2014年11月29日 (土) | Edit |
ということで、このクソ忙しい時期にもかかわらずクルーグマンのここ20年ほどの変節ぶりを見てきたわけですが、ここでやっと一連の最初のエントリの付記で「クルーグマンが丁寧に再分配政策について論じているのであればそれほど批判する必要はないと思うのですが、『さっさと不況を終わらせろ』ではもっぱら公共事業やせいぜい教師を増やすことで雇用を創出するような処方箋しか示してい」ないということを指摘できる準備ができました。

前回取り上げた『格差はつくられた』では、アメリカの現代史をソーシャルな政策でもって批判していたクルーグマンでしたが、本書ではまた一転して市場主義的な主張を繰り広げています。おそらくこれも、リベラルが保守とならざるを得ないアメリカで自説の支持を得るために必要なレトリックなのでしょうけれども、こう変節されまくると何がクルーグマンの真意なのか分かりにくいことこの上ありません。リーマン・ショック後に刊行された本書で、新たに議論の出発点として加えられるのが「ミンスキーの瞬間」というタームです。

みんながミンスキーを読みなおした夜

 2008年危機よりはるか以前に、ハイマン・ミンスキー——ほとんど貸す耳を持たない経済専門家に対し——今回の金融危機のようなものが起こりかねないというだけでなく、いつか起こると警告していた。
 当時は、ほとんど黙殺された。ミンスキーはセントルイスのワシントン大学で教えていたが、経済学者としては一貫して周縁的な存在だったし、1996年に他界したときも周縁のままだった。そして正直いって、ミンスキーが主流派から無視されたのは、その異端学説のせいだけではない。彼の著書は、どう見ても読みやすいものではない。すばらしい洞察の固まりが、仰々しい文章と無意味な数式の中に散在している。そしてまた、彼はあまりに警鐘を鳴らしすぎた。ポール・サミュエルソンの古いジョークを言い換えるなら、ミンスキーは過去三回の大規模金融危機のうち、およそ九回を予言していた。
 ミンスキーのすごい着想は、レバレッジに注目したことだ——つまり、資産や所得に対して負債がどれだけ積み上がっているかというものだ。彼の議論では、経済安定期にはレバレッジが上昇する。みんな、貸し倒れのリスクについて不注意になるからだ。でもレバレッジ上昇はいずれ経済不安定につながる。それどころか、これは金融危機や経済危機の温床となってしまうのだ。
pp.66-67

 もう少し分かりにくい点として、多くの人や企業のレバレッジが高くなれば、経済全体としても事態が悪化したときに脆弱になる。というのも、負債水準が高くなれば、借り手側による「負債圧縮」、つまり負債を減らそうとする試みそのものが、その負債問題をもっと悪化させるような環境を作ってしまう。(中略)
 アーヴィング・フィッシャーは、これを簡潔なスローガンでまとめた。やや不正確ながら、本質的な真実を突いたものだ:借り手が支払えば支払うほど、借金は増える。大恐慌の背後にあるのはこれだ、とフィッシャーは論じた。——アメリカ経済は、空前の負債を抱えたまま不景気に突入し、それが自己強化的な負のスパイラルをもたらしたのだ、と。たぶんまちがいなくフィッシャーの言う通りだったろう。そしてすでに述べた通り、この論文は昨日書かれてもおかしくない。つまり、いまぼくたちがはまっている不況の主要な説明は、ここまで極端ではなくても、似たようなお話になるのだ。
pp.69-70

 この総需要低下の結果は、第2章で見たとおり、経済停滞と高失業だ。でもなぜこれが、5、6年前ではなく今起こっているんだろう? ここに登場するのがハイマン・ミンスキーだ。
 ミンスキーは指摘したように、レバレッジ上昇——収入や資産に比べて負債のほうが増えること——は、酷い気分になるまでは気分がよいものだ。拡大する経済で物価も上昇していれば、特に住宅のような資産の価格が上昇していれば、借り手のほうが勝ちだ。ほとんど頭金なしで家を買って、数年後には、単に住宅価格が上がったことで、家の資産価値の相当部分はエクイティとして自分のものになっている。投機家は借金して株式を買い、株価が上がれば、借りた額が多いほど利潤も大きくなる。(中略)
 そしてここがポイント:負債水準がそこそこ低ければ、悪い経済事象は少ないし稀だ。だから負債の少ない経済は、負債が安全に見える経済となりがちで、負債がもたらす悪いことの記憶が歴史の霞の中でぼやけてしまうような世界となる。時間がたつにつれて、負債は安全なものだという認識から、融資基準の緩和が生じる。事業者も世帯も、借金のクセがついてしまい、経済全体のレバレッジ水準は上がる。
 これらがすべて、もちろんながら将来の大災厄の舞台を整える。ある時点で「ミンスキーの瞬間」がやってくる。
pp.71-72

さっさと不況を終わらせろさっさと不況を終わらせろ
(2012/07/20)
ポール・クルーグマン

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経済全体の借金が増えたことで経済が脆弱になってしまったという指摘は、まあ改めて言われるまでもなく感覚的に理解できると思うのですが、それがノーベル記念スウェーデン国立銀行賞を受賞した経済学者から「ミンスキーの瞬間」として説明されると学術的な経済現象に思えてしまうから不思議なものです。で、これに対してクルーグマンが示す処方箋が、政府による借り入れです。

鏡の国の経済学

 一見真面目そうな人たちが、現在の経済状態について語るのをあれこれ聞いていると——そしてぼくは経済評論家でもあるので、まさにそれをやらざるをえない——やがてその人たちの最大の問題点が見えてくる。みんなまちがった比喩を使って考えているのだ。アメリカが、苦境に陥った家族であるかのように考え、所得に比べて負債が多すぎるのだと考える。だからこの状況の改善への処方箋は、美徳と倹約だ。支出を減らし、借金を返済し、費用をカットしなければいけません、というわけだ。
 でも、これはそういう種類の危機じゃない。所得が落ちているのはまさに、支出が少なすぎるからで、支出を削れば所得はさらに下がるだけだ。過剰な負債という問題は抱えているが、その負債は外部の人に対する借金ではない。アメリカ人がお互い同士に行っている貸し借りで、これは話がまったくちがう。そして費用カットだが、だれと比べての費用カット? みんなが費用カットを試みたら、事態は悪くなる一方だ。
 ぼくたちはつまり、一時的に鏡の向こう側にいるのだ。流動性の罠——ゼロ金利ですら完全雇用を回復できない——と過剰な負債のおかげで、ぼくたちはパラドックスまみれの世界にやってきてしまった。ここでは美徳が悪徳で、堅実は愚行であり、真面目な人々が要求することはほとんどすべて、状況をかえって悪化させる。(中略)
 さて、読者の一部はすでに何かを思いついたかもしれない。通常は立派で堅実と思われていることをすると、現状においては事態がかえって悪化するというぼくの説明が正しいなら、実はその正反対をすべきだってことなんじゃないの? そして答は、基本的にはその通り。多くの借り手が貯金を殖やして借金を返そうとしているときには、だれかがその正反対をして、もっと支出して借金を増やすのが重要となる——そしてそのだれかになれるのは、明らかに政府だけだ。だからこれは、いまのぼくたちが直面する不況に対する必然的な回答として、ケインズ的な政府支出を導く別のやり方でしかないわけだ。
 賃金や物価の低下が状況を悪化させるという議論はどうだろう。それなら賃金や物価が上昇すれば事態は改善し、インフレが本当に有益だということになるの? その通り。というのもインフレは債務の負担を減らすからだ(そして他にも有益な影響がある。これについてはまた後で)。もっと広く言えば、どんな形であれ債務負担を減らすような政策、たとえば住宅ローン軽減策などは、不況からの持続的な解放を実現するための方策の一部となれるし、またなるべきだ。
pp.76-78
クルーグマン『さっさと不況を終わらせろ』

この辺もクルーグマン一流のレトリックなのですが、クルーグマンは政府が借金することについて「ぼくの説明が正しいなら」と留保をつけて、さらに「基本的にはその通り」と断定を避けた記述をしています。一方で、インフレについては「その通り」と断言しているわけでして、マクロのインフレについてはある程度理論的に議論できるとしても、ミクロ的な政府支出には政治的な留保をつけなければならないという配慮をしているようにも見えます。しかし、私のようにクルーグマンの主張には眉につばをつけて聞かなければならないと思って読めばその留保が気になるものの、クルーグマンを神と崇めるリフレ派と呼ばれる一部の方々のような方々にとっては、どちらも断定しているように読めてしまうのではないでしょうか。

実は、クルーグマンの変節はアメリカ以外の国の状況を説明するときに現れるようでして、『クルーグマン教授の経済入門 』とか『格差はつくられた』のように、主にアメリカの経済問題を説明するときには「ソーシャル」な政策を主張するのですが、特に日本についての『恐慌の罠』とかアジア緊急危機を取り上げた『世界大不況からの脱出』では、あっさりと市場主義的な主張を繰り広げています。この法則(?)からすると、主にアメリカの経済状況を論じた本書では「ソーシャル」な政策を主張するのかと思いきや、上記引用部分で周到に「一時的に」とか「通常は」という言い方を織り込んで、あくまで不況下での特別な対応という留保をつけて短期的な公共事業を主張するのみで、「ソーシャル」な主張はしていません。つまり、短期的な雇用対策のみで不況を脱することに主眼が置かれてしまっていて、本書ではそのための「ソーシャル」な政策の主張は影も形もなくなってしまっているわけです。

クルーグマンのこの辺の変節ぶりがはっきり現れるのが、この部分です。

 第2章で述べたように、流動性の罠が起こるのは、ゼロ金利でも、世界の人々が集合的に、生産したいだけのモノを買いたがらない場合だ。おなじことだが、人々が貯蓄したい金額——つまり現在の消費に使いたがらない所得——が、事業(原文ママ)の投資したがる金額より多い時にそれは起こる。
 数日後にファーガソン(引用注:ニーアル・ファーガソン)の発言を受けてぼくはこの点を説明しようとした。

 実際に、ぼくたちはゼロ金利でも貯蓄がずっと過剰な事態を見るようになっている。それがぼくたちの問題だ。
 じゃあ政府の借り入れは何をするんだろうか? それはそうした過剰な貯蓄に行き場を与えてくれる——そしてその過程で総需要を拡大させ、ひいてはGDPを増やす。それは民間支出をクラウディングアウトしたりはしない。少なくとも、その余った貯蓄供給が吸い上げられるまでは。これはつまり、経済が流動性の罠を逃れるまでは、と言うのと同じだ。
 さて、大規模な政府借り入れには確かに現実の問題がある——主に政府の債務負担の影響だ。こうした問題を矮小化するつもりはない。アイルランドなど一部の国は、厳しい不景気に直面しているのに、財政収縮を余儀なくされている。でも、ぼくたちの目下の問題が、要するに、世界的な貯蓄過剰で、それが行き場を探しているのだという事実は変わらない。


 アメリカ連邦政府は、ぼくがこの一文を書いてからさらに4兆ドルほど借り入れたけれど、金利はかえって下がった。
 これだけの借り入れの資金源はいったいどこなんだろうか? アメリカの民間セクターだ。かれらは、金融危機に対して貯蓄を増やし、投資を減らすことで対応した。民間セクターの金融バランス、つまり貯蓄と投資の差は、嬉嬉前には年鑑マイナス2000億ドルだったのが、現在では年間プラス1兆ドルだ。
pp.179-180

 でも、インフレも十分な債務減免も、実現できない、あるいはどのみち実現の努力さえされなければどうだろう?
 うん、そこで第三者の出番だ:それが政府となる。政府がしばらくは借金をして、借りたお金を使って、ハドソン川の下の鉄道トンネルの整備費を出したり、教師たちの給料を払ったりしたらどうだろう。こうしたことの真の社会的費用はとても小さい。というのも、政府はそのままだと失業しているリソースを雇用するからだ。そして、借り手が負債を返済するのも楽になる。もし政府が支出を長期間維持し続けたら、借りてはもはや緊急の負債圧縮を強制されれなくてもすむようなところまできて、財政赤字支出をしなくても完全雇用できるところまでやってくる。
 はいはい、これは民間債務が部分的に公的債務に置き換わったと言うことだが、ポイントは負債が経済的ダメージをもたらすプレーヤーから遠ざかり、全体としての負債の水準が同じでも、経済問題は減るということだ。
 するとつまり、負債で負債を治すことはできないというもっともらしい議論は、ひたすらまちがっているということだ。ちゃんと治せる——そしてそれをやらないと、経済の弱さがいつまでも続いて、負債問題の解決はなおさら難しくなる。
 なるほど、今のは単なる仮想的なお話だ。現実世界でそんな例はあるの? ちゃんとあります。第二次世界大戦後に何が起きたか考えてほしい。(中略)
 要するに、戦争で戦うための政府負債は、確かに民間債務が多すぎて生じた問題の解決策になっていた。負債で負債は直せないというもっともらしいスローガンは、どう見てもまちがっている。
pp193-194
クルーグマン『さっさと不況を終わらせろ』

