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2013年10月21日 (月) | Edit |
激しく周回遅れですが、先日のhamachan先生のご指摘が深遠なものだったので備忘録として。
まあ、なんちゃって法学部生だったチホーコームインとしては、業務の中でそれなりに法律の考え方とかその適用や運用という実務をたたき込まれてきておりまして、普段は経済学チックなことを書いてはいるものの、経済学がご専門の方よりは法律の考え方の理解には比較優位をもっているつもりではあります。そのような分際ではありますが、経済学がご専門の方々の法律や制度に対する無理解、というより理解しようとする意欲のなさについてはつくづくあきれることが多いですね。

今年の4月から月2回のペースで、WEB労政時報の「HR Watcher」というコラムに、溝上さんらとともに連載していますが、今週アップされたのは「解雇規制論議に見る律令法思想と市民法思想」です。

http://www.rosei.jp/readers/hr/article.php?entry_no=118

その最後のところで、主として国家戦略特区WGの八田氏を念頭にこう述べましたが、これは一昨日の朝日の記事の松井氏やその尻馬に乗っている評論家諸氏にも同じように言えることであることは、賢明な読者の皆さんにはよくおわかりのことと思います。

 このように、権利濫用法理の意味が理解できない根源には、この経済学者の法理解の歪みがあるようにも思われる、そもそも、東洋的社会においては、法とはもっぱら律と令、つまり刑法と行政法を指すものであって、国家権力による人民への規制以外の何物でもなかった。それに対して西洋社会における法とはまず何よりも民法であり、大陸系のシビル・ローであれ、英米系のコモン・ローであれ、市民相互間の利害調整の道具として発展してきたものである。

 労働法も民法の特別法であり、使用者と労働者という市民相互間の関係を適切に規律するための国家規制も、究極的には労使間の利害調整をどうすることがもっとも適切かという点に帰着する。国家が一方的に人民に不都合な規制をかけているなどという、東洋専制主義世界と見まがうような法律観で労働法を語るとすれば、それはその論者の脳内の東洋専制主義を示しているに過ぎない。

 労使の利害の調整点を、どこにどのようにシフトさせるのがちょうどいいのか、そういうごく当たり前の発想でこの問題が議論されるようになることを切に願いたい。


実というと、こういう自生的秩序の認識は、あのハイエクが強調していたことなのですが、それがまったく理解できないたぐいの人がその解説書を書けるあたりにガラパゴス日本の所以があるのかも知れません。

まあ、OECDから相手にもされない評論家が、OECDはこう言っているぞ、と居丈高に説教してみせて、無知なマスコミ相手に通用してしまう日本でもあります。

解雇規制論議に見る律令法思想と市民法思想(2013年10月10日 (木))」(hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)

というわけで、全文まるまる引用してしまったのですが、以前も「hamachan先生のおっしゃる法学者と経済学者のディシプリンの違いについての指摘は実感として納得することしきり」だったところでして、今回はその起源についても納得することしきりです。利害調整が仕事の公務員にとって、法律とは一方的に国家が規制するものではなくて、当事者間の利害が対立した時の紛争処理方法をあらかじめ定めたものであることは自明のことなのですが、そんな公務員の仕事を理解する気がないだけではなく、法律の役割すら理解してなかった可能性が高いということですね。

「法律の条文が専門的すぎて難解だ」とか「一般市民が判例なんていちいち覚えてられるか」とか「法学部卒の奴らが経済学部卒よりも出世するから経済学を軽んじている」とかいう経済学方面からの表層的な批判はよく聞くところですが、その批判の根っこの部分で法律そのものに対する無理解があるのであれば、「文系の法学部の奴らが経済学的に間違った政策を実施するのは、数学を使う経済学を理解できないからだ」とかいう批判こそが無理解の産物である可能性が高いですね。数覚なるものを駆使される数学科出身の経済学の先生同士の諍いもありましたが、まあこれも、文系・理系が入学段階から厳密に区分されて、経済学そのものを専攻する学部が多数存在する日本の特殊的現象なのかも知れません。

