2012年12月16日 (日) | Edit |
というわけで、またぞろ政権交代が起きることになったそうですが、その陰では現政権党よりもさらに荒唐無稽な政策を掲げる維新な方々が躍進して、凋落した現政権党を超える議席を獲得する勢いとなっているようです。まあ、次期総理と目されている党首が維新な方々に近い思想をお持ちのようですので、今後の連立の枠組みがどうなるかは分かりませんが、それなりの影響力を持つのかもしれません。

そんな中で、ふと書店で目にとまった本をとろうと思ったらコートの袖に引っかかって2冊落ちてしまい、どちらも本体に目立つ折り目がついたので仕方がなく買った本が、思いのほかまともな内容だったので総選挙の日にメモ書きしておきます。というのは、当選当時全国最年少で政令指定都市の市長となった熊谷俊人氏の著書でして、先日取り上げた太田先生の典型的な公務員バッシングとは全く異なる視点をお持ちのようです。

 この本で私が流行りの公務員バッシングに走れば、テレビや新聞で話題になり、たくさん売れるかもしれません。
 しかし、私は市長という仕事にやりがいを感じ、市役所の職員たちと一緒に働くのが大好きですし、職員が高い志を持って市民のために仕事に向かい合っていることをぜひみなさんに知ってほしいのです。あまり強調するとみなさんに「擁護しすぎだ」とお叱りを受けそうですので、この気持ちはこのページだけに凝縮させていただきます。
pp.104-1-5

公務員ってなんだ? ~最年少市長が見た地方行政の真実~ (ワニブックスPLUS新書)公務員ってなんだ? ~最年少市長が見た地方行政の真実~ (ワニブックスPLUS新書)
(2012/12/08)
熊谷 俊人

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ずいぶん控え目な公務員擁護ですが、本書の経歴によると、熊谷市長は早稲田大学卒業後に新卒でNTTコミュニケーションズに入社し、「事業統合・企業買収などのプロジェクトから部門間の調整まで幅広い業務を経験」されたそうで、ご自身も「私自身は組織人出身だったということもあり、政治家の中ではどちらかというとマネジメントを意識する側の人間です。理想を追い求めるというよりは、一歩でもいいから実際に前進することを重んじるタイプです(p.143)」とおっしゃるとおり、調整の重要性を意識されていることが本書の記述から伝わってきます。そうした経歴をお持ちの方だけに、人件費削減に当たっても職員組合と真摯に非公開で交渉したとのことですし、「千葉市版事業仕分け」でも仕分け結果について議会や住民と調整した経緯が記述されていて、合意形成のための仕組み作りという点では他の自治体でも見習うべき点が多そうです。特に、市民が市役所の行う事業の一つ一つについて認識を深め、それを基に市議会議員、市役所職員が事業を改善しながら実施するというのは、一つの理想型のようにも思います。

いや、拙ブログにしては珍しく地方自治体の首長を褒めてしまったのですが、ここに大きなジレンマが潜んでいます。確かに人件費削減のために組合と真摯に交渉していますし、事業仕分けでも廃止対象となった事業について調整もしていますが、そこに立ち現れる「職員」や「市民」というのは、どのような属性を持っている方々なのかという点についての言及がありません。私の身の回りを見ても、「民間の企業がこれだけ切り詰めているんだから、われわれ公務員も率先して給料を下げなければならない」という「優秀なコームイン」は多いですし、「新しい公共」などで積極的に公共サービスに携わっていただく方もいらっしゃいます。しかし、そうしたコームインも「新しい公共」の方もそうですが、そうして積極的に公共サービスに携わる方というのはとても「意識の高い」方なんですね。「意識の高い」方々によって実施される事業は、もちろんその動機において望ましい事業のはずなのですが、かといって「意識が高い」からと言って必ずしも現実的に望ましいという保証はありません。特に、「意識が高い」方々の視点といわゆる「庶民の視線」が一致するとも限らないわけで、そうした「意識の高い」市民や職員によって実施される事業は、それ以外の方の利害を無視してしまう可能性を否定できないわけです。

