2013年07月29日 (月) | Edit |
拙ブログでは、公務員の仕事は利害調整であるとしているわけですが、その実態に迫った学術研究はこれまであまりありませんでした。ということで、発売直後に買っておきながら長らく積ん読になっていた牧原先生の『行政改革と調整のシステム』をやっと読了しました。牧原先生の著作は、サントリー学芸賞を受賞した『内閣政治と「大蔵省支配」』以来でしたが、相変わらず密度の濃い議論がびっしりと詰まっていて、読み進めるのに骨が折れました。それだけ読み応えのある著作でもあるのですが、その密度の濃さは、「はじめに」で述べられる次のような言葉にも表れています。

 なお、資料に即して分析する本書は、政治学者からは一見瑣末に見える「調整」の政策事例を多数とりあげる。それは、「調整」が個別の合意の蓄積だからであり、「官邸主導」・「総合調整」と呼ばれる高度な政治判断に近い事例も、こうした瑣末な合意の上に成立するという側面を看過すべきではないからである。そしてまた、「行政の現実」を知っていると自認した橋本(引用注:橋本龍太郎)は、細かい行政実務を相当程度熟知していたと言われており、それは橋本に限らず、「調整」の制度設計にかかわった井上馨、陸奥宗光、原敬、浜口雄幸、松井春生、岸信介、中曾根康弘、後藤田正晴らの政治家・官僚も同様であった。彼らの活動した領域を分析の対象とするには、こうした瑣末な事例にも踏み込まねばならない。しばしば政治学者が軽視する行政の問題は、歴史上の政治指導者にとって決して瑣末ではないからである
p.15

行政改革と調整のシステム (行政学叢書)行政改革と調整のシステム (行政学叢書)
(2009/09)
牧原 出

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※ 以下、強調は引用者による。

思わず強調だらけにしてしまいましたが、政治学者の言うことは話半分以下で聞くことにしている私にとっても頷くことしきりの名文です。そして、これらの瑣末な「調整」を軽視するのは政治学者に限らず、前回エントリでも指摘しましたが、「実務の過程についての政府公表資料は無視するかあら探しするだけ」なライフハック的な思考の型を持つ経済学者も同様ですね。しかし、本書では、「ドクトリン」という概念を用いて、政府の諮問機関の報告書のもつ重要性が明らかにされます。

 このような「ドクトリン」を制度的文脈から位置付け直すならば、まず諮問機関報告書と学術論稿とが区別され、前者は「ドクトリン」を、後者は「理論」を扱うと考えることができる。これに法律を核とする制度形態をとる「政策」を加えるならば、「理論」・「ドクトリン」・「制度」という三種類の論理構成の区別は、学術論稿・諮問機関報告書・(法)制度の三つの素材の区別に対応している。従来は、学術論稿=理論が(法)制度=政策に転嫁するととらえられていたが、ダンサイアとフッドはこれを諮問機関報告書によって媒介しようとしたのである。言いかえれば、行政学の「理論」は、大学の研究室で純粋培養されるのではなく、諮問機関という場で生成されることが多いということになる。
牧原『同』p.24

牧原先生は、この「ドクトリン」の概念による行政学の特徴を次のように説明します。

 つまり、第一に制度論の伝統の上に立って、独任性と区別された合議体の特質が抽出される。第二に行政改革を諮問された合議体としての諮問機関は、社会科学にもとづいた実態調査を多角的に行う。第三に政策過程の中に置かれた諮問機関は何らかの形で報告書を提出する。第四にその報告内容が審議や報告書の公開を通じて、また関係者が論稿を公表することによって、学会又は世論と結びついて新たな「ドクトリン」へと転化していく。これらの一部は、事例研究などで検証され、「理論」としての論理的一貫性を整えていく。「行政学」とは、こうした「理論」とその周囲に存在する「ドクトリン」を包括する言説である。行政組織、諮問機関、シンクタンク、大学といった諸制度をゆるやかに連結する言説が、論者により濃淡を帯びつつ体系化が図られてきたのである。
牧原『同』p.74-75

ここから本書では、日本の行政組織についての制度の変遷の中から、「調整」の手続がどのように「調整」されてきたのかを細かに追っていきます。その中でも「総合調整」の契機となったのが、やはり戦時体制の強化だったとのこと。

 このように、省に総務局が設置され、そこで省の所掌する事務について「総合調整」を行うという規定の形式は、1942年に「内外地行政」の一元化による大東亜省の設置に伴う省組織の刷新の際に、総務局が物資動員計画関係の他の省に共通して設置されるようになったときに、共通の規定様式となった。そして、太平洋戦争の敗戦とともに、総務局を各局が廃止し、その業務を大臣官房が継承したときに、大臣官房が省内事務の「総合調整」を行うという規定へと受け継がれたのである。
 この形式は、総理府外局の調整官庁の事務や、総理府そのものの大臣官房にも規定された。これによって、省内の「総合調整」のみならず、省を超えた政府機構全体についても「総合調整」という」事務が組織法令上用いられるようになっていく。さらに1957年の内閣法、総理府設置法の改正で、内閣官房が政府機構全体の「総合調整」の組織となることが確認された後も、調整官庁の事務として「総合調整」は規定され続けた。こうして、現在いわれるように、「総合調整」とは政府全体の調整を指すものととらえられるようになったのである。
牧原『同』p.176
※ 年号は漢数字からアラビア数字に変えています。以下同じ。

官房系の部署に「総合調整」の事務が規定されるようになったのが物資動員計画関係の部署から始まり、戦後それが全ての省庁に規定されただけではなく、政府全体についても内閣官房が「総合調整」に当たることとされ、それが現在まで組織として残っているわけです。

地方自治体も、特に都道府県は戦後20年程度は国からの元「官吏」が幹部を占めていましたから、その都道府県内の市町村も含めて同じような組織形態となっています。他の組織(庁内はもちろん、他の自治体のこともあります)との調整に当たるときは、自分の「カウンターパート」を的確に把握しなければ仕事が進みません。そうしないと、窓口と思っていた部署が隣の係で、たまたま受けた職員が好意で橋渡し役になってしまって、伝達が遅いとか伝わり方がおかしいということになって、結局「調整」そのものがうまくいかなったりします。まあ、そこまで単純な話ではないですが、的確なカウンターパートを持つということは「調整」の大原則ですね。

そして、本書では省間調整の例として、建設省や農水省等の複数の省庁間で水利権をめぐって1960年から1961年に行われた「協議」において、「覚書」が締結されるに至るまでの調整過程を日付を区切りながら細かく取り上げます。どこの組織でも同じだと思いますが、関係する部署が増えれば増えるほど協議事項が複雑化し、日程が細かく区切られ、日々協議内容が変化していき、最終的な合意内容が何の変哲もない確認事項だけになるということがよくあります。差し迫った問題を解決しなければならないという現実の前には、両者にとって申し分ない精緻な合意を得ようとしても手間ばかりかかって間に合わないため、とりあえずの方向性を示して大きな問題が起きない限りはそのまま運用していくわけです。

