2015年02月22日 (日) | Edit |
前回エントリで取り上げた「発達障害」とか「発達凸凹」の傾向がある方の就労についての補足になりますが、私自身も「発達凸凹」の傾向がある程度当てはまるだろうとは思うものの、幸いにも(小さな困難はありますが)それほど大きな問題を起こすことなく仕事ができているのには、公務員という仕事の特性もあるのだろうとも思います。というのも、最近はネット上でも「発達障害」とか「発達凸凹」の傾向がある方についての関心が高いようで、「最近になって増えてきた、発達障害を考える。「自己診断付き・学習障害や症状解説など」」というサイトで「向いている職種」の1つに公務員が挙げられていまして、なるほど私の仕事もそれなりに適性があるということかもしれません。まあ、これをどうとらえればいいのかちょっと難しいところもありますが、特に地方自治体での公務員の仕事は定型的な業務が占める割合が大きいという面もあるでしょうし、「発達障害」という言葉が一般的になる以前は職員の一定割合はそのような傾向があることを前提として、そうした職員でもできる業務を寄せ集めた部署を用意していたということもできそうです。実際、役所の業務ではどの部署にもいわゆる「庶務」担当が置かれていて、各部署の経理や労務などの定型的な業務を一括して担当する職員が必ず一定割合いたものです。

しかし、その流れが大きく変わるきっかけとなったのがいわゆる2001年(平成13年)度の「地方財政ショック」(当時は「交付税ショック」という言い方だったと思いますが)ではなかったかと思うのですが、実際にはバブル崩壊後に不採算部門の切り離しを進めていた民間の動きに倣うように業務のアウトソーシングが進められていて、それが「地方財政ショック」で一気に加速したというところでしょう。具体的には、「「まずはムダの削減がなければ負担を受け入れるわけにはいかない」という理屈でもって「まず間接部門が率先して人員を削減する姿勢を見せざるをえなくな」ったわけでして、「確かにそういった間接部門には処理能力は高くても対外的な交渉能力が低かったり、役所の掟に精通している以外にこれといった取り柄のない職員もいました。そういった職員が「現場にも出ないで役所の中で座っているだけのムダな人員」とされるのも理解できなくはありません」」が、結果として対人スキルに乏しくても処理能力の高い職員がその能力を発揮できる間接部門が削減されていくことになりました。

その例が、たとえば「総務事務の外注化によって削減される人員は20名弱なわけですが、その人員を企画的な業務に就かせることによって生産性を上げる*2のが狙いとのことです。一方で、後段の引用部によると、総務担当にお願いすれば済んでいたことを自分でやるという「サービスの低下」の影響はすべての県庁職員に及びます。これを「トータルで見ての効果は十分上がっていると静岡県では考えている」とする静岡県」ですね。リンク先のエントリでは、ルーチンワークのノウハウを蓄積した職員が職場にいなくなることによってほかの職員の負担が増えていることについての考察がないことを批判しておりましたが、それは同時にそうした分野で処理能力を発揮する職員の居場所をなくすことでもあったわけです。

さらにこの時期には、指定管理者制度によって公的施設の管理運営もアウトソーシングすることができるように制度改正されました。公的施設の管理運営も定型業務が占める割合が大きいため、対人関係スキルに乏しい職員や現業労務担当の職員が配属される部署だったわけですが、そのような部署も地方財政ショックによる人件費削減のかけ声の下、大々的に指定管理者への移行が推し進められました。でまあ指定管理者制度の問題点はWikipediaの指定管理者制度の項によくまとめられているとおりでして、

問題点

  • 制度導入の真の狙いが運営費用と職員数の削減にあることから、行政改革の面だけが過剰に着目される
  • (略)
  • 指定期間の満了後も同じ団体が管理者として継続して指定を受けられる保証は無く、選考に漏れるなどによって管理者が変更した場合は殆どの職員が入れ替わってしまうことも考えられる。また、指定期間が3~5年程度と短期間であれば正規職員を雇用して配置することが困難となるなど人材育成は極めて難しくなり、職員自身にも公共施設職員としての自覚や専門性が身につかない。
  • 指定期間の短さは人材育成と同時に設備投資や運営面での長期的計画も阻んでいる。特に教育・娯楽関連の施設では経費節減のために「場当たり的な運営」しか出来なくなることで集客力が減少し、それに伴う収益の減少によって必要経費も充分捻出できなくなり、結果として更に客足が遠のくといった悪循環に陥る可能性が高い。

指定管理者制度(wikipedia)
※ 以下、強調は引用者による。

という状況になっています。指定管理者制度もその実態は委託と同じですので、前述の総務事務センターなどの間接部門のアウトソーシングと同様に、長期雇用の普通の公務員はムダだからという理由で短期雇用の非正規職員に公的サービスの提供を低コストで行わせるものであり、ノウハウの蓄積を通じた職員の人材育成が期待できなくなるものではあるのですが、自治体にとっては行政改革として成果を誇るものとなるわけです。