THREEBさんが「流動性の罠にあれば財源としてインフレ税が好ましい、すなわち償還されない国債を財源にすることが望ましい」とコメントされたのは、おそらくこの部分が典拠となっているのではないかと思うのですが、いやまあ、もともと国民負担率が高く社会保障制度がしっかりしているヨーロッパと、国民負担率が低く格差が大きいものの国自体が若くて分厚い生産年齢人口を擁するアメリカと、先進国では低レベルの国民負担率を誇りながらトップクラスの高齢化率で対GDP比200%以上の債務残高を抱える日本を、すべて並べて一緒くたに議論することが適切なのか大いに疑問がありますね。

いずれにしても、本書のこの部分は「アメリカの」とか「ハドソン川の」というようにあくまでアメリカについて述べたものであって、日本について分析した『恐慌の罠』であれだけ散々に批判していた公共事業をアメリカについては効果を認めるような書き方になっているのも気になりますが、日本にそのまま適用できるかは十分に吟味されるべきでしょう。経済学のモデルは前提が重要なわけですから、その国の制度がどうなっているかによってそのモデルが示唆する政策的含意は異なると考えるのが通常ではないかと思うところでして、どマクロな政策論の陥穽には十分注意すべきだろうと思うところです。

実はこの点を責めるのはクルーグマンには酷であって、クルーグマンからすれば「自分が住むアメリカという国についての自分の主張を書いた本を、勝手に訳されて勝手に自国に当てはめられているだけ」…かとも思いましたが、本書の「はじめに」の冒頭で「この本は、アメリカなど多くの国をむしばむ経済停滞についての本だ」と書いてまして、どうもクルーグマンは確信犯(誤用)のようです。もちろん、クルーグマンはモデルを単純に当てはめるような議論は『恐慌の罠』くらいでしかしていないわけで、経済学の理論が政策に影響を与えることの危険性についても言及しています。

 危機の10年前の1998年、ハーバード大学の経済学者アルベルト・アレシナが「財政調整の物語」なる論文を刊行した。これは大規模な財政赤字を減らそうとしたいろいろな国を調べた論文だ。この研究でかれは、強い安心効果があると論じ、それがとても強いので緊縮が実際に経済拡張につながった例がたくさんある、という。これは驚くべき結論だけれど、当時は思ったほどは注目されなかった——批判的な検証も受けなかったというべきか。1998年には、経済学者の間での一般的な見解はまだ、FRBなどの中央銀行がいつも経済安定化に必要なことをできるので、財政政策の影響はどのみちあまり重要でないというものだった。(中略)
 通常の時代なら、最新の学術研究が現実世界の政策論争に大きな影響を与えることなんかほとんどないし、またそれが正しいあり方だ——政治的な興奮の中で、ある教授の統計分析の質を評価できる政策立案者がどれだけいるだろう? 通常の学術論争や検討プロセスに時間を与えて、しっかりしたものといい加減なものを選り分けさせたほうがいい。でもアレシナ/アーダナ論文はすぐに、世界中の政策立案者や緊縮支持者たちに採用されて、錦の御旗となった。これは残念なことだった。というのも、拡張的緊縮を実証するとされた統計的な結果も歴史的な事例も、みんながそれを細かく検討し始めると、ちっとも検証に耐えなかったからだ。
pp.254-255
クルーグマン『さっさと不況を終わらせろ』

…これが壮大なブーメランにならなければいいですね!!(棒)

というわけで、結局クルーグマンは、アメリカについての主張と不況時と通常時の主張を、よくいえば適切に、悪くいえば節操なく使い分けているように思います。さらに日本では、そのクルーグマンの変節ぶりを都合良くつまみ食いしている方々も多くいらっしゃいますね。アメリカのことになると共和党を批判するためにソーシャルな主張をすることもいとわないものの、ことアメリカ以外についてはリベラルな市場主義でどマクロなモデルとか理論を単純に当てはめる傾向があり、しかもアメリカについては付加価値税を財源とした社会保障制度は価値が高いといいながら、日本に対しては消費税率引き上げを延期するよう助言してしまうほどの節操のなさ柔軟な思考をお持ちの国際経済学者だというのが個人的な印象です。

という印象のクルーグマンですが、このときはどのモードのクルーグマンだったのでしょうねえ。

クルーグマン氏が決定的役割-安倍首相の増税延期の決断で - Bloomberg(原題:Abe Listening to Krugman After Tokyo Limo Ride on Abenomics Fate(抜粋)更新日時: 2014/11/21 13:21 JST)

安倍首相と30年来の知己である本田氏(59)は、4月の増税反対に続き、15年の増税延期を首相に助言。そこに登場することになったのが、自身のコラムで日本の増税延期が必要な理由を説いていたクルーグマン氏だった。
本田氏は20日、オフィスを構える首相官邸でインタビューに応じ、「あれが安倍総理の決断を決定づけたと思う。クルーグマンはクルーグマンでした。すごくパワフルだった。歴史的なミーティングと呼べるものだった」と、首相とクルーグマン氏の会談を振り返った。

助っ人

帝国ホテルから官邸への高級車の車内で本田氏は、安倍首相との会談がいかに重要かをクルーグマン氏(61)に説明した。増税延期で首相を説得する手助けをクルーグマン氏にしてもらえる可能性があった。  クルーグマン氏は今月6日の首相との会談について、自身が首相の決断に及ぼした役割の大きさには控えめな態度を示す。同氏は20日の電話インタビューで「首相の質問には明確に答えられたと願う。私がこれまで書いてきたようなことうまく説明できたと思うが、首相の考えにどこまで影響があったかは分からない」と話した。その上で、増税延期の決定を「歓迎する」と語った。
海外の著名経済学者の助けを借りたいと考えていた本田氏は、クルーグマン氏が東京での講演のため訪日することを偶然知った。「クルーグマンならと思っていたが、ミーティングのためにわざわざ日本に来てれくれないと思っていたら、たまたま日本に来ることを聞いてこれを使わない手はないと思った」と明かす本田氏は、首相とクルーグマン氏の20分間の会談のお膳立てに成功。会談は予定時間の倍近くに及んだ。
会談に同席した本田氏によると、クルーグマン氏は冒頭、アベノミクスを高く評価。唯一の問題は消費増税だと訴えた。会談が終わるまでには、首相は延期を決めるだろうと本田氏は確信を持ったという。
(略)
クルーグマン氏は17年4月の10%への引き上げをめぐっては、「ある時点で歳入の拡大を図る必要がある点は理解する」とした上で、「私としては『インフレ率が2%程度に達してから引き上げる』といった条件付きの延期の方が望ましいと考えるが、そうした可能性がないことも理解している」と語った。

うーむ、やっぱりアメリカ以外についてはソーシャルな視点をお持ちではないようでして、どマクロな経済理論のことしか話をしなかったようですね。クルーグマンの節操のなさ柔軟な考え方が日本の社会保障にどのような影響を与えるのか、クルーグマン自身はあまり興味がないのはまあ所詮は外国のことだから仕方ないかもしれませんが、それをお膳立てした内閣府参与の方々も同じようなお考えだったと思うと、この国の貧弱な社会保障の先行きが思いやられるところです。

(付記)
jura03さんに取り上げられていただきました。というより半ば呆れられていそうですが、私もここまで長いエントリを書くはめになるとは思っておりませんでして、名無しの方から「もっと読め」とか「恣意的な解釈」とコメントをいただいいたので、できるだけ多くの著書からできるだけ多く引用しているうちにこんなに長くなった次第です。

要はクルーグマン先生のご高説は結構だけれども、実現可能性をどこまで考慮しているのか全く不明なので、じゃあんたそれやってよ、やってごらんよと言って投げられると困るに決まっていて、無責任なことを言い続けるのもいい加減にしてくれ、と読んでいるこちらは思うわけだ。

扇動のための不当表示としての「リフレ派」 part141(今日の雑談)

確かにクルーグマンのこうした態度が日本の、特にリフレ派と呼ばれる一部の方々に与えた影響は大きそうですね。「実現可能性」というとたいそうな言葉ですが、政治過程とかそれを経て形成される制度とかについての軽視が現れているのかもしれません。まあ純粋な経済学の議論では考慮する必要がないとしても、それが政策となって現実の社会で人々の生活に影響するまでのところをどの程度考慮しているのかは怪しいところですね。
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2014年11月24日 (月) | Edit |
ここ数回のエントリでクルーグマンが自らを「リベラル」と称するのはあくまでもアメリカ的な文脈においてだということを書いておりまして、前々々回のエントリの冒頭部分で「確かにクルーグマンはアメリカの民主党を支持して、「リバタリアン」な淡水派経済学やアメリカの共和党を批判していますし、その意味では「ソーシャル」な思想の持ち主といえなくもないですが、アメリカにおいて自ら「リベラル」と称しているように、政府が担うべきリスク負担をかなり限定的に捉えてい」ると書いたところですが、クルーグマン自身もその辺りのねじれ具合を認識していますので、『格差はつくられた』を題材にその辺りのいきさつを確認してみましょう。

といっても、本書はサブプライムローンが問題となり始め、オバマ現大統領が民主党の大統領候補になる前の2007年に書かれたもので、その後オバマ大統領が「オバマケア」として実現した国民皆医療保険の必要性を説く内容がメインでして、そのねじれ具合について言及されるのはやっと最後の章になってからです。

第13章 リベラル派の良心

 21世紀初頭のアメリカの逆説ともいえるものは、自らをリベラル派と呼ぶ者たちは、非常に重要な意味において、保守派であり、一方で自らを保守派だと呼ぶ者たちは、ほとんどの場合極端な急進派であるということだ。リベラル派は私が育ったような中産階級の復活を願っているのに対し、自らを保守派だと呼んでいる者たちは、アメリカを1世紀前のあの「金ぴか時代」に逆戻りさせたいのである。リベラル派は社会保障制度やメディケアのような長年続いてきた制度を擁護しているのに対し、保守派は、それらの制度を民営化、ないしは弱体化させたいのである。リベラル派は民主主義の原則と法律を尊重したいのに対し、保守派は大統領に独裁的な権限を与え、人々を起訴することもなく投獄して拷問するブッシュ政権に喝采を送ってきた。
 この逆説を理解する鍵は、本書で私が記述してきた歴史にあるといえる。いささか時期尚早であったものの、1952年の時点ですでに、アドレイ・スティーヴンソンは次のように発言している。

時代の不思議な錬金術は、民主党をアメリカの真の保守派政党——アメリカにおける最良のものと、そしてその基礎の上に築かれた強固で安定したすべてのものを守る政党——に変えてしまった。それに対し共和党は、急進的な政党であるかのように振る舞うようになった。われわれの社会の枠組みの中にしっかりと組み込まれた制度を解体しようとする、無謀で敵意に満ちた政党に。


 彼が言わんとしたのが、民主党は社会保障制度や、失業保険や、強固な労働運動——すなわち中産階級を生み出し支えてきたニューディールの制度——を守る政党となり、一方で共和党はそれらの制度を解体しようとしているということである。
pp.232-233

格差はつくられた―保守派がアメリカを支配し続けるための呆れた戦略格差はつくられた―保守派がアメリカを支配し続けるための呆れた戦略
(2008/06)
ポール クルーグマン

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※以下、強調は引用者による。

まあこと共和党に対する批判となると、クルーグマンの特徴でもある「クルーグマン信者たちにも無批判に伝播してしまっている独特の独善的な物言い」が炸裂していますが、それはともかくここで注目すべきは、クルーグマン自身が「アメリカで「リベラル派」というのは「保守派」を意味する」と述べていることですね。もちろん、本書で格差問題の本質とされている人種問題などを背景として、アメリカ人に違和感なく自説を受け入れてもらうためのレトリックとしてそう述べているのでしょうけれども、クルーグマンは自説がヨーロッパ的な「ソーシャル」であるとアメリカ人に認識されることを慎重に避けているように見受けます。そのレトリックを説明するために、自ら矛盾を認めながらも、「リベラル派」を一歩進めて「進歩派」となることで社会の変革を進めようとクルーグマンは説きます。

進歩派の政治課題

 リベラル派になるとは、ある意味で保守派になることである——それは大きくいって、中産階級社会への回帰を求めることを意味する。しかし、進歩派であると言うことは、明らかに前進を求めることを意味する。これは矛盾しているように聞こえるかもしれないが、そうではない。リベラル派の目標を前進させるためには、新しい政策が必要なのだ。(中略)
 国民皆医療保険については、より容易に同様のことを指摘できる。1935年の社会保障法は、退職手当や連邦政府の失業保険を実現させたが、社会保障庁のオフィシャルな庁史によると、そのより大きな目的は、「工業化社会における経済的不安の深刻な問題に応える」ことであった。高騰し続ける医療保険費から家庭を守ることは、その目的に合致している。事実、ルーズヴェルト大統領は医療保険をその法律に含めようと検討していたのだが、政治的な理由で放棄している。国民皆保険を実現させることは、ルーズヴェルト大統領の偉業を完成させることに繋がるのである。(中略)
 進歩派の政治課題を進めるには社会政策の大きな変更が必要だが、それは急進的なものではない。その目標は、避けられるリスクをカバーする社会保険の拡大——ここ数十年でますます重要になっている——を含む、ニューディール政策を完成させることである。経済面から見ても、これは十分に達成可能な課題である。国民を経済的なリスクや個人的な災難から保護するものであるが、他の先進諸国と比べて特別手厚い保護を与えようとしているわけではないのだ。
pp.239-241

