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2014年01月21日 (火) | Edit |
ブログでエントリ起こすまででもないような細々としたネタはTwitterにでも書いた方がいいのかもしれませんが、ブログ名でROM専用に作ったTwitterアカウントには鍵をかけているので(そもそもtweetはゼロですし)、やっぱりブログに書いておきます。

・都知事選の争点?

拙ブログでは前々々回の都知事選で「マニフェスト」なる言葉の空虚さを取り上げていました(久しぶりに読み返してみると、ことごとくリンク切れになっていて候補者のひとりは鬼籍に入られていたりと、7年という時の流れを感じますなあ)が、今回はマニフェストの空虚さ云々よりもさらにひどい状況になっているように思うところです。民主主義を熟議でどうたらとかいってる場合ではありませんね。

そういえば文科省で「ネット熟議」を先導されていた方は、津波被害とか原発事故を「人災だ」といって犯人捜しをしているような方に去年の総選挙で敗北した方でした。事ほどさように民主主義というのは簡単に危うい方向に流れがちでコストのかかる厄介なものなのですが、「自分で決めたことに拘束される」というのが民主主義ですから、どんなに荒唐無稽な主張でも選挙の結果として受け入れるしかないというのが、先人たちが幾多の血を流しながら獲得した現実でもあります。

でまあ、なんでも今回の都知事選では「脱原発」が争点となっているそうで、良識的な方々からは「エネルギー政策は国が決定するもので都知事の権限ではない」とか「原発もない東京が脱原発なんて無責任だ」という誠にもっともな批判が巻き起こっているところですが、個人的には永松先生のこの見方に賛同しないでもありません。

念のため、私自身は現在の経済活動を維持するためには、「脱原発」を現時点で主張することは非現実的だろうという立場でして、脱原発が都知事選の争点になることには大いに疑問を感じてはいますが、永松先生が指摘されるように、最大の電力消費地である東京都において「脱原発が可能になる程度に経済政策を縮小する」という公約を掲げる候補がいてもおかしくはないだろうと思います。そして、その候補者を選んで経済縮小の道を歩む事態も、「自分で決定したことに拘束される」民主主義の帰結として可能性がないわけではありません。なお念のため、永松先生のキャッシュ・フォー・ワークの取組は大きな意味があったと思いますが、「利権陰謀論という結論を書きたくて」しょうがない一部のリフレ派の著書に「迫力を感じる」といってしまう永松先生の感覚には疑問を持っております。

最近飯田先生ばっかりネタにしてしまっていて心苦しいのですが、そうはいってもネタの宝庫なもので。。

飯田(泰):
それについては、ぼく個人の意見としては、とりあえず再稼働はしょうがないだろうと。その後、現存の耐用年数の過ぎた原発は徐々に、ゆっくりと縮小していくという論なんですが、それ以上に、再稼働についても、みなさん忘れている部分があると思うのは、国民の大多数が、もう再稼働させるなと思っているのであれば、それは止めるしかないんです

原発のリスクというのは、もちろん計量できる部分、経済的な被害のように計量できる部分もあるんですが、なんだかいや、という感情で、これはすごく大切なことだと思うんですよ。

国民のなんだかいやという感情が、どの程度なのかというのをしっかり調べるべきだと、世論調査でもいいし、国民投票は難しいですが、世論の大勢が、再稼働もいやですとなったらそれに対する経済的ダメージを引き受けるしかない、という意思決定なんですね

その意味で原発問題というのが、議論をする対象ではなくて、意思決定しなきゃならない局面になっている。その時に、僕自身は、何となく嫌だからというのは、一番重要な基礎になる考え方ではないかと思います。そこで、僕自身は、「再稼働してゆっくり撤退」。でもやるべきこととしては、とにかく、いやな人が多いのか少ないのかを調べて、その結果再稼働するのかしないのかを、さっさと決めるというのが大切だと思います

「震災を超克せよ!」復興、原発…4時間討論(全文文字起こし)第3回(2012/03/08) - みなと横浜みなみ区3丁目
※ 以下、強調は引用者による。

というわけで、民主主義の学校である地方自治体の首長選挙の結果によって、最大の電力消費地である東京都のトップがどのような意思決定を行うことになるのか、いまからたいへん楽しみですね(棒)

