2014年03月26日 (水) | Edit |
前回前々回の補足なのですが、こんなエントリを書くと「公務員批判を否定するのか」という反応をいただくところでして、かといってもちろん公務員を擁護しているわけでもありませんので、一方ではこういう反応もいただいています。

wxitizi
この人の地方公務員に対するイメージを悪くすることへの弛まぬ努力はすごいと思う。意図したものかそうでないかは別として。 2014/02/24
crcus
確かに"コームイン"とかの表記、自虐しているようでいて「俺たち公務員をバカにしている奴らってバカなんだよ」という意志が見えて、公務員に対する心象を悪くしているな。物言わぬ公務員は迷惑だろう。 2014/02/24

ちょっと趣旨が採りにくいところもありますが、「優秀じゃない公務員のことばかり書いていて、公務員が無能という印象を与えている」という趣旨であれば、拙ブログは「間接部門の軽視による組織運営の行き詰まりとか官製ワーキングプアの大量発生とかにつながっていて、「役立たずのコームインめ!」という感覚それ自体が「公務員バッシング」の典型」ということを繰り返し指摘しているところですので、ご指摘のとおりだと思います。「スーパー公務員でなければ公務員じゃない」という認識が広まれば、私のような下っ端で地味な内部事務に当たる普通の公務員はバッシングの対象から逃れる術がありません。私が拙ブログで想定している公務員は、決して華々しい成果をあげているスーパー公務員だけではなく、普通の組織運営を担っているような一般的な能力を有する公務員ですので、対外的には優秀じゃない公務員のことばかり書いているようにみえるのかもしれません。普通の公務員が間接部門や地道な分野で役所の仕事を回していることは、華々しい成果として評価されることがなくても、それは華々しい成果を支える組織内インフラとして必要不可欠のものであることをご理解いただけると幸いです。

あるいは、二つ目のコメントにあるように「公務員を自虐しているように見せかけて、それを理解できない相手を馬鹿にしていて、そんな姿勢が公務員に対する印象を悪くしている」という趣旨であれば、本望ではありません。私は地方自治体という組織全体のレベルの低さについては、自虐ではなく真剣に憂慮する事態になっていると考えています。それは、上記の内部事務に当たる公務員に限らず、華々しい成果を挙げる公務員にも当てはまります。その理由について、ヒントとなるエントリが黒川滋さんのところで掲載されていました。

2.要綱行政の改善と要綱の公開
(1)要綱行政の課題と問題
Q.地方自治法に明示されている条例、規則ではない要綱等が600もあって、内規にとどまっているうちはまだいいが、補助金や、人権を支えるための福祉の給付条件も要綱になっている。しかしその運用は役所が決めてしまっている。要綱とはそもそもどういうものか。
A(総務部長).自治体においては、判例では内規的なもの。これを背景に、個々の補助金等は双方同意の契約的なものとして位置づけられる。国の要綱はこれが行政処分になる
(2)要綱改定の手続きの確認
Q.そのような解釈であれば、人権である生存権、自由権、社会権を支える福祉分野の要綱を、役所が要綱をタテに給付を出したり切ったりすることは限界があるのではないか。少なくとも契約的なものであれば当事者集団との要綱の妥当性が評価されていなければならないと考えるし、それがなければ。今回の来年度予算案のように一方的に給付内容を削減して人権的に困る人がいたとすれば、元通りに給付せよと言って、市が臨機応変に変えることができる、ということになる。
そのような福祉国家における要綱の現実と、法解釈のずれを考えると、要綱改定にあたってはしかるべき当事者や有識者の意見や判断を求める必要があるてのばないか。
A(審議監).現在は庁内の手続きに留まっている。検討したい。
Q.市の総合振興計画などメインストリームのところでは市民参加が唱われているのに、人権に関わる行政施策のところで当事者との合意すらないというのは矛盾してしまう。
A.あるべき改定の仕組みについて検討したい。

3/19 わくわく号の改革、ハローワークの移転、樹木の剪定など聞く~一般質問から~(2014.03.21 きょうも歩く)
※ 以下、太字下線強調は引用者による。

これは黒川さんが市議を務める朝霞市議会でのやりとりですが、役所が日々の事務処理を効率的に進めるために、細かい解釈や手続きを明文化した要綱(呼び方は細則、要領、事務取扱等いろいろですが、ここでは行政庁内部の事務処理を事務レベルで定めたものを要綱と統一します)が欠かせません。その多くは法律に委任条項があり、政省令に委任があるものは中央官庁が立法意思に基づいて制定されますので、法令として一体のものとして施行されます。ただし、自治体が事務を行う法令では、「自治体が条例で定める」とか「首長が規則で定める」という委任条項も多く、必ずしも立法意思に基づかない規定が置かれる可能性が否定できません。さらに上記のような事務レベルの実務についての要綱は、その立法意思から乖離した条例や規則に基づいて規定される可能性もあるわけで、そうなると何が正しいのか分からなくなってしまいます。

その典型的な例が奈良県立病院事件でして、hamachan先生のところから奈良県知事の発言を引用してみましょう。

毎日新聞によると、奈良県知事が疑問を呈したそうですが、それがあまりにも低水準。

http://mainichi.jp/area/nara/news/20090424ddlk29040513000c.html

>「条例で給与や地域手当と計算基礎が決められている。算定基礎は国も同じで、条例で決められたことをいかんと司法が判断できるのか」と疑問を呈した。控訴するかどうかは検討中としている。

いうまでもなく、公立病院の使用者である地方自治体が自ら策定する条例で決めていることは、私立病院の使用者である医療法人が自ら策定する就業規則で決めていることとまったく同じであって、知事の発言は、

>オレ様が就業規則で決めていることをいかんと司法が判断できるのか

と中小企業のオヤジが吠えているのと論理的にはまったく同じなのですが、どなたかそのへんをきちんと助言する法務担当の地方公務員はいなかったのでしょうか。政策法務とか流行を追うのも結構ですが、まずはコンプライアンスから。

医師の当直勤務は「時間外労働」(2009年4月23日 (木) hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳))

この事案は、奈良県が条例や人事委員会規則で定めた労働条件が労働基準法に違反として問われた裁判でして、結果的には最高裁まで争って奈良県が定めた労働条件が労働基準法違反であったことが確定しています。その地裁段階の知事の発言が上記のようなものだったわけで、地方公務員の法務リテラシーの程度がうかがわれる好事例と言えるでしょう。

また,被告は,奈良県人事委員会が医師の当直勤務を断続的な勤務ととらえることを許可しているのだから,労働基準法41条3号に反しないと主張する。しかし,労働条件の最低基準を定めるという同法の目的に照らせば,行政官庁の許可も同法37条,41条の趣旨を没却するようなものであってはならず,そのために上記通達等(甲13)が発せられ医師等の宿日直勤務の許可基準が定められているのである。そうすると,奈良県人事委員会の許可も上記許可基準と区別する理由はなく,上記許可基準を満たすものに対して行われなければならないと解されるから,被告の主張は採用できない。

実体的な中身については今まで本ブログでも繰り返し書いてきたことなので、今更繰り返しませんが、法学的見地からみて興味深いのはこれが公務員事案であって、奈良県立病院の医師の「当直」を同じ奈良県人事委員会が許可するという「お手盛り」の仕組みであったという点ですね。
これは、そもそも民間と同じ労働基準法が適用されていながら、その監督システムが違うことの正当性という議論にもつながる論点です。



コメント欄
人事委員会事務局は全員県からの出向ですし、そもそも労働基準監督署的な権限を持つとの認識は全くないですね。給与の勧告しか考えていないと思います。また財政難だから仕方がないと当局はおもっとるようです。
投稿: NSR初心者 | 2009年6月11日 (木) 06時48分

県知事・被告側は主張をとりさげず控訴検討中とのことでしたが、どうなったんでしょうかね…
>一般職の地方公務員であり
 
 この辺の認識が違う、>>法律・条令を変えてやろうという勢いでしょうか
投稿: T | 2009年6月11日 (木) 08時25分

地公法58条の話ですよね? 労基法別表第1第13号の事業では人事委員会の監督で済ませられないはずですが…?
原告側が(その形では)スルーした、ということでしょうか…。
投稿: 臆病者 | 2009年6月17日 (水) 05時45分

そのとおりです。
私自身の文章でもそう明記しておりましたのに、
http://homepage3.nifty.com/hamachan/komurodo.html
>労働基準法の適用関係については、フーバーの怒りにまかせて全面適用除外としてしまった国家公務員法に比べて、地方公務員法では少し冷静になって規定の仕分けがされています。まずそもそも第58条で、労働基準法は地方公務員にも原則として適用されることと明記されました。上述のように、これは日本政府の当初からの発想でした。ただし、地方公務員の種類によって適用される範囲が異なります。地方公営企業職員と単純労務者は全面適用です。教育・研究・調査以外の現業職員については、労使対等決定の原則(第2条)及び就業規則の規定(第89~93条)を除きすべて適用されます。公立病院などは、労使関係法制上は地公労法が適用されず非現業扱いですが、労働条件法制上は現業として労働基準法がほぼフルに適用され、労働基準監督機関の監督下におかれるということになります。
投稿: hamachan | 2009年6月17日 (水) 10時17分

行政指導なら人事委員会ですが、労働基準法違反の摘発であれば司法警察員たる労働基準監督官が出てくることになります。
そこには地方公務員が独自解釈で釈明できる余地はありません。
禁固以上の罪を得て失職するまで、違法状態を続けるつもりなら、その対象を奈良県に求めるまでのことです。
奈良が早いのか、東京が早いのか、埼玉が早いのか、京都?滋賀?
全国の自治体で、競争していただくことといたしませう
投稿: Med_Law | 2009年7月14日 (火) 23時27分

