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2013年12月31日 (火) | Edit |
前回エントリでは、dojinさんと障害者制度の改正議論について議論させていただいた経緯も引用しておりましたが、そのエントリでは、「普段各方面からのあれやこれやの原則論とか思い入れとか横やりに晒されて、それに対応することを仕事をしている身からすると、「「(政治家フォローの有無含めた)厚生労働省マンパワー不足仮説」の妥当性がどの程度あるか、その一点」に問題が集約されてしまうことには少なからず違和感がある」というコメントもさせていただいておりました。その違和感というのは、これも何度も引用させていただいている権丈先生の言葉ですが、

平等・格差は問題だ、貧困問題は深刻だと言うくらいで、世の中動くもんじゃない。18 世紀の半ばに産業革命が起こってすぐから、深刻な貧困問題を訴える社会運動家は、ずっといた。だけどな、格差問題、貧困問題を解決するためには、所得の再分配が必要なわけで、その再分配政策が大規模に動きはじめるのは、高所得者から低所得者に所得を再分配するその事実が、成長や雇用の確保を保障するということを経済理論が説明することに成功したときからだ。現状の所得分配に対する固執はいつでもどこでもとてもおそろしく強く、格差は問題だ、貧困問題は深刻だと言うくらいで、所得分配のあり方が大きく動くほど、世の中は甘くないんだよ」

勿凝学問189 「乏しきを憂えず等しからざるを憂う」ようなできた人間じゃないよ、僕は 日本財政学会シンポジウムでのワンシーン(2008年10月29日)(注:pdfファイルです)」(Kenjoh Seminar Home Page
※以下、強調は引用者による。


ということして、政策実現のための合意形成というのは、何かが問題であると認識されることだけでは不十分で、その問題がどのように社会的に、あるいはその合意形成が必要な相手方にどのようなメリットがあるかを示さなければなりません。交渉ごとというのはだいたいそういうものだろうと思うわけで(政策形成が経済学上の理論だけで決まるわけではないという歴史的経緯は、「現実味に欠ける仮定をおいた経済理論がなぜ政策に反映されていくのか、それが現実の世界で慣行として形成されて法理を形成して…、という制度が響き合う機微」を感得できる金子先生の業績でご覧ください)、大山『生活保護vs子どもの貧困』でもそのような場面が描かれています。

 これは、生活保護だけでなく、値金や医療などの社会保障全般に関わる問題でもあります。少子高齢化で高齢者は増える一方、働き手は減っている。働き手のなかでも安定した仕事に就いている人の割合はどんどん減り、20代では二人に一人は非正規の仕事。自分の食べるぶんもカツカツという人が少なくないのが現状です。そうしたなかで、なぜ生活保護だけが優遇されるのだ。オレたち、私たちの生活はどうなるのだという声が出てきました。
 こうした声は、もっぱら感情的なものではあるのです。しかし、私は感情というのはとても大切なものだと考えています。残念ながら、人権モデルはこうした感情をもつ人に対して、説得力のある言葉をもちえませんでした
 人権モデルの立場でよく使われるものに、「私たちの声を聞いてください」という言葉があります。官邸前でデモをしたり、シンポジウムを聞いたりして、私たちはこれだけ困っているとアピールする。たしかに、貧困問題が再発見される段階では、当事者に意見をいってもらうことは効果がありました。苦しい生活や、日々感じる差別や偏見への気持ちを話していただくことは、辛く、勇気のいることです。私も何度か集会に参加したことがありますが、それぞれの思いを聞き、心が動いたことは一度や二度ではありません。
 しかし、「困っている人はたくさんいる」ということが社会で共有されているなかで、それ続けているとどうなるでしょうか。
 現在の日本は、同情疲れともいうべき状態になっています。悲惨な話が多すぎて、無感覚になりつつあるのです。
 ある新聞社のインタビューを受けているときに、記者が「ああいうことをする元気があるなら、働けよと思うんです」とボソリといっていました。こういった声に人権モデルはどれだけ耳を傾けているのだろう、と思うのです。
pp.127-129

生活保護 VS 子どもの貧困 (PHP新書)生活保護 VS 子どもの貧困 (PHP新書)
(2013/11/16)
大山典宏

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障害者支援制度の改革の議論でも、こうした「人権モデル」に近い立場から障害者支援制度の拡充を求める声は多数表明されたのですが、ではそれが大山さんが指摘される「感情」に対して説得力を持っていたかという点は十分に吟味されるべきでしょう。私は当時の議論でも指摘しておりますが、そのような説得力を持たない言葉でもって厚労省の怠慢を追求する立場には疑問を持っておりまして、なんとかそれに説得力を持たせようとした厚労省をdisる方々にも疑問を呈したつもりです。

説得力を持たない言葉でもって厚労省の怠慢を追求する立場の方の発言として、本書で象徴的な場面が引用されています。

 2010年に、厚生労働省は「生活保護受給者の社会的な居場所づくりと新しい公共に関する研究会」という会合をつくりました。(略)その席上で、厚生労働省の保護課長(生活保護の元締めのような人です)から委員に対してこんな投げかけがありました。
 就職を希望するが結びつかない人、就労意欲を失って孤立する人に対して、一般就労だけでなく、社会とのつながりを結び直す支援が求められている。そのことは、皆さんの話を聞いていてよくわかる。ただ、必要な予算を確保するためには、財務省が納得するような説明ができないといけない。財務省が求めるのは「その事業が、ほんとうに税金をかける価値があるのか」という点だ。説得力のある説明をするためには、費用対効果のような数字がいる。しかし、現場を知らない私たちはどうすればいいかがわからない。皆さんからの意見を聞きたい――そう、真剣に訴えかけていました。
 私は、ちょっとだけ感動してしまいました。自分たちには足りないものがあることを認め、素直に助けを求めることは、なかなかできることではありません。偉くなればなおさらです。皆さんの意見を聞いて、しっかりといいものをつくっていきたい。保護課長の言葉からは、そうした熱い思いを感じ取ることができました。
 問いかけに対して、あるNPOの代表者が口を開きました。
それは、私たちの立場と違いますから
 語り口は柔らかかったものの、私は、切って捨てるような印象をもちました。相容れない立場の人の気持ちに寄り添い、その人の立場で考え、どうしたらいいのかを考える。それは、NPOが何度も行政に対して求めていることではないのか。それを、「私たちと一緒に考えてください」といわれたとたんに、「私たちは、それを考える立場ではない」という。
 自分たちの声(意見)は聞いてほしいけれど、相手の声(意見)は聞きたくない。これでは、コミュニケーションは成立しません。自分と同じ意見の人たちとだけ付き合い、異なる意見の人を「あの人の考え方はおかしい」「自分とは違う」と排除していては、共感は広がらない。私は、そう思うのです。

大山『同』pp.130-131


その政策分野の課題に関心を持つ方々は往々にして、自分たちの主張する政策が「正しいから」「必要だから」という理由だけで実現すると考える傾向があると思います。実際に取り組んでいる方ですら上記のような認識であれば、ニュースを見てああだこうだいっているような一般の方にすれば、「正しい政策なんだから調整なんて必要ない」とか「困っている人がいるんだから政策を実施して当然だ」という認識が普通なのでしょう。