やっぱり・・・

リフレ派と呼ばれる方々も、いざリフレーション政策(らしきもの)が実施されてから案の定離散状態になっているようですが、傍から見ていると彼らをつなぎ止めていたのはリフレーション政策への支持ではなくて増税忌避ではないかと思うことしきりでして、そのものずばりのエントリを見てしまいましたのでメモ。
2014-01-17 日本が無税国家になっては悪いのか
本文は引用しませんので興味のある方はリンク先をご覧いただきたいのですが、まあせめて「減税することで名目GDPが増加して税収が増えるから増税反対」というならまだいわんとすることは伝わるのですが、無税国家ですかそうですか。無税国家でどうやって再分配するのか大変興味があるところですが、そもそも本気でそんなこと考えてないからこその無税国家礼賛でしょうから聞くだけ野暮なのでしょう。不肖私のようなリフレーション政策支持で再分配重視という方も含まれている(もちろん私のトッププライオリティは所得の再分配です)とは思うのですが、「リフレ派」という称号さえ得ればどんな主張とセットでも許されるという風潮を作ってきた一部のリフレ派と呼ばれる方々には、リンク先の主張についても見解を伺いたいところですね。あ、リフレ派は派閥じゃないから他人の主張は関知しないんでしたか。

・裁量がないのが官僚的?

上記エントリの方のTwitterを拝見したら、こんなtweetがRTされてました。

リフレ派の方々は官僚の裁量的政策を厳しく批判されていたと思うのですが、非裁量的マニュアルに「官僚的なものの非道を学ぶ」ところがあるとは存じませんでした。

 「コミットメント」とは、さまざまなショックへの政策対応を過去に約束した通りに行うことを意味し、他方で政策当事者が状況に応じてその時点時点で適切だと思う政策を採用することを「裁量」という。

 コミットメントの問題はいわゆる「時間非整合性」の問題でもある。(略)しかしこの約束が守られないことを民間が予想したらいま書いたようにその政策の帰結は思わしいものではなくなる。

 そのため中銀は「裁量」を禁じて、低インフレ政策に「コミット」することを公表するのである。そのことが予想インフレ率を低位に導くことで、失業をそれほど悪化させずに、インフレを改善することが可能にもなっていくのである。したがって「裁量」に比較して「コミットメント」は経済厚生をより改善する仕組みだと考えられる。

■[経済]チャールズ・プロッサーのコミットメントと裁量についての講演(2007-04-16) - Economics Lovers Live ReF

受験生がどんな行動を取ってくるか、あるいは受験当日にどんな事態が発生するかというのは、当然ながら事前にすべてを把握することはできません。その対応が現場の裁量に任されていたらおそらく全国の受験生は大混乱に陥ると思うのですが、「「裁量」に比較して「コミットメント」は経済厚生をより改善する仕組み」というのは、金融政策にだけ適合して試験には合わない理論なのでしょう。それにしても、「センター試験のマニュアルのしんどさ」=「現場だけが責任を負う構造」というのもなかなか理解しがたい論理展開ではありますが、なんとか理解しようと記憶をたどってみると・・この方は陰謀論的リフレ論者だったということに落ち着きそうです。まあ、この先生はご自身の言葉を自ら否定される方でもありますので改めて考えるまでもないのかもしれませんが、上記エントリの方も陰謀論には親和性が高そうでして、あ、リフレ派は派閥じゃないから他人の主(ry

ところで、

maturi
リフレ派をDisらないと死んじゃう病 2014/01/04

そんなつもりはないんですけど、どうしてもあの界隈がネタにしやすいのかもしれませんねえ。。
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2014年01月19日 (日) | Edit |
拙ブログでも何度か取り上げている「地方公務員の任用は行政処分である」論について、hamachan先生が歴史的経緯から紐解いて説明されていますので、こちらでも引用させていただきます。

その前に若干言い訳がましいのですが、この問題のややこしいところは、自分でも気がつかないうちに「任用は労働契約ではない」論にすり替わってしまいがちなところにあります。実をいえば、HRmicsで連載させていただいている「公僕からの反論」でも、ここ2回連続の記事で「公務員の任用は労働契約ではなく行政処分である」と堂々と書いてしまっていますが、この書き方はかなりミスリーディングです。公務員の任用はまぎれもなく労働契約なのですが、行政法上は行政庁が特定個人の権利変動を行う「行政処分」に位置づけることができるという点で、「地方公務員の任用は行政処分である」というところまでは言えるでしょう。しかし、行政処分と労働契約が排他的な関係にあるとする必然性があるわけではなく、「労働契約ではなく行政処分である」は言い過ぎですね。