全国で初めての「総務事務センター」を設置

  • 本庁では、平成10年度から、各部局の主管室において、職員の給与や旅費、非常勤職員の報酬費の支払などの総務事務を集中化してきました。
  • 平成14年度からは、さらなる事務の効率化を目指して、全国で初めて「総務事務センター」を設置し、集中処理を行っています。
  • また、職員の効果的な配置や経費の削減を目指し、アウトソーシング(民間委託)の導入を積極的に進めています

「総務事務の集中化」(静岡県)


前置きが長くなりましたが冒頭の障害者雇用の話に戻りますと、障害者雇用は公的機関が率先すべきとの考え方により法定雇用率が民間よりも高く設定されていますが、上記のようなアウトソーシングと指定管理者制度によって定型的な業務を行う部署が大きく削減されてしまい、障害のある方を職員として配置できる部署が少なくなっていることが大きな壁として立ちはだかっています。公的機関が率先すべきというのは趣旨は理解できるものの、特に法律上はジョブ型の雇用を前提としている地方公務員の採用に当たって、業務がなければ雇用できないのは当然の成り行きでして、障害があっても業務遂行できる職務内容や職場環境を外部化してしまった役所には、そもそも障害者を雇用する余地がなくなってしまっているわけです。

実は、茨城県ではこれを逆手にとって総務事務センターでの障害者雇用を進めているという記事が総務省発行の雑誌に掲載されています。

 茨城県では、県庁での障害者雇用を拡大するに当たり、障害者がその障害を負担とせずに活躍できる業務や職場の在り方が課題となっていました。そこで、県庁内の業務を分析・検討した結果、職員の給与・旅費の計算を始めとする総務事務については、パソコン等を用いたデスクワークが中心であり、障害者にもなじみやすい業務の1つであると考えられました。
 一方で、本県では、行政改革の観点から効率的な事務処理を推進するため、平成23年度から、それまで庁内各課で行っていた総務事務を集約し、一元的に処理する「総務事務センター」を設置することとしていました。
 総務事務センターの設置により、庁内から集約された大量の総務事務を処理する職員の確保が必要となることから、同所において障害者が働きやすい職場環境を整備するとともに、通勤負担がかからない勤務時間の割り振りや痛飲などに配慮した勤務日の変更を行うことで、積極的に障害者雇用を進めることとしました。
(略)
 このような総務事務の集約化組織に多人数の障害者を直接雇用しているのは、都道府県では茨城県が初めての取組で、現在は、身体障がい者7名、知的障害者1名、精神障害者2名の計10名が週29時間勤務の非常勤嘱託職員として勤務しており、総務事務センター全職員の一割強が障害者で構成されています。

「障害者雇用の促進に向けた取組(茨城県総務部人事課)」(地方公務員月報 平成27年2月号p.25)

茨城県が都道府県で初めて取り組んだとのことでして、民間で言う特例子会社の取組に類似した形で障害者の方が働きやすいように職場環境を整備した部署を設置したという点で、画期的な取組と評価するべきでしょう。しかしその一方で、週29時間勤務の非常勤嘱託職員というのは、法的にはいろいろありますが実務的にざっくりいえば、労働時間が週29時間を超えると常勤の職員との待遇の違いを規定した地方公務員法上、特に雇用終了の取扱いが面倒になるからですね。つまり、あくまで長期雇用を前提としない非常勤の雇用形態としていることが伺われまして、同じ記事で紹介されている「いばらきステップアップオフィス」でも、「職員が県での就業体験を活かして最終的に民間企業等に就職(一般就労(ステップアップ))することを目標としているため、雇用期間は最長三年としています(同p.26)」としているとおり、上記のような長期のノウハウの蓄積や人材育成は始めから想定外としているわけです。

もちろん、障害者であっても通常の業務をこなせるような知能やスキルを持った方もいらっしゃいますが、残念ながらそのような方が活躍できる場やバリアフリーな働き方ができる部署が、財政難で経費削減に追われる自治体の役所にはほとんどないことがより根本的な問題ではあります。さらにいえば、メンバーシップを前提とした日本型雇用慣行においては、量をこなすための担当者レベルの仕事の人事評価が低いため、「定型的業務=短期的雇用」という結びつきが強くなる傾向があります。

これらが組み合わさると、茨城県のように障害者を雇用する枠は作るとしても、そこで実際に働く障害者は短期雇用で定期的に入れ替える仕組みとし、長期的に障害者が働きやすい職場環境の整備までは至らないということになります。それは結局のところ、障害者を「メンバー」として長期に処遇する財源的裏付けがないからでして、この点は特例子会社でも同じような状況はあると思われるところですが、自治体の事業として「バリアフリー」とか「ダイバーシティ」とかのかけ声は威勢がいいものの、こと自分のところの職員として処遇できないというのは、「メンバー」として使い勝手のいい職員を雇用することを前提とした人事制度と財政民主主義の原則の下で、財源が確保できずに長期的な人件費を計上することのできない自治体の限界といえるでしょう。

まあ役所というのは「理屈」さえあればそれなりに予算をつけることはできるところでもありますので、精神障害者の雇用義務化についてではありますが、この荻野さんの指摘は重要な視点となると思います。

 さきほど、精神障がい者を雇用するメリットを三つあげたが、どうも、もう一つあるようだ。それは、職場が本来の職場の姿を取り戻す、ということ。うつ病の人には仕事の時間管理が、統合失調症の人には業務の定型化が必要、と書いたが、それは何ら特別なことではない。相手が障がい者でなくても、仕事を割り振る人間なら備えておくべきスキルとモラルに他ならない

