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2014年10月13日 (月) | Edit |
今回も間が空いてしまい恐縮ですが、海老原さんから新著をご恵投いただきました。いつもながら場末のブログを気に留めていただきありがとうございます。今回のタイトルが「いっしょうけんめい「働かない」社会」となっていて、私の残業続きの職場で本書を開いたとき、その職場の同僚が本書のタイトルを見て「そうなったらいいなぁ」とつぶやいたのが印象的ですが、本書では結構早い段階でタイトルに対する答えは示されています。

ヒラでも年収900万円になる構造

 昨夏(2013年)の終わりに、一橋大学の守島基博教授がメインファシリテータを務める人事役職者向けの1泊2日研修に招かれた時のことだ。
 そこには、経団連傘下の大手企業20社の人事部課長の面々が生徒として参加されていた。2日目の午後遅くに、こんな課題を私はみなさんに提出した。
「現在、大卒で50歳の勤続者の管理職比率と、それぞれの年収レベルを書いてください」
 結果どのようになったか、手短にたどってみよう。
(略)

出世もできず、最悪の査定で心を砕かれる…

 続いて、多くの企業で3〜5割程度出現している50歳でもヒラの人たちについて、詳しく聞いてみた。ヒラであれば定期昇給は維持されるから、彼らの月給はレンジ上限に貼り付くことになる。しかも、役職者でなければ組合員のため、残業代も支給される。
 こうした旧来の日本型報酬制度が残存しているため、普通にしていると、月収は課長職とそれほど差がつかなくなる。
 では、どうやって、彼らと差をつけているのか。
 その答は、賞与による調整にほかならなかった。多くの企業は、ヒラ滞留者に対して、相当悪い査定をつけ、それにより賞与を下げ、ようやく、課長以上と年収差をつけている
 結果はどうなるか? ヒラ社員として、与えられた仕事をきちんとこなしているにもかかわらず、彼らは恐ろしく悪い査定評価をくだされる。ただでさえ、昇進が止まって辛い思いをしているのに、考課のたびに心を砕かれることになる
 こんな状況を5人ずつ4つのテーブルにわかれて話し合ってもらったところ、期せずして三つのテーブルから同じような悲鳴があがった。
「正直、低位者のモチベーション維持に苦慮しています。どうしたらいいでしょう」と。
 能力区別にその到達点がわかれていても、それぞれが納得のいく職業人生を送れるような新しい人事制度が必要なのだろう。そう痛感した一時だった。
pp.32-35

いっしょうけんめい「働かない」社会をつくる (PHP新書)いっしょうけんめい「働かない」社会をつくる (PHP新書)
(2014/09/13)
海老原 嗣生

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※ 以下、強調は引用者による。

この部分を読んで「日本企業あるある」ネタと感じる方は多いでしょうし、「だからノン・ワーキング・リッチが若者の雇用を奪っている」とワカモノの味方を気取る方は憤ってみせるのでしょうけど、話はそんな短絡的なことではありませんね。いやまあ、世代間対立を煽るということは、自分が歳を食ったときに自らが放ったブーメランで憤死することでして、まさに批判の的となっている中高年は、新卒一括採用されてから一貫して雇用の維持と引き換えに使用者の強大な人事権に服して出世競争にさらされ、それに達しなかったカドでいちばん辛い思いをさせられているわけです。つまり、現行の日本型雇用慣行を維持する限りは、その姿に憤っていたワカモノたちの少なくない割合が、数十年後には「使えない中高年」として辛い思いをすることになります。ではどうやってその状況を変えるべきかというのが、本書のメインテーマとなります。

そのメインテーマは以前のエントリで取り上げたRIETIのスペシャルレポートをより詳細に論じた内容となっていますが、当然のことながら新書としてまとめられた本書の方がより詳細な議論が展開されています。「日本企業あるある」の問題点がいまいちピンときていない方は是非本書を手にとって、日本型雇用慣行の軋みとその解決策がどのように実務に落とし込まれていくべきかをご覧いただきたいと思います。なお、拙ブログの立場からいえば、人事労務管理の立場からの実務はもちろんのこと、集団的労使関係の中でどう構築していくかという実務についても引き続き大きなテーマとして考えていかなければならないと思います。