しかし、下っ端公務員の狭い経験からしても、調整が必要でない政策分野なんてものはおそらくこの世に存在しないだろうと思います。特に社会保障の分野では、社会的弱者の救済を叫ぶ主張に混じって、「公務員が身を切る」べきという主張を声高に叫ぶ方も多いわけでして、私が日本的左派思想に懐疑的なのもその辺に理由があります。一方では、経済政策の分野では社会保障やその財源調達としての税金を目の敵にして「リフレ派」に名を借りた増税忌避の立場を崩さない方も多くいらっしゃいますね。「自分と同じ意見の人たちとだけ付き合い、異なる意見の人を「あの人の考え方はおかしい」「自分とは違う」と排除」する風景が特にネット界隈では当たり前のこの国で、調整に当たる公務員の任が増えることはあっても人員が増えることはないというのは、まあ当然の帰結なのでしょう。
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2013年12月30日 (月) | Edit |
12月はもっとエントリをアップできるかなと思っておりましたが、気がつけば明日で今年も終わってしまいます。ということで、これも以前書き留めておいたものですが、大山さんの『生活保護vs子どもの貧困』で行政の中央と現場の葛藤が描かれていたので備忘録です。

拙ブログでも震災前になりますが、「事件は会議室でも起きているんだ」というタイトルのエントリをアップしておりまして、

大規模かつ中長期的に取り組んでいかなければならない政策分野では、「事件の現場」で起きる事件と同様に、「会議室の現場」で起きる事件についても、それを防ぐ手立てを講じなければなりませんし、万が一事件が起きてしまった場合は適切に対処しなければなりません。そのためにも、「会議室の現場」の体制は強化される必要があります。

もし「会議室の現場」が「事件の現場」と乖離してしまって、適切な政策が決定されない問題があるなら、「事件の現場」が適切に機能しているからこその乖離でしょうから、この場合まずは政策を決定する「会議室の現場」、すなわち霞ヶ関や地方自治体の本庁を強化することが先決です。その上で、個々の「事件の現場」は情報を的確に「会議室の現場」に伝え、「会議室の現場」ではそれらを過不足なく収集し、全体の「事件の現場」と整合性のある政策決定ができる体制を整備しなければなりません。


ということを書いていたところです。震災後も「市町村が、県や国に対し「この点について助けて欲しい」と要望してもらわないと」という旧自治官僚の言葉に落胆したところでして、チホーブンケン教の教義の根強さを痛感したものです。

これとは対照的に、再分配政策は原則として全国一律の基準で運用する必要があります。生活保護の現場での「水際作戦」に対する批判に答える形で2008年に厚労省から自治体への通知が出されましたが、その通知の内容を巡る現場の反応と厚労省のやりとりから、中央と現場のつながりの重要性が読み取れます。

 生活保護法の成立以降、申請時の対応が通知のなかに盛り込まれたのは初めてのことです。
(略)
 ポイントになるのは、①保護申請の意思を確認すること、②申請意思があれば保護申請書を手渡すことの二点です。このルール追加は、現場に大きな衝撃を与えることになります。
 その衝撃の大きさを理解するためには、同時期に出た課長通知を見ていただくのが一番です。若干長くなりますが、引用させていただきます。

[面接相談時における保護の申請意思の確認]
問(第9の1)生活保護の面接相談においては、保護の申請意思はいかなる場合にも確認しなければならないのか。
答 相談者の申請意思は、例えば、多額の預貯金を保有していることが確認されるなど生活保護に該当しないことが明らかな場合や、相談者が要保護者の知人であるなど申請権を有していない場合等を除き確認すべきものである。なお、保護に該当しないことが明らかな場合であっても、申請権を有する者から申請の意思が表明された場合には申請書を交付すること。

[扶養義務者の状況や援助の可能性についての聴取]
問(第9の2)相談段階で扶養義務者の状況や援助の可能性について聴取することは申請権の侵害に当たるか。
答 扶養義務者の状況や援助の可能性について聴取すること自体は申請権の侵害に当たるものではないが、「扶養義務者と相談してからでないと申請を受け付けない」などの対応は申請権の侵害に当たるおそれがある。
 また、相談者に対して扶養が保護の要件であるかのごとく説明を行い、その結果、保護の申請を諦めるようなことがあれば、これも申請権の侵害に当たるおそれがあるので、留意されたい。


 私には、課長通知の問いかけが現場からの悲痛な問いかけに見えました。
 騒然とした会議室のなかで、現場職員が何十人も集まり、厚生労働省の職員を取り囲んでいる様子が目に浮かびました(もちろん、実際に殺気だった会議があったわけではありません)。現場の職員は増え続ける業務にいらだち、疲れています。現れた厚生労働省の担当者に対して、乱暴な口調で問いかけます。
「どんな場合にも、申請意思を確認したら大変なことになるぞ。ほんとうにそれでもいいと思っているのか」
「まず親族に相談するよう助言することも、違法にするつもりか」
 厚生労働省は、その問いかけに、静かに、「それは、してはいけません」と答える。
――これは大変なことになる、と背筋が寒くなりました。
pp.52-54
生活保護 VS 子どもの貧困 (PHP新書)生活保護 VS 子どもの貧困 (PHP新書)
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大山典宏

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本書では、いわゆる「水際作戦」を人権侵害ととらえる主張を「人権モデル」と呼び、「水際作戦」をより厳格化しようとする主張を「適正化モデル」と呼んでいるのですが、この2008年の通知は当時盛り上がっていた「人権モデル」に対応したものとなっています。しかし、大山さんの前著『生活保護vsワーキングプア』でも繰り返し指摘されていたとおり、生活保護法第4条第1項で「補足性の原理」が規定されておりまして、その法律通りの運用が一部で「水際作戦」として問題視され、日弁連が行政の対応を違法だと主張していた経緯があります。その法律通りの運用を課長通知で変えるということは、現場が法律ではない課長通知を基に実務を行うということを意味するわけで、どちらが違法なのかは単純な問題ではありません。その単純でない問題を自治体の現場に押しつけても地方分権になるわけではないのですが、三位一体の改革で地方に移譲された財源は生活保護費だったわけです。この辺は湯浅誠さんが以前から指摘されていたことでして、本書で大山さんが指摘されているように、適正化モデルと人権モデルの間で揺れ動く再分配制度の脆さをよく示しています。