大いなるリスク移転」に対する批判という点ではクルーグマンの主張はクイギンとほぼ同じなのですが、それを自らの言葉ではなく社会保障庁の庁史という政府の公式文書から引用する辺りに、クルーグマンが「ソーシャル」となることを潔しとしない姿勢が現れている…というのは詮索が過ぎるでしょうか。

ところが本書では、そうした慎重な物言いとは裏腹にかなりソーシャルな政策を前面に押し出していて、これまでのエントリで取り上げたような主張がなかったかのように、あっさりと掌を返してしまっています。たとえば、『グローバル経済を動かす愚かな人々』で再分配政策が散々に批判されていたフランスについては、こう評価します。

 そこでアメリカにおける格差を是正する一つの方法は、これをさらに推し進めることである。つまり、アメリカのアフターマーケット政策を拡充し、改善することだ。その政策とは、市場での収入の格差を所与の条件として受け入れるが、その影響を減らそうとするものである。それがどのように機能するのか、アメリカよりも格差を是正しようとはるかに努力している国の事例を示したいと思う。その国とは、フランスである
 もし、人生で困難に直面している最中か、ないしは人生そのものが困難であったなら、アメリカ人であるよりもフランス人であることのほうが、絶対に有利である。フランスでもし職を失い、これまでよりも給与が安い職に就かなくてはならなくても、医療保険を失うことを心配する必要はない。なぜなら、政府がそれを支給してくれるからである。もし、長期失業したとしても、政府が職と住居を与えてくれる。もし、子供の養育費のために経済的にピンチに立たされたなら、政府から手当が支給され、保育サービスも提供される。楽な生活は約束されないが、家族、ことに子供たちは本当に厳しい貧困を経験しないよう守られているのである。
 反面、もし人生が非常にうまくいっているのであるなら、フランス人であることは負担が大きい。所得税はアメリカよりも幾分高く、支払給与税はさらに高い。形式上雇用主が負担しているが、実際は賃金から天引きされている学派、アメリカよりもかなり多いのである。また、生活費も高い。政府による売上税の一種である、フランスの付加価値税が高いからである。これらの負担は高額所得者にとって、政府による医療保険や他の手当などの恩恵によって相殺されるものではない。そのためフランス人でその給与(雇用主が負担する支払給与税も含めて)が中流の上か、それよりも上の人は、アメリカ人で同等の給与を得ている人よりも、その購買力は相当低くならざるを得ないだろう。
 換言するなら、フランスはアフターマーケット政策が手広く整備されていて、苦しんでいる人々を楽にすることで格差を是正し、そのことによって幾分、楽をしている人々に苦労をかけているというわけである。この点に関して、フランスは欧米の非英語圏では典型であり、他の英語圏の国々もアメリカよりはアフターマーケットの格差を是正しようとしている。
pp.213-214
クルーグマン『格差はつくられた』

何とも奥歯にものが挟まったような物言いではありますが、本書の約10年前の1998年の著書ではフランスを批判していたものの、クルーグマンの攻撃対象であるブッシュ政権を批判するためには、ヨーロッパの「ソーシャル」な政策の重要性を認めざるを得なかったというところでしょう。で、私が今回の消費税率引き上げ延期についてクルーグマンの罪を感じたのがこの部分の掌返しでした。

…要するに、ブッシュ減税の割り戻しや国民皆保険を設立した後の次のステップは、アメリカで累進課税を復活させ、それで得た税収を低・中間層世帯を援助する手当や給付金に使うよう広く努力することである。
 しかし、現実的にはこれだけでは他の先進諸国と比肩できるような社会保障を拠出するには不充分である。どちらかというと限定的なカナダの水準にも達しないだろう。高額所得者の税金を引き上げるだけでなく、他の先進諸国は社会保障費と付加価値税、ないしは全国的な売上税を上げることで中産階級の税金をも引き上げている。社会保障税と付加価値税は、累進型税ではないが、格差是正の効果は間接的であるものの、広範囲に行きわたる。それは手当や給付金などの財源となり、それらは低所得者の収入を考慮すると、非常に価値の高いものである
 強固なセイフティーネットをつくるためにいくぶん高い税金を払わなければならないと一般国民を説得することは、反増税や反政府のプロパガンダが数十年続いてきたことを考えると、政治課題として容易なことではないはずだ。医療保険以外にも、アメリカにGDPの2、3パーセントを社会保障関連に費やして欲しいが、それはリベラル派が政府主導で国民の生活を向上させ、より安定したものにしたというしっかりとした実績を残すまで待たなければならないだろう。医療保険改革はそれ自体重要であるが、他にも重要な波及効果があるのは、まさにこの点においてである。それはつまり、進歩派の広範な重要政治課題を推し進めるのに役立つということだ。だからこそ「保守派ムーブメント」は、医療保険改革の成功を是が非でも食い止めようとしているのである。
pp.223-224
クルーグマン『格差はつくられた』

「社会保障税と付加価値税」というのは、社会保障に限定した日本流付加価値税の消費税のことではないかと思ってしまいますが、「手当や給付金の財源となり」とその使途を現金給付に限定するところが「ソーシャルでないリベラル」の限界かもしれません。でまあ、「しっかりとした実績を残すまで待たなければならない」というのはあまりに呑気な態度ですね。日本的リベラルなサヨクの方々やら抜本的改革好きな方々が口をそろえて「政府のムダがなくなるまで増税は認めない」というのと同じように、まさにクルーグマンが指摘するような政治的困難さの中で実施できずに実績を残せないから問題なのであって、どうも自己撞着に陥ってしまってるのではないかと思います。

いやもちろん、クルーグマンは国際経済学者であって、本書で述べられているようなアメリカの歴史や制度には精通しているものの、日本の歴史や制度とかソーシャルな制度が実現しがたい政治的状況についてまで同レベルの知見を求めるのは筋違いというものでしょう。実際に『恐慌の罠』に示されている日本理解はかなり怪しいわけでして、であればこそ、日本の(クルーグマンの言葉を借りるなら)中産階級社会への回帰に必要不可欠な消費税率引き上げについて、一国の首相に延期をアドバイスするなどという軽率なことは厳に慎んでいただきたかったなと思うところです。

というのも、クルーグマンの認識として、アメリカでも日本と同じように戦時の統制下で労働者の待遇改善が進み、その流れが戦後も続いたことが「中産階級社会」の繁栄をもたらしたとしているからでして、そのような歴史理解があるのであれば、日本型雇用慣行に支えられた日本の制度についてクルーグマンが理解することもそれほど難しいことではないかもしれません。

戦時下の賃金統制

 平時において、アメリカのような市場経済の国は賃金体系に何らかの影響を与えることはできるとしても、それを直接決定することはできない。とはいえ、1940年代のおよそ4年間、戦時下の特殊事情によりアメリカ経済の一端は、多かれ少なかれ政府の指導下にあった。政府はその影響力を行使して、所得格差を大きく是正しようとしたのである。
 その政策のひとつが、全米戦争労働委員会(NWLB)の設立である。同委員会は第一次世界大戦後に一旦解散したが、ルーズヴェルト大統領はそれを真珠湾攻撃の一ヵ月以内に復活させ、以前よりも強い権限を与えた。当時、戦争のためインフレ圧力が増していたため、政府は多くの主要商品に対し価格統制を実施した。これらの統制は、戦争特需による労働力不足が賃金の大幅上昇を招いた場合実施できないため、多くの主要国家産業の賃金は連邦政府の統制下に置かれることとなった。それらの賃金の上昇は、すべて同委員会によって承認されなければならず、政府は労働争議の仲裁をするだけではなく、実際民間セクターの賃金も左右するに至った。
 驚くなかれ、同委員会はルーズヴェルト政権の政策に従い、高い賃金ではなく低賃金労働者の賃金を上げる傾向が強かった。平均賃金を上げるべきだとするルーズヴェルト大統領の指示により、雇用主は事前の許可なしに一時間当たり40セント(今日の一時間当たり約5ドルに相当する)に賃金を上げることが許された。または地方の同委員会のオフィスの許可を得て、一時間当たり50セントに上げることができた。それに対し、それ以上の賃上げは、ワシントンによって許可されなければならなかったので、このシステムはもともと高い賃金の労働者よりも低賃金労働者の賃金を上げる傾向があった。また、同委員会は職業別の賃金幅をつくり、雇用主はそれに従い賃金をその幅の最低線にまで引き上げることが許されていた。このことも高い賃金を得ている者にではなく、低賃金労働者に有利に働いた。そして同委員会は、工場内における賃金格差をなくす賃上げも許可していたため、賃金の底上げにも寄与した。
 経済歴史家であるゴールディンとマーゴが指摘するように、同委員会が「用いた賃上げのための基準は、産業間、そして産業内の賃金格差を縮小させた」のである。つまり、政府は多くの労働者の賃金を多かれ少なかれ直接的に決定できた短い期間を利用して、アメリカをより平等な社会にしたのである。
 そして驚くべきことに、そのような変化は定着したのである。

格差是正と戦後の急成長

 もし今日、民主党が再度「大圧縮」政策の実施を議会で唱えたとしたら、どうなるだろうか。つまり、富裕層に対する増税、組合の権限拡大への支持、賃金格差を大きく是正するために賃金統制期間の実施などである。そのような政策の影響について、世間一般の通念はどう反応するだろうか。
 第一に少なくとも、長期的に見てこれらの政策が格差是正に効果があるのかという懐疑的な見方が出てくるはずだ。一般的な経済理論によると、需要と供給の法則に反する試みは通常、失敗するという。政府が戦時下のような権限を用いてより平等な賃金体系の実施を命じても、賃金統制が終わりしだい以前のような格差に逆戻りするだろうという。
 第二に、そのような過激な格差是正策は、労働意欲を減退させ経済を駄目にしかねないと、極右派からだけでなく、広く一般からも反対されるだろう。高い法人税は企業投資を大幅に減少させる。個人の所得に対する高い所得税は、企業家精神と個人の労働意欲を減退させる。強い労働組合は、度を超した賃上げを要求し、失業を増大させ、生産性の向上を阻害する。要するに「大圧縮」時代に起こったアメリカの政策変化は、多くの西ヨーロッパ諸国の低い雇用と、(それよりも程度は低いだろうが)低い成長率の原因となっている「ヨーロッパ病」として広く批判されている政策よりもさらに極端なものではないかということだ。
 これらの悲観的な意見は、今日「大圧縮」政策を再度実施したらなら、現実のものとなるかもしれない。だが、実際のところ、そのような収入の劇的な格差是正政策が引き起こすかもしれない悪しき結果は、第二次大戦後まったく見られなかったのが事実である。その逆で、「大圧縮」政策は、30年以上の長期にわたって収入の格差を縮小するのに成功している。そして格差が縮小した時代は、アメリカがそれ以降繰り返すことができていない、歴史に前例のないほどの繁栄の時代でもあった。
pp.42-46
クルーグマン『格差はつくられた』

前半部分を読むと、戦時下の賃金統制によって労働者の生活給が確保され、戦後の労働組合がそれを堅持する中で生活給を保障する日本型雇用慣行が形成されていった日本との同じようなことがアメリカでも起きていたわけでして、クルーグマンはそれが格差の「大圧縮」を進めて50年代の繁栄の時代をもたらしたとしています。そして、ここもクルーグマンは慎重に筆を運んでいますが、一般的な経済理論では賃金格差を是正することは需要と供給を歪ませて失敗するとしながらも、実際にはそうではなかったと強調しているわけです。

これは大変重要な指摘でして、一般的な経済理論に合わせるのではなく、その経済理論の前提となる制度や慣行を変えることによって望ましい結果をもたらすことの方が、一般的な経済理論に振り回される政策談義よりはるかに社会的に有意義だろうと思うところでして、「要は、失業しても死なずにすむ社会にすればいいってことですよ。そう考えるほうが、結果的により多くの命を救えるのではありませんか」というまっつぁんの言葉には改めて深く頷くところですね。

もちろん、クルーグマンはリベラルでありながらも労働組合の重要性を繰り返し強調しておりまして、「拙ブログで述べていることはクルーグマンの主張に沿ったものだと考えている」者としては、クルーグマンの「ソーシャル」な政策についての理解は熟読玩味に値すると思います。

