2014年04月28日 (月) | Edit |
vgobpaさんから御要望がありまして、「拙ブログを検索して初めて気がついたんですが、大阪都構想については砂原先生の『大阪―大都市は国家を超えるか (中公新書) 』を題材としてエントリを書いたつもりが書いておりませんでした」という状況でもありましたので、砂原先生の議論を踏まえて備忘録的に大阪都構想なるものについての私のスタンスを整理しておきたいと思います。

その砂原本では、歴史的経緯を踏まえながら大阪都構想に至る大都市制を巡る議論が整理されていて、議論を俯瞰するのに適しています。関東大震災で国の復興計画と東京府の復興計画が対立する中で、復興の過程で東京の中心部であった「東京市」が西方に拡大され、東京市は他の大都市と比較しても別格の巨大な市となります。それまでの大都市制を巡る議論は、大阪市など各地の大都市を一括の制度として国から独立した自治体として権限を強化する方向で進んでいたのですが、東京が別格となったこともあって、戦後の地方自治制度の中でいち早く特別区制が取り入れられることになります。もともと独自の都市計画を推進していた大阪市は都市計画の面で戦前の地方自治体の中で最先端を進んでいましたが、その先進性にも関わらず東京都で特別区制が導入されてしまい、大阪でも都や特別区制を導入しようとする動きが出てきます。

先頭を走った大阪市−−都市計画と都市官僚制

 大阪市は、日本有数の大都市として、成立間もない頃からこのような都市問題の解決を迫られていた。窮乏する農村地域に関心を傾けがちな国が都市問題に対して有効な解決策を打ち出すことはほとんど期待できず、大都市は自らの力でこの問題に取り組まなくてはならなかった。そして実際に都市問題への対策の先頭を走ってきた大阪市は、日本の都市行政をリードする存在であるという強い自負を持っていた。
 都市問題を解決する手段として最も期待されていたのは都市計画である。都市計画によって、上下水道や道路を通し、住宅地と商工業の地域を分け、住宅地と働く場所を結ぶ交通機関を整備することで、貧困や公害を減少させるのである。しかし、もちろんそれには犠牲がともなう。都市計画の対象となった地域の人々に対して、居住地の移動や都市基盤整備のための負担を求めなくてはならないからである。
 都市計画という発想が前面に押し出されるのは、大都市で一定の専門官僚制が成立してからである。しばしば賞賛されるように、大阪市の關一市長はそのパイオニアのひとりであった。当時としては破格の道路である御堂筋を、周辺住民の非難を受けつつも受益者負担によりながら建設したことはその象徴であるし、都市の住宅問題を強調して郊外に住宅を開発し、高速交通で都心と結ぶことを重視したのもそのあらわれである。
pp.48-49

大阪市域拡張の試み−−中馬馨の挑戦

 戦前の「州庁」案や戦後の「地方」案は、基本的に国の側から事務の再編成を企図して行われたものであった。それに対して、1960年代に行われた府県の境界についての提案は、事務の再編成とともに大都市制度との関連が強く意識されているのが特徴である。つまり、大都市を拡張するために府県の狭さが問題として浮上してくるのである。そして、そこで最も重要な論者であったのが、大阪市長の中馬馨であった。
 地方制度調査会などで展開された中馬の首長の核心は、大阪市が大都市として小さすぎるというものである。次ページの表3-1でわかるように、他の政令指定都市と比較すると大阪市の面積は非常に小さい。隣接10市を併せても、まだ京都市よりも小さく東京の特別区と同程度だというのである。大阪市が狭すぎて飽和状態にあるために、周辺の衛星都市の人口は急増し、周辺の市町村から大阪市への昼間流入人口は、100万人を超えていた。この人口流入に対応するために、大阪市は大きな負担を抱え込んでいた。
p.83

大阪―大都市は国家を超えるか (中公新書)大阪―大都市は国家を超えるか (中公新書)
(2012/11/22)
砂原 庸介

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しかし、市域の拡張は特に面積の小さい大阪府においては他の府県との合併をも視野に入れて議論されていたものの、1970年代になって人口流入が収まり、現行の政令指定都市の下で都市計画を推進する体制が構築されたこともあり、市域拡張の議論はここで終息します。

ところが、市域拡張の議論が収束したとしても、大阪府と大阪市の機能分担の問題が解消されたわけではもちろんありません。狭い地域で重層的な自治体がそれぞれの事業を進めるわけですから、他の地域、特に北海道や東北のような面積の大きな県とは違って、大阪府と大阪市の機能分担を巡る調整は重要です。しかし、実際には、

 市域拡張が挫折し、大都市行政の一元化がなされないことが確定すると、府県と大都市の「機能分担」がきわめて重要な問題となる。適切に分担がなされないと、行う仕事が重複する二重行政が生まれるからである。しかし、結論から言えば、大都市圏でのさまざまな事業を統合する一元的なリーダーシップは欠如しており、適切な分担は行われなかった。とりわけ大阪では、前節で見たように、大都市が都市問題の核心である住宅・交通問題や港湾整備で拡張的な事業を行っており、大阪府の事業との調整は深刻な課題だった。

砂原『同』p.93

という状況だったわけです。私自身は、二重行政にもそれなりに意味があると考えているので、「二重行政=ムダ」という議論は慎重に行うべきと考えるところですが、アメリカや東北のように広い面積の中に点在する地域で重層的な自治体が公共サービスを提供するのと、大阪のような狭い面積に人口が密集している地域でのそれとでは、事情が異なるのだろうと思います。関西方面に全く土地勘のない私からすると、ここにバブル崩壊を機に改革派が隆盛しやすい土壌があったのではないかと推測するのですが、砂原先生はそれを「納税者の論理」による改革と位置づけます。つまり、有権者の「血税」がムダな支出に充てられているという批判によって「改革」を標榜するためには、「二重行政」は格好の標的となったわけです。

とはいえ、批判だけの「改革」なんてものはあくまでためにする議論でしかありませんし、制度改正という手段が目的化するのもカイカク病の病理でして、「二重行政」を批判してその対案を示したからといって、それが必ずしも実現可能性のあるものであるとは限らないわけです。特に維新の会が示している都構想なるものは、批判の部分ではそれなりに説得力があるかもしれませんが、それを現実の制度の中に落とし込もうとしても、「納税者の論理」しか論拠がないのでうまく制度化ができていないように見受けます。