なお、私自身は日本の経済学者の法律に対する無理解に加えて、hamachan先生が座右の書として挙げられていたポランニー『大転換』の記述によれば、経済学での利害関係についての強迫観念が歴史の読み間違えにつながっているようにも思います。当時のエントリから引用すると、

自由主義者が規制として糾弾するさまざまな保護政策というのは、そもそもそうした自己調整的市場システムでは保護されないとしても保護しなければならないものが現に存在し、それを保護することを目的としているものであって、誰が対象者であっても必要とされる規制なわけです。上記でポラニーが指摘しているのは、それが自己調整的市場システムによる経済的利益を阻害していることを主張しようして、結局その証拠を示すことができないときは陰謀論に頼らざるをえないしまうという陥穽ですが、スティグリッツが「ポラニーが適切に論じているように、彼らの見解は歴史の読み違えを象徴している」と指摘する点は、21世紀の現在においても傾聴すべきものと思います。

 ひとたびわれわれが、社会全体の利害でなくただ党派的な利害だけが影響力を発揮しうるという強迫観念から自由となり、またこの強迫観念と対をなしている、人間集団の利害は金銭的な所得に限定されるものであるという偏見から解放されるならば、保護主義的運動がもつ広さと包括性は謎でも何でもなくなる。金銭的な利害は当然のことながらもっぱらそれにかかわる人々によって代表されるが、それ以外の利害はもっと広範な人々に関係する。たとえばそれは、隣人、専門家、消費者、歩行者、通勤者、スポーツ愛好家、旅行者、園芸愛好者、患者、母親、あるいは恋人としての個人に、さまざまな経路を通じて影響を与える。そしてそれらの人々の声は、たとえば教会、市町村、結社、クラブ、労働組合、そしてもっとも一般的には幅広い支持原理に基づく政党のような、ほとんどあらゆるタイプの地域的・機能的組織によって代表されることになる。利害という概念をあまりに狭く解釈すれば、社会史および政治史の姿を歪めることにならざるをえず、利害というものに純粋に金銭的な定義を与えるとすれば、人間にとって死活の重要性をもつ社会的保護の必要性の存在する余地がなくなってしまう社会的保護は、一般に社会(コミュニティ)の全体的な利害を託された人々が担うことになる。近代の文脈においては、これは時の政府が担い手となることを意味する。市場によって脅かされたのは相異なる多様な住民階層の、経済的な利害ではなく、社会的な利害であったというまさしくこの理由から、さまざまな経済階層に属する人々が無意識のうちに、この危険に対処しようとする勢力に加わったのである。
p.280

[新訳]大転換[新訳]大転換
(2009/06/19)
カール・ポラニー

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※ 強調は引用者による

というポラニーが喝破しているように、「党派的な利害だけが影響力を発揮しうるという強迫観念」と「人間集団の利害は金銭的な所得に限定されるものであるという偏見」に囚われた経済学者が、法律の利害調整という役割に気がつくことはないのでしょう。実は、法律の勉強なんてのはそれほど専門的である必要はなくて(もちろん民法の公序良俗とか信義則のような基本原理はきちんと勉強する必要がありますが)、法律の制定に至った歴史的な経緯を踏まえれば、「国家が一方的に人民に不都合な規制をかけているなどという、東洋専制主義世界と見まがうような法律観」に囚われることはありません。つまりは、法律を専門的に勉強しないから法律を理解できないということではなく、社会の成り立ちについて少しでも関心があれば、とんちんかんな法律論を振りかざすような恥ずかしい事態に陥ることはないはずです。いやまあ、社会科学というのはそこがスタートだろうと思うのですが、特に経済学方面ではなかなかそういう議論は聞かれないところでして、今回の雇用特区なるものは、その実態をあぶり出した貴重な経験だったのではないかと思うところです。