そして本件では、「覚書」締結後20年以上にわたってその運用が滞ってしまう実態が生じてしまいます。「覚書」の内容が実務的に煩雑であったり、それがなくても実質的な支障がない場合は、何の変哲もない確認事項ですら実施されないことがあるわけです。それが問題の先送りだという指摘はごもっともですが、では困難な問題であってもとにかく意思決定を優先し、問題を先送りしないで「根本的な改革」をしようとする方々がどのような結末を迎えたかは、先週の参議院選挙を見れば一目瞭然だろうとは思います。

冒頭の引用部にある通り、歴代の首相や指導的立場にある政治家はこうした事務レベルの実務をできるだけ把握しようとし、官僚もその意思決定を支えてきました。本書の「おわりに」では、こうした政治家の姿勢が否定され、「官邸主導」やら「政治主導」がもてはやされる現状について、やや皮肉を込めてこう指摘されています。

 したがって、政治家には情報を掌握した上での判断こそが求められるのであり、「官邸主導」とは、その範囲での官邸の影響力の発揮なのである。政治的任命職は官僚のよきパートナーとして、この過程に参画し、政治家を補佐する。そこで必要なのは、まずは政策の専門知識と、これを一般の国民にわかりやすく解説する言語能力である。対して「調整」の技術とは、制度を知悉した官僚の執務知識にならざるを得ない。現代社会における「政治指導」とは、このような役割分担の中ではじめて機能するものなのである。
 ところが、政治学者からはしばしば、上意下達の「政治指導」が「調整」の障害を突破しうることが強調されてきた。特に、イギリスの議院内閣制を導入することによって、日本でも「総合調整」がより容易になるであろうという見通しが、1990年代の政治改革の中で繰り返し主張されてきた。これは、本書の結論とは、強調の力点が異なる上に、見方によっては正反対の主張に映るだろう。
(略)
 そして、本書のように「行政」の「ドクトリン」を抽出し、その歴史的形成過程を追跡することによって、「政治」の「ドクトリン」の限界が明らかになる。つまり、「政治指導」は、あくまでも「調整」を先取りしていなければ有効に作動しない。その限りで、上意下達の指導ではなく、下意上達すなわち官僚との協力関係が暗黙の内に含まれているのである。ところが、既存の「政治」の「ドクトリン」は、あたかも官僚の協力関係を否定するような身振りを示すことで、マスメディアの支持を得てきた。つまり、説得力を備えてきたのである。だが、その種の説得力は、今後の日本政治が政権交代のある政党システムへと変容する際には有効とは言い難い。長期的に見て、官僚との協力関係なしには、政権担当能力を説得的には示せないからである。官僚との協力がいかなる意味で「政治指導」と両立するのかを解き明かし、それを強靱な「ドクトリン」へと変換することによって、野党が選挙で勝利して政権入りするという政権交代の局面にふさわしい「政治」の「ドクトリン」を構築できる。そのときに、本書のような「行政」の「ドクトリン」への分析方向は、一助になるだろう。
牧原『同』pp.269-270

奥付によると、本書の初版の発行日が2009年9月28日とのことなので、その1か月前に実現した政権交代より前には、本書は校了していたものと思われます。まさにその当時の野党が、「あたかも官僚の協力関係を否定するような身振りを示すことで、マスメディアの支持を得て」政権交代を果たしたわけでして、牧原先生の慧眼には恐れ入ります。結局、政権交代に味を占めた方々がどのような結末を迎えたかは、先週の参議院選挙を見れば一目瞭(ry
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2013年07月28日 (日) | Edit |
消費税の税率引き上げについて騒がしくなってきましたので、「名ばかり○○」の追記として書いた部分ですが、こっちに移動しておきます。

(追記)
本エントリでは省略しておりましたが、ドラマで指摘された「思想的純粋さ」「妥協を弱さとし聖書を絶対視する原理主義」で思い出したのがこちらのエントリでした。

「現実をネタにはするけど問題を解決するのにはまったく関心がない」といいながらテレビや雑誌に出る経済学者(若手、一流)

「言い方が気にくわないのでリフレをやめました」

部署が変わったのでリフレをやめました(官僚系)

長く時間がかかったので、昔は支持してましたが、いまは野口悠紀雄や水野和夫を支持してます

支持する政党がリフレに批判的になったのでリフレ支持やめます

支持していない政党や政治家がリフレ政策を採用したので、リフレ支持をやめます

「防衛支出を増やす」というのでリフレ政策に慎重です(憲法改正、原発容認などとかいうし)

「僕はリフレ派ですが、期待で実質金利って下がらないと思います」

「ブレイク・イーブン・インフレ率が下落したすぐに追加緩和だ」

「日本は三日続けて株価が下落してますが、同じ時期に米国は二日続けて上昇、日本の金融政策に問題があります」

「ブロックされたのでリフレ支持やめます」

……あなたがたたは、最初からリフレなんか(その目的も効果も)微塵も理解してないんだよ。敬愛する暗黒卿が、「(リフレを)支持する確信犯は1割、反対する確信犯も1割、残り8割は日和見」という名言を吐いたがまさにその通りだと思う。

■[話題]なぜかように“薄っぺらい”リフレ主張者を輩出したきたのか?(2013-06-27)」(Economics Lovers Live ReF

こちらの先生の議論には、教科書とか理論的・実証的な学術文書の類いを「聖書」のように絶対視する一方で、実際の政策の歴史的経緯や所得再分配の実務の過程についての政府公表資料は無視するかあら探しするだけという特徴がありますね。歴史的経緯については「財務省の思惑どおり」とか「日銀のデフレ信仰」という「行動原理」で説明を済ませ、社会保障については説明を諦め、社会保障の財源調達手段としての租税政策を「マクロ経済の停滞を招く」という教科書レベルの議論で済ませてしまうというライフハック的な思考停止も特徴的です。さらに、その「行動原理」や「マクロ経済の停滞」はなぜ生まれるのか、そもそもその「行動原理」や「マクロ経済の停滞」が指摘されるとおりの問題なのかという点を追求されると、「既得権益を守るため」とか「省益を守るため」という誰にも証明できないマジックワードで思考停止されてしまいます。

こちらの先生が指摘される点で「「現実をネタにはするけど問題を解決するのにはまったく関心がない」といいながらテレビや雑誌に出る経済学者(若手、一流)」というのは全く同意するところなのですが、では「言い方が気にくわないのでリフレをやめました」「ブロックされたのでリフレ支持やめます」といわれてしまう点について、ご自身に問題がないのかと顧みられることはないようですね。「思想的純粋さ」「妥協を弱さとし聖書を絶対視する原理主義」に加えて、「身内びいき」「反対意見への不寛容」「政府に対する憎悪」というのは、増税忌避の隠れ蓑としての「リフレ派」とティーパーティーの類似性を見事についていると感心した次第です。