ただし、「納税者の論理」という言い方も微妙な問題を含んでいるように思うところでして、砂原本で「納税者の論理」に対置されているのが「都市官僚制の論理」なのですが、

 このように「大阪都構想」は、ふたつの論理を内包している。ひとつは、大都市としての成長を追求する「都市官僚制の論理」であり、もうひとつは特別区への分権や民営化によって事業ごとの効率性を求める「納税者の論理」である。
 「都市官僚制の論理」は、重商主義の都市における変奏、あるいは公共の福祉の観点から集権的に都市を作り替える「革新」の発想に近い。すなわち、政治家の強力なリーダーシップのもと、民間企業の手法を用いて大都市の事務を効率化し、都市インフラを整備して大都市の経済的な発展を導くことが強調される。そして、周辺部に対しては、大都市からのトリクルダウンへの期待と引き換えに協力を求める。
 「納税者の論理」は、政府の社会に対する介入を否定する自由主義、あるいは1980年代以降先進国で支配的な新自由主義の発送として理解できる。特別区への分権や事業の民営化によって、大都市が一元的に行っていた事業を細分化し、支出と収入のバランスを強調する。厳しい効率化や廃止の圧力にさらされて、細分化された事業主体が不採算事業を抱える体力も限定されるだろう。効率化は非難されがちだが、人口の持続的な増加が見込めないなかでは、採算を重視し、リスクの大きい大規模開発などにブレーキをかける小規模な権力を用意する意義を否定することは難しい。

砂原『同』pp.105-106

…うーむ、かなり違和感を感じるところです。たとえば「納税者の論理」といっても、緊縮マンセーのシバキ主義だけではなく、私のように税収を確保して再分配の拡充を望む立場もありうるのではないかと思います。「都市官僚制の論理」についても、「公共の福祉の観点から集権的」な政策を志向して再分配の拡充を進める立場もあれば、受益と負担の対応を厳密に考えて富裕層が多くて税収の高い地域で重点的に公共サービスを提供する市場原理的な立場もありうると思いますので、対立軸としては適していないのではないかと思います。ただし、「地方自治体の役割で重要なのは、課税と公共財供給のバランスにより受益と負担を明確化してパレート最適を目指すという資源配分の効率化であって、受益と負担を意識的に乖離させて公平性を確保する所得再分配機能ではありません」ので、便益の及ぶ範囲が自治体のなかにとどまる政策については、シバキ主義と都市の成長の対立を、「納税者の論理」と「都市官僚制の論理」と読み替えることは可能かもしれません。

そうやって考えてみると、砂原先生が「問題は、現在の「大阪都構想」が、ふたつの論理をいずれも強調し、それが両立することを暗黙の前提としていることである(p.206)」と指摘される点はまさにそのとおりだろうと思いますし、終章の最後で「われわれは、制度を変えればすべてがうまくいくという寓話からは離れて、議論のための手続きを整備しながら、国家と大都市の関係についての社会的合意を積み上げていくしかないのである(p.221)」と指摘される点は、大阪都構想に限らず、社会政策について議論する際に十分意識しなければならないことだと思います。いやもちろん、だからといって維新の会が掲げる「大阪都構想」にどれだけ考慮すべき点があるかは別の問題ではあるわけですが。
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2014年04月16日 (水) | Edit |
ちょっと実生活の方で動きがあってこんなことを書いている暇はないのですが、備忘録的にいくつか書いておきます。

以前、欧米では経済学というのは社会科学の基礎的な学問分野であって、学部レベルの学生が経済学だけを履修する「経済学部」があるのは日本の大学の特徴だという話を聞いたことがあります。拙ブログでも経済学の議論に特化した方々というのは、「経済学的な正しさ」の他の学問分野に対する優位性を過剰に強調したがるのではないかという趣旨のことを書いたことがありまして、「経済学部」という学部が存在することがそのようなシンプルマインデッドな思考方法を身につけてしまう原因なのかもしれません。

でまあ、そうした基礎的な学問分野である経済学の世界では、ミクロ経済学を応用した経済学はその分野の名前を冠して「○○応用経済学」と呼ばれることが多いわけですが、どうもこの国では、その基礎的な学問分野の専門家の方が、経済学的見地としてだけではなく政策論として、社会政策的な分野に口を出す傾向があるように思います。私の関心分野である労働とか社会保障についても、ご多分に漏れず経済学を専門とされる方があれこれと口を出されているものの、労働にしても社会保障にしても、それを論じるためには制度とそれを規定する法律への理解が最低限必要です。さらに、その制度が法制化された歴史的経緯についての理解も不可欠なところでして、こうした理解を欠く口出しには見るべきところはほとんどないというべきでしょう。

ところが、そうした制度に利害調整の過程を落とし込むのが仕事のはずのキャリア官僚ですら、ご自身の専門外のことになるとそうした経済学者の口出しにいとも簡単に乗せられてしまいます。

 今のうちに社会保障制度を改善しておかないと大変なことになると思う。厚生労働官僚もしっかりしてほしい。次世代の若者に自信をあたえられるような制度設計をちゃんとしてほしい。

 自分はほかの経済学者の本も読んでみる。八代尚宏『社会保障を立て直す』小黒一正『アベノミックスでも消費税は25%を超える』とか。

鈴木亘『社会保障亡国論』を読んで、厚生労働省は情報をオープンにして、本当に社会保障は持続可能なのかを国民に開示すべき。(2014-04-12(04:13) 革新的国家公務員を目指してー自由と民主主義を信じ国益を考えるー)
※ 以下、強調は引用者による。

鈴木亘氏、八代尚宏先生、小黒一正氏ですか…orz。利権陰謀論で社会保障を語る経済学者と、新自由主義的な市場万能論で社会保障を語る経済学者と、世代間格差論で社会保障を語る経済学者の豪華揃い踏みですね(棒)。まあ八代尚宏先生は労働法に関しての現状認識はまだいくらかまっとうだと思うのですが、結論部分ではあらぬ方向に展開してしまうようにお見受けします。その他の方々はそもそもの法律や制度に対する理解が怪しい方々でして、「経済理論に基づいてリフレーション政策を主張することはある程度経済学に素養があれば可能としても、それを現実の立法府の中で実現するためには、少なくとも立法の制度を知る必要があ」るにも関わらず、「経済学的にだけ正しい議論」に終始する一部のリフレ派と呼ばれる方々とも通じますね。

で、上記の国交省のキャリア官僚氏が八代先生の著書を読んだ感想は、

 この八代先生の本を読んで、痛切に感じるのは、消費税の引き上げ3%とか5%とかは焼け石に水で、根本的に現在の世代の負担を増やし、現在支援を受けている高齢者などの支援を減らすという抜本的な対策が必要なのに、それについて、真剣担当官庁の厚生労働省が考えていないこと。

 これは同じ役人としてがっくりくる

 国民年金の保険料の未納率が半分近くになっていて、それを他の年金の基礎部分が合体して未納率を低く見せている話などは、本当にモラルの問題だと思う。保険料をきちんととれないのであれば、年金目的税にして、きちんと国税庁にとってもらった方がいい。

