2015年01月18日 (日) | Edit |
早いもので長かった(はずですがあまり実感がない…)年末年始の休みも終わって仕事始めから2週間経過してしまいましたが、もう一つ去年の積み残しだったエントリがありました。といっても、いま現在も考え中のところではあるのですが、そういっているといつまでも積み残してしまうという毎度のパターンですので、現時点での感想をメモしておきます。

そのテーマというのは、とある会合でご一緒させていただいた新日鐵住金の中澤二朗さんからご恵与いただいた『働く。なぜ?』なのですが、日本型雇用慣行が制度として機能するために積み重ねられた膨大な蓄積が、現場の実務の立場と古今東西の文献から説得的に論じられていて、その迫力に圧倒されてしまいます。本書は同じく中澤さんの『「働くこと」を企業と大人にたずねたい』で示された「しごと壁・しごと穴」の議論をさらに拡張して、「仕事の窓」の四象限という概念で「企業で働くこと」の実際を掘り下げた内容となっています(Amazonのレビューを見ても本書の方が評価が高いようです)。というように、「しごと壁」とか中澤さん独特の用語法や図解が満載なので、正直なところ読み進めるのに骨が折れるのですが、ところどころに挿入される中澤さんの人事担当者としての述懐を読むと、なるほどこの記述にはそういう背景があるのかと趣旨が飲み込めるようになります。おそらく組織で仕事をしている方なら同じような感想を持つのではないでしょうか。

という次第で、すでにご恵与いただいてから1年近く経つのですが、その間ずっと、本業の方で仕事をしながら中澤さんが指摘されていることの趣旨を確認するというようなことを繰り返してきて、やっと感想めいたモノが書けるかなという程度です。その中で重要だと思う指摘を何点か拾ってみます。

まず、「仕事の窓」の四象限として本書で示されるのが、次のような図です。

…仕事にも四通りの顔があることがわかります。〔Ⅰ象限〕:社会の日常をささえる、〔Ⅱ象限〕:問題と変化に対応する、〔Ⅲ象限〕:仕事を通して働きかける、〔Ⅳ象限〕:未来に希望をつなげる、の四つがそれです。以下、仕事は、この四象限に腑分けすることによって新たな地平が切り開けることを見ていきます。

「仕事の窓」の四象限
しごと穴
仕事を通して働きかける

未来に希望をつなげる
しごと壁
社会の日常をささえる

問題と変化に対応する
いつもと同じ仕事いつもと違う仕事

p.60

 しかしいま再び、かつての「技能」がものいう時代がきたとグラットンはいいます。しかもなんとその模倣されない「技能」は「反復練習」、すなわち〔Ⅰ象限〕の仕事の繰り返しを通して磨かれるというのです。であれば、「私たちの働き方の未来」は「いつもと同じ仕事」にかかっている。そう言っても過言ではないことになります。
 とはいえ、〔Ⅰ象限〕には課題もあります。「いつも同じ仕事」には、どうしても「ものうい・いたたまれない感覚」がつきまとうからです。よって次のような点にもう少し気を配り、その光の部分を再認識させるように努力してもいいのではないでしょうか。
 一つ。〔Ⅰ象限〕が「社会の日常をささえている」ことを再確認する
 二つ。従って、その仕事の「いつも感覚」「ものうい・いたたまれない感覚」が油断を生むこと、思わぬ重大事故や大きな失敗を招く。
 三つ。社会の日常を支える〔Ⅰ象限〕の仕事をしている人に対して(自分も含め)敬意をはらう(できれば言葉を投げる)。
 四つ。(とりわけ大人に対して)以上について若者に、機会をとらえていつも話すように努める。

 なお、前章の末尾でふれたように、仕事に貴賤はありません。貴賤がなければ〔Ⅰ象限〕の仕事が貶められる理由はありません。にもかかわらず、もしそこに「理由なき偏見」があるとすれば、咎められるべきは私たち自身であって、〔Ⅰ象限〕の仕事そのものではありません。
pp.66-67

働く。なぜ? (講談社現代新書)働く。なぜ? (講談社現代新書)
(2013/10/18)
中澤 二朗

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注 以下、機種依存文字をそのまま使用します。強調は引用者による。