でまあ、こちらの先生のブログをチェックしているわけではないのですが、何となくフォローしているTwitterで流れてくるので目についてしまい、そのたびに残念な気分になってしまいます。無視すればいいだけなのでしょうけど、Twitterで流れてくるということはそれだけ影響力があるわけでして、それが拡散していく様子をみてしまうと、場末のブログではありますが一言申し上げておきたくなるものです。

何度か書いていますが、私が経済政策を勉強するきっかけとなったのが稲葉先生のWiredの連載でして、現在は『経済学という教養』として刊行されていますね。その連載からほぼ10年が経過し、仕事の上ではありますが、経済政策決定の現場を経験し、(学術的なものではありませんが)経済学のトレーニングを受け、日々政策の実務にまみれながら仕事をしている中で、当時のネット界隈で「世間知」と「専門知」という対立で描かれていた経済政策に関する議論が、実は「専門知」と「実務知」の対立ではないかと思うに至っております。個人的には、その「専門知」と「実務知」の間に立ちはだかる壁は、所得再分配のための社会保障制度についての理解の違いだろうと考えております。

つまり、「所得再分配」であれば経済政策の範疇で議論できるのですが、それを実際の政策として実施するための社会保障制度を議論するためには、社会の産業化に対応するための福祉国家が形成された経緯や、その具体的な政策の制度化の歴史的経緯とか社会保障制度の執行の実務についても理解が必要となります。経済学界隈の議論が、所得再分配を意識しつつも、制度の適否を裁量性の有無(「官僚が天下り先を確保している」とか「省益を守るため」とか)とかで判断してしまうのも、そうした理解が不足していることの証左と考えるべきではないかと。

たとえば、稲葉先生は『経済学という教養』でこうおっしゃいます。

「不況・不平等・構造改革」
 以上での三題噺で新古典派経済学入門を、という本書の試みは一通り達成されたわけである。三題に絡めてまとめ直すと−−
 市場経済に対する「不平等をなくせない」という批判、そして新古典派経済学に対する「市場経済を弁護している」という」批判に対してどう応えるか? ここで批判者の多くが「不平等」の中身について、いま一つ詰めて考えていないことに注意しよう。不平等な状態にも二種類あって、一つは「弱肉強食」、恵まれた者の富は弱者からの搾取によって賄われていて、弱者の状態が絶対的に悪化しているようなものであり、いま一つはそれとは違い、富者の富は貧者からの搾取によっておらず、富者がより豊かになったからといってそのせいで貧者が(絶対的な水準では)貧しくなることはなく、かえってより豊かになることもある、という、いわば「共存共栄」の状態である。新古典派経済学が正当化する「不平等」とは後者のタイプのものである。新古典派経済学によれば、市場経済は不平等それ自体は回避できないものの、それを「共存共栄」の範囲にとどめるシステムなのである(思想史的に言えば、スミスがすでにここまで述べていた)。
 しかしながら現実には、市場経済は「弱肉強食」状態に陥ってしまうことがある。代表的なものは「不況」である。この不況を引き起こす原因は多々あるが、おそらくその中で最も重要なファクターは貨幣、市場経済という場を支えるメディアである貨幣の存在、それ自体である。貨幣が適切に供給されていなければ、市場経済は不況に陥り、「共存共栄」を実現できなくなる。そしてこの貨幣供給というタスクの責任を、個人や一企業などの個別の経済主体に負わせることはできないのだ(この問題提起がケインズの貢献である)。
pp.217-218

経済学という教養 (ちくま文庫)経済学という教養 (ちくま文庫)
(2008/07/09)
稲葉 振一郎

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「思想史的に言えば、スミスがすでにここまで述べていた」とおっしゃるとおり、「新古典派経済学によれば、市場経済は不平等それ自体は回避できないものの、それを「共存共栄」の範囲にとどめるシステム」ではありますが、それではうまくいかないことがあるからこそ、ケインズがマルサスやマムマリーの総需要の概念を用いて有効需要創出を政府の役割として提起したのではなかったでしょうか。そのケインズの問題意識の前提には、産業化してたびたび不況に陥いる社会において、市場を通じた企業活動からの賃金だけでは個人の生活を保障できないという目の前の現実があったはずです。まあ、「三題噺で新古典派経済学入門を、という本書の試み」からすると、稲葉先生がこうした結論に達することは不思議ではないのですが、一部のリフレ派と呼ばれる方々がこうした認識であれば、所得再分配の視点を欠いたアベノミクスがもてはやされるのもやむを得ないのでしょう。

そしてこのような認識から導かれる「公共財」について稲葉先生は、

…ところが、「公共財」「みんなのもの」のケースでは、まさに不平等の背後に「搾取や略奪、詐取の存在」を高い確率で推測できてしまう。ナチュラルな「公共財」のケースであれば、それは誰かが不正にも他人の利用を妨害している可能性が高いだろうし、これに対して政策的に公共化されたサービスの場合には、むしろそのような状況の発生を許した、政策当局のコントロールの不充分さが指弾されうるだろう。
(略)
 こうした「内部化」路線に人気が集まってきていることには、もちろん正当な理由がある。一世代以上前の公共政策論では、「市場の失敗」イコール「政府の領分」という等式がまかり通っていたが、市場にうまく処理できないからといって、政府に市場以上にうまくやれるとは限らないということ、ことによると「市場の失敗」よりひどい「政府の失敗」にはまる恐れがあることが軽視されていた。しかし、社会主義の崩壊は、「政府の失敗」への恐怖を人々の胸に深く刻み込んだといえよう。

稲葉『同』pp.303-305

と、公的サービスにおける「政府の失敗」への恐怖を強調します。「政府の失敗」への恐怖を刻み込んでいるのは、それをそれとして強調する方々ご自身であることは、昨今の原発に対する運動の界隈を見ているとよくわかります。政労使の合意による政策決定に対して民主党の幹事長が「社会主義だ」と批判するようなこの国では、社会主義そのものが「悪」のレッテルとして機能していますから、「政府の失敗」を社会主義の崩壊と結びつけられれば、そりゃ政府が供給する公的サービスの背後に「「搾取や略奪、詐取の存在」を高い確率で推測できてしまう」でしょう。

この政府の失敗についての議論から「公共性の喪失」という重要な視点が示されます。

 要するに、昨今の不況論議においては、何かが欠けている。公共政策論はちゃんと存在する。個人や企業へのサバイバル指南もある。しかしこの両者をつなぐ環が、公共政策と個人の行動・生活とをつなぐロジックが、ことに後者から前者へのボトムアップのロジックが欠けているのだ。おそらくこういう切断は不況に限った話ではないが、先を急がないようにしよう。
 これをただちに--「公共性の構造転換」を通り越した--「公共性の喪失」と呼んで嘆くのは、早計かもしれない。スミス=ワルラス的な市場経済ビジョンにおいては、少なくとも経済における公共性とは、ミクロ的な経済行動の合算、総計以上のものではない。そこにおける「マクロ」とは、部分の総和としての全体に他ならない。そうだとすれば、ミクロ的な経済主体、個別の企業や個々人が経済全体のことを気に病む必要もない。個人の自己利益を求めてのがんばりが、ほぼストレートに公共の実現につながるのだから。
 しかしかりにケインズ的な経済ヴィジョンが正しく、そしていまがまさに不況--ミクロ的な最適化行動の相対的な結果としてのマクロ的な不合理--へとつながるような状況であったら? このような局面で、政策担当者ではないミクロ的な民間の経済主体、普通の企業や普通の市民には、何ができるというのか? ここにおいて普通の市民が無力な状態に追い込まれているのだとすれば、たしかにそれは「公共性の喪失」と言ってかまわないだろう。