ついでにいえば、「hamachan先生のおっしゃる法学者と経済学者のディシプリンの違いについての指摘は実感として納得することしきり」のエントリのリンク先で、hamachan先生に「このWEDGE大竹論文にもまさにその悪しき傾向が濃厚に見られています」と指摘されていた大竹先生も、この4月に改正された労働契約法についてとんちんかんな批判をされていますね。

大学には、新規の教員の多くを、5年から7年程度の任期付きで雇用し、適性があれば、無期労働契約に変更するというテニュアトラック制度を取っているところも多い。5年程度の研究教育実績でじっくり適性を判断するのである。しかし、改正労働契約法の下で、本人の就職活動の余裕を持たせるためには、3年程度で適性を判断する必要がある。若手研究者は短期的に成果が出る研究に集中するはずだ。日本の研究・教育のレベル低下を防ぐには、労働契約法の再改正が大至急必要だ。

研究レベルを低下させる労働契約法(2013年10月17日 (木))」(大竹文雄のブログ

ええと、今回の労働契約法の改正は、同一の使用者との間で、有期労働契約が通算で5年を超えて繰り返し更新された場合は、労働者の申込みにより無期労働契約に転換するものなので、今年の4月1日以降に5年の有期労働契約を締結していれば、5年後はまだ無期労働契約に転換しませんけど。5年の有期労働契約を1回以上更新していれば話は別ですが、詳しくは厚労省のパンフレット4ページの一番下の図をご覧ください。
労働契約法改正のあらまし【全体版】[10,193KB]

つまり、5年の有期労働契約を1回以上更新(または通算で5年以上にわたって更新)した場合に、労働者の申込みによって無期労働契約に転換するのであって、5年過ぎればいきなり無期労働契約なんて単純な法律ではありません。そもそも、hamachan先生も指摘されている通り、現行の労基法14条で一定の事業の完了に必要な期間を定めるものはその期間の有期労働契約を締結できるとしているわけで、「若手研究者は短期的に成果が出る研究に集中するはずだ」とおっしゃるのであれば、必要な期間を定めればいいだけのことでしょう。更新の結果として無期雇用契約へ転換した場合であっても、民法上の無期雇用契約は2週間前の予告があれば労使どちらからでも契約解除できるわけで、それこそが日本の実定法がジョブ型を前提としている証拠でもあります。それを実定法通りに運用できるようにしましょうという改正であることを理解せずに、「無期雇用契約は解雇ができない」という実定法ではない日本型雇用慣行にどっぷり浸かりながら批判するから、話がこじれていくわけで。

ただし、大竹先生が意図的に混同されているのか不明ですが、これを「5年程度の研究教育実績でじっくり適性を判断する」として、試用期間のような位置づけとするのは問題がありますね。テニュアトラック制度だろうがなんだろうが、長すぎる試用期間は通常の有期労働契約と同等に位置づけられるものであって、雇用期間途中での契約解除(解雇)は無期労働契約のそれよりも要件は厳しくなります。さらに、労働基準法施行規則の改正により、契約期間とともに「期間の定めのある労働契約を更新する場合の基準」も書面の交付によって明示しなければならない事項となりました。有期労働契約については、それをテニュアトラック制度と呼ぼうが呼ぶまいが、更新の基準についてあらかじめ書面で明示することが義務とされたわけです。基準が明確かどうかという問題はあるにしても、雇用される研究者にとっては予見可能性が高まったと評価すべきことなのではないでしょうかね。

この辺の混同も、法律についての無理解が原因なのかも知れません。ポランニーの言葉を借りれば「人間の意思と希望だけで形成された社会を想定することは幻想であった。ところがこれが、経済を契約的関係と、そして契約的関係を自由と同一視した市場的な社会観の結果であった」というところでしょうか。
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2013年10月20日 (日) | Edit |
一週間遅れとなってしまいましたが、先週で震災から2年と7か月が経過しました。被災地の風景が一変したということはまったくないのですが、震災直後の風景からすればだいぶ変わってきているのも事実です。先月末に被災地で宿泊する機会がありまして、そこは津波で4階まで浸水したホテルだったのですが、グループ補助金を利用してすっかりきれいに再建されていました。その周辺には地元の海産物を振る舞う割烹居酒屋も営業していて、そこもグループ補助金を利用して営業されているとのこと。しかし、店主のお話では、当初補助金を申請したよりも修復の経費がかさみ、補助金も増額したけど持ち出しも増えたとのことでした。しかもその一帯がかさ上げされることになっているため、今年度末にはまた移転しなければならず、借金ばかりが増えると深刻な悩みをお話しいただきました。