そうした労使の立場で議論を進めるために、本書の第7章が「みんなで歌う、日本型雇用へのレクイエム」と題して各方面に呼びかける内容となっているのがとても印象的です。

近年の労働問題はすべて「日本型」の綻び

 私は、2008年に会社を辞めてから、雇用ジャーナリストを名乗って、6年になる。
 以来、その時々でもっともホットな雇用を取り巻く問題をテーマに取材を続け、記事や書籍を発表してきた。テーマを並べると、以下のような流れになる。
 2008〜2009年、非正規問題。
 2010〜2011年、グローバル化推進。
 2012〜2013年、高齢者雇用。
 2013〜2014年、エグゼンプション。
 こうした旬なテーマとは別に、この間並行してずっと追い続けてきたのが、新卒採用であり、法改正に合わせて単発で取り組んだものには、障害者雇用がある。
 これらのテーマは、一つの大きな共通項でくくることができる。
 その共通項こそ、「日本型雇用の問題点」だ。
(略)
 1950年代後半に原型が見え始め、1970年代前半にそれは完成した。
 当然、時代の勢いを駆って、その基本原理は、経済成長と人口増加が続く社会構造にマッチした仕組みとなっている。
 ところがバブルが崩壊した1990年代以降は、この基本原理に問題が生じ、そこから対症療法を重ねて20年間、延命治療を続けてきた。それがもう打ち止め状態で、毎年、あちこちから不協和音が発生している。
 間違いなく、日本型雇用の後始末をしなければならない時期なのだ。

海老原『同』pp.212-213

海老原さんが取り組んできたテーマを見ると、雇用問題がいかに日々の生活に大きな影響を及ぼしているかが分かりますね。雇用問題を各分野のミクロの問題に還元してしまうのではなく、日々の生活で感じている問題の原因となっているシステムとして考えることが重要でして、本書は次の言葉で締めくくられています。

 世の中には、雇用における諸問題と真摯に向き合っている人たちが各所にいる。
 非正規問題、グローバル化推進、女性活用、高齢者雇用、障害者雇用、ブラック企業問題、新卒一括採用批判、雇用の流動化…。そのほとんどが、日本型雇用と戦っているともいえるだろう。
 ならば、小異を捨てて、ここは、力をひとつに合わせて、蟻の一穴に力を集約すべきではないか。
 いくら騒いでも変わらなかった「日本型雇用」が、ひょっとしたら変わるかもしれない、時代の節目となりそうな秋である。

海老原『同』p.218

小異を捨てて力を合わせるのは本来的な意味では労使であって、政府は立法や制度の運用でその環境を整えるに過ぎないわけでして、労使ともに日本型雇用慣行で享受してきたメリットをどこまで諦め、新たなメリットをどれだけ本気で確保するかが問われていると考えます。

そのうえで、確かに雇用慣行に限って言えば政府にできることは限られているものの、ジョブ型への移行のために決定的に重要になってくるのが生活を支える社会保障制度です。EUに典型的なジョブ型雇用慣行が日本よりは充実した社会保障制度とセットでこそ実現しているのであれば、政府はそのための環境整備に取り組む必要があります。とはいえ、本書で引用されている「所得倍増計画」が1960年に志向したのも社会保障制度(住宅政策や児童手当など)とセットになった職務給制度だったわけで、それが実現されなかった経緯を踏まえれば、まさに政府にもどれだけ本気で社会保障制度を拡充するかが問われているともいえます。突きつめていけば大いなるリスク移転をどれだけ反転させることができるかという問題につながるところでして、力を合わせるべきことは多いですね。
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2014年10月11日 (土) | Edit |
またも1か月更新していないという画面が出ていましたが、ということは今日で震災から3年と7か月が経過しました。月数でいえば43か月が経過したことになります。この夏から秋にかけても広島県の大雨被害や御嶽山の噴火など日本各地で人命が失われる大災害が発生しているところでして、命を失われた方に哀悼の意を表するとともに被災された方に心よりお見舞い申し上げます。以前も書いたとおり、1000年に一度の大震災以降も、100年に一度、10年に一度の災害が発生していますし、確率論的に言えば1000年に一度の大震災が数年のスパンで起きることも十分にあり得ます。個人的には募金するくらいの支援しかできていない状況ではありますが、災害時の支援や防災のための公共事業など、国家単位でリスクをプールする仕組みの重要さを改めて認識しているところです。