稲葉『同』pp.319-320

「何かが欠けている」って、それこそ「所得再分配の視点を欠いたアベノミクス」が典型ですが、一部のリフレ派と呼ばれる方々が新古典派経済学的視点からリフレーション政策を強調するあまり、所得再分配のための社会保障やそれと連動する雇用・労働政策を理解する機会が奪われてしまったために、そう見えるのではないでしょうか。もちろん、稲葉先生はこの部分に引き続いて労働組合の役割を強調されていて、集団的労使関係の再構築を主張している拙ブログとしても賛同するところは多々あります。しかし、政府の役割を「公共財」の理論で理解している限り、「公共性の喪失」という視点まで到達しても、残念ながら社会保障政策に連動した雇用・労働政策まで議論が及ぶことはないでしょう。

この点では、いみじくも、稲葉先生が本書の第1章で指摘されいてることが一部のリフレ派と呼ばれる方々にそのまま当てはまってしまっていますね。

 こういうポストモダンの科学談義を、うんと矮小に戯画化するとこんな感じだ。まず「今日の自然科学は世界を支配する知的権力であってけしからん」となる。で「けしからん権力であるからには何かズルをしているんじゃないか?」と疑う。で、疑いの果てに「そうだズルをしてる! 自然科学は世界についての真実を人々に教えてくれてるんじゃなくて、逆に『これが真実だ!』と人々に思いこませることによって世界を支配しているんだ!」というトンデモな結論に行き着く。
 こんな風にマンガにしてしまうとただのバカだが、こういう疑いには、根も葉もないわけじゃない。実際問題、自然科学も所詮は人間がやることだから、いろいろ人間的、社会的な事情がつきまとう。科学者も人の子だから食わなきゃ生きていけないし、研究には暇とカネがいるし、仲間内の足の引っ張り合いもあれば世間との軋轢もある。そうやって科学外的な世間からの圧力が、科学を歪めてしまう。
稲葉『同』pp.13-14

 その過ちとは何か? マルクス経済学が「経済学」と「経済学批判」の二つの水準に分かれてしまったこと、これ自体はむしろ「進歩」と呼んでよかったのだろうが、その「進歩」が逆に、マルクス経済学者に「経済学批判」という逃げ道を与えてしまい、本来の「経済学」、現実分析がおそろかになるという結果をもたらしたこと、である。乱暴に言うとマルクス経済学者たちは、「資本主義に荷担することを避ける」という大義名分の下に、政策実践の場でその切れ味が試される本来の「経済学」から逃避し、「経済学批判」という安全圏に立てこもってしまったのだ。
 しかしもちろん、本当は「経済学批判」は安全圏などではないし、そもそも安全圏など存在しない。「ブルジョワ経済学者」が、資本主義社会の中に生きているおかげでその自明性の罠にはまっているのだとしたら、マルクスも、マルクス主義者もまた、別の罠にはまっていないという保証がどこにあるか? もちろんない。

稲葉『同』pp.22-23

前者で「自然科学」を政府(霞が関、日銀)又は公共サービスと読み換えて、後者で「マルクス経済学」を「リフレ派」と、「経済学批判」を「増税批判」と読み換えてみれば、冒頭で引用した先生と同様に、「増税忌避の隠れ蓑としてのリフレ派」の現状が浮かび上がってきそうです。

2013年07月23日 (火) | Edit |
ということで参議院選挙は与党が安定多数を確保して終了したところですが、少なくとも今後3年間は安定的な政治運営が期待できるものとして評価したいと思います。ただし、現在の自民党は一部に急進的な主張も有しているので、自民党の非主流派と野党には是々非々で対応していただきたいところではあります。

で、今回は「各党の党是に合わない候補」とか「デマッターを駆使した候補」が当選したとかで一部盛り上がっているようなのですが、まあ日本の政党政治、というか選挙というのは古今東西そういうものだったんじゃないかという気もします。極端なところではオストラシズムの例もありますが、これまでに全ての有権者の投票行動が合理的な知性に基づいて行われた選挙はなかったのだろうと思いますし、これからもないものと思われます。

ただし、ときには流血の事態を乗り越えながら各国が積み重ねてきた選挙制度によって、その合理的な知性に基づいて行われる投票行動の割合を向上させようとしてきた歴史があります。もちろん、選挙される数百人のうち数%はその積み重ねた選挙制度の中からモレこぼれてしまうこともありえます。しかし、制度というのはその程度の精度(ダジャレではありません)です。さらにいえば、ときの立法府の「精度」によっては、積み重ねてきた制度の精度を下げてしまうような制度改正を行うこともありえるでしょう。そもそも、政党政治の限界として「契約の束」の中に相矛盾する政策が盛り込まれ、合理的な知性に基づいた投票行動の趣旨とは違う候補が政党の候補として当選することもありえます。

日本には、そのその曲がりなりにも積み重ねられてきた歴史の総体としての選挙制度があり、その制度上で定められた手続によって選ばれた選良の方々が立法府の意思決定を担うというのが立憲政治である以上、今回の選挙結果を所与のものとして今後の政治が進められることを受け入れなければならないのだろうと思います。ただし、今回は二院制の参議院選挙であって、より合理的な投票行動が求められるはずの選挙で、ブラック企業の経営者とかデマッターと呼ばれる方々が当選したことは憂慮すべきことだろうとも思います。

しかし、選挙が終わった今となっては、その程度の精度の選挙制度を前提とした立法府の在り方をこそ、現実の制度設計のために考えなければならない段階にあるのでしょう。そこあるのは、利害調整と妥協によって少しずつ制度を設定し、少しずつ国民の行動を変え、少しずつ国家として国民を保護する体制を整備していく作業の場にほかなりません。

選挙の結果に一喜一憂するのではなく、その程度の精度によって選ばれた選良の行動を監視し、ヘタな行動をすれば次の選挙では落選するという脅威を与え続けることが有権者の使命なのだろうと思います。

2013年07月20日 (土) | Edit |
以前パオロ・マッツァリーノさんが推薦されていた『ニュースルーム』というアメドラが先月終了しまして、録画しておきながら先日やっと見終えました。興味深いエピソードと思いながらネタにできなかったのですが、いよいよ明日が参院選ということで、「「真実を伝えるニュース番組」の方針として掲げられる項目が、日本のマスコミに比べて(ドラマ的にはアメリカのマスコミに比べてでしょうけど)とんでもなく深い」ドラマの印象深いシーンを備忘録として。