そのような脆い再分配制度を所管する厚生労働省の担当部局はこんな状況です。

 生活困窮者支援を拡充する道筋は、目新しいものではありません。
 国民にとってわかりやすい成果を提示することで、短期的な評価を獲得する。その評価をもとに財源を確保し、体制の充実を図る。平行して、長期的な評価を得るための指標に開発を急ぎ、分析に耐えうる基礎データの蓄積を図っていく。
 地味で、泥臭く、目に見えにくいものです。黒子の作業といってもいいでしょう。
 しかし、こうした実施の工程表を細部までつくり込み、それを確実に実行していく作業こそが、制度の信頼性を高めるための王道です。
 工程表の作成は、どうしても理想像を追い求めがちです。利用者は不公平がないように幅広く、すべての地域で、全年齢に対応できるほうがいい。あれもこれもといっているうちに内容は肥大化し、現場の実態とはかけ離れたものになりがちです。
 しかも、社会に貧困が広がり、生活保護の利用者が急増するなかで、生活保護や生活困窮者に興味をもつ人は増えています。一人ひとりの要望や批判に耳を傾けるのにも、人的なリソースを割かなければならないのです。
 こうした膨大な調整コストを支払ってでも、すべての人の意見を100パーセント反映することは、現実的にありえません。どこかで「えいやっ」と方針を決め、動き出さなければならない。不満げな関係者に理解を求め、ともに汗をかく仲間を増やしていくためには、高いマネジメント能力が不可欠ですし、もちろん人手も必要です。
 この点で、最優先で体制を充実させなければならないのは、現場ではありません。
 押さえるべきは厚生労働省です。
 現在の厚生労働省では、新しい生活困窮者支援の体制づくりは地域福祉課が、生活保護制度の見直しは保護課がそれぞれ担当しています。
 国会からの問い合わせ、財務省への説明、関係省庁への根回し。こうした霞ヶ関内部の仕事に加え、自治体での取組の進捗状況を管理し、必要とあらばテコ入れをする役割を期待されています。支援団体や当事者から寄せられる苦情や批判、報道機関の取材対応などの外向きの仕事もそこに加わるのです。
 このほか、2013年8月に引き下げられた保護基準に対して多数の審査請求が提起されており、今後、訴訟へと発展していくことが確実視されています。これも、基本的には保護課が対応していかなければなりません。
 こうした諸々の業務の合間をぬうようにして、政策立案のバックボーンとなる各種の審議会を開催し、有識者の意見を聞き、報告書をまとめ、法律の制定に向けて動いていくのです。
 私が現場のケースワーカーをしていたときには、漠然と、「厚生労働省には生活保護の神様のような人が何十人もいて、分厚い政策集団が形成されているのだろう」と考えていました。現場に下りてくる通知や会議資料は相当なボリュームで、とても数人の作業でできるものとは思えなかったからです。
 事実は異なりました。
 厚生労働省の担当課は細分化されており、一つの担当部署の係員は二人か三人くらいしかいません。生活保護に関していえば、指導監督のような人手のいる部署を除き、法令や政策立案、自立支援といった業務を担当するのは、すべてを足しても十数名ほどの体制です。しかも、頻繁に人事異動があり、生活保護の仕事はまったくの初めてという人が、中核的なポジションに座ることも珍しくありません。

実務を担う政策集団への投資の重要性

厚生労働省の担当者一人ひとりを見れば、皆、誠実で、飲み込みが早く、高い事務処理能力をもっています。本書で紹介した資料の多くも、厚生官僚が生活保護制度や新しい生活困窮者支援のしくみを対外的に説明するために、昼夜を分かたず作業を続け、積み上げてきた努力の結晶です。
それでも、適正化モデルからは「ほんとうに生活保護の削減につながるのか」と疑問を投げかけられ、人権モデルからは「利用者の人権を守るつもりがあるのか」と突き上げられる。
大山『同』pp.232-235


これは以前dojinさんと障害者制度の改正議論について議論させていただいた際、

特に当地のように東日本大震災で大きな被害が発生した地域では、その復旧・復興事業が膨大な事務量になっていますが、かといって内陸部は通常通りの生活が営まれているわけで、単純に仕事が純増しています。にもかかわらず、マニフェストという空想の世界で作られたものに掲げられた人員削減は粛々と進められています。その限られた人的・金銭的・時間的リソースしかもたない公務員として、同じような境遇にある厚労省の官僚が利害調整に当たり、国家予算全体の中で共有されるリソースを獲得するために各関係方面に説明やら交渉を繰り返し、しかも「もう待てない」という声に応えようと半年で骨子案として案をまとめて結果を示したところで、その利害調整の過程を踏まえて「これだけの手勢でよくやった」などと褒め称えられることがあるはずもなく、「ゼロ回答ふざけんな」と目の前で散々批判されれば「これ以上できねえよ」といいたくもなるよなあ、と勝手に厚労省の中の人の気持ちを慮ってみたというところです。

2012/04/01(日) 01:02:45 | URL | マシナリ #-[ 編集]


と書いたことでもありますが、これだけの業務量を抱えて多方面とのタフな調整をこなすことを要求されながら、人件費削減のかけ声の下に人員削減が進められた霞ヶ関の典型的な姿でもあります。特に所得再分配分野の人員体制がその政策分野に対する世間的な評価に左右されるという意味では、日本の所得再分配政策の貧弱さを象徴する風景ですね。

このような風景を生み出した大きな勢力がチホーブンケン教の皆さんであることを考えると、旧自治省と厚労省のどちらが自治体における「現場の実情に沿った政策の実現」を考えているのかは一目瞭然ではないかと思います。

2013年12月20日 (金) | Edit |
更新が滞っているうちに読みたい本もたまってしまい、空き時間でちまちまと読み進めているのですがなかなか追いつきません。その中でもぜひ読みたいと思っていた金子先生の『日本の賃金を歴史から考える』をやっと読了したのでメモ。

hamachan先生が「このタイトルは過小広告!賃金だけでなく日本の雇用の全体像を歴史を軸に描き出した名著」と評するだけあって、その起源についてはポラニー『大転換』と同じく産業革命期の労働市場の黎明期から解き明かしていきます。あくまで本書を貫くのは「賃金」ではありますが、その算定根拠、決定過程、企業内での実施状況やそれを取り巻く労働運動や経営者側の取組、さらにそれを実効あらしめようとする政府の施策が、主に明治時代以降の近代日本の歴史に沿って描かれていくため、見通しやすく読み進めることができます。もちろん、日本の労務管理がイギリスやアメリカで発展してきた賃金決定の考え方を取り入れてきたという国際的な視野も含まれていて、これだけコンパクトにまとめられた金子先生の業績は、初の単著でありながら「名著」と評されるのも宜なるかなと。

少なくとも、日本型雇用慣行の下で決定される賃金を議論するのであれば、ここで指摘される事情は把握しておくべきでしょう。したり顔で経済学的な需給関係から賃金を説明しようという歴史的視点を欠いた方にこそぜひお手にとっていただきたいところです。まあしないでしょうけど。