 経営トップの給与が際限なく上がっているのは、狭い意味での経済的な要因によるというよりも、社会・政治的な要因によるだろう。それは、経営者としての才能に対する需要が高まったからではなく、CEOの巨額な給与に対する怒りにも似た反発——株主、労働者、政治家、または一般大衆からの激しい反発——が消え去ったからである。それにはいくつかの要因があり、報道機関は以前、巨額を受け取っているCEOを批判していたが、いまではその代わりにビジネスの天才だと褒めたたえるようになった。50年代と60年代、大企業は知名度が高く、カリスマ性のある経営者が必要であるとは考えていなかった。CEOがビジネス雑誌の表紙を飾ることは稀だったし、チームプレーヤーとしての仕事を大切にしていたため、経営責任者は社内から昇進させていた。それに対し80年代以降、CEOが会社の顔になり、また会社がCEOをつくるようになった。いわばCEOは一種の著名人ないし有名人となり、ロックスターのような存在になったのだ。
 政治家も以前、巨額を稼いでいた経営者を一般の人々とともに糾弾していたものの、経営者トップが政治献金を行うと、彼らを褒めるようになった。以前、労働組合は経営者トップの巨額のボーナスに抗議していたが、何年にもわたって組合潰しにあい、労働組合は骨抜きにされてしまった。そしてもう一点、最高税率は70年代初頭、70パーセントだったのが、現在は35パーセントまで下がっている。経営者トップにしてみれば、その地位を利用しない手はない。トップはその巨額のほとんどを懐に収めることができるのである、その結果は最高位所得の肥大化であり、所得格差のさらなる拡大である。
pp.103-104

 最低賃金の引き上げに対し、矛盾しているがよく耳にするありふれた反対意見が二つある。一方は、最低賃金の上昇は失業を増大させ、雇用を減少させてしまうという議論である。他方は、最低賃金を上げることは、賃金の上昇にはたいした効果がない、まいしはまったくないという議論である。だが、これまでのデータは、最低賃金の上昇は賃金に対し少なからず積極的な効果があることを示している。(中略)
 だが、最低賃金はほとんどの場合、低賃金労働者にしか関係しない。広範囲に労働市場の格差を是正しようとするなら、その上に位置する労働者の収入をどうにかしなければならない。そのための最も重要な方策は、30年間におよぶ労働組合に対する政府の締めつけ政策を終わらせることである
p.227

 新たな政治環境は、労働組合運動を再活性化することができるだろうし、またそれは進歩派の重要な政策目標とならなくてはならない。特定の法律、たとえば「被雇用者自由選択法」は、雇用主が労働者に組合に加入させないようにすることを阻止する法律だが、それだけでは不充分である。すでに法律化されている労働法を実施することも重要である。現行の法律の下でさえ、アメリカの組合活動を大いに弱体化に追い込んだ多くの、もしくはそのほとんどの反労働組合活動は違法である。だが、雇用主は、うまく言い逃れられるだろうと判断したのであり、その判断は正しかったと言わざるを得ない。
p.228

クルーグマン『格差はつくられた』

アメリカでの「組合潰し」の実態とかそもそもそのようなことがあったのかということはよくわかりませんが、「本来の企業所有者(プリンシパル)である株主からすれば、エージェントである経営者が企業内部の配分を失敗したように見えるのでしょうけど、それは企業内の利益配分システムとしての集団的労使関係の領域において、株主に対抗するステイクホルダーである労働組合が本来の機能を果た」すべきと考えている私からしても、アメリカ企業の現状は抑制が効かない状態に陥っているように見えますし、そのことに危機感を覚えているクルーグマンの主張にはほぼ全面的に同意します。まあ日本の場合は、アメリカと違って複数の組合に交渉権を認めることによって「企業内の身分保障が正規雇用にのみ及ぶものである以上、必然的に労働組合は正規雇用の利益しか代表できなくなって」いる現状ですので、使用者による組合潰しというより誰の利益を代表しているのか分からない状態のために適切に機能していないというべきでしょう(国鉄に対する「国家的不当労働行為」というのもありましたが、それも誰の利益を代表しているか分からなくなっていた組合への支持が先細りの状態にあったから可能だったのだろうと思います)。

さて、クルーグマンは日本での「インフレターゲット政策」の実施を主張してきましたが、それはかなり怪しい日本理解に基づくものでした。アメリカ国内の問題については自らを「リベラル派」と称してソーシャルな政策を主張する一方で、フランスや日本には厳格な解雇規制とか世代間格差とかを煽りながら批判を繰り返していたのもまたクルーグマンです。クルーグマンはあくまでアメリカ的なリベラルであって、アメリカ国内では相対的にソーシャルな政策にも理解を示すものの、他国が実施しているソーシャルな政策については批判的だというダブスタが目につくように思います。

特に、フランスの再分配政策に対する掌返し(といってもだいぶ奥歯にものが挟まっているようですが)や、付加価値税による社会保障の拡充を日本では全否定してしまう掌返しは、クルーグマンを「金融政策」の神と崇める方々に、所得再分配政策や社会保障政策に対する誤解を与えてしまう原因となっていると思います。まあ、そもそも「金融政策のみで一致できる」と主張していたのは日本のリフレ派と呼ばれる一部の方々ですから、そのこと自体はクルーグマンの責任を問うことはできないとしても、クルーグマンもかなり露骨に変節したりダブスタを許容したりしているところでして、改めてクルーグマンの主張は注意深く聞かなければならないのではないかと思うところです。

2014年11月17日 (月) | Edit |
前々回エントリがクルーグマンdisといわれてしまいましたが、クルーグマンの本を読めば読むほど疑問が湧いてくるんですよね。どうやらクルーグマンの日本理解が私の理解と違うようなので、日本について書いた『恐慌の罠』をおさらいしてみましょう。まずはリフレ派と呼ばれる一部の方々にしっかりと受け継がれている日銀・財務省disから。

 日本のリセッションには、こうした構造的な要因(引用注:高い貯蓄率と労働年齢人口の減少)がある。ただ、それと同時に政策の失敗が重なったことが、現在の深刻な不況を招いたのである。政策の失敗に関しては、非難されるべき人は多い。だが、最も責任が重いのは、大蔵省(現在の財務省)である。なぜなら、91年に政策を決定できたのは大蔵省しかなかったからだ。日本銀行は実質的に独立しておらず、大蔵省の下部組織で会った。90年代初めにバブル経済に対する対応策が採られるべきであったが、実際には難しかった。なぜなら、まだバブルの余波が残っており、すべてが素晴らしく見えたからだ。そんなときに「もうブレーキをかけるべきだ」と言っても、誰も耳を傾けなかっただろう。
pp.8-9

恐慌の罠―なぜ政策を間違えつづけるのか恐慌の罠―なぜ政策を間違えつづけるのか
(2002/01)
ポール クルーグマン

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しょっぱなから疑問符だらけなのですが、「政策を決定できたのは大蔵省だけ」という指摘はその通りとしても、「「もうブレーキをかけるべきだ」と言っても、誰も耳を傾けなかった」状況でいち行政機関に過ぎない大蔵省に何ができたというのでしょうか。本書では折に触れて日銀・財務省disが繰り返されるのですが、そこでは、政策担当者(政治家なり官僚)のインフレに対する恐怖とか成功体験に対する固執みたいなもののために、「正しい」政策が採られなかったと指摘されています。それもまあその通りとして、世の中が「もうブレーキをかけるべきだ」と言っても、誰も耳を傾けなかった」ような状況があったからこそ、そうした政策担当者の意思決定があったと考えるのが自然ではないかと。

さらに、本書では「インフレターゲット政策を主張した最初の学者だ」という自負も繰り返し語られているところですが、そのインフレターゲット政策について当初はかなり弱腰の記述が散見されます。

 では、具体的にどのようにしてインフレターゲット政策を実現すべきか。インフレターゲット政策を提唱している伊藤(引用注:隆敏)教授にせよ、スベンソン教授にせよ、真剣な提案はすべて第一段階についてのものだ。つまり、長期的なインフレターゲットを発表すると同時に、経済を活性化するために従来型でないありとあらゆる金融政策を動員するという段階だ。しかし、これだけで自動的にスタートするものではない。インフレターゲットを掲げて、後はインフレが起きるのを待っている、というのでは駄目なのである。インフレターゲットを達成するためには、為替相場を円安に誘導し、長期国債の流通利回りを引き下げなければならない。その際、到達不可能な目標を掲げたらどうなるのか、あるいは政策が不充分だったらどうなるかという問題はある。その限りでは、危険な賭けである。
 例えば、為替の問題を考えてみよう。私はスベンソン教授を議論したが、彼は思いきった円安にすべきだと主張している。その粋人は1ドル=140円だという。だが、私は140円では十分に円が弱くなったとは思わない。160円程度まで円安にすべきである。もし日本が為替レートを140円にして、それがインフレターゲットを達成するのに不充分だったら、大きな問題が起こるだろう。インフレターゲット政策の要点は国民にインフレ期待を定着させることにあるから、効果に対する不信感を抱かせることは挫折を意味する。
 このように、インフレターゲット政策には、多くのリスクと問題が存在する。しかし、だからといって、何もしないことはもっと悪いのである。
pp.17-18
クルーグマン『恐慌の罠』

うーむ、岩田副総裁が職を懸けた(らしい)黒田総裁の異次元緩和から1年半以上が経過して1ドル=110円程度で止まっている現状は大きな問題なのでしょうか。その前に国際経済学者ともあろうお方が1ドル=160円まで円安にすべきとか公言しても大丈夫なのだろうかとも思うところです。まあいずれにせよ、日銀・財務省disをしたくなる気持ちはわからないではありませんが、クルーグマン自身が「多くのリスクと問題が存在する」というインフレターゲットを政策を、「「もうブレーキをかけるべきだ」と言っても、誰も耳を傾けなかった」状況で実施することの困難さについても考慮してあげて良さそうなものです。

で、本書でもクルーグマンは、汚職の温床になるとかムダな橋や道路ばかり作られているとして公共事業支出を否定しつつも、財政赤字削減の必要性は否定していません。

 その(引用注:公共事業)代替的な政策とは、金融政策である。インフレ的な金融政策が、公共事業支出に取って代わるしかないのである。
 この点、財政赤字を解消しようとする小泉首相の財政政策は適切である。しかし、現時点で、どの程度、財政赤字を削減できるかどうか不明である。小泉首相の政策が政治的に実現可能かどうかも知らない。財政赤字を縮小するというのは、一種のショック療法だという声もあるだろう。経済的にも、それは正しい政策である。それ以外の政策で構造改革を進めるには、時間がかかるからだ。私が理想的だと考える状況は、5年後に財政赤字支出は行われなくなり、構造改革によって新しい投資機会が生み出され、3%のインフレ率と1%の名目金利で実質金利はマイナス2%となるというものだ。そうなれば、日本経済はうまく回転しはじめるだろう。これが、日本が目指すべき未来図である。
p.30
クルーグマン『恐慌の罠』

このインタビューは2002年に行われたものでして、ITバブル崩壊の真っ最中なのですが、ここでもクルーグマンは公共事業支出を否定して金融政策の必要性を説く一方で、財政赤字削減が経済的に正しいとまで述べています。後の変節を考えるとこの部分も疑問符だらけになるのですが、金融政策のみでなんとかなるというイメージを広めた影響の大きさは無視できません。ITバブル崩壊時のこのインタビューから6年後には、リーマンショックでさらに世界的な景気後退が発生したわけですが、クルーグマンは無邪気なまでに金融政策の有効性を並べ立てます。

 不況に対する最初のディフェンスラインは金融政策である。つまり中央銀行(アメリカ連邦準備制度理事会、欧州中央銀行、日本銀行など)は、不況をソシするために金利を引き下げることができるのである。(中略)
 事実、ほぼ過去40年間、経済政策としての金融緩和の持つ唯一の深刻な問題は、金融政策があまりにも効果を発揮しすぎたために、世界各国が経済成長と雇用に対して過剰と思えるほどの野心的な目標を追求するようになったことである。各国がそうした政策を取ったとき、その結果としてインフレが発生した。すなわち、経済成長が行き過ぎ、企業はその絶好の機会を利用して製品の価格を引き上げ、労働者もより高い賃金を要求するようになると、賃金と物価の上昇スパイラルの脅威が現実のものとなる。(中略)
 最初のディフェンスラインの次に、二番目のディフェンスラインが控えている。財政政策である。金利引き上げが経済を支えるのに十分な効果を発揮しなかったなら、政府は減税や財政支出の増加にいよって需要を喚起することができる。経済学者の一般的な理解では、通常のリセッションに対応するためなら財政政策は必要なく、金利引き上げだけで十分なのである。別な言い方をすると、経済学者は、経済の安定化は連邦準備制度理事会(FRB)の仕事であって、財務省の仕事ではなく、財政政策の役割は常に補完的なものであると信じているのである。(中略)
…いずれの場合も、FRBがインフレを沈静化させるために、意図的に経済成長を鈍化させようとしたために景気後退が始まっている。ただ、いずれの場合も、FRBが狙った以上に景気は悪化している。金融政策はあまり切れ味が良くない道具だからである。しかし、いずれにせよ、FRBが政策を転換し、金利を引き上げると、リセッションは終焉を迎えている。したがって、金融政策の過去の記録は、政策担当者の自信を深めるものであった。最近の例は、リセッションは起こるかもしれないが、私たちはそれに対処できることを示唆しているように見える。
pp.88-90
クルーグマン『恐慌の罠』