補助金を使って再建しておきながら、またかさ上げで移転するなんて税金のムダだという声が聞こえてきそうですが、震災から2年半以上経って生業がなければ生活できないのが現実です。特に、震災後は失業者向けに失業給付のみなし支給や緊急雇用創出事業などの対策が講じられた(その当時は「日本はひとつしごとプロジェクト」なんて盛り上がっていましたが)ものの、店舗を失った個人営業主に対しては救済措置がないと批判が大きかったところに創出されたのがグループ補助金だったことを考えれば、当座の店舗を再建するためにグループ補助金を利用することは制度目的に沿ったものではあります。

そういった当時の制度趣旨からすれば、確かに状況は変化してしますし、その都度必要な支援策を見直しつつ新たに講じなければならないのですが、「民意」なるものが移ろいやすい中では、過去に行った支援策までが批判されてしまうことも少なくありません。先ほどの「グループ補助金で再建した店舗を再度移転するなんてムダ」という批判も、後からだったらいくらでも可能となります。これはもちろん、被災地外部だけからではなく内部でも起こりうる批判です。実際に、グループ補助金の採択をめぐって地域内で対立していたのは、hahnela03さんが「被災地で問題なのは、二重に補助を得る方達が偏りすぎることに本当の問題があります」と指摘されていたとおりです。

これは去年の12月に書いたことですが、「「悲しくない行き違い」の所在をお互いの立場の中で相互に探り合い、できるだけ少ない遺恨を残しながら進めるしかないのではないかと考えるところです。この国では、その間に入って悪役に仕立て上げられながらその遺恨を背負い込むのも行政の大事な仕事ですし。」というとおりでして、もう少しぶっちゃけていえば、そもそも行政なんてのは、地元の住民の方々が特に心配しなくても、いちいち話合いをしなくても「うまくやってくれよ」という暗黙の負託を受けて仕事をしてきたわけで、いろいろ不満はあるにしても、それほど「悲しい遺恨」が残らなければ、「とりあえずうまくやってきた」のが実態なのだろうと思います。拙ブログでは昔から「公務員の仕事は利害調整でしかない」ということを繰り返しているところですが、そのいろいろ不満がある中で「とりあえずうまくやってきた」状況が、震災によって一変してしまったわけです。

念のため、住民の方々を批判する趣旨はまったくないのですが、これまである程度は行政の「とりあえずうまくやってきた」ことに任せて、ご自身の家庭や仕事のことを考えて生活を送っていた住民の方にとっては、「とりあえずうまくやってきた」積み重ねとして形成された地域が丸ごと流され、「とりあえずうまくやってきた」町役場そのものが流されて職員数が激減してしまい、突如として本来の住民自治が求められるようになってしまっています。もちろん、住民の方々のご自身の生活や仕事を再建しなければならない状況の中で、です。これは役場の職員も同じことで、自分の生活を何とかしなければならない中で、通常の仕事に加えて復興事業の業務量が重くのしかかっている状況です。

阪神・淡路大震災の際も同じような批判がありましたが、この状況に置いて通常ベースの「とりあえずうまくやってきた」行政の手法で事業を進めると、「行政が先走りして住民不在で勝手に街づくりを進めたから、ムダなハコモノができたり、住民にとっては望まない町になった」という批判を招いてしまいます。というか、すでに防潮堤の議論などはその典型になってしますね。しかし、だからといって「住民参加」を進めようとしても、住民の方々はもともとご自身の家庭や仕事に精一杯で、その中で「住民参加」してきた方というのはごく一部であって、さらにそれを再建しながら積極的に参加する方は限られた方となってしまいます。結局、「行政が一部の住民とだけ合意した計画を作って、勝手に事業を進めた」という批判が巻き起こることとなってしまうわけです。

