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2014年07月27日 (日) | Edit |
やや旧聞に属しますがまたもや緊急雇用創出事業で「問題」が発生したと騒がれたようでして、報道を見ていると緊急雇用創出事業についての根本的な誤解は全く解消されていないようです。

DIOジャパン 復興装い補助金目当てか」(赤旗2014年6月11日(水))

 東日本大震災からの復興のために「人材育成事業」として次々と子会社を設立したものの、業務実態に疑問がもたれ、自治体が調査にのりだした会社があります。国の補助金と密接にかかわりながら業務を拡大してきた実態を追いました。(山本眞直)

 福島県いわき市で8日、「コールセンターへの委託事業を考えるつどい」が開かれました。40代の女性が「1年契約でしたが、継続雇用もある、との説明を信じて、一生懸命に働いたが1年で雇い止めされた」と、涙ながらに訴えました。

 女性が働いていたコールセンターは、DIOジャパン(本社・東京都中央区、資本金4・6億円)が2012年2月に立ち上げたいわきコールセンター。東北地方を中心に相次いで子会社のコールセンター14社を設立。その“第1号店”です。

 国の緊急雇用創出基金事業を活用して、企業などの電話対応業務を行うコールセンターをつくり、雇用を創出しようという「コールセンターオペレーター人材育成事業」の一つです。いわき市が実施し、同コールセンターに委託しています。

 いわきコールセンターの受託内容を見ると、委託期間は1年で、育成する人数は200人。委託金額は7億5000万円。人件費が中心で、研修費、物品のリース料なども公的補助の対象で文字通りの補助率100%です。

 DIOによる委託申請書には、こうありました。「いわき市への進出にあたっては、いわきコールセンターとし新規法人を設立する予定で、総合力あるコールセンター事業を展開し、地域雇用の確保に努めていきたい」

この部分だけでもいろいろと事実誤認があるわけですが、まず何度も繰り返しているように雇用創出事業そのものは委託事業であって補助事業ではありません。ただし、上記のとおり基金化した県から市町村にその原資を交付する際は、「県から市町村への補助事業」となりますので、ちょっとややこしいですね。図式的に言えば、財源の流れとして国→県は交付金、県→市町村は補助金として交付され、財源を交付された県または市町村において事業を実施する際は、県または市町村が直接雇用するもの(直営事業)と、県または市町村が民間企業等に委託するもの(委託事業)の2種類に分けられます。委託事業として実施する場合は、補助事業の交付申請とかの手続きではなく、公募等で委託先を決定して委託契約書によって事業を実施しますので、上記の記事にある「委託申請書」なるものは(通称として使用されているのかもしれませんが)形式的には有り得ない書類です。むりやり推測すれば、いわき市が事業を実施する際に公募しているはずですので、その公募に対してDIOジャパンが提出した企画提案書のことかもしれません。

でまあ、確かに財源の流れや事業形態が複雑なうえに変遷していて分かりにくいのはそのとおりでして、当初リーマンショック時に創設された際は単に「緊急雇用創出事業」だったものが、元々雇用情勢が厳しい地方の要請を受けて重点分野だの地域人材育成だのと拡充されて、震災後には「震災等緊急雇用対応事業」なる事業も追加されて何でもありの状況になっていました。厚労省のWebサイトに記載のある経緯を見ても、いかにこの事業がときの政権によって都合よく使われてきたかがよくわかる(厚労省担当者の怨念を感じますねえ)とおり、事業開始当初は「失業対策事業の夢魔」を避けるために「短期の簡易な作業に限って雇用を創出する」という事業であったものが、成長分野と期待されている重点分野とか地域ニーズに応じた人材育成のための研修を実施する事業が追加され、なし崩し的に自治体が失業者の雇用を確保するためのツールとして位置づけられるようになったわけです。厚労省のWebサイトでも、いつの間にか事業名から「緊急」の文字が消えていますが、「失業対策事業の夢魔」を避けるためにあくまで「短期の簡易な作業に限って雇用を創出する」事業であることには変わりありません。

こうして、自治体が失業者の雇用を確保する事業として雇用創出事業が位置づけられるにつれて、自治体で企業誘致に雇用創出事業を使いたいと考えるようになるのは自然な流れです。つまり、自治体が誘致したい企業に雇用創出事業を委託することで、企業が雇用する従業員の人件費を自治体が支払うことができるため、その企業が立地する際のコストが抑えられるとセールスするわけです。これに気がついた多くの自治体で、企業誘致のために雇用創出事業を使おうとしたと想像されるところですが、しかし「短期の簡単な作業に限って雇用を創出する」事業で企業誘致なんかしたら、短期の事業が終了した時点でその企業は撤退する可能性が高くなります。

実を言えば重点分野とか地域人材育成とか拡充される前に私の職場でも同じような話がありまして、そのときは上記の理由によりお流れになりました。まあそもそも、リーマンショックで業績が悪化して施設が過剰となっている事業所に、その余剰施設等を利用して失業者を雇用する事業を委託するという緊急雇用創出事業を、これから設備をフルに活用して企業を立地しようとする事業所に委託すること自体が矛盾しているわけで、「緊急雇用で企業誘致」がいかに筋の悪い事業であるかは明らかです。