 まさか、社会保険庁、今は年金機構かもしれないが、その組織を守るためにそんなせこい戦略をとっているのではないだろうな。

 医療も介護も生活保護も、細かな制度設計の改善点については自分は自信がないが、持続可能な制度ではなく、このままでは次世代にツケを残すことは必然。これを、厚生労働省内の縦割りとか、既得権とかいってメスを入れないのは、本当になさけないと思う

 厚生労働官僚、しっかりしろ。

八代尚宏『社会保障を立て直す』を読んで、責任官庁の厚生労働省が次世代への負担を意識していないことが恐ろしい。(2014-04-12(05:21) 革新的国家公務員を目指してー自由と民主主義を信じ国益を考えるー)

だそうで、レベルは遠く及びませんが、私も同じ公務員としてがっくりきますね。制度設計の改善点について自信がないとおっしゃる割に、厚労省内の縦割りとか既得権に矮小化する議論に何の疑問も挟まずに乗っかるところが、「「行政の縦割りの弊害」とされているのは、単に建築住宅部局が住宅建設のことしか考えていないということではないかとも思うのですが、当事者にとっては、調整や協議は時間がかかってかえってマイナス」といってしまう国土交通省らしいというところでしょうか。

その鈴木亘氏については、hamachan先生も引用されているdongfang99さんのご指摘が的確だと思います。

 高橋洋一氏が典型的だが、経済に関する説明ではそれなりに説得的なのに、肝心なところで中二病としか言いようのない官僚への既得権批判や陰謀論になだれこんでしまう。社会保障の専門家である鈴木亘氏もそうだが、既得権批判を持ち込まなくても十分説得的な議論ができるはずなのに、もっとも肝心要の部分でそういう批判を繰り出して全ての議論を台無しにしまう

 既得権批判や陰謀論は、まともな学者と思われたいのであれば徹底して禁欲すべきなのだが、何でそうなってしまうのかと言えば、それが日本の読者に「受ける」ことを実感としてよく理解しているからだろう。節度のある学者であれば、そこにむしろ危険性を感じて一歩引くべきなのだが、一部の人は積極的に乗っかって自説の正当化に利用してしまうわけである。

 日本の「新自由主義者」が嫌いなのは、そこに日本人の中にあるドロドロとしたルサンチマンがこびりついており、当人もそれを積極的に利用しようとしている点にある。この意味で、フリードマンなど筋金入りの「新自由主義者」が必ずしも嫌いではないのは、そういうルサンチマンがほとんどない点にあると言える。

■日本の新自由主義は集団主義的(2010-05-23 dongfang99の日記)

まあ日本的な新自由主義に基づいて議論を展開される方については、その議論に巻き込まれないように読む側が注意すればいいのでしょうけれど、そのスキルが身についていると思われるキャリア官僚ですら、ご自身の専門外の分野については易々と陰謀論に乗っかってしまうところが難しいところです。

この点については、jura03さんのご指摘が参考になります。

そこで、なぜ人は陰謀論を信じるのかということだが、理由の一つとしては、合理的にロジカルに考えようとして、陰謀論にはまると言うことはありがちなことではないか

たとえ物理学の大家であっても、たとえば歴史や社会の問題について合理的に考えるというそのやり方を知らない場合、「ロジカルに」考え、ある現象の理由を探し求めた結果、陰謀論にはまるということは大いにありうることであり、そう考えないと筋が通らない。そして、歴史や社会の問題について合理的に考えるやり方を知らない科学の先生というのは、決して少なくないのである。

そして、当の本人はロジカルにものを考える訓練を経ているのだから、自分は論理的科学的思考ができていると信じ込んでしまっていると、自分が信じている陰謀論はロジカルなのであって、私が悲劇というのはここのことである。

(略)

つまり問題は、自分は論理的科学的思考ができるという安易な確信だ。あるいは、単にある特定の対象について論理的に考えることができているにすぎないものを、あるいはそういったことができるように訓練によって獲得した能力に依存しているにすぎないものを、一般的に通用する能力であると錯覚したうえで、他者を批判することができると信じているその態度だ。

なぜ人は陰謀論を信じるか:安易な俗論を排す(2014-04-12 今日の雑談)

国交省のようなミクロ官庁では、マクロ官庁が行うような各省協議の矢面に立つことはあまりないのかもしれませんが、同じキャリア官僚として法案作成過程を熟知しているという意識が、厚労省の縦割りとか既得権という安易な利権陰謀論に対するハードルをかえって下げてしまっている可能性もありそうです。実をいえば、私自身、周囲の公務員よりは比較優位を持つと思っている労働とか社会保障の分野について、思い込みで間違った認識を持っていることが少なくありません。上記のキャリア官僚氏を他山の石としたいと思います。

ついでに、「自分は論理的科学的思考ができるという安易な確信」に陥っていると思われる方の例をもう一つだけ挙げておきます。「文系は「データ」の意味がわかっていない」というエントリを書いた方が、その数日後にこんなエントリを書いていらっしゃいます。

確かに上記のデータだけ見れば、1976年は8~10時間働く労働者が一番多かったのが、2006年では10時間以上働く労働者が一番多くなっている。だがちょっとまってほしい。同じページに「(1)週当たり労働時間」が載っている。男性の部分を抜粋する。
(略)
週当たりの労働時間は増加していないのに、1日当たりの労働時間が増加しているのは、ようするに週休2日制のためだろう。むかしは土曜日出勤だったのが、休むようになり、代わりに1日の労働時間が増えた。週休2日制が導入され始めたのがちょうど1980年代。

   *   *   *

なんかtwitterでは冒頭のグラフだけ見て、「むかしのサラリーマンよりも現代のサラリーマンの方が働いている」とか言ってる人たちがいるけれど、そういう単純な問題ではないだろう。

休日が21日増えているので年間の労働時間は減っている。p.4に「1970年以降の労働時間の推移」のグラフがあるが、1970年は約2250時間だったのが、2010年には約1750時間になっている。年間で見れば2割労働時間は減っているわけだ。

昭和の頃より現在の方が労働時間が多い?(2014/04/08 22:46:00 疑似科学ニュース )

とされていますが、統計上の労働時間について留意すべき点として、

いずれの統計を利用する場合でも留意すべきなのは,1 人当たりの平均労働時間を算出する際に,労働時間の長い正規雇用者と短い非正規雇用者が加重平均されている点である。日本の労働市場では非正規雇用者比率の上昇が著しいため,正規雇用者の労働時間に変化がなくても,非正規雇用者と平均した 1 人当たり労働時間は減少する傾向が強い。実際,『社会生活基本調査』を利用し,就業形態や年齢などの構成比変化を固定して平均的な労働時間を推計した場合,長期的にみて労働時間に大きな変化はみられないという研究結果も報告されている(Kuroda 2010)。つまり,マクロでみた平均労働時間の変化には,構成比変化の影響が含まれている点は留意すべきといえる。