冒頭の割烹居酒屋でも、地元の方がいろいろとお話をされていましたが、昼間は自分の仕事をして夜は地域のことを考えても、夜に話し合ったことを地元住民同士で合意形成するだけの労力を割く余裕はなさそうでした。有識者と呼ばれる方々はこの状況でも「住民合意は必ず可能だ」とおっしゃるのでしょうけれども、おそらくそれは住民同士が話し合って到達した合意ではなく、その「住民参加」を行政がお膳立てしながら、最後は行政が泥をかぶって事業を進めた結果としてもたらされるしかないのが実態ではないかと思うところです。

2013年10月02日 (水) | Edit |
安倍総理が正式に来年4月の消費税率引き上げを表明したとかで、ネットでは「欠陥消費税は大量殺人税制」とか「’98年の自殺者数異変は消費増税以外には考えられない」とか拡散されている方(リンクしませんので適当にググっていただければ)を見受けましたので、まっつぁんことパオロ・マッツァリーノさんの分析を引用しておきましょう。念のため、私は本書の前半で繰り広げられる経済学disは言いがかりに過ぎないと考えておりますし、まっつぁんの分析がすべて正しいというつもりはありませんが、少なくとも、自分の気にくわない制度に「大量殺人」とかのレッテルを張るような煽動的な議論よりは熟読玩味する価値があると思います。

 失業率と自殺率の相関関係を発見してワーイワーイでは、ある種の思考停止です。そして学者のみなさんは、相関関係があるから、自殺をなくすには失業をなくそう、とおっしゃる。ほらね、みなさん、データ教の信者になっちゃってるんです。
 発想を変えましょう。相関関係とは、たまたまそうなっているというだけのことなんだから、それを断ち切ってしまえばいいのです。
 要は、失業しても死なずにすむ社会にすればいいってことですよ。そう考えるほうが、結果的により多くの命を救えるのではありませんか。
(略)

それでは真の原因は?

 データを散々こねくり回して、ぐだぐたいっといてナンですが、自殺の真の原因も平成10年の急増の理由も、すでにわかっているんです
 警察庁の調べによれば、自殺の原因は圧倒的に、健康問題、それも老人によるものが多いんです。それに次ぐ原因が、経済生活問題で、このツートップが、自殺原因の7割近くを占めています。
 グラフの97、98年――つまり平成9、10年のあたりをごらんいただきたいのですが、腑に落ちないところがあります。経済生活問題だけがアップしているのなら、そうか、平成10年の自殺率アップのおもな原因はやはり失業だったか、と素直に納得できるのですが、健康問題も同じように急増しているんですから、謎は深まるばかりです。
(略)
髙橋祥友さんは、平成10年以降、自殺原因で経済生活問題が増えたのは、それを分類した現場の警察官が、「未曾有の平成大不況」みたいなマスコミのうたい文句に影響を受けた可能性があると指摘しています。そう、むしろ現場の警察官の主観は、経済問題を重視しすぎる方向へ偏っていたわけで、客観的な判断を重視する客観マンなら、経済問題による自殺は、実際にはデータよりももっと少なかったはずだ、と考えなければいけないんです。
(略)
 宇宙人にも前世があるのかどうかはさておき、こちらは職業別の自殺者数に注目します。問題の平成9年から10年にかけて、無職者の自殺はおよそ3700人も増加しました。
「そら見たことか」
 いえ、早とちりはいけません。警察の自殺統計での無職者とは、失業者・ホームレス・その他の合計なんですが、このうちほとんどが「その他」です。その他ってのは、仕事をしていない老人のことなんです。失業率と関連のある、本当の意味の失業者は、自殺した無職者の中の、たった1割にすぎません。
(略)