実は、本書でもこの点を意識しているような記述がありまして、

 地方行政の現場をつぶさに見て、「民間企業とは究極に違う」と最初に感じたことは、「公務員はユーザーを選べない」ということです。これは非常に大きい。
(略)
 市民のほうから「他市ではこういう事業を実施している。千葉市ではなぜできないのか」と要望された時に「それは実施できません。ご不満であれば千葉市ではなくほかの街にお住みください」とは言えないでしょう。そんな対応をしたら、それこそもう大問題に発展してしまいます。
 これが「ユーザーを選べない」という意味です。
(略)
 どんな場所に住んでいても、どんな所得の人であったとしても、ひとりひとりが尊重されるべき市民ですから、できる限り誠意を持って対応する責任が行政にはあります。ですから、民間と同じように、簡単にコストカットもできませんし、手間もかかります。
 逆に市民の側も住む場所を簡単には替えられないので、行政と市民の関係は、民間のユーザーとは少し違う、複雑な関係にあるのです。

熊谷『同』pp.24-26

引用部では「公務員」と「行政」の用語法がやや混乱していますが、このような状況にある中では、必ずしも「意識の高い」方々の事業が実施される保証もないわけです。つまりは、「意識の高い」方々の理屈や議論の中では望ましい事業であっても、それによって不利益を被る住民がいれば、その住民は役所の窓口で公務員に苦情を言うでしょうし、組織に属する方が不利益を被るのであれば、関係する団体や議員を通じて陰に陽に行政に圧力がかけられることとなります。場合によっては、「意識の高い」方々が自らの利益を確保するために事業実施を推進していることもあるわけで、そうなるとどれが「望ましい事業」でどれが「圧力をかけられた事業」なのかは判然としません。

「意識の高い」人から見て望ましくない事業が実施されれば、「ムダなハコモノ」というレッテルが貼られるでしょうし、逆に不利益を避けるために反対する側から見て望ましくない事業が実施されれば、「弱者切り捨て」というレッテルが貼られるでしょう。役所内の業務改善でも、ごく一部のスーパー公務員にしかできないような高いハードルが掲げられれば、大半の「普通の公務員」全体が「税金泥棒」のレッテルを貼られてしまいます。結局は、前回エントリでも書いたとおり、そのような状況では役所が悪役となって遺恨を残しながら事業を実施せざるを得なくなったり、職員は「税金泥棒」と言われながら仕事をし続けることになるわけです。

さらにいえば、長期的・広域的な観点が必要となる事業である場合には、首長や地方議員の任期で短期的に実施される事業が望ましくない結果をもたらす可能性も大いにあります。その典型が社会保障政策でして、自治体ごとの再分配政策が住民の効用を向上させるものとなれば、福祉の磁石が働いてその自治体内の再分配が成立しませんし、さらに国レベルの経済政策として再分配により社会全体の消費性向を向上させるという観点も望むべくはありません。役所内の業務改善も、できる「スーパー公務員」だけを優遇して、「普通の公務員」を粛正すべきという議論につながっていきます。

実際に、再分配に否定的で公務員バッシングが大好きな維新な方々が地方自治体の現場から支持を広げているわけで、その支持者には「意識の高い」方々が少なくないものと思われます。実をいえば、3年前に現政権が国民の合理的無知につけいって政権交代を果たしたというのは、公共サービスとか国レベルの政策を考えるヒマのない大多数の国民に対して、「あなたは意識の高い国民だから霞ヶ関のムダを許してはならない」とすり込むことがその前提だったりもします。今回の選挙でも維新な方々はどうやらそれが奏功したようですね。

実は、熊谷市長が本書で痛烈に批判しているのが、これまでの千葉市では「内部昇進で助役から市長になる」パターンが60年以上続いていたために身の丈に合わない事業が財政を圧迫していたということなのですが、熊谷市長が「しがらみ」といって批判している事業の中には、おそらくそうした経緯で実施された事業もあると思います。もしかすると、事業実施当時は「意識の高い」方々が十分に議論をして実施したものの、情勢の変化によって「ムダなハコモノ」と言われているものもあるはずで、現時点で将来構想を掲げたところで、それが現実に合わなくなる事態に陥ったとき、新たな市長候補が現市長の事業を「ムダなしがらみ」といって当選するかもしれません。そういう意味では、この国でよく見る風景の一つとも言えそうです。