理想は本人、企業、社会の「三方よし」

 そうだとすれば、不機嫌な職場が精神障がい者の雇用で変わるかもしれない。障がい者が、ぎすぎすしがちな職場を変える可能性があるのだ。一方、企業は精神障がい者にも雇用を生み出すことでより大きな社会的責任を果たすことになる。本人は仕事を通じて堂々と社会参加し、そのことが社会経済の発展を促進する。そうした「三方よし」が実現できたら、理想的だ。

 障がい者雇用というと、これまでは特例子会社をつくり、障がい者のみで仕事をしてもらう方式をとる企業も多かった。ところがそれは身体障がい者、知的障がい者向きのやり方だったのだろう。これから重要なのは、既存の職場と障がい者をいかに共存させるか、ということではないか

変わる?障がい者雇用:精神障がい者の雇用義務化がもたらすもの 2012/11/15(Recruit Agent 法人サービストップ > 中途採用ノウハウ > 採用の達人 > 業界トレンド/採用動向 >)

予算はもちろんのこと、「メンバーシップ」で使い勝手のいい職員を相手にしていた人事管理の限界に正面から向き合う覚悟が必要とされているわけです。
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2015年02月16日 (月) | Edit |
年明けからもいろいろ積み残しているところですが、fujiponさんのブログで「……さかもとさん、あなたは僕ですか?」という言葉があって、私も思い当たるところがあったのでさかもと未明『まさか発達障害だったなんて』を読んでみました…が、fujiponさんの言葉に付け足して「……さかもとさん、あなたの家族は僕の家族ですか?」と言いたくなってしまいました。

以前杉本医師の著書を取り上げたときに「私自身本書の記述に思い当たるところがあるので一定程度は発達凸凹なのだと思います」と書いたとおり、さかもと氏が子供の頃の思い出とか大人になってから「生きにくさ」について記述した部分に、自分の身に覚えのあることが多く含まれていました。杉本医師が「発達凸凹」というのは、「「発達凸凹」への対処法(代償行為というそうですが)を経験によって無意識に身につけている」状態とのことで、私の場合はある時点から運動機能については人並みにこなせるようになって、体育会系が幅を利かせる日本社会ではそれなりに社会的行動がこなせるようになったものの、対人関係での「生きにくさ」は常に感じているので、かなりの程度「発達凸凹」に該当するのではないかと思います。そしてさらに、さかもと氏の家族、特にご両親についての記述についても「発達凸凹」という程度でかなりの部分が当てはまるので、「……さかもとさん、あなたの家族は僕の家族ですか?」と感じたところです。

身元が割れてしまうので一部フィクションを入れますが、私は子供の頃左右が分からず、運動がほとんどできず、目に映る景色に遠近感がなく感じ、他の人が気にならない音に過敏に反応してものを持っていられないほど力が抜けてしまうことがよくありました。それでいて中学まではなんとなく授業を聞いただけで成績上位になれるくらいの知能はあり、上記のとおりある時点から運動機能もかなり改善されたのですが、現在でも左右は分かりませんし、そもそも対人的な「生きにくさ」は子供の頃からほとんど変わっていません。特に両親に対する距離感がまったくつかめず、本書のこの部分は自分の嫌な部分を突きつけられる思いがしました。

 自分に流れている血を次世代に伝える気にはどうしてもなれない絶望。親を呪い、家族の記憶をどうしても愛せなかった私は、小さな子供、とくにミルクの匂いがする赤ん坊がそばに来ると吐き気がした。泣きたくなった。
82%

 私は「幸福」のお手本を知らなかった。わずかなイメージさえつくれていなかった。母親になるためには、それを楽しいものとイメージして、自分の子供に会うことを幸せだと思っていなければダメ。私には嫌悪の記憶しかないのだ。だからムリ。でも夫は優しい両親と幸せな家庭で育った。だから私が出産にいだく絶望的な嫌悪なんて理解できないだろうと思った。
(中略)
 私はハリネズミみたいだった。そうでなければ毒毛虫。私の中身は食えなくて、ぷにぷに柔らかくて、踏めばすぐつぶれる弱っちい塊だった。本当は愛を求めて優しくしてほしいのに、優しさを与えられるとどうしていいかわからない。そして、頑なに拒否するふりをしたり、冷たくあしらったりした。相手が絶望してあきらめてしまうような素ぶりをするのが、じつにうまかった。相手の心がつぶれてしまうようなひどい罵倒の言葉がいくらでも口から飛び出した。
 自分で言っておきながら、どうしよう、取り返しがつかないとドキドキするのだけど、止められない。物事をどうしようもないくらいに壊してしまうことが、ある種の快感だった。ああ、どうしよう。もう終わり。そう思うと、なんだか体にハッカをかけたみたいな興奮が走った。自分が人から見捨てられたり、嫌われたとわかったとき、さらにその上塗りをする行動に出た。「ねえ、嫌いなんでしょ。はっきりそう言って」。私はそれを夫にしてしまった。その前は母にしつづけた。
 嫌われて当然だ。やりなおしたいと思って家族をもったのに、ほんとうに優しくしてもらった恩を仇で返した。涙が止まらない。
83%