労働時間(山本勲(慶應義塾大学准教授)日本労働研究雑誌2013年4月号(No.633) )注:pdfファイルです

とされているとおり、統計上日本の総労働時間が減少した原因の一つとして、短時間労働に従事する非正規労働者の割合が増加したことも大きく影響しています。黒田先生の論文で指摘されているのは、非正規労働者の増加によって総労働時間では減少しているのにも関わらず、就業形態などで調整すると、フルタイム男性雇用者(その大半はいわゆる正社員やフルタイムパートと思われます)の中では、10時間以上働く割合が倍増している状況があるということです。

つまり、非正規労働者の割合が増加して労働者全体の総労働時間そのものは減少する一方(ただし、非正規労働者の基幹化に伴うフルタイム化が進んで減少には歯止めがかかってしますが)で、(男性)正社員には長時間労働が課せられていて、しかもその中にはサービス残業も含まれていることによって、使用者側は支払賃金を節約しながら労働時間を増やすことができているわけです。その長時間労働を課せられた(男性)正社員や一部の非正規労働者が心身を病んで、メンタル不調とか過労死につながり、それが社会問題としてようやく認識されつつある中で、減少している総労働時間を取り上げて「年間で見れば2割労働時間は減っているわけだ」などとお気楽なことを言っている場合ではないんですね。まあ、私も理系の方のデータの理解には足元にも及ばない分際ではありますが、文系なりのデータの理解とか分析方法というものもありまして、そういえばそもそも文系と理系に分かれているという時点で、日本の大学そのものがシンプルマインデッドなのかもしれません。

(追記)
「ついでに」と引用した先のブログで追記があったようです。が、

 | しかし、週休二日制の普及により、週の中での時間配分はこの数十年で大きく変化⇒平日に労働時間がしわ寄せ。

と分析しているから、俺もそれを踏襲しているまでのこと。それを俺があたかも黒田祥子の主張を曲解しているかのような事を言われるのは心外ですな。

…うーむ、私がnebula3さんのブログについて指摘させていただいたのは、本エントリの最後のパラグラフで「その長時間労働を課せられた(男性)正社員や一部の非正規労働者が心身を病んで、メンタル不調とか過労死につながり、それが社会問題としてようやく認識されつつある中で、減少している総労働時間を取り上げて「年間で見れば2割労働時間は減っているわけだ」などとお気楽なことを言っている場合ではない」ということでして、黒田先生の主張を曲解しているとは書いていないつもりなんですが、私の拙い文章で「いやはや、困ったものだ」と感じたのであればお詫び申し上げます。

そのような拙い文章で追記するのも気が引けるところですが、nebula3さんが

週休1日で1日の労働時間は8時間なのと、週休2日だが1日の労働時間が増えるのと、どちらが幸せかは一概にいえないだろう。また正規労働者の方が労働時間が長い傾向があるとしても賃金や安定性において正規労働者の方が有利なのだから、それが不幸せと決まったものでもないだろう。いつの時代も高い相対的に給料をもらっている人間は相対的に労働時間も長い傾向があるだろう。

とされる点について、余計なことを書いておきますと、労働基準法では1日の労働時間は8時間まで、週の労働時間は40時間まで(小規模の業種では週44時間の例外がありますが)とされておりまして、これに違反すると6か月以下の懲役または30万円以下の罰金が課されます。ただし、過半数の従業員代表や労組と労使協定(いわゆる36協定)を締結すると免罰効果が発生し、協定に定められた時間まで(実際には特別条項などで青天井の超勤をさせても免罰効果が発生しますが)時間外勤務をさせることができるようになります。

というのが日本という国で効力を持つ現行法規の規定でして、その労基法の前身であった工場法制定時は1日12時間だったものが、ようやく1947年の労基法制定時に1919年のILO第1号条約に準じて1日8時間週48時間と規定されたという歴史的経緯があります。労働時間を規制する目的は、放っておくと労働者が「働く幸せ」を感じていくらでも働いてしまうから…、ではもちろんなくて、産業革命以降に長時間労働が常態化して多くの国民が心身を病んでしまい、それが社会問題化したために、第1次大戦後に欧米諸国が主導して設立したILOによって労働者の安全衛生を確保することにありました。このため欧米では時間外労働は即違法となる国が多いわけでして、36協定を締結して超過勤務手当さえ払えば青天井で超勤させられる日本は例外中の例外なんですね。

しかも、日本型雇用慣行では超勤手当すら払われないことが常態化していて、世はそのうまいとこ取りでブラック企業花盛りなわけです。という歴史的経緯とそれによって形成された制度と慣行の実態を踏まえてみたときに、「正規労働者の方が労働時間が長い傾向があるとしても賃金や安定性において正規労働者の方が有利なのだから、それが不幸せと決まったものでもない」というのはどのような制度として実現されるべきものなのか、私も大変興味があるところです。戦後アメリカの制度を取り入れた日本では、たとえばホワイトカラーエグゼンプションがその答えともなり得るのでしょう。ただし、日本型雇用慣行が成立している現状ではその有効性が限られたものになる可能性もあります。

なお、本エントリの前半で利権陰謀論に乗っかる官僚氏を批判したことや労働時間のデータ解釈について、nebula3さんから「「とにかく労働者はかわいそう」でなければならないというような、感情論なんじゃ?エントリの前半部分についても、どうも感情ですべてを片付けようとしているように見受けられる」とのご指摘もありまして、私は論理的な思考によって利権陰謀論を批判しているつもりですし、経営法曹会議にシンパシーを抱いて「労働者がかわいそう」的な日本労働弁護団は批判している立場でしたので虚を突かれた思いです。そのように取られる可能性を全く意識しておりませんでしたので、今後の参考とさせていただきます。貴重なご指摘ありがとうございました。

(再追記)
再び追記があったようです。

なんかさらに追記されてるのだが、この人はいろんなものをごっちゃにするんだよね…。俺はこのエントリでこれまでの労働時間の変化について事実を論じてるわけだ(少なくとも俺としてはそのつもりだ)。それに対してこの人は、現行の労働基準法がどうとか、戦前からの経緯を語り、「今後どうあるべきか?」を主張している。