 日本的賃金論が形成されるまでには、二つの大きい流れがある。それは後に詳細にみるように、科学的管理法に裏打ちされた請負賃金(出来高給)と生活賃金である。出来高給と生活賃金の二つをめぐる議論は、年功賃金論で展開された仕事(≒能率重視)か生活かといった議論とも共通するところがある。これは時代を超えて何度も繰り返される二大軸であるといってよい。
 能率と生活は対立してとらえられることが少なくない。それは実際に、企業経営の効率(≒生産性の上昇)といった問題と従業員の便益(benefit)であるプライベート・ライフの充実という問題が現実の局面においてしばしば対立するからにほかならない。それは歴史的にも労使交渉の主戦場の一つであった。しかし、ここで見逃してはならないのは、近代において「生活」は「能率」と深く結びついていたという事実である。そのことを知るためには私たちは社会改良主義を知らなければならない。
 結論からいえば、社会改良主義は国民的効率(National efficiency)と結びついていた。友愛社の社会民主主義的労働組合のモデルであるイギリス流の労働組合についてはじめて体系的な著作『産業民主制論』(1897年)を書いたウェブ夫妻は、社会改良主義を国民的効率という観点から議論した代表的論客でもある。
(略)
 この一種の進歩思想は、アメリカの社会改良主義にも共通している。それが第3章でも紹介したルーズベルトの「国民的能率」の議論である。社会改良主義には、社会に不適合な者、ないし社会にいまだ適合していない者を矯正し、より社会の構成員として望ましい状態に適応させることを進歩ととらえる視点があった。
(略)
 日本における農村の地方改良運動や都市の感化救済事業もこのような社会改良主義の影響を受けている。地方改良運動のなかで重要な役割を果たしたのが、模範的人物や模範村(工場)などの表彰や過去の偉人(いまの人が生きるためのモデル)の顕彰事業などである。これらの顕彰対象は古今東西を問わなかった。逆にいえば、明治に入ってから忘れられていた日本人の顕彰もこの時期以降におこなわれ、新たに日本の伝統と理解されるようになっていった。このような歴史的現象を歴史学者のホブズボームは「伝統の発明」と名づけた。
 いずれにせよ、生活改良(生活指導)は労務管理における教育(統治)の問題とも重なり合っており、その背景には能率思想に裏打ちされた進歩主義が存在していた。こうしたことは生活賃金とも重なり合っていたのである。
pp.74-76

日本の賃金を歴史から考える日本の賃金を歴史から考える
(2013/11/01)
金子良事

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最近だと「生産性ガー」とかいわれて生活給に対する風当たりが強くなっていますが、一昔前は「給料ドロボー」(公務員なら「税金ドロボー」ですね)とか「ノン・ワーキング・リッチ」という言い方もありましたね。しかし、社会としての生産性を向上させるためにはその構成員の生産性を上げなければならないというのが社会改良主義で、それは実は生活改良を通じた生活給ともつながっていたわけです。というか、戦前の昭和初期までにはこうした議論に到達していたということにこそ注目すべきで、最近の賃上げをめぐる議論を拝見していると激しい周回遅れ感を感じてしまいます。

そのウェッブ夫妻が重視した労働組合による賃金決定の限界について、アダム・スミスのプロフェッション論を引用しながら職に対する社会の評価の重要性が指摘されます。

 トレードを考えるにあたって、19世紀初頭のイギリスまでさかのぼったのは、トレード・ユニオンを単に労働組合ととらえる以上のことを考えたかったからである。すなわち、使用者と労働者が明確に階級として分離される以前の19世紀初期のトレード・ユニオンはまだ同業団体の性格を色濃く残していた。逆にいえば、労働条件を挙げるのは、いつも労働組合とはかぎらない。一つのパイをどのように切り分けるかという局面(=労働分配率の問題)では使用者と労働者は対立するが、一つのパイをどのように大きくするかという局面では両者は協力するという考え方も一つの合理的な戦略であろう(これに反対する立場は、そこに労働強化がともなうならば、拡大戦略自体を望まないというものである)。(略)
 ある産業の労働条件は、労働組合(産別)、使用者団体、業界団体などの産業内の団体の力だけで決まるわけではない。むしろ、当該産業の外部とのかかわりあい、社会的認知や信用度によって決まるのである。つまり、社会のなかで高く評価されなければ、賃金も高くならないのである。この点で先に引用した非生産労働であるプロフェッションにたいするアダム・スミスの指摘は、いまなお有効であるといわざるを得ない。
 経済学的に考えれば、希少性のある財・サービスは高い価値を持つ。それならば、ある仕事に習熟するのが困難でアリ、その職種が希少な高度な技能を有する場合、その賃金は高くなる。もし技能が高いにもかかわらず、賃金が低い場合、その技能が十分に明らかでなければ、評価できないので、低くならざるを得ないかもしれない。しかし、技能内容を明らかにすることで賃金が上がるのかと問い返せば、必ずしもそうとはかぎらない。具体的にいえば、ソーシャル・ワーカーは高度な技能(支援技術)をもつ専門職であり、その技能内容の研究もブルーカラー研究以上に蓄積されてきた領域だが、その賃金は必ずしも高いとはいえない。そのほか、介護職・保育士などは同様に高い技能をもちながら低賃金におかれている典型的な職種である。これらの職種は少子高齢化社会のなかで今後、ますます重要性を増していくと思われるが、今後、報酬を引き上げていくように社会的に働きかけていく必要があると考えられる。
金子『同』pp.134-135

賃金が労使交渉だけで決まるわけでありませんし、そもそもその財源をどのように調達するのかというのがいわゆる「パイの大きさ」に大きく左右されることからいえば、公務労働によってまかなわれる介護職や保育士が低賃金に据え置かれていることは、結局社会がその程度の評価しか与えていないということの裏返しでもあります。少なくとも、その賃金原資となる社会保障費の拡充を目的とした消費増税に反対する方々は、結局のところ介護職や保育士などの公務労働の担う方々の生活には興味がないとしか思われませんが、まあ、あの方々は公務員人件費の削減を声高に主張する方々でもあるわけで、特に違和感はないというところでしょうか。

そうした個々の労働者に着目するのではなく、国全体の賃金政策に着目するとそれは所得政策でもあるわけですが、日本にも戦前は所得政策と呼べるものがあったものの、それが根付くことはありませんでした。

 賃金政策(ないし所得政策)について説明するのは困難である。なぜなら、日本における賃金政策といえば、いまでは賃金統計の作成と最低賃金を唯一の例外として存在していないからである(強いていえば、人事院勧告<公務員の給与水準>を含めることができるだろう)。また、所得政策にしても、議論の中心になるのは所得再分配政策、すなわち所得の高い人から徴収した税金をどのように所得の低い人に還元するかという話になってしまう。
 もちろん、賃金が経済の重要な変数である以上、労働市場政策、より視野を広げれば、マクロ経済でも取り上げられる。しかし、賃金そのものに焦点を当てた政策ということになると、歴史上、日本の賃金政策が存在したのは戦前期から敗戦直後、すなわち賃金統制の時期だけである。誤解を恐れずにいえば、戦時賃金統制のなかで発明された「賃金総額制限方式(平均賃金のコントロール)」が戦後、春闘などの労働組合による賃金交渉のなかに取り入れられたたため、結果的に賃金政策の必要性が薄れたのである。そうした代替機能が働いていたからこそ、1970年代に欧米で展開された所得政策が日本にもやがて必要になる可能性があると議論されたにもかかわらず、結局、見送られたのである。
金子『同』p.140

いかに生活給を測定して必要な賃金額を算定するかというのは、所得政策の不可欠な作業であって、戦前の友愛会という労働組合が家計調査を行い、それが生活給をモデルとする電産型賃金体系を原型とした戦後の賃金体系の基礎となっていたわけです。しかし、その生活給を基礎とした賃金体系が確立されたことそのものが、所得政策(とそれに基づく所得再分配政策)が日本に根付くことができなかった原因となっているといえそうです。

