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2012年11月25日 (日) | Edit |
小ネタですが、「復興アリーナ」のサイトに掲載される論説というのはいかにも「シノドス」的な雰囲気が感じられて個人的にはあまりなじめないのですが、そんな中でも陸前高田市や石巻市の仮説団地に暮らしている方々などの現地の方々のインタビュー記事には迫力を感じます。編集のうまさもあるのでしょうけれども、飾らずにありのままを語っている様子がうかがわれて、マスコミや意識の高い活動をされている方々の論説に比べると、生々しい空気のようなものを感じることができます。被災地から少し離れただけの当地でも震災の記憶が風化しているだけに、私もこうした声に触れる機会を大事にしたいと思います。

その「復興アリーナ」でも若干毛色の変わった現場からのインタビューが先日掲載されていまして、これがなかなか示唆に富んだ内容となっています。TBS社員から内閣広報室審議官に期限付きで就任した下村健一氏のインタビューでして、なぜ下村氏が?と思って読んでいくと、下村氏は菅前総理との学生時代からのつながりがあって、その縁で呼ばれたんだそうですが、下村氏の経歴を見ると、実は学生時代から政治活動に熱心だったんですね。そのような志向を持った方が大手マスコミに就職して、政府に対して執拗な批判を加えていたと考えると、まあマスコミの報道姿勢の一端がよく分かる気がします。

で、その下村氏の回想録ともいえるインタビューなのですが、正直そうした政治活動の延長のような高揚感に満ちあふれていてなんともお腹いっぱいな感じがしてしまいます。まあ、特に震災後の状況の中で高揚感を持たないわけにはいかないとは思いまし、私自身震災後のエントリを読み返すと気恥ずかしくなるようなことも書いているわけですが、その下村氏も政府内での利害調整に否応なく引き込まれていったようです。

難波 そこまでは良かったのかもしれません。でも、そのあと出てきた政府の結論である「革新的エネルギー環境戦略」に国民的議論はブリッジできたんですか。

下村 もちろん! 当然だけど、あらゆる文書には、実際にそれを作文した人がいるわけですよ。詳しくは明かせないけど、そのプロセスに、ぼくも少しだけ関わりを持ったので言えますが、あの“戦略”文、ものすごいせめぎ合いの中で、古川さんたちが「これだけは残そう」としたものは、残しきりました。“30年代に稼働ゼロを目指す”、とくにその中の“ゼロ”という二文字とか、“新増設を認めない”、“40年で廃炉”というのを残せたんです。

難波 原案はぜんぜん違うものだったんですか?

下村 そりゃ交渉事ですから、第1球は、もちろん高めの球を投げますよ。「原発残さないと日本経済がダメになる」と思っている人たちも、「これを機会に、ほんとに脱原発しなきゃ」と思ってる人たちも、どっちも真剣だもん。「うちの町の暮らし、どうしてくれるんだ」と思っている人たちも真剣だし、「海外との関係、どうするんだ」と心配している人たちも真剣。全部真剣なわけですよ

そのぶつかり合いの中で、ぎりぎりどこに、最終的な文言を落ち着けるかっていうのは、これはもう、最初から当然わかっていたものすごい勝負ですよ。誰もが、みんな自分の立ち位置から、“理想の最終文案”を頭の中に持っているわけですよね。「原発はいずれ基幹電源に戻す」と「ただちにすべてゼロにする」を両端にして、いろんな理想像を思い描いている人たちがいる中で、一本の文章にしなきゃいけない。みんな互いに譲れない一線がありました。

下村健一氏インタビュー【広報室審議官編】 震災、原発、首相交代 ―― 霞ヶ関広報の変化の芽を、過去形にしたくない 難波美帆(2012年11月20日)」(復興アリーナ
※ 以下、強調は引用者による。

政府内部での利害調整の厳しさについては、最近では同じく民間から内閣府参与となった湯浅誠氏が書かれていますが、

 しかし、居酒屋やブログで不満や批判をぶちまける人、デモや集会を行う人たちの中には、それが奏功しなかった場合の結果責任の自覚がない人(調整当事者としての自覚がない人、主権者としての自覚がない人)がいます。それらの行為がよりよい結果をもたらさなかったのは、聞き入れなかった政府が悪いからだ、で済ましてしまう人です。その人が忘れているのは、1億2千万人の人口の中には、自分と反対の意見を持っている人もいて、政府はその人の税金も使っている、という単純な事実です。相互に対立する意見の両方を100%聞き入れることは、政府でなくても、誰でもできません。しかしどちらも主権者である以上、結局どちらの意見をどれくらい容れるかは、両者の力関係で決まります。世の中には多様な意見がありますから、それは結局「政治的・社会的力関係総体」で決まることになります。だから、自分たちの意見をより政治的・社会的力関係総体に浸透させることに成功したほうが、同じ玉虫色の結論であっても、より自分たちの意見に近い結論を導き出すことができます。

