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2012年10月28日 (日) | Edit |
海老原さんから新著をご恵投いただきました。いつもながら場末のブログを気にとめていただきありがとうございます。前著で「今後は、周辺領域で上梓の遅れているジェンダー関連や、高齢者雇用などの残課題についていくつか発表を行った後」と宣言されていた通り、今回はジェンダー関連で『女子のキャリア』というタイトルです。すでにhamachan先生も取り上げられており、そのコメント欄で海老原さんご本人も登場して「あとがきのあとがき」的な本書の狙いも語られていますので、私も本書を拝読する上で大変参考になりました。

本書の趣旨からはやや筋違いの話になってしまいますが、hamachan先生のブログでコメント欄で海老原さんとhamachan先生がやりとりされている内容から考えさせられることは、かつての日本型雇用慣行において「女子のキャリア」がいかに重要な役割を果たしていたかということです。海老原さんご自身の言葉では、ジェンダー関連は周辺領域とされているわけですが、制度とか慣行を考えるときに不可欠な視点は、メインで見えているものはあくまで制度の束の一部であって、それを支える周辺的な制度や慣行によって成り立っているという自明の理(その意味では、メインとか周辺という区別は便宜的なものに過ぎません)であって、本書はそのことを鮮やかに描き出していると思います。海老原さんのコメントから引用させていただくと、

欧米型は、多数のノンエリート層が低い給与で夢も働くから、モチベーションが維持できません。会社は彼らのWLB維持に躍起とならざるをえません。こうした熟練の低賃金労働者がいるために、若年が市場からはじき出されます。つまり、モチベーションと若年受け入れにおいては、日本型の勝利でした。
ただ、こうしたノンエリート型社会は、出世しないわけだから出入り自由であり、長期勤続の必要もなく、いつまでも現役なので腕がさびません。そして前述の通りWLBが充実している。つまり、女性と高齢者の雇用では、明らかに日本型が負けています。
この帳尻を合わせる時期に日本は来ているのだと思います。

投稿: 海老原嗣生 | 2012年10月17日 (水) 07時08分
海老原嗣生『女子のキャリア』 コメント欄(2012年10月15日 (月))

日本型雇用慣行の功罪を峻別して対比させることで、「若者かわいそう論」とか「ネットカフェ難民」とかそれぞれの世代や時代ごとに生じている(ように見える)問題に対して、より深くその真相を考察することができるようになります(いやもちろん、個人的にそこまで言えるのだろうかという疑問点が、特に専門的な議論が展開される第6章にはないわけではありませんが、海老原さんご自身が「真摯に受け止める心づもりでおります」(p.211)とされていますので、これから議論が展開されていくことを期待しております)。そうした本書で海老原さんが女子に送っているエールが、一見女性が自身のキャリアを考えることを薦めておきながら、その実私のようなアラフォー男性はもちろんのこと、高齢者や若年者に対するエールかつ重要な問題提起にもなっていることが、その議論の深さを表しているのでしょう。

 さて、社会はこんな風に変化をしているところです。その流れに先んじて、すでに女性のキャリアはどんどん変化してきました。総合職女性が増え、結婚と出産は後ろ倒しとなったために、女性のキャリアは普通に30代中盤まで延びています。
 にもかかわらず、人々の気持ちのほうはこの変化についてこれず、いまだに1980年代のまま。OLモデルさえ消え去りません。そう、ズレて、軋みを起こしている真っ最中なのです。
 だから多くの女性にこの本を読んでほしいのです。
 そして、トップランナーたる30代女性たちには、変化の荒波の中でどう対処していくべきか、そのヒントの一つにでもしていただきたい。
 20代女性たちには、変化とズレの軋みをとらえて、OLモデルや80年代的価値観とどう向き合っていくべきかを、考えて働いてほしい。さらに、20歳前後の学生さんたちには、あなたが30代になるころ、社会は相当変わっている、そのことを頭にインプットして、歩き始めてほしい。
 そう、どの年代も、変化の波をかぶるという意味では共通なのです。だからこそ「共通のターゲット」として、この本を作りたかった。それが著者としての想いです。
pp.222-223

女子のキャリア: 〈男社会〉のしくみ、教えます (ちくまプリマー新書)女子のキャリア: 〈男社会〉のしくみ、教えます (ちくまプリマー新書)
(2012/10/09)
海老原 嗣生