とまあ、考えるほどに「理想型が理想型でなくなる」状況を思い浮かべてしまうところですが、ついでにいえば、税収の減少を前提に財政規模を切り詰めることが市長としての成功談として語られてしまうと、経済政策としての財政政策を全否定するしかなくなるわけでして、地方財政から財政政策を語ることの危険性も気になるところです。本書でも市職員の賃下げというデフレ政策を自慢げに語られていて、自治体を企業になぞらえる本書が合成の誤謬だらけになるのもやむを得ないのでしょうが、そうした危険性を念頭に置いて読めばそれなりに考えるべき点の多い著書だと思います。

 時には罵詈雑言を浴びせられるかもしれないが、そんな言葉の中にも「おっ」と思うような意見が含まれていることはよくあります。
 自分のやっている仕事に自信があれば、どんなクレームが来ても怖くないはずです。だから、もっと市の職員には胸を張って、自分の業績をアピールしてもらいたいし、何かと卑屈になって自己批判をするのではなく、前向きな「自己反省」をしてもらいたいと思っています。自分は行政のプロフェッショナルなんだ、というプライドがあれば、何を言われても耐えられるはずですから。
 「私は税金をいただいている以上のものを市に返しています」と胸を張れるような仕事をする。それが「市民のために働く」ということだと思います。
 ほかの改革と違って、そういった点を改善するのにはお金はかかりません。まだまだ千葉市には良くなる可能性がたくさん潜んでいるのです。

熊谷『同』pp.206-207

いやまあ、従業員にプロフェッショナルになれといいながら給料以上のブラックな働き方を強要するところも、この国でよく見る風景ですね。

ちなみに、本書を落としたときに一緒に落ちて、表紙に折り目がついてしまって買わざるを得なかったのが飯田先生の『思考の「型」を身につけよう』でしたが、こちらはざっと目を通した限りおもしろみがないですねえ。飯田先生の著書は初期の頃からそれなりに拝読して勉強させていただいているのですが、どうも最近の著書は同じところをぐるぐると回っているばかりで、冒頭の「大学は浮き世離れしたことを教えるべきであり、それが現実的にもっとも役に立つ(p.5)」という言葉が象徴するとおり、いまだにご自身の研究対象以外の現実に目を向けようとする意思が感じられないのが私の不満の原因だろうと思うところです。
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2012年12月11日 (火) | Edit |
世の中は12月というはた迷惑な時期の総選挙のまっただ中ですが、震災から21か月が経ち、震災の記憶はすっかり風化してしまったようです。現時点で震災と言えば、震災以降いまだに誰一人として死者の出ていない原発問題が依然として騒がれている程度で、最近のマスコミ報道も活断層の問題で持ちきりです。

拙ブログでは震災からの月命日を「1年と○か月」とか「(通算)○か月」とか書いているのですが、正直な感想として、あの震災から時間が止まってしまっている感覚が強くあるため、「21か月」という方がしっくりきます。特に被災地の現状を見ていると、がれきの山がまだまだうずたかく残っていて、地権者との交渉も進まず土地が確保できないために高台移転も埋め立ても進まない状況で、進むべき方向性が見えなくなってきていると感じます。もちろん、そんな中でも操業を再開した企業などは順調に業績を回復しているところもありますし、個人で土地を確保して新築の家に移り住んだ人もいます。アシモフのマラソンのたとえでいえば、同じゴールを目指して一生懸命に走っているランナーであっても、ゴールにたどり着くまでには長い列になってしまう、つまりは同じ被災地の中でも震災以前の状況に戻りつつある方と震災後の状況から抜け出せない方とに二分化していくことになります。

インフラが流されてしまっている土地では、その土地で活動する以上は誰でも同じ条件からのスタートとなります。特別に才能のある誰かがその才能で再建を進めるなんてことはごく稀な例であって、圧倒的多数の方はイコールフッティングすら確保されない中でなんとか使えそうな支援制度を探しているというのが実情です。相変わらずマスコミ報道は復興予算が足りないとか復興が遅れているとか声高に主張しては、「グループ補助金」という筋の悪いフィクションの予算を増額すべきなんて書き立てているわけですが、グループ補助金への要望が強いのは他に個人資産に対する補助制度がないからであって、グループ補助金のスキームそのものが有効だからでは必ずしもないんですが、そういった現場の感覚が共有されることもなくなってきています。

同じことは、被災地支援に当たっている「新しい公共」な方々にも共通する問題でして、がれきのキーホルダーを作る活動などで支援を続けている「和 RING-PROJECT(リングプロジェクト)」の方がその現状を指摘されています。

時間経過と共に、格差が生まれ出します。
浸水域と非浸水域の差は半端じゃありませんでした。
支援金や助成もこの浸水域と非浸水域で行政は決めてしまいました。
これは、今でも変わっていません。
復興計画も....