(略)

 あたりまえのことしか言っていないと思うのですが、実際にはそのあたりまえが通用しない局面があります。現実的な工夫よりは、より原則的に、より非妥協的に、より威勢よく、より先鋭的に、より思い切った主張が、社会運動内部でも世間一般でも喝采を集めることがあります。そうなると、政治的・社会的力関係総体への地道な働きかけは、見えにくく、複雑でわかりにくいという理由から批判の対象とされます。見えにくく、複雑でわかりにくいのは、世の利害関係が多様で複雑だからなのであって、単純なものを複雑に見せているわけではなく、複雑だから複雑にしか処理できないにすぎないのですが、そのことに対する社会の想像力が低下していっているのではないかと感じます。
 テレビや新聞の断片的な情報と、それを受け取った際の印象で自分の判断を形成し、それがきわめて不十分な情報だけに依拠したとりあえずの判断でしかないという自覚がなく、各種の専門家の意見に謙虚に耳を傾けることもなく、自分と異なる意見に対して攻撃的に反応する。ツイッターでもブログでも、テレビのコメンテーターから中央・地方の政治家から、そして社会運動の中にも、このような態度が蔓延しており、信頼感と共感は社会化されず、不信感ばかりが急速に社会化される状態、他者をこきおろす者が、それが強ければ強いほど高く評価されるような状態、より過激なバッシングへの競争状態です。

【お知らせ】内閣府参与辞任について(19:30改訂、確定版)(2012年3月7日水曜日)」(湯浅誠からのお知らせ

「わかりにくいのは、世の利害関係が多様で複雑だから」であるにもかかわらず、テレビで断面的な報道をしてきた方(と一括りにするのは不適切かもしれませんが、下村氏は「みのもんたのサタデーずばッと」にも出演されていた方ですし)が、とにかく「わかりやすさ」ばかりを気にしているのが、まさにそれを象徴しているのでしょう。

難波 「期待された」というのは、誰かからそう言われたというより、自分の中で、こう期待されているんだろうと考えていたことですか。

下村 両方です。入るときにいろんな人から、「お前が政府のわかりにくさをなんとかして来い」と言われました。まず、いきなり去ることになって迷惑をかけた、「みのもんたのサタデーずばッと」(TBS テレビ系の報道番組:下村氏が一コーナーを担当)のスタッフたちから、「送り出してよかったと言える働きをしてくれよ」と送別会で言われました。“働き”とは何かと言えば、もちろん「政府の都合のいいようにメディアをコントロールすること」ではなく、「本当に政治が何を目指してやっているのかをわれわれ国民に届けること」と、「われわれの声を政府の中に届けること」、このふたつです。そのあと、この転身話がオープンになってからは、いろいろな人たちに同じ趣旨のことを言われました。

下村健一氏インタビュー【転身編】 メディアから官邸へ ―― 決断の本当の理由と、今だから話せる官邸の第一印象 難波美帆(2012年11月19日)」(復興アリーナ

で、その下村氏も関わったという「革新的エネルギー環境戦略」については、こう力説されます。

下村 みんな、最初の4ページ分の北風戦略のところだけを見て、経済界は、「国民にこんな寒い思いをさせるつもりか」と言い、反原発の人たちは、「この程度じゃ、旅人はコートを脱がないじゃないか」と言う。だけど、そのあとに11ページ分の太陽戦略があるから見てくれ。文字通り“太陽”光発電のこととかが書いてある。

ここを読めば、心配する経済界も「これならやっていける」と思い、反原発の人も「これならコートを脱げる」と思える。そういうものをぼくらは書いたつもりなんです。しかも、「政府だけではできません」と、正直に書いた。北風は政府だけで、できる。方針決めて貫けばいいんですから。しかし太陽の方は、国民みんなでやらなきゃできません。

難波 しかし、「30年にゼロ」っていうのが国民の過半数の意見だったというところから見ると、「30年代にゼロ」っていうのは、嘘があると感じるんじゃないですかね。30年代としたことで、骨抜きにされるんじゃないかという報道もありました

下村 嘘はないよ。徹底オープンで検証した国民的議論の結果は、「過半数の国民は、原発ゼロ」だけど「いつまでにゼロにするかは、意見が分かれている」でした。「30年にゼロが過半数」という結論じゃありません。

それから、「結局今回の戦略は15%シナリオじゃないか」って言う人もいますけど、15%シナリオというのは、2030年までに15%ぐらいにして、そこから先、さらに減らすか増やすかは、その時点で決めるというものでした。今回のは「ゼロを目指す」と言っているから、15%シナリオとは決定的に違います。もちろん、30年に0%じゃないから、ゼロシナリオとも違いますよ。いわばゼロと15%の間になったんですよ。そこがなかなか伝わってなくて