以下ネタバレですので閲覧注意です。
第9話の中のエピソードなのですが、あらすじは、アメリカ議会が政府の債務上限を撤廃する法案を成立させようとしたため、番組スタッフはそのことが経済的に深刻な問題を引き起こすと考え、ニュースで大きく取り上げようとします。ところが、テレビ局の上層部からは、他局との視聴率競争に勝つため、娘殺しのゴシップネタで視聴率を稼ぐよう指示が出され、そこで葛藤する「真実を伝えるニュース番組」の姿が描かれていきます。

そのサブエピソードとして、第6話でニュースアンカーのウィルに対してネットで殺害予告が行われます。

ウィルは番組でグラウンド・ゼロ付近のモスク建設に反対する立場のゲストを相手に、反対理由に妥当性がないと主張。その後、番組サイトのコメント欄にウィルの殺害予告が投稿されたため、ボディーガードがつくことになる。

「#6 暴走する正義Bullies」(WOWOW「ニュースルーム」

この殺害予告を書き込んだ犯人に接触しようと、オタクな男性スタッフ(ニール)がネット上の「荒らし」にのみ入室が認められる「荒らしクラブ」へ入室を試みます。そこで、経済板(an economy bulletin board)の炎上を自作自演するため、番組の女性の金融リポーター(スローン)の嘘の下ネタを書き込んでしまい、ニールとスローンがそのことで一悶着起こすのですが、その経済板の様子はどこかの国のネット界隈(簡易ブログとか顔本とか)とは趣が違うように思いますので、一部採録してみます(Nはニール、Sはスローンの発言)。

N:あそこの連中は簡単に引っかからない ┐(´-`)┌
S:経済評論家は大人よ (。ˇ ⊖ˇ)~フフーン♪
N:〔確かに〕手ごわい。今の話題はアメリカの信用格付けが下がると予測した記事だ
S:〔その話題は〕ニュースではやってない。ケーシーばかり。
 (注:「ケーシー」というのはゴシップネタの娘殺しの女性容疑者)
N:そこでこう書いた “政府の予算なんて俺の小切手帳と同じ”
S:そんなバカな例え、やめて! 小切手と予算は違う! 車の運転と月面着陸くらいに!! (`Д´) ムキー!
N:ほらね、君も怒ったろ。盛り上がったところで話を君に切り替えた ( ̄ー ̄)ニヤリ
S:どう?
N:知りたい?
S:いいえ! 〔やっぱり〕教えて ヽ(`Д´メ)ノ プンスカ!
N:“メディアと政府はグルだ”と
S:グル?
N:バカっぽくしないと。
S:グルって どういうふうに?
N:〔政府は〕君の胸に注目させる。〔すると、掲示板では「そんなことはない」と〕皆、君を擁護した。
S:〔ソウソウヾ( ̄◇ ̄メ)ソレソレ〕
N:〔そこへ僕が〕2つ目のアカウントで“目を奪われるのは〔胸だけじゃなく〕いやらしい体の動きだ”と〔書き込んだ〕。 ( ゚ー-゚ )ドヤ
S:そんな… ∑(-x-;)ナ、ナニッ?!
N:〔さらにその証拠として〕ウィキにリンクした 〔そこには〕“ストリッパーから 金融リポーターに”〔と書いてある〕 ( ゚ー-゚ )ドヤ
S:〔そんなデタラメ〕書いてない。(´゚д゚`)ポカーン
N:〔僕が書いたから〕見てみて。 ( ̄ー ̄)フフン
S:私は感情が顔に出るの。おまけに、すぐ手も出る。(^ω^♯)ピキピキ
N:〔こうしてやっと炎上させることに〕成功した。罵倒のコメントが殺到して、管理人がスレッドを閉じた。 ( ゚ー-゚ )ドヤ
S:これで荒らしのクラブに入れるわけ?。 (^ω^♯)ピキピキ
N:あと一歩。入会審査があって、まだレベル1。レベル2でトロール常習者と交流〔できる〕。 ( ̄ー ̄)フフン
S:将来有望ね。ちゃんと取材してる。 (^ω^♯)ピキピキ
N:胸に注目させる政府なら、僕は支持するな( ̄ー ̄)フフン
S:ウィキを書き直して!! (#゚Д゚)ゴルァ!!
N:はい (((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル

「#9 置き去りの夢 The Blackout Part II: Mock Debate」(『ニュースルーム』第9話)
※ 台詞は字幕の書き起こし。〔 〕内と顔文字は話の流れをわかりやすくするため適当に補いました。

日本でも最近はデマッターという言葉が使われているようですが、日本と違うのは、アメリカの経済板のメンツは当初ニールがしかけた「荒らし」が通用しないほど手ごわく、「政府の予算なんて俺の小切手帳と同じ」という発言を批判し、「メディアと政府はグルだ」という発言がバカっぽく受け取られる程度には、政府の予算に対する理解と陰謀論に対する耐性がありそうなところですね。日本のネット界隈でそのような話題があれば、「日銀の国債引き受けガー」とか「財務省と日銀の陰謀ガー」とか「財務省に弱みを握られたマスコミと御用学者ガー」とか真剣に盛り上がりそうなところです。まあ、それなりの耐性がある経済板でさえ、ウィキにねつ造された証拠を出された途端まんまと荒れてしまったわけで、ニールの手腕が見事だったというところでしょうか。

その『ニュースルーム』の番組が掲げた方針を再確認しておくと、

  1. 選挙で投票する時に必要な情報か?
  2. 議論の形としてこれが最良だろうか?
  3. 背景を紹介しているか?

というものなのですが、まあそんな番組がないからこそのドラマでもあるのでしょう。

そのシーズン1の最終話となった第10話では、共和党員であるウィルがティーパーティーの欺瞞を「名前ばかり共和党員」として徹底的に暴きます。

REPUBLICAN IN NAME ONLY

  • Ideological purity
  • Compromise as weakness
  • A fundamentalist belief in scriptural literalism
  • Denying science
  • Unmoved by facts
  • Undeterred by new information
  • A hostile fear of progress
  • A demonization of education
  • A need to control women's bodies
  • Severe xenophobia
  • Tribal mentality
  • Intolerance of dissent
  • Pathological hatred of US government

【訳】
名前ばかり共和党員
  • 思想的純粋さ
  • 妥協を弱さとし聖書を絶対視する原理主義
  • 事実や情報を無視
  • 進歩を敵対視
  • 教育を悪者扱い
  • 女性の体への支配
  • 重度の外国人嫌い
  • 身内びいき
  • 反対意見への不寛容
  • 政府に対する憎悪
ウィル:ティーパーティーがどう名乗ろうと勝手です。だが共和党員は党員と認めてはいけない。実体で呼ぶべきです。アメリカのタリバンと。彼らはクーパーさんが投票できれば生き残れません。