しかし、今回問題とされているコールセンターの雇用創出事業は、その後に創設された「地域人材育成事業」で実施されたものでして、おそらく事業化する際に「コールセンター業務ができる人材を育成することによって、地域ニーズとして成長が見込まれる」とかいう理屈がつけられたのだろうと思います。とはいっても、所詮は緊急雇用創出事業の一種ですから、事業期間が終了すれば雇用が終了し、その企業が撤退する可能性は予想されていたはずです。それでも事業化されてしまったということは、「地域ニーズ」なるものについての地元自治体の見込みが甘かったとの批判は免れません。

まあ自治体の側の立場に立ってみれば、岩手県山田町での緊急雇用創出事業問題について「ほかの受託先がない自治体では、怪しいと思っていてもその受託先を頼る以外の選択肢はなかったというのが実態だろうと思います。…その代替手段が見つからないような震災後の非常事態にあって、多少の不正には目をつぶるという判断をせざるを得なかった状況があったとしたら、やはり制度の問題を看過することはできないと考えます」と述べたとおり、実態として背に腹は代えられないという判断があったのかもしれません。しかし、個人的には上記のとおりいくらなんでも「緊急雇用で企業誘致」はないでしょ?と思います。

結局、「地元企業との密な関係性が地元からも首長からも要求されていて、それに特化した人材を長期的に育成することが自治体の課題でもあるわけです。そしてそれが、震災後の企業支援に良くも悪くも影響している」のも事実でして、今回の事案は企業支援が悪い方に出た典型例ですね。

というわけで、「短期の事業で雇用の創出を図る」雇用創出事業としてきちんと事業期間に雇用が創出された限りにおいて、制度上の問題はありません。今回の事案が「問題」とされているのは、「緊急雇用で企業誘致」という安易な事業を実施した自治体(の企業誘致担当)の思惑の甘さにあるはずなのですが、自治体の花形である企業誘致担当と大ボスからなくしたいと言われる程度の雇用担当の力関係は歴然としてますから、企業誘致の理屈が優先されて、その尻ぬぐいをするのは雇用担当という構図は国も自治体も同じなのでしょう。

という状況を踏まえて報道を見てみると、いつものとおり制度の趣旨を全く理解しないで飛ばし記事を書き続ける朝日新聞は安定のクオリティですね。

被災地のコールセンター、撤退・解雇相次ぐ 助成で誘致(牧内昇平、佐藤秀男 2014年6月18日09時57分 朝日新聞)
 東日本大震災の被災地3県の自治体が、失業対策の国の助成金25億円を使って震災後に誘致したコールセンターで、事業撤退や雇い止めが相次いでいる。東京の運営会社が開設した10カ所で計900人以上を雇う計画だったが、現在は約350人まで減った。震災後約3年で多くの雇用がなくなる異例の事態に、厚生労働省も事実関係の調査に乗り出した。
(略)
 急拡大の背景には、税金を財源とする雇用創出基金が、チェック不足で使われてきた点がある。
 この基金は各都道府県に設けてある。DIO社に基金による研修事業を委託した市町は、各県の担当部署に事業計画を提出し、審査を受けた。
 県と市町の二重チェックを経ているようにも見えるが、岩手県雇用対策・労働室の担当者は「事業計画に明らかな無理がなければ通す。DIOは実績があり、あえて疑問は持たなかった」と話す。一方、ある自治体の担当者は「事業費は基金から全額賄われる。市の単独予算では通せない事業だ」と打ち明ける。
 雇用創出基金をめぐっては12年、岩手県山田町から業務を委託されたNPO法人の放漫な運営が発覚。町が法人の代表理事を相手取り、6億7千万円の損害賠償を求めて提訴している。
 基金を利用して研修しても、その後の継続雇用は義務づけられていない。厚労省の担当者は「基金の第一の目的は一時的な雇用機会を設けることだが、安定的な雇用につながることが望ましい。基金を管理する都道府県に対し、現状の報告を求めている」と話す。(牧内昇平、佐藤秀男)

いやだから、厚労省、県、市町の担当者がそれぞれ述べているように、市の単独事業ではない(からこそ補助事業になる)事業について、事業計画に明らかな無理がなく、一時的な雇用機会を設けることで「地域人材育成事業」としての要件を満たした事業が終了しているわけでして、その事業が終了した後に生じた「問題」について「急拡大の背景には、税金を財源とする雇用創出基金が、チェック不足で使われてきた点がある」ってどういう意味で書いているのか理解不能ですな。制度の趣旨を理解するつもりもなく、役所を叩ければ何でもいいという安直な記事を書いているマスコミの方に、「緊急雇用で企業誘致」という安直な事業を実施した自治体(の企業誘致担当)の思惑の甘さが見えないというのは、まあ両者とも似た者同士だからなのかもしれませんねえ。
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2014年07月21日 (月) | Edit |
これもだいぶ前に読んでいた本ですが、前回エントリで取り上げた海老原さんの「日・欧米のいいとこ取り」に対抗して(?)、アメリカ側から見たいいとこ取りがコンサルの本で指摘されていたので、備忘録として(実は、ちょうど(といっても1か月以上前)にhahnela03さんも取り上げていたので取り上げようとしていたのですが、すっかり遅くなりました)。

