のフィルムを見て、玉音放送に額づく人々を見て、もういいじゃないかこんなこと、と目を伏せてチャンネルを変える父親を見ながら、彼の胸中にある「こんなこと」の具体的な意味を聞くことはおそらくこの一生のうちにはないんだろうな、と空になった酒を注ぐのです。

負けたら、何が残るか。
それが忘れられた社会が語る敗戦の空虚さ
に、ちょっと想像をめぐらすおセンチなお盆中日でありました。

http://h.hatena.ne.jp/yellowbell/81820371205138799

うちの親族には「もういいじゃないかこんなこと」というまでの挫折感はないのですが、ご多分に漏れず敗戦後の貧困を味わった劣等感は強烈に残っていると感じます。そこにはおそらく、あの敗戦を経験して60年安保闘争で盛り上がった当時の若者と、集団的自衛権をめぐって盛り上がっている現在の高齢者と同じく、その世代の共通体験があったのだろうと思います。その盛り上がりが自分のことと感じられる場合には、そこに新たな世代が加わっていくのかもしれませんが、そこには共通体験の欠如という大きな差異があります。

共通体験を持たない世代が前の世代が築き上げたものをどうやって引き継いでいくのか、敗戦の記憶をもたず東日本大震災の記憶を間接的に持っている私にも問われているのだなあなどと考えた次第です。

2015年08月12日 (水) | Edit |
ここしばらく業務の追い込みのため更新がすっかり滞ってしまい、2か月近く放置してしまいました。一応お盆中に何日かは休めそうですが、夏季休暇として設定されている日数を確保できるあてもなくちょこちょこと出勤しておりまして、その間にたまっていたエントリを書けるだけ書いてみるテスト。

まずは、荻野進介さんからご恵与いただいた野中郁次郎先生との共著『史上最大の決断』です(というか、ブログを放置している間に、fc2ブログはAmazonへのリンクが張れない仕様に変更されていたんですねえ…)。場末のブログにご配慮いただき改めて御礼申し上げます。

『失敗の本質』から30年。「偉大なる平凡人」にして連合軍の最高指揮官・アイゼンハワー、天才政治家・チャーチル、策士の大統領・ルーズベルト……多士済々の知略と努力が第2次大戦の活路を拓いた! 20人のリーダーたちが織りなす「戦場の意思決定」の軌跡。経営学の世界的権威が語る「危機の時代」のリーダーシップ
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史上最大の決断「ノルマンディー上陸作戦」を成功に導いた賢慮のリーダーシップ
野中 郁次郎/荻野 進介:著
定価:本体2,200円+税
発行年月: 2014年5月 取り扱い可能
判型/造本:A5並製
頁数:392
ISBN:978-4-478-02345-7

実をいうと登場人物を把握しながら読むのが得意ではないので歴史叙述的な文章は苦手なのですが、400ページ近い本書の大部分はノルマンディー上陸作戦が遂行される過程が描かれておりまして、読むのに時間がかかってしまいました。結局ご恵与いただいてから半年以上経ってしまい、その間に別の本はちょこちょこと読んでいたので改めて自分の読み込みの悪さを痛感した次第です。

その読み込みの悪さを棚に上げて本書の感想など書かせていただくと、ノルマンディー上陸作戦を遂行した最高責任者であるアイゼンハワーを題材として、「実践知」という概念から捉えたリーダーシップ論として学ぶところの多い本でした。拙ブログでは「実務知」という言葉を使っていましたが、私のような下っ端公務員とか普通の職業人が直面する実務を包括する概念として、「実践知」というものを観念する必要があるのだろうと思います。

 アリストテレスは『ニコマコス倫理学』において、知識をエピステーメ、テクネ、フロネシスに分けて説明している。エピステーメとは科学的、認識論的な客観知であり、「形式知」と言い換えることができよう。テクネとは実用的なスキルやノウハウであり、「暗黙知」と言っていい。われわれは暗黙知と形式知の相互変換螺旋(スパイラル)運動によって知識創造、すなわちイノベーションが生まれると考える。それを促進するのが第3の知識であるフロネシスである。
 フロネシス、すなわち実践知は実践理性という訳語もあるように、実践と知性を総合するバランス感覚を兼ね備えた賢人の知恵である。利益の極大化や敵の殲滅という単純なものだけではなく、多くの人が共感できる善い目的を掲げ、個々の文脈や関係性の只中で、最適かつ最善の決断を下すことができ、目的に向かって自らも邁進する人物(フロニモス)が備えた能力のことだ。予測が困難で、不確実なカオス状況でこそ真価を発揮し、新たな知や確信を持続的に生み出す未来創造型のリーダーシップに不可欠の能力でもある。