まさか発達障害だったなんて 「困った人」と呼ばれつづけて PHP新書まさか発達障害だったなんて 「困った人」と呼ばれつづけて PHP新書
(2014/12/02)
星野 仁彦、さかもと 未明 他

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…いやあ「発達障害」と診断されるような行動のすさまじさを感じる記述でして、さすがに私はここまで極端ではないですが、ごく最近まで自分の血が次世代に残ることに嫌悪感を感じていましたし、相手に優しくされるほどに冷たくあしらい、自分でもマズイと思っているのに優しくしてくれる相手を罵倒し出すと止められず、相手に辛い思いをさせたことは一度や二度ではありませんでした。いまこうして書いているだけでも吐き気がするほどの思い出ですが、数年前にそのことを自覚してからは、特に対人関係の対処法としての「代償行為」にはかなり気を遣うように心掛けています。しかし、仕事では何とかなっていても、プライベートでは「代償行為」もできずに昔のひきこもりがちな状態に戻ってしまいます。特にうちの両親とは、ちょうどさかもと氏のご両親と同じ年代で境遇も似たようなところがあって、しかも負けず劣らずのコミュニケーション不全のため、真っ正面から対立してしまうことがよくあります。本書のさかもと氏の家族についての記述を読んでいると、自分の実家の光景を見せられているようでした。

実は、前々回エントリで取り上げた中澤さんの『働く。なぜ?』の「しごとの穴」という考え方を拝見して、仕事での「代償行為」はおそらく仕事の「量」をこなすことで身につけたスキルなのだろうと思うようになりました。私は○○職員とか○○の担当という役割が与えられる間は行動量をこなして他者にも働きかけることができるものの、それらを一切外したプライベートではほとんど行動することができません。つまり、私が「発達凸凹」を抱えながら対人関係の「代償行為」を身につけることができたのは、仕事で行動が規定されていてそれをこなさなければ職場に居場所がなくなるという状況に追い込まれたからであって、まがりなりにも就職して目の前に仕事があるという環境がなければおそらくこの「代償行為」を身につけることはできなかったと思います。

となると、「発達障害」とまでいかなくても私のような「発達凸凹」を抱えた方はそれなりの割合で存在しているでしょうから、その「生きにくさ」をある程度解決できるのが仕事というスキル習得の場であって、世の中はそうした「発達に何らかの困難」を抱えた人が「生きにくさ」を解決しながら何とか成り立っているというのが実態ではないかと思います。まあ「発達凸凹」という言葉の定義そのものがそうした「代償行為」を身につけた(身につけうる)状態を指すので若干トートロジーのような気もしますが、仕事がそうした「生きにくさ」を社会生活に支障のない程度に変換する機能を有していると考えると、仕事をすることで人間としての尊厳を保つことができるというのは、特に私のような「生きにくさ」を抱えた者にとってはとても意義深いことだと思います。その対象を「発達凸凹」からもう少し広げていくと社会的包摂の考え方に近くなるという点でも、労働と福祉をつなぐ重要な概念といえるでしょう。

ただし、「発達障害」とか「発達凸凹」の傾向があっても知能レベルには問題がない、というかむしろ特定の分野では高い知能を発揮することが多いということからすると、逆にいえば、官民問わず高い知能を持つ職員が多い職場では、社会全体よりも「発達障害」とか「発達凸凹」の傾向がある方の割合が高くなるということもいえそうです。私なんぞは中学までは勉強しなくてもそれなりの成績だったのが、体系立てた知識の習得が求められる高校以降は平凡な成績でした(勉強したことがないので勉強の仕方が分からない)が、大学までトップクラスをキープできる方ももちろんたくさんいて、そうなると大学名がものをいう霞ヶ関や大手企業、さらに知能の高い研究者にはそうした方が一般的な職場より多くいるということになるのではないでしょうか。そしてそれは、個人的に感じる印象にも合っているように思います。

ということは、官民問わず日本の中枢にいる方々の少なくない割合は、「発達障害」とか「発達凸凹」の傾向がある方々が占めていて、しかも本書によればその傾向は遺伝する確率が高いとのことで、そのような方が占める割合は常に社会全体よりも高くなっているかもしれません。つまり、日本の制度を司る官僚や景気動向に大きな影響を与える企業の意思決定には、かなりの割合で「発達障害」とか「発達凸凹」の傾向のある方の行動が反映されている可能性があります。もちろんそれは、「発達障害」とか「発達凸凹」の傾向があるから問題があるということではなく、むしろビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズのように莫大な利益を上げる可能性もあるわけで、社会の発展に重要な要素であったはずです。しかしそのひととなりでは、傍若無人な振る舞いでAppleを追い出されたスティーブ・ジョブズのように、周囲からすれば迷惑千万な人も多くいたでしょう。さらにその影には、ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズのようなめざましい成果を挙げることなく、さかもと氏のように一時期であっても輝きを放つこともなく、「発達凸凹」程度で「代償行為」を身につけることができればまだしも、周囲に疎まれて居場所をなくし、孤立して精神を病んでいく多くの方がいるわけです。