というわけで、私のような下っ端地方公務員だけではなくてキャリア官僚までが、「任用は労働契約ではなく行政処分である」と考えてしまっている状況について、hamachan先生がぶった斬りにされています。

2 公務員は現在でも労働契約である
 
 上で述べた「戦後制定された実定法」は、現在でもちゃんと六法全書の上に載っている。本誌二〇一〇年一〇月号に掲載した「地方公務員と労働法」で述べたように、一九四七年に制定された労働基準法は、その第一一二条で「この法律及びこの法律に基づいて発する命令は、国、都道府県、市町村その他これに準ずべきものについても適用あるものとする」と規定している。これは、民間労働者のための労働基準法を公務員にも適用するためにわざわざ設けた規定ではない。制定担当者は「本法は当然、国、都道府県その他の公共団体に適用がある訳であるが、反対解釈をされる惧れがあるので念のために本条の規定が設けられた。」と述べている。労働基準法制定時の国会答弁資料では「官吏関係は、労働関係と全面的に異なった身分関係であるとする意見もあるが、この法律の如く働く者としての基本的権利は、官吏たると非官吏たるとに関係なく適用せらるべきものであつて、官吏関係に特有な権力服従関係は、この法律で与へられた基本的権利に付加さるべきものと考へる」と述べていた。戦前のドイツ的官吏身分の思想を、明文で否定した法律である。
 集団的労使関係をめぐる後述の経緯で非現業国家公務員は労働基準法が全面適用除外となったが、非現業地方公務員には現在でも原則として労働基準法が適用されることは周知の通りである(いや、実は必ずしも周知されていないようだが。適用される労働基準法の規定の中には、「第二章 労働契約」も含まれる。第一四条(契約期間の上限)、第二〇条(解雇の予告)も適用されるし、解雇予告の例外たる「日々雇い入れられる者」等もまったくそのまま適用される。労働基準法は、非現業地方公務員が労働契約で就労し、解雇されることを当然の前提として規定しているのである。
 労働基準法のうち適用されない規定は、第二条の労働条件の労使対等決定原則など、集団的労使関係の特性から排除されているものであって、就労関係自体の法的性格論(公法私法二元論)から来るものではない。この点は、全面適用除外となっている国家公務員法でもまったく同じである。周知のごとく、二・一ストをはじめとする過激な官公労働運動に業を煮やしたマッカーサー司令官が、いわゆるマッカーサー書簡において、「雇傭若しくは任命により日本の政府機関若しくはその従属団体に地位を有する者は、何人といえども争議行為若しくは政府運営の能率を阻害する遅延戦術その他の紛争戦術に訴えてはならない。何人といえどもかかる地位を有しながら日本の公衆に対しかかる行動に訴えて、公共の信託を裏切る者は、雇傭せられているが為に有する全ての権利と特権を放棄する者である」と宣言した。これを受けて行われた国家公務員法改正で、(団体交渉権や争議権を否定するのみならず)勢い余って(一部に労使対等決定原則を定める)労働基準法まで全面適用除外にしてしまったのだが、それは少なくともアメリカ側当事者の意識としては、官吏は労働契約ではないからなどという(彼らには想像もつかない)発想ゆえでは全くなかったことは、そのマッカーサー書簡の中に「雇傭せられているが為に有する全ての権利」云々という表現が出てくることからも明らかであろう。
 なお、戦後六〇年以上経つうちに労働行政担当者までが(大先輩の意図に反して)公法私法二元論に疑いを持たなくなったようで、二〇〇七年制定の労働契約法は国家公務員及び地方公務員に適用されていない。通達では「国家公務員及び地方公務員は、任命権者との間に労働契約がないことから、法が適用されないことを確認的に規定したものである」などと述べているが、自らが所管する労働基準法の明文の規定に反する脳内法理によってそれと矛盾する実定法を作ってしまうほどにその病は重いように見える。ちなみに、労働基準法が適用除外されている家事使用人についてすら、労働契約であることに変わりはないからとして、労働契約法は適用されているのである。

非正規公務員問題の原点@『地方公務員月報』12月号(2014年1月 6日 (月)) - hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)
※ 以下、強調は引用者による。