これは大変失礼いたしました。私は不用意にも、nebula3さんが「昭和の頃より現在の方が労働時間が多い?」というタイトルのエントリの末尾で「年間で見れば2割労働時間は減っているわけだ」とおっしゃっていて、その追記では「週休1日で1日の労働時間は8時間なのと、週休2日だが1日の労働時間が増えるのと、どちらが幸せかは一概にいえないだろう」として「「とにかく労働者はかわいそう」でなければならないというような、感情論なんじゃ?」とおっしゃっていたので、それを「昭和の頃より総労働時間は減っていて、それで週休2日で1日の労働時間が増えていたとしても労働者にとっては幸せである可能性があり、「労働者がかわいそう」なんて感情論なんか述べるべきではない」と誤読してしまったうえ、そこからnebula3さんが「データによって1日当たりの労働時間が増えているという事実が示されていても、労働者の総労働時間は減っているという事実が示されているのだから、労働時間が増えたことによって生じた問題を考慮する必要はない」と主張されているものと思い込んでしまい、本エントリの追記に制度や歴史的経緯など余計なことを書いてしまいました。私の不明を恥じるとともに、私の誤読によっていろんなものをごっちゃにしてnebula3さんに不快な思いをさせてしまったことを改めてお詫び申し上げます。

ということで、本エントリで私は「労働にしても社会保障にしても、それを論じるためには制度とそれを規定する法律への理解が最低限必要です。さらに、その制度が法制化された歴史的経緯についての理解も不可欠なところでして、こうした理解を欠く口出しには見るべきところはほとんどないというべきでしょう」と述べているところでして、nebula3さんのエントリについて「減少している総労働時間を取り上げて「年間で見れば2割労働時間は減っているわけだ」などとお気楽なことを言っている場合ではない」という点については、nebula3さんが「俺はなにもこのエントリで「労働環境は現状のままでいい」なんて言ってないわけだし。どうあるべきかは別な話ということ」とおっしゃる通り、nebula3さんがデータで示された「事実」について論じていることとは全く別個の政策的問題ですね。いみじくもnebula3さんが「説得すべきは俺ではなく社会全体なのだから」とおっしゃる通り、拙ブログではnebula3さん以外の方に向けて議論させていただきますので、nebula3さんも努々政策的な議論には口を出されることのないようお願いいたします。

なお、労働時間の増加と過労死の増加の相関については、毎年厚労省が公表している「脳・心臓疾患と精神障害の労災補償状況」で確認できますので、こちらに置いてきますね。

平成24年度「脳・心臓疾患と精神障害の労災補償状況」まとめ ~精神障害の労災認定件数が475件(前年度比150件増)と過去最多~

厚生労働省は21日、平成24年度の「脳・心臓疾患と精神障害の労災補償状況」を取りまとめましたので、公表します。
厚生労働省では、過重な仕事が原因で発症した脳・心臓疾患(※1)や、仕事による強いストレスなどが原因で発病した精神障害の状況について、平成14年から、労災請求件数や、「業務上疾病」と認定し労災保険給付を決定した支給決定件数(※2)などを年1回、取りまとめています。

(※1) くも膜下出血などの「脳血管疾患」や、心筋梗塞などの「心臓疾患」は、過重な仕事が原因で発症する場合があり、これにより死亡した場合は「過労死」とも呼ばれています。
(※2) 支給決定件数は、平成24年度中に「業務上」と認定した件数で、平成24年度以前に請求があったものを含みます。

こちらの添付資料に、労働時間との関係では「表1-6脳・心臓疾患の時間外労働時間数(1か月平均)別支給決定件数」と「表2-6精神障害の時間外労働時間数(1か月平均)別支給決定件数」のデータが掲載されています。まあそもそも実態上の残業が少ない短時間労働者の割合が高い非正規の場合は、労災適用事業所でありながら労災の手続きをしていないケースも多いという実態がありますので、その点を割り引いて考える必要がありますが、それぞれ主なデータを抜き書きしてみると次のようになります(H22年度のデータは「平成23年度「脳・心臓疾患と精神障害の労災補償状況」まとめ」を出所とします)。
脳・心臓疾患の時間外労働時間数(1か月平均)別支給決定件数
時間外労働H22H23H24
~45000
45~60110
60~80182020
小計(a)192120
割合(a/c)6.7%6.8%5.9%
80~10092105116
100~120845869
120~140314650
140~160131616
160~202131
その他264336
小計(b)266289318
割合(b/c)93.3%93.2%94.1%
合計(c)285310338

精神障害の時間外労働時間数(1か月平均)別支給決定件数
時間外労働H22H23H24
~20566397
20~40131925
40~60181529
60~80111526
小計(a)98112177
割合(a/c)31.8%34.5%37.3%
80~100272932
100~120433866
120~140252846
140~16012824
160~202146
その他838984
小計(b)210213298
割合(b/c)68.2%65.5%62.7%
合計(c)308325475
この表では、バブル崩壊以後の不況の中で、いわゆる「過労死」や「過労自殺」が問題化したため、「脳血管疾患及び虚血性心疾患等(負傷に起因するものを除く。)の認定基準について(平成13年12月12日付け 基発第1063号)」(PDF:469KB)が定められ、その中で「発症1か月前におおむね100時間又は発症前2か月ないし6か月にわたって1か月当たりおおむね80時間を超える時間外労働が認められる場合は、業務と発症との関連性が強いと評価できること」としておりますので、80時間以下とそれ以上の時間外労働の割合を追記しています。また、精神障害については、「心理的負荷による精神障害の認定基準について(平成23年12月26日付基発1226第1号)」(PDF:521KB)において、「項目16の平均的な心理的負荷の強度は「II」であるが、発病日から起算した直前の2か月間に1月当たりおおむね120時間以上の時間外労働を行い、その業務内容が通常その程度の労働時間を要するものであった場合等には、心理的負荷の総合評価を「強」とする」とされておりますが、脳・心臓疾患と合わせるため、こちらも80時間で区切っています。

少なくともこの表からは、週当たりでも年間当たりでも労働時間は減少傾向にあるにもかかわらず、脳・心臓疾患および精神障害の労災保障の支給決定件数は増加傾向にあることが示されています。また、脳・心臓疾患は長時間労働と支給決定数の相関は明確だろうと思うのですが、精神障害については長時間労働以外の要因も大きい(いわゆるパワハラとか)ため、長時間労働と支給決定数の相関は弱そうです(脳・心臓疾患よりも精神障害のほうが「その他」の分類が多いですし)。とはいえ、長時間労働が精神障害に悪影響を与えることはいうまでもないことでしょうから、このデータに示された事実によって政策的議論が進められる必要があると考えるところです。