そして、みんなが避難所から仮設住宅に移った時点で、行政で補えない部分をNPOや支援団体に助成金を投げる事により、国は原発問題以外の被災地域から手を引きました。
違うかも知れませんが、僕にはそうとしか思えません。
これが、ボタンのかけ間違いの始まりです。

この事によって、何がこの沿岸で生まれているかわかりますか?
NPOや支援団体の助成金や支援金の争奪合戦です。
みんなとは言いませんが、顔色を見合いながらどうすれば活動費や助成金を貰えるかの腹の探り合いが生まれています。
被災した方の立ち場や現状を中心に活動する事は、ある意味この沿岸ではお上に逆らう様な事になる可能性も生まれています。
同じ気持ちのはずなのに、いや、同じ気持ちだからこそ同じ思いが生まれ、その活動資金を巡り支援団体同士がおかしな関係になっています。
(略)

この混乱を正直に報告したら支援が止まるんじゃないかと、地元の人間が活動している団体ほどとドキドキしてしまってるんです。
地元団体ほど、この活動により自身の生活の糧を得ている方が多いために、支援頂いている財団や企業に活動報告し支援を継続していただくために、こなさなければ行けない状況が生まれ準備不足になり結果的に参加してもらいたい地域の方を置き去りにしてしまったり、本当は違うと思いながら活動をしていたりという状況が不本意の中で生まれいます。
これが、地元の人間同士の溝を深めていたりしています。
でも、地域の活動団体は本当に復興に繋がればと必死なんです。

悲し過ぎる行き違いが生まれています。

悲しいすれ違い....「支援」(2012年12月01日(土) 02時58分06秒)」(いつかは、仙人のブログ

このエントリは、それまで2回にわたって復興計画や予算の立て方について思いを述べた上で書かれたものですが、私のような下っ端の役人からすれば、このエントリ自体がその前のエントリで書かれていたことへの回答になっているように思います。全く力が及ばないながらも復興のお手伝いをさせていただいている私の立場では、被災地の住民の方々が置かれているさまざまな状況にすべて対応することは到底不可能と感じてしまいますし、「住民の合意の下に復興を進める」ということも言葉で言うほど単純な話ではないと思わざるを得ません。そのことは、まさに引用させてていただいたブログ主さんが支援団体の当事者として巻き込まれている現状にも当てはまります。つまりは、使える制度をいかに探していかにそれを獲得するかという能力やネットワークの有無が再建への近道となるわけです。

hahnela03さんの言葉をお借りすれば、それは政策評価とかNPMとかの市場原理的で効率的な「ネオリベ的行政手法」によってもたらされたものであって、小泉政権下で叫ばれた「民間でできることは民間に」という言葉が象徴するように、民間からの支援でも「効率の悪いものは支援しない」という姿勢は変わりはありません。むしろ民間企業の日本的なCSRでは「成果」が求められる傾向が強いように思いますし、だからこそ「支援頂いている財団や企業に活動報告し支援を継続していただくために、こなさなければ行けない状況が生まれ準備不足になり結果的に参加してもらいたい地域の方を置き去りにしてしまったり、本当は違うと思いながら活動をしていたりという状況が不本意の中で生まれ」ているのでしょう。

そして、上記のブログ主さんがその前のエントリで指摘されているように、地元自治体も「本当は違うと思いながら活動をしてい」るのが実情だろうと思うところでして、確かにそれは「悲しき行き違い」と映るのかもしれません。こんなことを書くと他人事の役人根性と思われそうですが、誤解を恐れずに言えば、支援団体ですら否応なく巻き込まれる「行き違い」はそもそも避けることのできないものであって、その「行き違い」を解決することはおそらく住民の合意の中では難しいだろうと思います。そうであれば、「悲しくない行き違い」の所在をお互いの立場の中で相互に探り合い、できるだけ少ない遺恨を残しながら進めるしかないのではないかと考えるところです。この国では、その間に入って悪役に仕立て上げられながらその遺恨を背負い込むのも行政の大事な仕事ですし。