本書の内容はhahnela03さんのところでリンクされているこちらの記事をご覧いただくとして、私が興味深く読んだのは、マネジメントや人材管理の分野で職務記述書によるジョブ型の働き方を徹底的に批判している部分です。その前に、アメリカのジョブ型の労働者がどのような境遇にあるのか記述された部分を引用します。

 コンサルティングの世界では、物事を迅速に処理する能力が評価されるため、ただ考えるなど、何の付加価値ももたらさない行為とみなされる傾向がある。しかしじっくりと考えた結果、私が思ったのは、「労働組合に入っている従業員は非協力的でいい加減」などと聞かされていたのとは反対に、ほとんどの従業員は問題点をよくわかっており、自分たちでも何とかしたいと思っているのに、彼らには業務のやり方を変える権限すらなく、疎外されているということだ。
 現場の従業員と経営陣は敵対関係にあった。労使契約交渉が暗礁に乗り上げ、相互不信が募ったあげく、関係が完全にこじれていた。私がいたときに経営陣の誰かが現場に顔を見せたことなど一度もなかったし、従業員のほうも決して上層部に現場の情報を提供しようとしなかった。どちらも相手側のことを、意地悪で、強欲で、思いやりのないバカな連中だと決めつけ、ひとりかふたりの目に余るほど身勝手な人間の名前を挙げて、揃いも揃ってひどいやつらだとののしった。
pp.73-74

申し訳ない、御社をつぶしたのは私です。申し訳ない、御社をつぶしたのは私です。
(2014/03/26)
カレン・フェラン

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ジョブ型というのはエグゼンプトされる上層部以外の労働者の雇用形態のことですから、ここでいうアメリカの労働組合はジョブ型労働者の労働組合ということになります。アメリカの労働組合を構成する従業員は現場の問題点をよくわかっているものの業務のやり方を変える権限がなく、そのため経営陣と敵対関係にあり、双方が双方をののしるという険悪な状態に陥っていたわけです。まあ「日銀や財務省などの陰謀論を熱く語る方々の中には、一方で反原発とか脱経済成長とかの左翼的な立場の方々に対して「馬鹿な奴」とレッテルを貼って罵詈雑言を浴びせかける方も多い…反原発とか脱経済成長な方々が好む理屈も、「既得権益による陰謀論」とか「現場も知らない馬鹿な政府・役人」というレッテル貼りですね。向いてる方向が別々でお互いに敵視している同士であっても、持っている道具は同じものしかない」というのはどこぞの国でも同じなわけでして、古今東西立場が違っても結局同じ方法で罵り合ってしまうことには変わりがないのかもしれません。

拙ブログではこれまでにも経営学っぽい本を取り上げたことがあるのですが、『事実に基づいた経営』とも方向性は大体同じようです。つまり、フェファーとサットンが「戦略の問題と言う前に、本当に現在のビジネスモデルがきちんと実行されているかどうかをよく見てみる必要がある」と述べるように、計画やら数値目標やら業績管理やらは手段であって、それをどうやって実行するか、その実行の結果として意図された目的が達成されたかどうかが問題なはずですが、現状は決まり切った手法を提案して、その結果には一切責任を負わないようなコンサルが跋扈していて、それが批判されているわけです。

数値目標については、私も「現場レベルでは大手コンサル(とそのスピンアウト組)によるハンドブック系が幅をきかせる分野となっておりまして、まあ、有り体にいえばコンサルの商売道具」と感じているところですが、本書でも数値目標の弊害が指摘されています。

 だが問題は、システムで組織を指揮管理しようとしても、組織は人間でできていることだ。あいにく人間は人間であり、機械のようには動かない。それどころか人間は命令されたり管理されたりするのを嫌うため、成果測定システムに対して思いがけない反応を示す場合がある。
 このような測定システムから私が学んだことのひとつは、目標を決めて設定し、それについて報酬や罰則を設けると、必ずといってよいほどその目標は達成されることだ。しかし、残念ながらそのせいで、測定できない大事な目標が犠牲になってしまうことが多い。
(略)
営業になじみのある人なら知っていることだが、売上げの数値は毎四半期の期末にぐっと伸び、翌期の頭に落ち込むのが普通だ。というのも、毎回の期末の締め日までに何とか顧客から注文を取りつけようとして、営業が値引きやリベートなどの手口を使うためだ。値引きやリベートを実施すれば、当然ながら利益は減ってしまうが、ほとんどの場合、営業の成績は利益率では評価されないため、知ったことではない。