そしてそれは、遺伝によって「再生産」されていくことになるのですが、「再生産」された方々の居場所は、親の世代よりも確実に狭まっています。海老原さんの著書からの再度引用させていただくと、

 そう、かつては、対人折衝が苦手な心優しき人たちが、自営業で家族の中で働けるだけでなく、建設現場や製造部門と行った対人折衝が少ない仕事を選ぶこともできた。ところが現在は、こうした第二次産業も衰退したため、結局、対人折衝主流の三次産業でしか働けない。それが、彼らの居場所を奪っているのではないか。
p.208

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(2012/08)
海老原 嗣生

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まあ私もいまの職場に居場所があるかと言われるとなかなか自信を持っては答えづらいですが、少なくとも「代償行為」を身につけることができる貴重な場であることは確かです。しかし私を含め「再生産」された方々の少なくない割合は、プライベートでは相変わらず引きこもりがちな状態のままですが、そうした「仕事ではそれなりに人付き合いするけどプライベートでは家族以外と会わない」というライフスタイルは、日本のここ数十年の一般的な家庭の姿のようにも思います。

そう考えると、長期育成をシステム化した日本型雇用慣行は、新卒一括採用という画一的な方法により画一的な人材を採用しているように見えて、実際には多少の「発達凸凹」の傾向があっても社会で使える程度の人材に育て上げ、むしろその特性を活かして「企業戦士」として活躍する場を与えたと評価することができそうです。つまり、日本企業の人材が画一的なのは新卒一括採用だからではなく、採用後に対人関係での「代償行為」を場合によっては過剰に身につけさせることによって、多少の無理も厭わない人材として画一化していくというのが実態に近いのではないでしょうか。その「代償」が、プライベートは家でゴロゴロしているモーレツサラリーマンの姿だとすれば、私もそのような「発達障害」とか「発達凸凹」の傾向がある家庭で「再生産」されたという点で、日本型雇用慣行の下での典型的な日本人なのかもしれません。その他にも、ネットやマスコミでよく見かけるような他人を攻撃する言動にも、私は同じような既視感を感じます。もしかすると、この問題は社会的な問題を考えるときに結構大きなインパクトを持っているのではないかと思う次第です。

(念のため)
本エントリでは「発達障害」とか「発達凸凹」の傾向のある方を、「付き合い方が厄介」というような書き方になった面があるかもしれません。誤解を与えてしまった場合はお詫び申し上げます。確かに付き合うには少々厄介な面はあるとは思いますが、周囲にそのような方がいたとしても、本人に面と向かって「あなたは発達障害だから○○なんだよ」とかいうのは控えるべきだと思います。この点に関して、jin-Jourという人事担当者向けのサイトで平岡禎之氏が参考になる記事をアップされています。

 私たち家族は今、月に数回ほど発達障がいの体験発表をさせてもらっている。ある日の講話の中で受講者から「今の話を聞いて同僚に、当事者に間違いないと思える人がいる。本人に教えてあげたいがどう思うか?」と尋ねられた。質問者は、なにかいいことを発見したような好意に満ちた笑顔だ。
 だが、私の助言は「やめた方がよい」だった。それはなぜか? この本文でお答えしたい。

(中略)

 例えば、彼ら彼女らの悩みと周囲の戸惑いを深くする一因は、その違いが見て取りづらいという点にある。やや極端な例だが、伝統的なマサイ人があなたの会社に入社してきたと想像してみてほしい。その人たちが真っ赤な民族衣装に身を包んで事務所に現れたら、文化の違いに身構えつつ慎重に接するだろう。アフリカでの生活様式のままに行動しても、私たちには思いも寄らないタイミングで跳躍をしたとしても決して叱り飛ばしたりはすまい。ところが同じマサイ人が、スーツを着た日本人そっくりの外見で同じような行動を取ったとしたら、きっとトラブルは避けられないだろう。
 高度サービス・高度情報化がもたらした便利で快適な文明社会は、世界観の異なる人々に大きな断絶をもたらしているのかもしれない。同じ世界観、同じ文化の中にあるという思い込みはしばしば摩擦の原因となる。加えて日本語の文化は侘び寂び、本音と建前、暗黙の了解など非言語コミュニケーションが主流で、発達凸凹タイプにはストレスが大きいものなのだ。発達凸凹な人々の行動と悩みを理解するためには、やや言葉はよくないかもしれないが、そこに文化の隔たりがあるようなもの、日本語の通じる異人種だと捉える感覚が大事だと思う。

(中略)

 ただ、専門知識のない者が職場で発達凸凹な人に気づくヒントがある。それは、当事者たちの大多数には、悪意がなく、それどころか、困惑している人が実に多い。周りの人々を困らせている発達凸凹人こそが、実は一番困っているのだ。ただ問題なのは、外見上はまったくと言っていいほどそう見えない上に、当事者本人が気づいていないことが多い。なぜなら客観的に自分の言動を把握して分析するのが苦手だからだ。本文の冒頭で当事者らしき同僚への告知は「やめた方がよい」と助言した根拠がこれに当たる。
 また、病院の受診をし、診断名がついたからといって、すぐに問題が消えるわけではない。特性は脳、性格は心と分けて考えることが大切だ。なおかつ、重要なのは診断を受けることよりも問題の解決だ。
 職場でのフォローの第一歩は、発達凸凹という特性より、まずは"職場で問題が起きている"ということに着目することだと考える。違いを受け入れ、問題を一緒に考えて乗り越えて行く姿勢こそが、困っている当事者を救い、なおかつ職場を活性化することになるのだと思う。