奈良病院「当直」という名の時間外労働裁判の判決(2009年6月10日 (水) hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳))
※ 太字強調は原文。

という状況で、奈良県人事委員会は、「我こそが県立病院医師に関する労働監督機関である」という認識なんですね。地方自治体の事務には条例や首長の規則に委任されているものが多いのですが、その最たるものが人事委員会や公平委員会の規則でして、地方自治法や地方公務員法は、「人事委員会が規則で定める」とか「人事委員会の承認を得て」とかやたらに人事委員会に委任しています。ところが、その人事委員会が定める規則の基準とか、人事委員会が承認する基準は、「地方の実情に合わせる」というマジックワードでもって丸投げされているのが実態でです。つまり、人事委員会がいったん法律の読み方を間違えてしまえば、その誤った解釈がその自治体の労働基準として機能してしまう事態に歯止めをかけるものがなくなってしまいます。また、自治体で法規事務を審査する立場の法務担当も、自分の任用が雇用契約ではなく任用という行政行為だと理解していますから、労働法そのものについての理解が乏しい傾向があって、人事委員会の法律解釈には特にチェックが甘くなる傾向がありそうです。

2)について「情報公開決定」と回答してくるということは、公開されるべき文書があるということですね。どうも当局側は、本件において「医師に関して有効な労働基準法41条3号に基づく宿直許可申請書および許可書」が存在していると本気で思っているようです。
判決文からは、そのような文書の存在はうかがい知れないのですが、いったい何を出してくるつもりなのでしょうか。まさか奈良県の勤務時間規則をそのまま出してくるつもりとか。
奈良県にまともな法務担当職員はいないのでしょうか

奈良県立病院の「医師に関して有効な労働基準法41条3号に基づく宿直許可申請書および許可書」(2009年7月14日 (火) hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳))

もちろん奈良県職員も地方上級試験を合格しているでしょうし、学生時代には法律の勉強もしているはずなのですが、いったん仕事についてしまうと事務レベルの要綱を見るのが精一杯で、法令まで確認するということはなかなかないのが現状だと思います。これは自戒を込めてなのですが、日々の事務作業に追われていると、つい根拠法令まで確認するという手間を省いてしまい、後からよく考えると辻褄が合わない事務処理が慣例化されているという例は、これまでにも何度かありました。まあ私の場合は違法というまで深刻なものがなかったのが幸いですが、一歩間違えば奈良県立病院事件のように最高裁で違法状態であることが確定してしまう可能性もあります。

その意味では、窓口での対応が違法である可能性もある以上、それに対して疑問を感じた場合は根拠法令を基に異議を申し立てることが必要です。その過程で法律が規定している権利関係や利害調整の過程が明確になれば、住民と行政の両当事者にとって望ましいはずです。生活保護の手続きが違法かどうかについては様々な制約の中で判断しなければなりませんが、法律による行政の原理からすれば、問題は、実務のうえでどれだけ実現できるかという点にあるわけです。つまり、法律の規定が現実離れしているのか、その立法意思が現状とかけ離れていないか、現状が法律通りでない場合の制約は何か、法律の解釈は間違っていないか、その運用は解釈に沿ったものとなっているのか…という諸々の側面から十分に検討し、それらを踏まえながら日々の実務をルーティン化することが重要となるわけです。もちろん、それと同時に、そのルーティン化された実務と、その元となる法律の規定の乖離をいかに少なくするかという日々の実務の運用も同じくらい重要です。

我々のような下っ端の地方公務員は、こういう手間のかかる作業をこなすのが仕事なのですが、一般の方々にはなかなか理解されないだろうと思いますし、中央の官僚の中にすらあまりこうした実務を意識しない方も多くいらっしゃいます。ここに地方分権の大きなジレンマがあるわけで、私もその地域の実情に応じて住民意思を反映させるべき分野であれば地方分権すべきだろうとは考えていますが、そうではなく、全国レベルで脱法的な裁定行為が可能な分野や、人権を侵害してしまう分野で地方分権が行われれば、法の趣旨を逸脱した行政によって深刻な問題が生じる可能性があります。その辺を一緒くたにして闇雲なチホーブンケンとかいって、専門性が高くなく法律の解釈が怪しい自治体職員に丸投げしたりすれば、上記のような問題が生じてしまうわけです。

その現状でマスコミとして採りうる戦略は、七面倒くさい実務の現場の苦悩などではなく、一般の方が抱く疑問をいかにセンセーショナルに打ち出すかという点に集約されていきます。むしろ、そうした苦悩を解決するために「より一層の地方分権を!」とか言い出して、ますます自治体職員の怪しい法律解釈・運用が行われ、問題が発生していき…と、一部ではすでに悪循環に陥りつつあると思います。そうなると、さらに下っ端の公務員がこなしている地味なルーチンや運用の作業は理解されることがなくなっていきますが、それは同時に法律による行政の原理から逸脱した事務処理についてのチェック機能も低下させてしまいかねません。適正な法の運用のためには、行政がそれを解釈・運用するだけではなく、その運用について当事者の側から声をあげていくことが重要です。まあ、それが奈良県立病院事件では、労務管理を行う当局と、その労務管理に服する公務員と、その労務管理を監督する人事委員会が同じ県職員によって行われていたために、長年問題化しなかった原因ともいえそうです。
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2014年03月23日 (日) | Edit |
ということで前回エントリの続きになりますが、人権モデルの立場からPOSSEの今野さんが『生活保護』で提案されていることは、戦後の日本が企業福祉に頼り切って公的福祉を整備してこなかったことを踏まえたもので、方向性としてはほぼ全面的に同意します。

 私が考える本当の対策は、中間的就労ではない。現在「1か0か」になっている福祉を変えていくことが「答え」である。たとえば、ある一定の水準以下の賃金の人が、教育や医療、住居については国から無料で給付を受けられるようにする。これは、生保受給者だけではなく、ぎりぎりの生活を送る非正規雇用やブラック企業の労働者全体を底上げすることにつながる政策である。
(略)
 こうした制度改革は、多くの国民が「同意」できる内容だと思う。誰か特別な人だけを取り出して、ことさらに手厚く「保護」するのではない。多くの人の福祉の水準を引き上げることで、全体としての貧困状態を改善していくというものだからだ
(略)
 こうした政策の方向性は、もう少し堅くいうならば、「ナショナルミニマム構築」への転換だということができる。これまでの生活保護政策は、「要保護」者を「特別な人」というように位置づけて、その人だけを集中的に支援する仕組みになっていた。だからこそ、対立が生じてくるし、「バッシング」にまで発展してしまう
(略)
 こちらの方が、明らかに経済的に効率的であるし、国民・住民が押しなべて、健康維持の面でも、社会参加の面でも有利になる。活力のある社会を描くための、いわば「土台」がナショナルミニマムなのである。
 さらに言えば、ナショナルミニマムの構築は、人間破壊的労働、ブラック企業へと若者を駆り立てる圧力をも、減退させてくれるだろう。日本で際立って過労死・自殺が多く、過酷労働が蔓延するのも、欧州諸国のようなナショナルミニマムが設定されていないからだといえる。
pp.221-224

生活保護:知られざる恐怖の現場 (ちくま新書)生活保護:知られざる恐怖の現場 (ちくま新書)
(2013/07/10)
今野晴貴

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いやまさに、「多くの国民が「同意」できる内容」とすることで、所得再分配を現実の政策として論じることができるようになるわけでして、「「所得再分配を通じた成長」となることも十分にあり得る話だろう」なんてことが経済学方面の方の痛罵の的になるのは痛いほど分かってはいますが、そうこうしているうちに実態で議論する労働方面ではそうした議論が受け入れやすくなっているのかもしれません。

ただし、今野『生活保護』は人権モデルの立場らしく、生活に困窮している方の保護を主張するだけでなく、しっかりとその実務を担う公務員への攻撃も欠かしていません。こういう記述がさらっと入ってくる辺りに「市民活動大好きな学生運動の匂い」を感じずにはいられなくなるわけでして、まあPOSSEという団体はそういうものなのだろうと生暖かく見守るべきなのでしょうけど。

 こうした事態を防止する社会保障政策は、実はもっとも「経済的」なのである。経済を円滑に発展させるためにも、社会保障制度は不可欠である。これは、産業社会を研究する者にとっては常識であり、生活保護をバッシングしたり、粗暴に社会保障を切り下げる議論はまったく非生産的である。犯罪に身をやつしたり、インフォーマルな産業が形成されるよりも、「気楽に」保護を受けられる社会の方が健全である。
 さらに、もしこれを警察の強化によって防止しようということになると、その費用がまた膨大だということも考えておく必要がある。警察の人件費、組織維持費、天下り先の確保など、青天井に費用が増大する。
今野『同』p.191

 すでにみたように、生活保護制度は、その趣旨を大きくかけ離れて運用されている。個別制度の単給にしても、制度自体に改善の余地もあるとはいえ、今でも一定程度は活用可能なはずだ。しかし、実際にはそうはならないで、「水際作戦」と「監視とハラスメント」が行われている。
 その背景には、支援者自身が官僚化し、差別意識を内面化している事実がある。その結果、削減圧力の中で、実際の制度の運用を、本来の目的よりも劣化した内容、逸脱した内容に導くことに、彼らは実質的に荷担してしまっている。
 福祉制度は、もちろん国の制度であるので、本来であれば、まずは制度通りの運用がされるのが原則である。だが、実際にそれを運用するのが人間であることにも注意が必要だ。現実に福祉を実践する者が、どのような者であるのかによって、制度のあり方は変化しうるのである。
今野『同』pp.225-226