本書の第2章はこのような書き出しで始まりますが、それぞれ番号がついている通り、働き始めはⅠ象限からスタートして次第に仕事のグレードが上がっていき、Ⅲ象限・Ⅳ象限の仕事をこなすことによって「しごと穴」から社会に働きかけていくことになるとの説明が続きます。その説明の中で私が特に重要だと感じたのが上記で引用したⅠ象限についての説明です。拙ブログでも「たとえば何かのプロジェクトを新規に立ち上げたりすれば、そこに待っているのは膨大な「文書の作成や送付、登録、帳簿の整理、数字の計算、関係部局や関係機関を訪問しての意思伝達・調整といった、かなりの単純で定型的な作業」でして、IT化とか民間委託ぐらいで仕事が効率化されるはずもない」というような指摘をしておりましたが、仕事を支えるのは「量」であって「質」そのものではないという当たり前のことが、ともすると忘れられがちだということがポイントではないかと思います。

本書で私が強く印象に残っている記載は、加賀乙彦『湿原』の冒頭を引用した中澤さんのこの指摘です。

「職業観形成の失敗」

 この国の人たちは、一方で仕事に希望を抱き、他方で仕事を疎ましく思っています。「おカネ」にふれることを、本音とは裏腹に忌み嫌っています。「組織」や「量」の恩恵にあずかりなら、それにふれることを潔しとしません。それも世界屈指のGDP大国でありながら、です。500兆円規模の経済を、自らも「いつもと同じ仕事」を通して支えているにもかかわらず、です。斜に構えているとか、面従腹背とかいうのとも違います。仕事に対して「何か」がもう一つ足りないのです。「前向き」になれないのは、決して若者ばかりではありません。
 加賀乙彦は、小説『湿原』の冒頭をこう書き出しています。(朝日新聞社、1985年、上巻、7頁)

 新宿駅にあふれ出た群衆は、非常呼集された兵隊だ。同系色の背広という制服に身を固め、おのれの会社に奉仕するという共通の目的をもたされ、せかせかと階段を追いたてられていく。思い思いの服装をした女たちも、色彩と個性を失って、影のように男たちにまつわりついていく。
 毎朝見なれた光景だが、何度見ても一種の感動を覚える。この群衆はやがてあちこちの会社に分註し、そこで仕事をはじめる。その仕事がつもりつもってこの世の中が動く。彼らはこの世を動かしている。ちょうど一人一人の兵隊が任務を果たせば巨大な戦争となるように。

湿原 (上)湿原 (上)
(1985/09)
加賀 乙彦

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 初出は新聞です。当時私も毎朝これを読んでから出勤しました。しかし、「働く人」がこのように「非常呼集された兵隊」や「同系色の背広」としてしか描かれないとすれば、どうして若者が企業社会で働きたいと思うようになるでしょうか。
 小説の良し悪しではありません。そんなことを「言わせるな」「書かせるな」と物騒なことを言っているつもりもありません。そうではなくて、私たち大人自身の「職業観」がそもそもどうなっているのか。その根本に対する疑念です。
pp.191-193

私などは引用されている小説のことはここで初めて知った程度なのですが、この小説『湿原』は60年代から70年代にかけての学生紛争を舞台として80年代に書かれた小説とのことで、80年代当時はまだサラリーマンは兵隊の現代版という認識も強く残っていたのかもしれません。そして中澤さんは、「働くこと」がそうした「個を持たない兵隊」のような存在と認識されていることに強い危機感を覚え、それが本書を書くきっかけになったとのことでして、確かに「量」にものを言わせて仕事をするだけであればその危機感は理解できます。

ここで注意が必要なのは、中澤さんは同時に、「いつも感覚」「ものうい・いたたまれない感覚」にさいなまれるような〔Ⅰ象限〕が「社会の日常をささえている」と指摘しているということです。つまり、「新宿駅にあふれ出た群衆は、非常呼集された兵隊」ではなく、その「量」によって社会の日常を支える重要な役割を果たしているわけです。加賀乙彦は「その仕事がつもりつもってこの世の中が動く」と描写していますが、それは兵隊としてではなく、(中澤さんの言葉を借りれば)「しごと壁」でスキルを磨き、そこに「しごと穴」を開けて社会に働きかけていくプロセスの一環として位置づけられるべきなのでしょう。

ところが、巷にはいまだに「高度成長期の大量生産の時代は終わったから、これからは質の時代だ」などという短絡的な言説がもてはやされているわけでして、日本はバブル崩壊の後遺症からか、そういった組織とか量を語ることを潔しとしない風潮が支配するようになっています。これに対する中澤さんの強烈なメッセージはすべての組織人が傾聴すべきでしょう。