所得政策を代替した賃金政策では、上記の生活給と能率のせめぎ合いの中で、日経連が提唱した「生産性基準原理」によって労働生産性の議論が春闘に取り入れられていきます。労働生産性については戦後の生産性向上運動の拠点となった公益財団法人日本生産性本部に詳しい解説がありますので、まずはそちらをご覧いただくとして、本書のこの指摘は、デフレ克服のための賃上げが議論されている現在において大変重要だと思います。

 生産性基準原理は、より正確に理解するならば、賃金上昇率の上限を設けるものであり、賃金上昇自体を否定するものではない。しかし、このロジックは実際には1975年の春闘以降、経営側から賃金抑制の理由に使われ、そのため、物価が安定していた84年に佐々木孝男から「逆生産性基準原理」を提言されることになる。佐々木の提言を引用しよう。

「さしせまったインフレの危険がない現状において、生産性の上昇に見合う実質賃金の上昇こそ、国内需要拡大という要請にこたえる道だからである。中期的に考えた場合においても、わが国が自由市場を守り、経済大国としての責任を果たしてゆくためには、これまでの輸出主導型成長パターンに転換をはかることが基礎的条件なのである。そのためには、生産性の上昇に応じて、生活向上分を積み上げることが国内需要拡大のために不可欠であり、生産性上昇率を実質賃金上昇率に等しくさせるという意味での、生産性基準原理を貫くことが時代的要請にこたえる道である。」

 この主張のポイントはマクロ経済政策を基礎としている点である。輸出主導型から内需主導型への転回を唱えた前川レポートは1985年に書かれることになる。
 じつは逆生産性基準原理に十数年先んじて1967(昭和42)年に同盟は長期賃金計画を策定し、その発想がそれ以降の賃上げ要求の根拠になっていた。このとき同時に産業政策を制定している。長期賃金計画も同盟の河野徳三が佐々木に相談して作成した。
 生産性基準原理はデフレ経済のもとでは影を失い、経営側に残されたロジックは企業レベルの支払い能力になっている。ただし、そうなっていくと、生産性がナショナル・レベルのテーマであったことが忘れ去られ、支払い能力、すなわち企業レベルの問題にされてしまい、2000年代以降の生産性の議論が付加価値生産性になったことを考えると、本来目標とされた物価安定の意味がわからなくなってしまう。先に説明した数式は、自分で式をノートに手書きで写し、最終的には物的生産性と付加価値生産性の関係を他人に説明できる段階まで理解する必要がある。
金子『同』pp.168-169

実はこのエントリは、途中まで書いたところでブラウザがクラッシュして半分泣きながら書き直しているところなんですが、そのうちにちょうどhamachan先生のところで生産性のエントリがまとめられていますので、そちらを合わせてご覧になることをお勧めします。個人的には、所得政策を賃金政策が代替してしまえば、賃金政策が個々の企業の支払い能力に左右されることになるというのは、早かれ遅かれ時間の問題だったのではないかと思うところです。その結果、個々の企業の支払い能力に左右される所得の不安定さ(特に賃金切り下げによる所得の縮小)と、それによる消費の縮小によって経済そのものが不安定化し、さらに個々の企業の支払いを慎重にさせ…、というのはまさにデフレによる景気減退そのものでして、所得政策の不在の帰結ともいえそうな気がします。

個人的には、政府によって所得(現金給付だけではなく現物給付を含みます)を補填する所得再分配政策の必要性が改めて確認できるのではないかと思うところですが、金子先生にとってはそれは本意ではないだろうと思います。そのような読み方もできるということでご了承いただけると幸いです。

それはそれとして本書では各章の末尾にコラムがありまして、金子先生の熱い思いが伝わってきます。これを読むだけでも本書を読む価値はあるのですが、社会政策(マクロでも制度でも構いません)とか雇用とかについて何か発言したいという方は本書に目を通すべきですね。といっても、そもそも歴史的経緯とか制度の変遷をきちんと踏まえようとしない方々が多いからこその現状でしょうから、そのような「大人」な方が本書を手に取ることは難しいかも知れませんが、何よりお勧めしたいのは労働法とか経済学を勉強する学生の皆さんです。教科書の隣に本書(とhamachan先生三部作)を置いて勉強していけば、なぜ日本型雇用慣行がそのような法理を形成するに至ったのかとか、現実味に欠ける仮定をおいた経済理論がなぜ政策に反映されていくのか、それが現実の世界で慣行として形成されて法理を形成して…、という制度が響き合う機微を、賃金政策と所得政策の狭間で形成された日本型の賃金体系の変遷から感得することができます。いやマジで、大学の教科書にしてもいいくらいの基本書となりうる「名著」だと思います。

(追記)

診療報酬改定巡り詰めの調整(12月19日 4時33分NHKニュース)

医療機関に支払われる診療報酬の改定を巡って、厚生労働省は医療体制の充実を図るため引き上げを求めているのに対し、財務省は引き下げを主張し、来年度予算案の取りまとめに向けて、今週中の決着を目指した政府・与党内の詰めの調整が続いています。

医療機関に支払われる診療報酬は、医師の人件費などに当たる「本体」部分と、薬などの公定価格に当たる「薬価」部分からなっていて、さらに今回は、来年4月の消費税率の引き上げに伴う医療機関のコスト増を補填(ほてん)する部分も含めて、来年度予算案の編成で焦点の1つとなっています。
これまでの調整で、「薬価」の部分は、薬の実勢価格などを踏まえて1.4%弱引き下げるほか、消費税率の引き上げを補填する部分は1.2%程度から1.4%程度の間で引き上げる方向になっています。
一方、「本体」部分を巡って、厚生労働省や自民党は、医療体制の充実を図るため、消費税率の引き上げに伴う増収分のうち、医療に充てるとしている1000億円の一定程度を診療報酬の引き上げに振り分けるべきだとしています。これに対し財務省は、財政状況が厳しいうえ、さらなる家計の負担増は避けるべきだとして引き下げを主張しており、来週24日の来年度予算案の取りまとめに向けて、今週中の決着を目指した政府・与党内の詰めの調整が続いています

「財務省は省益のために国民に負担を押しつけようとしている」という陰謀論にドはまりされている方には新鮮かも知れませんが、ここで「さらなる家計の負担増は避けるべきだとして引き下げを主張して」いるのは財務省なんですね。「モノが売れなくなるから人件費を削るぞ」という誠に民間感覚にあふれた主張に対して、サービスに対する対価を引き上げるという「生産性を重視した」厚労省と自民党が抵抗勢力扱いされるというのは、この国の社会政策に対する理解の程度を示す好例ですね。

2013年12月03日 (火) | Edit |
こちらも間が空いてしまい恐縮ですが、海老原さんから新著をご恵投いただきました。いつもながら場末のブログを気に留めていただきありがとうございます。今回のタイトルは『日本で働くのは本当に損なのか』でして、本書裏表紙の内容紹介から引用すると、

新卒一括採用は、もはや意義を失ってしまったのか。年功序列では、若き優秀なリーダーが育たず、グローバル戦略で負ける要因となっているのか。中途採用を行わない純血主義を貫く日本企業では、斬新な人材を社外から呼び込めず、産業育成の足を引っ張ってしまっているのか。「人事・雇用のカリスマ」が、通説を覆し、解決策を提示する。