金融政策が効き過ぎるのか切れ味がないのかよくわかりませんが、この主に中央銀行が金利で市場をコントロールすることによって経済を安定化することができるという「大中庸時代」の考え方は確かにゾンビ経済学というべきかもしれません。とりもなおさず、サブプライムローン、リーマンショックと金融機関から発生した経済危機を準備したのは、まさに「大中庸時代」の立役者であったグリーンスパンとその後継者のバーナンキであったわけですから。さらに、財政政策は通常のリセッションへの対応としては必要がないとまで言い切るとは、クルーグマンは本当にケインジアンなのかと疑ってしまいますね。

と思ったら、やっぱりクルーグマンは自らをアメリカン・ケインジアンだと認めて「大中庸時代」を謳歌しているようです。

…古典派経済学は、積極主義的な金融・財政政策によって多かれ少なかれ完全雇用を確保するという仮説に接木されることで生き永らえたのである。1950年代にポール・サミュエルソン(訳注:元マサチューセッツ工科大学教授で、新古典派総合の代表的な経済学者。ノーベル経済学賞の受賞者である)は、古典派的な完全雇用経済理論の復活を「新古典派総合」と名付けた。自由市場を評価するが、それを崇拝することはしない経済学者に対する評価は、今日に至るまで残っている。たとえば、次の引用は、私が2年前にインターネットで経済問題を論じているホームページ「ストレート」に「無教養なケインズ学者」と題して書いた原稿である。

 (中略)しかし、グリーンスパン(そして彼の前任者たち)を、構図の中に組み入れることで、マクロ経済学の古典学派的なビジョンの大半が復活することになる。期限を特定しない長期において経済を完全雇用にまで復活させる“見えざる手”に代わって、FRBが予測する向こう2年か3年の間に推定される非インフレ的失業(訳注:インフレを引き起こさない程度の失業率のこと。失業率が高すぎると、インフレが起こる)に向かって経済を舵取りするFRBの“見える手”が存在するのである。

 私のような「新古典派総合」の信奉者にとって、世界が直面している当惑するような状況が、新しい大恐慌に向かってスパイラル的に落ち込んで行く可能性はそれほど大きくないように見える。ただ、新しい恐慌は起こりそうにないし、過去数か月にそうした可能性は薄れてしまったように見える。むしろ、今起こっている問題は、新しい恐慌が起こるかどうかと言うことよりも、1930年代以来初めて、経済が需要を必要とするとき、政府が需要を増やすことができる、あるいは需要を増やす意思があるということに対して確信が持てなくなってきたことである。
pp.127-128
クルーグマン『恐慌の罠』

アメリカン・ケインジアンというのはいわゆる「新古典派総合」のことですから、当然ながらアメリカン・ケインジアンであるクルーグマンはあくまで「新古典派総合」のマクロ経済学を元に議論をしているわけです。そりゃまあ再分配とか社会保障のことなんて出てくるはずがありませんね。そして、やはりクルーグマンは日本の雇用慣行も財政政策もその中身はよくご存じではないようです。

 景気の変動を平均すると、1980年代に毎年ほぼ4%の成長を遂げてきた経済が、1991年以降、わずか1%程度の成長になってしまった。失業率は途切れることなく上昇し続け、1991年の2.1%から現在では5%にまで上昇している。それでも、その数字自体は欧米経済と比べれば、それほど悪くはない。しかし、日本の統計は事実を深刻なまでに過小評価しているのである。過去数か月で、ほぼ100万人の労働者が職を失ったが、そうした労働者のうちのわずか12万人だけが失業者として登録されているに過ぎない。おそらく、日本の労働市場は、深刻な景気後退の底にあり、失業率は実質的に10%に近づいていっているのかもしれない。
 こうした雇用の喪失の心理的な影響、それと1980年代では稀だったが、現在では異常なまでの高水準となっている企業倒産の心理的な影響は、通常、そうした荒涼とした事態を回避する努力を行ってきた社会では、特に厳しいものとなる。日本は終身雇用と、強い企業が弱い企業を生き延びられるように支援する“護送船団システム”の国である。そうしたシステムに支えられてきた日本の問題の状況を示す最も陰鬱な指標が、職を失った人々や、事業に失敗した人々の自殺の急増であったとしても、それは特に驚くことではないのかもしれない。
pp.92-93
クルーグマン『恐慌の罠』

慎重に断定は避けていますが、クルーグマンはどうもリビジョニスト的な日本像をお持ちのようで、終身雇用と護送船団というキーワードを使っているものの、その理解はかなり怪しいものとなっています。また、メンバーシップ型雇用慣行の下で失職のリスクにさらされている労働者の多くはアルバイトやパートなんですよね。クルーグマンのいう「職を失った労働者」とか「失業者」の定義はよくわかりませんが、1994年から2001年までの雇用保険の適用条件は、雇用期間が1年以上かつ年収が90万円以上かつ週所定労働時間が20時間以上でして、雇用保険が適用されないアルバイト・パートは、求職登録はしても、失業給付を受ける失業者としては登録されなかった(失業給付を受給するために求職活動をしなければならないので、失業者なら求職者ですが逆は必ずしも成り立ちません)場合が多そうです。

 たとえば、なぜ日本銀行は長期国債を買ってはいけないのだろうか。長期国債の金利はまだゼロにはなっていない。したがって、追加的な取引をする余地がある。あるいは日本銀行は紙幣を発行し、その資金を使ってドルを購入することもできるはずだ。それによって、円相場を引き下げ、世界市場で日本の輸出をもっと競争力のあるものにすることだってできるはずである。
p.111
クルーグマン『恐慌の罠』

これも日本のリフレ派と呼ばれる方々に大きな影響を与えた主張ですが、まあ財政のマネタイズに対する警戒は日本に限ったことではないだろうと思うところでして、さらに日本に対する指摘の矛盾が露呈してしまっていると思われるのがこちらの部分。

 では、なぜ日本で財政赤字支出が効果を発揮しなかったのであろうか。その一つの答えは、日本の消費者が現在の財政赤字は将来の増税につながると理解したことにある。そのため、減税で戻ってきた資金は貯蓄に回されたのである。そのため、公共事業支出の増加は民間消費の減少によって効果が相殺されてしまったのである。他方、ワシントンのシンクタンクである国際経済研究所のアダム・ポーゼンが指摘しているように、日本の財政政策の短期的な変動は、それなりの効果を発揮していたのである。1995年から1996年にかけて財政赤字が拡大したために、短期的ではあるが、顕著な成長の回復がみられた。だが、1997年に橋本龍太郎首相が誤ったアドバイスに基づいて増税をおこなったことで、現在のリセッションが誘発されたのである。
pp.143-144
クルーグマン『恐慌の罠』

財政赤字が将来の増税につながると考えたために民間消費が減少したというなら、1997年の消費税率引き上げ前の1996年までの公共事業支出が、短期ではあっても景気回復に効果があったのはどう説明されるのでしょうか。ちなみに、消費税引き上げが決まったのは1994年の村山内閣のときでして、それ以降はすでに増税が前提となっている状況なんですよね。もし、増税が決まった1994年から貯蓄が増加して民間消費は減少していたものの、同時に公共事業支出が増加したので景気が回復したというのであれば、1997年の消費税引き上げの際は増加させておいた貯蓄で対応が可能であり、可処分所得にも消費行動にも中立でないと辻褄が合わないような気がします。1994年からデフレが始まっているという指摘もありますので、もしかすると貯蓄が実質で目減りして1997年以降の民間消費が抑制されたということでしょうか。しかし、デフレを強調しすぎると1996年までの顕著な成長との矛盾が生じてしまいそうでして、まあ個々の主張を取り上げればそれなりに納得できるものの、全体の状況に当てはめてみるとあちこちに齟齬が生じているように思われるのは、私の思考能力不足によるものなのでしょう。といっても、これもまた一部のリフレ派と呼ばれる方々によく見られる現象のような気もしますが。

とりあえず目につくところをピックアップしてみましたが、もちろん本書の「Ⅳ 罠から抜け出せない日本」で展開されるモデルについての是非について、私ごときは何も言えないとしても、日本の雇用慣行とか財政状況についてのクルーグマンの理解には、疑問符をつけざるを得ない点が散見されるように思います。個人的にいろいろなデータや議論を拝見した管見ではありますが、日本の雇用慣行とそれに依存して家計にリスクを移転している日本の状況においては、雇用慣行の改善と現物給付を中心とした再分配政策の拡充が必要と考えるところでして、確かに金融政策による経済の安定化は重要だとしても、それだけで経済が回復して成長するというクルーグマンの主張には、眉につばをつけて聞かなければならなかったのではないかと思う次第です。

2014年11月15日 (土) | Edit |
前回エントリで畏れ多くもクルーグマンの罪を指摘してみましたが、付記したようにクルーグマン自身けっこうな幅で主張が揺れ動いているように思います。今回はその辺の記述をメモ書きしておきます。

題材は、原著が1998年に発行された『グローバル経済を動かす愚かな人々』からでして、まずはクルーグマン自身は左派でも右派でもなく双方が間違っていると考えているとの由。

 ここに集めたエッセイは、1995年の秋から97年の夏の間に書かれたものである。それは激動の時期であり(常にそうだともいえるのだろうが)、左右の両派ともにナンセンスの多い期間でもあった。最も時期の早いエッセイは、共和党の下院院内総務に就任した者からの卑劣なナンセンスに応えて書かれた。最も新しいものは、社会党からフランスの新首相に選出された、心は温かいが、不幸にも同じように愚かな人物に応えたものである。いずれにしろ、右だ、左だ、というのは適切な分類ではない。本書で触れた問題のほとんどにおいて、自由主義者と保守主義者の双方の主張は間違っており、多くの場合、真実は誰も聞くことを望まないものであった。
pp13-14


グローバル経済を動かす愚かな人々グローバル経済を動かす愚かな人々
(1999/01)
ポール クルーグマン

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繰り返しの確認となりますが、クルーグマンは本来アメリカ的リベラルであって、ソーシャルな社会政策にはあまり関心は高くなさそうでして、アメリカの共和党に対する攻撃は欠かしませんが、民主党に対する攻撃も容赦がありません。まあ、クルーグマンにとっては「経済学的正しさ」が最優先であって、ソーシャルな政策はそのついでに考えているというところなのでしょう。

で、そういえばどこかのリフレ派と呼ばれる方々の一部が「似非ケインジアン」という言い方をされていましたが、クルーグマンもそんなことを書いていますね。

ちまたのケインズ主義者

 経済学もあらゆる学問と同じく、それを学ぶ子弟はいずれ減少する運命にある。偉大なる革新者には、若干の荒削りな側面があったとしても許される。もし彼の考えが当初は乱暴と思われるものでも、その洞察の斬新さが誇張されすぎていたとしても、さしたる問題ではない。磨きさえすれば、いずれ一つの体系としてまとまる。とはいえ、革新者の言葉に従いながら、その精神を誤解してしまい、その学問の主流派よりも急進的かつ独断的になる者が現れることは避けられない。そして、その教えは、広まるにつれてますます単純なものになっていく。一般常識ないしは「みんなが知っている」ことになった革新者の教えは、粗野でへたな模倣になるまで変形されるのだ。
p.37

 彼ら(引用注:サプライサイド・エコノミスト)は自らのイデオロギーに深く根差した、一見立派な予測を立てた。その結果、主流派エコノミストがほぼ事態の推移を的確に予測できたにもかかわらず、彼らは完全に的を外してしまったのである。しかも、サプライサイド・エコノミストの犯した過ちは、主流派エコノミストとまったくことなる予測をしたことばかりではない。彼らは、自説に反対する者を馬鹿だ、嘘つきだと罵倒していたのだ。そのようなことがあったのだから、誰もサプライサイド・エコノミストの言葉を真剣に受け止めなくなっただろうと読者は思われるかもしれない。サプライサイド・エコノミストはクリントンの増税が大惨事を招くと批判し、主流派のエコノミストはそうではないと反論した。それで、実際にはどうなったと思う?
 サプライサイド・エコノミックスは、もちろん、一夜にして消滅したりはしなかった。経済における誤った考えは決して死なない——うまくしても次第に消えていくだけである。
pp.68-69
クルーグマン『グローバル経済を動かす愚かな人々』

まさかクルーグマンも、ご自身の主張が日本で「広まるにつれてますます単純なもの」になり、「粗野でへたな模倣になるまで変形される」とは思ってもいなかったでしょう。とはいっても、クルーグマン自身が「金融政策だけで所得と雇用が上昇する」と主張してしまった以上、それは避けられない事態だったとも思われるわけでして、やはりクルーグマンの罪は小さくはないと思うところです。さらにそうした方々は得てして、クルーグマンが批判するような「自説に反対する者を馬鹿だ、嘘つきだと罵倒」するというサプライサイド・エコノミストの流儀もしっかりと受け継いでいるわけで、クルーグマンが書いてあることなら何でもまねしないと気が済まないのかもしれませんね。同様に、クルーグマンによる共和党に対する批判として