 以上から、誤解を恐れずに言えば、担当者の最大の使命はまずは「量」をこなすことです。「量」をこなして会社の「行動量」を確保し、企業の存続と仕事の維持の土台を築くことです。とすれば、マネージャーの最大の役割は、経営方針をふまえた上で、その最重要資源である担当者の働く環境をいかに整えるかというとことに当然、帰着します。
 とにもかくにも担当者は口よりも手なのです。理屈より行動です。それがわからない人や、わかっていても「量」を裁けない人は、従って企業にとっては無用の長物。誰も一緒に働きたいとは思いません。
 このように、先ず「量」が確保されなければ企業の存続も暮らしの継続もあり得ません。にもかかわらず私たちはなぜか「量」について語ることを潔しとしません(企業の中は別として)。「量」にふれない話は空疎です。「量」の裏打ちのない「質」議論、「量」をともなわない「学び」は使い物になりません。
 人は「量」を通して初めて仕事や職場や会社の本質をつかみ、勘を養い、術を磨くことができます。私はいまだかつて「量」によって鍛えられていないプロフェッショナルに出会ったことはありません

中澤『同』p.100

スポーツでも音楽でも「血のにじむようなトレーニングを積んで」「何万回も繰り返して習得した」パワーやスキルについては賞賛されますが、伝票の仕分けを多数こなした経験を持つプロフェッショナルな社員は、素早く帳簿のミスを解消する程度の仕事をするだけではかなか高く評価されることはありません。中澤さんがいみじくも( )にくくっているように、企業内の評価も、会社の「行動量」の土台となる「量」をこなす担当者には低くなりがちです。それはもちろん、職能資格給による年功的な処遇の結果でもありますが、それは同時にその職能資格給が機能する理由でもあります。

まあ、制度というのはそれ単一で成り立つものではなくて、それ自体が自己実現的に制度にまつわる人間の行動に規定されるものでもあるわけでして、土台となる「量」をこなせなければ、その先にある「質」の高い仕事も組織のマネジメントもろくにこなせないという現実に対処した結果が職能資格給制度だととらえることもできるでしょう。つまり、まずは「量」をこなせる担当者であることが土台となって「質」の高い仕事ができるというのが会社の組織の性質である以上、「量」をこなす担当者には低い処遇とし、「質」の高い仕事ができる社員を高く処遇することで、若くて経験年数の少ない社員に「量」を確実にこなしつつさらに「質」の高い仕事をするため、「血のにじむようなトレーニングを積んで」「何万回も繰り返して習得した」パワーやスキルを身につけるインセンティブを与えなければならないわけです。

しかし、制度には負の側面が必ずあるもので、担当者として「量」をこなすためには、超過勤務や「量」をこなせる人材の確保が難しい地域への転勤を厭わず、経験を積むことが時には求められます。そして当然のことながら、「量」を裁きつつ「質」の高い仕事をこなせる人材が「昇進」していくポストは、高度成長期にはある程度のキャパを確保できていたものの、人口動態が変化して高度成長が見込めない時代にあっては不足していきます。つまり、担当者としていくら「量」をこなして「質」が高い仕事ができるようになっても、それに対してポスト(とそれに連動した職能資格給)で報いるという高度成長期の人事管理制度の維持が難しくなるわけです。

いったん整理すると、会社の仕事の土台は「行動量」で決まり、それは担当者がこなす仕事の「量」によって支えられているという厳然たる事実があります。そのため、会社という組織は担当者に「量」をこなすように仕向けながら、その中で「質」の高い仕事をこなせるパワーやスキルを身につけさせ、会社がより高い「質」の仕事を展開できるような制度を構築する必要があります。日本ではそれが、高度成長期に形成された職能資格給制度による日本型雇用慣行として機能していましたが、景気の波と人口動態の変動によって、組織内にポストが不足するようになり、ポスト(とそれに連動した職能資格給)で報いるという日本型雇用慣行の肝の部分の維持が難しくなってきました。