日本で働くのは本当に損なのか (PHPビジネス新書)日本で働くのは本当に損なのか (PHPビジネス新書)
(2013/10/19)
海老原嗣生

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という内容です。となると、「前著で雇用問題はもう書かないと言っていたのでは?」と訝る方もいらっしゃるかもしれません。これについては、「おわりに」でご本人が弁明されています。

 私は、「雇用の総括本はもう書かない」と、昨年上梓した本『決着版 雇用の常識「本当に見えるウソ」』(ちくま文庫)で宣言いたしました。ところが、この本を書いています。
 このひどい有言不実行さ、朝令暮改ぶりはなんなのか。
 まずは、今までの私の雇用本は、世間でいわれていることに対して、それは本当か、とデータや事例で検証していくというスタイルのものでした。
(略)
 そこで、データをあまり多用せず、雇用の全体像をまとめられるような本を書きたいと、ふつふつと思い立ってしまった。だから禁を犯しました。すみません。
 二つ目は、件の濱口桂一郎さんとの度重なるセッション。雑誌やセミナーで、もう7回ほど氏とは意見を交わさせていただきました。そして、話し込むほどに、これほど雇用に関して見方がい位置する人が世の中にいるのか、と嬉しく感じていたのです。
(略)
 こんな感化を受けてきた人間としては、オマージュ的なものが書きたく、その中に、氏と解釈が異なるいくつかの側面も織り込んで、挑戦をしてみたいと思ったこと。それが二つ目の理由となります。

海老原『同』pp.203-305

ここでは、主にデータを多用しない全体像と、hamachan先生へのオマージュとして本書を書いたという理由が述べられているのですが、個人的には「社会問題のほとんどは雇用問題が絡んでいる」と正面から言い切ってしまっていいのではないかとも思います。雇用問題を離れても、社会で生活していく上での問題や課題を解決しようとすれば、生活の中で睡眠よりも多くの時間が割り当てられている「働き方」が大きな問題となりますし、所得や貧困などの問題を考える際も、「働き方」に対して支払われる賃金や報酬が所得の大部分を占めるという問題に直面することになります。海老原さんが今後どのような分野に進出されていくのかは存じませんが、雇用・労働の分野に軸足を置いた議論は、どの分野でもその論拠を強化することはあっても、邪魔になることはないのではないかと思います。

分かりやすいのはワークライフバランス(WLB)の議論でして、特に最近政治分野でも取り上げられる男女共同参画(女性の社会進出)などの議論において、日本と海外を比較するためには、本書で指摘されているようにそれぞれの経路依存的な事情を考慮することが必要不可欠です。貧困対策についても、生活保護制度を適切に機能させるためには、水際作戦で排除するだけではなく、きちんと捕捉した上で、働くことが見合う(make work pay)ようなアクティベーションのシステムを担保しなければなりません。もちろん、労働者のモチベーションや能力を高めて企業の競争力を高めることも必要なわけで、いずれにしても、雇用・労働と切って離すことはできない以上、堂々と雇用・労働をベースに議論を進めていいのではないかと思うところです(というか、拙ブログなんかその典型なわけで、ただの言い訳でしかなかったりもしますが)。

もう一点、本書で感慨深かったのは、拙ブログで海老原さんとPOSSEの本を見比べてみたときに「両書を読み比べてみたとき意外に認識が一致しているなと思う部分があ」ると感じていたところでして、その一方の今野氏が本書に解説を寄稿していることです。解説の中で今野氏は、海老原さんとは立場が違うと明言した上で、海老原さんのスタンスをこのように評価されます。

 本書の第二の特徴は、雇用システムの問題を「立場を超えて」説明しようと努めていることにある。私が強く印象づけられたのは、雇用システムの「改革」として論じられがちな、安易な解雇規制緩和論や、労働時間改革論についての筆者の姿勢である。経営者の目線に立ちながら、合理的な方法を模索する態度が貫かれている。
 雇用システムの問題が、日本経済全体の問題である以上、そこには労働側、使用者側どちらにとっても解決すべき共通の課題が存在しているはずだ。労使の関係は単純に、「取り分の配分」だけが問題になっているわけではない。ブラック企業で若者が使い潰される問題は、労使のどちらがたくさんのお金を得るのか、という問題には決して還元できない。海老原氏の視点は、この当然の現実を見据えたものだ。
 しかし、本書の冒頭でも示されているように、世の中には安易な「ポジショントーク・俗説」が渦巻いていることもまた事実である。例えば、すべてを世代間対立の問題に落とし込むような論。
(略)
 この種の議論には常に法制度や実際の法律運用についての「事実誤認」がつきまとう。海外のデータや制度を恣意的に解釈し、誤った理解を(意図的に?)振りかざすのだ。
 こうした議論に対しては、私自身も日ごろから強い違和感を持ってきた。彼らは「事実」と正面から向き合わず、自らの「ポジション」から問題を立てる。本書では直接に説明はされていないが、解雇規制を野放図に緩和しようという首長は日本経済の中でも極端な立場の経営者の利害を代弁しているし、日本型雇用の礼賛は、この仕組みで特権的な立場に立つ労働者の利害を背後に宿している。
 本書はそうした「立場」や「利害」を押し出すだけの議論を乗り超えようとする姿勢が明確である。どのようなシステムをつくることが経済効率を上げ、同時に日本の若者が家族を持ち、生活を成り立たせていくことができるモデルとなり得るのか。著者はこの問い立てに向き合い続けている。
今野「解説」(海老原『同』pp.209-211)

「家族を持ち、生活を成り立たせていくことができるモデル」という言葉に、今野氏が雇用・労働問題に対して単に「大企業憎し」で対峙しているのではないことが伺われます。上記でも書いたとおりですが、雇用・労働の現実の問題に対処するということは、誰かを悪者にしてつるし上げることではなく、社会で生活していく上での問題や課題を解決しようとすることに他なりません。ただし、今野氏は上で引用した部分の直後に「立場を超えることは中立ではない」として、あくまで海老原さんの議論は「経営の立場」から見たときの合理性を主題としていると指摘されています。その上で、

 それぞれの利害が厳然と存在することを見据えながらも、社会や産業を改善するために、両者にとって合理的な道を探る。世界中が模索してきた姿勢である。実際に、ブラック企業の若者使い潰しの抑制は、誰にとっても必要なことだろう。立場や利害を踏まえながらも、大局的視点に立つ。これが「雇用システム」を論じる本来的な姿勢なのだ。
 本書は労使の議論を立場の「張り合い」ではないものにしていく一つのきっかけになるだろう。
今野「解説」(海老原『同』p.212)

と指摘されます。この指摘の通り、労働者側の今野さんが「経営の立場」からの合理性に対して理解を示すように、使用者側も「労働者の立場」からの合理性に理解を示すことが、まずはスタートとなるだろうと思います。それこそが「集団的労使関係の再構築」によって目指すべきものと個人的に考えているところでして、私もほぼ同意するところです。海老原さんの議論についての議論が、労使双方の立場から盛り上がることが望まれます。

2013年12月01日 (日) | Edit |
業務の都合で1か月以上ほったらかしになってしまい、11月のエントリが0件となってしまいましたが、先月の11日で震災から2年8か月が経過しました。ということで、いろいろと積み残しのエントリがありますので、手短に。