公共サービスに従事する労働者の人件費を削減して供給を先細りさせるのが緊縮財政」を主張されるような「経済が分かっている方」には、「産業社会を研究する者にとっては常識」という言葉を吟味していただきたいところですが、その今野さん自身が、アプリオリに悪のキーワードとして「天下り」とか「官僚化」という言葉を使われるんですよね。うーんだから、その「公的権力憎し」というものいいが現場の公務員を萎縮させているのですよ。これも大山『生活保護vsワーキングプア』から引用させていただきますが、

 マスコミからの取材を受けるなかで、私も元ケースワーカーの立場からコメントを求められることがあります。水際作戦についても、「数値目標のようなものはなかったのか」「上司から申請させないよう圧力をかけられることはなかったのか」という質問を何度か投げかけられました。私自身はそのような経験はありませんでしたから、「そういったことは、一切ありませんでした」とお答えしていました。たいてい、「では、どうして水際作戦のような問題がが起きるのか」という質問が続くのですが、その際には、「生活保護を利用している人たちと接しているなかで、利用者から裏切られることが何度もありました。そのたびに、私の心は深く傷つきました。ほとんどのケースワーカーは同じような経験をしています。ケースワーカーにも適切な支援がなければ、繰り返される傷つき体験のなかで、気がつけば制度の利用者を疑いの目で見るようになってしまう。そのことが、ご相談を受けていくときに影響しているのかもしれません」と答えることにしていました。
 生活保護行政にまつわる報道には、「役所は困っている人を救わずに追い返す」という水際作戦と並んで、もうひとつ、頻繁に取り上げられるテーマがあります。それは、生活保護利用者の日々の生活を取り上げて、平気で不正を働いたり、自堕落で向上心の見られない生活態度を批判するものです。私はこれを「受給者バッシング」と呼んでいます。
pp.61-62

 一人ひとりの報道関係者と会って生活保護の現状を話すなかで、生活保護にまつわる報道にはある特徴があることに気づきました。「水際作戦」と「受給者バッシング」、二つの報道で描かれる制度の利用者像に大きなへだたりがあるのです。
 「水際作戦」を扱う報道に登場するのは、多くは高齢者や障害者、病気で働けないなど、一見して「生活が立ちゆかない」ことが明らかな人たちです。「働けるじゃないか」と責めることができない人たちともいえるでしょう。報道では、彼らの置かれている状況の厳しさや役所で行われた不当(少なくとも、一般には不当と感じられる)な対応を描き出します。そこには、若くて健康な母子家庭の母親や、仕事を探さずに日々を浪費する若者は登場しません。
 一方で、「受給者バッシング」を扱う報道に登場するのは、高齢者や障害者ではなく、若い母子家庭の母親や求職中の若者たちです。制度の利用者像が描き分けられているのです。
 たとえば、不正受給ひとつとってみても、年金の支給を受けているのにそのことをかくして生活保護を利用する。あるいは、年金を担保に貸付を受けて豪遊したあと、「生活費がなくなったから生活保護を申請する」というお年寄りもいます。重い障害を抱えていることを利用して、役所に理不尽な要求を繰り返すクレーマーめいた障害者もいます。しかし、このような事例が報道に載ることは、ほとんどありません。
 また、水際作戦の報道にしても、報道に登場する高齢者や障害者といった被害者像と、実際に窓口で追い返される相談者の標準的な姿には、大きなへだたりがあります。この点については、後に詳しく述べたいと思います。

つくられる悪のイメージ

 こうして、「水際作戦の被害者」と「受給者バッシングの受給者」は、まったく別人物として描き出されます。その結果として、問題の本質が一般の読者や視聴者に理解されることなく、いたずらに生活保護のイメージだけが悪くなっていくことになります。ある報道番組で出演者の一人が、「ヤクザや怠け者のような声の大きい人間には生活保護を与えて、必至に働いてきたお年寄りには生活保護を与えない。こういう生活保護のやり方は間違っている」という趣旨のコメントをしていまいた。視聴者が漠然と抱いた生活保護のイメージを的確に表したコメントをしていました。仮に、それが生活保護のごく一部分の特殊な事例を取り上げたものであったとしても、報道に乗ることで、「生活保護はそういうものなのだ」というイメージがつくられていきます。
pp.73-74

生活保護VSワーキングプア (PHP新書)生活保護VSワーキングプア (PHP新書)
(2008/01/16)
大山 典宏

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ケースワーカーといっても、特別難しいわけでもない地方公務員の試験を受けて職業の一つとして選択されたものでして、ケースワーカーだから鋭利な頭脳と鋼の心と暖かい気持ちを持ち続けるわけではありません。まれにそういうことができる聖人君子のような方もいるかもしれませんが、大部分は普通の人間です。その普通の人間が仕事のなかで制度の理解を深めていきながらも、保護しようとしたその本人に裏切られ、世間に叩かれながら、同じ制度のなかで真に保護が必要な人と保護すべきでない人を選別しなければならないのが、日本の生活保護制度の現場の実務といえます。

 保育園に子どもを預けて仕事をするように説得しても、子どもが小さいからといってなかなか仕事を見つけようともせず、ようやく見つかったパートの仕事も一週間も経たないうちに辞めてしまいます。「子どもが熱を出したので」と言われれば、それ以上、強く言うこともできません。児童相談所に虐待通告が入ったり、学校への不登校が問題になったりして、担当者に問合せの連絡が入ることもあります。あからさまに批判されることはありませんが、暗に「もう少し担当から厳しく指導してはどうか」と苦言を呈されることもあります。やれるものなら、とっくにやっているというのが、担当者の偽らざる本音でしょう。
(略)
 業を煮やしたケースワーカーが、それでも、子どもを施設に入れて保護する方向で援助したとしたらどうでしょうか。「今度は、「ケースワーカーに子どもを施設に入れて働けと言われた。こんな人権侵害を許していいのか」という批判に晒されることになります。どのように対応したとしても、ケースワーカーは何らかの形で批判を受けることになるのです。
 真面目に仕事に取り組めば取り組むほど、「どうしてこんな理不尽が許されるのだ」という怒りがこみあげてきます
大山『同』pp.68-69

今野本では実際に、子どもを施設に預けろと言われたことが人権侵害だと糾弾されています。現場の担当者としては、憲法の基本的人権を踏まえつつ、実定法の生活保護法の趣旨を実現するため、補足性の原理と折り合いをつけながら仕事をしているはずなのに、それに便乗するような生活保護利用者がいたり、それを捕まえて「不正受給だ!」と大々的に見出しを掲げる報道に晒されて、心を折りながら仕事をせざるを得ないのが実態です。POSSEが人権モデルにこだわって、それに合致しない運用を糾弾されるのは自由ですが、その糾弾が現場の職員を萎縮させるだけに終わるのであれば、「生活保護制度は、その趣旨を大きくかけ離れて運用されている」とその現場を批判したところで、現場の職員が折り合いをつけるべき世の中が変わるとは思われません。

もちろん、ケースワーカーとなる職員の人件費の国庫負担がゼロであり、自治体の財政が厳しいために人員が減っていることも今野本では指摘されていまして、その拡充が必要であるという認識は共有されているようです。しかし、人員が増えても上記のように折り合いをつけなければならない原理原則が変わらなければ、現場の運用が変わることは期待できません。その解決法は、冒頭に引用した今野本の提言、特にワーキングプアと生活保護の逆転現象を埋めるような必要原則に応じた現物給付による所得再分配(特に医療、介護、保育、教育)の拡充となると考えております(ただし、今野さんは「ある一定の水準以下の賃金の人」を対象として考えていらっしゃるようですが、それはまさにミーンズテストに他ならないわけでして、現状と大差ないと思われます)が、いやまあそのためには、法律の原理原則以上に手強い増税忌避という世の中と折り合いをつけなければならないわけでして、いずれも険しい道のりですね。

2014年03月22日 (土) | Edit |
一応これで書きかけのエントリはなくなることになりますが、年度の最後まで残してしまうほど難しいテーマだと思いますし、かなり長文になりましたので、小分けにしてアップします。

昨年末のエントリで、

大山さんの前著『生活保護vsワーキングプア』でも繰り返し指摘されていたとおり、生活保護法第4条第1項で「補足性の原理」が規定されておりまして、その法律通りの運用が一部で「水際作戦」として問題視され、日弁連が行政の対応を違法だと主張していた経緯があります。その法律通りの運用を課長通知で変えるということは、現場が法律ではない課長通知を基に実務を行うということを意味するわけで、どちらが違法なのかは単純な問題ではありません。

現場のための中央 2013年12月30日 (月)

ということを書いたところ、管理人あてということで、

「行政手続法の理屈からいくと、「申請意思のある者から申請を受けた上で、処分(保護開始の可否)を為すために、その審査の過程で保護法第4条第1項の適用について論じる」のが本筋で、「申請意思のある者から申請を受ける前に、第4条第1項の適用について論じるのは、順序が間違っている」という論は成り立ちそうに思います。」


というコメントをいただいておりました。ここで指摘いただいた行政手続法の理屈というのは、藤田先生の入門書から引用すると、

 それからまた、行政手続法は、申請が出された場合、それについての行政庁の審査業務は、その申請が役所(事務所)に到着した時点で発生する、ということを明らかにするとともに、形式的な要件をみたしていない申請(いわゆる「不適法な申請」)に対しては、すみやかに、相当の期間を定めて申請人に対しその申請の補正をすることを命じるか、あるいは申請によって求められた許認可を拒否するか、いずれかの措置をしなければならない、というように定めました(同法7条)。なぜこんな規定が必要かというと、たとえばある許可(たとえばゴミ処理上などいわゆる「迷惑施設」の建設の許可などを考えてください)の申請が出てきたときに、行政庁の立場として、法律の規定に従えば根拠かを与えないわけにはゆかないのだけれど、たとえば環境問題とか、周辺住民の気持ちなどを考えると、できれば許可をしたくない、といったことがでてきます。こうしたときに、行政庁が、申請をひとたび受け取ってしまうと許可をしなければならなくなってしまうので、いろいろなりくつをつけて、申請をまだ受け取ってはいない、ということにしてしまう、ということが、従来よくありました(いわゆる「預かり」とか「返戻」といった措置がこれです)。これに対して行政手続法は、今後こんなことは許されないので、ともかくも申請が行政庁(事務所)に(事実上)届いたならば、行政庁は、正式の審査をして、正式の結論を出さなければいけないのだ、ということを定めたのです。
pp.83-84