下村健一氏インタビュー【広報室審議官編】 震災、原発、首相交代 ―― 霞ヶ関広報の変化の芽を、過去形にしたくない 難波美帆(2012年11月20日)」(復興アリーナ

若干の苛立ちを感じるインタビューですが、まあ、ご自身がその立場になって初めて官庁文学の読み方を理解されたというところでしょうか。引用だらけで恐縮ですが、権丈先生の言葉を借りれば、

「両論併記が目立つ」とか「明確な結論が見あたらない」と書いている新聞もあるけど、それは、読解力の問題だ――いや、官僚のねらいどおりの解釈(笑)。複数のプリンシパルに仕えなければならず、それはそれなりに立場があって、最後の手柄は政治家に残していなければならない彼らがまとめる報告書の文章を、(責任のある立場にない)政治家や利益集団、そしておっちょこちょいの研究者集団が書く政策提言書と同じ読み方をしていては、ただの無能の評価を受けるだけ

勿凝学問222 民主主義における力・正しさ・情報の役割――「高齢者医療制度検討会」における「ポンコツな医療保険」発言以降考えていること(2009年3月21日)(注:pdfファイルです)」(http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/

というところでして、官庁文学の作成に携わったおかげで下村氏も晴れて「無能」の評価を免れたようでして、何はともあれご同慶の至りです。
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2012年11月25日 (日) | Edit |
というわけで、実際の仕事の現場ではモチベーションが上がらないといわれるルーチンワークの方がよりクリティカルな役割を果たしていることと、それを無視したモチベーションアップ至上主義がブラック企業の存在を許している状況について前回、前々回と確認してきたところでして、では「ブラック企業の存在を許さない状況」とは何かを考える上で、その名も今野『ブラック企業』が大変参考になります。

とはいいうものの、実は本書で今野さんは慎重に「ブラック企業」の定義を避けながら論を進めます。その理由を説明した部分を引用させていただくと、

 本書では、ここまでブラック企業に明確な「定義」を与えることを、あえて避けてきた。ブラック企業に定義を与えることは、想像以上に難しい作業だからだ。多くの書籍では、ブラック企業問題を「違法な企業」の問題としてとらえている。だが、もし単に違法な企業をブラック企業と呼ぶならば、それは昔から日本に存在することになる。いうまでもなく日本では従来から「サービス残業」に象徴される違法行為が後を絶たない。「労働法は道路交通法と同じくらい守られない」とも言われてきた。「違法行為」だけでブラック企業を定義しようとすると、「昔から日本企業はブラック企業だ」という結論にしかならないのである。
 だから、一般的なブラック企業の説明は、実は「ブラック企業問題」の本質的側面を見落としている。「使い捨て」がどうして発生し、どうして抑止できないのか。こうした社会構造こそが問題の本質なのであって、違法行為をしている「悪い企業」をいくら個別にあげつらっても、問題の核心は見えてこない。
p.180

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※ 以下、強調は引用者による。

正直なところ、この記述が出てくるまでは、本書で取り上げられている「ブラック企業」の事例は「ブラック企業」として問題にすべき職場の姿のごく一部でしかないのではと思いながら読んでいました。というのも、本書の前半では、新卒を正社員志向とか上昇志向により選別し、そのモチベーションを利用しながら摩耗するまで使い捨てていく企業の例が取り上げられているのですが、本書でも言及があるように「過労死」は新卒から間もない若年層だけの問題ではなく、もともと働き盛りと言われる中間管理職の問題でもあったはずだからです。「ブラックな働き方」の問題が若年者問題として取り上げられて初めて、その「ブラックぶり」が社会的な問題として認知されたとも言えそうです。

この点では、海老原さんが上野千鶴子先生との対談の中で、「私の友人の新聞記者の女性たちも、「女性かわいそう論」を書くと、デスクにはねられるというんです。「若者かわいそう論」にすり替えることで、ジェンダー問題を正面から考えさせない大きな「しかけ」になっている、と。」とおっしゃっているのと同じ構図があるように思います。つまりは、もともと過労死を招くようなブラックな働き方が「昔から日本はブラック企業だ」という認識のもとに問題視されなかった状況があって、そこには日本独自の不当労働行為法理に由来する労労対立により機能不全に陥った労使関係の実態が背景としてあり、その機能不全が若年者層に直接影響が出るようになってやっと社会的な問題として注目されるようになったのではないでしょうか。その意味では、今野さんが本書で、