 ドール(引用注:共和党の大統領候補者だったボブ・ドール)は演説でまたもや、連邦政府が国民が苦労して稼いだカネを取り上げてしまい、ソーシャルワーカーだけが欲しがるようなものに注ぎ込んでいるというフィクションを訴えようとした。減税こそ有効な政策だと思い込んでいるせいか、サプライサイド・エコノミックスは保守派に無責任になる勇気を与えたようである。しかし実際、一般国民が保守派の主張を聞き入れた理由は、巨大な軍隊のような官僚組織のイメージと、生活保護を給付されながらキャデラックを乗り回す怠け者のイメージを受け入れたからであった。保守派がそのように主張できたのには、有力な理由が一つあった。自らが政権を握っていた時代に大きな政府を削減できなかった失敗を、常に議会をコントロールしていた民主党の責任にすることができたからである。
p.87
クルーグマン『グローバル経済を動かす愚かな人々』

というのもあるのですが、「減税こそ有効な政策だと思い込んでいるせい」で「巨大な軍隊のような官僚組織のイメージと、生活保護を給付されながらキャデラックを乗り回す怠け者のイメージを受け入れた」ような主張をする方もリフレ派と呼ばれる方々の一部にいらっしゃったように見受けます。

ということで、前回エントリから私がクルーグマンを批判しているのは、その経済学的なモデルの正しさとかではなく(そもそも私ごときがそんなことはできませんし)、クルーグマン独特の独善的な物言いがその信者たちにも無批判に伝播してしまっているのではないかということでして、たとえばクルーグマンのこの指摘は(経済学的な正しさはそのとおりとしても)悪影響が大きかったと思います。

…なぜ4%主義者たち(引用注:4%の経済成長を目指すべきと主張する一派)はもっと説得的な議論ができないのか? 彼らのモデルは何であろうか?
 答えは、もちろん、モデルなどないのである。フェリックス・ロハティンと他の遠くが信じる経済学のどこがおかしいかというと、彼らは原則を理解していないということである。(中略)政策はモデルから組み立てるのであって、その反対ではない。FRBのエコノミストが経済は4%も成長できないと考えるのは、低成長が好きだからでもなければ、正統派の考えにがんじがらめに縛られているからでもない。FRBには事実と整合する、アメリカ経済のモデルがあり、4%が完全に非現実的な目標であるということがわかるからである。
pp.154-155

 もう一点だけ強調したい。私が真剣な経済学と、口先だけの、洗練されているように聞こえるレトリックの違いについて話すと、すべてを知っていると思い込んでいる横柄な人間だとよく非難される。どうしてなのか、私には想像することができない。真剣に考えてみてほしい。フェリックス・ロハティンのような人物が実際言わんとしていることは、「私にはエコノミストの従来の意見や、大学の教科書のモデルなんか理解する必要はない。私はすごく頭がいいので、私自身のマクロ経済学を勝手に作ることができ、それはエコノミストの考えよりも勝れている」ということだ。そこに、この気にくわないエコノミストが現われ、彼の議論の穴を指摘したりする。大学の教科書を理解しようと努めていた者なら犯さない基本的なエラーを見つけ出す。すると人々の反応は、「あのクルーグマン、実に横柄である」ということになる。
p156
クルーグマン『グローバル経済を動かす愚かな人々』

こんなことをいえるのは、38歳でジョン・ベイツ・クラーク賞を受賞し、この後2008年にノーベル記念スウェーデン国立銀行賞を受賞するクルーグマンだからこそであって、まあ凡人ごときに批判されるいわれはないかもしれません。しかし、「モデルから政策を組み立てる」というのは、政治過程や実務的な手続きのフィージビリティを軽視したものであり、研究者の姿勢としてあまりに安易ではないかと思います。

そうしたクルーグマンの姿勢にも問題があるとはいえ、一般の読者がクルーグマンの啓蒙書を読んだ程度でその気になってしまい、それを受け売りして気に入らない主張をする経済学者をデフレ派だのと罵倒するのは、「実に横柄である」といわれても仕方ないでしょう。それより問題なのが研究者(経済学に限らず)でして、クルーグマンの言説を笠に着ながら、モデルだけで政策を語ることができるとして自説に対立する論者を罵倒する研究者は、その影響力からすれば一般の読者よりはるかに悪質ですね。まあこの現象は、この国のアカデミズムの程度を物語るものなのかもしれませんが。

一方で、確かにクルーグマンは経済学的におかしな主張をする論者は容赦なく批判しますが、この国のアカデミズムほどには軽率ではないようで、現実の政策の実現可能性についてはそれなりに考慮しているフシはあります。

 まず、税制改革について話そう。税制の一律化、付加価値税、全国規模の物品税などがよく議論されている。このような提案の熱心な提唱者は、現在の税制は経済の効率性という観点から二つの主な欠陥があると指摘する。最初に40%ほどの高い「限界」税率は払っている人がいるが、これは1ドル余計に稼ぐたびに40セントが国税庁に行ってしまい、これでは真面目に働く意欲を失ってしまうということ。第二に、国税庁は金利や利益にも課税するため、将来のために貯蓄することを思いとどまらせてしまうこと。そこで彼らはより高い勤労意欲と貯蓄率を可能にするような税制改革案をまとめ、それがアメリカ経済の拡大につながるかもしれないという。
 けれども、それによって得られるものは、どれくらいの規模のものなのだろうか? 多くの貯蓄がすでに無税である。退職年金口座の特別優遇措置のためである。それに税を全く廃止してしまうことはできない。好むと好まざるとにかかわらず、政府の行政サービスに対して人々は税を支払う必要があり、したがって限界率を減らすことには制限がある。たとえば、現在の所得税とほぼ同額の税収入を得るとなると、現実的な一律税制率は20%以上の限界率を保たなければならないだろう。それは現在の40%よりも低いかもしれないが、ほとんどの人はそんな額を払っていない。そしてその20数%も、住宅ローンの金利課税控除を排除する場合に限り可能である。つまり、経済全体としては新しい税から利益を得ることができるかもしれないが、何百万という中流家庭は損をする。
 そして実際、税金アナリストは税制の根本的な改正が行われたとしても、それによる純利益は控えめなものでしかないと結論している。彼らは、多くの人が得をするかもしれないが、同時に多くの人が損をするだろうという。中産階級が損をするかもしれないということの本当の意味は、つまり税の一律改案が、非現実的に低い税率を公約するものになる、ということである。そして現実的な税制改革ならば経済に良いかもしれないが、典型的な”政治的”税制改革案というのは、富裕層に大きな減税、そして中産階級には増税しないと約束し、大規模な財政赤字をこしらえてしまう。つまり、経済には得よりも損のほうが大きいということである。
pp.238-239
クルーグマン『グローバル経済を動かす愚かな人々』

ここは注意していただきたいのですが、クルーグマンがここで指摘しているのはあくまでアメリカのことであって、経済学の教科書に出てくるようなモデルのことではありません。さらに、上記で引用した共和党に対する批判のとおり、クルーグマンは減税が景気回復に与える影響はかなり小さいと見積もって、現実のアメリカの税制からすると、「政治的」な減税は得よりも損のほうが大きいとしています。まあ、クルーグマンの政治過程(政策形成過程)に対する軽視というか蔑視するような姿勢はここにも現れているように思いますし、政府による行政サービスも最小限でいいような書きぶりですが、少なくとも本書を発行した時点のクルーグマンは、「政治的」な減税による財政赤字は多くの人にとって損であると認めているわけです。

なお、中流階級の負担増の必要性を指摘している点は、本書の前年に発行された『クルーグマン教授の経済入門 』と同様の認識のようです。ところが本書では、そうした国民負担による再分配政策についても否定的な記述が散見されます。といっても、再分配政策一般というよりフランスの再分配政策に対する批判が繰り広げられるわけでして、この点からも、クルーグマンがあくまで「アメリカ的」リベラルであって、ソーシャルな政策には関心が低いことが伺えます。

 アングロサクソン・エコノミストにとって、フランスが現在抱えている問題は、特に不思議ではない。この国における雇用の問題は、ニューヨークのアパートのようなものである。アパートを供給する者は、政府による、居住者に有利な細かい規則に従わなければならない。フランスの雇用主は労働者に高い賃金を払わなくてはならず、手厚い福祉を与えなくてはならない。ニューヨークの借家人を立ちのかせるのと同様、労働者を解雇することはかなり難しい。ニューヨークは、借家人に有利で大変にいい条件を提供しているが、新しくアパートを探す者にとっては頭痛の種となっている。しかし、多くの人々、ことに若者は、職を得ることができない。失業手当が寛大なため、多くが職を得ようとさえしない。
pp.46-47
クルーグマン『グローバル経済を動かす愚かな人々』

いやまあ、池○ノビーか城○幸かと見紛うような解雇規制緩和論ですが、アクティベーションは確かに重大な問題ではあるものの、ソーシャルな論者であればフランスの雇用主の心配をするよりも労働者の福祉に関心を寄せるのではないかと思います。さらに、世代間対立についても池○ノビーか城○幸のお友達ではないかと疑ってしまう記述があります。

 国防と金利の支払い費用は別として、アメリカ政府は今主に——そう、主に——若者に課税し、老人にカネを与えているのである。このリスト(引用注:『アメリカの統計の要約』の連邦政府支出項目リスト)を目にすれば、税金をあまりにも多く支払いすぎているため、祖母が孫娘に電話をすることができないなどと平気でうそぶくドールがいかに破廉恥であるかわかる。その祖母は、同じ年の人々がこれまで生きてきたより、はるかに良い生活を送っているはずである。彼女と彼女の夫がおさめた税額を大きく超える社会保障によって、生活が保障されているのである。(中略)
 アメリカは高齢者を優遇しすぎると主張することは可能である。退職者に気前が良すぎ、とりわけ福祉がなくとも生活可能な高齢者には甘すぎる、と。けれどもそれを保守派が主張したことはない。小さな政府の真の提唱者なら、エリート官僚に対してではなく、不利だのマンションで隠退生活を送っている中産階級に対して抗議運動を繰り広げるべきだろう。だがなぜか、その点はドールの演説に欠けていた。
p.90
クルーグマン『グローバル経済を動かす愚かな人々』

ここはクルーグマンなりに慎重に中産階級の高齢者に的を絞っている記述になっています。しかし、そうであるならなおさら「(主に)若者に課税し、老人にカネを与えている」とか「アメリカは高齢者を優遇しすぎると主張することは可能」と言い切るのはいかがなものかと。実際に、本書の中でクルーグマン自身がそのような主張に対する反証を記述しています。

 想像してみよう。ある狂った科学者が1950年にタイムトリップして、中流家庭の人間に、下から25%のレベルになれるから、90年代の驚くべき世界に来ないかと誘ったとしよう。96年の下から25%のレベルは、50年代の中流に比べて物質的には明らかに進歩している。彼らはこの申し出を受け入れるだろうか? 否であることはほとんど確かである。50年なら彼らは中流であったが、物質的に恵まれるとしても、96年では貧乏ということになってしまう。人々は単に物質面だけを気にするわけではない。他と比べた自分の生活レベルにも配慮する。
p.256
クルーグマン『グローバル経済を動かす愚かな人々』

1950年よりも物質面で恵まれている現代(といっても本書は20年近く前ですが)には、1950年に若者であった高齢者も生活しているわけで、「他と比べた自分の生活レベルにも配慮する」以上、物価も生活水準も上がった現代において、若者の当時に負担していた税金や社会保険料以上の給付を受けるのは当然なんですよね。そうした主張の齟齬に違和感を感じたらしいクルーグマンは、残念ながらその考察を避けてしまいます。

…現代のアメリカは、しかしながら、非常に不平等な社会であり、誰でも驚異的な成功を収めることができるが、実際はあまり多くの人が成功を手にいれることのない社会である。その結果、多くの人々——いや、たぶんその大部分——が、いかにその人生が快適であっても、その挑戦に失敗したと感じている(中略)
 この考えを追求していくと、経済政策について非常に急進的な考えに辿り着く。それは現在の常識とはまったく異なるものである。だが、私はこのコラムでそのような考えについて真剣に取り組まない。率直に言って、私には時間がない。私は自分の研究に戻らなければならない——さもなければ、ほかの誰かがあのノーベル賞をとってしまうかもしれないからだ。
p.268
クルーグマン『グローバル経済を動かす愚かな人々』

うーむ、こう書いておいて10年後にノーベル記念スウェーデン国立銀行賞を受賞してしまうクルーグマンの有言実行ぶりはすごいと思いますが、再分配とか社会保障に関する議論に関していえば、この辺がアメリカ的リベラルであるクルーグマンの限界なのでしょう。