フェラン『同』pp.111-112

この部分に引き続いて、地域担当マネージャーが、取引先の販売代理店に必要数よりも多めに発注してもらって売上げ目標を達成して退職し、その翌々四半期に大量の返品をもたらした事例や、自動車修理チェーンが売上目標を設定したために、従業員が顧客の同意のないまま勝手に修理をして詐欺容疑や訴訟で業績が悪化した事例、大手銀行で行員の差押え件数のノルマを導入したところ、書類も精査されずに抵当権が行使された事例などが列挙されています。いやまあ、世は数値目標がなければ政策ではないくらいの勢いですが、そこで数値目標として掲げられなかった目標については誰がどのように管理するのか聞いてみたいものですね。

業績管理についてのこの指摘も、普段の職場でのやりとりが走馬燈のように蘇ります。

 つまるところ、評価基準や目標を使って社員を統率し、報酬や株を支給してやる気を出させようとする方法が、会社にとってプラスになるという証拠などまったくないのだ。それどころか逆効果であることが証明されている。
 多大な時間とカネと労力を費やして、職務等級のレベル間を統一し、パフォーマンス基準や必要とされるコンピテンシーを設定し、評価スケールやボーナス目標や給与目標を取り決め、所定の書式とプロセスを設けて自動化し、必要事項を記入したら、それをもとに会議で全体のすり合わせを行って社員を通常の分布曲線に当てはめ、評価スコアをめぐって議論し、評価スコアに応じて報酬を分配し、社員と面接を行って各自の調書と短所について話し合い、総合評価と報酬を通知するという一連のプロセスは、社員のモチベーションにも会社の業績にも、有害な影響をもたらしている。
 いったいなぜこれが経営のベストプラクティスとみなされているのだろうか? 企業経営の専門家が思いついた興味深いモデルに、経営コンサルタントが飛びつき、これはさっそく取り入れようと、実際にどんな結果を招くかなど知りもせず、メリットばかり並べ立ててクライアントを説得したのだ。たしかに、資料の上ではすべてがきっちりとして立派に見える!

フェラン『同』pp.164-165

この5月に地方公務員法が改正されて「能力及び実績に基づく人事管理の徹底」が導入されたところですが、民間労働者の方々いつか来た道をまた歩くことになるのですねぇ(この地方公務員法改正の矛盾については次号の『HRmics』に掲載される連載で取り上げる予定です)。

で、ようやく冒頭で取り上げた職務記述書の廃止の話になりますが、本書では業績や能力での管理ではなく、職務適正を重視すべきとして次のように述べます。

 もっと重要なのは、社員のキャリア開発が本人以外の者たちの手に委ねられることなく、社員自身が責任を持って自分のキャリアを形成していけることだ。社員は異動を申請できる。本人も会議に参加して自分の能力や興味について話し、最も適性のある職務を一緒に探すことができる。上司は部下のキャリア開発に関して責任を抱え込む必要はない。そもそもそれは上司の責任の範囲外のことなのだ。そのかわり、部下の業績を上げることに集中すればよい。それこそ上司が責任をもって行うべきことだ。
 業績や能力ではなく適性について話し合うことで生じるもうひとつの利点は、たとえ適性のある職務が見つからなくて会社を辞めることになったとしても、業績が悪いからではなく、ただ適性がないだけなので、本人が恨みに思ったり恥をかいたり、あるいはもめごとになったりする可能性が低いことだ。
 また、この方法を成功させるためには、職務記述書も廃止するべきである。しかるべき理由があって職務記述書を用意する場合もあるだろうし、以前は、私も作成した。けれども、職務内容を定め、細かい要件を規定してから、それに見合う社員を探すのは、職務内容を社員に合わせる場合に比べてはるかに生産性が低い。

フェラン『同』pp.237-238

いやまさに、海老原さんが「欧米型の「ピッタリな仕事」にあてはめる考え方は、わかりやすい。即効性も高い。ただ、日本型の利点で、職務を決めずにいろいろやらせていけば、自ずからできる仕事に行き着く。そうしてじっくり育てれば、習熟度も増し、見えなかった仕事までこなせるようになる」と指摘されるとおり、日本型の無限定な働き方にはデメリットもありますが、従業員の適性を見極めて組織としての生産性を高めるという点では、大きなメリットもあるわけです。ほかの本を読んだときにも、アメリカの労働者の実態として示される労働環境があまりにも日本と似かよっているということを感じたのですが、お互いにいいとこ取りをしようと試行錯誤をしているところなのかもしれません。

2014年07月21日 (月) | Edit |
というわけで、前回エントリに引き続きhamachan先生の『日本の雇用と中高年』で、個人的になるほどと思った部分を備忘録的に。

hamachan先生の前著『若者と労働』の感想の中で、「労働省の本音では、「日本はメンバーシップなんだから労働法制もそっちに合わせた方が素直だけど、今さら変えられないから判例法理に任せる」というスタンスだったのか、逆に「ジョブ型の法律なのになんで司法が勝手にメンバーシップに変えたんだこのやろう」というスタンスだったのか」というところが気になっていたところですが、本書の中にそれとなくそのスタンスが見え隠れているように思います。