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実は、このメッセージの裏には「男はもっと家事をやれ」というメッセージが隠されているとのこと。本書でもたびたび取り上げられていますし、上記のコメントにもありますが、男性正社員は確かに正規社員として雇用も保障され賃金水準も年功序列で高くなっていくのですが、定年間近になると実務を離れてほとんど忘れてしまい、身の回りのことすらできない「濡れ落ち葉」に成り果てていきます。もちろんそれは、若い頃に現場で猛烈に仕事をした経験を元に、中高年以降は管理職として判断する立場に専念した結果ではありますが、いびつな「会社人間」となって退職していく男性が、一方では「社蓄」批判の対象となっていたのも事実でしょう。「誰でもが管理職になれる」という男性正社員の未来像が実は使い物にならない中高年でしかないのであれば、それは本人にとっても会社にとっても不幸なことです。女子のキャリアはこうした男性正社員の働き方を支えていたものでもあったわけで、女子のキャリアを考えることは必然的に男性正社員のキャリアを考え直すことを迫るものとなります。いやあ深いですね。

ところが、hamachan先生のところでやりとりがありましたが、この海老原さんのコメントに対して後藤和智さんが痛烈に批判されていて、頭を抱えてしまいました。後藤さんの専門領域である俗流若者論の一つとして海老原さんの主張が批判されているわけですが、若者だけが問題ではないという複数の問題設定をすることに対して批判されているのであれば、後藤さんの批判はあまりに教条的に過ぎるのではないかと感じています。

私のような一介の下っ端チホーコームインでも、端から見ればムダな社会経験かもしれませんが、アラフォーともなればそれなりにムダな知識やら人脈やらができて、仕事の上でもプライベートでもそれなりに身の回りの方々の働く現場やもめ事やらに巻き込まれて、利害や意見の対立は解消しようのない前提でそれなりに世の中が動いているということを肌身で感じるようになります。世間からは「既得権益」の塊のようないわれ方をする私からすれば、奇しくも後藤さんがご自身で述べられているこの点が、後藤さんの批判の最大の弱点だろうと思います。

濱口氏の「りふれは」批判は、少なくともここでは、はっきり言って暴走しています(私も俗流若者論批判、ニセ科学批判の時にたまに暴走するので他人のことは言えないことを承知の上で言っています)。初期の「景気の問題に触れない言説はまったく意味がない」という言説への批判や、あるいはそのシングルイシューを支持してくれるだけで歴史修正主義や陰謀論に傾倒する言説への批判にとどまっていればよかったものの、少なくともここで持ち出されている濱口氏の「りふれは」批判は、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、というものでしかありません。それこそ「りふれは」や池田信夫と同じ思考ではありませんか。

濱口桂一郎氏の批判に応える(後藤和智/後藤和智事務所OffLine@仙台コミケ「C」16 · 11 10月17日 21:24)

世の中がシングルイシューで片づけられることばかりではないという「りふれは」への批判に理解を示すのであれば、俗流若者論というシングルイシューを叩けば問題が解決するわけではないことも後藤さんご自身が理解されているはずです。もう少し踏み込んでいえば、シングルイシューのみを問題とすることでその問題が構造的な何者かにすべて帰着してしまい、結局は具体的な行動に結びつかないということも懸念されます。シングルイシューを巡る議論はそれ自体が問題なのではなく、シングルイシュー化することで結果と原因が一対一で特定されてしまい、その原因となったものが徹底的にバッシングされる一方、それを成り立たせている周辺的要因が看過されてしまう点にあるものと考えます。私の考える一部のリフレ派と呼ばれる方々の問題点もその点に集約されます。

実は、筑摩書房から送られてきた本書には、上野千鶴子先生との対談(「ちくま」11月号だそうです)も添えられていまして、上野先生の「私は、30年間既存の組織が残ってきたというのは、バブルが崩壊した後も、政財官労の合意で、既得権益集団が、成功体験にもとづいた組織を現状維持しようとした間違った選択が尾を引いたと思っています。ですから、人災だと思っているんです」という発言を読んで、後藤さんのコメントと同じように頭を抱えていたわけですが、人災だから防止も解決もできるという「信仰」ほど厄災を生むものはないと思われるわけで、こうした言論は結局のところ悪者を叩いて終わるだけの生産性のないものでしかないと思います。