2014年11月10日 (月) | Edit |
ほとんど月一更新となりつつありまして、本業とプライベートでいろいろあって時間がとれない状況が続いておりますが、ここ最近の消費増税をめぐる議論でクルーグマンの罪をひしひしと感じておりましたので、その辺をメモしておきます。いやもちろん、田舎の地方公務員がノーベル記念スウェーデン国立銀行賞を受賞した世界的経済学者に文句をつけるなぞ大それたことはしませんが、クルーグマンがあまりに日本的な都合のよい評価のされ方をしていて、そのせいで日本財政政策に関する議論が錯綜してしまっているように思います。

私の拙い理解ではありますが、クルーグマンはあくまで「アメリカ的リベラル」であって、「ソーシャル」な政策にはあまり関心がないという印象です。そもそも日本と同じく(というか日本が戦後民主主義の手本とした)アメリカにおいては「ソーシャル」な政策が乏しいわけで、アメリカン・ケインジアンであるクルーグマンに「ソーシャル」な政策への関心が薄いのも当然ではあります。ところが日本においては、クルーグマンの「弱者の味方」というイメージが先行してしまっていて、「クルーグマンがいうことは弱者の味方のためになることだから、クルーグマンの主張のとおりにすれば弱者が救われる」という信念が醸成されているように見受けます。そして、そこから派生した「クルーグマンの主張に逆らうようなことをいう輩は既得権益に凝り固まって弱者を切り捨てる売国奴だ」というレッテル貼りを、特に「再分配」とか「社会福祉」とか「社会保障」を重視すると自称する方が何のためらいもなく行われる原因となっているのではないかと思います。

確かにクルーグマンはアメリカの民主党を支持して、「リバタリアン」な淡水派経済学やアメリカの共和党を批判していますし、その意味では「ソーシャル」な思想の持ち主といえなくもないですが、アメリカにおいて自ら「リベラル」と称しているように、政府が担うべきリスク負担をかなり限定的に捉えています。たとえば、20年前の1994年に原著が発行された『経済政策を売り歩く人々』から引用しますと、

 はなばなしい経済成長の記録を残せなかったことの責任と同様に、所得格差拡大の責任もあるだろうが、その程度は小さい。レーガンの減税政策は、基本的には超高額所得家計に恩恵をもたらしたわけだが、健康保険以外のすべての社会的政策的支出を実質的に大幅に削減したことで、とりわけ貧しい人々を痛めつけることにもなった。とはいえ、所得格差の拡大の大部分は、税引き前所得において顕著なのであるから、意図的な政府の政策の結果であると避難することは難しいだろう。
p.213

 これら一連の話で最も重要な点は、興味深い仮説をいくら立てても、なぜ不平等が拡大したのかということは実際にははっきりとはわからない、ということである。これは、なすすべがない、という意味ではないが、リベラル派復活の話題に触れるときまで、この議論はしばらくこのままにしておこう。
p.218

 これまでの議論から、積極的金融政策をとることの意義は明白である。例えば、すでに述べたプロセス(引用注:すべての人の現金保有需要が高まって雇用と所得が下がり、不完全競争市場化で個々の企業が価格を下げない(下方硬直性)のために不況から自律的に回復できない状況)を経て不況に突入したとしよう。それに対しては簡単な解決策がある。つまり貨幣をより多く流通させ、お金を多く使わせることで所得も雇用も上昇させるだけでいいのである(普通はそれでいいのだが、時として、景気を回復させるために、予想以上の貨幣供給を必要とすることがある。これは連銀が発見したことでもあるが、気がついたときには時すでに遅く、ジョージ・ブッシュは不況のために再選していた)。
pp.306-307

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(2009/03/10)
ポール クルーグマン

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引用したはじめの段落での「所得格差は第1次分配によるもので政府の責任ではない」という主張はいかにも政府の役割を限定する「小さな政府」論者的でして、さらに2段落目の「不平等が拡大した理由はわからないが、リベラルの主張で対応可能」とほのめかしています。そして3段落目では、リベラル派の復活を「新しいケインズ学派」と位置づけて、「貨幣供給の増加だけで所得と雇用を上昇させることができる」という「金融政策万能論」のようなことをおっしゃっています。本書ではこの後、「QWERTY経済」としてクルーグマンの本来の専門である国際経済学と地域経済学の議論が展開されていて、どう読んでも「再分配」とか「社会保障」に関心があるとは思えません。

これは2年後の1996年に原著が発行された『良い経済学 悪い経済学』でも同じ、というか、そもそもこの本は国際経済学のことしか書かれておらず、「再分配」とか「社会保障」がクルーグマンの関心から外れていることが伺えます。

良い経済学 悪い経済学 (日経ビジネス人文庫)良い経済学 悪い経済学 (日経ビジネス人文庫)
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ポール クルーグマン

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ところが、1年後の1997年に第3版が発行(初版は1994年)された『クルーグマン教授の経済入門』では、以前も引用した部分ですが、財政赤字の問題を指摘して増税の必要性を容認するような記述があります。

 あるいは、もっとストレートな言い方をしてみようか。経済の未来について言えるどんなことよりも確実なのが、今から15年したら、政府の支払い義務はその課税ベースにくらべてすごく増えるってこと。計画のしっかりした締まり屋なら、その日のために貯金するだろう。財政黒字にして、今のうちに払える借金を返しといて、うまくすれば準備金を積み立てておくだろう。ところがぼくたちは、借金ばっかどんどん増やしてますます債務漬けになってる。まあどう考えても、信じられないほど無責任だよね。
p.151

 どれを見ても、おっかない見通しでしょ。危機はまだずっと先のことではある。でも、その危機までの時間は、アメリカが巨額の赤字を垂れ流しはじめた80年から現在までの時間よりは短くなってるんだぜ。
 赤字が総貯蓄を足りなくする原因になってるというのは、みんなが心配していることだ。はやいとこなんとかしないと国の返済能力も危うくなるぞ、というおそれも拡大してる。だったら、さっさと財政赤字を解消しなきゃ、というのはすでにだれもが同意してることだと思うでしょう。そして確かに、政治家のほとんどは、すぐにでも財政赤字を解消しましょうと口では言う。
 だったらなぜそれが実現しないんだろう。
p.152

 つまり現実問題として、支出を減らして赤字解消するには、主に中流層のためのプログラムに手をつけなきゃならないってことだ――特に社会保障、メディケア。
 じゃあ税金は? こっちの話はもっと簡単。貧乏人は金をほとんど持ってないので、税金を増やしても払えないのね。金持ちからはもっと税金をしぼり取れるけど、これにだって限界はある。政府が「累進」税率を上げすぎたら――というのはつまり、その人が稼いだ最後の1ドルからあまりにたくさん持っていったら――これは働く意欲や、貯金して投資しようという意欲をすごく下げちゃう。そして増税分の負担が高所得者世帯にいくようにするには、収入にしたがって税率を上げる、つまり累進税率を上げるしかない。
 実際、ロナルド・レーガンは、累進税率を下げることを重視して、金持ち世帯の税率をかなり下げた。93年にビル・クリントンは、レーガン減税の一部を戻し、金持ちの税率をだいぶ上げた。多くの経済学者は、この先3年の財政赤字低下の原因の一つがこの増税だったと評価している。
 でも、クリントン増税で、最高ランクの連中の累進税率は40%になった。増税を支持していた経済学者でも、これ以上上げたら悪影響が出ると心配してる。
 これがどういうことかといえば、これ以上の増税は、金持ち層だけを狙い撃ちするわけにはいかないってこと。まともな支出削減と同じで、増税も大部分が中流層にふりかかってくるしかない。
 要するに、財政赤字をなくす提案をまともにすれば、どうしたって有権者の多く、いやほとんどに、大幅な犠牲を強いるものになっちゃうってこと。不思議に思えるかもしれないけれど、これをちゃんと認めた政治家ってのはほとんどいない――そして、財政について正直にものを言った政治家は、ほとんど例外なしに怒れる大衆によって、落選させられちゃってるんだぜ。
pp.154-156

クルーグマン教授の経済入門 (日経ビジネス人文庫)クルーグマン教授の経済入門 (日経ビジネス人文庫)
(2003/11)
ポール クルーグマン

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なかなか持って回った言い方ですが、少なくともこの時点でクルーグマンは、財政赤字は総貯蓄を足りなくするという点で問題があるという認識を持っていたようです。ところが、財政赤字を削減するためには中所得者向けの再分配を縮小するか、中所得者向けの増税をするしかないと指摘する一方で、それを正直に主張した政治家は落選するとして有権者を揶揄しているようにも見えます。素直に読めば、「財政赤字の問題点がだれもが分かっていながら、政治家が財政赤字削減を主張すると落選させてしまう中所得者層のせいで財政赤字が進まない」と書いてあると思うのですが、もしかすると中所得者層を敵に回すような財政赤字削減は政治的に非現実的だから、ほかの方法(金融政策?)を考えるべきという趣旨かもしれません。なお、本書では、「11 日本」という節があるのですが、あくまでアメリカとの貿易についてのみ書かれていて、「再分配」や「社会保障」については一言も触れられていません。その上で、番外編で日本に対する処方箋が書かれています。

 流動性の罠はどんな状況で起こるだろう。一つの可能性は、PがP*にくらべて高い——つまり人々がデフレを期待するので、名目金利ゼロでも実質金利としては高すぎる場合だ。でももう一つの可能性として、価格が安定だと期待されていても、もしyfが将来に比べて高かったら——あるいは別の言い方をすると、人々の期待将来実質収入が、今日の容量を使い切るのに必要な収入量にくらべて低くても、罠は起きる。この場合は、みんなにいま支出をうながすには、マイナスの実質金利が必要となる。そして価格は下がる方向には動きにくい(下方硬直性)ので、これは不可能かもしれない。
p.393

 じゃあ、今の話を現実に落としてみよう。特に日本に。もちろん、日銀はベースマネーの変化が一時的かこの先も続くのかなんて発表しない。でも、民間のプレーヤーはその行動が一時的なものだと見ている、と考えていいかもしれない。みんな、中央銀行は長期的には価格の安定を目指すだろうと思ってるから。そして金融政策に効果がないのは、このせいなんだ! 日本が経済を動かせないのはまさに、中央銀行が責任ある行動をとると市場が見ていて、価格が上昇しだしたらマネーサプライを引き締めるだろうと思ってるからだ。
 だったら金融政策を有効にするには、中央銀行が信用できる形で無責任になることを約束することだ——説得力ある形で、インフレを起こさせちゃうと宣言して、経済が必要としてるマイナスの実質金利を実現することだ。
p.403
クルーグマン『クルーグマン教授の経済入門』

クルーグマンはもちろん、国際経済学の専門家であって、日本の雇用慣行にも日本の財政状況(経済状況ではありません)にも関心はあまりなさそうですし、その上で財政赤字の削減が政治的に非現実的だというのであれば、「中央銀行が信用できる形で無責任になることを約束」してマイナスの実質金利を実現するというのも政治的にかなり難しそうですね。実際、日銀副総裁になったリフレ派の巨頭の先生も、辞職するといったことを深く反省するなんておっしゃってるそうですし。

UPDATE 1-就任前の目標未達なら辞職発言、深く反省=岩田日銀副総裁(2014年 10月 28日 12:59 JST)

[東京 28日 ロイター] - 日銀の岩田規久男副総裁は28日午前、参議院財政金融委員会で、就任前に2年程度で2%の物価目標が実現できない場合は辞職すると発言したことについて、深く反省している、と語った。大久保勉委員(民主)の質問に対する答弁。

岩田副総裁は、昨春の就任前の国会における所信表明で、2年で2%の物価目標が達成できない場合は辞職する考えを表明したことに関し、「(達成できなければ)自動的に辞めると理解されてしまったことを、今は深く反省している」と語り、「まずは説明責任を果たすことが先決というのが真意だった」と説明した。

当時言及した日銀法改正に対する考えについても、2%の物価安定目標が政府と合意されている現在は「あえて改正する必要はない」との認識を示した。

そのうえで、2年程度で2%の物価目標の達成について、人間の行動に働きかけるのが金融政策とし、「電車の時刻表のように、きちんとはできない。不確実性が大きい」と指摘。2年程度での実現を目指して、最大の努力を行うという日銀の行動が大事だ、と語った。 (伊藤純夫)

この発言をめぐるサルベージはドラめもんさんのまとめをご覧いただければと思います。

というわけで、どうもクルーグマンには政治的な利害関係の調整が煩わしいという感覚があるようで、2006年に発行された『クルーグマン マクロ敬愛学」では、利害調整の面倒な財政政策より金融政策が望ましいと考えているとも取れる記述があります。

 金融政策への関心が復活したことは,財政政策が経済運営の重荷を背負わなくてすむようになったという点で,つまり経済運営が政治家の手を離れたという点で重要だった.財政政策は税率の変更や政府支出の修正を要するので,必然的に政治的な選択の対象となる.政府が減税によって経済を刺激しようとすれば,誰の税金を下げるべきかが問題になる.また政府支出によって経済を刺激しようとすれば,何にお金を使うかが問題になるのだ.
 金融政策は,財政政策とは対照的に,こうした選択に苦慮する必要はない.不況に対抗して中央銀行が利子率を引き下げる場合,すべての人々の利子率を同時に下げることになるのだ.だから政策の柱が財政政策から金融政策に切り替われば,マクロ経済運営は政治色を薄め,より技術的な性格のものになる.実際,第16章で学んだように,ほとんどの主要国経済で金融政策は政治的プロセスから切り離され,独立した中央銀行によって運営されている.
pp.493-494