「#10 世界一偉大な理由 The Greater Fool」(『ニュースルーム』第10話)
※ 訳と台詞は字幕の書き起こし。

補足しておくと、最後に出てくるクーパーさんというのは、テネシー州に住む96歳のアフリカンアメリカンの女性です。テネシー州が成立させた法律により、写真付きIDがなければ投票できなくなり、クーパーさんは車の免許も持っていないため投票権が奪われてしまったというニュースがこの場面の前提となっています。

ここで掲げられているティーパーティーの特徴のうち、「進歩を敵対視」「教育を悪者扱い」「女性の体への支配」「重度の外国人嫌い」というあたりは、聖書による科学否定や中絶の禁止とかWASPの主張とかに関連しているので、日本ではちょっとピンとこないところもあります。しかし、それ以外の点については、ティーパーティーとはいわないまでも、この数週間の選挙戦でさんざん見せつけられたような印象があります。まあ特に日本のネット界隈では「身内びいき」「反対意見への不寛容」がデフォルトのようですから、同じ○○派を「日本のタリバン」と呼ぶことはなさそうですね。



以前のエントリの繰り返しになりますが、「向いてる方向が別々でお互いに敵視している同士であっても、持っている道具は同じものしかないというところに、日本の言論空間の貧困さを感じないでもありません」と改めて思うところです。

2013年07月15日 (月) | Edit |
先週の木曜日で震災から28か月が経過しました。当然この三連休も出勤しておりまして、復興というのは世間で風化してからが本番なのかも知れないとも思ったりします。業務の都合で最近は沿岸部に行く機会が減っているのですが、被災地の現状についてはhahnela03さんのブログが参考になります。先日のエントリでは、震災後にやたらと強調されるようになった協同組合の問題からグループ補助金の混乱へと話が進み、行政の企業支援のあり方について取り上げられていて、遙か昔に同じような業務を担当した役所の中の人としては耳の痛い内容でした(私が中小企業団体法をそこそこ語れてしまうのもその名残です)。

その中で気になったのが、被災地自治体に応援職員として派遣されている首都圏の自治体職員によるtweetの一部でして、hahnela03さんも「追記」でその点を指摘されています。

追記

 応援職員が岩手県職員並び被災地自治体職員の「岩手では産業振興担当の行政職員が特定企業を直接サポートしています。」は、グループ補助金の際にはそれこそが混乱の要因でもあったことに対しても触れなければ片手落ちです。
 岩手県のみならず東北六県では同様のことが普通に行われています。ただ今回はそれが「何であそこは助けて俺は助けない」となりました。

津波被災の記録120(2013-07-06)」(hahnela03の日記
※ 強調は引用者による

人口減少とか雇用の確保とかが政策課題の常連となって久しい現在、企業誘致とか中小企業支援に力を入れていない弱小自治体なんてありませんよね。首都圏の自治体からすればカルチャーショックかもしれませんが、地方の弱小自治体の商工担当(特に経営支援とか企業誘致とか)というのは地元の中小企業とズブズブの関係であって、むしろそうでなければ務まらないのが実態です。

役所の中には財務畑とか人事畑とか税務、福祉、用地などある程度背番号が決まってしまう人材が一定程度いて、それはとりもなおさずその業務に高い専門性が要求されるからです。地元企業(地場、誘致どちらも含みます)支援もその傾向がある業務ですね。それだけ地元企業との密な関係性が地元からも首長からも要求されていて、それに特化した人材を長期的に育成することが自治体の課題でもあるわけです。そしてそれが、震災後の企業支援に良くも悪くも影響しているというのがhahnela03さんのご指摘ではないかと思います。

部外者でありながら「うちだって○○業を営んできちんと税金も払ってきたのに、なんでグループだと何億円も補助金を受けられて、事務所も家族も流されたうちの会社は数十万円の補助金しかもらえないんだ!」と詰め寄られたように、震災前から「産業振興の要」として地元役所の職員が足繁く通っていた水産加工業や機械製造業などが優先的に採択されて、サービス・小売業からなる衰退著しい商店街とか建設業の採択が後回しになった(後回しでも採択されればまだマシですが)というのが実情でしょう(ちなみに詰め寄られた方の業種は理髪店で、その後グループ補助金で採択されたかは不明です)。そうした実情が被災地の中での混乱を招いたというhahnela03さんのご指摘は、被災地支援という事業を考える上では重要な視点だろうと思います。

「がんばっている中小企業への支援を拡大すべき」とか「地元の地場産業を活性化させて地域振興」という主張は大変美しいものではありますが、ではその「がんばっている中小企業」とか「地元の地場産業」として具体的にどの企業を支援するのかという段階になると、上記のような行政との継続的な関係とか地域でのその事業(業種)の伝統的な位置づけがものをいいます。こういうのを「しがらみ」と言っていいと思うのですが、「民間感覚で地域経営を」とかいう政治家の皆さんに限って、こういう「しがらみ」にズブズブな「産業振興」を推進されるわけでして、実務を担当する側からすれば、その「産業振興」が美しい言葉で主張されるだけになかなか厄介です。hahnela03さんのご指摘は、この厄介さを端的に示しているものと思います。

念のため、中小企業を中心に行政が地元の産業振興を支援することの必要性を否定するものではありません。市場における交換が効率性をもたらすという市場経済の原理を尊重するのであれば、中古市場におけるレモンを排除するような情報の非対称性を緩和したり、交渉力による買い叩きを防いだりする必要があり、その公共財としての市場を維持すためには経費と人手が必要です。この点において、市場経済における政府の役割は決定的に重要なのですが、だからといって、個別の企業に補助金を交付したり無利子の融資を行うことが「産業振興」として大々的に行われることには少なからぬ違和感があります。

ただまあ、自由主義に凝り固まった方々にとっては、公共財としての市場を維持すための経費と人手も「無駄」な「既得権益」を保護するためのものとしかとらえられていないようでして、市場経済を重視しているのかしていないのかワケがわかりませんね。

さらにいえば、権丈先生が「家族単体でのリスクプーリング機能が産業化の過程で様々な理由ゆえに弱体化していく中で、社会保障は生まれ育ってきた」(権丈先生の仕事のページの2013年7月5日欄です)とおっしゃるように、産業化が進む福祉国家において、個人の生活を支える社会保障を運営するのも政府の役割です。個人を支える政府の役割からすれば、この社会保障などの所得再分配こそが経済政策の肝だろうと思います。したがって、経済政策云々という議論をする際は、政府が持つ多面的な役割を踏まえた上で、その役割を果たすために政府がどのようにして財源を確保し、どのようにして再分配を行い、どのようにして市場の機能を維持するのかという複合的な視点こそが重要だろうと考えます。

ところが、来週に投票を控えた参院選を見ていると、政党はもちろんのこと、マスコミでもそれを批判するネットでも、所得再分配の視点を欠いた経済政策をめぐって議論が交わされているようです。経済政策は政府の主要な政策ではありますが、それだけではありませんし、社会保険による防貧機能と政府支出による救貧機能の区別もつかない再分配論は、この国の政府の役割をさらに歪めていくのでしょうねえ(遠い目)。