産業構造転換への内部労働市場型対応

 雇用保険法自体は政策当局としては意図せざる政策転換という面が強かったのですが、その後に策定された経済計画は、政策思想の転換を明確に謳いあげるようになりました。
(略)
 ここで高らかに謳われた新たな雇用政策思想の背後にあるのは、いうまでもなく職務の特定が希薄で、使用者の命令によって様々な職務に従事することを当然と考える日本独自の雇用契約の発想です。職務限定型の雇用システムを有する欧米では、やりたくてもそう簡単にやれない政策です。もっとも因果関係としては、こうした雇用政策思想に基づく企業内部の教育訓練を通じた雇用維持施策が、社会全体に職務無限定型の意識を強化していったという側面もあるのかもしれません。
pp.53-56

日本の雇用と中高年 (ちくま新書)日本の雇用と中高年 (ちくま新書)
(2014/05/07)
濱口 桂一郎

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政策当局としては意図せざる転換ではあったのですが、それは日本独自の雇用維持政策としてすでに現場で実践されていたものに政策としてお墨付きを与えたという側面もあったのでしょう。現場で実践されていた人事労務管理の手法が制度化されていくという点では、本書でもそれにつながるような記述が何度か出てきます。たとえば、

 しかし、労働側は配置転換を受け入れるだけではなく、それに伴って労働条件が維持されることを要求し、実現していきました。この時期は経営側が職務給への移行を唱道し、それを労務管理の近代化と称していた時代です。賃金が職務によって決まるべきであるならば、配置転換によって移動した労働者の賃金は、転換先の職務によって定まるべきでしょう。しかし、それではどの職務に異動するかによって、労働者間で不公平感が生じます。この不公平感は、配置転換や合理化その者に対する労働者の反発を強め、実施を困難にします。どの職務に異動しようが、賃金はその労働者のそれまでの経歴の延長線上に位置づけられるという年功制を確保することによって、技術革新に伴う配置転換は容易に実行できたのです。
 日経連が職務給を熱心に唱道していたときに、傘下企業の労務担当者たちはそれが現代社会の要請に応えるものではないことを無意識のうちに認識していたといえるでしょう。近代的と称する職務給は、かえって生産活動の近代化の妨げになるのであり、捨て去るべきとされる年功賃金こそが、却って近代化に役に立つというパラドックスです。これがやがて大きな声となって日経連の賃金政策そのものをひっくり返すことになります。

濱口『同』pp.67-68

この年功制によって職務給の弊害を克服しようという理屈は、たしかに高度成長期に取り入れられたものですが、ドッグイヤーなどと称される最近でも十分に通用しそうな理屈です。というか、それこそが現在においても「六本木で働いていた元社長の個別的な見解が当然のことと受け止められる」素地を形成しているというべきかもしれません。

また、本書で私もうーむと唸らされたのが、いわゆる小池理論を引き合いに出して、内部労働市場における「知的熟練」の議論がある時期までは日本型雇用システムをうまく説明できたものの、まさに現場の労務担当者が近代化に役立つと認識していた年功制が維持できなくなるにつれて、むしろ中高年労働者の「知的熟練」の虚構が暴かれてしまうという第2章の展開です。これについてはhamachan先生ご自身が解説されているのでそちらをご覧いただくとして、ある理論がある特定の時期の社会情勢を説明できるからといって、それを普遍的なモデルとして政策を論じることの危険性については、モデルを多用する学問(まあ経済学のことですが)では十分に注意する必要があると感じた次第です。

で、本書の中心的なメッセージ(と思われる政策)については、本書の最後の方で「「ジョブ型正社員」とは実は中高年救済策である」(p.205)という節を設けて論じられています。

「追い出し部屋」などという奇怪な存在が可能である唯一の根拠は、そこに配転されても雇用契約上文句が言えないような労働者がその雇用形態にしがみついている点にあるのではないでしょうか。前述したように、雇用維持のために認められた広範な人事権が、排出のための間接的な手段として利用されるという皮肉ですが、とはいえ、労働者の側がその広範な人事権と表裏一体であるメンバーシップにこだわっている限り、(ついうっかり「辞めさせる」などと口を滑らしたりしない限り)その論理的帰結である配点を否定することができないという絡み合った関係にあるわけです。

濱口『同』pp.206


その処方箋については、海老原さんの「入口は日本型、途中から欧米型、という接ぎ木型の接地」をはるかに現実的と評されていまして、その海老原さんの現実的な処方箋がRIETIのスペシャルリポートとして公開されています。