ところが、そのリスクをプールする仕組みに対する批判にも事欠かないのが世の中というものでして、山形さん訳のこちらの本がとても納得のいく内容でした。

 これらの思想(引用注:大中庸時代、効率的市場仮説、動学的確率的一般均衡(DSGE)、トリクルダウン経済学、民営化)はひとまとめのパッケージとなって、いろいろな名前で呼ばれてきた。イギリスでは「サッチャリズム」、アメリカでは「レーガニズム(レーガノミックス)」、オーストラリアでは「経済合理主義」、発展途上国では「ワシントン・コンセンサス」、「学術論争では「ネオリベラリズム/新自由主義」。これらの用語はほとんどが侮蔑表現であり、それを定義して分析する必要性を感じたのが、あるイデオロギー的な枠組みを持った批評家たちだということを反映している。政治的な支配層にいるエリートたちは、自分たちがイデオロギー的に動いているとは考えていないし、イデオロギー的なレッテル貼りをされると、かなり逆上した反応を見せる。イデオロギーは内部から見れば、通常は常識のように思えるのだ。こうした侮蔑語で表現された思想群を表現する用語として、私が発見したもっとも中立的なものは「市場自由主義」だったので、本書では今後この用語を使うことにする。
 本書の構成は、市場自由主義というものが世界金融危機という試験に落第した思想を元にしているのだ、ということ読者が理解できる形になっていると願いたい。こうした思想が相変わらず政策を左右するようなら、確実にまた危機は繰り返される。
序文pp.13-14

ゾンビ経済学―死に損ないの5つの経済思想ゾンビ経済学―死に損ないの5つの経済思想
(2012/11)
ジョン クイギン

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※ 以下、強調は引用者による。

「イデオロギーは内部から見れば、通常は常識のように思える」というのはこれまでの人類の歴史からすると重要な教訓だと思いますが、本書はこれらのゾンビ経済学を批判するために、慎重に「市場自由主義」という言葉で中立性を保っています。以前引用させていただいた野川忍先生のtweetでは「自由民主主義」と対立する概念として示されていた「社会民主主義」との関係からいっても、「自由民主主義」と「市場自由主義」は通底するものがありそうです。

theophil21@theophil21

socialとは(6)思い切って図式化すれば、自由民主主義と社会民主主義とは力点の置きどころを異にするのであり、「個人の自由を侵害しない範囲で弱い者も助ける」のか、「弱い立場の者が切り捨てられない範囲で個人の自由が発揮されるべき」なのかの相違ということも可能であろう。
posted at 18:01:57

つまり、集団内でリスクに直面した個人を救済する際の力点が個人の自由にあるのか、弱い立場の者を切り捨てないことにあるのかで「自由」であることの意味が変わってくるわけです。もちろん、市場自由主義者は個人の自由を尊重することを優先して、政府が救済することを批判します。

大いなるリスク移転

 大中庸時代は市場自由主義者たちが、社会民主派たちとの果てしない論争の中でいばれるようにしてくれた。それ以外にも、それは市場自由主義の中核的な信条を支持するものだった。現代の経済生活にともなうリスクを扱うのに最適なのは、政府ではなく個人や企業だ、という発想だ。この発想はジェイコブ・ハッカー考案の「大いなるリスク移転」という表現に現れている。企業や政府が負担してきたリスクは、労働者や世帯に押し戻された
(略)
 大いなるリスク移転は、ヘルスケアや退職年金にも及んだ。大恐慌と第二次世界大戦の後で導入された、国が単一の負担者となるヘルスケア制度や退職後所得制度は、個人の選択をゆがめる肥大した官僚組織だと攻撃された。公共セクターによる「セーフティーネット」は貧乏人や将来の備えに欠けた人々だけのものとされ、やがて切り崩されていった
 大中庸時代の間でも、金持ちエリート層は、自分自身のリスク負担よりも、一般従業員の個人的なリスク負担にずっと熱心だった。オプションなどの新しい仕組みが大きく喧伝された。これは重役たちに、会社の業績が向上して株価があがったときに儲かる機会を与えた。そのコインの裏面としては、もし株価が下がれば、何ももらえないはずだっが。でもみんないつも、あの手この手で結局は支払いを得るのだった。
(略)
 結局のところ、企業重役たちは全体として見ると、金融ショックに耐える力はずっと高いにもかかわらず、一般の労働者よりも平均所得見合いで同程度のリスクしか負っていないのだった。その富と比率で比べると、重役たちはほとんどの人よりずっと小さなリスクしか負わなかった。CEOたちで実にひどい失敗を犯した人々でも、貧乏になったり、中所得層に戻ったりした人はほとんどいない。大中庸時代が続く間は、こうした首尾一貫しない部分は黙殺された。企業は従業員との社会契約などは、建前すら保とうとはしなかった。このプロセスのごく初期に、従業員たちは「人的資源」とラベルと張り替えられた。