(再々追記)
どなたからもツッコミがなかったので、再追記のデータについて補足しておきます。
再追記で示したデータは労災の支給決定件数でして、当然のことながら、労災の認定基準に適合した申請について支給が決定されるという手続きになります。つまり、平成13年の「脳・心疾患の認定基準」と平成23年の「精神障害の認定基準」に適合した件数が再追記のデータとなりますので、たとえば「2か月ないし6か月にわたって1か月当たりおおむね80時間を超える時間外労働が認められる場合」の支給決定件数は、それ以下の時間外労働の場合よりも多くなるわけです。ということで、上記のデータはその認定基準に適合した件数と解釈することも可能ですので、80時間のところで区切っているのはその運用をご確認いただくために加工したという理由もあります。

でまあ、1970年代のオイルショック以降に日本型雇用慣行が確立し、「空白の石板」でメンバーシップを得て、それと引き換えに強大な人事権のものとで「見返りのある滅私奉公」に邁進してきた男性正社員が、長時間労働や過剰なノルマで過労死に追い込まれてしまうという問題が社会問題化し、遺族の裁判などを通じて積み上げられた客観的因果関係に基づいて、労災の認定基準を地道に作り上げてきたという経緯があるわけです。脳・心疾患の認定基準が定められたのはせいぜい10年ちょっと前ですし、精神障害の認定基準はほんの3年前(平成11年に判断指針が示されていましたが)です。したがって、私が平成22年度までしか遡っていないのは、データを調べるのが面倒なのもありますが、それ以前の労災の支給決定件数と比較しても、現在の認定基準に適合する件数との適切な比較にはならないという理由によります。

データの比較というのはこうした慣行や制度の変遷を踏まえて議論すべきというツッコミがあるかと期待していたのですが、とりあえず自己レスしておきました。

2014年04月13日 (日) | Edit |
新しい年度が始まって、震災から3年と1か月が過ぎました。私も年度の切り換えに錯綜した業務と家族の世話の合間に沿岸部の知人を訪ねていろいろ話を聞いてきたところですが、なんというか、良くも悪くも地域全体が通常モードに戻っているような印象を受けました。

そのような印象を受けた理由としては、この3月で当地のがれき処理が完了して、まっさらとなった被災地ではすでにかさ上げなどの新しい市街地形成の形が見えてきているのが大きいのではないかと思います。

本県のがれき処理完了 新年度、本格復興へ整備加速(岩手日報(2014/04/01))

 2014年度が1日スタート。本県は東日本大震災で発生したがれきと津波堆積物の処理が13年度いっぱいで完了し、「本格復興期」としてこの1年はインフラ整備が加速する。16年開催の岩手国体・全国障害者スポーツ大会に向けた選手強化など準備、関連施設の整備も本格化する。三陸鉄道は被災した南・北リアス線(総延長107・6キロ)が6日に全線で運行再開。一方でJR岩泉線は1日、廃止となる。暮らし面では消費税率が5%から8%に引き上げられ、公共料金を含めたモノやサービスの価格が一斉に上昇。年金減額や保険料増額も加わり、家計のやりくりはより難しくなる。

 環境省は31日、東日本大震災で発生したがれきの処理が本県、宮城県、茨城県で終了したと発表した。同省によると、これで福島を除く12道県でがれき処理が終了し、2013年度内に完了する政府目標を達成した

 最終的な処理量は今後確定するが、同省によると本県は推計量573万トンに対し、2月末時点の処理量は562万トン。この時点で平時に沿岸市町村で排出される一般廃棄物の約62年分、県全体にならしても約12年分に相当する。

 本県のがれき処理は仮置き場に集めてから破砕・選別し、焼却炉で燃やしたり、最終処分場に埋め立てたり、セメント工場で資源化するなどした。

【写真=仮設店舗などが並ぶ大船渡市の津波浸水地。本県は2013年度末で震災がれきの撤去が完了し、14年度は本格復興の加速を目指す】

※ 以下、強調は引用者による。

震災からしばらくは、地方分権的がれき処理の遅さに苛立ったりもしましたが、政権交代後に国主導で進められた広域処理で、なんとか政府目標を達成した形になりました。ご協力いただいた自治体の皆様にお礼申し上げます。もちろん、復興後の都市計画やまちづくりには今でもいろいろな意見があるところですが、やっぱりこうして目の前に形になって現れてくると、現行の計画がどのような形になるのか、その推移を見守りたいという気持ちが起きてくるのかもしれません。

さらに、昨年「あまちゃん」ブームに沸いた三セクの三陸鉄道(三鉄)も先週全線で再開しました。全国ニュースでも大々的に取り上げられていましたが、こちらの東京新聞(共同通信?)の記事が冷静に現状を伝えていると思います。

3年ぶり全線復旧 三鉄 更地の沿線 再生多難(2014年4月7日 東京新聞朝刊)

6日、大漁旗を振る人に迎えられ三陸鉄道北リアス線島越駅に入る下り一番列車=岩手県田野畑村で(写真)

 東日本大震災の津波で被災した岩手県の三陸鉄道は六日、最後まで不通になっていた北リアス線小本-田野畑間一〇・五キロの運行を再開した。五日に復旧した南リアス線と合わせ、全線の一〇七・六キロが震災から三年余りで元に戻り、開業三十周年の節目で再出発を果たした。 
 悲願だった全線開通に、望月正彦社長は「三鉄第二の開業の日といえる」と強調。復興の遅れを背景に「人口減少などで、これからの方が厳しい状況になる」と気を引き締めた。
 六日早朝、北リアス線の一番列車はNHK連続テレビ小説「あまちゃん」の舞台となった久慈市の久慈駅を出発した。三両編成に鉄道ファンら五十人以上が乗ってドラマの風景を楽しみ、津波で流失し、全線で最後の再開となった島越(しまのこし)駅(田野畑村)を通った。
 三陸鉄道は二〇一四年度、全面復旧で乗客数を前年度から三十三万人以上増やし八十三万人とする計画だ。それでも東日本大震災が起きた一〇年度(八十五万人)には及ばず、人口流出などで目標達成も厳しい。被災地では資金の壁からJRの運休が続いており、鉄路再生の道のりは遠い。
 災害公営住宅など被災者の新居は主に駅から離れた高台に建つ。市街地の復興は進まず、三鉄では近くが更地の駅が多い。島越駅周辺では世帯数が減ったことで、商店も再建しなかった。
 沿線八市町村の人口はこの三年間で一万人以上減った。「あまちゃん」の効果で、一三年度の団体客数は二月までで前年の二倍近くに伸びた半面、定期券の客数は微増で、「観光列車以外は空気を乗せている」と自嘲する社員もいる。
 三鉄は国費の投入で立ち直ったが、黒字会社のJR東日本は支援対象外。「採算度外視というわけにはいかない」(同社関係者)との立場で、宮城、福島を含む三県沿岸部のJR線約二百四十六キロは運休が続く。
 このうち山田線の釜石-宮古間は一月、JRが施設を復旧させ、運行を三鉄へ移管する案を提示。再開の道筋は見えてきたものの、今後の赤字補填(ほてん)をめぐって地元自治体と綱引きが続く。国土交通省幹部は、費用負担などの在り方に関し「住民の納得を得ながら進めることが大事。時間がかかるのは仕方ない」と話す。