しかし、会社の仕事の土台が「行動量」で決まるという厳然たる事実には変化はありません。むしろ、IT化による業務の電算化によって、その仕組みを構築して維持管理し、そのアウトプットをチェックする(まあ平たく言えば、エクセルで計数管理するためにエクセルの関数(場合によってはマクロ)を覚えて、ワードで文章を作成して差込機能を駆使して事細かに宛名ごとに発送して、パワーポイント使って公開の場の会議や説明会のプレゼン資料を作成し、それらをPDF化してWebにアップし、それぞれについて語句、数値の誤りをくまなくチェックする)という業務は、私の十数年程度の経験上でも以前に比べて大幅に増えているのではないかと感じます。前はやろうと思ってもできなかった機能がオフィススイートに搭載されるようになったため、「できるならやれ」といえるようになったからですね。計数管理も以前は基幹システムに一元化されていたので、そのシステムさえチェックしていれば問題はありませんでしたが、データを加工したり文書で引用する手間がかかりました。今は誰でもデータにアクセスして加工できるようにしているものが増えたものの、データのチェックがその都度必要になっていて、手間暇は一長一短だろうと思います。そして、IT化はSNSによる評価を伝播させ、会社が自らの仕事をチェックする機能をより強化させています。という日常の業務に当たっているものとしては、「以前だと役所の仕事の多くは、文書の作成や送付、登録、帳簿の整理、数字の計算、関係部局や関係機関を訪問しての意思伝達・調整といった、かなりの単純で定型的な作業が大きな割合を占めていた。ところがパソコンやインターネット、庁内LANなどの普及により、それらの仕事は大幅に効率化された」などという話は、中澤さんと同じく空疎で使い物にならない話にしか聞こえませんね。

さて、このようにIT化が進んだからこそ会社の「行動量」は不変または増加しています。その「行動量」を支えるためには「量」をこなす担当者が必要です。もちろん、「担当者が働く環境」を整えるマネージャーも必要ですが、その数は限られています。しかし、職能資格給は未だに根強く日本型雇用慣行の核となっており、年功的にマネージャー的ポストにあてられる労働者は増えても、やっている仕事の内容は担当者の「量」をこなすことという場合が増えています。その一方で、担当者の「量」を確保したいだけなのに、超勤手当を払わなくてすむように名ばかりの「管理職」としてプロフェッショナルでもない労働者を採用する会社や、担当者として使い捨てるつもりでいながら「将来は管理職になれる」とちらつかせて労働者を使いつぶす会社も増えています。

本書は、そうした矛盾が露呈してきている日本型雇用慣行について、それを構築して維持してきた大企業の人事担当者の視点からその功罪とこれからの展望を描いたものであり、現場の感覚を損なわずに高い水準で議論が展開されています。そしてそれは、会社の仕事の土台が「行動量」で決まるという厳然たる事実を前にするとよりいっそうの説得性を持っています。日本型雇用慣行が世界に冠たる高度成長を支えた事実がその根底にあるといえるかもしれません。特に、会社でも役所でも、組織の中で働いている人や、これから組織の中で働く人にとっては、日本型雇用慣行が現実の組織の中でどのように機能し、それがどのように社会に影響を及ぼしているのかを考えるために一読の価値があると思います。

もちろん、中澤さんの議論とは反対方向の議論も十分にあり得て、日本型雇用慣行なんかぶっ壊して実力主義で成果主義の賃金体系を徹底するべきだというのが、一方の対論となるでしょう。しかし、その対論を支持する方々とって都合のいい方便が、「これからは「量」ではなく「質」の時代だ! 「質」の高い仕事さえすれば高く評価されるべきだ!」というものですが、あなたの会社がそれを言い出したら要注意ですね。その方便は「あなたの仕事は「量」をこなすだけかもしれないが、実はより「質」の高い仕事のためなのだよ! さあ、「量」をこなす仕事なんかさっさと終わらせて「質」の高い仕事に取り組もう!」という一見前向きなスローガンに転化して、あなたに際限のない「量」の仕事を押しつけるようになるかもしれません。そしてその「量」の仕事がこなせないとなった途端に、会社は実力主義と成果主義を盾にとって、「その程度の「質」の仕事しかできないのか」とあなたを低い処遇に追い込んでしまうでしょう。つまり、会社の仕事の土台が「行動量」で決まるという厳然たる事実を踏まえれば、会社にとって必要なのは「量」なのに、その「量」をこなす担当者に対して「質」を求めて、使いつぶす格好の口実を与えるのが「量から質へ」というスローガンなのです。

実を言えば、私が消化し切れていないのは、こうした中澤さんの議論と反対方向の議論にもそれなりの説得力があるところでして、上記のように極端に書けばその危険性はわかりやすいと思いますが、現実には中澤さんの議論とその反対方向の議論が錯綜している状況ではないかと思います。それに対する処方箋の一つが、海老原さんが指摘されるような「入口は日本型、途中から欧米型、という接ぎ木型の接地」というような、それぞれを接ぎ木するような対処法となるのではないかと思います。これは他人事ではなくまさに自分の仕事の人事の問題でして、そのような視点から、本書はこれから何度も読み返していかなければならないと思うところです。
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2015年01月03日 (土) | Edit |
昨年の積み残しで恐縮ですが、海老原さんのニッチモ発行の『HRmics vol.20』をご恵投いただきました。いつもありがとうございます。まさかの連載は前号を持って終了しまして、豪華執筆陣の中で場違いではありましたが貴重な経験をさせていただき、海老原さん、荻野さんをはじめ、編集の皆様に改めてお礼申し上げます。