海老原さんのメッセージを特定の世代や階層にターゲットを絞ったものではなく、日本型雇用の影響を受ける日本社会の一員一人一人へのエールと理解している私からすれば、hamachan先生が「りふれは」を持ち出して後藤さんに示している懸念が上記のような観点から理解できるように思うのですが、まあ、私のようなおっさんのいうことなんて俗流若者論と同じと見なされるのでしょうねえ。
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2012年10月26日 (金) | Edit |
とある巨大自治体の首長の辞任で第3極の極って極右のことだったのかというオチがついたところですが、地方自治体の議会というのは6月、9月、12月、3月と年度内に4回開催されることになっていて、こちらでも先日9月議会が終わったところでして、まあ、いつものとおり日本共産党の方々には辟易とさせられました。一部の方には拙ブログが左翼系に見えているらしいのですが、何度も繰り返しているとおり、私は左派的な思想に懐疑的な立場をとっており(むしろカイカク派を揶揄することが多いので保守を自認しています)、その理由は、左派的な方々(やカイカク派の方々)が移行プロセスや最終目標に至る手続きというコストを全く考慮していないように見受けられる点にあります。といいながら、左派的な思想は否定しないでおきたいという意識もありまして、その点が拙ブログがサヨク扱いされる原因なのかもしれません。

それはともかく、サヨクといえば日本共産党といっていいと思うのですが、私とは179度くらい考え方が違う方々ですし、私も普段は街頭で公的セクターに対して威勢のいいバッシングを繰り広げているくらいの印象しかありませんし、もしかすると一般の方もそういう認識ではないでしょうか。しかし、役所にいると日本共産党の方々というのはある種の「お得意様」でもありまして、「とある地方公務員が日本共産党について書いた」という増田を読んで同感することしきりです。

共産党の議員が生保の窓口に来るというと、何か高圧的なイメージを持つ人もいるかもしれませんが、むしろ逆でお手数をおかけしてすみません、といった感じでやってきます。
日本共産党の議員は、元々福祉現場で働いていた経験のある人も多いので、福祉現場の苦労がわかるのかもしれません
また、日本共産党はおばちゃん議員も多いので、気楽な感じで話せることも多く、生活保護受給者の世話を焼いているおばちゃんって感じです
私は役所に入る前は、日本共産党=左翼=ヤバい人みたいなイメージしかなかったのですが、福祉に関われば関わるほど日本共産党の福祉における役割は大きいと感じるようになりました。
ケースワーカー、民生委員だけでは対応できない地域の特殊な問題も、共産党の議員、もしくは共産党関係者が間に入ることで解決した事例もあります。
※逆に保守系の議員は、横柄な人が多いです。やはり、地方議員といえど地域に対して一定の影響力をもっていますので、農業団体、建設業、医師、自営業、商工などなど、あらゆる方面でやはり保守系議員の影響力があります。
地方はやはり、保守系議員の力が圧倒的に強いので職員も神経を使う相手です。ただ、保守系の議員といっても、別に熱狂的な自民党議員というわけでなく、農家のおっちゃんだったけど青年活動していた成り行きで自民党会派に入ったというケースが多いです。
なので、根が地方のおっちゃんなので理屈よりも情とかお付き合いとか理屈じゃないところで落とし所を探るらしいです。(ベテラン職員はこれが本当に上手い。)
逆に若手保守議員は、尖閣問題とか憲法改正とか異常に関心が強いので、ちょっと怖いです。まぁ、元々代議士秘書していた人が多いからかもしれませんが、、、

■とある地方公務員が日本共産党について書いた(2012-10-15)街頭演説
※ 以下、強調は引用者による。

この増田では、別のセクションで「日本共産党は先述の通り医療機関として医療生協、中小企業、零細企業組合として民主商工会、その他にも多くの組織と連携している」とまでしか触れられていませんが、日本共産党議員の有力な候補者供給組織が全労連ですね。全労連傘下の産別組合では、医労連や福祉保育労など医療福祉分野の組合が活発に活動していますし、公的セクターでは国公労連・自治労連などをはじめ、建交労やJMIUなど民間でも活発に活動している組合があります。日本共産党にはそうした現場の叩き上げから組織として擁立された議員も少なからずいて、積極的に役所の窓口にいらっしゃるのはそうした現場で叩き上げてきた方々も多いので、役所の窓口で対応してもそれほど日本共産党に怖いイメージを持たずに済んでいるのでしょう。