三鉄再開のセレモニーでは「あまちゃん」出演者も駆けつけて盛り上げていただいたところですが、その前途は多難です。三鉄は元々岩手県沿岸を縦断していた国鉄の路線を地元三セクに移管したものですが、そのうち宮古から釜石だけは、震災当時までJR線のまま運営されていました。そのため、三鉄は南リアス線と北リアス線に分かれていて、その中間をつなぐJR山田線は、未だに再開の目処が立っていません。記事にあるように、復旧とその後数年間の補てんをJR東日本が負担したうえで、宮古と釜石間のJR線を三鉄に移管する案が示されているものの、地元では引き続きJRが運営することを要望しています。三鉄がいくら観光客で盛り上がっていても、地元の足として路線を維持することは難しい選択となっているわけです。

それを象徴するように、「あまちゃん」で魅力的なおじいさん役を演じた蟹江敬三さんが、三鉄の再開を待つことなく亡くなりました。心より哀悼の意を表します。「あまちゃん」のメッセージの一つが、「元には戻らないけど、無理に成長しなくてもいい」ということだったと思います。ドラマの中でもこの現実を示唆するように、体調が思わしくないにもかかわらず引退宣言を撤回して漁に出てしまったじいじでしたが、あの姿はもう戻ってきません。それも地方の田舎町ではよくあることなのでしょう。

良くも悪くも通常ベースというのは、こうして人が減って過疎化が進み、公共サービスの維持が難しくなっていた震災前の状態に戻るということでもあります。震災から4か月ほど経過した時点で「私自身も一面が流されてしまった被災地に行くたびに「ここがどうなれば『復興』したといえるのだろうか?」と思い悩んで」いたところですが、これが「復興」の現実なのかもしれません。それがけしからんということではなく、「復興」とはそうした現実を受け入れることでもあるのだろうと思うところです。

2014年04月12日 (土) | Edit |
ということで、まさかの連載の『HR mics vol.18(直リンができないので、ニッチモWebサイトからどうぞ)』連載第6回目が、編集の海老原さん、荻野さんのご指導のおかげで無事掲載されました。ありがとうございました。いつもながら冗長な拙文となっておりまして、活字になって読み返す度に反省しております。まあ、そもそも連載の元になっている本ブログ自体が最近特に長文になる傾向がありますので、何とか読みやすい文章を書けるように精進いたします。もちろん、hamachan先生をはじめ豪華連載(拙稿を除く)が目白押しですので、ぜひご高覧いただければと思います。

で、今回の特集は障害者雇用(後述の通り、私は「障がい者」という言葉はあまり好きではありません)ということで、雇用する側の本音が語られています。日本理化学工業(株)など『日本でいちばん大切にしたい会社』でもおなじみの会社も登場しますが、障害者雇用に積極的な会社には、お互いにサポートし合いながら仕事をするといういかにも日本型雇用慣行バリバリのところが多いことに、海老原さんが多少困惑されながらこう総括されます。

 では、本気で戦力化をするときに、どのような方向性が考えられるのか?
 この答えとして、従来から欧米型の「職務別採用」が唱えられてきた。職務を細分化し、特性に応じてできそうな仕事をパッケージとして作り、障がいの状況に応じて、ふさわしい仕事に就いてもらう、という考え方が。日本型総合職のように、無限定でなんでもやらせるのが基本では、ハンデや個人事情のある人は働きづらい。障害のある人のみならず、育児・介護世代や、体力の低下したシニア層、など多様な人が働けるようにするためには、脱日本型が必要であり、時代に合っているとも考えられる
(略)
 ところが一方で、本気で障がい者雇用を推進している2章の4社は、いずれもベタベタな日本型企業でもあった
 「一生働いてもらうから、人柄で採用する」「彼らにも役職を与えて、長期間、飽きずに働けるようにする」「ご両親とのコミュニケーションを大切にし、子供たちの成長をともに喜ぶ」「未経験でも心が通じ合えるなら」……。こんな話がずっと続く。
(略)
 この矛盾については、永野准教授(引用注:永野仁美上智大学法学部准教授)が見事に種明かしをしてくださった。
 欧米型の「ピッタリな仕事」にあてはめる考え方は、わかりやすい。即効性も高い。
 ただ、日本型の利点で、職務を決めずにいろいろやらせていけば、自ずからできる仕事に行き着く。そうしてじっくり育てれば、習熟度も増し、見えなかった仕事までこなせるようになる。
 だから、どちらがいいかは、それは一概には言えない、というのだ。この2つの、二律背反な障がい者の戦力化モデルについて、どう結論を出すか。ここが、これから企業が考えていくべきポイントだろう。

「もっと本気で障がい者雇用 むすび 美談で済ませるから、何も生まれないという過ち」『HRmics vol.18』pp25.26
※ 以下、強調は引用者による。

障害者雇用というととかく特別な美談として語られがちですが、もっと汎用性の高い問題でして、海老原さんが指摘されるように、育児・介護など、自分自身に障害がなくても仕事をするうえで制約がある方はいくらでもいるはずですし、むしろすべての労働者に個人の生活がある以上、そこには制約がなければなりません。それを無限定に広範な人事権を認めてきたのが日本型雇用慣行のもう一つの側面ですので、障害者雇用を考えることは、そうした日本型雇用慣行が等閑視してきた制約を意識的に考えることにつながると考えます。

その意味で、私は「障がい者」という健常者が障害者に配慮したような言い方が好きではありません。感じ方には個人差があるでしょうから「障がい者」という言葉が使われることはまあいいのですが、自分自身の制約が特別なことであって周囲とは違うという意識が個人の中で強まりすぎると、かえって障害者に対する特別視や偏見につながってしまうのではないかと懸念してしまいます。

というのも、障害者雇用に積極的に取り組んでいるのが日本型雇用慣行バリバリの会社だからといって、では日本型雇用慣行の会社なら障害者雇用に積極的に取り組めるかというとそうもいかないところが難しいところです。実は、障害者雇用促進法では、国や地方自治体などの公的機関の法定雇用率は、率先して障害者雇用に取り組むべきという理由で、民間の法定雇用率2.0%よりも高く2.3%に設定されています(昨年4月に引き上げられています)。ただし、地方自治体の任命権者のうち教育委員会だけは2.2%と低めに設定されていまして、にもかかわらず未達成だった6つの教育委員会に対して昨年2月に勧告が行われています(なお、次の勧告は当時の基準の2.0%が達成されていないことによるものです)。