Point of view [2015.01.30]「第34回 平岡禎之 職場の中の発達凸凹な人々 その傾向と対策について」(jin-Jour)

もちろん、「発達凸凹」の傾向がある方にも「生きにくさ」はあるでしょうけれども、意見の違いや行動の違いを受け入れるだけの余裕がなくなっている現状が、回りまわって我々全員に「生きにくさ」を感じさせているのであれば、平岡氏の指摘は重要な視点だと思います。

2015年02月11日 (水) | Edit |
しばらくこのフレーズを使っていませんでしたが、今日で震災から3年11か月が経ちました。この間に、hahnela03さんの今年最初のエントリで教えていただきまして、昨年末に震災時のCFWの観点から緊急雇用創出事業をまとめたJIL-PTの労働政策研究報告書で公表されていましたので、早速拝読しました。

結局本エントリをアップするまでに1か月以上かかってしまったのですが、本報告書の執筆陣の中には、震災直後にCFWを提唱された永松先生も参加されていて、提唱した当人としてどのようにまとめられているのか大変興味を持って読み進めました…が、うーむ、これは公表するのはちょっと早すぎたんではないかと思うほどの誤字脱字っぷりです。まあ内容がしっかりしていれば誤字脱字も差し引いて読めるかとも思ったのですが、ここでもやはり緊急雇用創出事業の問題点は華麗にスルーの方向のようでして、あちこち引っかかりながら読んだところです。

とりあえず、緊急雇用創出事業の説明は厚労省の実施要領から引用しているようなので、大きな間違いはなさそうと思いきや…

 「緊急雇用創出事業」は、もともと東日本大震災のために作られた基金事業ではなかった。緊急雇用創出事業は、2008年、リーマンショック後の雇用の下支えと労働者の生活防衛のための緊急対策として創設されたもので、地域の雇用失業情勢が厳しい中、失業者に対して一時的な雇用機会を創出するために作られた失業対策のための事業である。基金は、都道府県に対して「緊急雇用創出事業特例交付金」を交付し造成される。
 緊急雇用創出事業は、失業者の救済目的として雇用をつなげる目的の事業(「緊急雇用創出事業」)と、介護、医療、農林、環境等成長分野における新たな雇用機会を創出するための人材育成も包括した事業である「重点分野雇用創造事業」の2つで構成されている。東日本大震災に対応した「震災等緊急雇用対応事業(以下、震災対応事業という)」は、この「重点分野雇用創造事業」の基金を二千億円積み増し創設された。
p.8

「復旧・復興期の被災者雇用―緊急雇用創出事業が果たした役割を「キャッシュ・フォー・ワーク」の視点からみる―」(労働政策研究報告書 No.169 平成26年12月25日)

いやまあ、緊急雇用創出事業そのものが拡充やら要件緩和やらで訳が分からない状態となっていて事業名の順列組合せがヒドすぎるのでやむを得ないとは思いますが、整理しておきますと、基金事業の総称が「緊急雇用創出事業」であって、その内訳としての事業の「枠」が緊急雇用事業、重点分野雇用創造事業の2つに大きく分けられます。「枠」というのは実施の条件が異なる事業ということで、たとえば本報告書でも例示されている(p.9)とおり、緊急雇用事業では厳密に雇用期間は6か月1回更新で1年までですが、重点分野雇用創造事業では1年のみで更新は不可(いずれも被災求職者は除きます)という要件の違いなどがあり、国から示された枠の中でしか予算化することができません。この後者の重点分野雇用創造事業は、震災前の時点で「重点分野雇用創出事業と地域人材育成事業の二つに分かれて、さらに地域人材育成事業のうちには「働きながら資格を取る」介護雇用プログラム(pdfファイルです)という事業が含まれています。で、今回拡充されたのは、重点雇用創出事業と地域人材育成事業(「働きながら資格を取る」介護雇用プログラムを含む)からなる重点分野雇用創造事業というわけです。あぁめんどい」というように細分化が進んでいたところ、震災後さらに震災等緊急雇用創出事業などが追加されたという流れです。あぁやっぱりめんどい。まあ詳しくは国の事業実施要領をご覧いただければと。

ということで、上記引用部で「失業者の救済目的として雇用をつなげる目的の事業(「緊急雇用創出事業」)」といっているのは、正しくは「緊急雇用事業」ですね。まあこの辺は「ん?」と思いながらも制度そのものがめんどくさいからしょうがないかなと読み進めていたのですが、その後も誤字脱字が散見されまして、せっかく震災の取組が取りまとめられる機会だったのに誰か校正できなかったのだろうかと少し残念な気持ちになりました。その他とりあえず目についた誤字としては
・気仙沼市が岩手県になっている(p.61、p.140)
・団体名の表記が違う(×岩手連携復興センター→○いわて連携復興センター、p,103)
といったところですが、私もお会いしたことのある(と思われる)方の役職が違っていたり(まあイニシャルだけで断定はできませんが)するので、各事業における用語の使い方も怪しい感じがします。