行政法入門 第6版行政法入門 第6版
(2013/11/11)
藤田 宙靖

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※ 手元にある2005年の第4版からの引用です。以下、強調は引用者による。

とされていることですが、その意味では、「水際作戦」が形式的な要件を満たしているにも関わらず受け付けられないというのであれば、ご指摘のとおり違法な処理となります。ただし、形式的な要件を満たしているかどうかというのは、書式が定められていて、その各欄に何らかの記載があれば満たされるという単純なものではないところが難しいところでして、その点で日弁連や支援団体と行政側の見解が分かれているものと思われます。

はっきりいえば、行政法の入門書に書かれているような理屈を理解していない公務員がそうそういるはずがない(後述するように皆無とは言えないところが歯がゆいところですが)わけで、その見解が分かれる理由については大山『生活保護vsワーキングプア』をじっくりと読んでいただきたいのですが、法令の規定を現実の制度として運用することの難しさは、たとえばこのようにして担当者と申請する方の前に立ちはだかります。

申請へのハードルは高くなるばかり

 このように、福祉事務所の側に立てば、面接相談は「制度をよく説明し、理解をしてもらったうえで、申請を行ってもらうために必要なプロセス」であり、生活保護の適正な実施を行うために不可欠なものであることがご理解いただけるでしょう。これが、私やベテランケースワーカーが、「それほどひどくはないじゃないか」と考えた理由です。
 生活保護は最後の砦であり、安易に利用するものでは無い。できる努力をせずに、すぐに生活保護に頼ろうとする人には、厳しい対応をせざるをえない。市民の血税を扱い、全体の奉仕者である公務員という立場上、多くのケースワーカーはこのように考えています
 しかし、このような運用の姿勢を「法的に正しいかどうか」という視点で検討すれば、新たな意味合いが出てきます。先ほど事例としてあげた相談者が、「それでも私は生活保護を申請します」と言い、調査が行われたらどのような結果になるでしょうか。おそらく、ほとんどの方が、生活保護の利用を認められることになるでしょう。ここに、生活保護に関わる支援者や法律家から「二重基準である」と言われる生活保護行政の矛盾があります。
 第一章で取り上げた元風俗嬢の相談例を思い出してください。
 彼女と彼は二人で暮らしていました。この場合、相談窓口では「内縁の夫」とされ、二人世帯での生活保護の適否を判断されます。相談内容を見る限り、彼もワーキングプアで二人の生活を支えるだけの収入はなさそうです。彼女は働けないので、世帯収入は最低生活費以下であることは間違いないでしょう。すでに述べたように、日本弁護士連合会の基準からすれば、「十分に生活保護の対象になる世帯だ」といえるでしょう。そして、仮に生活保護の申請をすれば、彼と彼女は生活保護の利用ができる可能性は高いのです。法律上の条文解釈のみで考えれば、こちらがより制度の理念の沿った運用であるといえます。
 しかし、生活保護の現場では補足性の原理が強調され、「できることはやってもらう」という姿勢が非常に強くなっています。面接相談では「仕事ができるか」「親族から援助してもらえないか」が厳しく聞きとられることになるでしょう。そして、私には、一般社会のなかでもそうすることが「当然だ」という風潮があるように見えます。
 現行の運用では、生活保護を申請しようとする彼女、あるいは彼は、「現状ではこれ以上の収入を得ることは難しく、家族からの援助も求めることができない」という状況を説明し、担当者を納得させる必要があります。さらに、「若いからなんとかなるだろう」「生活保護は高齢者や障害者が利用するもの」という一般に広く認知されている常識や、「生活保護を受けている若者は怠け者だ」「不正受給をしているのは、若い人間が多い」という生活保護にまつわる漠然とした負のイメージは、彼女や彼の心理的抵抗感をさらに強め、申請へのハードルを高くしていきます
 彼女が生活保護の申請までこぎつけるのは、「実際には極めて難しい」といえるでしょう。
pp.104-106

生活保護VSワーキングプア (PHP新書)生活保護VSワーキングプア (PHP新書)
(2008/01/16)
大山 典宏

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この部分を読んで理解できる方がいらっしゃるか甚だ心許ないのですが、法の執行の現場というのは、事ほど左様に法律どおりに進まないのが現実です。というのも、日本国憲法に由来しながらも独特の解釈がされている公務員の「全体の奉仕者」という使命、徹底した財政民主主義と、その実定法として制定された生活保護法に規定される補足性の原理の解釈と運用は、そのいずれも法的には「正しく」「遵守すべき」ものではありながら、実務の現場では相対立する原理原則として立ち現れるからです。

こんなことを書いても「なんのこっちゃ?」という方が大部分だと思いますが、法の執行を担う行政の実務の現場に生活に窮した方が当事者として存在し、それらの相対立する原理原則の狭間で憲法と実定法、それに基づく各種細則の解釈と運用が日々行われているわけで、法的に正しいから申請が行われるという単純な話にはなりません。しかし、行政の実務がどうであれ、生活に窮した方がいるという現実は変わりませんし、それを支援する弁護士や支援団体からすれば、その方を救うのは法律しか拠り所がないわけです。かくして、実務の現場で苦悩する行政職員と、現実に生活に窮している方と、それを法律論で支援しようとする弁護士の思いが交わることはなく、お互いに不信感だけを募らせていくことになるのではないかと思います。

そして、その背景には、大山さんが「「若いからなんとかなるだろう」「生活保護は高齢者や障害者が利用するもの」という一般に広く認知されている常識や、「生活保護を受けている若者は怠け者だ」「不正受給をしているのは、若い人間が多い」という生活保護にまつわる漠然とした負のイメージ」と指摘されるように、福祉を許容しない日本社会の現状があります。人権モデルと適正化モデルは行政や役人が独自に作り上げたものではなく、日本社会が政治の場やマスコミ、教育など、普通の人が生活の中で醸成してきた日本社会の内部に存在する対立の一つの現れに過ぎません。だからこそ、「必要な予算を確保するためには、財務省が納得するような説明ができないといけない。財務省が求めるのは「その事業が、ほんとうに税金をかける価値があるのか」という点だ。説得力のある説明をするためには、費用対効果のような数字がいる」という言葉が、厚労省の官僚によって切実に語られるわけです。

これに対して、今野『生活保護』が、人権モデルの立場から「違法行政」だとして上記のような対応を糾弾されています。結論を先取りすると、今野本の主張は方向性として賛同できるものの、その事実認識にかなりのバイアスを感じるところでして、次のエントリに続きます。

2014年03月16日 (日) | Edit |
例え話というのはあくまで例えであって、物事の一面を表すことはできてもその他の面では的外れになるのであまり多用するのも考え物だとは思いますが、とある方面を見ていて思いついてしまったのでメモ。

ある女性が営業の仕事で訪れた海沿いの町で、果物屋の軒先においしそうな地元産の果物を見つけました。お土産にしようと店に入った女性は、お洒落な内装の店構えが気に入ってしまいました。目的の果物を買ってから時間もあったので、ニコニコと愛想のいい店のおじさんと雑談していました。すると、何かの話の流れで、

「そういえばドラゴンフィッシュっていうの聞いたんだけど、何のことかな?」

なんて話になりました。

その果物屋のおじさんは、店で取り扱う果物や店の経営のことでは誰にも負けない自信があります。その探究心が高じて、本を読んではうんちくを語るので近所では物知りで有名でした。しかし、さすがの果物屋のおじさんでもドラゴンフィッシュとかいう言葉を聞いたことがあるような気がするものの、その姿を見たことはありません。果物屋のおじさんは、

「ドラゴンは竜、フィッシュは魚か…竜の魚…たつのさかな…ははあ、さてはタツノオトシゴだな」

と思いつき、

「お客さん、そりゃタツノオトシゴのことだね。あの姿はまさしくドラゴンフィッシュって感じだよなあ。実は、この辺ではタツノオトシゴはたまに食べるんだよ。見た目はちょっとだけど、あのしっぽも頭もうまいんだよね。そういえば、近所の魚屋でタツノオトシゴ売ってることもあるから、ちょっとのぞいてみたら? まあ、あそこの魚屋は古くさいし、特にそこのオヤジは口が悪くて嫌な奴なんだけどね。それに比べれば、うちの店では毎朝新聞で経済情勢と市場の動向をチェックしてるし、この間は偉い○○先生のセミナーにも行って勉強してきたんだよ。だいたいこのごろの経済政策はうんぬん…」

と得意気に話しました。その女性は、おじさんがニコニコしながらも経済学の用語を交えて詳しい話をし始めたので、自分の営業の仕事でも参考になると思って聞き入ってしまいました。ひとしきりおじさんの話が終わったところで魚屋までの道順を聞いて、御礼を言いながら果物屋さんを後にしました。

果物屋のおじさんに教えてもらったとおり歩くと、ほどなく魚屋が見えてきました。その魚屋はたしかに古い店構えでしたが、隅々まで掃除が行き届いていて並んでいる魚も活きが良さそうです。その女性は、ちょっと勇気を出してコワモテのおじさんに話しかけようとしましたが、果物屋のおじさんが口が悪いというそのおじさんに気後れしたのか、