ところが、そうした方々の印象とは真逆に、日本共産党の街頭演説や議会質問における公的セクター攻撃の激烈さはハンパないですし、その点では「第3極」ともてはやされる方々にも引けを取っていません。というより、公的セクターに対する攻撃に関しては日本共産党の方が元祖であって、そうしたアジを繰り広げるのも現場叩き上げの組織議員ではなく、大学の民○上がりの生粋の共産党員だったりします。上記増田の引用部分でも「逆に若手保守議員は、尖閣問題とか憲法改正とか異常に関心が強いので、ちょっと怖い」とありますが、若手議員や(かつては現場をくぐらずに当選した「若手議員」だった)大学の民○上がりの生粋の日本共産党議員に通じるのは、そうした実務経験の欠如に由来するナイーブな理屈っぽさです。まあ、そもそも政治家になるような方々には、世間との接点を一般の会社勤めのような地道な社会経験ではなく××政経塾とかNPOなどでの活動に求めたり、という方が多いんでしょうが、それが世間知らずな理想論だったり、実務の伴わない絵空事だったからこその政権交代後の現状なんじゃないでしょうかねえといういつもの愚痴になりますが。

その点で印象的だったのが、少し前に読んだ松尾先生の『新しい左翼入門』です。

国家規模の大変革はリスクの責任がとれない

 とりわけて深刻なのは、革命で国家権力を握って全体的に世の中を変えようという路線です。武装蜂起だろうが議会を通じてだろうが、全面国有の青写真だろうが資本主義に毛の生えたような青写真だろうが同じです。うまくいくかどうかは所詮不確実なビジョンなのです。しかしこの場合一旦失敗したときの被害は、全国規模の膨大なものになります。そんな失敗をしてもリーダーが責任をとろうったって、せいぜい辞めるだけです。いや失脚して銃殺されるかもしれませんが(笑)、たとえそうだとしても、損害を受けた人々が補償を受けるわけではありません。たとえ国庫から補償を受けたとしても、影響が広大すぎて、結局はその補償は国民一般の負担になってしまいます。
 (略)
 その意味で、現状打破のためには公的規模でリスクのあることでもあえて断行すべしとする橋下さんの「独裁」論理には、ハイエクの「社会主義」批判がそのままあてはまると思います。かつて青春時代に革命でプロレタリア独裁権力を樹立することを夢見て闘争した人々が、その後歳を重ねてすっかり「転向」したつもりで、やれ「小泉だ」「石原だ」「橋下だ」と、強そうな政治家を見つけては「改革」の期待をよせているのでは、捨てるべきでないものを捨てて、本当に反省するべきところはちっとも変わっていないと言えるでしょう。
pp.217-218

新しい左翼入門―相克の運動史は超えられるか (講談社現代新書)新しい左翼入門―相克の運動史は超えられるか (講談社現代新書)
(2012/07/18)
松尾 匡

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いやまあ、見事に現状を言い表していると思うのですが、その松尾先生がその直後でこんなことも書いています。

 逆に言えば、形式的に資本主義企業や行政機関だったとしても、市民参加を進めて、地域の自主事業経済の一環となることはできることになります。少なからぬ代表的な労働者自主管理企業が、形式的には株式会社や有限会社の形を取っています。利用者の声を汲み取りながら、地域に必要な事業で貢献するコミュニティビジネスも盛んになっています。「社会的責任投資」のように、株式投資を通じて、大企業をコントロールする取組みもなされています。もちろん、労働組合運動もまた、経営が労働者や利用者の声を汲み取り、社会的に価値のあるやりがい仕事をさせるために果たす役割は大きいでしょう。
『同』p.222

ええと、それはなんてアナルコキャピタリズムなんでしょう? いやもちろん、松尾先生は「銑次の道」としてその行き過ぎを諫めているのですが、ここで描かれている「市民参加」からは政府の存在が消えてしまっています。それこそが「「小泉だ」「石原だ」「橋下だ」と、強そうな政治家を見つけては「改革」の期待をよせている」方々の格好の培養器となっているのですが。

2012年10月15日 (月) | Edit |
前回エントリからすでに1か月近く経過してしまい、この間に震災から1年7か月が経過しました。業務の都合で最近は被災地へ伺う機会もなく、被災地の現状にも疎くなってしまっています。というわけで(でもないのですが)、前回エントリで取り上げた復興予算に対する批判ですが、最近のwhat_a_dudeさんのエントリがその茶番ぶりを指摘されているので、メモ。