2013年07月07日 (日) | Edit |
「人手」はストックできません。本エントリのタイトルでほぼ言い尽くしているのですが、なかなか理解されないようですので、例示しておきます。

復興事業の用地交渉、熟練の職員が不足 自治体が募集(2013/6/25 3:00日本経済新聞 電子版)

 東日本大震災の復興事業が本格化するなか、集団移転や土地区画整理の用地取得を担う職員が不足し、被災自治体が頭を悩ませている。地権者らとの交渉には知識と経験が不可欠だが、他自治体から今以上の応援派遣を期待するのは難しい。職員を臨時募集してもなかなか人材は集まらず、「復興の遅れにつながりかねない」と危惧する声も出ている。

参院選が公示されてからというもの、「公務員人件費を削減すべき」「復興予算が被災地で使われないのは流用だ」という主張が毎日テレビや選挙カーで繰り広げられているわけですが、それらの事業の実施にお金が必要なことは事実としても、その事業を実施するのは生身の人間です。その実施に携わる生身の人間を削減したのが「民意」であり「官僚主導ではない政治主導」であって、それに疑問を呈することなく荷担してきたマスコミの中で、特に積極的に助長してきた日経新聞に「復興の遅れにつながりかねない」と危惧する声を紹介されても何の説得力もないのですが。

人材をモジュール化するというのは、標準的な処理方法が確立されいて、多くの事業体で共通化できる業務とかで可能なものであって、公務員が実施する事業ってのは、そこそこ標準的な処理方法は確立されているものの、「多くの事業体で共通化できる業務」ではありません。となると、同じ業界内部で人員をやりくりするしかなくなるわけですが、公務員人件費の削減で役所業界の人員は減少する一方ですから、未曾有の災害の復旧・復興事業が通常業務にプラスされた中で、そのやりくりはとっくの昔に限界に達しています。

というような制約の中では、被災地の現場での予算執行に限界があって、その間にも日本全体の経済が停滞しないようにするためには、被災地以外でも財政支出したり雇用を確保する必要があるわけですが、それをやると「復興予算の流用ガー」と叩かれてしまいます。いったいどうしろと。

さらにいえば、標準的な業務の標準的な処理方法は確立されていますが、町が丸ごとなくなるような災害による非常時の業務の標準的な処理方法なんてのはないわけで、やりくりした人員がそれをこなせるというものでもありません。もちろん、その人材を育成して業務の戦力としている他の役所からすれば、自分の役所の人材に投資した経費が他の役所の業務に充てられているわけで、それだけでも大きな損失です。日ごろ「地方分権で自主財源を拡充すべき」とか「地域主権で自治体に裁量を与えるべきだ」と唱えていらっしゃるチホーブンケン教の皆様にとっては、由々しき事態ですね。自主財源で、自治体の裁量で投資したリソース(人材)を他の自治体に取られるわけですから。

ただし、人材をリソースとして扱う議論は、そもそも「人手」をストックできないという現実にうまく対処できるものでありません。人材をリソースとして扱い、モジュール化する議論の延長線上では、引用した日経新聞の記事にあるように「職員を臨時募集してもなかなか人材は集まらず」という事態に陥らざるを得ません。臨時募集してそれに応じるような方々が、「町が丸ごとなくなるような災害による非常時の業務」をこなせると考えるほうが楽観的すぎるというべきでしょう。

まあ結局は、臨時募集して採用した職員に対しても、通常の職員に対するのと同様に研修を実施してOJTの中で業務の進め方を習得してもらい、庁内や地元の関係者とも円滑な関係を築き…という育成プロセスを踏む必要はあって、類似の業務経験者ならその量が幾分軽減されるという効果はあります。しかし、「臨時募集で即戦力を求める」というのは、その初期投資をほかの誰かがやっているという前提で、その初期投資の見返りを無償で引き渡せと要求していることにほかなりません。チホーブンケン教の皆様に限らず、時価総額ガーとか投資効果ガーとかおっしゃる方にとっては、それは看過できない問題だろうと思います。

となると、考慮すべきは「人材をある特定の事業体で囲い込む」ということの是非ではないかと思います。こういうことを書くと「雇用の流動化ガー」な方に肩入れしていると思われそうですが、「極度に高度化した業務を少数精鋭の組織の中で満遍なく分担する」というモデルを是とするか、「極度に高度化した業務は一部の少数精鋭の人材に担わせて、それ以外の標準的な業務は入れ替わりが可能な人材に担わせる」というモデルを是とするかという選択が必要となるでしょう。前者が日本型の正社員を前提としたモデルで、後者が欧米型のモデルということもできそうでして、野川忍先生が「social」という言葉の概念についてつぶやいたtweetが、どちらを選択するかを考える際の参考になります。

theophil21@theophil21

socialとは(1)日本語では、「社会的」と訳されるこの単語の意味は、実際のところ何なのか。ヨーロッパの各国では、まだまだ「社会党」や「社会民主党」が強いが、なぜなのか。おそらく、日本では「個より社会が大切ということではないか」と思っている人も多いだろうが、そいう意味ではない。
posted at 17:48:17

theophil21@theophil21

socialとは(2)たとえばドイツでは、日本の就業規則記載事項は、「社会的事項」として労使の共同決定によることとなっているが、「労働時間の構成」や「賃金の支払い方」がなぜ「社会的」なのか。また他方では、事業所で支払われる付加給付を「社会的給付」というがなぜなのか。
posted at 17:50:15

theophil21@theophil21

socialとは(3)socialという概念を理解できるかどうかがヨーロッパ社会を理解するための試金石だと力説しておられたのは、東大でフランス法を講じられていた故山口俊夫先生だが、欧州におけるsocialの意義の大きさを知ると、確かにそうだとつくづく思う。
posted at 17:53:26

theophil21@theophil21

socialとは(4)一方では、弱い立場にある者に手を差し伸べるという趣旨があり、他方では、集団に適用される規範という意味がある。この両者を包括する理念は何か。それは「共同体の維持」ということである。もちろん、個人の自由が重視されないという意味ではない。
posted at 17:56:32

theophil21@theophil21

socialとは(5)しかし、個人の自由の発揮は共同体の維持と調和しなければならないと、大陸ヨーロッパの多くの国は考えている。つまり、共同体の構成メンバーは連帯して共通の規範を守るべきであり、メンバーの中に苦境に立たされる者がいれば協力して支えなければならない。
posted at 17:59:24

theophil21@theophil21

socialとは(6)思い切って図式化すれば、自由民主主義と社会民主主義とは力点の置きどころを異にするのであり、「個人の自由を侵害しない範囲で弱い者も助ける」のか、「弱い立場の者が切り捨てられない範囲で個人の自由が発揮されるべき」なのかの相違ということも可能であろう。
posted at 18:01:57

theophil21@theophil21

socialとは(7)「社会的」という漠然とした概念には、このように積極的な理念がこめられている。かつてEUが発足したとき、スローガンの一つは「ソーシャル・ヨーロッパ」であった。それが欧州の理念的基盤であることは間違いない。日本はそこから何を学べるのか。丁寧な検討が必要であろう。
posted at 18:05:34