このような誤字脱字程度であればまだしも、上記のような制度にまつわる誤った認識は議論の方向性を誤る原因ともなりかねないので、制度についてはより慎重に吟味する必要があると思います。これもとりあえず目についたところですが、緊急雇用創出事業で実施される事業は、より広く雇用の機会を創出するために専門的な技能をもつ方を雇用する事業は実施できないとされているのに、「被災地内で調達不可能な専門職等や、実家が被災地にあるIターンの人材などを雇用できるような工夫がほしいところである」(p.48)とさらっと書かれています。専門的な技能を持つ方を雇用する事業を認めてしまうと、専門的な技能を持つ方以外の雇用の機会が制限されてしまうことになって、雇用の場を失った方のための雇用機会の創出という緊急雇用創出事業の目的から外れてしまうわけです。その内訳の事業である重点分野雇用創造事業も、現在は技能をもっていなくても研修などの人材育成を行うことで「これからの」重点分野となる事業を実施するものであって、いま現在必要な事業を実施するものではありません。

つまり、震災であらゆる社会的機能が失われた状況でそれを代替するのは、そもそも緊急雇用創出事業の事業目的には沿うものではないということになります。もちろん震災直後の状況でそんなスジ論をぶっている余裕はなかったわけですが、その緊急事態で無理矢理実施せざるをえなかった状況を前提としてCFWについて語ること自体に無理があると感じます。それが拙ブログで「「インフラを含め、ある程度大きな政府を前提とした新しい公共と、それらと相補的な民間活動」といういささか込み入った条件がなければ、雇用機会を提供する事業すら実施できない」と述べている理由でもあるのですが、本報告書ではこうした制度の問題はほとんど触れられていません。これまでの取組のまとめとしてはそれなりに意味はあると思いますが、今後の取組の参考としてはそれほど見るべきところはなさそうというのが正直な感想です。

 緊急雇用創出事業は失業対策のための事業のみではなく、災害対応・復興過程で発生する膨大な業務について雇用を通じて支援する制度と位置づけなおすべきであり、具体的には以下の 4 点があげられる。
 第1に、緊急雇用を特例的な制度でなく、国内のあらゆる災害・危機事象において発動できる常設の制度としておくべきである。
 第2に、雇用情勢ではなく、事業ニーズに応じて事業の継続の可否を評価すべきである。ニーズの高い優れた活動については引き続き継続できる制度とすることが望ましい。
 第3に、賃金設定はその地域での賃金相場とすることが望ましい。
 第4に、ボランティアや民間事業所の活動との共存である。民間による市場では供給されず、かつボランティアや自治会など自発的組織だけに依存することができないような分野において限定的に実施することが望まれる。
 また、大量の人材を雇用することによって発生する採用や労務管理が発生する。より効果的に機能するためには、労務管理上の現場の負担をいかに軽減するかが大きな鍵となる。
 同事業で実施されたコミュニティ支援の仕組みは一定の普遍性をもっており、高齢化が進み自治体が機能しなくなっている地域など、平時の地域課題の解決につながるヒントをも与えている。今回の東日本大震災の経験から学ぶことは大きいと思われる。

同pp.20-21

上記の第1の点は、常設となると「緊急」ではなくなるわけでして、それはつまり公共サービスを民間に委託する事業を常設するということになるのですが、それなら既にアウトソーシングとか指定管理とかで実績があるので、あえて震災のために特別の枠を設ける必然性はないでしょう。これは第2の点にも関係しますが、事業ニーズに応じて実施するということはつまり、恒常的にニーズのある事業は「緊急」雇用創出事業などではなく恒久的な事業として実施すべきと考えます。それはもちろん、公共サービスの現物支給として機能するものとなり、拙ブログで再三述べているような雇用創出効果を伴う再分配政策の拡充につながることになります。第3の点については後述しますが、第4の点については上記のとおり「「インフラを含め、ある程度大きな政府を前提とした新しい公共と、それらと相補的な民間活動」といういささか込み入った条件がなければ、雇用機会を提供する事業すら実施できない」ということを指摘されているのだと思います。

で、第3の点の賃金水準については、本報告書で興味深い指摘がありまして、

 このように考えると、緊急雇用の真の成果は失業者を減らしたということにあるのではなく、むしろ雇用の流動化を促進する点にあると考えるべきである。被災地に一時的に発生した余剰労働力を動員し、様々な組織が緊急事態に対処するための組織構造の変化を後押ししたという部分を評価するべきなのである。
 そしてそれは、たまたま東日本大震災でそうであったということを意味しているのではない。緊急雇用はもともとリーマンショックという大規模な経済変動に対処するために創設された。大規模な経済変動においても、ダインズとクアランテリが指摘した組織的適応は多くの場面で求められている。例えば平成金融危機の発生により1997~1998年にかけて日本では自殺者が約 35%増大したことが指摘されているし(澤田・上田・松林 2013)、2008年のリーマンショックにおいては、路上生活者が街にあふれ、その支援活動が活発化した。家計収入の減少を補うために主婦が労働市場に参入したため、保育ニーズが急上昇し、待機児童問題が深刻化したことなどは記憶に新しい。こうした社会的な問題に様々な組織が対応できる環境を構築する上で、緊急雇用はやはり重要な政策ツールとなり得ると予想される