新しい日本型雇用とは、キャリアコースの前半が旧来の日本型雇用で、中盤以降が欧米型のそれになるということが前章までお分かりいただけたと思う。
これを可能にするための法律(狭義のエグゼンプション)はそれほど事細かな規定を設けるわけではない。ざっと、以下のような要素になるだろう。
①インターバル規制(Ex.日 11 時間、週 35 時間)
②代償休日の適用拡大(Ex.インターバルが保てなかった場合および超過が月 40 時間)
③代償休日と有給の時季指定権を企業に持たせる
④年間労働日数に上限を設定(Ex.225 日)
⑤相応の熟練(Ex.10 年、またはそれと同等の能力)と高い収入(Ex.初任給の 1.5 倍以上)
⑥上記①~⑤を満たす労働者には残業代の支給対象から外せる。
法律で決めるのは、この程度となり、あとは各社の人事管理に任せることになる。その必要条件は以下のようになるだろう。
⑦異動・配転の事前同意制
⑧業績連動給
⑨職能等級を排し、職務(ポスト)制に
ここまでで日本型エグゼンプションはほぼ完成だが、規定を作ったとしても、残業は減らず、自律的な労働もできないことになれば、それは、ただの労働条件悪化となってしまう。
そこで、企業や個人が、スムーズに自律的な働き方を受け入れられるように、変化を促すための工夫を以下に一つ、盛り込んでおきたい。
⑩休日は、半日単位の取得を可能にする。
p.30

「RIETI Special Report 日本型雇用の綻びをエグゼンプションで補う試案」(海老原嗣生(株式会社リクルートキャリア・株式会社ニッチモ))」(注:pdfファイルです)

⑩はすでに平成22年度の労基法改正で一部法制化されているので、新たに法制化すべきは①〜⑥くらいでしょうか。これによって海老原さんは、「代休や有休を「半日」ですます社員が多々現れると、社内にはいつも休んでいる人が誰かいる状態となっていく。とすると、たとえば育児や介護などに直面する社員たちも、その雰囲気ならば、気兼ねなく早退や遅出をできるようになっていくだろう(p.31)」とされておりまして、その「社内にはいつも休んでいる人が誰かいる状態」というのが職務が明確に定義されたジョブ型の職場の姿だろうと思います。その接ぎ木を落とし所として海老原さんが提言されるのは、「途中まで日本肯定型」です。

今までの「日本型全否定」から「途中まで日本型肯定」に

と、ここまで考えると、欧米型移入については、日本型の良さを殺さないための配慮が十分に必要となる。それを考えてみよう。
・強大な人事権をある程度は残す。
・若年期には日本型雇用を残す。
これらを両立するための方策として、「ある年代までは日本型、そうして習熟を積んだあとは欧米型」という接ぎ木型が落としどころだと見えてくるはずだ。(人事権についても、若年期は強い人事権と雇用保障、習熟者は自律と流動性、となる)。
つまり、今までの議論は「いきなり欧米型」「フルモデルチェンジ」だったものを、「途中から欧米型」とする。それは日・欧米のいいとこ取りとなるだろう。
その変化への促進を法的にバックアップするために、「日本型(習熟者向け)エグゼンプション」というものを提起した。
この施策により、ある年代以降の習熟者は、全員、エグゼンプションを経る。そこで、自律的に働き、時間管理を脱し、そして、雇用保障を緩く失うことを経験する。
そうして、そこからさらに昇進して、課長→部長と進む人たちも、洗礼を受けたあとなので、もちろん、自律かつ緩い雇用保障に慣れていくだろう。当然、彼らには職能等級的な部下なし管理職などはなくなり、欧米型の課長・部長といったポスト登用のみとなる。つまり、課に課長は一人、部に部長は一人という正常な状態になるだろう。

海老原「同」pp.38-39

海老原さんが指摘されるとおり、これを実現するための法改正はそれほど多くありません。逆にいえば、社内の規定をある程度整備することで現時点でも実行は可能です。メンバーシップ型にどっぷり浸かった経産省の研究所にこれが載っていることに多少の皮肉も感じますが、ホワイトカラー・エグゼンプションを目の敵にするような左派的思想をお持ちの方を含めて、ジョブ型正社員への接ぎ木について冷静な議論が進められることが望まれます。

2014年07月21日 (月) | Edit |
またもや1か月以上のブランクで広告が表示されるようになってしまいました。ここしばらく本業の方がピークを迎えていたこともありますが、なんというか、いつも同じエントリばかり繰り返し書いている感覚が強くなっているところでして、本業の合間を縫ってまでエントリにしたいことがあまりなくなっているのも正直なところです。とはいえ、エントリにするまでではないにしろ書いておきたいことはそれなりにあるわけでして、ペースは遅くなりますがブログはぼちぼちと続けていこうと思います。

ということで、だいぶ前に読了しておきながら塩漬けになってしまっていたhamachan先生の『日本の雇用と中高年』の感想から再開したいと思います。昨年同じくhamachan先生の『若者と労働』については、「この本を読んでしっかりと若者と労働について認識を改めて実践するべきは、堅く言えば使用者側、ぶっちゃけて言えば「メンバーシップ型」の雇用にどっぷりと浸かってしまった大人の側」という感想を書いておりましたが、今回の『日本の雇用と中高年』はその名のとおり、その「大人の側」が自分のこととして「認識を改めて実践すべき」ことが満載です。同じエントリで、若者については「これからその世界に浸かってしまう若者にとっては、予防線として知るべき知識ではあっても、現時点では残念ながら実践すべき知識ではない」とも書いておりましたが、これとは全く対照的に、本書で書かれていることはまさに中高年の労働者が実践するべき知識というわけです。