 繰り返し述べてきたように、日本型雇用は長期雇用と年功賃金が付与される代わりに、きわめて強い経営の人事権が確保される。しかも、長期雇用は経営にとってもOJT(On the Job Training)で技術水準を引き上げるうえで役立ち、年功賃金は若者の長期勤続の意欲と企業への忠誠心を養う上で最適であった。若者にとっても、以前よりも安心して働くことができ、モチベーションも増大した。
 しかし、いまの日本の企業別組合には、日本型雇用を守らせるだけの力がない。組織率の低下によって、新興企業ではまったく日本型雇用の「合意」は崩されてしまった。その上、老舗大企業では、正社員の日本型雇用を「守る」ために、日本型雇用の合意の外側に、大量の非正規雇用を生み出すことを許してしまった。こうして、日本型雇用を守る企業別組合の権威は失墜の一途をたどっている。

今野『同上』pp.188-189

というのは、その前に引用した部分もそうですが、やや因果関係が入り組んでいるのではないかと思います。日本の労働組合は、戦時体制下の賃金保障や解雇制限を背景とし、生産管理を行いうる産業報国会を前身として戦後成立させられたものだったために、賃金や待遇に関する規範的な労働協約を締結する能力や意思がそもそも不足していたものと思われます。この辺りの経緯をhamachan先生の『日本の雇用と労働法』から引用すると、

 ここで、日本型雇用システムにおける労働協約の役割を見ておきましょう。日本の古典的労働法制は、労働条件規制について、労働法令が労働協約に優越し、労働協約が就業規則に優越し、就業規則が個別労働契約に優越する、というヒエラルキーを規定しています。これは本来、労働協約が企業を超えて労働条件を規制することを前提に、企業レベルの就業規則に対する優越性を定めたものですが、現実の労働協約はほとんどすべて企業レベルで締結されたものであるならば、両者の規制対象はほとんど重なってしまいます
(略)
しかし、組合組織が企業別であるため産別協約はほとんど不可能で、しかも企業別の具体的な労働条件は就業規則で定めるという慣行はそのまま残ったため、日本の労働協約は依然として労働条件(規範的部分)よりも組合活動などに関する規定(債務的部分)が中心であり続けています。
pp.160-161

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という状況だったわけで、日本の集団的労使関係の中で明示的に日本型雇用慣行についての合意があったというよりは、労働組合との労使交渉による労働協約では決められない規範部分は、高度経済成長期の人材不足などに対応する必要もあって、使用者側が労働者に一見有利な日本型雇用慣行として形成したというのが実態に近いのではないかと推測するところです。そして労働者に一見有利な雇用慣行であるためには、その労働者の期待を法益として保護すべく、就業規則の不利益変更法理とか解雇権乱用法理とか整理解雇の4要件とかの判例法理が形成されなければならず、一方で長期的に労働者の期待を損なわないよう職能資格給制をとらざるを得なかったのだろうと思います。

つまりは、日本の労働組合はその団結権を人権そのものであるとして社会権とは理解していないために、その社会権を行使して守るべきものを見失っている、とまでいうのは大雑把すぎるかもしれませんが、まあ労働組合が本来の機能を果たしていないという現状は変わりありませんね。そして、労働者に一見有利なようにその期待を保護していた日本型雇用慣行は、期待に対する保護を外してしまえば会社の都合によって従業員をいくらでも使い勝手の良い人材に仕立て上げることが可能な仕組みでもあります。それがバブル崩壊後の護送船団方式や事前規制に対する批判を追い風としながら、成果主義とか雇用の不安定化によるモチベーションアップという意匠をまとって、労働者に見返りのない滅私奉公を強いる仕組みとして機能しているともいえそうです。

という観点からすると、今野さんが

 政府や社会がブラック企業問題で後れをとっている最大の要因は、現状に対する認識が誤っているからだ。本書の冒頭で示したように、政府や学者の基本的な思考枠組みは、「若者の意識の変化」で雇用問題を捉えるという傾向にある。若年非正規雇用や失業の問題を「フリーター」や「ニート」問題へと矮小化してきたことがその現れである。そして、ブラック企業問題に対しても、彼らは同じように「若者の意識」さえ改善させれば、解決する問題だと考えている。
(略)
 これらの問題は、日本型雇用の「いいとこどり」を財界も総じて狙っているということである。「新しいモデル」といいながら、日本型雇用そのものを否定はしないし、これまでの悪弊であるサービス残業は合法化しようとする。もしまったく新しいモデルをつくるというのなら、雇用保障や年功賃金と引き換えの強大な「人事権」や、これを通じた違法行為の横行への取り締りをも視野に入れる必要がある。しかし、新しい「モデル」の核心は残業代の不払いや日本型雇用の補完物である非正規雇用の増大なのである。

今野『同上』p.220

とおっしゃるのは、気持ちはわからないではないですが、あまりに政府や財界の能力を過大評価しすぎだろうと思います。政府や財界が何を言おうが、企業レベルの日本的雇用慣行は経済動向や社会情勢の変化に応じて自らその矛先を変えるのであって、いま起きているブラック企業問題もその現れとして考えるべきではないかと思います。上記のような日本特有の労使関係の歴史からいえば、ブラック企業問題は決して若者だけの問題ではなく、むしろこれまで日本の男性正社員が日本型雇用慣行の中で直面してきた問題でもあって、「若者かわいそう論」にはとどまらない射程を持つ議論が必要となる問題だろうと思います。

