2014年05月29日 (木) | Edit |
拙ブログではおなじみの話題でいまさらなにをか況んやですが、一応リンクだけ張っておきます。

ただ如何せん言ったことのほとんどは、本音でして、厚生労働省というのは多分霞ヶ関で最も重要な省庁だと認識しているにもかかわらず、組織として病んでいるという印象は役人時代通して感じていたことでした。厚生労働省に入省した同期達と飲むと、愚痴ばっかり出てくるだとか、頭が固くなっててビックリしたとかいう話は霞ヶ関あるあるだと思います。また労働市場での元厚労省組の評判はおしなべて悪かったということもまたまぎれも無い事実でして、その辺現職の方にも伝われば有り難い次第です。

「厚生労働省は解体するしか無いと思う --- うさみ のりや(2014年5月21日)」(アゴラ)



後期高齢者医療制度の是非は措きます。仮に後期高齢者医療制度が批判されるべきものであるとして、であるならばそれが向けられるべきは小泉元総理であり、竹中元経済財政担当大臣であり、経済財政諮問会議でしょう。厚生労働省に対しては批判よりもむしろ、「あなたたちの見通しが正しかった。あのときに抵抗勢力扱いして、あなたたちの声に耳を傾けなかった自分たちが間違っていた」といった謝罪があってしかるべきです(後期高齢者医療制度が批判されるべきならば、という前提に立っています。為念)。しかるに現実は反対で、小泉元総理や竹中元大臣には依然として改革の推進者として賛辞が寄せられ、批判の矢面に立つのは厚生労働省なのですから、やってられなくなるのも無理はありません。

「厚生労働官僚のモラールが崩壊しかかっている件(2008-06-25)」(BI@K accelerated: hatena annex, bewaad.com)



厚労省というのは他の省庁に比べ、国民に対して圧倒的に長いコミットを持った省庁です。それは現在の年金の運用のしかたに関わっています。年金制度というのは度々改正されているのですが、現状の年金制度の枠組みは平成16年度改正によって出来上がりました。いわゆる「100年安心プラン」ですね。

「厚労省の人たちへ ~ もう大本営発表は止めませんか --- うさみ のりや(2014年5月28日)」(アゴラ)



100年安心問題については、番組の中で2分ほど時間を費やしていましたけど、あの2分ほど無意味な時間はありませんでした。より良い年金を考えるために2分を使うのならば、もっと違う話をしなければなりません。番組の中で言ったように、年金を守る論陣を張るにしろ、攻撃する論陣を張るにしろ、100年安心という言葉を使う論者は、信頼に値しません。よりよい年金制度を設計していく上で、100年安心という言葉はまったく必要ないですから。100年安心という言葉が登場する文章が研究者のものでしたら、その研究者は2流どころか、3流、4流と考えていいです。その言葉で彼らは何を言いたいのやら。学者が使う言葉では、絶対にない。

権丈善一「勿凝学問235 銭湯権を危険にさらして新報道2001スタッフへの礼状(pdf)」



鈴木亘先生なぞが度々指摘していることですが、残念ながらもはや現在の形での日本の社会保障制度は破綻しているといっても過言ではありません。厚労省の先には破滅的な結末しか待っていないような気がします。

「厚労省の人たちへ ~ もう大本営発表は止めませんか --- うさみ のりや(2014年5月28日)」(アゴラ)



 高橋洋一氏が典型的だが、経済に関する説明ではそれなりに説得的なのに、肝心なところで中二病としか言いようのない官僚への既得権批判や陰謀論になだれこんでしまう。社会保障の専門家である鈴木亘氏もそうだが、既得権批判を持ち込まなくても十分説得的な議論ができるはずなのに、もっとも肝心要の部分でそういう批判を繰り出して全ての議論を台無しにしまう。

「■日本の新自由主義は集団主義的(2010-05-23)」(dongfang99の日記)