さてゲンダイのクソ記事だけでなく、NHKスペシャルというNHKの大看板で復興予算「流用」問題が騒がれて以降、自民党の某二世議員やら、いろんな方々が問題視されたようで、結構しつこく騒がれているが、これは法律の精神にのっとるならば決して「流用」ではない。もちろん「法律の精神がまちがっているのだ」、という主張は成り立つが、まかり間違ってもその法律の成立に賛成した側からなされるべき批判ではないだろう。まずは自省があってからの改正ならばわからないでもないが、「何をひとごとのように批判してんのや」という感想が免れ得ないので、なぜそう思うかについて、東日本大震災復興基本法の成立過程について少し詳しく書きながら説明したい。

復興予算「流用」騒動の顛末(2012-10-14)」(what_a_dudeの日記
※ 以下、強調は引用者による。

若干誤解を生みそうな論点となっているので、勝手ながら補足させていただくと、what_a_dudeさんが指摘されているのは、被災地以外にも復興予算を使えるように基本法を修正したのは野党であって、国会で可決成立した基本法に基づく予算を当の野党が批判するというのは手続き上の矛盾を来しているという点です。用語の定義として復興予算が「流用」されているわけではないのはそのとおりですが、では、被災地以外に復興予算を使うことがそもそも「流用」かというとそうではないのは前回エントリで指摘したとおりです。

被災地以外で復興予算を使う必要がある理由は、一つには、what_a_dudeさんも

 「この予算があれば何件被災地に家が建つか」といった批判も残念ながら的外れと言わざるを得ないでしょう。復興住宅への公的資金の投入額の基準は阪神大震災やその他の激甚災害指定されたものとのバランスも必要で、カネがないから十分な公的扶助が与えられていないわけではないし、そもそもなぜ復興特別会計に未執行予算があれほど回ってきたかというと、土地境界問題や、高地への移転を行うべきか否かといった基本的な方針自体が定まらない中で果たして津波被災地域の区画割りを進めていいものか、地方自治体レベルで既に困惑があるからに他ならないと思う。カネをつければ解決する問題ではないから時間がかかっているのであって、「復興が進まない」のはすなわち合意形成の難しさの問題だと私は思う。

「同上」 

と指摘されているとおり、復興するための基盤整備の段階ですでに合意形成の難しさに直面しているため、その基盤の上に成り立つ工場や店舗、住居に使われるべき予算や、さらにそれを基盤として行われる新製品の開発や販路拡大といった産業支援策に使われるべき予算が使えない状況にあることが大きな要因です。つまり、いくら19兆円の予算をつけたところで、被災地では使われる場面がいまだに限られているわけで、それを待って予算執行するくらいなら、被災地以外で復興予算を執行する方が日本全体の経済政策として効果的である可能性は高いと思います。まあ、それが予算査定の現場の論理だろうと推測するところです。

実際、以前のエントリで指摘した通り、被災地では土木建築工事の需要が高まりすぎて供給が追いつかない状況になっているわけで、こういう事態も発生しています。

学校復旧の入札中止 陸前高田、手回らぬと全社辞退(岩手日報)

 東日本大震災の津波で大きな被害が出た陸前高田市の小中学校2校の災害復旧工事で、入札に参加予定だった建設会社や工務店8社が「複数の工事を抱えて手が回らない」と全社辞退し、入札が取りやめになっていたことが28日、分かった。被災地では復興需要の高まりで業者不足が深刻になっており、今後、工事の遅れも懸念されそうだ。

 陸前高田市によると、市発注の震災関連工事の入札で全社が辞退したのは初めて。市は「学校環境はいち早く整えなければならない」(市教育委員会)として業者の指名基準を広げて、来月9日に再入札をする予定。

 取りやめになったのは、横田小と横田中の災害復旧工事で、震災でひびが入った壁の改修や体育館の耐震化などが主な内容。27日に市内の8社で指名競争入札を実施するはずだったが、全社が辞退を伝えた。辞退した業者は「土木工事も請け負っており、これ以上仕事を受けるのは不可能。(被災者の)生活に直結する道路工事などを優先せざるをえない」と話している。

(2012/09/29)

で、再入札した結果がこうです。

再入札でも業者決まらず 陸前高田市の学校復旧工事(岩手日報)

 9月下旬の入札で全社が参加辞退した陸前高田市の横田小・中学校の災害復旧工事の再入札は9日行われ、落札業者が決まらない不調に終わった。入札は行われたが、入札価格が予定価格と最低制限価格の間に収まらなかった。同市は復興需要の高まりで辞退や入札不調が出ており、工事の遅れが懸念される。