2013年06月29日(土)http://twilog.org/theophil21


「共同体の構成メンバーは連帯して共通の規範を守るべきであり、メンバーの中に苦境に立たされる者がいれば協力して支えなければならない」というsocialな考え方を理解できるか、「効率的な現金給付」で事足りるとする経済学的な議論の問題点を理解できるかというのが、労働政策に裏付けされた現物給付による社会保障や再分配を議論する上で、問われているのではないかと思います。その上で、「人手」がストックできないという現実をどう考えるべきかについては、太田啓之さんの『年金50問50答』から的確なたとえ話を引用させていただきます。

クマゴロー (略)お金っていうのは金魚すくいの網のようなものなんだよ。生活にとって本当に大事なものは金魚(生産物)で、網(お金)はそれを獲得するための手段に過ぎない。現役世代が社会全体のメンバーを養うのに十分な量の金魚を作り出せている時には、十分な大きさの網を持っていれば必要な数の金魚をすくうことができる。でも、必要な量の金魚をつくり出せなくなってしまうと、いくら大きな網を持っていても十分な数の金魚はすくえない。水槽の中の金魚の数自体が減ってしまうわけだからね。年金を積立方式にしてお金をいっぱいためておけば、いくら少子化が進んでも老後はだいじょうぶ、なんて考え方は幻想に過ぎないのさ。
ヒヨコ 私たちはモノがいっぱいあって、「お金があれば何でも買える」という生活に慣れ過ぎているから、お金さえあれば安心と思っている。でも、日本全体の「ものやサービスをつくりだす力」が衰えてしまうと、いくら老後のためにお金を貯めておいても安心できない、ということね。
p.182

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ヒヨコの最後の台詞の「日本全体の「ものやサービスをつくりだす力」が衰えてしまうと、いくら老後のためにお金を貯めておいても安心できない」という部分を、「日本全体の「ものやサービスをつくりだす力」が衰えてしまうと、いくら復興予算をつけても実施できない」と言い換えてみれば、問題の所在は明らかだろうと思います。

2013年07月07日 (日) | Edit |
拙ブログは週に1回更新する程度で基本は不定期なのですが、畑農先生に拙ブログを取り上げていただいておりました。そのエントリの冒頭では、畑農先生がブログを更新しない理由として3点を挙げていらっしゃって、いずれも同感するところが多いです。その3点目で「第3に見返りが少ない。ブログに対する反応はそれほど大きな規模ではないし、交流もインタラクティブではない」とおっしゃっていまして、拙ブログも取り上げていただいていたにもかかわらず、こちらも1週間近く反応が遅れてしまいました。まあブログだからインタラクティブでないというより、Twitterだろうとメールだろうと私の反応は遅いので、ツールの特性以前の問題かもしれません。

実は、拙ブログが直接取り上げられているというよりは、uncorrelatedさんによる「ある地方公務員のあるマクロ経済分析(途中)への誤解」についての解説という趣のエントリでして、私も勉強になりました。ありがとうございました。

 上記のブログ記事は、財政政策として社会保障が重要だと主張するmachineryさんによる「財政政策という実務」への反論として書かれた。しかし、この反論は部分的に正しいが、全面的に正しいわけではない。社会保障のすべてが移転というわけではなく、およそ半分程度は政府支出G(または民間消費C)に含まれるからだ。量的に言えば、半分正しくて、半分正しくない。
(略)
 国民経済計算において、「2.1(1)現金による社会保障給付」はたしかに移転だ。しかし、「3.1 現物社会移転」はエクセルファイル内「年度(4)a」を見ると、

4.1(1)個別消費支出(3.1)

として一般政府の最終消費支出に含まれることがわかる。いわゆる政府消費の一部だ(注)。社会保障給付費のうち約半分は政府支出G(または民間消費C:注)に含まれるのだ。理由は直感的にも明らかだろう。年金給付は財・サービスの購入を伴わないが、医療・介護給付は財・サービスの購入を伴っているからだ。

注:
現物社会移転(個別消費支出)は、現実最終消費と呼ばれる概念では家計の現実最終消費に含まれる。Y=C+I+GのCに当たる。最終消費支出と現実最終消費の違いについてはこちら。なお、68SNAでは現物社会移転(個別消費支出)は、移転的支出として家計の最終消費支出に含まれていた。「93SNAへの移行のポイント」(平成12年10月)の24ページを参照。

社会保障は移転か?(2013年7月 1日 (月))」(もう一度よく考え直してみてよ。

飯田先生がおっしゃるようなライフハック的「経済学の思考の型」を批判しておきながらではありますが、こうして統計データの意味を解説していただけると、経済学的なデータ処理の考え方を垣間見ることができて参考になります。

畑農先生のエントリで留意していただきたい点は、「社会保障は半分が移転で半分が政府支出」というデータ上の事実が指摘されているのみで、それ以上のつっこんだ議論はありません。あくまで個人的な推測ですが、このことは、「社会保障は半分が移転で半分が政府支出」ということの是非そのものについては経済学的なデータの処理の観点以外からの議論が必要だと、畑農先生が認識されていることの表れではないかと考えます。私の考える(実証的・規範的な意味での)「経済学の思考の型」も、畑農先生のこの認識に近いものです。

以下は畑農先生の議論とは全く関係のない話ですが、現実のさまざまな問題について、主観的に問題がない部分をいったん外してモデルを単純化するという作業を行うためには、取捨選択するデータやそのデータの持つ意味についての配慮が必要であって、その点については別途考慮するという留保が必要不可欠ではないかと思います。その点では、甚だ僭越ながら、飯田先生のライフハック的「経済学の思考の型」は半分正しいものの、もう半分の必要な部分が欠けているといえるのかもしれません。「リフレ派的政策論」の問題点も、

「大きな正論」としては全くその通りなのですが、個別の分野ではその「大きな正論」に包まれた信条の違いが浮き出てきて、それについて個別に批判すると、また「大きな正論」で反論されるというのが一部のリフレ派と呼ばれる方々の議論の特徴ではないかと思います。

「大きな正論」以外でバラバラという点では、リフレ派は派閥や思想集団ではないというのはその通りなのでしょう。しかし、リフレ派に見られる上記のような議論は、中道の労組役員さんがおっしゃるような「反労働者」的な議論を止めることができないばかりか、「大きな正論」で包むことでむしろそれに根拠を与えてしまっているのが現状ではないかと思います。

2013/06/22(土) 10:26:04 | URL | マシナリ #-[ 編集]


という形で、マクロ経済学的なモデルから外れてしまう社会保障や労働政策のような「新古典派経済学に基礎をおくマクロ・ミクロ経済学では扱いにくい」政策について、「マクロ政策が正しければミクロはどんな政策でもよい」と思考停止してしまいがちな点にあるのではないかと愚考する次第です。