ちなみに労働面で言うと、厚労省は中央省庁で最も残業時間が長いことで有名でして(その過半はサービス残業)、ブラック企業を取り締まる官庁が霞ヶ関で一番のブラック企業というのは笑えない話です。まずはそういう足下のできるところから解決するよう心がけてほしいものです。

「厚生労働省は解体するしか無いと思う --- うさみ のりや(2014年5月21日)」(アゴラ)



 現在の厚生労働省では、新しい生活困窮者支援の体制づくりは地域福祉課が、生活保護制度の見直しは保護課がそれぞれ担当しています。
 国会からの問い合わせ、財務省への説明、関係省庁への根回し。こうした霞ヶ関内部の仕事に加え、自治体での取組の進捗状況を管理し、必要とあらばテコ入れをする役割を期待されています。支援団体や当事者から寄せられる苦情や批判、報道機関の取材対応などの外向きの仕事もそこに加わるのです。
 このほか、2013年8月に引き下げられた保護基準に対して多数の審査請求が提起されており、今後、訴訟へと発展していくことが確実視されています。これも、基本的には保護課が対応していかなければなりません。
 こうした諸々の業務の合間をぬうようにして、政策立案のバックボーンとなる各種の審議会を開催し、有識者の意見を聞き、報告書をまとめ、法律の制定に向けて動いていくのです。
 私が現場のケースワーカーをしていたときには、漠然と、「厚生労働省には生活保護の神様のような人が何十人もいて、分厚い政策集団が形成されているのだろう」と考えていました。現場に下りてくる通知や会議資料は相当なボリュームで、とても数人の作業でできるものとは思えなかったからです。
 事実は異なりました。
 厚生労働省の担当課は細分化されており、一つの担当部署の係員は二人か三人くらいしかいません。生活保護に関していえば、指導監督のような人手のいる部署を除き、法令や政策立案、自立支援といった業務を担当するのは、すべてを足しても十数名ほどの体制です。しかも、頻繁に人事異動があり、生活保護の仕事はまったくの初めてという人が、中核的なポジションに座ることも珍しくありません。

実務を担う政策集団への投資の重要性

厚生労働省の担当者一人ひとりを見れば、皆、誠実で、飲み込みが早く、高い事務処理能力をもっています。本書で紹介した資料の多くも、厚生官僚が生活保護制度や新しい生活困窮者支援のしくみを対外的に説明するために、昼夜を分かたず作業を続け、積み上げてきた努力の結晶です。
それでも、適正化モデルからは「ほんとうに生活保護の削減につながるのか」と疑問を投げかけられ、人権モデルからは「利用者の人権を守るつもりがあるのか」と突き上げられる。
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(2013/11/16)
大山典宏

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とまあ、現状認識の薄っぺらさにおいて他の追随を許さないうさみ氏については拙ブログでも取り上げていましたが、

なお、話はそれますが、宇佐見氏のキャリア官僚についての説明はさすが中の人と思いますが、農水省に根回しなしに農商工連携とか言い出すあたりに経産省特有のお行儀の悪さが全開で、だから経産省不要論が絶えないんだろうなと思うところです。以前経産省が地方交付税の研究会を開催しているのを見てなんのこっちゃと思ったら、地方交付税の仕組みが企業活動に影響を与えるから経産省としても何かいわなければならないとか(いう趣旨が)書いてあって、つくづく総定員法の弊害を感じたものです。権丈先生のこちらもご参照あれ。
「不磨の大典”総定員法”の弊」『週刊東洋経済』2010年10月16日号

日本型雇用慣行=グローバル競争?(2013年05月08日 (水))


という、やることがなくてド素人の分際で専門家の分野に入り込んでドヤ顔で勝手なことを始めるいかにも経産省マインドの持ち主であるわけでして、総定員法の弊害というのはこういうことです。

 結果、行政需要が増えゆく府省の人員は余裕を失っていく一方、行政需要が減少する府省では人員が余り、仕事を求めて活発に動き始める。そうした力学が強く働いていることを感じるのは、この6月に医療ツーリズムをはじめとする医療の営利事業を提案した経済産業省『医療産業研究会報告書』を眺めたり、かつて同省、その前身の省が年金の民営化や基礎年金の租税方式化を唱えていたことを思い出す時である。