 今回は市内の建築A級3社で実施。入札は行われたが、落札業者が決まらなかった。ある参加業者は「技術者不足などによる経費増で、(入札価格が)予定価格を上回ったのでは」とみる。

 同市は設計見直しや指名業者の入れ替えを検討し、あらためて入札を行う予定だ。

(2012/10/10)

引用した記事で入札参加業者が語っていることがわかりやすいんですが、いくら被災地に予算をつけたところでその作業を実際に担う人手には限りがありますし、この復興需要で資材も土地も人件費も高騰している中で、予定価格に収まらない工事も発生します。「復興資金の必要額としては、今回の被害総額を埋めるためには、20兆円から30兆円くらい必要であると。そして、過去の事例から、震災が起こった初期に一気に復興資金を投入しなければいけないという視点に立つと、初年度でそのうちの大半、今回でいえば20兆円近くを一気に投入するのが望ましい」というのがいかに現実を見ていない机上の空論であるか、まさに被災地の現実が示しているといえましょう。

まあ、そんな机上の空論はともかくwhat_a_dudeさんのエントリに戻ると、what_a_dudeさんが慎重に議論を留保している被災地以外での予算執行については、個人的には上記の通り日本経済を失速させないために必要な措置だと考えています。その上で、被災地で明らかに不足している予算は、早急に投入する必要があります。まあ、こんなことは改めていう話でもないのですが、問題は「被災地で明らかに不足している予算」とはなにかということでして、それこそが立場によって、さらにその立場に起因する利害関係によって主張が異なります。それをいかに調整するかという過程の中では、被災地での直接的な予算執行に加えて、被災地以外に予算を投じて日本全体の経済を支えながら被災地の復興に波及させるという判断も当然あり得るだろうと思うところです。もちろんそれは、官僚が考えたフィクションに過ぎないかもしれません。しかし、そうしたフィクションがなければ人々が行動しないのも現実です。震災直後はあれほど盛んに繰り返された「日本はひとつ」というフレーズがそうしたフィクションを可能にさせていたはずですが、いつの間にかそんなフレーズが聞かれることもなくなっているのが、この国の現実を如実に物語っていますね。

話はそれますが、個人的にかなり以前から疑問に思っているのですが、グループ補助金の予算が足りないという報道はよく見かけるものの、本来競争し合うはずの同業者がグループを組まなければ補助金を受けられないというスキーム(本来は中小企業組合法に基づく中小企業組合等が共同して使用する施設に対する補助金なんですが、震災後の急造の任意グループでも、その構成員が使用する私的な施設でも、グループの目的に資すると認められれば補助される運用になっています)自体を批判する報道はほとんどありません。結局のところ、「バラマキ批判」などというのは自分よりもいい思いをしている(と思われている)対象があるから盛り上がるのであって、「被災地の復興のため」という誰も批判できない大義名分があれば、かなり怪しいスキームの事業であっても大手を振って実施されるのが震災後の一面の現実でもあります。まあ、補助金というのもある程度のフィクションの上に成り立つものではありますが、グループを組めば補助金がもらえるなんて、「日本はひとつ」に比べるとフィクションとしてはかなりスジが悪いと思うところです。
(念のため補足)
グループ補助金のスキームそのものを批判しているような書き方になりましたが、そのフィクションにマッチする事業というのも実際にあるので、グループ補助金そのものが不要という趣旨ではありません。グループ補助金の増額というのは、そうしたフィクションになじまない事業者までもそのスキームに組み込もうとすることであって、結局のところなじまない事業者が申請しても要件を満たさないとして交付決定を受けられなかったり、無理な事業スキームの中で軋轢を孕みながら運用しても、補助年限を過ぎた時点で行き詰まってしまうことが懸念されるわけで、本当にそれが望ましいことなのか(上記の「被災地で明らかに不足している予算」なのか)疑問が残るということです。

さらにいえば、被災地といわれる岩手、宮城、福島でも、被害の大きかった沿岸に予算が集中していることに対して内陸部の市町村から不満が出ている状況です。同じ県内ですらこのような現実がある中で、「被災地に予算を集中する」というと、今度はどこまでが被災地かという不毛な議論に労力が費やされていき、結局はどこも予算を執行できなくなるという最悪の事態に至る可能性も否定できません。いっそのこと、カイカクを争って茶番を繰り広げることをやめることが一番の被災地支援に思えるというのが、この国の現実だと諦めるしかないのかもしれませんねえ。

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