もちろん、その議論の過程で、早急に手をつけるべきところから手をつけるために、労働基準監督官を増員して取り締まりを強化することも重要ですし、社会保障の仕組みとして各種の社会保険や職業訓練を拡充することも必要です。その先には、現場の労使が少なくとも自分の職場の規範については自主的に交渉して策定する仕組みの構築が必要だろうということで、今野さんが「労使関係の再生こそが、ブラック企業を規制し、新しいモデルをつくる鍵となる(pp.238-239)」とおっしゃる点は、その方向性に大きく同意する次第です。

でまあ、被災地の労働環境がブラック化していることについてはまたの機会に書ければと思うのですが、本書の最後の部分で興味深かったのが、弁護士や社会保険労務士などの「ブラック士業」についての記述です。

企業側の無限定の命令は若者にとって、生活の見通しがたたない状態を生み出しているが、これは企業にとってもデメリットが大きい。若者の不信感が増大し、離職が増えれば、離職に伴う係争費用、採用費用、育成費用の増大が深刻になってくる。いま現在は「使い捨て」で利益を上げていても、長期的には負担がのしかかってくるはずだ。
 この状態で利益を得ることができるのは、国内の市場を無視した一部のグローバル企業と、労使が争うことで漁夫の利を得ようとする悪徳な弁護士だけである。悪徳弁護士は、ルール不在であるが故の商売を行っているが、社会悪というほかない。これによってますます社会的な費用がかさみ、日本の生産性や国際競争力は地に落ちていくことだろう

今野『同上』p.234

ブラック企業が社会的な負担にただ乗りしていることは、私も以前「本当のブラック会社ってのはおそらくこういう構図をわかっていて、従業員を酷使して使い捨てしようと、その従業員は泣き寝入りするか役所のお世話になってしまうと踏んで、自分の懐は痛まないと高をくくっているような会社をいうのではないかと思います」というようなことを書いていましたが、さらにそれをビジネスチャンスとして企業に売り込むブラック士業もいるわけです。経営法曹会議などはまともですが、そうした経営法務などには関心もないブラック士業によってブラック企業のフリーライドが止まらないのであれば、まずはその原因となった弁護士の濫造を招いた司法改革も反省しなければならないでしょう。そして、次の総選挙の台風の目とされているのが「「投票行動」を一種の契約と見なして「大阪市民(以前は大阪府民でしたが)というクライアントからの白紙の委任契約に基づき、現行法令の枠内の真っ黒の一歩手前のグレーゾーンまで、そのクライアントの意向の実現を要求している」弁護士だというのも、日本にブラック企業がはびこる理由を如実に示しているように思いますね。

2012年11月22日 (木) | Edit |
というわけで、前回エントリの最後で取り上げた常見著『僕たちはガンダムのジムである』ですが、前回取り上げたような「承認を与えて“やる気”を引き出せば世の中が変わる」という表層的な組織論で熱に浮かされた頭を冷ますのに絶好の本だと思います。ジムというガンダムの中で決して主役になり得ないモビルスーツを題材に取り上げることで、「やる気を出して自分磨きをすればスーパー公務員になれる」というようなキャリアアップ論の空疎さを完膚なきまでに描き出していて、管理主義にもモチベーションアップにも迷いながらバッシングに晒されている公務員にも参考になると思います。

いやもちろん、ガンダムがいくらガンヲタを量産し続けているとはいえ、某CMで古舘寛治が「世の中の人がみんなガンダム好きではないですよ」というように、「ガンダムのジム」といってピンとくる層は限られているでしょう(実をいえば私もファーストガンダムだけは何とかついていける程度です)。そもそもガンダムが放映された1979年というのは第二次オイルショックのまっただ中で、高度経済成長期末期から日本型雇用慣行が確立された時期でもあって、日本型雇用慣行と「春闘」方式が高インフレによるスタグフレーションの進行を抑え、1980年代の日本経済の一人勝ちを準備していた時期でした。またこの時期は、就業規則不利益変更法理とか解雇権乱用法理とか整理解雇の4要件(東洋酸素事件の東京高裁判決がちょうど1979年ですね)とかの判例法理が確立し、賃金体系では1969年の日経連「能力主義管理−その理論と実践」による職能資格給が広まっていった時期にも重なります。そして、それらの判例法理は日本独自の不当労働行為法理に起因する労労対立の産物でもあったわけです。