権丈善一「不磨の大典”総定員法”の弊」『週刊東洋経済』2010年10月16日号


こういう余計なことをしている省庁には、なぜ厚労省がオーバーワークになっているかなんて想像もつかないのでしょうけど、その根底には日本型のメンバーシップ的な雇用慣行も影響していそうです。

「厚労省の仕事がオーバーワークではないか」野田聖子氏(2014年5月23日20時46分 朝日新聞)

少子化・超高齢化社会になると、どうしても政策の主要な課題は社会保障に集中している。私が内閣府特命担当大臣の時に、厚生労働大臣が信じられないぐらいの想定問答集を持ってきた。予算委員会では財務相よりむしろ厚労相に質問が多かった。今も変わっていないし、むしろ増えた。厚労省の仕事がオーバーワークではないか。少しパターンを変えた方がいいのかなと言う気がする。国民の懸案事項は経済の次は社会保障、年金と続く。役所の仕事もかなり多くなっているし、議員立法も厚労省関係の福祉とか医療とか社会保障関係は多い。相当、仕事を増やしている。厚労省を批判したところでミスは減らない。(厚生労働省のミスで国会審議が滞ったことについて、記者会見で)


(略)
問題は、それなら仕事の少なくなった役所の人員を減らして、仕事がやたらに増えたところを増やせばいいではないか、というごく当たり前の理屈がなかなか通らないことでしょう。

それこそ、仕事に人をつけるジョブ型じゃなくて、人に仕事を割り当てる日本的システムの弊害が露呈しているところかもしれません。

昔のように業界振興が天下国家の至上命題だった時代の省庁人員配置をそのままに、社会労働関係の増えた政策需要に対応しようとすると、一方にオーバーワーク、一方にアンダーワークという状態が生じてしまいます。

正確に言うと、仕事が減ったからといってもおとなしくしている役所もあれば、仕事がないと不安なのか、自分のところのジョブディスクリプション(○○省設置法)なんか無視して、よその役所の課題にばかり口を挟みたがる熱心な役所もあったりしますが、でも、それが当該課題をジョブディスクリプション上で所管する役所のオーバーワークの解消に繋がるかというと、逆にますます余計な仕事を増やすだけになったりするので、なかなか大変ですね。

単なる雑感です。

「雑感(2014年5月24日 (土))」(hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳))


その日本型雇用慣行にどっぷりと浸かった経産省が、時間外労働もいとわない日本型雇用慣行の見本のような労働者を「スマートワーク」と名付けて売り出しを図っているそうですので、ここでその顛末を見てみましょう。

だがこのスマートワークのような、およそすべての労働者をその対象とする提案は初めてだ。昨年12月に出された産業競争力会議雇用・人材分科会の提言でも、労働時間規制の緩和に関しては、まずは年収1000万円以上の専門職を対象に導入を検討するとされており、原案はそこから大きく逸脱するものだ。ただ、非公式会合の出席者からは、原案を問題視する声は上がらなかった。

会合では原案の読み上げこそ長谷川が行ったが、その後の出席者からの質疑への対応を一手に引き受けたのは、経済産業省経済産業政策局長の菅原郁郎、このスマートワーク構想の発案者である。
風間 直樹 :東洋経済 記者「「ヒラ社員も残業代ゼロ」構想の全内幕 官製ベア・残業代ゼロ・解雇解禁の「点と線」(2)(2014年05月26日)」(東洋経済ON LINE)

昨年3月、競争力会議がやはり長谷川の名で出し、「再就職支援金の支払いとセットでの解雇(解雇の事前型金銭解決)」などの内容で波紋が広がったペーパーも、経産省OBの原英史(政策工房社長)と経済同友会政策調査第1部長の菅原晶子(現・日本経済再生総合事務局参事官)の合作であり、経産省本体はタッチしていない。