まあ、「労働基準法を超える労働条件を認めることはコンプライアンスに反するので、オンブズマンに申し開きが立たない」という上司に囲まれている者としては、この労働行政担当者の思いがひしひしと伝わってきます。全体の奉仕者たる公僕が、労働基準法などという岩盤規制に守られるなんてことが許されるはずはないというのがこの国の民意でしょうからね。

しかし、公僕だから滅私奉公して当然というのは表の理屈で、日本という国自体が滅私奉公を前提とした雇用慣行を構築してきたのは周知の事実ですね。公僕だからといって人ごとだと思っていると、それは民間の雇用慣行にも「役所がやってんだからうちの会社はもっと徹底しないと競争に負けるぞ」とかいいながら取り入れられていく(実際は、親方日の丸の役人だけ身分保障があるのはけしからんという労働者側の要求もあったでしょうけど)わけでして、「他人の職業や待遇について「経営者目線」で批判することは回り回って労働者であるご自身に跳ね返ってくる」という現象は、もうすでに起きていたというべきかもしれません。

ただし、戦前と違ったのは、戦前型システムにおいて公務部門労働力の多数を占めていた私法上の契約による雇員・傭人という枠組が、戦後型システムにおいては全面的に否定されてしまっていたという点であった。戦前の高等官に相当する六級職試験(後の上級試験)、戦前の判任官に相当する五級職試験(後の中級試験)に加え、戦前の雇員に相当する四級職試験(後の初級試験)という身分的枠組が次第に形成されていく中で、公法私法の区別なく全員が公務員というアングロサクソン型システムは、全員が(公法上の)官吏という世界のどこにも存在しないシステムに転化していったのである。

(略)

 以上の話の流れは、ある程度まで民間労働者に適用される労働法と並行している。もちろん、戦前システムで官吏と対比された雇員・傭人が属する民法の雇傭契約も、それに付加する形で終戦直後労働基準法等で規定された労働契約も、ジョブ型雇用を前提とした法制度である。すなわち、労働者の採用とは、職務の欠員補充の方法であって、職務への採用であり、労働者に特定の職務を与えることであって、労働者にある身分を与えることではない・・・という大前提で構築されている。
 ところが、現実の日本社会で慣習的に発展してきた雇用システムにおいては、雇用契約に職務の定めはなく、使用者の命令に従っていかなる職務をも無限定に遂行する義務を負う代わりに、その職務がなくなっても解雇が正当化されず、企業内に配転可能性がある限り雇用を維持することが規範となる。筆者はかかる雇用のあり方をメンバーシップ型と呼んできたが、その源流をたどると、戦前の官吏の無定量の忠誠義務に至るのかも知れない。いずれにしても、実定法の前提と異なる慣習法が社会の全面を覆うようになる中で、紛争処理を迫られた裁判所は現実社会のルールに沿った形で判例法理を確立してきた。それが、整理解雇法理、就業規則の不利益変更法理、配転法理など、日本独特の労働法理である。かかる世界においては、採用とは労働者に「正社員」という身分を与える行為に転化する

「同」

こうしてみると、公務員の雇用関係が法律上行政処分だと言い張ってきた公法私法二元論的な理屈が、民間の雇用慣行にも影響を与えたのは事実でしょう。それによって高度成長期にいいとこ取りできた「メンバーシップ」型の日本型雇用慣行が形成されたものの、オイルショックや円高不況を通じてそれが「岩盤規制」となる素地にもなっていったのだろうと思います。そういえば、公務員の労働基本権は法律で制約されていますが、民間でも労働組合の組織率は下落していく一方でして、民間の労働者の皆さんは自ら労働基本権を放棄されているようにも見受けます。本来の労働組合の表向きの担い手であるはずの社会民主主義的な考え方が根付くことのないこの国では、日本的左派的思想をお持ちの方が「メンバーシップ型」への強い郷愁をもって「会社は安易に首を切らず正規雇用を増やせ!」とか主張するのみならず反政府的な政治闘争に明け暮れて、それに愛想を尽かした普通の労働者が自ら労働組合の組織率を低下させていくという悪循環は、公務員の労働基本権の制約がある限り顧みられることはなさそうですね。そのような観点から、hamachan先生が上記論考の中で「ジョブ型公務員」を提案されている意味を考える必要があるように思います。

2014年01月19日 (日) | Edit |
ネタ自体はいろいろあるのですがブログを更新する余裕がなくなってきて、以前Google Readerで登録していたブログ主が軒並みTwitterに流れて行っている理由が何となくわかってきました。なるほどTwitterが「簡易ブログ」と呼ばれるわけですね。