同p.84
※ 以下、強調は引用者による。

これはまさに実務上の問題となっていた点ですね。つまり、流動化されるべき雇用が適切に事業の対象となっているかについては、緊急雇用創出事業ではまったくコントロールできないところでして、結局雇用の場を失って生活の糧を求めている方にはほとんど効果がないというのが震災前から問題となっていて、「短期雇用という巧妙な仕組みを活用しながら、既存の正規職員に求められる仕事上のハードルを維持して、長期的な業務経験によって培われるスキルを擁する正規職員の仕事を守るのが緊急雇用創出事業ということもできる」わけですね。震災の際も、「緊急雇用は期限の定めのある「非正規雇用」ですので、日本の場合は家計補助的な女性や若者が主に就労することになりますが、被災地で人材不足が深刻なのは水産加工業などの震災前には女性が主に就労していた業種」という状況だったわけでして、緊急雇用創出事業によって流動化されたのは、あくまで短期雇用(とそれを担う家計補助的な主に女性労働者)であったといえましょう。それをもって「社会的な問題に様々な組織が対応できる環境を構築する上で、緊急雇用はやはり重要な政策ツールとなり得る」といえるかはかなり微妙なところではあります。

そして、そのような短期雇用を前提とした緊急雇用創出事業における賃金水準は、日本型雇用慣行における外部労働市場に応じて決められることになります。もっと具体的に言えば、県や市町村が本来行うべき事業の実施を民間事業者に委任するという委託事業の趣旨からすれば、県や市町村の外部労働市場、つまり臨時職員や非常勤職員の賃金水準を基準とするのが自然でしょう。まあこういう話をすると「公務員は最低賃金で働け」とか「民間に合わせて賃金水準を下げるべき」とおっしゃる方もかもしれませんが、官製ワープアを生み出す可能性については慎重に考慮すべきだろうと思います。もちろん、役所の外部労働市場の賃金水準が「民間」より高いとしても、たとえばそれが「誘致企業にとって最低賃金の低い被災地の労働者というのは、「ほかに仕事がないから最低賃金まで買い叩ける」労働者でしかなく、それを超える待遇を求めようものなら、「そんなカネは払えない」といわれてしまうのが実情」という状況であれば、最低賃金のために人手不足となっている事業所を何とかすべきでないかとは思います。

もう一つ、本書で重要だと思う指摘がありまして、

 基金事業の使い方の「上手下手」は、具体的な計画を作り予算執行する自治体の手腕にかかっている。すなわち、①地域のニーズ、情報を獲得する力、②具体的に企画化する力、③事業開始後の運用の確認をしつつ、軌道修正させる力が必要となる。これらは、日ごろから行政がどれだけ地域住民と協働して地域づくりを進めているかに左右されるだろう。

同p.39

…うーむ、そんな自治体ごとに「上手下手」が分かれるようなCFWによって被災された方々の雇用の機会が左右されるのでは、何のための公共サービスかという気がします。拙ブログで地方分権とか地域主権とかに批判的なのは、こうした生活に直結するサービスの質が自治体(の担当者)によって異なるということに何の問題意識も感じられない点にあります。実際に被災地では刑事事件に発展するような問題が生じていて、金子先生からも厳しいご指摘をいただいているところです。

岩手県はともかく、福島県、宮城県における緊急雇用事業というのはすごいプロジェクトだったと思います。残念ながら、岩手県は大きければ大きいほど失敗しているという印象が強くあります。そのなかではここで取り上げられている@リアスのプロジェクトは成功している方でしょう(という評価をすると、釜石・大槌地区の友人に叱られそうですが)。もうちょっと、掘り下げて書いてもよかったんじゃないかな、と思います。

復旧・復興期の被災者雇用 2015年02月05日 (木)(社会政策・労働問題研究の歴史分析、メモ帳)

私が見聞きした範囲の印象論ではありますが、政令指定都市である仙台市を抱える宮城県や原発事故のために県庁が主体となって事業を実施した福島県とリアス式海岸に点在する小規模市町村が被災した岩手県とでは、事業実施をどのレベルで管理するかに違いがあったのではないかという印象です。つまり、宮城県は人口の多い仙台市を人員体制の整った仙台市役所に任せてその他の中小規模の市町村の支援に注力し、福島県は被災自治体が機能しない中で県が主体となって事業を管理したのに対し、岩手県は震災前に市町村や出先機関に権限を移譲した体制をそのままに出先機関や自治体に事業を任せ、任された出先機関や自治体ではほかに選択肢のないまま問題のある委託先に事業を委託せざるを得ない事案が発生したという面はあるように思います。まあこういう面についてはどこも触れたがらないでしょうし、私もあくまで印象論でしかないのでどこまで当てはまるか分かりませんが、もしこうした事業を常設することになるのであれば、その実施体制(委託事業とするか、誰が事業化するか、どのような事業メニューとするか等々)について慎重に議論することが必要ではないかと思います。