障害者雇用が進んでいない6都県の教育委員会に対して障害者採用計画の適正実施を勧告

「障害者の雇用の促進等に関する法律」では、国および地方公共団体に、法定雇用率以上の身体障害者または知的障害者の雇用を義務付けており、法定雇用率を達成していない場合は、障害者採用計画を作成しなければなりません。
都道府県教育委員会(以下「教育委員会」)のうち31都道県の教育委員会は、平成23年6月1日現在、教育委員会に義務付けられている法定雇用率2.0%を達成できていなかったため、平成24年1月に、2年間にわたる障害者採用計画を作成しました。しかし、中間時点に当たる平成24年12月1日現在、下記の6都県の教育委員会は、いずれもこの採用計画を適正に実施していません
このため厚生労働省は、これらの教育委員会に対し、障害者雇用促進法第39条第2項の規定に基づき、採用計画を適正に実施するよう、2月27日付けで厚生労働大臣名による勧告を行いました。

                         記
 
◎ 適正実施勧告の対象となる教育委員会(6教育委員会)
  岩手県教育委員会、福島県教育委員会、東京都教育委員会、新潟県教育委員会、滋賀県教育委員会、鳥取県教育委員会


なお、採用計画を作成した31都道県の教育委員会のうち、10県の教育委員会が平成24年12月1日までに法定雇用率を達成しています。
(平成24年12月1日現在、全国で法定雇用率を達成している教育委員会は26府県)

教育委員会で法定雇用率の達成が難しい理由については、埼玉県議会の答弁で述べられています。

平成21年2月定例会 代表質問 質疑質問・答弁全文


県教育委員会における障害者の雇用について


Q 秦 哲美議員(民主党・無所属の会)
 県教育委員会関係の障害者雇用状況は、平成20年の雇用率が1.45パーセントで、法定雇用率の2パーセントを大きく下回っています。法定雇用率を実現するには142人の雇用が必要だと言われています。教育職員の雇用については、教員免許状等の資格要件がありますので、雇用の困難性については重々承知しています。しかし、全国的には、平成20年6月1日現在で大阪2.21パーセント、和歌山県2.19パーセント、京都2.16パーセント、奈良2.01パーセントと、4府県が法定雇用率を上回る雇用を実現しています。埼玉労働局は、率先垂範しなければならない立場にある県教育委員会の障害者雇用が遅々として進んでいない状況について危機感を持ち、平成23年末までの法定雇用率の達成について、昨年10月、県教育委員会に対して要請しています。
 そこで、教育長に伺います。
 第一点は、平成19年10月に埼玉労働局から、障害者採用計画について適正に実施するよう勧告があったが、平成20年末までの計画期間内に何が問題で障害者の法定雇用率が実現できなかったのか、その要因の解決のためにどのような対策や対応を講じてきたのかについて伺います。
(略)


A 島村和男 教育長
 まず、1点目の「平成20年末までに、何が問題で障害者の法定雇用率が実現できなかったのか。」についてでございます。
 教育委員会事務局職員の障害者雇用率は4.22%であり、法定雇用率の2%を上回っております
 一方、対象となる職員の9割以上を占める小・中・高等学校等の教育職員の障害者雇用率が、1.23%と低い状況になっております。
 教育職員の法定雇用率が未達成の理由といたしましては、議員お話のように、教員の採用には教員免許状等の資格要件がございますので、教員採用選考試験に障害者の志願者が少なく、結果として採用者数も少なかったためでございます。

まあ端的に言えば、教員免許状を持っている障害者が少ないので採用する教員に障害者が少なくなり、結果的に法定雇用率を下回っているというのがその理由となっているわけです。「障害者特別選考」も必要かもしれませんが、しかし、そうやって採用された障害のある教員が、教育の現場で本務である教育業務だけをやれば許される環境にあるのかといえば必ずしもそうではありません。

上記の通り、日本型雇用慣行では個人の事情に配慮することは特別なことですので、逆にいえば採用されてしまえば同じスタートラインに立つことが要求されてしまいます。移動や事務作業に「障害」がない健常者ですら、課外活動や保護者の対応、業績評価など本務の教育業務以外の業務で忙殺されるわけでして、障害を持ちながらそれらの業務をこなすことは極めて困難になります。

障害者のそうした困難をフォローするためにこそ、日本型雇用慣行で職務を限定せずに助け合うことが重要になるわけですが、公務員の仕事の現場はいうほど大部屋主義ではありません。教員ほどではないとしても、地方公務員の仕事の現場は昔の階級が廃止されてフラット化されておりまして、部下のない管理職とか、逆にラインの上司がいない個人事業主のようなヒラが増えています。採用抑制による年齢構成の変化とか、人件費削減による人手不足がその原因ではありますが、稟議が回ってくればはんこは押すし、ホウレンソウやらコミュニケーション能力は求められるけど、その業務そのものは担当する職員個人に任させるという業務の進め方が中心になっているわけです。

となると、そこに障害者が採用が採用されると同じように個人に業務が任せられ、それでいて「空気を読んでコミュニケーション能力」とか「指示待ちじゃなく自分から動け」とか「こまめにホウレンソウ」とか、通常の職員と同じ作業が求められてしまうことになります。人手不足なので、障害があろうとなかろうと仕事を分担したら原則その仕事はその職員の責任で遂行しなければなりません。まあ、もちろんここまで極端ではありませんが、仕事の進め方や人員配置そのものを変えずに障害者を受け入れても、障害者本人だけではなく、周囲の職員もフォローができないという状況は何も変わらないわけです。

上記の埼玉県教育長の答弁で注目していただきたいのは、教育委員会事務局職員の障害者雇用率が4.22%と極端に高いところでして、いわゆる学校事務や教育事務所にいる職員では積極的に障害者が雇用されているともいえます。しかし、教育委員会の事務の現場をご存じの方なら分かると思いますが、教育委員会事務局とか教育事務所は激務で有名ですね。学校事務もいまどき事務レベルの職員が複数いるような学校はほとんどないので、事務担当は1人だけというところがほとんどだと思います。ところが、法定雇用率をいくらかでも達成しようとすると、教員以外の職員として障害者を採用し、そうした激務な現場やフォローできる職員がいない現場に配属せざるを得なくなるわけです。

『HRmics』では各種助成金によって人員配置をし、障害者をフォローする体制を整備することの重要性が指摘されていますが、それを活用できるのは民間企業だというのが歯がゆいところです。先日も、復興増税に伴う給与減額が元に戻されたということで批判が巻き起こっている現状で、公務労働の現場に人員を配置するということのハードルの高さを痛感せざるを得ませんね。