ということで細かいネタを適当にやっつけてしまいますが、まずは雇用保険の離職理由について。拙ブログでの飯田先生のポジションは、当初は「リフレ派の若手論客」→「経済学的思考のライフハック実践者」→「経済学的思考のエバンジェリスト」というところで参考にさせていただくことが多かったのですが、いつのころからか「一部のリフレ派の主張の代弁者」→「リフレーション政策を含めて実務をご存じない方」「ライフハック的思考から抜け出せない方」と変遷してきております。まあこんな場末のブログですからここでどんな評価をされようが飯田先生の評価はビクともしないでしょうし、そもそも公務員の言うことなんて誰も聞いてないでしょうけれども、こういう発言を見るとやはり一言言いたくなるわけです。

「できそうなもんだ」って何を根拠におっしゃっているのかわかりませんが、老婆心ながら離職票(正確には離職票-2)の離職理由欄をご覧になってから発言された方がよろしいのではないかと思います。もう少し面倒な実務上の取扱からいえば、離職票に記載された離職理由というのは、雇用保険上の特定受給資格者または特定理由離職者の該当の有無を確認するためのもので、実態上の離職理由を判断するのには適していません。

こちらのサイトに記入例があるのでそちらをご覧いただければわかりやすいのですが、

雇用保険の具体的な手続き(ハローワークインターネットサービス)


離職理由欄は大区分で「1 事業主の倒産等によるもの」「2 定年、労働契約期間満了等によるもの」「3 事業主からの働きかけによるもの」「4 労働者の判断によるもの」と4つに区分されています。これだけを見ると、3は解雇で4は労働者の勝手な退職に見えるかもしれませんが、大区分の中の各項目を見ると、例えば3(2)の「重責解雇」は労働者の重大な責めに帰すべき解雇でして、就業規則の適正な定めに基づくものであれば普通解雇または懲戒解雇が可能な(解雇権の濫用に当たらない)事案である可能性が高いと推測できます。一方、4(1)の「職場における事情による離職」には、⑤に遠隔地への転勤のために通勤できなくなって離職した場合が含まれていますし、同様の理由は4(2)の「労働者の個人的な事情による離職(一身上の都合、転職希望等)」の⑤にもあります。4(1)には職場のパワハラやいじめに耐えられなくなった場合(②)も含まれていますし、4(2)①の「職務に耐えられない体調不良、けが等があったため」は通常であれば普通解雇の理由となり得るものですが、もしかすると労災の可能性も考えられます。便宜上項目が分けられてはいますが、これらの理由が複合的に重なって離職せざるを得ない場合もあるでしょう。

さて、これらのデータから、離職理由を単純に類型化して公表するとどんなことが考えられるでしょうか。労働者側なら3(2)は会社の言いがかりだと主張するでしょうし、使用者側はもともとその労働者は普段から勤務態度がよくなかったなどの理由を挙げて正当化するでしょう。という事態をあらかじめ防ぐため、離職票-2には事業主と労働者それぞれが理由を記載する欄が設けられていて、それが一致する場合に離職理由が認定され、その理由に応じて雇用保険上の取扱(支給額、支給期間)が変わってくることになります。

特定受給資格者及び特定理由離職者の範囲の概要(ハローワークインターネットサービス)


もちろん、離職理由について労働者と使用者の見解が分かれる場合も往々にしてありまして、その場合はどちらかがハローワークに申し立てをすると、労使双方に事情聴取や証拠による事実確認等が行われてハローワークが認定します。それでも不服がある場合は労働保険審査会で審査されることになるわけで、まあこれが典型的な個別労働紛争につながっていくわけですね。

じゃあなんでそんな離職理由を離職票に記載させる必要があるかというと、上述の通り離職理由によって特定受給資格者または特定離職理由者に該当するかどうかを確認し、それらに該当する場合は離職した労働者に対する雇用保険の支給期間や支給額が優遇される一方で、事業主都合(といっても必ずしも不当な解雇ではないことに注意してください)と判断される場合は使用者側が各種の助成金を受給することができなくなるという雇用保険法上の運用をしなければならないからです。個別労働紛争が増加していて離職理由を巡る対立もあるとはいえ、圧倒的多数の通常の雇用保険の手続きではこのような処理が日々滞りなく進められているわけです。