それが今回は一転、経産省の筆頭局長の菅原自らがこの「原案ペーパー」を片手に、起案した産業人材政策担当参事官の奈須野太と連れ立って、3月半ばすぎから官邸関係のほか、経済団体など各界上層部への根回しに奔走している。

昨年末に念願の産業競争力強化法が成立し、今後のアベノミクスの浮沈は株価動向に懸かっていることを痛感する経産省。「とにかく外国人投資家受けする政策を」と探し回った結果、農業、医療など「岩盤規制」がある分野の中でも、最も出遅れている雇用に目をつけた。
風間 直樹 :東洋経済 記者「「ヒラ社員も残業代ゼロ」構想の全内幕 官製ベア・残業代ゼロ・解雇解禁の「点と線」(3)(2014年05月26日)」(東洋経済ON LINE)

「育児・介護の事情がある世帯のニーズは、労働者の方々にも非常に満足度が高いフレックスタイム制の活用で実現できる」

そもそも無理筋の建前である女性の活用推進という点を、強調すればするほど、厚労相・田村憲久のこのある種至極まっとうな批判に、対応できなくなってしまう。

経済界側にしても、経産省の手法に完全に賛同しているわけではない。くしくもAタイプが発表されたのと同じ4月22日、経済同友会はJFEホールディングス社長の馬田一が委員長を務める雇用・労働市場委員会の提言の発表を予定していた。

事前の案内によれば、労使双方にメリットのある「労使自治型裁量労働制」の創設を提言するとあり、少なくとも新入社員まで残業代ゼロになるスマートワークとは一線を画するものであったことは間違いない。

ところがその5日前に急きょ延期が発表された。関係者によれば、長谷川の意を受けた同友会事務局が馬田にスマートワークについて提言に入れるよう求めたところ、到底同意できないと馬田が激怒。長谷川と馬田の間も険悪になり、やむなく延期になったとされる。
風間 直樹 :東洋経済 記者「「ヒラ社員も残業代ゼロ」構想の全内幕 官製ベア・残業代ゼロ・解雇解禁の「点と線」(4)(2014年05月26日)」(東洋経済ON LINE)

労働時間規制の緩和は経済界からの要望だ
竹中平蔵 産業競争力会議議員(慶大教授、パソナグループ取締役会長)
(略)
──ホワイトカラー・エグゼンプションのときのような過労死を助長するといった批判はどう受け止めますか。
 それは労働基準監督署の機能強化が必要な問題で別の話。それこそ厚生労働省が頑張れと言いたい。異なる話を結び付けるのは改革を阻むための意図的な議論だ。あおる議論は必ず出ます。そこは政治の説明責任の問題。規制改革担当相や厚労相がしっかり責任を果たしてほしい。
風間 直樹 :東洋経済 記者「「ヒラ社員も残業代ゼロ」構想の全内幕 官製ベア・残業代ゼロ・解雇解禁の「点と線」(7)(2014年05月26日)」(東洋経済ON LINE)


顛末と言ってもまだ途中経過のようですが、最後はやっぱり「厚生労働省が頑張れ」ですか…orz

経産省が打ち上げた醜悪な花火の後始末を他人に押しつけて、ご自身の提言については「政治の説明責任」と逃げを打つ辺りに、この方の政策プロモーターとしての才能が遺憾なく発揮されていますね!(棒)


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2014年05月29日 (木) | Edit |
前回エントリの発表の際には砂原先生の議論も参考にさせていただいたところですが、先日アカウンタビリティについて興味深いエントリがアップされていました。

1994年になってはじめて「アカウンタビリティ」という言葉が出てくる。この時点で説明責任という言葉はまだ。そして、転機が訪れるのが早くも1996年で、この年に制定された情報公開法や、社会問題となった住専問題に関係して「アカウンタビリティ=説明責任」という言葉が使われ始める。そしてこのまま順調にアカウンタビリティという言葉が使われ続けていくのかなあとおもいきや、アカウンタビリティという言葉は完全に失速し、2000年代に入るとほとんど使われなくなる。それに対して説明責任という言葉は隆盛を極め、2000年代には非常に広く使われる。