つっこみ力 (ちくま新書 645)つっこみ力 (ちくま新書 645)
(2007/02/06)
パオロ・マッツァリーノ

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※ 下線強調は原文。

ここまでで、自殺の増加は「経済生活問題」を原因とするものだけではないことがデータから示されています。これに比べると、消費税「だけ」をやり玉に挙げる議論が偏ったものであるという印象が強いですね。

なお、詳しいデータが示されていないのでその真偽のほどは不明ですが、まっつぁんは一つの推論として、住宅ローンの制度変更が要因となっている可能性を示しています。(10/2追記)

住宅ローンの闇

 さて、そうなると、次なる疑問にぶち当たります。なぜ日本人は借金ごときで自殺するのでしょう。警察も、さすがに借金・負債の内容までは公表してません。自殺者が抱えていた負債の額と内容を調べれば、かなり有意義な結論が得られるはずなので、是非詳しい調査をお願いしたい、とだけいっておきまして、私にはひとつ思い当たるフシがあります。(引用注:この段落10/2追記)
 日本人が自殺しなければならないほどの借金をするといえば、それはもう、住宅ローン以外にありません。なぜなら、貯蓄動向調査や家系調査の結果でも、勤労者世帯が抱える負債の9割が、住宅・土地のためのものであることがわかっているからです。
(略)
 平成10年急増の陰には、平成5年ころに公庫が大量に貸し出した「ゆとりローン」というシステムがあったことは、住宅関連業界では有名な話です。
 ゆとりローンでは、最初の5年は返済額がとても低く抑えられていたので、貧乏人でも家賃並みの返済額で夢のマイホームが持てる、と評判のいいシステムでした。しかし平成12年に廃止されます。夢のように思えたシステムがじつは悪夢だったことが、わかったからです。
 最初がラクなぶん、6年目から返済額は2倍近くまで跳ね上がるのです。具体例を調べてみたら、当初は月々6万円、ボーナス37万円の返済だったのが、6年目から月10万円、ボーナス月64万円の支払になったケースがありました。年間の返済額が、いきなり約100万円もアップするんです。
 この仕組みは、給料が5年後に大幅アップしていることを前提にしないと成り立ちません。それがおりからのデフレ不況で給料が上がらないせいで――といいたいところですが、ちょっと違います。たとえ景気がいいときでも、そんなに給料は大盤振る舞いで上がりゃしません。
 厚生労働省の統計では一人あたりの現金給与の推移を見ると、バブル絶頂のころだって、5年かかって年収にして80万円程度のアップでした。ゆとりローンを始めた95年とその5年前を比べると、せいぜい45、6万円のアップでしかありません。6年目から100万円も増える返済をできるはずがないんです。ゆとりローンが始まったころから、あれはヤバい、詐欺まがいだぞと危惧する声は上がっていたのです。

マッツァリーノ『同』pp.193-202

まともな経済学では制度変更をいかに変数としてモデルに組み込むかで日夜研究が続けられているのですが、ネットで拝見するライフハックな「思考の型」による経済学の議論では、制度変更が無視される傾向がありますね。消費税率引き上げに先行して所得税と法人税の減税や社会保障の拡充が行われているのですが、それを無視しながら消費税率引き上げを「大量殺人税制」と指摘されるような方が、ゆとりローンの影響による自殺者の増加という可能性を考慮することはなさそうです。

この点、まっつぁんは「失業しても死なずにすむ社会にすればいいってことですよ」として、ゆとりローンという制度変更についてきちんとデータを用いて検証されているところでして、改めて「パオロさんの後半の自殺増加についての指摘はとてもよくできた統計学あるいは計量経済学の論文」だなと見直した次第です。

なお、「東日本大震災という災害が発生して多くの方が住居を失ったにもかかわらず、住宅政策が国の社会保障として位置付けられることはなさそう」な日本の住宅政策についても、まっつぁんはきちんと指摘されています。