クルーグマンマクロ経済学クルーグマンマクロ経済学
(2009/03/20)
ポール・クルーグマン

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この点は以前も指摘したことがありましたが、「リフレーション政策といった金融政策については、ある程度制度を無視しても純粋な理論上の議論が可能かもしれませんが、ゴリゴリの利害調整を経て市場の失敗や政府の失敗に頑健な制度を作って初めて機能するような「ミクロの経済政策」については、その需要側のみならず、それを供給する側についても財源を含めて考慮しなければなりませんし、それらを規定する制度の策定過程や執行の実務についても議論しなければなりません。そうした「各論」の制度や実務についての議論を置き去りにしてしまっては、いくらマクロの政策を語ったところで合成の誤謬など「ミクロの経済政策」に起因する問題を適切に議論することができなくな」るわけでして、クルーグマンにもその傾向がありそうです。

クルーグマンの日本理解が端的に表れているのが『世界大不況からの脱出』でして、「3 日本がはまった罠」という章でこういう記述があります。

 なぜ日本が成功したのかという議論を繰り返すことはここではしない。この議論には大きく分けて二つの主張があった。一つは、日本の成功は優秀なファンダメンタルズの成果だとするものだ。優れた基礎教育や高い貯蓄率のおかげだとされ、そして——いつものことなのだが——アマチュア社会学が動員された。もう一方の主張は、日本は欧米とは根本的に異なる経済システム、つまり欧米よりも優れた新しい資本主義を発展させたというものだ。そして日本に関する議論は、経済哲学や欧米流の経済思想一般の正当性についての、さらには自由市場の利点についての議論へと発展していった。
p.82

世界大不況からの脱出-なぜ恐慌型経済は広がったのか世界大不況からの脱出-なぜ恐慌型経済は広がったのか
(2009/03/19)
ポール・クルーグマン

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アマチュア社会学を揶揄しているところからすると、クルーグマンは二つ目に挙げたリビジョニスト的な日本理解を前提にしているように思われるところでして、その直後で最近一部で議論されているキーワードを用いてこう指摘します。

 こうした理解は、実際には間違いだらけだと指摘する懐疑的な人々もいた。とはいえ、日本の輸出攻勢が海外市場を食いつぶしているという批判に与せず、通産省は喧伝されるほど全知全能ではないと疑った人々でさえ、日本の経済システムに固有の特徴がその成功と密接に関係しているという考え方には同意していた。
 その特徴——つまり政府と企業の緊密な関係と、政府系の銀行から提携先の企業への低利融資——が「クローニー・キャピタリズム」と呼ばれ、それが経済の病の原因だと考えられるようになったのは、かなり後のことだ。

クルーグマン『世界大不況からの脱出』p.84

日本の政治環境を理解するためには、まずは「官僚内閣制」とか「省庁代表制」をきちんと押さえておく必要があるわけですが、クルーグマンはもちろん政治学者でも行政学者でもなく国際経済学者ですから、アメリカはともかく日本の統治機構についてはそれほど造詣が深いわけではなさそうです。いやまあもしかすると、「官僚内閣制」とか「省庁代表制」を経済学的なジャーゴンでいえば「クローニー・キャピタリズム」ということになるのかもしれませんが、キャピタリズムは統治機構ではないでしょうから、その言い換えによって肝心の政治過程がすっぽりと抜け落ちてしまうように思われます。クルーグマンの政治過程軽視の姿勢は、よく引用されるベビーシッター協働組合の事例にも現れています。

 言いかえれば、協働組合の役員は中央銀行の役割を果たしているのだ。経済が冷え込んだ際には金利を下げ、加熱したらそれを上げるのだ。しかし、日本の金利はほとんどゼロに等しいのに景気は上向かない。この例え話の有効性もこれが限界なのだろうか?
 さてここで、ベビーシッターの需要と供給にも季節があると想像してみよう。冬の間は寒くて暗いので、夫婦はあまり出かけたがらず、家にこもって他の夫婦の子供の世話をし、さわやかな夏の晩のためにクーポンを貯めておきたいと考えたとしよう。もしあまり季節が関係ないのなら、協働組合はベビーシッターの需要と供給のバランスを保つために、冬の間は低い金利を、夏の間は高い金利を課せばいい。

クルーグマン『世界大不況からの脱出』p.98

うーむ、アメリカではベビーシッターは市場で供給されるので違和感がないのかもしれませんが、保育に限らず教育や医療・福祉は家庭の機能の社会化という経路を通じた再分配政策と考えるべきでしょう。その再分配政策の需要と供給を中央銀行たる協働組合が金利だけで操作できるとしてしまったら、政府による再分配は不要ということになってしまいます。クーポンという「所得」が不足してクーポンを持たない場合、またはクーポンを持っていても供給が需要に追いつかない場合は協働組合を利用することができず、したがって市場でベビーシッターを調達するか自分で子守をするかという選択を迫られてしまいます。さらに、現実の「所得」が不足している場合は、どんなに必要があっても自ら子守をするという選択肢しかなくなるわけです。ベビーシッター協働組合の事例は政府が存在しないアナルコ・キャピタリズムが前提とも言えるわけでして、クルーグマンを神と崇める日本のリフレ派と呼ばれる一部の方々が日銀・政府に対して執拗に攻撃を繰り返すのはこの辺にも理由があるかもしれません。

「政府がムダだから社会保障政策を全廃してBIでいいだろJK」とか「子育て支援なんて金融政策で景気回復して税収が上がれば自然に財源がつくだろJK」とかいう主張に根拠を与えているのがクルーグマンのこうした言説であるならば、いくらクルーグマンといえども批判しなければならないだろうと考えるところです。

(付記)
私の拙い文章で誤解を招いてしまっているようですので、念のため付記しておきますが、私はクルーグマンの理論なり主張そのものを批判しているつもりはありません(つもりなので、批判しているようにしかみえないといわれてしまえば申し開きようありませんが)。私はクルーグマンが示す簡単なモデルとかベビーシッター協働組合の事例が都合良く理解されてしまう危険性を孕んでいるのに、クルーグマン自身がそのことに留保をつけることもなく世の中を説明できる風に主張してしまう点は批判されてしかるべきと考えております。
まあ誤解というより私の文章に対するご批判と受け止めた方がいいのでしょうけど、uncorrelatedさんのご指摘について補足させていただくと、

クルーグマンdis来ました

日本の政治過程や行政の実態に関する理解が浅い、再分配や社会保障に関心が薄いという批判ですが、マクロ経済学は大雑把な方向性を示すものなので、あまり妥当なものだと思います。再分配や社会保障は移転所得として捉え、とりあえず個人に異質性が無いとしてマクロ経済には中立と仮定する習慣は、クルーグマンに限ったものではありません。また、「所得格差は第1次分配によるもので政府の責任ではない」を批判しているのですが、税引き前賃金から格差是正しろと言う人は少数派だと思います。所得税や社会保障の給付と言う第二次分配があるわけですから。
また、流動性選好がもたらす経済停滞を示す比喩としてのベビーシッター協同組合の話に、政治過程への見識が欠如していると言うのは難癖でしょう。また、多くの著作をまとめて批評しているので、学生向けに世界中をオーバービューした上での一般論と、日本の個別事情に配慮した個別的な論がごっちゃになっている感じもします。クローニー・キャピタリズムの件に関しては、官僚の天下りが問題になった事なども、もう忘れているようです。
現場の行政の事情を汲み取ってくれない論者が多いので、そちらにもっと注目して欲しいと言う気持ちは分からなくも無いのですが、マクロ経済政策は良かれ悪しかれ大雑把な話なので話が噛み合わないですね。

前段は(タイポがあるようなので趣旨が違うかもしれませんが)賛同いただいているようですが、マクロ経済学の習慣が云々というのであれば、少なくとも「貨幣をより多く流通させ、お金を多く使わせることで所得も雇用も上昇させるだけでいい」とか「協働組合はベビーシッターの需要と供給のバランスを保つために、冬の間は低い金利を、夏の間は高い金利を課せばいい」などと安易にいうべきではありませんね。そうした簡単化した議論は、マクロ政策のみで景気が回復するのみでなく公共政策まで適切に供給されるようになるという誤解を生みかねないわけで、ミスリーディングな主張とのそしりは免れないものと思います。

で、後出しじゃんけんのようになってしまって、本エントリをアップするときに書いておけば良かったといまさら思っているところですが、クルーグマンの著作では『格差はつくられた』や『グローバル経済を動かす愚かな人々』では、アメリカとフランスを比較して、後者を「楽をしている人に負担を強いて、弱い立場にいる人を救済することによって働き過ぎずに余暇を楽しめる社会」としてクルーグマンも評価しています。これらの著書のようにクルーグマンが丁寧に再分配政策について論じているのであればそれほど批判する必要はないと思うのですが、『さっさと不況を終わらせろ』ではもっぱら公共事業やせいぜい教師を増やすことで雇用を創出するような処方箋しか示していません。実は本エントリは『さっさと不況を終わらせろ』での主張が再分配を軽視しているように読めるということから話を広げて、クルーグマンが安倍首相に消費増税延期をアドバイスしたという記事を取り上げようと思いながら、それより過去の著作からの引用で力尽きたものでして、我ながら中途半端な内容となっております。続き(といえるものになるかは措いといて)はそのうち書ければと思います。とりあえず上記のクルーグマンの主張と安倍首相へのアドバイスを読み比べてみていただければ。

クルーグマン教授が安倍首相と会談、消費増税反対を表明(2014年 11月 6日 17:04 JST)

[東京 6日 ロイター] - 安倍晋三首相は6日、来日中のポール・クルーグマン米プリンストン大教授と首相官邸で意見交換し、クルーグマン教授は消費税の再増税延期について、その必要などを説いた。首相経済ブレーンの浜田宏一、本田悦朗内閣官房参与が同席した。

同席者らによると、クルーグマン教授は米欧の経済情勢などについて見解を述べ、黒田東彦総裁による日銀の金融政策運営を支持すると語った。

また、日本については、デフレ脱却前の増税の危険性を明言した。首相は自分の意見をコメントせず、興味深く聞いていたという。

クルーグマン教授は、従来からデフレ脱却途上における昨年4月の消費税増税を強く批判し、ニューヨーク・タイムズ紙上などで持論を展開してきた。今回は国内大手証券のイベント出席などで来日。本田参与がこの日の会談を設定したという。

消費税再増税をめぐっては、政府内でも実施派と延期派の対立が目立っている。首相周辺の延期派は、再増税による日本の景気悪化が世界経済に悪影響を与えると。米国が懸念している点を強調してきており、きょうの会談におけるクルーグマン教授の発言は、延期派への援護射撃になったとみられる。

(竹本能文)


で、uncorrelatedさんのご指摘に戻ると、1次分配以降のご指摘は私からすれば難癖ですね。1次分配で大きな格差が生じているのに2次分配で格差が是正できるというのは、実務の面からいえばあまりに楽観的に過ぎると思います。所得の捕捉が簡単ではないから所得税とか相続税の効率性が確保できないわけでして、歳入庁なんて役所を作ったところで捕捉が難しいという現実は変わりません。労働者の1次分配を適正化する仕組みが労働組合を主要なアクターとする集団的労使関係であって、憲法で労働基本権として保障されているものではありますが、それが機能不全に陥っている(アメリカではさらに金融機関への規制緩和によって労働者個人の交渉力が強くなりすぎている点も考慮すべきかもしれません)ことは改めて繰り返すまでもないでしょう。1次分配と現物支給を中心とした再分配の関係を適切に制度化することが再分配政策の要諦であって、どちらか一方を野放図にしておきながら租税政策と給付で是正しようというのは実務的にも政治的にもコストが大きすぎると考えます。

という再分配政策の実務的・政治的コストを考えると、「流動性選好がもたらす経済停滞を示す比喩としてのベビーシッター協同組合」の話でもって、再分配としての公共財の供給という政府の重要な役割をあたかも金融政策のみでコントロールできると説明してしまっているのは、特に子守という家庭機能の社会化政策についての説明としてミスリーディングだろうと思います。

クローニー・キャピタリズムと天下りを関連づける議論もやや安直ですね。アメリカのようなロビー活動が公に行われず、北欧のようなコーポラティズムによる労使の政策決定もできない日本におけるステークホルダー民主主義は、官庁内閣制とか省庁代表制という政策過程の形成を必要としたわけで、その点を意識的に考慮しないとクローニー・キャピタリズムとステークホルダー民主主義を混同した議論にも通じてしまいます。まあ、天下りが問題になったことを私が忘れているかどうかよりも、ステークホルダー民主主義をこの国のほとんどの人が忘れ去ってしまっていることの方が大問題ではないかと思うところですが。