「ドラゴンフィッシュっていうタツノオトシゴは食べられますか?」

と、ちょっと意味不明な聞き方になってしまいました。魚屋のおじさんはちょっと苦笑いしながら「ん? 何のこと?」と突然の質問に戸惑っています。女性は、おじさんが思ったほど怖そうでもないので気を取り直して、果物屋さんで話した内容を順を追って話しました。すると魚屋のおじさんは、

「またあの果物屋がでまかせ言いやがったか…あのね、ドラゴンフィッシュとタツノオトシゴは別物だぞ」

と話し始めました。

「ドラゴンフィッシュっていうのは、ナマズみたいな姿で中南米に生息している魚のことだ。タツノオトシゴは知ってるだろ。ほら」

と、乾燥したタツノオトシゴを出してきました。

「乾燥させて漢方の材料にしたりお守りにしたりするけど、食べ物じゃねえよ。あの果物屋みたいな物好きなら食うかもしらねえけどな。あっはっは」

と笑いながら教えてくれました。女性は目の前のタツノオトシゴを見つめながら、ニコニコと親切に教えてくれた果物屋さんの顔を思い浮かべました。いろいろなことに詳しいあの果物屋のおじさんが嘘をいっていたとは思えない。目の前の魚屋のコワモテのおじさんが言うことが、にわかには信じられませんでした。

「でも、漢方の材料になるということは、タツノオトシゴが食べられないわけじゃないんでしょう? だったら果物屋さんのおじさんが嘘をついているわけじゃないんじゃないですか?」

女性はちょっとムキになって反論してしまいました。すると魚屋のおじさんは、

「まあ、食えるか食えないかっていえば、そりゃ食えないことはないがな、味はしないよ。知らないくせにあれをうまいって人に勧めるのはちょっとどうかねえ。タツノオトシゴの卵ならご飯にかけて食うこともあるけど、果物屋のヤツも素直に知らないって言っておけばいいのになあ。あっはっは」

「おいしいかどうかなんて、食べた人の好みじゃないですか。そんなにいうなら私が食べてみます。そのタツノオトシゴください!」

女性はなぜか後に引けなくなってしまいました。魚屋のおじさんは苦笑いしながら、

「まあ、たまにいるんだよ。果物屋の言うことを真に受けてそうじゃないと気が済まなくなる人がね。分かった分かった、自分で食べてみな」

女性は早速、受け取ったタツノオトシゴを少しかじってみました。…たしかに味はしませんが、ほんのり潮の香りがしないでもありません。

「こ、これおいしいじゃないですか。カリッとしていてどこか潮の風味があって…」

「乾燥させりゃなんでもカリッとするさ。海で採ったのに潮の風味が全然しなかったらおかしいわ。それでも果物屋が言う通りタツノオトシゴを食べたければ、好きにすればいいよ。あまりほかで言わない方がいいがね」

「タツノオトシゴの卵なら食べるんですよね? タツノオトシゴの卵を食べてるんだから、タツノオトシゴを食べないっていうのも嘘ですよね?」

「タツノオトシゴのしっぽと頭がうまいって言ったのは果物屋だろ? 文句があるなら俺じゃなくてあいつに言いなよ」

魚屋のおじさんは相手にしきれないという様子で適当にあしらいました。女性は納得がいかない様子で、

「卵でも何でもタツノオトシゴを食べるって言ったのはおじさんですよ? 素人相手に意地になるなんて大人げないんじゃありません?」

と引き下がりません。魚屋のおじさんは諭すように言いました。

「自分が素人だと思うんだったら、誰の話を聞くべきかよく考えるんだな。あんたは最初ドラゴンフィッシュのことが知りたかったんだろ? タツノオトシゴを食べるかどうかなんて、果物屋の奴がでたらめを言わなきゃあんたにはどうでもいいことだったんじゃねえのかな。んで、今度何か分からないことがあっても、現物も知らないで知ったかぶりして教えてくれる奴がいたら、そいつはあんたをだまして利用しようしていると疑った方がいい。たまに息を吐くように嘘を言う奴もいるしな。まあ、ドラゴンフィッシュがタツノオトシゴじゃなくて、中南米産のナマズみたいな魚だってことが分かっただけでも、あんたにとってはよかったんだよ」



この話はもちろん、制度を知らずに制度を批判したり、財政状況(経済情勢ではありませんので為念)も理解せずに経済政策を論じる方々について感じる違和感をたとえてみたものです。思ったより長くなってしまったので余計なことも書いてしまいましたが、たまにはこんなのもありということで。

2014年03月15日 (土) | Edit |
前回エントリで住民自治の回路が機能し始めたかに見えた大槌町ですが、その大槌町でも「防潮堤に囲まれる町」として事業を進めることの是非について議論が行われていました。

防潮堤から考える町の未来 ~岩手県大槌町~

放送
【総合】2014年2月16日(日)午前10時05分~10時53分
まもなく震災から3年。今、新たに建設する防潮堤をめぐり、被災各地で計画の見直しを求める声が高まっている。「高すぎる防潮堤はいらない」「海が見える方が安全」などの声を受けて、国も去年12月、防潮堤建設のスケジュールや予算案については住民の意向を重視し、柔軟に検討することを促す姿勢を打ち出した。
岩手県大槌町では、震災前6.4メートルだった防潮堤を、ビル5階建ての高さに相当する14.5メートルで再建する計画だ。しかし、漁業者や水産加工業者をはじめ、住民にとっては利便性が悪くなると懸念を訴える声が相次いでいる。そこで、高校生を含む住民20人が「住民まちづくり運営委員会」を発足。町の防潮堤をどうするのか、住民で話し合いを重ね、みんなが納得する案を作って行政に届けようと活動を始めた。
番組では、防潮堤の高さによって町はどう変わるのか、専門家に提示してもらいながら、防潮堤と防災のあり方、未来のまちの姿を住民たちと共に考える。

NHK 復興サポート
※ こちらのサイトは年度ごとに更新されるようですので、引用した部分は2014年度以降に過去のページで閲覧できると思われます。以下、強調は引用者による。


番組では住民の皆さんが真摯に向き合って話し合う中で、様々な立場から意見が述べられていました。番組を見た範囲で私なりに大きく意見を分類すると、防潮堤の高さを低くすべきという意見としては、
  • 高い防潮堤があると景観が損なわれる。
  • 高い防潮堤が町を守るという安心感から防災意識が低下して、津波警報が出されても逃げない人が増える(今回の震災ではそのような状況で命を落とされた方も多くいた)。
  • 奥尻島でも町を囲む防潮堤を完成させて復興宣言もしたが、重要な地場産業である漁業が衰退し、人口減少が止まらない。
  • 防潮堤の高さを下げることによって予算を浮かせ、高台移転や避難路などの防潮堤に頼らない防災対策に予算を使うべき。
  • 防潮堤などの規模が大きくなると、維持管理・補修などの後年負担が大きくなる。
というところだったと思います。これに対して、計画通りの防潮堤とするべきという意見としては、
  • 防潮堤を低くすると浸水区域が広くなり、避難するのに時間がかかって足腰の弱い高齢者などが逃げ遅れるおそれがある。
  • 防潮堤の高さを前提として、避難路、公共施設の設置場所などの計画が作られており、防潮堤の高さを変えると計画全体を見直す時間がかかる。
  • すべての計画を作り直すために時間をかけるより、早く復旧させることを優先すべき。
  • 高齢者などの足腰の弱い住民が安心して暮らせるようにすべき
というところだったと思います。

個人的には、どちらの言い分にも説得力を感じますが、いずれもトレードオフの関係になっていて判断が難しいと思います。たとえば、経費をかけて防潮堤を高くすることで、津波の浸水区域を狭めて移動が困難な方の安全を確保しようとしても、維持管理などで後年負担が大きくなると、その他の公共サービスがクラウドアウトされてしまい、移動が困難な方にとっては、防潮堤があっても避難を助けてくれる人がいない、または避難できる施設を確保することができないという事態に陥る可能性があります。また、上記の意見の中では、奥尻島の事例から、防潮堤を高くすることで漁業者の仕事場が狭められ、漁場そのものにも影響が出て町の産業全体が衰退することに懸念が示されていますが、漁業を守るために防潮堤を低くすると、浸水区域が広くなって後背地の防災費用に経費がかかったり、津波で浸水するたびに補修する費用がかかる可能性もあります。

当然のことながら防災施設を作る目的は、その施設によって何を守るのかという点がいちばん重要だと考えておりますが、その「何を守るのか」というのは、範囲が増えて住民が増えるにしたがって多様性を増していきます。さらに個々の住民にとっても、住民の家族構成、住民自身の年齢などによっても守るべきものは変わっていきます。若年者にとっては自分自身を守ることができれば生きていけるでしょうが、子育て世代は子どもを守る必要があります。高齢となった両親を守必要もあるかもしれません。その高齢者や障害者は自分を守ることすらままならない上に、被災した後でも生きるためのサポートを必要としますので、そのサポートを確保するために守るべきものもあります。若年者や子育て世代にとって高齢者や障害者は他人事かもしれませんが、いつ事故で体の自由を失うかわかりませんし、あるいは歳を重ねるごとに体や知力の自由は失われていきます。もちろん、仕事をしている世代にとって、自分の仕事場とその基盤となる社会的インフラを確保しなければ生活そのものが成り立ちません。そのような多様な住民が暮らす地域をどのように守るのか、その答えは簡単ではないと思います。それに取り組まなければならない被災地の方々の心労は想像を超えるものがありますが、国や周辺自治体はその取組を支援していかなければならないと思います。

実は、その支援の前例ともいえる事例が岩手県宮古市の田老地区にあります。NHKの「戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか」という番組がありまして、こちらで世界最大級といわれた田老蓄の防潮堤が建設された経緯を見ることができます。