役人というのは、そうした諦観に立ってその中でせめてできることから進められるところを探る癖がついているのかもしれません。そういう考え方がネガティブと思われても仕方ないのかもしれませんが、そんな諦観を持って現状を眺めてみると、実は「りーだーしっぷで決断を!」とか「抜本的なカイカクを!」というポジティブさこそが「せめてできることから進める」という選択肢を住民の方々から奪っているようにも思うところです。

実は、先日こんなテレビをチラ見しまして、

11月30日(金)午後7:30~8:43
東北Z スペシャル「住民合意への道~誰もがいち早い復興を願っていた~」

震災の壊滅的な被害を被った沿岸部で、いま膨大な量の公共インフラ復旧事業、復興まちづくり事業が進められている。居住地の復興は喫緊の課題だが、事業着手する上では「地域住民との合意形成」が前提となる。しかし規模の大きな地区では調整が難航し、時の経過とともに分裂・複雑化しており、「住民合意」が進まぬ復興の「壁」となりかねない様相を呈している。 番組では、気仙沼市において「防潮堤を勉強する会」を立ち上げ建設的な合意形成で防潮堤計画に住民の意思を織り込もうという取り組みと、名取市閖上地区を現地再建する行政の計画案に判断が割れる市民たちの復興に向けた取り組みにスポットを当て、大震災を経験した日本において“合意”とはどうあるべきか、その形を探っていく。

この番組の最後に登場した有識者の方(名前は確認できませんでした)が「住民の合意は必ずできる」とかコメントされていたのですが、番組の本編ではそんな楽観論を蹴散らすほど深刻な住民団体の意見の対立が描かれていて、その有識者のコメントがかえって空々しく聞こえるほとでした。かくも合意形成というのは難儀な作業なのですが、それを生業としている役人は、特に合意形成の場面で批判されることはあっても感謝されることはないわけで、被災地の役人の受難はまだまだ続きそうです。

(念のため)
夜中に朦朧としながら書いているうちに書きたかったことが書けませんでしたので念のため補足いたしますが、本エントリは引用したブログ主さんが書かれたことを題材として、被災地とひと言でいってもいろいろな立場の方がいること、その中で「古い公共」も「新しい公共」もそれぞれの立場から支援に当たっているものの、立場の違いからはどうしてもすれ違いが生じてしまうという現実を知っていただきたかったというのが本エントリの趣旨です。ブログ主さんを批判する趣旨はありませんが、立場が違うと考え方も変わってしまうということも現実でして、かといって、その現実を批判してしまうと結局は立場の違いを乗り越えることができなくなるというジレンマがあるのだろうと思います。

2012年12月10日 (月) | Edit |
ということで、ニッチモの『HR mics vol.14(直リンができないので、ニッチモWebサイトからどうぞ)』連載第2回目が無事掲載されました。

それよりも特集が「アメリカを知らずして、アメリカを語るな。」という大変興味深い記事となっていて、その最後に海老原さん(と思われます)が「データと、専門書にその著者、そして実務者。4方向から欧米型キャリアにアプローチしてきた。結果、私は自分の考え方を一部修正している(p.23)」との言葉がありまして、雇用とか労務という実務べったりの世界はなかなかに一筋縄ではいかないものだと改めて認識いたしました。いやもちろん、employment at willなアメリカとヨーロッパ各国は違うでしょうし、ドイツでは変更解約告知が制度化されていたりして、「組織に貢献できない社員」の処遇にはどの国の現場も四苦八苦しているというのが実情なのかもしれません。

で、そういった「組織に貢献できない社員」に対しては、現場での社員の能力アップなどを目的とするOJTが、特に日本型雇用慣行の中では大きな役割を果たしてきたのですが、それについてはhamachan先生の記事が参考になります。これに対しても海老原さんから「もはや日本のお役所的発想の「職業訓練」は意味をなさないと言えそうです」と厳しい見方が示されていて、お役所の人間としてはこれもまた耳の痛い話です。そのほかの執筆陣の皆さんの記事にも考えさせられる視点が盛りだくさんですので、関心のある方はぜひリンク先からご高覧いただければと思います。

なお、今回も掲載に至るまで編集の荻野さんをはじめ大変お手数をおかけしてしまいました。内容としては、「サービス産業化する社会の困難さ」と同じネタなのですが、意外にも本誌の特集記事に近いテーマにまとまったような気もするところでして、他の豪華執筆陣の記事の骨休めにでもご笑覧いただければ幸いです。