「■[雑感]アカウンタビリティと説明責任(2014-05-22)」(sunaharayの日記)


拙ブログでも「謝罪会見が急増しだしたここ10年くらいで一般に広まった言葉に「説明責任」というのもあります」ということを書いておりましたが、2000年代にはアカウンタビリティに変わって説明責任という言葉が隆盛を極めたことがデータでも示されているとのことです。そのエントリでも述べたことですが、「個人的にはこの「説明責任」が際限のない謝罪を求める際の理論的な根拠を与えてしまったのではないかと考えるところで」して、2009年の政権交代は自民党がまさにこの説明責任を取らされる形でもたらされのだろうと思います。さらに砂原先生の言葉をお借りすると、その政権を奪った民主党までも、

2009年には民主党が政権交代を起こして(その次の選挙でもきっちり責任取らされたので)、言葉の本来の意味での「アカウンタビリティ」が発揮され、あまり使われなくなったのかもしれない。


という状況に至ったのかもしれません。

この後砂原先生はジェラルド・カーティス氏の説明を引用されて、accountabilityとresponsibilityの違いを説明されるのですが、私の拙い理解ではありますが日本の仕組みに即して言い換えると、レスポンシビリティは行政機関が執行する政策の意図や効果について説明可能性を有すること、アカウンタビリティはそのレスポンシビリティについて、立案の権限に基づく説明可能性を有すること(立案した政策の修正の権限を有すること)というイメージだろうかと思います。つまり、政策の意図とか効果については、政策立案を担当した行政機関(端的にはその構成員である官僚や公務員)がレスポンシビリティを有するとしても、アカウンタビリティは、その政策が現実に意図した効果を発揮しているかを検証し、発揮していない場合に適切に修正又は新たな政策を立案する権能として観念されるものではないかと。そのアカウンタビリティは、執行を担当する行政機関ではなく、制度についての意思決定を司る立法府やその制度そのものによって担保される必要があり、執行する側に求められるレスポンシビリティとは明確に区別される必要があるのでしょう。

この点については、砂原先生が上記エントリのコメント欄で

「説明責任」という言葉が端的にまずいのは、その主体が委任を受けるエイジェントだからであると考えています。要するに、委任した本人に対して因果関係をうまく説明する(そして納得してもらう)という含意が強すぎるということです。
私の理解では、アカウンタビリティは、そのようにエイジェントが主体になる概念ではなく、本人あるいは制度が主体になる概念です。つまり、因果関係をうまく説明できるかどうかが問題なのではなく、(説明がうまくても下手でも)プリンシパルが因果関係に納得できないと判断したらエイジェントを辞めさせる、その可能性の程度について議論するための概念だということです。

sunaharay 2014/05/27 23:58

とおっしゃっているように、政策の意図や効果についての因果関係という身も蓋もない現実によってその去就の可否が判断される選良の方々にこそ、アカウンタビリティの重さを認識していただきたいところなのですが、日本の某二大都市に由来する政党がくっついたり離れたりするのは、どのようなアカウンタビリティを担っていらっしゃるのか小一時間ほど問い詰めてみたいものですね。

2014年05月28日 (水) | Edit |
気がつけば更新が1か月以上ないとかいう表示が出てしまいましたので、近況のメモがてら備忘録など。

先日場違いなところで討論せよとのご指示をいただきまして、拙論を述べる機会をいただいたところなのですが、当然のことながら私などに与えられた時間は限られておりまして、勢いに任せて事前にメモを用意するも2割くらいしかお話しできませんでしたので、そのメモを一挙公開!
といいつつ、個人名は伏せておりますのであしからず。まあ、拙ブログで何度も書いていることの繰り返しですので目新しいことは特にないのですが、インデックス代わりに関係するエントリにはリンクを張っておきます。