という私自身が中高年にさしかかりつつあるところでして、じゃあお前は何をやっているんだと言われると、本業の方でぼちぼちとやっているつもりではありますが、いかんせん下っ端なものなのでそれがどれだけ実効性のあるものかは心許ないところではあります。

まあそれはそれとして、議論を精緻化するためやや法律的な言い方をすれば、雇用契約が民法上の典型契約として債権債務関係で定義されていながら、労働基準法などの強行法規が規定されている理由は、私的自治の原則に基づく民法だけでは契約そのものの瑕疵や使用者(需要側)の債務不履行の発生を防ぐことができず、賃金を生活の糧とする労働者(供給側)の生活が直接に脅かされるため、契約の内容を直接規制する必要があるからですね。

ところが、契約の内容を直接規制して契約の瑕疵や債務不履行の発生をある程度防いでも、私的自治の原則がある以上、交渉上の地歩の違いによって実態としての契約内容が定まってしまい、深刻な体調不良を招く長時間労働や生活が成り立たないほどの低賃金労働などによって、実態として労働者の生活や健康が脅かされることが生じ得ます。もちろん、現に生じた不利益については、現行法においても補償なり賠償なりを求めることができますが、そのためには厳格なデュープロセスオブローを確保する必要があります。となると、そのための時間的・金銭的コストが現に生じた不利益に見合わなければ、現実問題として泣き寝入りするほかありません。そもそも私的自治を原則とする現行法上は、現に不利益が生じてその当事者が法的手段に訴えるまでは第三者が口を出すことはできない(いわゆる民事不介入)ので、そうした事態を未然に防ぐことはできません。つまり、身体・精神的な疾患を発症したり過労死したりという目に見える不利益が生じない限りは、労働者は契約に基づく債務履行(労働供給)を事実上強制されてしまうわけです。

結局、現に生じた不利益については法律上の救済措置が可能ですが、基本的人権に積極的自由が含まれるとする現憲法において、法規範のみでは積極的自由の衝突による不利益を未然に防ぐことは事実上不可能です。そのため、制度(社会システム)によって積極的自由の衝突を調整しながら労働者の生活が脅かされる事態をどうやって防ぐかというのが、現代の先進諸国が福祉国家と呼ばれる体制を構築してきた歴史となるわけです。

というまたもやいつも書いていることの繰り返しを書いてしまいましたが、特に中高年の労働者には、自分だけではなく子どもなどの家族の生活がかかっているわけで、 hamachan先生も序章で中高年の雇用を議論するための視座を明確に述べられています。

 世界中どこでも、労働者のライフサイクルは似たようなものです。若い頃は独身ですが、やがて結婚して子供が生まれ、子供が次第に大きくなって教育費がかかるようになり、また住宅費もかさむようになっていきます。こうした養育費、教育費、住宅費といったコストは、社基が健全に再生産していくためには必要不可欠なコストですが、労働者の提供する労働の対価とは直接関係がありません。そこで先進諸国はいずれも、こうした現役世代向けの社会保障システムを確立拡充してきました。国が国民(国のメンバー)の面倒を見るのは本来の仕事です。
 ところが、日本型雇用システムとは、欧州諸国が公的に面倒を見てこざるを得なかったこの部分を、企業が年功賃金制度の中で対応する仕組みでした。逆にいえば、年功賃金制の下で教育費も住宅費も企業が面倒見ている状況を所与の前提として、現役世代向けの部分が欠落した社会保障システムが十全なものであるかのように維持されてきたということもできます。そうした社会保障システムをそのままにして、雇用システムだけを無理にジョブ型に変えたら何が起こるか。ここにも、相互依存的な関係を持つシステムの改革につきまとう問題が露呈してきます。
 雇用システム改革を論じるとは、こういう社会システム全体への目配りを絶やさずに、どこまで慎重かつ大胆な提起ができるかが問われるということなのです。表層的な損得論をもてあそんでいるような人々の手に負えるような生やさしいものではありません。
pp.18-19

日本の雇用と中高年 (ちくま新書)日本の雇用と中高年 (ちくま新書)
(2014/05/07)
濱口 桂一郎

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雇用システムを社会保障システム全体との関連で位置づけるという先進諸国では当たり前の議論が難しい現状はもちろん、その日本の雇用・社会システムを巡る議論が極めて表層的にとどまっている現状が、この部分で見事に描き出されています。私が上の方でグダグダ書いたことも、要は「雇用システム改革を論じるとは、こういう社会システム全体への目配りを絶やさずに、どこまで慎重かつ大胆な提起ができるかが問われる」ということに尽きます。

実は、労働政策のパターナリズムを取り上げた前回エントリ(といっても1か月以上前になりますが)は、本書を読む前に書いたものでしたが、第5章の末尾ですでに同じような問題意識がきちんと表明されていました。知らずにブログにTB送ってしまいお恥ずかしい限りです。。