昭和8年の大津波で911人がなくなった岩手県宮古市田老(たろう)。24年をかけて巨大防潮堤を建設し、その姿は「万里の長城」と呼ばれた。1960年のチリ津波特別措置法の制定にあたっては、津波対策のモデルとなり、その後、全国に多くの防潮堤が建設された。田老にも第二の防潮堤が建設されたが、東日本大震災では破壊され、多くの犠牲者を出した。戦後日本の津波対策を田老の防潮堤を軸に人々の証言で見つめていく。

戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2013年度「地方から見た戦後」第6回 三陸・田老 大津波と“万里の長城”」(NHK ONLINE


番組内容については、こちらのサイトの情報が詳しいです。

「津波太郎」。岩手県宮古市田老(たろう)は、そう呼ばれる。豊かな漁場にめぐまれた漁業の町は、繰り返し津波に襲われてきた。昭和8年の大津波では死者911人―三陸最悪の被災地であった。加えて、幾たびも山津波や大火に見舞われた。田老の戦後は、自然災害にあらがい、防災と取り組んでまちをつくりあげてきた歳月でもあった。
象徴的なのが、防潮堤の建設だ。昭和の大津波の1年後、村長関口松太郎の奮闘によって始まった大工事は、やがて県の事業となり、国費もつぎ込まれ、24年をかけて完成した。それは、波に逆らうことなく、二本の川に津波をそらす構造になっていた。
しかし、1960年にチリ津波が来ると、国は構造物によって、津波を防ぐという「チリ津波特別措置法」を制定。田老にも二つ目となる防潮堤が建設される。それは、波に立ち向かい、抱きかかえるような形だった。こうして、総延長2.4キロ、海面からの高さ10メートルのエックス字型の大防潮堤が完成。世界に例を見ないコンクリートの威容を、田老の人々は「万里の長城」と誇った。
しかし、東日本大震災では、二つ目の防潮堤は、津波により根本から壊され、地域に甚大な被害をもたらした。高さ10メートルの最初の防潮堤は崩壊を免れたものの、「防潮堤の2倍はあった」という津波は乗り越えていった。田老は、200人近い犠牲者を出した。
田老の人達は、巨大堤防でどのような町作りをめざしてきたのか。番組では防潮堤の建設の経緯を軸に、つねに自然災害と対峙して生きてきた田老の人たちの営みを証言で見つめていく。

「2014年1月11日(土)午後11時~翌0時30分 【再放送】2014年1月18日(土)午前0時45分~午前2時15分(金曜深夜) 第6回「三陸・田老 大津波と“万里の長城”」NHK ONLINE


この番組では、昭和8年の大津波で大きな被害が発生した田老地区で、当時の田老町長が国や県(念のため当時の県は国の出先機関です)の方針とは別に、独自で防潮堤を建設して漁業者の生活を確保しようとして、それが結局国を動かして国費で防潮堤を建設した経緯が述べられます。その後、昭和35年のチリ地震津波では防潮堤にも到達しない程度の津波しかなかったにも関わらず、当時のマスコミが「田老では防潮堤のおかげで被害がなかった」と大々的に取り上げ、その報道に接した他の津波被害を受けた地区の要望と国会議員の働きによって、三陸沿岸各地に大規模な防潮堤が建設されていきました。その流れの中で、田老地区でも昭和津波の際に建設した防潮堤のさらに外側に防潮堤を建設し、その地域でも住居などの建築が進みましたが、今回の東日本大震災の津波は、後から建設した防潮堤を根こそぎ破壊し、当初あった防潮堤も越えて甚大な被害が発生したという経緯があったとのことです。

後知恵的にいえば、マスコミが大々的に防潮堤の効果を報道したこと、それに国会議員が動かされて多数の防潮堤が建設されたこと、結果として完成した防潮堤に頼ってしまって防災意識が低下したこと、いろいろな要因が重なって今回の被害が発生したといえます。その時々の政策の判断もさることながら、それによって住民の意識が変わっていったというのも、政策の効果を考えることの難しさを如実に示しているように思います。人が住む地域には生業があり、その生業を成り立たせている地形的特徴があり、その生業を中心に共同体が形成され、近代以降はその共同体維持のために政策として社会的インフラや公共サービスが提供されてきたわけです。政策の目的は共同体の維持という共通のものであっても、その形は地域ごとに異なるのはそういう理由によるのではないかと考えております。

という観点からすると、こういう指摘は少しミスリーディングだろうと思うところです。

住民主導で他地域に 先駆けた合意形成

各被災市町村で行政と住民の合意形成が進む中、他に先駆けて復興計画が進む地域がある。岩手県釜石市唐丹(とうに)町の花露辺(けろべ)地区だ。同地区は昨年12月に岩手県内初となる、行政・住民間での復興計画の合意がなされ、釜石市の財源で高台移転に必要な2億2700万円が昨年度内予算で用意された。すでに公営住宅の設計図も提示され、本年度内での高台移転完了を目指す。

行政と住民、その前に必要なのが、地区住民の中での合意形成だろう。しかし、個々の事情と心情を汲みつつ話し合いで意見を一つにまとめるのは、当然ながら難しく時間がかかる。それが花露辺地区は、行政側が動き出すよりも早く地区住民内での意志がまとめられ、震災から3ヶ月経たない6月1日の時点で、市に要望書を出すに至っている。被災市町村からの復興計画が出揃ったのが12月であることを考えると、実に半年近く先行している。

このような早さを可能にしたのはコミュニティの結束と、自治会を中心とした強いリーダーシップにある。68世帯と小規模であることも大な理由だが、もともと他地区に「あそこは特別」と言われる程まとまりが強いことで有名だった。

復興計画に示された 暮らし方のビジョン

海に面した花露辺地区は震災前から防潮堤を作っておらず、今回の復興計画でも防潮堤を不要とした。標高16メートルの地点に道路を作り、その外側を盛り土することでこれが実質的な防潮堤の役割を果たす。住民の多くが生業にする漁業への利便性を失わずに、海が見える景観を保つまちづくりだ。
花露辺地区に学ぶ住民主導の復興まちづくり 自分たちらしい海の見える暮らし方へ(2012年4月11日)」(東北復興新聞

以前も田老と比較された気仙沼市唐桑町の舞根地区も同様に、釜石市の花露辺地区も小さな漁港で歩いて数分で高台(リアス式海岸ですので、崖のような山ですが)に到達することができます。そのような小規模な地区と、田老地区や大槌町の中心部のように、場所によっては高台まで歩いて数十分以上かかり、川があるために津波が奥まで浸水する地区とは、守るべきものの量の範囲も異なります。先日の震災特集番組でも防潮堤の問題が多く取り上げられていましたが、大槌町や田老の中心部と花露辺や舞根のような小さな地区を同列に並べて「防潮堤が要らないという地区もあるのに、国は住民の意向を無視して強引に事業を進めようとしている」という批判が目につきました。住民の意向を反映させることが重要であることは当然ですが、その住民の意向そのものが、冒頭で引用した大槌町のように規模も面積も大きくなると多様に分かれてしまうわけでして、在京マスコミが住民の代弁者を気取ってしまうために意思決定が攪乱されてしまうことが懸念されるところです。

2014年03月11日 (火) | Edit |
あっという間に今年もあの日がやってきて、報道でも震災が大きく取り上げられる1日が年度末の業務に追われながら慌ただしく過ぎました。風化が課題とか復興事業の遅れが問題だという話が繰り返されていますが、実を言えば1年前に書いたこと以上は改めて書くことがないというのが実感です。そちらで引用させていただいた山口先生のご指摘も、より一層風化が進んだ現在にこそ重要な意味を持っていると思います。もちろん、何も変わっていないということではなく、大きく姿を変えつつある被災地もある中で、今日が大きな節目であるとしても、それはこれから長く続く再建への取組の大事な通過点になってきているという意味です。これからも風化の問題と復興事業の遅れは飽くことなく糾弾され続けると思いますが、命を失った方や今被災地で生きている方々を思いながら、今自分にできることを着実に進めていきたいと思います。

2014年03月09日 (日) | Edit |
ここ最近書きかけのエントリがあるようなことを書いておりましたが、そのうちの一つが金子先生の「大槌町東日本大震災津波復興計画基本計画改定素案 パブリックコメント」でした。あと数日で震災から3年となりますが、その間被災地となった自治体でどのようなことが起きていたのかが、実際に被災地で一般社団法人の運営にも携わっている金子先生の視点から述べられていて、高邁な有識者なんぞの提言よりはるかに現実に即した内容となっていると思います(金子先生が高邁ではないという趣旨ではありませんので為念)。金子先生のパブコメそのものが論点が多岐にわたっていてかなりのボリュームがあるので、全体はそちらを直接ご覧いただくとして、役人として重要な論点と思われる部分をピックアップさせていただきます。

まずは、冒頭で「基本計画の前提にある問題」として、大槌町に限らない政策形成の問題点が指摘されます。

大槌町で起っている問題は、誰かが利権のために動かしているといった分かりやすい話が脚光を浴びやすいため、どの町でも共通するような背後にあるメカニズムまで注目されることは少ないと思われる。そのために、町民からは行政の一部や町会議員の一部が利益誘導をしているために復興が進まないという批判がある。しかし、仮にもしそうしたことが実際に行われていたとしても、それは復興が進まない一番の大きな原因ではない。もっと根本的な難しさがある。

一般に、日本の政策決定プロセスは、中央から地方へと流れていく。今、この主な流れを図示すると、

中央省庁(いわゆる霞が関)および委員会 ― 諮問 → 審議会 → 審議会専門委員会(あるいは特別委員会)→ 審議会 ― 答申 → 中央省庁 → 基本計画 → 県庁 → 基礎自治体 → 地域