そういった時期に放映されたガンダムで描かれる軍組織への視線には、日本型雇用慣行に対する異議申し立ても多分に含まれていたのではないかと思うところでして、興味を引くギミックとはいえ日本型雇用慣行をとらえて「ガンダムのジムである」とまでいうのは言い過ぎのような印象はあります。

まあそんな細かい設定への詮索はおくとしても、自分磨きとかモチベーションアップをやたらと称揚するキャリア論に不安を駆られた方には、こちらの一節が解毒剤になるかもしれません。

 落ち着いて考えよう。自分は自分。それでいいのだ。モチベーションに満ちあふれすぎているのも危険なのである。第1章でもふれたが、僕の経験で言うならば、企業というのは時に躁状態のような、ハイテンションになりがちである。その反動が怖い。プロは、モチベーション、テンションが上がりすぎず、下がりすぎないようにコントロールするのだ。
 それこそ、高校野球ではよくピッチャーがボコボコに打たれて目も当てられない状態になったりするが、これはアマチュアなのだ。
 安定した試合にすることができる、負けたとしてボロ負けしない、これがプロだ。
 技術もさることながら、気持ちのコントロールがものを言う。だから気持ちを前向きにすることも大事だけれど、上がりすぎないようにすることも大事なのだ。
(略)
 例えば、やりたくない仕事の代表にルーチンワークがある。でも、このルーチンワークをナメてはいけない。僕は「創造的ルーチンワーク」という言葉を大事にしている。
(略)
 そもそも、ルーチンワークは深いのだ。例えば、単純作業、パシリの典型だと言われるコピー取りについて考えてみよう。あなたは「会議のためにコピーをとっておいて」と言われたら、どうするだろうか? そのまま何も考えずにコピー機を動かしてしまう人は、社会人失格だ。
p.131

僕たちはガンダムのジムである僕たちはガンダムのジムである
(2012/09/28)
常見陽平

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※ 以下、太字強調は原文、太字下線強調は引用者による。

ルーチンワークをナメきっている方に限って「自分が主役だと思えばやる気も出る」とか言ってしまうのですが、それは従業員をブラックな労働環境に駆り立てていくという危険性を孕むものだけに、無邪気にそんなことを言うような学者がいればとても罪深いと思います。

 また、「超やる気」社員が多い業界として広告業界や情報・通信業界があげられよう。たとえばリクルートの社員は、昔から“やる気”が突出していると評判だった。社員同士が血相を変えて議論することも多いし、ほうっておけば徹夜ででも仕事をする(現在は会社側が労働時間管理を徹底しているが)。
(略)
 ここに紹介した「超やる気」人間たち。彼らに共通するものをひとことで言うと、それは「自分が仕事の主役である」という意識を持っていることだ。だからこそ、ずば抜けたモチベーションが生まれるのである。
pp.82-82

公務員革命: 彼らの〈やる気〉が地域社会を変える (ちくま新書)公務員革命: 彼らの〈やる気〉が地域社会を変える (ちくま新書)
(2011/10/05)
太田 肇

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そのリクルートの社員であった常見さんが、『僕たちはガンダムのジムである』という本の中で、

 中にはブラック企業を「居場所」と思い込んでしまうことだってある。最近では、楽しい企業を装ったブラック企業が増えている。「愉快なプチ搾取企業」とも言える企業だ。こういった企業には、次の2つのパターンがある。
①「好きなことを仕事にしたい」という気持ちを悪用する企業
②「モチベーションが上がる楽しい職場」であることを悪用する企業
(略)
 もう一つ注意すべきなのは、やたらとモチベーションアップ施策を行っている企業だ。
・会社や事業部をあげての派手なキックオフイベントなどがある
・営業マンランキングなどをやたらと競わせていて、表彰制度などがある
・インセンティブが充実している
・社内報が充実している
・宴会やパーティーに必要以上に力を入れる
 人材業界やネット関連業界などでよくあるパターンだ

常見『同』pp.188-190

とおっしゃっていることの意味を、太田先生は十分に検討する必要があるのではないかと老婆心ながら思ってしまいますね。

そのブラック企業については、現在今野晴貴著『ブラック企業』を拝読中ですので、そのうちこの続きが書ければと思います。実は、すでに震災から1年8か月目となる11月11日が過ぎたわけですが、このやる気をめぐる対照的な論評から「ブラック企業」に話をつなげて、被災地の労働環境がブラック化している状況(民間も役所もその傾向がありますが、役所の方が進行度合いが深刻ではないかと思います)を書こうかと思っていたのですが、来月に持ち越しになりそうです。

2012年11月19日 (月) | Edit |
しばらく時間がとれずに積ん読を片づけるのもなかなか進まなかったのですが、以前坂倉さんのtweet関連で熊沢先生が絶賛されていた太田肇著『公務員革命』を読んでみました。