ということで今回からは一読者として楽しんで拝読したところでして、特集の「学校で仕事を教え、資格で能力を表せるか」はなかなか刺激的な内容です。その概要はhamachan先生が紹介されている雇用・人材・教育WG(第1回) 配布資料の海老原さんの資料がまとまっていますので、そちらもご高覧いただければと思います。WGの海老原さんの資料14ページの右側に、カーディーラーと生命保険のスキルセットの比較があるのですが、こうした職業能力の類型化は現在の人事評価でも行われているものではないでしょうか。となると、その類型化は実務的にそれほど難しいものではなくなるので、それを標準化することによって職業訓練を棚卸しできるようになるという海老原さんのご指摘は、実務屋としても腑に落ちるものではないかと思うところです。

当然、そうした類型化やジョブディスクリプションの明確化というのは、労働者がその仕事に労務提供するという契約によって実現するものですので、ジョブ型のキャリア形成のための職業訓練という位置づけになります。そのようなジョブ型のキャリア形成について、フランス、ドイツ、オランダのノンエリートの労働者へのインタビューが掲載されているのですが、この方々のキャリアは一筋縄ではありません。日本ではジョブ型というと非正規労働者のような単純労務が想像されるのですが、職業訓練や資格取得によって自らキャリアを形成している方が多いようです。

つまり、エリートではないジョブ型労働者だからといって上昇しない賃金に安住するだけではなく、自ら職業訓練を受けて資格を取得し、よりよい待遇の職に就くインセンティブも持つことになります。もちろん仕事のつながりで例外はあるわけですが、社内政治で昇進が決まっていく日本型雇用と比較すると、社外にもキャリア形成するチャンスがあり、それを利用するかどうかは労働者の判断に任されていて、利用しようとする労働者を公的に支援する制度というのは、一つのモデルになるのではないかと思うところです。

というように日本の雇用も変化しつつあるのですが、特に地方自治体の労働政策はじり貧ですね。本誌で「職業能力開発」という言葉が出てくるのですが、以前はこの言葉を関した部署(担当)が各都道府県にあったと記憶しておりますが、現在は青森県くらいにしかなさそうです。
http://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-11600000-Shokugyouanteikyoku/meibo_3.pdf
(これは雇用創出の基金による事業の担当部署一覧なので、ほかにある可能性もありますが)
民間の雇用の変化は周回遅れで公務員に波及してきますので、まあ地方自治体の現場はしばらく旧態依然のままなんでしょうねえ(遠い目)。

それにしても自分の記事といちいち比較してしまって頭に入ってこなかったので、自分の記事がなくなって改めて豪華執筆陣のクオリティの高さにビビっておりますが、ぜひ本誌の各記事もご高覧ください。

2015年01月03日 (土) | Edit |
昨年中は多くの方々にTB(は、なかったか…)、コメント、拍手、ぶくま等々いただきありがとうございました。
本年も引き続きご愛顧のほどよろしくお願いします。

というわけで初詣しておみくじ引いてみました。

【大吉】 (No.61514) モナー神社
願事 : 思い通りとなる しかし気をゆるしては破れる
待人 : 来る 便りなし
失物 : 物に隠れて出ず
旅立 : 利益あり 行きて吉
商売 : 貨物を貯え置きてよし
学問 : 危うし 全力を尽くせ
争事 : 心強く持ちて進めばよし
転居 : 早期に決断してよし
病気 : 重し 医師を選べ
縁談 : 思う程に早く叶わずとも気長くすれば吉

8年目のモナー神社詣ででしたが、これまでの戦績が大吉→吉→吉→吉→大吉→大吉→大吉→大吉と、相変わらず吉と大吉以外のくじはなさそうではあるものの、今年も無事大吉を引くことができました。

まあおみくじと実生活とはほとんどかけ離れた状況ではありますが、今年も無病息災、家内安全、五穀豊穣、遺漏皆無、残業縮減、炎上回避等々、心がけて参りたいと思います。