クイギン『同』pp.31-33

大中庸時代というのは、本書の説明によるとGDP変動と雇用変動の指標が低下(安定化)したこともって、主に中央銀行が金利で市場をコントロールすることによって経済を安定化することができるようになったという理解が広がったことを指していて、この理解を広めたのがグリーンスパンとバーナンキだったとのことです。うーむ、これって一部のリフレ派と呼ばれる方々が居丈高に「世界の経済学の常識」とかいっていることそのものではないかと思うのですが、本書の訳者が山形浩生さんだというのが興味深いですね。そして、それだけ経済が安定しているのだからリスク負担は政府ではなく労働者や世帯が負うべきという主張も、公的セクターを熱心に攻撃し、日本的雇用慣行に裏打ちされる企業を通じた所得政策を維持しようとする方々とも共通しています。ついでにいえば、「人的資源」とラベルを貼ってしまうことの問題点も、野川先生のtweetを引用したエントリで「人材をリソースとして扱い、モジュール化する議論」と述べたことにも通じていますね。

で、その結果どうなったかというと、

個別変動性と総変動性

 大中庸時代の経済分析は、困ったパラドックスに直面した。マクロの経済指標は、過去のどの時代よりも安定して見えたのだが、個人や世帯はますます多くのリスクや変動性や不安定性を体験していたのだ。どうもリスクはあらゆる面で拡大したようだった。所得不平等は大幅に拡大した。その理由の一部は、所得変動が増したからだが、生涯所得のリスクが高まったからでもあった。所得の短期変動もまた高まった。
(略)
もし所得の変動が一時的なものなら苦しい時期に生活水準を維持するために借り入れを行うのも筋が通っている。一方で所得が恒久的に低下するのに対して借金で対応するのは、自ら惨事を抱え込むようなものだ。所得低下が一時的か恒久的かは事前にはなかなかわからないので、借り入れによって消費を平準化するのは、リスクの高い選択肢だ
 そして予想通り、所得変動が高まるにつれて、借入で苦境に陥った人の数も増えた。いちばん直接的な指標としては、自己破産を申告する人の数だ。これはほとんどの英語圏諸国で増えたが、中でもアメリカはすごかった。所得リスクに対応するため、融資へのアクセスに頼るやり方が、比較的自由な破産法によって後押しされた。これは一種の再分配性の高い福祉税制に変わるものとして機能した。アメリカでは税の累進性が高い州ほど、破産法が甘いのだ。

クイギン『同』pp.42-43

財政を家計にたとえると経済学好きな方々からは一斉に批判されるところですが、いやまあ、消費を平準化するために国債を発行すべしというのは長期的に税収と政府支出(すなわち政府の所得と消費ですね)が平準化しているのであれば問題ないかもしれません。ただし、政府支出の最終消費者が国民である以上、政府支出を減らすということは国民の消費を減退させることに直結するわけでして、現状の税収を上回る政府支出(つまり国民の消費)が必要な事態になっていても国債で賄えば問題ないという方々には、上記のような当然の帰結についてのご見解を伺ってみたいものです。

ちなみにスティグリッツも財政を家計にたとえていますので、再度引用しておきますね。

 経済学では古くから,政府借入れも個人借入れとまったく同様に,そのお金が用いられる目的に照らして正当化されるべきであると主張されてきた.あなたが多年にわたって住む住宅や,数年間乗る予定の自動車を購入するために,お金を借り入れることは意味がある.そのような方法で,あなたはその商品を使用している間その支払いを引き延ばすのである.将来高級の職業に就くことができる学位取得のための教育を目的にお金を借り入れることも,経済的には意味がある.しかしあなたが今年,2年前の休暇の支払いを行っているならば,おそらくあなたはクレジットカードを捨てるべきだろう.
 国も同じような状況にある.多年にわたって使用される道路,学校,また産業計画の資金を調達するために借入れを行うことは,まったく妥当なものである.完成しない(または開始さえされないような)計画の支払いのための借入れや,今年の役人の給与支払いの資金を調達するための借入れは,実質的な問題を引き起こすことになる.多くの政府は容易に返済できないような多くの債務を負ってきており,そのため租税を急激に上昇させ,生活水準を下げてきた.他の国では完全に返済できなくなり,将来の借入れ能力を危うくしてきた.

pp.1007-1008

スティグリッツ 公共経済学〈下〉租税・地方財政・マクロ財政政策スティグリッツ 公共経済学〈下〉租税・地方財政・マクロ財政政策
(2004/01)
ジョセフ・E. スティグリッツ