(参考)
與那覇潤『中国化する日本』2011
日本の選挙は一揆と同じ=選択肢に対する賛同ではなく不満表明の手段

○論文Aのインプリケーション
・80年代までは地方分権が一分野の公約だった ←地方分権が手段の一つであったという認識の現れ
=ある政策を実施するための実施体制の選択の問題
・しかし、90年代に入って地方分権が自己目的化(手段の目的化)
背景:①80年代からの地方の時代(大分県「一村一品運動」等)は、田中角栄の「均衡ある国土発展」の新たな「選択肢」
平松大分県知事(当時)は、地方分権でとどまらず、国の機能縮小(国防、外交のみに特化すべき)論を展開
⇒政治家にとって国政上のイシューへ変化

○政治家にとっての地方分権のリスクヘッジ効果
・本来の地方分権は実施体制の一つ=政策目的によって選択されるべきもの
・しかし、地方分権が自己目的化すると、実施体制の変更こそが政策目標となるため、為政者にとってはハードルが低い
=アウトプットだけで政策をアピールすることができる。
※ただし、この場合のアウトプットは、行政組織の変更にとどまる
例:省庁再編、地方自治体における出先機関の権限強化(知事会の政策ファイル)、都道府県レベルの市町村への権限委譲
・それ以外の分野で地方分権が進まない場合、地方分権のもう一方の選択肢である中央集権(妥当性はともかく)の側の中央官庁の責任とすることで、政治家は責任を逃れることができる。
⇒「地方分権」を公約に掲げることは、リスクが低く実績をアピールしやすい。

○選択肢としての地方分権
・政治・行政に対する不満表明としての中央集権批判=その受け皿としての地方分権
・公約としての地方分権が有権者に広く認識されると、中央集権的な公約は不満表明の矢面に立ってしまう=有権者の支持を失う
・結果として、政治・行政に対する不満表明を票田とする限り地方分権しか選択肢となり得ない。
⇒政治・行政に対する不満表明にしか票田を求められない政治的構造?
(ただし、有権者の「合理的無知」を前提とすると、選択肢そのものが成り立つか?)

○そもそも地方自治体に選択肢はあるのか
小西砂千夫『地方財政改革論』2002
本当の問題は、自治体はなぜ税収の三倍もの仕事をしなければならないのかという三倍自治
・特に市町村レベルでは、地方自治体が比較優位を有するはずの「資源配分の最適化」(公共事業や産業政策など)の予算や業務はそれほど多くない。
・むしろ市町村レベルでも、地方自治体ではなく国や広域自治体が比較優位を有するはずの「所得再分配の確保」(生活保護、病院)の占める割合が小さくない。
・三位一体の改革でもたらされたのは、三倍自治の要因である所得再分配機能を、地方自治体の判断で削減する権限を地方自治体に移譲したこと。
※例:島根大学准教授 関耕平(山陰中央新報「談論風発 : 地方分権への懐疑 国の責任放棄見逃すな(2008/09/22)」)
ある自治体の財政担当者は「私たちが分権改革によって得たのは、教育や福祉への歳出を削るという”裁量”だった」と述べている。
・経済学の議論でいえば、国や広域自治体が「所得再分配の確保」に、地方自治体が「資源配分の最適化」にそれぞれ比較優位を有する。
⇔しかし、1990年代以降の地方分権は、これと逆の方向に進んできたのではないか?
・経済学の議論を踏まえると、
→地方自治体に「資源配分の最適化」についての「小さな権限と大きな裁量」を与え、比較優位性を生かせる公共事業や産業政策に特化すべき(現状でもある程度実施済み)
→民生費などは国の事業として位置づける(地方自治体の「執行の裁量」を確保する仕組みを有する制度として)。
例:1999年、地方事務官制度であった都道府県の職業安定行政を、新設した労働局に移管
→地方自治体側から産業政策との連携の必要性の要請
→2008年、地方分権改革推進委員会はハローワークを都道府県に移管すべきと提言
⇒「地方分権」が目的化してしまい、政策の実行可能性、効率性がないがしろ?
・ただし、「中央集権的」なものとして廃止された「機関委任事務」が、不満表明の場である選挙の争点となりうるかは難しい課題。