 現在、日本の都市部の借家は4割くらいですが、戦前は7割から8割が借家でした。庶民は一生借家住まいが普通だったんです。ニューヨークとか、アメリカの大都市だって、いまだに7割くらいですよ。
 日本は戦後、家賃統制などのせいで民営の貸家経営を成り立たなくしてしまいました。貸家がたりなかったにもかかわらず、公営の貸家を作ろうとしなかったんです。それどころか、庶民に自己責任で家を買わせ、住宅建設で景気をよくする道を国民に強要しました。
(略)
 もし欧米の庶民が日本と同じ状況に追い込まれたら、けっこう毛だらけネコ灰だらけ、とはいきません。公営の安い賃貸住宅を建てろ、と暴動を起こします。実際、70年代にはヨーロッパ各地で、住宅難をめぐる暴動が起きました。

マッツァリーノ『同』pp.204-205

日本の住宅政策が国民に持ち家を強制したのはそのとおりですが、雇用促進住宅によりジョブ型の雇用慣行を築こうとした政策もあったわけで、それを「行政のムダ」と叩いて廃止に追いやったのもまた民意です。まあ、そう思いこまされている庶民は悪くなくて、そう思いこませた政府が悪いということもできそうですが、ならば「行政のムダ」と叩くことは自己矛盾となってしまいます。「民意」とはかくも移ろいやすいものですね。さらにいえば、モーレツに働く男性正社員の給料でなければ持ち家で生活ができないというのは、特に戦後の国の社会保障の手薄さをカバーするための苦肉の策として、電産賃金体系から生活保障給が広まったことの裏返しと思うのですが、所得再分配を欠いたアベノミクスにおいて賃上げばかりが議論されるのは、国による社会保障を軽視しているこの国の状況をよく物語るものともいえそうです。

ついでながら、私はまっつぁんの経済学批判は言いがかりだとは思うものの、その懐疑的な姿勢には共感するところが多くあります。昨今の消費税をめぐる議論について懐疑的に眺めるため、以下の記事で指摘されているような姿勢を保つことが必要だと考えております。

■「科学者」にだまされない

 こういった非科学で問題になるのは、それを科学のように見せる科学者の存在です。

 私も研究者としてこの点は特にはっきりしておきたいところですが、学会で発表したとか、研究しているという程度のものを科学と呼んではいけないと思っています。しっかりした学会の論文として、査読のプロセスを経て掲載され、手順を踏んだものを科学と呼ぶべきと考えています。
(略)

■危険を煽ってるものこそ危険

 実は、簡単に非科学と科学を見分ける方法があります。「マッチポンプ」をしているかどうかです。

 「世の中の食べ物は何を使っているかわからないので危険。だけどこれを飲んだら健康になれる」というようなものです。「危ない」と危機感をあおって、これで危険から回避できると自社の商品を売り付けるマーケティングの方法を、マッチポンプ商法と言い、古くから使われています

 そういう食品の大部分には、まず疑いの目を向けるのがよいでしょう。

 先進国において、食べ物に危険なものなどほとんど存在していません。食べ物のリスクは過去と異なり、現在は厳しい管理下に置かれ、細菌やヒスタミンなどの食中毒以外、リスクは極めて低いからです。欧州でリスク管理の目安となる、100万分の1以下のリスクに抑えられており、ほとんどが1億分の1以下です。

 「危険」という言葉がもつイメージは、食べたら50%くらいの確率で健康被害を受ける感じではないでしょうか。実際には、それとはかけ離れて小さなリスクなのです。

 それを「危ない!」と言いきって物を売る商法には、乗らないほうが賢明なのです。

「科学」にだまされないで 健康食品のウソ・ホント ホントが知りたい食の安全 有路昌彦(2013/9/24 6:30)」(日本経済新聞 電子版)