となる。県庁でも審議会が開かれることがあるが、同じ繰り返しなので省略する。大槌町の分科会というのは、中央の政策決定プロセスにおける審議会と同じ機能が期待されている。戦略会議、各分科会の運営の仕方に批判が集まるのは、通常、基礎自治体レベルではこうしたスケールでの政策決定プロセスを経験したことがないからで、町長はじめ町役場を批判することは必ずしも的を射ていない。加藤町長はじめ町役場の方が生き残っていたとしても、震災直後の最初期の混乱は避けられたかもしれないが、2012年以降の政策決定プロセスでは同じようなことが起こっていたと考えられる。
大槌町東日本大震災津波復興計画基本計画改定素案 パブリックコメント(2014年02月10日 (月) 社会政策・労働問題研究の歴史分析、メモ帳)
※ 以下、強調は引用者による。

日本の政策決定過程について何も知ることのない方にとって、「誰かが利権のために動かしているといった分かりやすい話」というのがライフハック的に好まれる傾向がある中で、それをきちんと腑分けして議論されている点において、大槌町の計画についての「今回提示されている改定素案は格段にグレードアップしている」との金子先生の評価は適切だと思います。自分の知らない仕組みや制度について陰謀論が影響力を持ってしまうのは、時間がない中で自分の専門外のことについて議論しようとする際にはある程度やむを得ないものではありますが、ことそれが自分自身の生活に直接関係してくる場合には、そんなことは言ってられません。大槌町では、そのような労を惜しまずに政策決定過程に踏み込んで議論を再構築したことで、計画案が現実味を獲得手きたのだろうと思います。その労を執られた大槌町の住民の方には心から敬意を表します。

話はまったくずれますが、フィギュアスケートの採点には必ず陰謀論(買収論)が語られるところでして、それを語っている側がほとんどルールを理解しておらず、陰謀論がありえないとする側が制度を熟知しているという事例として、こちらが参考になります。

採点を不審に思ってしまって、ルールを調べようとしている人へ。
大切なことを忘れないでください。
誰かを貶める理由を探してルールを漁ると、
その目は曇って、選手が醜く見えてきます。
ルールを素直に知ろうと努めれば、
選手の勝つための努力が見えてきます。
これはそういうスポーツです。
nawo7070 2014-02-21 14:07:02

【続】「キム・ヨナ選手の高得点はおかしい」はおかしい

もちろん、私はフィギュアスケートなんてテレビで放送があればたまに見るぐらいの知識しかありませんので、こちらでトゥギャられている内容の適否は判断できませんが、上記のtweetで指摘されている現象は仕事でよく見る光景だなと思います。

フィギュアスケートのテレビ中継を見ながら「あの採点はおかしい」と素人考えで感じて、そこから独自にルールを調べたりしてもなかなか理解できなかったりすると、「このルールは分かりにくい。ということは素人が分からないと思ってあれやこれやの不正を働いているにちがいない! けしからん!」と考えてしまう危険性は常に付きまといます。日本に限らず政策の決定過程というのは、採点スポーツよりもはるかに利害が錯綜した中で行われるものである以上、そこには素人考えだけでは推し量れない利害の対立があるのが通常ですが、その素人考えでは推し量れない利害の対立を「利権陰謀論」で片づけてしまう方が、特に経済学とか社会学とか政治学とかの社会科学の専門家と呼ばれる方々に多いのがこの国の特徴かもしれません。政策決定の実務的な現場に携わっているのは、選良としての政治家の方々と、その決定過程に必要な制度や利害の調整を文書にとどめる役人なわけでして、その両者を「貶める理由を探して制度を漁ると、その目は曇って、選手が酷く見えて」くるのも当然ですね。

まあそれはともかく、金子先生のパブコメに話を戻すと、指摘されているとおり基礎自治体レベルでは上記のような政策決定過程を経て政策を決定するとこと自体が元々少なかったのが実情です。そういう実情を踏まえずにチホーブンケン、チーキシュケンと唱えれば地元で何でも決められると息巻いていた方々にはじっくりと読んでいただきたいところでして、その過程を不完全ながらも踏まえた形で計画が取りまとめられたのは、震災と津波で町の中心部を丸ごと流された大槌町の非常事態があったからこそ可能になったものと考えます。

通常の政策決定過程は、上記の金子先生の整理の通り、中央省庁で大きな制度の枠組みが決定され、それが都道府県→市町村と降りてくることによって現場で具体的な事業として執行されるというプロセスを経るわけで、その通常モードでは、都道府県や市町村レベルで決めることというのは、制度の枠組みの中でまさに地域の事情を踏まえた事業の具体化になります。イメージ的には、制度の運用や解釈を都道府県レベルで行い、その都道府県の見解を踏まえながら市町村レベルで制度を執行するのが一般的といえるでしょう。つまり、通常モードの事業執行においては、地元住民の意向は制度の運用や事業化の段階で限定的に反映されるもので、制度形成そのものには直接影響しないのが実情です。まあ、それをもって「現場を分かっていない」とか「住民の意向を踏まえていない」という批判が起きるのはやむを得ないのですが、かといって、すべてを基礎自治体のレベルで決めるというのは現実的ではないわけです。

その事業の執行のために基礎自治体が担うべきプロセスについても、金子先生が指摘されている点は重要です。

次のプロセスで、町レベルで実現しなければならないことは、中央の設定した政策(計画)にあわせる形で、政策を策定しなければならない(作文)。もちろん、中央でも地方ごとに事情が違うのは分かっているので、融通が利くように抽象的な文言で基本計画が作られている。これに沿う形で各種の基本計画は作るが、実際の運用で多少の自由がないわけではない(文書の解釈の仕方)。ということは、抽象的な文言の背景を理解した上で、自分たちが実現したい政策を書く。これが出来ると、予算を獲得することが出来る。少なくとも、予算が出せるような仕組みは中央省庁の役人が言うように用意されている。8ページに「関連計画との整合性」が書かれているのはこのためである。これはこの枠組みで予算を取ってくることが出来るという意味である。
『同』

一昔前には、いわゆる優秀な地方の役人というのはこういう作文能力に長けている人を指すのが暗黙の了解だったのですが、そういう予算獲得能力は無駄遣いの温床として叩かれてしまい、今の役人には「地域経営力」とかが求められておりまして、まあそういう絵空事を並べる方にもこの部分は熟読していただきたいところです。その上で金子先生が「地域→地方→地方への逆コースが認められるのは防災計画であり、(略)こうした仕組みを戦略的に使う必要」と指摘されている点は、今後の地方自治体の事業執行では重要な視点となると思われます。

予算獲得とかいうといかにもお役所的に感じられるかもしれませんが、金子先生は役所に対するありきたりの縦割り批判についても的確な指摘をされています。

大槌町だけでなく、行政は基本的に機能別に編成されているのは当然であり、巷間で言われるような,それを縦割りであると批判するのはあまり適切ではない。これは今後の進め方の中で、空間環境基盤、社会生活基盤、経済産業基盤、教育文化基盤で共通する内容をどのように協力させ、あるいはよりよくするために競合させるのかといった方法を考えなければならない。
(略)
今の問題は個別論点をどのように統合して町全体の方針とするのかという方策がまだ不十分であるというだけである。ただ、個々の問題は復興だけでなく、震災以前からの大槌町、ひいては地方の基礎自治体が抱える問題でもあり、震災から三年の間でここまで到達したのは高く評価されるべきである。
『同』

役所が機能別に編成されているのはその通りですが、ではその機能はどのように分割されているかというと、「「たくさんの関係者がいて」「その多くの人を調整する」仕事は、必ず協調が必要」となるような組織では、その利害の当事者ごとに編成されることになります。つまり、普通は役所内の部署は利害が対立する現場ごとに分かれているのであって、その部署が対立する場合には、その背後に控えている利害関係が対立していると考える必要があります。たとえば金子先生が例示されている領域では、漁港や漁場の整備によって利恵を得る水産関係者や社会資本整備で仕事が増える建設業者、中心市街地を整備することで商圏を確保できる商業者、工場を立地できる土地を造成することで利益を得る鉱工業者、農地を整備することで利益を上げる農業者、教育施設を整備することで便益を享受できる子育て世代、介護施設を整備することで便益を享受できる高齢者・障害者…などなどの利害関係者が町の住民の(同一人物が持つ)それぞれの顔なわけです。それを調整する機能が役場に求められているのであって、災害後の非常事態でなければ、通常モードの役場では到底難しい仕事だったと思われます。金子先生が高く評価すべきという理由がお分かりいただけるかと思います。

そうしたプロセスへの理解が進んでいる大槌町では、その任に当たる役場職員に対する気遣いが住民の間でも共有されているのではないかと思います。

大槌町内のプロパー職員への風当たりは内外で非常に強いが、加藤町長のもとでここ数年間、新しい試みがなされていたとはいえ、一般的に考えて、予算規模がこれだけ膨れ上がった時点で、今まで経験していた以上の未曾有のスキルが要求されているのは否定できない。また、そうした事情を踏まえたうえで、あるいは私が上に書いた行政のプロセスを理解した上で、彼らを責める町民は少ないのではないかと思う。また、亡くなった町役場の精鋭と比較され、そういう意味でも現在のプロパー職員は必要以上に町民からの非難を受けて来たと言えるだろう。実際に倒れている方も何人もいるわけだし,これ以上の負担をかけるのは気の毒である。
『同』

最近は震災から3年と銘打って特番が組まれていますが、今日も朝から「サンデーモーニング」の出演者はこぞって「縦割り批判」と「役所の怠慢への批判」を繰り広げていました。「サンデーモーニング」の出演者が政策決定の中枢である東京に住んでいながら政策決定プロセスも理解できていないのに対して、被災地で政策決定のプロセスを踏まえて議論されている住民の方々の方が政策についての理解が深まっているという現状を見ていると、希望を持っていいのか絶望すべきなのかよくわかりません。とはいえ、「町役場そのものが流されて職員数が激減してしまい、突如として本来の住民自治が求められるようになってしまって」「その中で「住民参加」してきた方というのはごく一部であって、さらにそれを再建しながら積極的に参加する方は限られた方となってしまいます。結局、「行政が一部の住民とだけ合意した計画を作って、勝手に事業を進めた」という批判が巻き起こ」っていた中で、その回路を形成した大槌町の住民の方々には改めて敬意を表したいと思います。