○論文Bについて
・公務員としては、用語についての実務的な意義が気になる。=「地方政府の利益」とは?
・財源を確保すること=財政的自律性が高まることが「地方政府の利益」か?
・適切な使途が割り当てられてはじめて「地域住民の利益」になる。=自主財源だからといって地域の実情に応じて使途を決定できるわけではない。
予算編成はお金に色を付ける作業=財源を確保した後にどのような色を付けるかが重要
=「財政的自律性」は「地域住民の利益」の前提となるか?
・選挙公約としての「財政的自律性」とは?
→投票主体としての有権者は、「合理的無知」のために近視眼的であり、複雑・長期的制度より、簡単・短期的制度を好む傾向。
→地方レベルの政治家は、政策実施の手段に過ぎない「地方分権」を公約に掲げることで、国の複雑・長期的制度に対して異議を唱えることができるようになる。
→現行制度や政権への不満を回避したい国レベルの政治家と「利害が一致」する。
⇒国と地方の政治家の「利害の一致」が「地域住民の利益」と一致するか否かは、有権者の「合理的無知」を前提とすると、一意には決まらない。
・三位一体の改革の問題点
☆補助金とは…特定の目的の事業を実施する自治体等に、その経費を交付するもの
★税源(自主財源)とは…原則として自治体が、その目的に応じて事業の経費に充てるもの
⇔しかし、全国レベルで税源を移譲する際に、それに見合う額の補助金を廃止するためには、全国の自治体で実施される事業に対する補助金とならざるを得ない。
全国の自治体で実施される事業の多くは、国レベルで実施すべき所得再分配政策
=義務教育、生活保護という所得再分配政策が狙い撃ちされた。
⇔経済財政諮問会議での議論は、「裁量的補助金」の廃止が目標とされたが、税源移譲に見合う額を確保できなかった。
=特定の目的の事業を廃止すること自体が不適切又は困難であった可能性
⇒国と地方の政治家の「利害の一致」が「地域住民の利益」と一致しない例?
例:TPP交渉参加への反対
→民主党政権・自民党政権で決定されたTPP交渉参加について、民主党系、自民党系が多数を占める地方議会で、全会派賛成で反対の意見書を政府あてに提出する例が多い
→地方政党は、自らの票田を確保するため、国レベルの政策には是々非々で対応

○論文Cについて
・地方分権の意義が変化し、そのために議会の機能をどのように強化すべきかは、制度上重要な論点。
→団体意思決定機能と事務執行監視機能の分担の見直しは急務
・ただし、「抱えている課題」がどのように異なるかによって、講じるべき対応も異なるのでは?
→「持続可能な選択と集中」が人口減少に対して有効か?地方が「持続可能な選択と集中」を行いうるか?
→民間の事業所が業務を行う地域は、必ずしも行政区域と合致しない。
→国レベルの基準があって、初めて地方レベルの「持続可能な選択と集中」が可能になる。(現行法制はその仕組み)
・地方自治体は、人口減少を所与の要件として事業を考えざるを得ない。(日本創生会議)
→「持続可能な選択と集中」の前提として、より充実した国レベルの所得再分配機能が必要
=地方分権だけでは対応できない。
地方は、単一の産業にモノカルチャー化=東京(海外)などの消費地の景気動向が大きく影響
→地方の「選択と集中」の余地はかなり限定され、モノカルチャー化した地方同士がそのモノカルチャーでシェア争い。
例:農林水産物のブランド化(差異化が産地偽装に拍車)、企業誘致の激化最低賃金での就労
→国レベルでの所得再分配政策(医療、介護、教育、保育などの現物支給)の充実を前提として、地方が「選択と集中」できる範囲での権限移譲と大きな裁量により、資源配分の最適化をめざすべき。


(手抜きでエントリをアップできると思ったらリンク張るのに時間ががが)