野中、荻野『同』pp.344.345

私が「実務知」といっていたのは、ここでは「暗黙知」に該当するのかもしれませんが、「暗黙知」といえば野中先生が『知識創造企業』においてナレッジマネジメントの中心となる概念として強調したものでして、私の考える「実務知」とはちょっとイメージが違うかなとも思います。まあそれはそれとして、あるプロジェクトが計画され、実行され、その結果が生じるまでのプロセスにおいては、そのプロセスを管理する組織が必要であって、その組織とは結局のところ、一人ひとりを取ってみれば知識も経験も限られた個人の集合です。その組織が単なる個人の集合ではなく、善い目的のためにプロジェクトを遂行する主体となるためにリーダーが必要であり、その人物が備えるべき能力が「実践と知性を総合するバランス感覚」としてのフロネシスということなのでしょう。

本書は、実際のプロジェクトを遂行する際にそのフロネシスを発揮した人物としてアイゼンハウアーを題材とするのですが、そのアイゼンハワーは「最も普通ではない状況に置かれた最も普通な人」(本書p.364)であり、凡人を非凡人に変えた鍵はフォックス・コナーによる徒弟制だったとのこと。

 置かれた場所で腐らず、驕らず、日々努力して高みを目指す人がいる。それを見て頼もしく思い、新たな知識を授けてくれたり、引き上げてくれたりする上司がいる。そういう人材が大きく羽ばたける制度と存分に活躍できる場も用意されている。凡人を非凡人に変えるプロセスをまとめるとこんな具合になる。
 そのプロセスを推進する最も大きな鍵は何か。
 それは、徒弟制だ。アイゼンハワーにとって、「戦史と教養の大学院」で、古典の素読をはじめ、軍事戦略からリベラルアーツ、物の見方まで、手取り足取り教えてくれたコナーの存在がやはり大きい。だが、彼らの間では、そうした知識の伝達だけが機械的に行われたわけではないはずだ。
(略)
 いくら頭がよくてペーパーテストでいつも満点が取れても、性格スキルに欠ける人は評価されないし、大きな仕事を任せられない。アイゼンハワーはコナーとの徒弟関係を通じて、知識だけではなく、こうしたスキルも大いに学んでいたと考えられる。
 徒弟制で培われたその高い性格スキルと幅広い教養が、置かれた場所で精一杯努力する無限追求の職人道とあいまって、凡人を非凡人に変えた。士官学校時代はフットボールとポーカーに明け暮れ、入隊後も戦場とは長らく無縁で、大佐で退役し、後は悠々自適の人生を送りたい、と思っていた平凡な男に、われこそは人類共通の敵を倒す十字軍の頭領たらん、という共通善を志向する志を与えたのである。

野中、荻野『同』pp.377-378

アイゼンハワーはノルマンディー上陸作戦を遂行した最高責任者でしたが、そこに至るまでに師となる上司がいて、その教えを着実に学んでいける徒弟関係があり、そこで培った能力を認めて重要な任務に当ててくれた上司がいたわけです。本書はあくまでリーダーシップ論ではあるのですが、そこで問われているのは組織内でリーダーとなる人材をどのように育成するべきかという人材育成論でもあります。その意味では「普通の人」といわれたアイゼンハワーがノルマンディー上陸作戦を遂行し、戦後はアメリカ大統領にまで上り詰めるという流れは一見サクセスストーリーとして読むこともできそうですが、当時のアメリカ陸軍がそのような人材育成ができる組織であったことも本書では指摘されていて、当然ながらだれでもどこでもできる話ではありません。当のアイゼンハワーも、「アイク・スマイル」と呼ばれた笑顔の奥の本心は家族にも見せなかったといわれていたとのことで、むしろ「最も普通ではない状況」に置かれてなお「最も普通な人」でいられたということは、やはり相当な非凡人だったというべきでしょう。

さて、そのような非凡人の話を正真正銘の凡人である私が読んで学ぶところが多いと感じたのは、リーダーに限らず「実践知」という概念は必要だと考えるからです。「形式知」を振りかざして「暗黙知」(実践)を軽んじるのはもちろん、その逆もプロジェクトを遂行するためには不適切なやり方です。しかし、そのことを理解するためには、やはりある程度の大きさの組織に属して、様々な実務を担当する者同士がそれぞれの「形式知」と「暗黙知」をフロネシスに転換していく作業を自ら行うことが必要だろうと思います。それは決してリーダー一人だけの問題ではなく、実務をこなす担当者がまさに直面する問題です。私も目の前の実務をこなすために、フロネシスの概念にまで転換できるように努力しなければと改めて考えた次第です。