・・・が、もう冒頭から読む気をなくす記述ばかりで、最後まで読み通すのがこれほどつらい本も久しぶりです。読む気をなくさせている最も大きな要因は、本書が太田先生の「自分を承認してくれなかった古巣への敵対心」に充ち満ちているからではないかと思われます。

 私は経営組織論や人的資源管理(人事管理)論の研究者として、これまで民間企業を中心に研究してきた。しかし大学に職を得る前には、国家公務員、地方公務員として10年あまり働いた経験があり、その実体験を生かしながら公務員のマネジメントについて論じたいと思うようになった。とくに近年は、公務員を対象に講演やセミナーで話をし、彼らと意見交換する機会も増えた。また国内外の政府や自治体を訪ね、聞き取り調査を行う幸運にも恵まれた。
 本書では、そこから得た経験や知識・情報などを踏まえながら、かといって過剰にとらわれず、公務員の“やる気”を革命的に高めるにはどうすればよいかを述べていきたい。
pp.13-14

公務員革命: 彼らの〈やる気〉が地域社会を変える (ちくま新書)公務員革命: 彼らの〈やる気〉が地域社会を変える (ちくま新書)
(2011/10/05)
太田 肇

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※ 以下、強調は引用者による。

ううむ、もしかすると太田先生ご自身が国家公務員、地方公務員として「承認」されなかったという思いが強いために、自らが属した組織ではなく民間企業を対象に研究されていたのかもしれません。それはおそらく、公務員出身ということで「民間企業のことも分からないくせに」といわれる逆境を跳ね返すためにも必要なことだったのかもしれませんが、いやまあ、退職した途端に所属していた組織をdisるのは、脱藩官僚に共通する現象なのでしょうか。

それにしても、採用時点でコースわけが決められている国家公務員はよく分かりませんが、退職に至るまで同じ年次でも事務方のトップから現業の最前線まで見事なグラデーションが形成される地方公務員に対して、「承認されないからやる気がなくなる」とか言われてしまうと、少なくとも私は的外れなことを言っているなと思ってしまいますね。出世もある程度で止まり、承認もされない公務員が大多数なんですけど何か? この点は、海老原さんが「途中からノン・エリート」という第3の道の必要性を主張されている通り、日本型雇用慣行の問題点はすべての労働者(民間だろうが公務員だろうが同じです)がエリートとしての働き方を要求されるメンバーシップ型である点にあるわけで、「出世しなくても給料が上がらなくても承認さえ得られればやる気が出る」とはいまどきずいぶんステロタイプな公務員像にとらわれているものだなと逆に感心します。まあ、おそらく太田先生が若い時分に経験した「経験年数が少ないからといってこき使われて、仕事もろくにしないベテランばかり偉そうにしている」という「古き良き公務員像」に対して一言言わずにはいられないのかもしれません。

念のため、熊沢先生が太田本をどのように評されていたかを確認しておくと、

 多くの公務員は、仕事の内容をいちいち細かく命令されているわけではありません。経営学者の太田肇さんが『公務員革命』(ちくま新書、2011年)という本を出してします。いままで私とは意見の違いもあった方ですが、これはいい本です。公務員バッシング、査定や成果主義の強化、懲罰的統制は絶対だめという見解。公務員がモラールを発揮するに絶対必要なのは、要するに「自律」だという内容です。仕事のやり方、仕事のペース、労働時間の配分、キャリアの積み方…について徹底的に自律を促進することで、公務員の働き方を変えるという提言です。組合論の観点からの研究ではありませんが、基本的に賛成です。橋下「改革」のように、行政や教育の改革の主体から公務員労働者や教師を完全に排除して、統制と懲罰の管理強化をすることはグロテスクなのです。
p.70
熊沢誠「橋下「改革」対抗論−問われる公務員労働組合のゆくえ」

POSSE vol.15: 橋下改革をジャッジせよ!POSSE vol.15: 橋下改革をジャッジせよ!
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NPO法人POSSE、宇野常寛 他

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熊沢先生のこのインタビューに対する感想は、『POSSE.vol15』を取り上げたエントリのコメント欄に書いたとおりでして、「熊沢先生が太田肇著『公務員革命』を「いい本」として取り上げていて、一部それに依りながらお話をされている点について違和感を感じていまして、そちらを読んでから取り上げようかなと思って」いたわけですが、なんというか、太田本にも全く同じ感想を持ちましたので、改めて書くほどのこともありませんね。

というより、熊沢先生のインタビューも太田本も、そこで描かれる公務員増は、私が普段仕事をしている公務員の現場の感覚とはずいぶんかけ離れていると感じます。それは上記のコメント欄に書いた違和感にもつながっているのだろうと思いますが、ひと言でいえば、太田先生が若い頃に経験され、熊沢先生が公務員労組から聞かされている「古き良き公務員像」に依拠して、「公務員は自分の仕事が承認されないからやる気をなくしている」という紋切り型の公務員管理主義批判にとどまっているということになるのではないかと思います。いやもちろん、そういう面がないということではなくて、それって公務員じゃなくなって民間だって同じことでしょ?と思うわけです。