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増税が必要だと主張するとどこからともなく「財政再建主義のシバキ主義」とか「可処分所得を下げて消費を減退させるデフレ派」という批判が湧いてきますが、先進国の中でもトップクラスの高齢化率にも関わらず、国民負担率が先進国の中で下から数えた方が早いほど低く、したがって現役世代向けの政府支出も先進国の中で下から数えた方が早いこの国で、財源を確保することなく所得再分配ができるという主張の方が、よっぽど可処分所得をリスクにさらして消費を減退させる可能性が高いのではないかと思うところです。まあ、増税忌避という思考停止に陥っている方々に税金を誰からどのくらいとるかということと同じくらい、その税金を誰のためにどれだけ使うかということが重要なわけでして、税金を取られるという側面だけに着目した議論の問題点にまで議論が及ぶことを期待するのは、相変わらず無理そうではありますが。

というと今度は「増税忌避だから増税反対なのではなくて増税の時期が問題だ」という批判もいただくところですが、うーむ、では、不況時に政府の税収が減る中で政府支出で国民の消費を下支えするために、税収に関係なく政府支出を維持する仕組みが前提となるのですが、それが現状で十分だという認識なのでしょうか。

何度も繰り返しますが、国民負担率が下位でそのために政府支出も下位でありながら先進国トップクラスの高齢化率のこの国では、国民の消費を下支えする政府支出、特に現役世代向けの政府支出を増加する余地はありません。社会保険制度で権利の張り付いた保険料を原資とする政府支出なら不況時に政府の税収が減っても維持できますが、それ以外の政府支出は税収が減少すればカットされるのが通常ですね。その典型が公務員人件費だったり、医療・介護や保育・教育などの対人サービスの人件費でして、それをカットすれば公的サービスによる国民消費の下支えがカットされるうえに、さらにそれを供給する公務労働者の所得もカットされ、二重の意味で消費を減退させることになるわけです。こうしたリスクをプールするために、景気が減退しても国民の消費を下支えするように税金を誰のためにどれだけ使うかということが重要だろうと考えるところです。もちろん、その財源の裏打ちを確保するための税収が必要となるわけですが、税収の確保だろうと何だろうと増税忌避の方々の総攻撃を受けてしまいますね。

この点について本書では、民営化の幻想を批判する中で触れています。

 保健や教育サービスといった人的サービスでは、こうしたサービス提供の現実と、市場最適性の理論的な要件とのギャップがあまりに大きいため、経済学者たちはこれらの活動に経済分析を適用するのに苦闘してきた。最大の問題は、情報、不確実性、資金源に関連したものだ。
 保健や教育サービスの価値は、相当部分がその提供者(医師、看護師、教師など)の知識と、その知識を適用して患者や生徒に利益をもたらす技能にかかっている。これに対して、市場についての普通の経済分析は、その財やサービスの性質について売り手と買い手の双方が同じくらいよく知っているという想定から出発する。情報の非対称性は、保健や教育サービスの便益は事前にはなかなか予測できず、事後的にも検証しにくいという事実と密接に結びついている。これは健康保険や学生ローンといった司法(原文ママ)メカニズムでこれらの資金を捻出するのをきわめて難しくする。なんだかんだで、保健や教育の支出にはかなりの政府関与が不可避なのだ。そもそも政府が一部や全部の費用を負担するのであれば、最もコスト効率の高い解決策は、そうしたサービスを公共が直接提供する場合である場合が多い。

クイギン『同』p.260

民営化論の前提には、市場価格こそが最も多くの情報を含んでいるという市場自由主義があるわけですが、そもそも市場に流通しない情報に適正な価格がつくという想定は成り立たなそうです。景気が減退して税収が減れば、「民間が痛みを感じているんだから公務員も給与を減らせ」という理屈で公務労働者の賃金カットや民営化が推進されますが、その前に、景気が減退しても保健・教育といった必要な消費を我慢しなくていい仕組みを構築しておいて、景気減退期の国民消費の下支えを保障することが先ではないかと思うところです。ところが、山形浩生さんの「訳者あとがき」でも、そうしたミクロの所得再分配(再分配ですから、いったん税金や保険料で原資を政府にプールする必要があります)の仕組みがマクロの経済安定化につながるという視点が一切触れられていないわけでして、本書のメッセージがどこまで伝わっているんだろうという不安に駆られるところではありますね。

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