福祉と労働の幸福な分業体制

 こうした流れをマクロ的に振り返ってみると、戦後確立した日本型雇用システムが企業内で労働者とその家族の生活をまかなうことを追求し、かなりの程度それを実現してしまったために、欧米諸国で同時代的に進んだ福祉国家の形成をかえって阻害してしまったということもできるでしょう。
 もちろん、傷病にかかったときの医療保健制度や労働市場から引退した後の年金制度などは、それほど遜色のない立派な制度が構築されましたが、現役生代の労働者に対する生活保障については、企業がすべて面倒を見るのが当然であって、公的な社会保障がしゃしゃり出るようなものではないという発想が牢固として屹立し、児童手当のようなその思想に反する制度は何とか生み出されても細々とやせ細っていくしかなく、あるいはせいぜい少子化対策か選挙目当てのバラマキとしてしか存在し得ないのが現実でした。

濱口『同』pp.236-237


現役世代の生活保障は企業が面倒を見るという前提がある限り、現役世代に対する給付(金銭・現物とも)はバラマキの批判を免れないわけでして、それによって生活を成り立たせている男性労働者とその家族にとっては、メンバーシップ型雇用システムを脅かすような主張(それが増税による財源の確保と社会保障の拡充であっても)をする輩は、シルバー民主主義の犠牲者であって新自由主義のシバキ主義で緊縮財政派のいいなりのアフォと認定されるわけですねわかります。

でまあ、かくも倒錯した議論がまかり通る現状において、筋道の通った議論をすべきアカデミズムですら(というかアカデミズムが率先して)いとも簡単に倒錯した議論に巻き込まれていくというのは、日本のメンバーシップ型雇用システムの堅牢さを示しているといえるのかもしれません。

 こうした流れは、アカデミズムにも大きな影響を与えました。現役労働者の生活保障はすべて企業内で解決されるべき「労働問題」であるとされてしまったことが、それまで存在していた広義の「社会政策」という問題意識自体を希薄にしたのです。かつては、労働問題を中核にそれと不可分の形で社会保障を論ずる社会政策という学問的枠組みが存在し、多くの学者が論を戦わせていたのですが、高度成長以後には(「社会政策学会」という名称の学会はそのまま残っているとはいえ)労働問題研究と福祉・社会保障研究とはお互いに異次元空間の存在ででもあるかのように別々に行われるようになっていったようです。
 日本型雇用システムでは、大企業の正社員を中心に企業単位の生活保障システムが確立し、公的な福祉を一応抜きにしても企業の人事労務管理の範囲内で一通りものごとが完結するようになったことがその背景です。福祉・社会保障政策はその外側を主に担当するという形で、福祉と労働の幸福な分業体制が成り立っていたわけです。
 これを逆に言えば、日本型雇用システムによってカバーされる範囲が徐々に縮小し、企業単位の生活保障からこぼれ落ちる部分が次第に拡大してくるとともに、この分業体制に疑問が投げかけられてくることになります。近年、社会政策分野で再び福祉と労働のリンケージが問題になりつつあるのは、この状況を反映しています(濱口桂一郎編著『福祉と労働・雇用』ミネルヴァ書房、2013年)。

濱口『同』p.238

学問に「社会政策」という分野がなくなった影響は、公務員試験に法律・経済と少しの政治学科目しか残っていない現状に端的に表れているように思います。国家Ⅰ種(今は総合職ですが)ほどの勉強もしていない地方公務員は特に、法律論やら(最近は地域経営論なども流行りですね)は得意気に語りますが、「労働って普通の地方自治体の仕事と関係ないからね」と平然とのたまうわけです。

そういえば以前雇用労働関係の部署にいたとき、所属部署の大ボスから「うちの役所からお前らがいる雇用労働担当をなくすのが俺の仕事だ」と面前で言われたことがあります。この発言は地方自治体の組織の特性が背景となっておりまして、地方自治体には商工(地域によっては農林水産業を含めて「産業」と一括りにしているところもあります)と観光と労働を一括で所管する部署があるのが普通でして、霞が関でいえばそれぞれ経済産業省、国土交通省(観光庁)、厚生労働省の業務を所管しております。華やかな業務が好きなその大ボスは、このうち商工と観光の振興が自分の使命だという意識が強いので、「商工業と観光を振興すれば雇用が創出されて雇用労働問題は解決するので、雇用労働担当は要らない」というナイーブな見解をお持ちのようでした。まあ、それが「チホーブンケン時代の労働行政は、ブラック企業にとっては水を得た魚のような心地」をもたらしているのだろうと思います。

hamachan先生の筋道の通った議論が政府内の議論にも反映されるようになって、「限定正社員」とか「メンバーシップ型」「ジョブ型」という言葉が人口に膾炙し始めたところですが、地方ではそもそも役所自体がそういう認識に到達していないという現状があります。職業的レリバンスの観点から言えば、公務員には「社会政策」について学んだ学生を採用すべきではないかと思うのですが、アカデミズムも役所もそんな学生を養成したり採用する気はないわけですし。本書で書かれていることはまさに中高年の労働者が実践するべき知識ではあるのですが、それが役所にまで波及してくるのはいつのことやら…と遠い目をせざるを得ませんね。

また長くなってしまいましたので(同じことを繰り返して書くから長くなるんですな…)、本書の内容については別エントリにしたいと思います。

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