当然のことながら、手続きにいちいち時間をかけて争うより次の仕事を探そうという労働者の判断や、会社の対面や業務を優先するためにある程度労働者の言い分を受け入れてやろうという会社の打算もあって手続きが進められていきます。制度というのはそうした判断や打算を促すために設計されているわけで、手続き上離職理由が認定されたデータがあることと、それが実態をどの程度反映しているかは全く別の理由として考えるべきものでしょう。

というような実務に対して、それを「データがあるなら公表すればいいだろ」というのがいかに乱暴な議論であるかは改めていうまでもないでしょう。むしろ問題は、上記のような特定受給資格者または特定理由離職者の離職理由の区分が適当なものなのかという点にあるわけで、もちろん、労使の当事者の方々はそうした問題意識を持って議論されています。hamachan先生が「地味ですが結構グッジョブ」と評価される議論はこのようなものです。

(2)基本手当の水準(給付率、給付日数)について
○ 基本手当の水準(給付率、給付日数)については、現在の失業等給付の積立金残高や収支状況を考慮し、雇用のセーフティネットを拡充する観点から、給付面での充実を図るべきとの意見がある。一方で、近年の制度改正により被保険者範囲が拡大されたこと等による雇用保険財政への影響等を考慮し、その在り方を慎重に考えていくべきとの意見があり、これまでも議論がなされてきたところである

○ このような状況を踏まえ、本部会では、近年の制度改正による効果の把握を行うべく、基本手当の給付日数及び給付率について見直しがなされた平成12年及び15年の雇用保険法改正前後の時期を中心に、基本手当受給者の就職状況について調査・検証を行った。

○ その結果、
・労働者代表委員からは、①平成12年及び15年の法改正に伴う所定給付日数や給付率の見直しの影響により、基本手当の平均受給日数や平均受給額などの低下が見られること、②特定受給資格者以外であっても、様々な理由からやむを得ず離職を選択した者もおり、必ずしも離職前から再就職の準備ができているわけではないことから、中長期的なキャリア形成支援措置や育児休業給付等の給付に優先して、基本手当の改善を行うべきであるとの意見があった。併せて、基本手当の支給決定における離職理由の認定に当たり、賃金の不払い・遅配、時間外労働・過重労働等、その離職理由についてやむを得ない面もあったと考えられるものの、その事由が連続していなかったり離職直前でなかったこと等により、現行の特定受給資格者の基準には該当せず、「自己都合」離職となっている事例については是正すべきとの意見があった。

・使用者代表委員からは、平成12年及び15年の制度改正による基本手当の所定給付日数や給付率の見直しは基本手当受給者の再就職状況に大きな影響を与えていないこと、これらの制度改正以降、就職が厳しい者に対しては個別延長給付等の暫定措置及び求職者支援制度による手当てがなされており、セーフティネットは整備されているとの意見があった。

○ このため、基本手当の水準については、今後の暫定措置の取扱い、基本手当受給者の就職状況の動向、基本手当支給額と再就職時賃金の状況等を踏まえて、引き続き、今後の在り方について検討すべきである。また、労働者代表委員から指摘のあった離職理由の取扱いについては、特定受給資格者として整理すべく、基準の見直しを行うべきである。

資料No.2 雇用保険部会報告(案)(PDF:302KB)」(第97回労働政策審議会職業安定分科会雇用保険部会資料

こうした雇用保険の実務上の離職理由については、ここで議論されている点を十分に反映する必要があると思います。離職理由による取扱の違いというのは、制度上はいろいろな打算が働くように設計されていて制度運用の実務上は処理の迅速化や平準化のためにそれも必要な措置ではあるんですが、当事者にとっては納得のいかないこともよくあります。こうした機微はやはり労使の当事者による話し合いによって線引きすることが望ましいでしょう。

それとは全く別の論点として、企業の労務管理を外部的に評価するための指標は必要だろうと思いますが、それは離職率や離職理由だけで判断できるものではないと考えます。むしろ日本的雇用慣行の上では、「見返りのある滅私奉公」を堅持している企業と、各種コンサルや社労士などの指導の下で「適法」に処理している企業を見分けることは難しくなります。逆に適法な労務管理をしていても中小零細企業などで待遇や職場環境が悪ければ離職率は低くなるでしょう。労働法規はそうした労務管理を適切に運営するためのものですが、戦後一貫して続けられた減税による財源調達機能の弱体化のため、労基法を遵守するための国所管の労基署は縮小され、集団的労使関係を構築・維持するための都道府県所管の労政事務所が設置されなくなっている状況です。労基法の違反がなく、労働組合の組織率が高く、産業民主主義が適切に機能しているか否かをデータ化するのは公的機関の重要な役割だろうと思うのですが、現状を見るにつけ前途は多難といわざるを得ませんね。