正直なところ計画案そのものの内容はいかにも総花的なところがあって、具体的な事業化はこれからの段階だと思うのですが、その具体化に当たっては今回の計画作りで形成した回路を十分に活用することが重要だと思います。災害を契機とした住民自治のモデルケースとして、今後も注目していきたいと思います。

ついでながら、

産業担当の副町長が変わった時点で、引き継ぎが十分に機能しておらず、2012年度に進めた話が後退するということが多く起った。応援職員に協力を頼む以上、引き継ぎの問題は深刻だが、同じ自治体、とりわけ基礎自治体の上にある県庁出身者同士の人事異動で起った問題である点において、何よりも深刻であると言わざるを得ない。端的に言って、県庁に期待できないということである。また、総合政策部は設立された2012年は県庁からの出向者である部長を置きながら、何もできなかった。2013年度以降、結果を残したのは遠方からの応援職員の力である。
(略)
これらの情報が総合政策部内で共有されていないとしたら、それはひとえに部長の責任である。私が県庁の方とお話をした限りでは、県庁にも優秀な方はいらっしゃると思うのだが、現時点での政策結果を見る限り、主要ポストに外れ人材を3人連続して送り込まれており、大槌町にとっては岩手県庁の人材はリスク要因になっている。
『同』

いやまあ、どこの組織も中核的な人材は外に出したがらないのが性というところでして、私が見聞きした自治体の中でも優秀な人材は内部事務(官房系)の部署に配置されていて身動きが取れず、組織内ではあまり評価の高くない人材が応援に出されるという傾向は否定できないと思います。もちろん、組織内で評価が高くないからと言って優秀ではないというわけではないのですが、大槌町の場合はそのどちらにも当てはまらなかったのかもしれません。市と町村という序列が関係した可能性もありますが、いずれにしても地方自治体の人材はそれほど豊富ではないという事実はきちんと検証されるべきだろうと思います。

2014年03月04日 (火) | Edit |
まだまだ書きかけのエントリがたまっているのですが、先日たまたま図書館で「利権陰謀論という結論を書きたくて」たまらない方の新著を拝見してしまい、あまりの内容の酷さにスルーするのも気が引けましたので、一点だけ。

原田泰氏は基本的に日本的官僚に対する憎悪に満ちあふれていらっしゃいまして、官僚が絡んだものは全否定しないと気が済まない方で、その理由については「利権陰謀論」以外で説明する気がないようでして、本書でもご自身の主張に都合のいいデータをつまみ食いし、ご自身が攻撃対象とするキャリア官僚は藁人形をでっち上げて徹底的に叩き、キャリア官僚以外の公務員が供給する公的サービスの貧弱さやそれに従事する公務員の所得水準については一切無視されているのは、相変わらず清々しいと申せましょう。

まあそんな利権陰謀論にいちいち反論するのもバカらしいので、まずは宮本太郎先生の『生活保障』から公共サービスと現金給付の対GDP比のデータを引用しながら、高齢化率と国民負担率をググって組み合わせてみましょう。

社会的支出の内訳(対GDP比、2003年)と高齢化率・国民負担率(単位:%)
現金給付公共
サービス
高齢
化率
国民負担率
現役
世代
向け
年金医療その他租税
負担率
社会
保障
負担率
アメリカ2.26.26.70.912.326.18.6
フランス5.412.07.62.716.437.824.6
スウェーデン7.48.07.17.417.349.017.2
ドイツ4.811.58.01.919.129.122.9
イタリア2.713.86.20.819.642.118.2
日本1.58.26.11.620.124.817.0
出所 OECD The Social Expenditure database: An Interpretive Guide, SOCX 1980-2003.
生活保障 排除しない社会へ (岩波新書)生活保障 排除しない社会へ (岩波新書)
(2009/11/21)
宮本 太郎

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p.78
※ 高齢化率(全人口のうち、65歳以上の人口が占める割合)は「平成23年度 国土交通白書(国土交通省)」の2005年データ。
※ 国民負担率の対GDP比は社会保障の給付と負担の現状と国際比較(厚生労働省)」の2008年データ。

高齢化率の低い順に並べてみましたが、このデータをご覧になりながら原田氏の次の言いがかりをご覧ください。

 過度の、しかも、他人の親への親孝行を強制するような制度は国を滅ぼす。しかも、その制度を持続させることが国家100年の大計の責任ある態度と論ずる人が出るに至っては、もはや日本という国家が滅んでいると言うべきだ。
 社会保障は世代間の助け合いである、などと脳天気なことは言っていられなくなる。現在の社会保障とは、特定の世代の人が得をして、そうでない人が大損をするという制度である。こう考えると、長老議員が消費税増税に熱心なのも分かる。長老議員の取り巻きや支持者は、高齢者であろう。消費税増税は、現在の高齢者の社会保障給付の水準を維持しておくために望ましいものだからだ。
pp.52-53

若者を見殺しにする日本経済 (ちくま新書)若者を見殺しにする日本経済 (ちくま新書)
(2013/11/05)
原田 泰

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ええと、原田氏はもちろん、日本より高齢化率が低くて年金の対GDP比が高いフランス、ドイツ、イタリアにも「他人の親への親孝行を強制するような制度は国を滅ぼす」と啖呵を切ってくれるんでしょうねえ? あと、日本よりも付加価値税の高いこの表のすべての国に対して、「長老議員の取り巻きや支持者は、高齢者であろう。消費税増税は、現在の高齢者の社会保障給付の水準を維持しておくために望ましい」と正面から批判してくれるんでしょうねえ? ねえねえ?

一応確認しておきますが、表中の社会的支出合計では、アメリカ16%、フランス27.7%、スウェーデン29.9%、ドイツ23.3%、イタリア23.5%、そして日本は17.4%でして、世界一の高齢化率を誇る日本で高齢者向けの年金給付が社会的支出の半分を占めているといっても、まあまだ低い水準といってもよさそうなものです。いうまでもなく、現役世代向けの現金給付や医療などの公共サービスの水準が高いフランスやスウェーデンでは、その社会的支出を支える国民負担率が高いわけでして、その3分の2程度の国民負担率しかない日本では、現役世代向けの現金給付や公共サービスがクラウディングアウトされるのは当然の成り行きでありましょう。とまあ、原田氏の言いがかりがいかに都合のいい数字だけを抜き出しているのかは、私のような素人でもググって調べることができるところでして、一部のリフレ派と呼ばれる方々には「ダメな議論」のネタに事欠きませんね。

実は上記の表で注目すべきは年金などの現金給付の水準だけではなく、医療などの公共サービス、特に「その他」に分類される公教育などの水準の違いです。高齢化率が低く格差の大きいアメリカは例外として、イタリアや日本では公共サービスが削られているにも関わらず財政状況は厳しいですね。まあ原田氏の言いがかりは、租税負担率が40%を超えながら年金の対GDP比が日本の1.5倍以上となっているイタリアにはある程度あてはまりそうではありますが、公共サービスが削減されてしまうと、年金やBI(!)がいくらあってもそのサービスを購入することができなくなります。つまり、「再分配された収入で購入すべき財やサービスが、市場で適切に価格調整され、適切な水準や数量で提供されるとは限らないわけですから、市場で提供される財やサービスがそもそも粗悪であったり高額で希少だったりすれば、結局はそれらの方々の収入では適切な財やサービスを購入できず、再分配の目的が達成されない可能性」があるわけで、イタリアや日本のように現金給付に偏った国では、すでに適切な公共サービスが供給されない状況になりつつあるのではないでしょうか。

結局のところ、「医療、介護、保育、教育といった対人サービスによって供給される現物給付は市場の失敗により過小供給となり、結局お金のない人は利用できないことにな」るわけでして、公共サービスに従事する労働者の人件費を削減して供給を先細りさせるのが緊縮財政の一番の害悪なのですが、「安定財源の確保の先送り」を主張するのが、「経済を分かっている」と豪語される方々であるというのが頭の痛いところですね。と思っていたら、

 リフレ派はただ単に金融政策のスタンス変更でデフレ脱却を目指す人たちのことであり、「派」といっても価値観や政治信条、もともとの経済学の素養(マルクス経済学、ポスト・ケインジアン、新古典派、ニューケインジアン、経済思想史など)もバラバラである。

 だがネットでは主に匿名の人たちを中心に、「リフレ派は再分配問題に熱心ではない」というデタラメが跋扈することもある。ここでは上記の「派」としての違いを十分に考慮にいれていただいた上で、いわゆるリフレ派の人たちが書いてきた書籍ベースでの再分配問題についてのブックリストを編んでみた。もちろん包括的なものではなく、各論者の代表的なものだけに限る。また専門論文や雑誌掲載のものは除外した。

(略)

3)原田泰『若者を見殺しにする経済』

原田さんらしい鋭い経済学からの視点とデータ分析で論じた快著である。(略)丁寧で率直な主張が持ち味だ

■[経済]リフレ派と再分配問題:読書リスト基本編(2014-02-27 Economics Lovers Live ReF)
※ 強調は引用者による。

だそうですよ。私のような実務屋からすれば「熱心ではない」とかそういう次元じゃなく、再分配の歴史的経緯も制度も実務の現場もご存じないだけのことなんじゃないかと思うんですが、いやまあ素人なんかより「経済学的に正しい」「経済を分かっている」先生のおっしゃることが正しいのでしょうから、本エントリはデタラメの可能性があるかもしれません。ご覧になる際はくれぐれもご注意くださいね(はあと)。