同じようなことは、経済学を科学として考える立場の方にもありそうでして、改めて「「政府の失敗」への恐怖を刻み込んでいるのは、それをそれとして強調する方々ご自身であることは、昨今の原発に対する運動の界隈を見ているとよくわかります」ね。

(念のため)
本エントリの冒頭で、念のためとして「まっつぁんの分析がすべて正しいというつもりはありません」と書いたとおり、引用したデータの扱いは素人の域を出ていないと思います。引用の意図を明確にするため、本文を一部修正しました。

自殺原因については、内閣府の「平成25年度自殺対策白書」に特集が組まれていますので、そちらを参照される方がよろしいかと思います。

(健康問題は平成10年にピーク、経済・生活問題は15年および21年にピーク)

 原因・動機別の自殺死亡率(図4)は、「健康問題」が最も高く、次いで「経済・生活問題」、「家庭問題」、「勤務問題」などが高くなっており、その順位は自殺死亡率の急上昇以前から直近まで入れ替わっていない。自殺死亡率が急上昇した平成10年には、こうした原因・動機が軒並み上昇した。その後、「健康問題」は変動しつつもゆるやかな低下傾向にあったが、「経済・生活問題」はほとんど低下することなく15年をピークとした山を形成し、また、「家庭問題」、「勤務問題」はわずかながら上昇傾向にあった。
p.42(pdfではp.5)

まとめ

 平成24年の自殺者数は15年ぶりに3万人を下回ったが、直近の自殺傾向は急増する以前の9年の状態へ単純に回帰しつつあるわけではなく、各々の原因・動機により大きな違いがみられている。
 入手できるデータの制約が多く分析の限界はあるものの、これまで得られた結果をまとめると、自殺者が急増した平成10年以降直近までの減少した要因のうち、「健康問題」および「負債(多重債務)」については、各対策への取組による効果が高いが、「失業」などについては景気回復による効果が高いと考えられる。また、今後、自殺総合対策大綱に掲げられた数値目標の達成に向けては、これまで実施されてきた対策への継続的な取組に加え、失業率を引き下げていくような総合的な経済対策とともに、景気悪化から自殺者増加に結び付く経路を弱めていく取組が必要である。そして、雇用構造の変化などを背景として自殺者の増加傾向がみられる「勤務問題」への取組が必要であり、特に深刻な状況にある若年層に重点を置いた取組を早急に実施することが必要である。
 より個別具体的な原因・動機においては、各課題が顕在化した時期や対策による効果が様々であることから、以上の考察への一律な当てはめは難しいかもしれない。しかし、自殺動向の特性の把握に向けた試みは、今後の自殺対策の企画立案などにおいて極めて重要であり、今般の分析はその際の一つの指針となり得ると考えられる。
 なお、自殺の背景にある悩みや不安が減少しない限り、たとえ自殺者が一時的に減少したとしても、中長期的には自殺者が増加してしまうリスクが残される。自殺問題を根本的に解決していくためには、悩みや不安に関する世論調査の結果にも注視する必要がある。
p.58(pdfではp.21)

特集 自殺統計の分析 (PDF形式:472KB)」(平成25年版自殺対策白書 本文(PDF形式)

というわけで、分類方法が曖昧ではありますが、「経済・生活問題」による自殺死亡率のピークは消費税引き上げのあった平成9年ではなく、ITバブルも過ぎた6年後の平成15年でして、平成21年のリーマンショック時もこれに近い水準となりましたが、その後急激に下がっています。平成9年から10年にかけての大幅な上昇は、まっつぁんの指摘されるゆとりローンも大きな要因だったと思いますが、その後の経緯をみると、それだけが原因ではないように思います。

ただし、世の中には原因を一つに特定しないと気が済まない方もいらっしゃるようですが、自殺対策白書のまとめで指摘されているように、自殺という特異な行動は様々な要因が絡まる中で現れるものと考えれば、まっつぁんのような制度要因に着目した考察には一目も二目もおくべきではないかと思います。それに比べると、消費税だけを悪者に仕立て上げる議論はなんともシンプルマインデッドに思われますね。

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