2014年01月02日 (木) | Edit |
昨年中は多くの方々にTB、コメント、拍手、ぶくま等々いただきありがとうございました。
本年も引き続きご愛顧のほどよろしくお願いします。

というわけで初詣しておみくじ引いてみました。

【大吉】 (No.3873) モナー神社
願事 : 他人の助けありて思いのほか早く調う
待人 : 待てば来たる
失物 : 出づる 高い処
旅立 : 早く行くが利
商売 : 見込み確かなれば儲け有り
学問 : 労多いが成果有り
争事 : 初めは悪く後勝つ
転居 : 差し支えなし 上吉
病気 : 快癒すべし
縁談 : 良縁あり 人に頼んで進めよ

モナー神社詣でも今年で7年目となりまして、これまでの戦績が大吉→吉→吉→吉→大吉→大吉→大吉と、大吉が吉に勝ち越しました(というか、それ以外のくじはなさそうですね)。

年賀状も書く暇がないうちに正月に突入したり、家族を含め体のいろいろなところにガタが来はじめていたりしてますが、今年も二つの意味でいきぬいていきたいと思います。


…というところで例年のご挨拶は終わるのですが、今年の、というより去年の紅白があまりに衝撃的だったのでメモしておきます。といいながらここ数十年は紅白をまともに見たことがありませんでしたし、紅白は今年だけじゃなく盛り上がっているのかもよくわかりませんが、「あまちゃん」の舞台となった市にご縁がある者として「あまちゃん特別編」は見逃せません。ということで(リアルタイムでは別番組を見て)正月の朝から紅白を見ていたのですが、以前見たときには感じられなかった「お祭り騒ぎ感」が今回の紅白では何倍にも増幅されていたように感じました。

私自身は子どもの頃は歌番組を見ていたものの、中学高校と洋楽とかロック方面を聞くようになってからあまり見ておらず、年末のレコード大賞とか紅白も家族が見ているのを横目で見るくらいでした。むしろ年が明けてからの正月番組のほうが楽しみだった私からすると、最近はレコード大賞が大晦日に放送されず、格闘技も一時の勢いがなくなり、正月の定番バラエティがネタ番組くらいしかなくなっている中で、その隙を縫って紅白がいろいろな要素を取り込んできているような印象です。

例えば、「いつかは紅白」というのが歌手だけのものではなくなって、芸人やその年に話題になった人の晴れ舞台になっているというか。最近の紅白では副音声も放送していて、テリー伊藤とNHKの橋本アナウンサーが出場者のほかにゲストを呼んで好き勝手にしゃべっているんですね。そのゲストには出場者も合間に来るものの、「今でしょ」の林修氏から始まって大久保佳代子とか壇蜜といった2013年にブレイクした芸人(?)が出演していて、NHKらしくない話を聞きながら紅白を見るというのが新鮮な経験でした。

副音声ではほかにもT.M.Revolutionによる「女々しくて」熱唱とか、コロッケによる和田アキ子コーラスというネタもありましたが、なんといっても壇蜜の話が深いですね。大久保佳代子を「毒舌は大久保さんにしかできないから他の人にしてほしくない」と的確に評価して本人を泣かせたり、福山雅治のときに「一人でいることが仕事だと思っているので彼氏は作らない。福山さんもそうかも」とか「人との付き合いが苦手だから自分から愛さないといけない。周りの人とうまく付き合うというのは誰にでもできることじゃないから」とか話して橋本アナを感動させたり、壇蜜自身は「テレビというものに全く期待していない」といいながら、大久保をして「悪口を言わないで周りの人の大事なものを守る」と評させる理由が何となくわかりました。壇蜜が出るテレビはあまり見たことがないのでどこでも話していることなのかは知りませんが、テレビでこういう発言ができるタレントは貴重なのかもと思います。日舞をマスターしているというのも貴重ですね。

お祭り騒ぎ感という点では、演歌系の歌手が「48」系の賑やかし効果で番組にうまく融合していましたし、2大ゆるキャラのくまもんとふなっしーの存在感がさすがでした(イカ大王はイマイチ影が薄かったですが)。綾瀬はるかの歌のコーナーではその思いと人柄の良さがよく現れていて素直に感動しましたし、何より紅組司会でありながら番組を支配してしまっていたのが斬新です。その司会の迷走ぶりが、かえって「あまちゃん」特別編にうまくつながっていったように思います。