というわけで、個人的な習慣として本を読むときは感想を色分けした付箋を貼っているのですが、この本は疑問に思ったときに貼る色の付箋でいっぱいになってしまいました。それを一つ一つ取り上げて反論しようかとも思いながら読んでいたのですが、あまりに多すぎたので諦めます。あえて総論的に言えば、組織論を専門とされる研究者でありながら、個人のやる気とか承認に着目するあまり組織管理の面が等閑視されているというところでしょうか。まあ、もともと新書ですからボリュームの面では総論的になってしまうのもやむを得ないのでしょうけれども、それにしても個々の労働者の働きに着目しすぎて組織管理がないがしろになる組織論というのも不思議なものではあります。

典型的なのが、IT化によって仕事の中身が変わったというIdealな仕事論です。

 一つはIT(情報通信技術)化の影響である。以前だと役所の仕事の多くは、文書の作成や送付、登録、帳簿の整理、数字の計算、関係部局や関係機関を訪問しての意思伝達・調整といった、かなりの単純で定型的な作業が大きな割合を占めていた。ところがパソコンやインターネット、庁内LANなどの普及により、それらの仕事は大幅に効率化された。各部署で行っていた総務・庶務の業務も、事務センターで一元的に処理するようになりつつある。
 さらに財政事情の悪化から、業務を効率化し経費の削減を図るため、各種施設の管理、清掃、警備、情報処理といった業務は民間への外部委託が進んでいる。
 そうなると当然、浮いた時間と人手はIT化できない仕事、たとえば調査や分析、調整や判断、住民に対する指導や助言、質の高いサービスというような仕事に振り向けられることになる。
(略)
 ところが、調査や分析、調整や判断、質の高い住民サービス、政策立案や企画、それにプロジェクトの遂行というような仕事は、いずれも受け身では成果が上がらない。住民の先頭になってまちづくりや地域再生を成し遂げるとなるとなおさらだ。そして“やる気”のある職員は、ときには地域を一変させるほど大きな仕事をするが、“やる気”のない職員はほとんど役に立たない。いや、ときには事業を停滞させ、地域に大損害を与えることもある。職員一人一人の“やる気”と発揮される能力が、かつてとは比較にならないくらい重みをもってきたのだ。

太田『同』pp.55-56

だからそれが間接部門の軽視による組織運営の行き詰まりとか官製ワーキングプアの大量発生とかにつながっていて、「役立たずのコームインめ!」という感覚それ自体が「公務員バッシング」の典型だということに太田先生は気がついていないようですね。確かに太田先生は本書で「“やる気”を奪った「ポピュリズム型」公務員改革」と縷々説明されていますが、日本型雇用慣行に一切言及されずに説明されているため表層的な組織論になってしまうのだろうと思います。

ちなみに、日本型雇用慣行は大企業を中心に発展したものではありますが、それはゴーイングコンサーンを持つ組織としての組織管理上の必要に迫られた面があって、そのためにどんなに小さな役場であってもゴーイングコンサーンを持つ組織として日本型雇用慣行を取り入れてきたのが実態ですので、それを踏まえない議論が表層的に思われるのも致し方ないところなのでしょう。

ついでに言えば、太田先生が引用部で効率化されたといっている業務は、そのほとんどが効率化しようのない業務です。確かに表計算ソフトで計算事務が軽減されたりとか、帳簿が電算化されて入力が簡単になったという程度の効率化はあったかもしれませんが、IT化が進んだからといって計算の検算は手作業で行いますし、帳簿のチェックも目で行っています。「そんなことは非効率だ」とか言われてしまいそうですが、表計算ソフトの計算式が間違うなんてことはよくあることですし、帳簿の入力誤りは人がキーボードを叩く限り必ず発生する(帳簿入力の誤りで「消えた年金」とか騒いでいた某現政権党もありましたね)わけで、それは効率化のしようがないわけです。さらに、「IT化が進んだから仕事の質を求める」というまさに太田先生の主張される理屈によって仕事そのものは増えているわけで、たとえば何かのプロジェクトを新規に立ち上げたりすれば、そこに待っているのは膨大な「文書の作成や送付、登録、帳簿の整理、数字の計算、関係部局や関係機関を訪問しての意思伝達・調整といった、かなりの単純で定型的な作業」でして、IT化とか民間委託ぐらいで仕事が効率化されるはずもないんですけどねえ。

公務員バッシングの問題を考えたい方には、「組織学者」を標榜される太田先生のこうした表層的な組織論よりは、常見陽平さんの『僕たちはガンダムのジムである』を強くおすすめするところです。

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