現在の担当が直接復興に関連した業務ではないため、この間被災地に行く機会はありませんでしたが、仮設住宅についての行政の当事者が書いた本で考えさせられたことが多々ありました。というのも拙ブログでは以前、「東日本大震災という災害が発生して多くの方が住居を失ったにもかかわらず、住宅政策が国の社会保障として位置付けられることはなさそうです。拙ブログでは再三所得再分配の拡充の必要性を指摘しているつもりですが、単に既存の分野の手当を厚くするだけではなく、社会全体で支えるべき制度は何かという問いが必要なのではないか」と指摘していたところでして、緊急的に住宅を供与する応急仮設住宅という制度の実際を本書で確認することは、今後の災害対応のためにも自治体職員なら知っておいて損はないでしょう。

本書の筆者は国土交通省の技術系のキャリアで、震災発生当時に岩手県県土整備部建築住宅課総括課長として仮設住宅設置の責任者だった方です。まずは、仮設住宅についての説明を本書の冒頭部分から引用しておきます。

 仮設住宅は、正式には「応急仮設住宅」という。災害救助法という法律に基づき、被災者に対して供与するものとされている。災害救助法は、災害に際して応急的に必要な救助を行い、被災者の保護と社会の秩序の保全を図ることを目的としている。応急仮設住宅の位置づけは、食品の供与、救出、医療、埋葬等と同列であり、非常時に緊急的に提供されるものという色彩が強い。
 応急仮設住宅には大きく分けて、新たに建設することによって提供される住宅と、民間の賃貸住宅等の借上げによって被災者に提供される住宅の2種類がある。以降、建設によるものを「仮設住宅」、民間賃貸住宅の借上げによるものを「みなし仮設」、両者を含めた全体を「応急仮設住宅」と記すことにする。
p.9

実証・仮設住宅: 東日本大震災の現場から実証・仮設住宅: 東日本大震災の現場から
(2013/08/30)
大水 敏弘

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で、災害発生時に災害救助法を所管していたのは厚生労働省だったわけですが、なぜ国土交通省から地方自治体への出向官僚が本書を書いたかというと、

応急仮設住宅の所管はこれまで厚生労働省だった


 応急仮設住宅は、災害救助法に位置付けられているものであり、その所管はこれまで厚生労働省であった。一般的には、国土交通省が所管しているものと思われがちであるが、無理もない。東日本大震災において仮設住宅の建設状況を公表していたのは国土交通省住宅局。震災後5月末までに3万戸完成という目標を立てたのは大畠国土交通大臣(当時)。仮設住宅の建設については、国土交通省が前面に出て、厚生労働省が表に出ることはほとんどなかった。では、所管が厚生労働省であったのに、なぜ国土交通省が前面に出たのか。
 これは、仮設住宅の特性によるものと言えるだろう。仮設住宅は短期間に大量の住宅を供給しなければならない。この大量供給のノウハウはプレハブ建築メーカーに蓄積されている。したがって、住宅の大量供給を迅速に行うためには、住宅業界を所管する国土交通省が指揮を執ったほうが、速やかに事が進むということになるのだ。また、実際に仮設住宅建設の発注をする都道府県においても、仮設住宅建設工事の進捗管理や住宅の仕様の決定などは、日ごろから建設工事の発注や住宅政策を担っている建築・住宅部局が行うこととなる。
 ただし、災害救助法の所管は厚生労働省であり、法律に基づく運用を行うのは厚生労働省。そして、仮設住宅建設のための予算措置や、仮設住宅の標準面積など建設のための基本的な基準づくりを行っているのは厚生労働省なのであった。なお、この点については、平成25年の災害救助法の改正により、所管が厚生労働省から内閣府に移管されることになった。
大水『同』pp.9-10


という事情があったからなんですね。そもそも災害救助というものが生活のあらゆる場面に必要であって、その意味ではミクロ官庁ではなくマクロ官庁に移管することは理解できるのですが、かといって実働部隊は結局各省庁に分かれるわけで、内閣府が所管すれば万事解決するものではないことも留意が必要でしょう。

で、本書で繰り返し強調されているのが、何戸の仮設住宅をどこに設置するかという当初の見込みが大切だという点にあることも印象的です。震災直後に書いたことでもありますが、ロジスティクスが毀損されていた被災地では、限られた物流を使ってどの物資をどのようにどのくらい調達するかという見積が決定的に重要になります。特に、避難所を早期に解消させて住居を確保することが最優先となっている状況では、限られた物流システムの中で、避難所での生活を維持しながら迅速に仮設住宅を設置するという微妙なバランスが求められます。慎重になりすぎて仮設住宅が不足しては元も子もありません(実際には一部で不足しましたが)し、仮設住宅が多すぎても、またぞろ復興予算の無駄遣いという批判を招いてしまいます。本書ではその辺の経緯が切迫した臨場感で描かれていて、読みながら私も当時の状況を思い出してしまいました。

また、みなし仮設の功罪についても触れられていて、現場の実務の視点からの指摘として読まれる価値があるでしょう。特に、「利権陰謀論という結論を書きたくて復興予算が過大と主張しなければならない」本で「人口減少と高齢化で、三陸の山に土地はいくらでもある」とのたまう一部のリフレ派と呼ばれる方は熟読玩味すべきでしょうね。しないでしょうけど。

さらに、阪神・淡路大震災以降、全国の都道府県が社団法人プレハブ建築協会(プレ協)との災害時協定を結んで仮設住宅を設置することとなっています。そのプレ協には企画建築部会と住宅部会があり、前者は工事現場のプレハブに近い構造、後者は本設の住宅に近い構造となるため、後者の方が居住性に優れている点など、被災地ではよく聞く話ですが、これからの災害対応の際にも知っておくべき情報だと思います。

その上で、プレ協だけでは供給能力が整わずに設置が遅れたため、震災後1か月を経過した2011年4月から、福島県と岩手県では地元工務店にも発注することとされます。

 これに対し、岩手県の公募で特に配慮したのは、中小の工務店も応募できるようにということであった。岩手県内の仮設住宅団地は平地が少ないがゆえに、小規模な用地をもかき集めて建設地とする方針としていた。中小工務店には、こうした小規模団地を割り当てて建設してもらおうと考えていた。
 応募の要件は思い切って低くし、岩手県内に本店又は営業所を有する事業者であって前年度施行実績が5戸以上あり、仮設住宅の供給可能戸数が12戸以上あれば応募可能とした。プレ協と同程度の仕様を示して建設提案書の作成を求め、買い取り価格は、プレ協と同等の価格を基本としつつ極端な価格競争に陥らないように一定の範囲(プレ協価格の0.9〜1.1倍)を設定した。このほか、工期をプレ協の標準的な期間(当時は30日程度であった)より長い45日間とした上で、中小工務店の資金繰りに配慮し、代金の前払いや部分払い(複数棟建設する場合)を可能とした。
 募集戸数については、岩手県では2千戸以上と設定した。「以上」としたのは、公募同時まだ仮設住宅の必要戸数が確定しておらず、2千戸以上は発注可能だと考えていたが、どれだけ上積みできるかは読めなかったためである。応募もどれだけあるのか全く読めなかったが、公募の反響は大きく、89もの事業者・グループから応募をいただいた。これらの事業者・グループの供給可能戸数を積み上げると1万1千戸以上にも上った。地元工務店等でも相当な供給能力があることが明らかになったことは大きな成果だった。
大水『同』pp.78-79