その「あまちゃん」特別編のポイントは、こちらのtweetにまとめられていますね。

紅白でドラマがほぼ完全な形で上演されたというのも初めてだと思いますが、それが見事に本編とつながっていたのは、クドカンの脚本はもちろんのこと、ローカルでありながら全国で盛り上がった「あまちゃん」と紅白のお祭り騒ぎ感が、うまくマッチしていたからこそ可能だったのではないかとも思います。いやまあ私が気がつかなかっただけで紅白は昔からお祭り騒ぎだったのかも知れませんが、個人的には、大友良英さんが「暦の上ではディセンバー」の後半でシールドを差し替えて、本気ギターを弾いているのを聴けてラッキーです(メインのスクリーン(?)の右隅に常に映り込む大友さんのシルエットに、NHKの大友さんへの配慮が感じられました)。

さらに、「地元に帰ろう」の最後でアキとユイが「いわてー!」と叫んだあとで陸前高田市からのドリカム中継へと続く流れは、さすがの演出です。吉田美和が歌う前から涙ぐんでいて、見ているこちらもうれしくなりました。震災の記憶が風化している中で、多くの国民にとってのこれからの被災地との関わり方は、紅白のようなお祭り騒ぎ感を通じてということが中心になると思います。お祭り騒ぎ感が心地よかった今回の紅白は、その一つの成功例となりそうな気がします。記憶は風化するという前提のうえで、被災地に寄り添うお祭り騒ぎを続けていくことが重要ではないかと思った年末でした。

(追記)
hahnela03さんから重いご指摘をいただきました。

マシナリさんへ、届きますように。 



あけまして おめでとうございます(2014-01-03)」(hahnela03の日記

正直なところいつもの新年のご挨拶だけで終わらせようと思っていたのですが、紅白のことを書いておくべきだと思ったのには二つ理由があります。一つは本エントリに書いたことの繰り返しですが、「多くの国民にとってのこれからの被災地との関わり方は、紅白のようなお祭り騒ぎ感を通じてということが中心になる」状況では、震災を思い出すためにお祭り騒ぎを利用することは不可欠だろうと考えているからです。ただし、そのためには「心地よいお祭り騒ぎ」であることが必要であり、個人的には今回の紅白はそうなっていたと思います。
もう一つは本エントリに書かなかったことですが、一つ目の理由により、偽善であっても何であっても「心地よいお祭り騒ぎ」をすることそれ自体が必要であって、それが「心地よい」限りにおいては、それをやる側の意図を追求する必要は乏しいと考えるからです。ただし、このことは実際に被災された方によっては賛否が分かれるデリケートな問題だろうと思います。そのため、本エントリに書くことは控えておりました。
直接の被害を受けていない私がこようのなことを書くのは差し出がましいのかもしれませんが、被災地支援業務に当たっている者として杉良太郎の慈善活動についての考え方に賛同しております。

226 名前:名無しさん@涙目です。(catv?)[sage] 投稿日:2011/03/31(木) 20:31:44.38 ID:YF7PoJbK0
インタビューで「偽善とか売名と言われることもあると思いますが…」と聞かれて、
「ああ、偽善で売名ですよ。偽善のために今まで数十億を自腹で使ってきたんです。私のことをそういうふうにおっしゃる方々もぜひ自腹で数十億出して名前を売ったらいいですよ」
と啖呵切ってて迫力あった。


「杉様はガチ」 杉良太郎の被災地支援が桁外れに凄い件

私自身最近は現地に行くことが激減しているところではありますが、ほかに魂胆があるとしても被災地のことを思い出す機会があることは、何もしないでただ風化していくよりはマシだとは思います。そのため、これから記憶が風化していく中で「心地よいお祭り騒ぎ」をしながら、少しでも思いをはせる取組を続ける必要があるのではないかと考えるのです。もちろん、その魂胆がどうであれ、それが被災地を不当に貶めるような内容だったり、風評被害を助長するような内容であっては絶対にいけません。私が見た限り、今回の紅白ではそのような部分はなかったように思いました。

この考え方には賛否があることは承知しておりますが、あえて意見表明として本エントリはこのままアップしたいと思います。

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