普段はチホーブンケンに懐疑的なことばかり書いている拙ブログですが、こうしたきめ細かい対応こそが地方分権の必要な分野と言えるでしょう。この取組を主導したのが出向官僚だったというのも、地方分権の実務を考える上で貴重なサンプルだと思います。

ただし、本書の記述からは、被災して住居を失うというような緊急的な場合でしか、日本では住宅が公的に供与されないということも改めて確認できます。上で引用したとおり、「この大量供給のノウハウはプレハブ建築メーカーに蓄積されている。したがって、住宅の大量供給を迅速に行うためには、住宅業界を所管する国土交通省が指揮を執ったほうが、速やかに事が進むということになる」ことはそのとおりなのですが、だからといってそれで住居が確保されて万事解決となるわけでは当然ありません。この点について本書では、

重要となる住宅確保のための総合対策

 災害救助法ほの所管は厚生労働省であるが、都道府県や市町村において実際に仮設住宅を建設するのは建設住宅部局の仕事となる。建設住宅部局に所属する職員の多くは技術職であり、都道府県や規模の大きい市であれば建築士等の資格を有するものも多く、仮設住宅を建設するために必要な、住宅の性能や工法等に関する技術的な知見は十分備わっている。
 一方で、ともすると陥りがちなのが、仮設住宅を建てることばかりに関心が集中してしまうことである。仮設住宅の建設は、被災者のための住宅確保策として有効な手段であるが、住宅を確保する手段は仮設住宅建設だけに限られるものではない。公営住宅や民間地帯住宅など既存ストックを活用することも合わせて検討されなければならない。
 また、入居後のことを考えれば、福祉的な支援やコミュニティの形成促進、バス等の交通手段の確保、日用品の買い回りなど生活利便性の確保も重要となる。
 被災者向けの住宅対策は、全体を俯瞰した総合的な対策でなければならず、建築住宅部局のみで課題に対応することはできない。
 そのため、都道府県や市町村においては、住宅確保に関する総合的な取組が行われるよう、建築住宅部局のほか、福祉部局、企画部局など関連する部局が相互に連携できるような体制を構築することが望ましい。
(略)

部局間連携不足による問題

 部局間の連携が重要であるのは確かだが、一方で連携というのは骨の折れる仕事だ。相手の部局と役割分担、進捗調整、見解が異なった場合の協議などを行っていかなければならず、部局内で済ますことのできる業務の何倍も手間がかかることになる。
 通常業務ならまだしも、災害時対応において、部局間調整を行うことは困難を極める。時間との勝負である仮設住宅の建設に、より時間のかかることを持ち込むことは、引いてはマイナスの効果しか生まないおそれもある。
 東日本大震災においては、仮設住宅の建設時における他部局との連携は、グループホーム型仮設住宅やサポートセンターの設置など、限られた範囲では行われたが、さらに踏み込んだ連携はあまり行われなかった。このため、仮設住宅団地のほとんどは、仮設住宅ばかりが建ち並ぶ、無機質な団地にならざるを得なかった。
(略)
 こうした行政の縦割りの弊害を除去するには、専門家の智恵が必要だ。
 釜石市と遠野市には、東京大学高齢社会総合研究機構の有識者が入り、コミュニティケア型仮設住宅の建設が提案された。これは特許を必要するものでも何でもなく、仮設住宅に入居する被災者の視点から、部局横断型で仮設住宅団地を作るという提案である。全体を俯瞰し、入居後のことを考え、仮設のまちを被災者に用意するという発想であった。

大水『同』pp.185-187

ここで「行政の縦割りの弊害」とされているのは、単に建築住宅部局が住宅建設のことしか考えていないということではないかとも思うのですが、当事者にとっては、調整や協議は時間がかかってかえってマイナスだとのことです。いかにも霞が関的な発想だなあと思うと同時に、より根源的な問題として、特に困窮者や災害時の住宅政策が福祉政策として位置付けられていないことがあるのではないかと思うところです。そのために、災害救助法の所管が厚生労働省とされていたのではないでしょうか。住宅政策を個人資産と位置付けて、数十年単位で建て替えることが当たり前となっている現状では、住宅を失って生活に困窮している方に対する施策が、福祉的な側面を捨象してしまう「弊害」を生んだと考えるべきではないかと思います。

筆者である大水氏は、2013年4月から大槌町の副町長として着任し、自らその仮設住宅に住んで業務に当たっているとのことで、終章の「災害救助法について思う」では次のような問題提起をされています。

 人が生活するために必要となるのが「衣食住」であり、災害救助法では被災者にとってこれらが満たされることとなるような措置をとることとされているわけだが、「衣食」に比べて「住」は圧倒的に費用がかかる。「住」は土地に定着する不動産であり、時間間隔も』まったく異なる性質のものだ。「応急」の仮設住宅であるがゆえに建てられる住宅はあくまで仮のものとなり、建築基準法の規定を満たさなくてよい代わりに、仮設なのだから設置期間は原則2年3か月までしか認められないという扱いとなる。
(略)
 仮設住宅への入居は原則2年で、その後は災害公営住宅か自宅の再建で恒久的な住まいへ、というのが仮設から本設の住宅への流れとされているが、今回の震災では、このバトンタッチに5年以上かかる復興計画が作られているのが実情だ。被災した土地の区画整理事業や高台に移転する土地を確保する防災集団移転事業は、用地の取得や造成などにどうしても時間がかかる。これらの復興まちづくりによって再建のための土地が確保される被災者にとっては、自宅を再建するまでの間、原則2年の仮設住宅で長期間の仮暮らしを強いられることになる。しかし、5年以上に及ぶ復興まちづくりとの空白期間を埋めるための方策やビジョンは練られていない。
 復興まちづくりに5年以上かかることがどうしようもないのであれば、仮の住まいの期間は5年以上としなければならない。バトンタッチの第2走者のスタート地点が遠くなるなら、第1走者の走る距離を長くするよりない。しかし、5年以上という期間は「応急」と呼ぶにはあまりに長い。災害時における緊急救助を目的とする法律で未曾有の災害における「住」を扱うこと自体、無理があるように思われる。
(略)
 住宅のみに特化してしまった仮設住宅団地は、住宅そのものの機能は徐々に改善されてきているが、生活機能という面から見れば、残念なことに戦前に建てられた同潤会仮住宅より退化してしまっている。仮設住宅団地の中で、被災者が商売を再開することは現行制度では認められないが、何か手立てはないものだろうか。被災者の生活に目を向け、「急場しのぎの住宅」ではなく、「いったん腰を据えて生活できるまち」を作っていくことが必要だ。
大水『同』pp.225-225

ここで指摘されていることは全面的に同意するところですが、「被災者の生活に目を向け、「急場しのぎの住宅」ではなく、「いったん腰を据えて生活できるまち」を作っていくことが必要」だからこそ、生活困窮者に対する住宅政策を福祉政策として位置づけて、それに対応した行政組織や仕事の進め方を平常時から整備していく必要があるのではないかと思います。

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